○膝の上の教育
私が子どものころには幼稚園や保育所も、ましてや学習塾もありませんでした。ゆえに私は幼稚園や保育所、学習塾へは行った経験がないのです。幼児教育が大切なのは論を待たないし、幼稚園や保育所、学習塾を否定するつもりはさらさらありません。むしろそうした幼児教育や英才教育が充実していることをいい時代だと思っているのです。しかし子どもを産み育てる母親の役割や子どもを正しい方向に導く父親の役割を考えると、子育てを他人に預け過ぎで、少し物足らないような気もするのです。
ある昔の人が言っているように、「私たちは十戒のうち少なくとも八戒は母の膝にいる間に父の口から学んでいた。力は正義でないこと、天地は利己主義のうえに成り立ってはいないこと、泥棒はいかなるものでもよろしくないこと、生命や財産は結局のところ人間にとって最終目的にはならないこと、その他多くのことを知った」のです。つまり子どもを母親の愛情と父親の理性で育てたのです。ゆえに私はたとえ他人による幼児教育を受けていなくても、何とかこの世の中の道理にもとることなく、学力は多少劣るものの生きて来られたのです。
私たちは物の少ない貧乏な時代に生まれ育ちました。ゆえに親は汗水たらして生きるために一生懸命働きました。親の働く姿を目の当たりにして、少しでも親の役に立ちたい、早く一人前になって親を楽にさせてあげたいと幼な心に思ったものです。それは産み育ててくれた恩への感謝だったのかも知れません。親は温かいまなざしで子どもを見つめ、子どもは親を見つめいい親子の人間関係で育ちました。十戒にもとる行為をすると目から火が出るほど叱られ、時にはげんこつの一つももらいましたが、それは決して児童虐待などではなかったのです。
街の巷を無表情や反抗的にさまよう青少年の姿を見るにつけ、ひょっとしたら彼らは母親の膝の上にいる時代の愛情と理性の教育が足らなかったからではないかと思うのです。いくらひっ迫財政の中から子ども手当を出しても、いい子どもは育たないと思うのです。
三水(さんずい)のつく言葉には色々ありますが、社会教育では汗と涙と酒が必要と誰かが言っていますが、私は汗と涙と港も必要だと思っています。特に三水(ざんずい)のない港は巷です。母親や父親、兄弟のいる家庭は心の港のような気もするのです。出港、寄港、帰港、母港、まさに人間には港が必要です。
「出港や 帰る港と なるような 温い家庭を 作ってやらねば」
「十戒の 八戒までが 膝の上 勉強などは 二の次なのに」
「親と子が 顔を見合って 暮らせたら ただそれだけで 幸せですよ」
「俺などは 勉強多少 劣ったが 温もり心 父母のお陰だ」