○何気ない一言①
私は双海シーサイド公園にある450メートルの人工砂浜の掃除を毎日朝5時から8時までの3時間、毎日12年間やりました。今考えるとよくもまああんなことを思いつき、よくもまあ実践したものだと感心するのです。何でもない毎日3時間の平凡と言えば平凡な掃除を習慣化することによって、自分の足元が見えてくることはいっぱいあるのです。シーサイド公園の砂浜はかなり広いため熊手と一輪車を使うだけの人海戦術は、毎朝1万歩を越えるほど砂浜を行ったり来たりしますが、ゴミの量も半端ではありませんでした。雨が降れば近くの増水した川から大量のゴミが海へと流れ出し、それが塩と風に乗って漂着するのです。また北西の季節風が吹けば沖合いから大量のゴミが漂着するし、春先には牛一頭もあるような海草(ホンダワラ)が漂着するのです。手に負えない時は同僚や知人に応援を頼むのですが、それも限界があってかなり心労したものです。
ごみは海からだけではありません。年間50万人とも言われる来訪者が落としたり残して帰るゴミの量も半端ではなく、海水浴シーズンともなると軽四トラック2~3台分のゴミの片づけが待ち受けているのです。
ある日の暑い夏の朝の出来事です。前日が日曜日だったため海水浴客の残した大量のゴミを片付けたり掃除をしたりと、それはもう汗だくでした。私はゴミを集めた後燃えるゴミ、空き缶、ペットボトルなどに分別して所定のゴミ置き場まで運ぶのですが、丁度そこを通りかかってトイレへ行くであろう親子とすれ違いました。
お母さんは連れ立った小学生の子どもに「僕、綺麗な海水浴場ねえ。ゴミも落ちていないし気持ちがいい公園ね」と、公園の行き届いた掃除に感心しているようで、私は聞くとはなしの会話に一人嬉しくなりました。二人は私から次第に離れましたが、いきなり立ち止まって振り返り、私の薄汚れた姿を指差し、「僕見てご覧あの人、汗に浮いてドロドロになって、あなたも勉強が出来なかったら、あのおじさんのように朝早く起きて掃除をしないといけないようになるのよ。頑張ってね」と言っているのです。
私は持っている空き缶を投げつけてやりたいような憤りを感じました。朝早く起きて汗をかき、汚れて掃除する人がそんなに醜いのでしょうか。
私たち親は何かの対象物を引き合いに出して諭すということはままよくある話です。確かに勉強は出来ないより出来た方がいいし、勉強が出来れば楽な仕事に就けるのかも知れません。しかし掃除をしている人が醜い仕事で、ネクタイを締めて冷房の効いたところでデスクワークをする仕事が立派だとは思わないのです。その当時私は役場の課長という顔と早朝ボランティア清掃員という顔の二つの顔を持っていたのですが、役場で働く私が偉くて、掃除をしている私が醜いなんて考えもつきませんでした。
親の何気ない一言は人を平気で差別します。この子どもの心には親の教えとして「掃除をする人は勉強しなかった人、勉強しなかったら掃除をしなければならない」という教えが深層に深く残り、人を差別する心が一生続くのです。まし私があの親だったらとふと思いました。
「僕見てご覧、あのおじさんは朝早くから働いて偉いねえ、この公園が綺麗なのはあのおじさんのお陰なのよ。あなたもゴミを落とさないようにしようね。このお金であの自動販売機でお茶を買ってあのおじさんにご苦労さんと渡しておいで」なんて会話が弾めば、人を思いやる温かい心が育つのにと思いました。
「何気ない 親の一言 耳に入る 勉強せずば 掃除する人」
「諭すため 言っただろうが 差別心 親の一言 深い傷産む」
「スカートを 履いたら奥さん 地下足袋と モンペおばさん 何処が違うの?」
「人は皆 見た目判断 するものか せめて私は 本質見る目」