○心は見えないが心づかいは見えます
テレビのチャンネルはこのところ、何処も東北・関東大震災関連と福島原発事故関連のニュースばかりでしたが、復興への第一歩を踏み出した明るいニュースもあって、多少心に光が差してきたような感じがし始めています。すっかり影を潜めていたバラエティー番組も少しずつ復活し、暗い世の中だから笑いもいいかと思いつつニュースの合間に見ています。そんなテレビ番組のCMに「心づかい」と「思いやり」について考えさせられるものがありました。
「心」も「思い」も目には見えないものです。心というものは体の一部分ではなく心臓でもありません。脳の働きによって感じる五感なのです。食事をすれば甘い・辛い・酸っぱいなどを舌が感知して脳に送り美味いやまずいという総合判断や次も食べたい、次は食べたくないという思いまで発展するするのです。また手に棘が刺さると皮膚が痛いと感知して脳に送り、しまったと自分の不始末を反省し、時には次に失敗をしないように深く反省したりまでするのですから、人間の脳が指図する人間の心は凄いと思うのです。
人間の心には善と悪があって、絶えずせめぎ合いをしています。中国の古い考えに双魚図というのがあります。心というコップには善という色の水と悪という水が混じることなく存在しています。善の水が多い人は善人で、悪の水が多い人は悪人です。悪いことをしてはならないと心で分かっていても悪の水が善の水を上回ると悪の方向へ向いて動き出すのです。さしずめ私は極端な善人でも悪人でもありませんが、どうにか善の水があくの水の量を上回っているため、悪人にならず今日まで生きてこられました。あれが欲しいと思ってもそれが人のものを盗むという直情的な思いにならず、我慢する心になるのは、善の水のお陰なのです。
「心は見えなくても心づかいは見える」とはけだし名言です。思い荷物を持ったおばあさんを見かけると、「荷物を持ってあげよう」という心になります。また電車に乗って座席に座っていると、立っている年老いた人に席を譲りたい心になります。でもいくら心があってもそれを使わなければ心は人の目に触れることはないのです。荷物を持ってあげる、席を譲るという行為を「心づかい」といいますが、心づかいは周りの人の目に触れいい連鎖を生んで行くのです。
「心づかい」も「思いやり」も私たちがほんの少しだけ持っただけで、社会はどんどん明るくなります。「心づかい」も「思いやり」も最初の一歩を踏み出すには勇気が必要ですが、やってみると案外楽しいものです。荷物を持ってあげただけで、席を譲っただけでとても嬉しくて爽やかな気持ちになります。「ありがとう」とお礼の言葉が返ってくるともう最高です。東北・関東大震災も同情の心を持つことは「思い」なのですからそれはそれとして嬉しいものです。でももう一歩踏み出して「思いやり」になったらもっともっと素晴らしいことになるでしょう。
「目に見えぬ 心だけれど 一歩前 心づかいは 心和ます」
「善の水 悪の水より 多ければ 悪いことなど 絶対しない」
「使っても 減らぬどころか 増えてゆく 心づかいは 便利なものだ」
「思いやり 予算にさえも ついている やりはやりでも 人刺す槍は」