人間牧場

〇愛車の修理入院
 8月下旬のある日、三崎半島に住む妻の同級生のお宅へお邪魔しました。その折そのお宅の敷地内でご主人の車をバックして車庫から出す際、私の車の後ろに追突してしまいました。ご主人の知り合いの修理工場の人がやって来て、敷地内ゆえ警察の事故証明も要らず保険で修理できると助言をいただきました。

 

 私たちが帰った後その旨を保険会社にご主人が連絡し、私も車の車検や保守点検をしているディーラーにその旨を伝えて、4~5日して車の修理のためディーラーに車を持ち込みました。修理は2週間程度かかるとのことでしたが、先方の修理予定が詰まっていてそれから1ヶ月何の音沙汰もなくあっという間に月日が経ちました。

 その間デーラーから借りたレンタル代車を使って少し遠方の山口・広島まで出張に出掛けたり、県内を乗り回して仕事をしました。レンタルした車は私からすると最新モデルであれこれの装備が完備していて、エンジンを始動するのもキーが要らず、ブレーキもサイドブレーキでなく踏み込み式で、安全に配慮した車で最初は多少戸惑いましたが、やがて慣れてきました。

 昨日ディーラーの担当者から、修理がやっと終わったので車を取りに来て欲しい旨の電話連絡があり、今日の午前中妻と2人で受け取りに出かけました。レンタルしていた車にガソリンを満タンにして返し、1ヵ月余りぶりにわが愛車と再会しました。傷んでいた後部トランク付近もすっかり奇麗になっていました。これでまたもとに暮しにやっと戻りました。

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人間牧場

〇「お父さん、今日は何日?何曜日?」
 今年の5月、妻は目の病気にかかり、32年間勤めていた近所の歯医者さんを急に辞めました。これまでにも「もう歳だから辞めさせて欲しい」と辞職をお願いしても、「後任がいない」とか「もう少し」という病院側の都合もあって慰留をされていましたが、「病気だから」を理由にお暇をいただきました。

 辞めた頃は病院へ足繁く通い、入院や2回の手術などを経てそれなりに回復して妻は終日自宅にいて、まるでサンデー毎日のような日々を過ごしていますが、伊予市の本宮眼科⇒松山南病院での治療や病院へ通っての経過観察、家庭での1日4回の目薬差しが順調に進んで、少し遠い病院への通院も大変だろうからと、「紹介状を書くから元の本宮眼科に転院したら」と勧められました。

 先日目薬が少なくなったので私が運転して本宮眼科へ行き、紹介状を提出して診察をしてもらいました。診察してもらいそれなりに回復しているようなので、1ヶ月に1回程度診察に来るように指導を受け、隣の薬局で目薬をもらって帰りました。これで約5か月間の私のアッシー君としての妻に対する役目もやっと終わりました。近場であれば自分で運転できるのです。

 最近は目の回復を待っていたかのように、外庭の草引きをしたり、食事の準備をしたりしながら毎日を過ごしていますが、記憶力は天然ボケのままで、「お父さん、今日は何日?何曜日」と、私に聞くようになりました。また以前働いていた時とは違って、サンデー毎日で専業主婦ゆえ、日にちと曜日が分かりづらいようです。目だけではなく脳の記憶力も右肩下がりのようです。

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〇私の名刺の遍歴
 私は若い頃余り名刺が好きではありませんでした。ゆえに集会などでは名刺など交換することは殆どありませんでした、ところが愛媛県公民館連絡協議会の主事部会長に就任したり、全国大会の司会などに推薦されたりすると名刺なしでは交流が出来にくいことに気づき、名刺を作って配るようになりました。当時の名刺は双海町公民館主事 若松進一程度でした。その後第10回総理府派遣青年の船の班長として海外に行くようになると、英語の名刺が必要となり、全て自費で作りました。

 その後まちづくりを担当し夕日によるまちづくりをするようになると、町をPRするためカラー名刺の台紙だけは町が作ることになりましたが、普通の職員は1箱作っても2年間は使う程度でしたが、私は多い月には5箱500枚も使い町長さんをしのぐ枚数でしたが、自費となると結構お金もかかりました。その後課長の私以外部下のいない日本で一番小さい課の課長になってからも、双海町の教育長で終わるまで、名刺の使用量は減るどころか増えて止まりませんでした。

 60歳で退職し国立愛媛大学法文学部の非常勤講師や、農学部の客員教授として教壇に立つ傍ら、北は北海道から沖縄まで講演活動をするようになった時、前々から名刺の裏側が殆ど利用されず白いままが多いのに気づき、ここにコマーシャルを出したらどうか発案し、とりあえず東京第一ホテルで開かれたモーニングセミナーに卓話をして欲しいと招かれた際、ギノー味噌の田中社長さんがコマーシャルを出してくれることになりました。

 その名刺が現在使っている「裏が味噌」の名刺でやっと自分流の名刺に辿り着きました。今は1年間に千枚程度使いますが、ギノー味噌の「裏が味噌」の名刺はすでに8版刷を終え、今年6月30日を麦味噌食文化の日に制定したPR名刺は、ギノー味噌の人気商品即席みそ汁とともに色々な場所で配られ、地場産業の振興に役立っています。

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〇愛用の小さな農業用ハウス
 わが家には家庭菜園の隅に小さな農業用ハウスがあります。季節を先取りしてトマトなどを作って楽しもうと5~6年前に造りました。今は大・中・小3種類のトマトを路地栽培より1ヶ月近く前に苗を植え目論見通りの成果を出して、家族や知人友人にお裾分けして喜ばれていますが、最近は息子が朝顔の苗育てに使ったり、蜜蜂の誘因に使う日本ラン・キンリョウヘンの冬越しにも使っています。

 今は端境期で何も植えていませんが、これから冬場の葉物野菜であるチンゲン菜や、小松菜、春菊などを植えてみようと思い立ち、草を引いた後石灰を撒いて耕運機を入れ中耕をしました。狭いハウスの中ゆえ耕運機の運転もままならず、多少難儀をしましたが、2~3日中に牛糞を撒いて再び中耕して畝を立て、種を蒔く予定です。冬場の寒い時期に一足早く葉物野菜を楽しみたいと思います。

 「お父さんはまるでお百姓さんみたい」と妻にからかわれていますが、薬を使わず安心安全な野菜作りを目指していますが、これが中々です。只今親父が生存中畑に張り巡らせている井戸水使用のポンプが故障して、新しいポンプに替えるべく水道屋さんに手配していますが、もう少しかかるようなので、当分ハウスの水遣りは、ジョロになりそうです。

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〇今が過去になる前に
今は一瞬にして過去となり、人の心や頭から消えて行く運命にあります。たった3日前の出来事でも、「はて?」思い出すことさえできないのです。ところがあれこれ記録していると、少々頭と記憶力が悪くても、「ああそうだったのか!!」と思い出させてくれるのです。

 3日前100人ほどが集まって人間牧場20周年「年輪塾公開セミナー&20周年の集い」がありました。その時1部のセミナーが終わった時、部屋を粗方片付け集合写真を撮りました。カメラマンは昨年まで双海公民館にいた出海さんです。その出海さんから撮った集合写真がメールで2枚私の元へ送られてきました。一枚は「ハイポーズ」、もう一枚は右手で人差し指と中指の2本、左手で人差し指と中指、それに薬指の3本立てたお馴染みの「フタミ~」でパチリでしたが、飲み込んでいる人と飲み込めないで左右逆の人もいて大笑いして一人一人の幸せそうな表情を見せてもらいました。

もう一枚は交流会で双海の歌を披露してコンサートを開いてくれた徳島県佐那河内村の佐那人が別れ際撮った一枚でした。何年か前当時の佐那河内原村長さんに連れられて人間牧場にやって来た彼らと、再び出会いを重ねることが出来始めたことは嬉しい限りです。これら3枚の写真に納まった人たちは激動する20年の時の流れと社会変化の中で逞しく生き続け、活動と想いを共有しながら交流をし続けてきました。今が過去になっても助け合いながらこれからも助け合って地域のために働きたいと思っています。

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〇人間牧場20周年記念「年輪塾公開セミナー&20周年の集い」こぼれ話
 今回の20周年の集いに参加した人は100人を越えました。森は海の恋人で有名な畠山重篤さんを招き「心に徳の木を植える」という講話を聴くことが出来たのは、人間牧場の大番頭である松本さんが地域活性化センターとえひめ地域づくり研究会議の資金支援を取り付けてくれたから実現できたのです。

 もう一つ忘れてならないのは「伊予のみそ汁」と「ひしお」という2つの商品をギノー味噌からそれぞれ120袋も提供を受け、商品を参加者全員にお土産として差し上げることが出来ました。私の似顔絵名刺の裏側に「裏が味噌」と書いてギノー味噌のCMを出してもらっていますが、最近その名刺に「6月30日は『麦みそ食文化の日』~早寝・早起き・朝ごはん、そしてみそ汁~」というフレーズを書き込んでいますがその名刺も約100枚飛ぶように売れましたました。

 私たちの食生活は和風から洋風へと変わりつつありますが、発酵食品である味噌を使った味噌汁など日本の食文化をもっと日本中に広めたいと思っています。加えて私がこれまで「夕やけ徒然草」というタイトルの自著本に、書き溜めた213話の落伍高座本・木の書も是非ご一読していただければ望外の幸せです。


 

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〇孫希心の活動報告
 今回の人間牧場20周年の集いでは、「大好きな双海のために!」というタイトルで双海町ジュニアリーダ会の発表がありました。ところがジュニアリーダ会の会長や前会長が出席しているにもかかわらず、発表者は高2のわが孫の若松希心でした。

 希心の話によると発表者を決める会に都合で欠席したそうですが、欠席裁判で希心になったそうです。この話を私が聞いたのは前日でしたが、当の希心は前日も学校用事があって、発表の原稿に目を通す時間や暇が殆どなく、アドリブのような発表で、生来のプラス思考ゆえ「何とかなるだろう」くらいな軽い気持ちで引き受けたようでした。


(発表する孫希心)

 希心は演台の前に立ちスクリーンにパワーポイントの画像を写しながら原稿を読み上げるのですが、スクリーンの画像を鮮明に見せるため明かりを落として少々暗かったため原稿が読みづらく心配しましたが、おじいちゃんでなく主催者の私から見ると80点くらいの出来栄えでした。


(皆さんから送られた傘寿を祝う黄色い頭巾とチャンチャンコの私とジュニアリーダー会の中野現会長、二宮前会長、それに孫の希心)

 それでも発表が終わり質問タイムになって、質問され答えていましたが、「祖父がこうして活動できるのはお集りの皆さんのお陰です。ありがとうございました」と歯の浮くような言葉を返すあたり、少し頼もしくなったと目を細めました。講師の送迎や裏方として動いてくれた長男息子に加え、長男の長男息子まで親子孫3代にわたって参加したことだけでも凄いことだと思い、少々胸を張りました。そろそろ私も引退の時期かな?とふと思いました。

「子と孫が 私主催のセミナーに 三世代揃って 参加するとは」
「取りこしの 心配したが ネアカゆえ それなり堂々 発表してた」
「大好きな 双海のために 活動を あれこれ日頃 参加している」
「子も孫も みんなで参加 羨ましい 知人友人 褒められ嬉し」

 

 

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人間牧場

〇落伍でハーモニカを吹く私
 私は小学校から中学校まで音楽が苦手で、通知表の音楽の成績は2という数字しか書き込まれませんでした。若い頃のある日のこと、国立大洲青年の家で研修会が持たれ、有名な数学の先生が「21世紀に生きる若者たちへ」と題して講演し、その後私運営委員長の私と壇上で対談をしました。

私が先生に「先生は子どもの頃から算数や数学は5や100点ばかりだったそうですが、嫌いな科目はなかったのですか?」と訪ねると先生は「私は子どもの頃から音楽が苦手で、通知表は1ばかりだった」と吐露しました。その話を聞いた私は嬉しくなり、調子に乗って「私は音楽が得意でなかったですが、2以下は取ったことがありません。先生の倍ですね」と投げかけると、「私はこのまま音楽が嫌いで死ぬのは嫌だと思ったので、とある旅先でアコーディオンを買い、毎日10分間家で練習をしました。最初は家族から煩くてテレビが見えないし聞こえないとブーイングでした」

 「でもステレオで聴きながらベートーベンやドボルザークなどの曲を練習したところ、どうにか弾けるようになりました」と言って、みんなの前で楽譜は読めないけど体感音楽で弾けますと、ガンガンアコーディオンを弾くのです。「ところで若松さんあなたは私の通知表1に対し倍の2だと自慢しましたが、何が出来ますか?と尋ねられました。そら来たと思った私は「ハーモニカなら何とか戸言うと、あんたはホラも吹くけどハーモニカを吹くのか」と。私は音楽家ならぬハーモニ家です」笑わせて持っていたハモニカで「赤とんぼ」や夕焼けこやけ」を吹いて聴かせました。

「ブラボー」と大きな拍手が起こりました。今日本の学校教育からハーモニカが消えたのをご存じですか。皆さんハーモニカを知っていたり吹いた経験のある人は手を挙げてください。今手を挙げた方はもう賞味期限が切れて処分の対象です。今の子どもはリコーダーやピアニカを習っています。バカな子が吹いても利己~だ~」です。こんな小噺して「ああ上野駅」と「南国土佐を後にして」を吹きましたが、それなりの年齢の方は下手糞な私のハーモニカの音色を聴きながで大きな声で歌ってくれました。下手糞な皆さんの歌に合わせたばっかりに、所々噛んでしまいました。こんな馬鹿げた落伍をお話して拍手喝さいを受けました。ちなみに通知表2の私ながら努力の結果今では250曲吹けるようになりました。ちなみにこのラジオ向きの顔で今までテレビの全国放送にハーモニカを吹いて3度の出演しているのですから驚きです。「どうだ参ったか」です。

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〇人間牧場での楽しい昼食会(当日ルポ⑤)
 参加者は10人程度と聞いていましたが、当日蓋を開けてみると何と20人を超えていました。人間牧場のあれこれや標高130mの高台から見下ろす自慢の瀬戸内海の眺めをのんびりと散策してもらい、私が高座の台に腰掛けて少しだけお話をさせてもらいました。

 その後昼食会の準備をして車座に座布団の上に座って、家族が朝早くから作ってくれたおにぎりや漬物、それにギノー味噌さんからいただいた即席みそ汁を配り、朝早くから釜戸で火を焚きはがまに沸かした熱湯を注ぎ全員で味噌汁を作って食べました。

 どれも美味しく少しおにぎりの量が少なかったものの完食をしてもらいました。息子はその間ロケ風呂のお湯を張り、遠路来られた畠山さん、清水さん、それに先日八幡浜の教会60周年に招かれた福岡さんたちと足湯を楽しんでもらったようでした。みんなで記念写真を撮り送迎用の車や広島三次から駆け付けた宮崎さん夫婦も山を下り、セミナー会場へ12時20分頃到着したようでした。

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〇シャボン玉アーティスもビックリ
 今朝傘を差し長靴を履いて雨の中を歩いていたら、双海中学校前の県道に何やら動くものが見えました。朝の県道は翠地区からスピードを上げて走る車が多い直線道路なのです。その内大きなダンプカーが唸目の前を通り過ぎて行きました。

 人間だとイチコロですが、ダンプカーは車高が高いためその物体の上をかすめるように通り過ぎました。よーく見るとその動く物体は川にいるはずの川ガニのようでした。次々と軽四トラックや軽乗用車がはしってくるので、引かれて交通事故の遭わぬよう、道路のカニ目がけて走りました。

 捕まったら大変と思って両方の親指を立てて逃げ惑うカニを、長靴で軽くふんずけて手で押さえましたが、両手の親指を広げて私を威嚇し始めました。噛まれたら痛いし怪我をするので要注意です。子どもの頃松明の灯りで満ち潮の砂浜でカニを捕まえて遊んだ体験が生きていて、カニの甲辺りの真横をつかんで持ち帰りました。

するとカニは口付近からブクブクと泡を吹き始めました。小さなシャボン玉のようでした。まるで吉野英樹君が名乗るシャボン玉アーティストのようでした。自宅に帰り孫の飼っているフナやハヤの水槽に入れて一件落着でした。思うに昨日からの雨で上灘川の水かさが増し、流されまいと陸に上がったようです。それにしても川の水中で暮らすカニなのに、県道を横断する無謀な冒険に出たカニでした。

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