〇上灘町文化協会広報を読み解く
私が所属している双海町史談会は、伊予市と合併して双海町という自治体が消滅した直後、有志によって設立されました。会員20人足らずの小さなグループですが、2ヶ月に1回の例会は、忙しさもあって時々止む無く欠席するものの、毎回楽しみにして出席しています。昨日はその例会日で、双海町が昭和30年に誕生する前の、上灘町時代に発刊されていた上灘町文化協会広報を、事務局の中尾先生がコピーして配布し、みんなで雑談交じりで目を通しました。
前々回、前回に引き続き今回が最終回で、上灘町の最後となる昭和28年ころの話題でした。当時私はまだ10歳前後だろうと思いますが、戦後の混乱期を脱し成長を遂げつつあるふるさとの現状が時には可笑しく、時には珍しく、また時には真剣な暮らしぶりとして垣間見え、三丁目の夕日にタイムスリップしたような雰囲気でした。知らなかった逸話や秘話も随分あって、私の知的コンテンツが多いに高まりました。この文化協会広報の編集人は、私の恩師古田竹雄さんだったというのも、何か深いご縁を感じるのです。
私が中学3年生の時の、下灘中学校の校長先生が古田竹雄先生でした。先生は私が愛媛県立宇和島水産高校を受験する時、私のためにわざわざ校長でありながら私の受験に付き添い引率して、二人で宇和島の丸重という城山の麓の旅館に泊まり、受験をさせてくれたいわば私にとっては大恩人なのです。幸い漁業科に合格し私のバラエティに富んだ人生はスタートしました。先生は晩年不遇にも自宅が火災に遭って、不慮の死を遂げられましたが、この文化度の高さは比類を見ないのです。
昭和28年9月1日付け第30号に、上灘音頭の顛末が載っていて興味をそそりました。当時の由並小学校長足立邦芳先生が作詞し、愛媛大学の清家嘉寿恵先生が作曲したこともさることながら、この音頭は10番まであることを始めて知りました。役場の職員をしていた頃、上灘出身の職員が酒を呑むと、必ずといっていいほど歌っていたので、私も口ずさむ程度の体感音楽で歌えるのです。折角なのでこの音頭を保存のためスキャンしました。
「昨晩は 二月一度の 史談会 四方山話 花を咲かせて」
「あの当時 こんなに高い 文化誌を 作っていたとは 驚きですね」
「三九の マッチの箱に 検便を 入れた話は 体験している」
「酒呑むと 上灘音頭 歌ってた 今は私も 体感音楽」