〇特老へ西田和子さんを訪ねる
昨日の午後、義姉の納骨仏事を無事終えての帰り道、大洲を経由して大洲インターの近くにあるキネマという、特老に入所している西田和子さんを、妻と二人で訪ねました。この特老を訪ねるのは今回が2度目です。前回は昨年7月の集中豪雨でこの周辺が災害に遭い水没の水が引いた直後、年輪塾生の浜田さんと被害見舞いで訪れましたが、1階の天井まで水に浸かりながら幸い2階に避難して無事でした。
その後昨年末の年輪塾餅つきや学習会に、亀本さんのサポートで88歳とは思えぬ元気な姿で人間牧場へやって来て、みんなを安心させましたが、2~3日前新年の電話あいさつをいただきながら、あいにく私は留守でした。西田さんは少々耳が遠くなっていて、電話に出た長男息子が、「西田さんという方から電話がかかったが、どうやら最初から最後まで僕とお父さんを間違っているようだったので、ついでの時に顔を見に行ったら!!」と勧めてくれていました。
広間で同じ入居者と談笑していた西田さんは、私たち夫婦の予告なしの突然の来訪に驚いていましたが、とても喜んで迎えてくれました。ベッドを置いた自分の部屋へ案内してくれましたが、堰を切ったようにあれこれ話す姿にすっかり嬉しくなりました。西田さんは私たち年輪塾の塾生が2年前、松山市民会館で行われた劇団わらび座の二宮金次郎というミュージカルに前座で出演した時、年輪塾で新調したブルゾンの赤いジャンパーを着ていました。
確か前回も同じように赤いジャンパーを着用していたので、お似合いだと褒めると、「水害に遭った時殆どの物を水に流して失くしてしまいましたが、このジャンパーだは命がけで守りました」というのです。西田さんにとって私が塾長を務める年輪塾は、自分の人生余生を変えてくれた大きな出来事だったと熱を込めて述懐し、文教月報という愛媛県教育会が発行している平成31年1月1日付の機関誌で、自分の紹介されている記事を取り出し、読んで聞かせてくれました。その中には私のことも年輪塾のことも書かれていました。不自由な足ながら補助手押し車を使って戸外玄関先まで出て、見えなくなるまで手を振って送ってくれた姿が、今も残像となって残っています。
「特老へ 入所の女性 面会に 妻と二人で 饅頭持って」
「家族なく 独り身ゆえに 特老に 入居余儀なく 静かに余生」
「思い出の 赤いジャンバー 着こなして 私の自慢と みんなに語る」
「不自由な 体を押して 玄関に 見送りに出て 見えなくなるまで」