〇親馬鹿と馬鹿親の違い
書斎に備え付けているパソコンと、持ち歩いているタブレットを巧みに使い分けて、最近facebookを始めていますが、いつの間にか友だち承認した人の数が643人を越え、多くの人から近況が入るようになって、結構楽しんでコメント交流をしていますが、友だちがfacebook上に投稿している記事や写真で圧倒的に多いのは、「こんな物食べた、こんな呑み会をした」で、お互いが傷をなめあうように「いいね」ボタンを押し合っているようです。そのこと自体はいいことでしょうが、最近は多少軽薄な感じがしています。
中には家族のほほえましい記事や写真も載せられ、リアルな近況に思わず顔をほころばせています。私も孫たちの成長ぶりを記録のつもりで時々紹介し、悦に入って爺馬鹿ぶりを発揮していますが、ふと自分の愚かさに驚くことがあるのです。「親馬鹿」という言葉があります。わが子可愛さの余り、子どもの欠点に気がつかなかったり、過大な評価をすることが言葉の意味であるなら、本当は「親馬鹿」ではなく「馬鹿親」だと思うのです。「親馬鹿」はどおってことはなく、むしろほほえましい感じがしますが、「馬鹿親」は子どもの正確な評価が出来ないで、他人から見ると愚かと思える行動をするのです。
かくいう私も過去に親馬鹿よりも馬鹿親に近いことをやっていたと思うし、今も爺馬鹿ならぬ馬鹿爺的行動をしているのでは?と、深く深く反省をするのです。先日小学二年生の孫を学童クラブへ迎えに行きました。孫はその日暖かかったので、学校へ制服を忘れて帰ったようで、私の車で取りに行ってやりました。学校に制服上着を忘れたのが2回目だったので、私は車の中で少しきつく怒ると、孫はべそをかいて私に詫びましたが、校長先生が優しい言葉をかけてくれたので、孫は感極まって大泣きしてしまいました。
校長先生と言葉を交わしながら、古い人間の私のやったことが「怒る」であって、「叱る」でなかったことを深く反省しました。「反省だけなら猿でもできる」というコマーシャルがありましたが、「誉めてやる」ことも大切だと実感しました。孫二人はやんちゃ盛りの男の子なので色々な悪ふざけをしますが、障子を破らないことと靴を毎日きちんと揃えることは、育爺のしつけどおりきちんと守ってくれています。「親馬鹿」を論じている口の下、こんな当たり前のことを誉めること自体が「爺馬鹿」ならぬ「馬鹿爺」ですが、これは人に何と言われようと誉めてやらなければなりません。さあ今日から「馬鹿爺」にならぬよう努力しましょうか。
「親馬鹿と 馬鹿親似てる 言葉だが 馬鹿親だけは ならぬようにと」
「怒ったら 孫は萎縮し 叱ったら 納得心 入れ替えやれる」
「馬鹿爺に ならぬようにと 気を配る 好かれるだけじゃ 役目果たせぬ」
「孫同居 毎日活気 みなぎって 私に活力 与えてくれる」