〇海は広いな大きいな
私は子どもの頃から今に続いて、海が大好きな人間です。ゆえに海と深い繋がりのある人生を送ってきました。生まれた場所が下灘という漁村で、少年時代は海が遊び場でした。高校は宇和島水産高校に遊学し、実習船愛媛丸で赤道を越えてオーストラリア近くの珊瑚海まで、遠洋航海に出かけました。親父がガンを患ったこともあって家業である漁業を継ぎ、7年間漁師をしました。30歳の時ジョン万次郎の影響を受けて、総理府派遣の青年の船の班長として太平洋を渡り、建国200年のアメリカやメキシコ、ハワイを訪ねました。双海町役場に入庁後4年間産業課で水産という仕事に関わり沿岸漁業振興を担当、水産物荷捌き所や漁村センターをつくりました。
その後企画調整室でまちづくりを担当し、「通過する町から立ち止まる町へ」を合言葉に、道の駅シーサイド公園整備や、下灘漁港の埋め立て事業にも深く関わり、海の拠点を造りました。JR下灘駅での夕焼けプラットホームコンサートもある意味、海にしずむ夕日がテーマでした。また30歳ころから21世紀えひめニューフロンティアグループを主宰し、仲間たちとともに続けた、無人島に挑む少年のつどいや丸木舟瀬戸内海航海など、こうして述べてみると私の人生は、海なしでは語れないようです。ゆえに海の恐ろしさと同時に海の魅力も存分に知り尽くしていて、これからも海とともに生きることでしょう。
先日飛行機に乗って東京や埼玉へ出かけました。講演を終えて再び飛行機に乗り、由利島やふたみシーサイド公園周辺に広がる穏やかな海を上空から見ました。帰路つづら折りの三秋峠を下って、高野川に差し掛かると急に視界が開け、伊予灘の海と夕日夕焼けが私を出迎えてくれました。これぞ私が愛してやまないふるさとの海だと、顔に似合わず多少センチメンタルな気持ちになりました。そろそろ終活をしなければならない人生の最終章に入りつつある私ですが、これからも海を愛し海とともに生きて行きたいと思いました。
「この海は 産まれる前から ありました 産まれてからも 何かにつけて」
「海なしで 私の人生 語れない 海は私の 大恩人です」
「どの海も つながっていた 世界中 怖い思い出 楽し思い出」
「旅帰る 度に私に 気づかせる 母なる海と 父なる海を」
伊予灘の海の色は今まで見てきた中では一番きれいに見えます。