shin-1さんの日記

○物を売らないことが物を売るコツ

 今年も県内のあちこちで秋のイベントが目白押しのようです。今ではイベントという言葉もすっかり定着し、隣がやるからうちもやるという感じで、「何のために」という目的が随分薄れているようなイベントもあるようです。イベントといえばうどんやお寿司の類から野菜や魚、加工特産品などがテントの下に並べられて、素人の売り子が声を張り上げ、「いらっしゃいませ」「○○は如何ですか」と言い寄るのです。特に産業文化祭りのように隣の町と同じような物を競合して売る場合は余程注意をして売らないと、他所の町に客を奪われ、折角持っていった商品を再び車に積んでしずんだ心で帰らなければならないので、注意が必要です。


 私も長らく担当者としてそんな場所で物を売りましたが、私がやっていた頃は絶対となりには負けまいと知恵を絞った結果、70市町村の中でも常に10本の指に入るほどの売り上げを記録して、隣に双海町のテントが来るのをいぶかしく思う人もいたほどでした。そんな折、他市町村の人から「どんなにしたらよく売れるのか教えて欲しい」と質問をされたことがあります。質問をしなくても私たちのやっていることを見れば一目瞭然なのですが、そのことは研究しようともせず、口先の客引き方法を聞きたがるのです。私がいつも答えた言葉は「物を売らずに物を売ること」でした。この言葉を聞いた人は「よう分からん」と怪訝そうな顔をするのです。


 賢明な私のブログの読者は直ぐにその意味が分かると思うのです。つまりどうしたらお客さんが集まるかを考えればいいのです。お祭りのように人通りの多い場所では群集心理が働いて、人だかりが出来ると「何だろう」と直ぐに人が集まります。つまり物を売るコツの第一はまず人だかりを作ることです。そのために目玉商品や、味見、匂い、看板なども重要ですが、集まった人の心をつかむ話術が必要です。お客さんは来いといったら身を引きますが、ここに入らないようにといったら入りたがる真理を持っているのです。まあ特産品売りは知恵比べですから、知恵のある人が結局は沢山売るのです。


 自分のテントの前に幾ら立派な看板やポスターを貼っても来ない人には分かりません。ある時踏みつけるポスターを思いつきました。地面足元に観光ポスターを惜しげもなくあちらこちらに貼って矢印をつけました。次の年には真似する所ができて、美観を損ねると中止になりました。そこで考えたのがサンドイッチマンです。看板と作り物を被って一日中会場を歩き客引きをするのです。これは随分話題になりましたが、私以外の人は恥ずかしいとやりませんでした。恥ずかしいと思えば物は売れません。どうしたら物が売れるか考えればこの方法は最上の策だったと今も懐かしく思い出すのです。

 「物を売らないことが物を売るコツ」を地で行くのが、隣のものを売ってあげることです。普通隣は商売敵なので、どちらかというと疎遠になったり悪口を言うものです。敵対関係からは何の効果も生まれません。共存共栄なのです。さあ今年はどれほどの売り上げをどれほどの人で、何を売りたいのでしょう。しっかりと目標を定めてふるさとのため、みんなのために頑張りましょう。

  「どうしたら 物が売れるか 教えてと 聞きに来るから 売らないことと」

  「人だかり できれば物は 売れて行く まずは群がり 作ることです」

  「商売は なんぼ売ったか 大事だが なんぼ儲けた もっと大事だ」

  「素人の 私に分かる コツだから 玄人もっと 知ってるはずだ」

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○「ぼちぼち生きる」か「頑張って生きるか」あなたは・・・・

 毎日色々な人に出会い、色々な言葉を交わします。私のような年齢になると心を許せるような人には返ってきた言葉に、平気でいちゃもんをつけることだってあるのです。昨日も立ち寄ったある町内の小さな職場で、「どうですか?」と声を掛けると、「ぼちぼちです」という返事が返ってきました。すかさず私はその若者に、「人に『どうですか?』と尋ねられたら、『ぼちぼちです』という返事は止めた方がいい。だって聞いた私は、「ああこの人はぼちぼちしか仕事をしていないのか」と思ってしまうからね」とやり返しました。

 その若者は、「すみません。ついつい癖で・・・」と頭をかきながら、「次から気をつけます」と笑顔で応えてくれました。それにしても「ぼちぼちです」も気になりますが、「ついつい癖で・・・」はさらに気になる言葉だったものの、これ以上言うと相手を傷つけてしまうので、ぐっと堪えてその職場を後にしました。

 都会の好況とは裏腹に田舎は不景気で、周りには閉塞感が漂っています。年末も近いというのに給料もボーナスも下がりっぱなしでは、「ついつい癖で・・・・」というのも無理からぬことなのです。

 でも、「どうですか?」と同じような言葉をもし人から私にかけられたら、私は「元気です」とか「頑張っています」と応えるでしょう。「ぼちぼちです」と「頑張ってます」という二つの短い言葉ですが、相手に与える印象は随分違うと思うのです。そしてその言葉は相手に与える印象だけではなく、実はもう一つの大切な意味を含んでいることに気がつかなければなりません。それは「頑張っています」という言葉一つで、自分自身の心の内面に潜むネガティブな閉塞感を打ち破って、ポジティブに生きようとする生き方のようなものを誘発できるからなのです。

 自分一人が幾ら頑張っても、この不景気な世の中を変えることは出来ません。だからといって自分が出来ないことを社会のせいにしてしまうと、益々社会の閉塞感に押しつぶされてしまうのです。私は役場の職員だった時、大きなプロジェクト事業を任されました。それは田舎の職員には荷の重過ぎる仕事でした。反対や失敗の渦中の中から成功を勝ち得ることは、火中の栗を拾うようなものでした。でも諦めず一つ一つマイナス要因を塗りつぶしてプラスに書き換えたお陰で、その事業は大きな成果を得ることが出来たのです。

 環境を変えることは出来ないと思っていましたが、環境に立ち向かえば環境をも変えることが出来たのです。それは心の持ちよう次第で、その全てではなくてもある部分は変わるという大きな自信を生んで、次に繋がる足がかりを作りました。よく「こんな僻地に観光客なんか来るものか」と、来ない理由を「不便さ」のせいにしている人をよく見かけます。また私の町の状態を見て「あれは松山に近いから人が来る」と「条件のよさ」を羨ましがるのです。今は55万人が訪れる私の町だって、観光客ゼロから始めたのですから、やれば出来るのです。

 人間は自分というもう一人の自分と向かい合って生きる動物です。つまりもう一人の自分が「ぼちぼちです」と思うのか、「頑張ってます」と思うのかは、一日くらいはそんなに違いませんが、一ヶ月、一年も経つと偉い違いになってくるのです。同じ文字のように見える「偉い」と「違い」はそんな意味を私たちに教えてくれているようです。今からでも遅くはありません。「逢う」と「遅い」もよく似た文字、ポジティブに生きる人に逢い、いい感化を受けてもう一人の自分を強くしましょう。


  「元気かい? 返った言葉は ぼちぼちか これでは前へ 進めないかも」

  「世の中は 変わらないけど 自分なら 変えれるのだと 自信を持って」

  「一歩でも 二歩でも前へ 少しずつ さすればきっと 成果現る」

  「ネガティブな 人に逢うのか ポジティブな 人に逢うかは 運命変わる」

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○島根県隠岐の島・西ノ島町⑥

 角市さんに予約してもらっていた宿泊施設国賀荘は確か2回目で、しかも2回とも同じ部屋でした。部屋からは湾内が一望でき、ぐっすり寝たため旅の疲れもすっきり取れて快適な目覚めでした。この日で10月も終わりかと思うと、いい日に来れて幸せでした。薄暗い外に出てそこら辺を散歩して予定していた7時から広間で朝食をいただきました。クロメ、ノリ、ワカメなどの海草に加え、アジの一夜干をその場で焼いて食べれる朝食を堪能しました。

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 この日は移動日とあって大した用事もなく、本来は3時過ぎの船で帰る予定でしたが、急遽10時20分発のフェリーしらしまで境港を目指すことにしました。全や相談がまとまった角市さんの娘さんの案内で焼火神社に出かけることにしました。焼火と書いて「たくひ」と読むのだそうです。伝説の島だけあって由緒のある神社らしく、8時前に国賀荘に迎えに来てもらい、中腹まで山道を走り、そこからさらに急峻な山道を二人で約400メートル登りました。山道には無数の椎の実が落ちていて、お年寄りが一人座り込んで椎の実を拾っていました。椎の実といえば昔は貴重品でしたが、今は落ちるに任せているようです。私も2~3粒拾って口にしましたが、懐かしい味に昔を思い出しました。途中まで行って見返ると湾内が一望できて絶景でした。

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(見返り坂からの素晴らしい眺望)

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(3日抱えもあるような立派な杉の大木)
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(社殿の前で、案内役の角市さん)

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(まるで投げ入れ堂を思わせるような洞窟を利用した本殿)

 程なく無人ながら立派な社務所に着きました。祭礼出しか活用されないようですが勿体ない感じがしました。やがて社殿に到着しました。社殿の奥には岩穴を利用した見事な本殿があり、その周囲には3抱えもあるような杉の大木が空に向かって真っ直ぐに立っていました。

 角市さんの娘さんは若いのにお父さんの影響でしょうか、かなり詳しくガイドをしてくれました。登山と下山で1時間ほどの時間でしたが、日ごろの仕事の話や、色々なことへのアドバイスを求められ、楽しい登山となりました。この日は寒かったら、スーツが汚れたらとズボンや上着を用意してもらいましたが、泥棒草の洗礼を受けた程度で済みました。


 帰りに多治見市から移り住んで陶芸業を営んでいる焼火窯を訪ねました。角市さんとここで合流しましたが、ご主人も奥さんも気さくな方で、色々とお話をしたり見学をさせてもらい、お茶をご馳走になりました。焼火窯で焼いたぐい呑を失礼ながら言い訳程度に2個買わせていただきました。

 窯元さんは自分の焼いた焼き物を海に沈めてフジツボをつけるという奇抜なアイデアを実践していました。私も色々な陶芸家に会いましたが、この技法は初めてでした。フジツボをつけると、まるで沈没船から引き上げたようで、面白いと感心しました。

 船着場で山椒の実の入った不思議なソフトクリームをご馳走になり、角市さん親子に見送られしらしまに乗り込み西ノ島に別れを告げました。

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(講演会の会場となった中央公民館)

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(前回妻と二人で泊まった海辺のホテル)

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(車が混んでいた紅葉の米子路)

 この日も海は大荒れでした。船員さんに聞けばこれが仏だと聞いてびっくりしました。午後2時40分、船は境港へ到着、折から振り出した大雨の中を車を置いていた七類港までタクシーで引き返し、紅葉染まる米子から高速を走って瀬戸大橋を渡り44時間ぶりに無事ふるさとへ帰ってきました。

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○隠岐の島・西ノ島町・出会い深まる⑤

 西ノ島町での講演が終わり、角市さんと私は夕闇迫る牧場へ出かけました。国賀海岸を一望できる頂上からの眺めは素晴らしく、何度見ても飽きない風景に思わずため息が漏れるほどでした。人の気配のない頂上では放牧された牛たちが行儀よく並んで歩いていました。多分塒へ帰るところだったのでしょう。

 角市さんの箱バンの車は4WDで、牧畑のために作ったであろう段々畑を等高線に沿って気持ちよく走りました。台風の影響で眼下に見える海は少し荒れ、空も鉛色の雲に覆われ風は強く吹いていましたが、対岸の島々がシルエットとなって印象的でした。

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(列をなす牛の帰宅風景)

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(国賀海岸の遠望)
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(卯天の背中に乗って遊ぶカラス)
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(牧場にて記念写真)

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(平気で近寄ってくる馬たち、友だちと思っているのかな)
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(絵になる馬のいる風景)
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(牧場へいつも通っている角市さんを馬たちは顔見知りのようでした)

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(私も記念写真を撮りました)
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(牧畑の故事来歴看板)

 牛や馬を放牧しているため草はまるで芝刈り機で刈った後のように綺麗で、向うの丘の上には馬が数頭のんびりと草を食んでいました。角市さんは最近牧場に自生する山椒の実を収穫して「鬼の涙」という商品を開発しているようです。山椒が何で鬼なのか聞いたことはありませんが、察するに山椒の木は沢山コブが出ていて、擂り粉木に使われますが、それが鬼の金棒に似ているようだからかも知れないと思いました。西ノ島の山は対馬暖流が流れていて、多様な植生が見られるそうで、山グミや山椒が至る所に自生しているようで、山グミは真っ赤な実を沢山つけていました。あれもこれももし生かせるとしたらこの島は宝の山かも知れないと思いました。

 それにしても、放牧の馬の上にカラスがちょこんと止まっていたり、牛や馬が長閑に草をハム姿はまるで時間が止まっているような感じがして、癒された気分になりました。

 牧畑が島根県の景観候補になっているすおですが、前回は草や茨を分け入って進んだ石積みも、今ではすっかり姿を現していて、万里の長城の如く延々と続く石積みの話を二人で立ち話しました。

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(美味しかった海の幸)
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(交流会に集まっていただいた方々)

 その夜は角市さん親子、先日人間牧場へ来られた町議会議員の中浜尭介さん、元校長先生の口村光房さん、それに観光課の南さんが加わり、楽しいひと時を過ごしました。テーブルには所狭しと海の幸が食べきれないほど沢山並び、腹も胸もいっぱいになりました。角市さんの娘さんも役場に勤めていて、南さんと二人の話はかつて私が若かった頃を髣髴するような、質問や疑問を私たち大人にどんどん投げかけてきて、いい議論となりました。角市さんの配慮で若い人たちに外の人との出会いの場所を設けることは、とても意味のあることでした。一年以内に必ず人間牧場を訪問することを約束して闇の中へ消えてゆきました。


 この日は台風の行方を気にしながら、朝早くにわが町を出発したため、やたらと長い一日だったような気がしました。でも親友や知人に再会でき、そして新しい若者との出会いも実現して、とても充実した一日でした。私の持論である、「人は逢えば逢うほど逢いたくなる」ものだと思いました。

 宿舎のお湯に身をしずめていると、鳥取県江府町の人と一緒になりました。江府町のことを私がよく知っているのに驚いた様子でしたが、もっと話したいと部屋まで来られ、少しの間雑談をさせてもらいました。今回の旅も新たな出会いがあって、いい一日でした。


  「講演が 終わって急ぎ 牧場へ 何年ぶりか 国賀海岸」

  「放牧の 馬の背中に カラスいる 共存世界 この世思えぬ」

  「自生する 山グミ山椒 特産に 出来ないものか 知恵を絞りて」

  「足元に 落ちた糞とて 特産品 自然は大きな ホスピタリティ」

 この日の夜の宿泊は国賀荘という国民宿舎でした。ここへも二度泊まった経験がありますが、前回と同じ部屋でした。私の部屋は角付けの特別見晴らしのよい部屋で、明くる日の朝は眼下に西ノ島の湾内が一望できるだろうと想像しました。

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○昼から大きなアワビをご馳走になりました④

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 夜が明ける頃になると七類港周辺はかなり風と波が強くなってきました。港の待合室へ行くと、高速船レインボーは欠航の貼り紙の横にフェリーは運行予定と言い訳程度に書かれていて、そのうち隠岐の島へ渡る人たちが沢山集まってきました。隠岐の島へは「おき」「くにが」「しらしま」という3隻3千トン級フェリーが運行していて、先発する「おき」は道後行きのようでした。私は角市さんからメールで指示された9時30分発の「くにが」です。船内はかなり込み合っていましたが、窓際の升席に居場所を確保し、30円の毛布を被って横になりました。出航し日本海へ出ると台風の余波は想像以上に大きく、ローリングやピッチングを繰り返し、寝ている体を持っていかれそうになりました。乗客は馴れたもので、おしゃべりやビールを飲むなど思い思いに過ごしていました。

 近くに座っていた若い女性は船酔いでしょうか、気分が悪いとトイレに駆け込む人も何人かいたようです。私は元々船乗りだし、早起きして運転をして疲れていたのか、1時間ほどぐっすり寝込んでいました。


 船員さんに聞けばこの日の波の高さは3~4メートルだそうで、思ったほど台風の影響を受けなかったとのことでしたが、そこはやはり日本海、太平洋の大波ほどではありませんが、瀬戸内だったらとうに欠航だろうと思いながら、ふるさと訛りで話す島人の話を空耳で聞きながら過ごしていると、やがて2時間余りで途中の寄港地知夫島に着き、何人かの乗客を降ろして、目と鼻の先の西ノ島別府を目指し再び走り始めました。所要時間は2時間半で12時過ぎに別府港に到着しました。懐かしい角市正人さんが出迎えてくれました。事前に「食事は魚か肉か」聞かれていたので、近所のレストランで昼食を取りました。同席した水産会社の社長で議会議員と色々な会話を交わしながら、「昼から美味しい刺身定食をいただきました。ここでも明くる日の即売のために来島していた江府町の方々と一緒のレストランでの昼食となりました。歓迎のために来られていた西ノ島町の町長さんとも名刺交換の機会を得ました。


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 角市さんはこの日私のためにまあ見事なアワビを自分の手で確保していて、動き回るあわびをレストランで刺身とバター焼きにして、贅沢にもいただきました。まあその美味しかったこと、1個400グラムもあるあわびは、私と社長の胃袋に別腹で入ってしまいました。多分東京などの都会の料亭で食べると目が飛び出るほど高級なものなのです。角市さんには時々宅配便でアワビやサザエを送ってもらっていますが、有難いおもてなしにお礼の言葉もありませんでした。

 講演会場となっている中央公民館の事務所でお茶をいただきなら時を過ごし、いよいよ講演が始まりました。「まちづくりの新しい風」、~逆転の発想~について90分間熱弁をふるわせてもらいました。私の講演の様子は役場に勤める角市さんの娘さんがビデオ撮影をしてくれました。

 それほど大きな集会ではありませんでしたが、話を聞く態度も立派でしっかりと話をしたつもりですが、はてさて参加した皆さんの耳にはどう聞こえたことでしょう。

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○五度の隠岐の島・西ノ島町③

 私にとって島根県隠岐の島は思い出の地です。この島は昭和46年5月5日こどもの日に結婚した私たち夫婦が新婚旅行に行った場所なのですから、忘れようとしても忘れられないのです。もう40年も前の出来事なので当時のことは断片的にしか記憶はなく、5月の連休というのに肌寒く、名残の八重桜が咲いていたこと、旅先で買い求めた隠岐石楠花を大事小事に持ち帰ったこと、国賀海岸の雄大さに圧倒されたこと、宿泊した民宿が余り綺麗ではなかったものの魚や貝類が美味しかったことくらいしか覚えていないのです。

 その後役場職員の研修旅行で訪ねたり、講演にも3度ばかりお邪魔したり、その折一度だけ妻を同伴して連れて行ったりしていますが、今ではすっかり友人中の親しい友人となった角市正人さんが住んでいることもあって、何かにつけて気になる島なのです。

 今年の7月7日、隠岐の島・西ノ島町で議員をしている角市さんが、二人の議員さんを連れて人間牧場へやって来ました。角市さんが議員五期目で、議長も経験しているますが、西ノ島にその痕跡が残る牧畑農業の保存運動に取り組んでいる方です。ひょんなことから知り合いとなり、5年前に行われた牧畑シンポジウムに基調講演を頼まれたりしながら交流が深まり、お互い気心の知れた間柄となっているのです。

 議員ながら絵を描いたり、素潜り漁をしたり、最近は焼火焼の窯元に通って陶芸までやっているのです。西の島を愛する心は島一番で、島に生えている野生のサンショウを使って「鬼の涙」という商品を開発したり、まあ私にはない特徴を持ち合わせた面白い人です。指折り数えて驚いたのですが、私と角市さんとはまだ4~5回しか出会っていないのに、もう何十年も付き合っているような錯覚にさせるのですから凄い人です。

 その角市さんから2ヶ月前に西の島町へ講演に来て欲しいと依頼がありました。私のスケジュールの都合もあって、10月30日~31日で日程調整をすることになりました。角市さんとはメールでやり取りしながらパンフレットも出来上がり、楽しみに再開を待っていました。

 ところが、行く4~5日前にこの季節としては大きい台風が日本を覗いながら北上し始めたのです。夏から秋にかけて台風が少なかっただけに、「何でこんな時期に維持の悪い」と思いましたが、台風にも都合があるのでしょう。予想よりスピードがあり進路を東よりに変えたため、直撃は免れましたが、それでも「瀬戸大橋は風で通行止めにならないだろうか?」「隠岐の島行きの船は結構にならないだろうか?」と、かなり気を揉みましたが、待っていてくれる角市さんのことを思うと、「よし行こう」と、金曜日の夜準備をして早めに床に就きました。

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 台風の風や吹き戻しが吹くまでに瀬戸大橋を渡りたいと午前0時に妻に起こしてもらい、一路島根県に向けて出発しました。自家用車はまだ一年を過ぎた新車なので、高速道路の走りは快適でした。時折台風の余波と思える強風が吹きつけ小雨がぱらつく中、安全運転に心がけながら、双海~伊予インター~瀬戸大橋~米子道~米子を通って、船着場のある島根県七類港まで行きました。船の時間は9時30分なので時間はたっぷりあるので、途中仮眠休憩を取りながら、何度も通ったことのあるなれた道を走ったのです。

 前日フェリー船会社に確認したところ、波の高さ3~4メートルという気象予報なので多分欠航にはならないだろうという話でした。七類港で鳥取県江府町の町長さんに偶然いきなり声を掛けてもらいました。聞けば西の島町とは姉妹縁組をしていて交流が続きているのだそうです。一行はイベントの物産展に参加し、町長さんはB級グルメの審査を頼まれているのだそうでした。江府町へは何度か講演に出かけていて、一行の中には顔見知りの人が何人かいて親しくお話をさせてもらいました。

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○隠岐の島西ノ島町からの帰りは明日になります。②

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 上の2枚の写真を見ると今でも新婚旅行のことを思い出します。私たち夫婦はというより、亭主関白な私の一方的な提案で進行旅行先を隠岐の島にしてしまったのです。今のようにインターネットも普及していな昭和46年の出来事なので、現地のことを殆ど調べもせずに、「楽園の島」くらいにしか思わず、隠岐の島という地名に憧れて選びました。もう時効が成立しているので告白しますが、本当は与論島に行く予定だったのに、何かの手違いで隠岐の島に変更してしまったのです。でもそのことがご縁で友人が何人かでき、今もこうして何度か訪れることが出来るのですから世の中は分からないものです。

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○今日から2日間島根県隠岐の島西ノ島町へ行きます。①

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 上の夕日は隠岐の島の自慢の夕日で、よくポスターなどで見かける写真です。まるでローソクが燃えているような神秘な夕日で、隠岐の島の人は日本一の夕日だと自慢してます。

 さて双美町も夕日だったら負けてはいません。わが町だって夕日は日本一だと思っているのですから・・・・。

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 この夕日はシーサイド公園恋人岬のモニュメントの穴の中に春分と秋分にスッポリ夕日が入った写真です。これも絵になる風景だと思いませんか。

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○台風14号接近

 「今年の夏は暑かったねえ」「今年は台風が来なくてよかったねえ」「このところ急に寒くなって、やっぱり寒いより暑い方がいいねえ」なんて会話が、あちこちで聞かれるころとなりました。確かに今年の夏は「スーパー猛暑」という言葉まで聞かれる異常な暑さでしたし、奄美大島の大雨被害は悲しい出来事でしたが、台風銀座といわれる九州や四国に住んでいる私たちにとっては、台風も殆ど来ずにやれやれと思ったものです。数日前早くも木枯らし1号が吹き荒れ、すっかり台風のことなど忘れて、ストーブやコタツ、それに冬物などを取り出し、寒さ対策に取り掛かっていました。

 ところが数日前から天気予報で、時ならぬ大型台風の接近のニュースが取り上げられるようになって、この週末に予定されているイベントや行事が、中止もしくは延期になるのではないかと気をもませています。季節は秋本番なので、紅葉祭りや収穫祭、コスモス祭りなど多彩なイベントが目白押しで、楽しみにしていた人も、儲けようと目論んでいた人も、中止や延期となるとがっかりするに違いないのです。私も長い間地域づくりの現場で働き、天気予報に一喜一憂し、決行・延期・中止などの決定に神経を使いましたが、「天に向かってブツブツ言うな、晴れの日には晴れの日の、雨に日には雨の日の仕事がある」と豪語してみたものの、内心はハラハラ、ドキドキの連続でした。

 私はこの週末、つまり明日と明後日、島根県隠岐の島・西ノ島町へ講演に出かける予定です。そのため昨日あたりから台風の進路が気がかりで、妻は「危ないから止めたら」と否定的な話をするため、悶々の時を過ごしているのです。

 妻が危ないからと言うのには訳があります。10年も前に台風19号が愛媛県を直撃しました。中島町のみかんが台風の大風で吸い上げられた塩水をかぶって枯死し、大打撃を受けた台風でした。その時私は佐田岬半島の中ほどにある瀬戸町へ強風の最中、講演に出かけました。国道沿いには車が何台も亀をひっくり返したように横転、国道のあちこちには大木が倒れて道を塞いでいました。前に進めず止む無く瀬戸町のトンネル内でUターンして三机まで下り、知人で商工会事務局長の奥山さん宅に身を寄せ、電線の切れ停電になった部屋にローソクを何本も立て、ビールを飲みながら、二人で台風の通過を待ったのです。

 そんな苦い経験が頭を過ぎった妻は、当然のことながら「台風を甘く見ないで」と口を酸っぱくしていうのです。私の予定では午前0時を回ったら車で出発し、松山道~瀬戸大橋~米子道~島根松江七類港へ車で行き、そこからフェリーで隠岐の島へ渡ろうとと思っています。隠岐の島は日本海なので台風の進路から外れていますが、はてさてフェリーが欠航にならないか心配しているところです。

 まあ世の中に心配の種の一つや二つはあるものです。妻が言うように「台風を甘く見る」ことなく、目的地を目指したいと思い、今日は早めの夕食を済ませて床につき、早朝の旅立ちを予定しているところです。

 

  「早旅の 準備万端 整いて 明日は久方 日本海見ゆ」

  「甘く見ちゃ 駄目だと妻が 注意する 台風情報 刻々見つつ」

  「そういえば えらい目に遭い 避難した 場所でローソク ビールを飲んだ」

  「世の中に 悩み一つや 二つある それを越えるが 人生ってもの」 

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○私が副会長とは知りませんでした

 一ヶ月ほど前、旧双海町役場時代に助役を務めていた藤田さんから電話があり、市町村職員年金連盟伊予支部双海分会の総会を開くので、スケジュール調整をしたいと相談がありました。私のような者のスケジュールを聞かなくてもと思いましたが、聞けば何と私はその団体の副会長になっているそうなのです。役場OBの会なのでスケジュールが空いていれば、これまでも必ず参加をしているのですが、前回は所用でどうしても出席できませんでしたが、私が知らないところを見るとどうやら欠席裁判で決められたような節があるのです。私に合わせるというのであれば、さらには副会長という責任もあり、私のスケジュールの合間である10月27日(水)を選ばさせていただきました。

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 10月7日付で事務局をしてもらっている、市役所双海支所から往復はがきが届きその日のうちに返信用ハガキを切り取って、出席に○をつけて投函しました。その後一ヶ月はあっという間に過ぎ去り、一昨日会場となっている地元の料理屋さん「双楽」へ出かけていきました。近くだし、酒も飲まないし、天気もいいので単車で行きました。役場OB会といっても、会員は50人そこそこで、先輩の中には既に高齢になった人や亡くなった人もいて、出席は17人ほどでしたが、かって先輩・同僚・後輩として机を並べて仕事をしてきた方ばかりなので、面談する度に懐かしい思い出が蘇り、若かりし頃の話しに大いに花を咲かせました。12時40分からの昼食を兼ねた会は、会長さんの挨拶や、支所長さんの現状報告、会計報告、監査報告は型どおりで、むしろ同窓会という雰囲気でした。

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 私は役場に教育長の2年間を含めて35年間務めました。その間教育委員会、産業課、企画調整室、地域振興課、教育長と4回しか異動をしませんでしたが、まったく席を並べることのなかった人が殆どながら、小さな町ゆえ全員何らかの思い出があり、色々と深いつながりのある思い出深い人もいるのです。

 懇親会は約2時間で終り、来年も出席しようと約束しようと記念撮影をして散会しました。聞けば役員の任期は2年の順番で、来年の総会で私が会長になるのだと、問答無用と言われました。まあ頭を悩ましたり、腹がうずいたりすることもないようなグループなので、来年を含めて2年間は元気で役職を務めなければなるまいと、自分に言い聞かせた次第です。会員の皆さんもどうか元気でお過ごしいただきたいものです。


  「副会長 なっているとは 知らなんだ 欠席裁判 次年会長」

  「懐かしい  顔々揃い 懐かしき 話に花を 咲かせて語る」

  「集まりし 人それぞれに 人生が 欠席人の 消息も聞く」

  「来年も 元気で会おう 握手する 時の流れは 力奪いて」



 

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