〇坂のある漁村小網集落(その2)
昨日は、小網集落の上の小高い丘の上にあった堂の峰魚見小屋へ調査に出かけました。調査と言っても目視程度なので、私と同行の2人もカメラ程度の軽装で出かけました。残念ながら使わなくり放置されて久しい魚見小屋は雑木雑草に覆われて往時の姿をとどめていませんでした。
急な坂道は前夜の雨で少し濡れていたので、滑り転げないよう慎重に山を下りながら、視界に入る小網集落の独特な姿に度々足を止め写真に収めました。小網集落は坂を利用して人家が建つ漁村です。集落内をJR予讃線海岸周りの線路と、中ほどに旧県道が走り、海沿いには海を埋め立てて造ったバイパス国道が走っています。
巾着網が盛んだった昔は、浜で平等に分配されたイワシは、大きなザルに入れられ担いで家々に運ばれ、煮釜で茹でた煮干しは天日干しされて煮干しに加工されるのです。これらの家内製造は重労働で「小網には嫁に行かせるな」と言われるほどの重労働だったようですが、その後城ノ下に大掛かりな加工場ができ、重労働から解放されました。
空いた土地どころか屋根の上まで天日干しされた煮干しを干した銀輪輝く秋の頃の風景は、予讃線沿線の風物としてよく紹介されましたが、今は加工場に冷風乾燥機が導入され、その姿を見ることはなくなりました。集落内の小網川に沿った、どこか懐かしい坂の路地道を歩きながら、旧県道まで下りましたが、私がまだ若かった頃共栄網会長だった上田嘉雄さんから、小網に国鉄小網駅を造りたいので絵を描いたり趣意書をや陳情書を作って欲しいと頼まれました。当時は向井原駅も高野川駅も、串駅もない頃だったので、にわかに機運が盛り上がりましたが、現在のような組み立て式のような簡易なプラットホームも出来ず、土地の狭さと急傾斜危険地域を理由に、高野川や串に遅れを取ってしまいましたが、今にして思えばほろ苦くも懐かしい思い出です。(あの当時の作成した資料がわが家のどこかに眠っていると思うのですが、残念ながら今のところ見つかりません。)
「坂だらけ 漁村集落 絵になるが お年寄りには 難儀な条件」
「よくもまあ 家を建てたと 集落の あちこちしきり 感心しつつ」
「この坂は 人の苦労が 染み込んだ 汗と涙の 物語です」
「その昔 駅を造ると 言う人に 頼まれあれこれ やった記憶が」