○えひめ丸事故から10年
私の母校である愛媛県立宇和島水産高校の実習船えひめ丸が、ハワイ沖でアメリカ海軍の原子力潜水艦グリーンビルと衝突して沈没し、9人の尊い命が奪われた世にいうえひめ丸事故が起ってから、昨日で10年を迎えました。昨日は朝から新聞やテレビがこのニュースを取り上げ、薄れ行く記憶や悲しみを新たに思い起こさせてくれました。
遺族にとってはこれから先も癒えぬ悲しみと記憶だし、私のように母校の出来事や初代の愛媛丸に乗船し遥か南の珊瑚海まで航海した経験のある私にとっても、これまた一生忘れられない悲しい思い出なのです。
先日上のような一枚の挨拶状が私の元に届きました。愛媛県知事を三期務めた加戸守行さんが任期前に辞任し、選挙の結果前松山市長の中村時広さんが圧勝して就任されました。私ごとき一介の人間にこのような退任と就任の挨拶状が来ること自体、おこがましく感じ丁寧に受け取りましたが、加戸前知事にとってもえひめ丸事故は忘れられない思い出のようだし、新たに就任した中村知事さんにとっても県立高校だけに悲しみの輪の中に入らなければならないのです。
中村知事さんは関係者に同行してハワイでの慰霊祭のため渡米し、昨日はその始終がテレビのニュースで流れました。また宇和島水産高校でも慰霊と鎮魂の集会が同時刻に持たれていました。
水産高校の先輩である玉井さんから先月、2月4日に愛媛大学で行われたえひめ丸事故10年の講演会に誘われたり、昨日の慰霊祭に誘われたりしましたが、残念ながら予定が立て込んでいて参加できませんでした。玉井さんは鎮魂歌「希望海」の作詞者であり、ハワイと母校に製作した慰霊碑のプロデューサーでもあるので、毎年事故のあった2月10日が来ると注目を集めるのですが、10年を期に区切りをつけたいとも話していました。
玉井さんのように深く関わった訳でもないのに、私にとっても2月10日は忘れられない日でもあるのです。10年前のこの日は私の自著本「昇る夕日でまちづくり」の出版記念の日でした。その日私は南海放送本町会館で行われる出版記念パーティーの会場を飾るべく、特老夕なぎ荘の近くで菜の花を摘んでいました。
自宅に持ち帰り青竹の中に挿していると、近所に住む姉悦子がやって来て、宇和島水産高校の実習船えひめ丸が沈没したとニュースで流れていると知らせてくれました。これは運命のいたずらだと思いました。寄りにも寄って愛媛丸(初代の船は漢字名)の写真も載せている私の本の出版記念の日に沈没するとは何事だろうと運命のいたずらを嘆いたものでした。
当時56歳と若かった私も10年の時の流れの中で66歳となりました。身の回りも大きく変化して国では政権が自民党から民主党に政権が交代し、愛媛県も知事が変わり、私の町も平成の大合併で伊予郡双海町から伊予市双海町になりました。これからも時代はどんどん進んで変わって行くのでしょうが、事故のあった2月10日8時43分は私の生ある限り忘れられない思い出の一日なのです。
「悲しみも 新た10年 えひめ丸 ハワイと愛媛 同時に慰霊」
「皮肉にも 事故で有名 なる母校 複雑心境 2月10日は」
「ゴルフして 事故の対応 遅れとり 総理世間の 風受け辞任」
「10年は 人も社会も 俺までも 変えて流れる 大河の如く」