shin-1さんの日記

○今からでは遅いかも・・・

 「歳をとったらつまらん」「今年もまた一つ歳をとってしまった」「歳をとったらどこぞが悪くなるばかりでろくな事がない」と、年齢を重ねることに不満を言ったり、悲観して生きている高齢者をよく見かけます。確かに年齢を重ねると気力も体力も減退し、周りの人からも老人扱いされて、ある意味若かった昔を懐かしむ事だってあるのです。でもそんな悲観的な考えを持って生きても人生、楽観的に生きても人生だったら、少し考え方を改めて前向きに生きた方が、どんなにかいい人生になるに違いないと思うのです。

 しかし、そんな言葉を常日頃言っている人、にいくら「もっと前向きに生きろ」と言っても、「分かりました。じゃあ明日からそうします」と悔い改めることは中々難しいようです。私の浅はかな考えですが、私たち人間は長い人生の出発点となる子どものころに教わったり体得した生き方が、その後の人生の生き方を決めるのではないかと思うのです。だとしたら子ども時代の教育はとても重要で、ポジティブに生きることの大切さをしっかりと教え込まなければなりません。人間は他の動物と違い学習する動物ですから、色々な学びの中でそのことを学ぶのです。


 人間が最初に出会うのは自分を産んでくれる母親です。ゆえに母親の存在は体内にいる間から胎教を得るほど絶大で、子どもが生まれて間もない頃の父親の存在など、取るに足らないのです。母親が抱きしめながら語りかける言葉は理解できなくても、海綿に水が染み込むように子どもの体に教えとして浸透するのです。まさに「三つ児の魂百まで」でしょう。やがて子どもは成長と共に言葉を覚え、「這えば立て、立てば歩めの親心」の願い通り自立の道を歩むのです。ある意味子どもにとって母親の影響は100%なのです。

 ところがつい最近、最も大切な母親の存在が危なくなっているようです。親になるための教育を受けていないため、子ども中心でなく自分中心にしているため、体形が崩れるからと抱きかかえて母乳など飲まさず、まるで荷物のように買い物籠のような道具に入れて持ち運んでいる姿をよく見かけるのです。私が子どもの頃の母親は貧乏ゆえに忙しく働かなければならないため、子どもは帯で背負われ、母の背中から母の汗や息遣いを感じていたのです。私が今ポジティブに生きれるのはひょっとしたら、母親から一生懸命生きることの大切さ刻み込んだスライドの一コマを、与えられたからに違いないのです。

 「鶏が先か卵が先か」の議論になりますが、日本の子どもをよくするには母親の教育を、日本の高齢者をポジティブにするには、人生の出発である子どもの教育をしっかりしなければならないと思うのです。私は仕事柄あちこちの母親教育や高齢者の集会に出かけて話をする機会がありますが、集会に集まった母親や高齢者は学習意欲のある人ばかりであり、むしろ集会に集まらない母親や高齢者が問題だと思うのですが、残念ながらそうした人たちは野放しで、場と機会はないのです。さてどうするか、難しい問題ですがやはり幼稚園や学校に依存するしかないようです。

  「歳とって つまらん日々と 嘆く人 多分最初に ボタン掛け違い」

  「母親の 教育誰が するのだろう 母の母だが これが危ない」

  「籠に入れ まるで荷物と 勘違い これでは子ども 愛情不足」

  「子育ても 野菜育てと よく似てる 地力なくんば 知力はつかず」

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