○この歳になってもメガネなしで針に糸を通せた
昨日の夜、妻が針仕事をするため裁縫用具を持ち出しました。やがて老眼というメガネをかけて針に糸を通し始めましたが中々通りませんでした。こんな場合は針に糸を通す裏技が出来る小さな小道具があるのですが、昨晩は裁縫用具箱にしまったはずのそれも見つからず、結局いつもの通り「お父さん針に糸を通して」とねだられました。
私は「見せてみろ」と、いつもの通り歯針に糸を通し始めました。最初は勘が鈍って通りにくかったのですが、そのうち馴れて3本全ての針に木綿の糸を通し終えました。自分で出来ないことをやってくれた私に妻は、「まあお父さん凄いのね。ありがとう」とお礼を言ってくれました。
私はこれまでメガネをかけたことがありません。この歳になってメガネが必要でないということは余程眼がいいのでしょう。時々「目がいい」と褒められると、「顔が悪いが目だけはいい」と駄洒落を言って人を笑わせていますが、若いころからメガネのお世話になっている妻を見ても、メガネが必要な日々の暮らしは不便だし、メガネにお金をかけずに済むことは有難いことなのです。
仕事で小さい数字を見ることもなくなったので、多分私はこれからも多少我慢をしてでも一生メガネをかけまいと心に誓い、目をぐるぐる回す目の運動をしたり、時には遠いところを見たりして視力の落ちるのを予防しているのです。
この40年間同じ物を食べ、同じ暮らしをしているように見える妻がメガネが必要で、私がメガネが要らないのは一体どういうことでしょう。妻は家事全般や育児を引き受け、これまで肩が凝るほど働きに働いてきました。故の視力衰えだとしたら、私はそんなこまごまとしたことをしなかったという理論が成り立つのです。妻は「子どもの頃勉強のし過ぎ」だと茶化しますが、勉強を余りしなかった私ですからその指摘は当たっているのかも知れません。しかし友人が言うように、「パソコンを始めてから旧に視力が衰えた」ということが正しければ、四六時中パソコンに向かい合っている私も、視力が衰えて当然なのですが、今のところそんな気配はないようです。
結局行き着くところ目の良し悪しは遺伝ではないかと思える節があるようです。私の母は80歳で亡くなりましたが、亡くなるまでメガネをかけずに新聞を読んでいました。親父は必要に応じてメガネをかけますが普通の暮らしはメガネをかけていません。私の友だち家族は親子全員がメガネの世話になっているので、遺伝論はある程度当たっているのかも知れません。
昔は村の商店街に眼鏡屋さんがありました。歳をとったおじさんが目に何やらレンズのような筒をつけて、メガネや時計を修理している姿をよく見かけました。「眼鏡屋だのに何故メガネをかけるのだろう」と不思議に思ったこともありました。中学生の時一度仮性近視になりかけて、水産高校の入試を諦めざるを得ないような時期もありましたが、視力検査のマークを全て暗証し事なきを得た苦い経験がふと蘇りました。
「冗談で 顔は悪いが 目はいいと 話せるほどに メガネ要らない」
「母親も 死ぬまでメガネ かけなんだ 私も同じ 道を歩むか」
「この歳で 張り穴糸を 通します メガネに投資 同じ言葉も」
「0と6 8と9など 数字だけ 判読し辛い 注意してます」