人間牧場

〇1回会っても100回会ったような人
 私は若い頃から地域づくり活動やボランティア活動に参加してきました。そのため多くの様々な人と今も関わっています。中には100回会っても1回しか会ったことのないような馴染みの薄い人もいますが、たった一回程度の出会いでも100回会ったような人もいるのですから人の印象は不思議です。

 そんな中、8月に親友宇田さんに連れられて、広島県からわが家へ10人ほどの人が視察にやって来ました。途中砥部町の坂村真民記念館に立ち寄ったため、大幅に到着時間が遅れ、予定していた煙会所や海舟館、JR下灘駅、シーサイド公園は立ち寄ることはできましたが、肝心の人間牧場は時間が足りないため出かけることが出来ず、宿泊先の松山市内へ向かって帰られました。

 その折8月29日~30日に広島市内での講演を頼まれましたが、運悪く台風が接近しお流れになってしまいました。普通だとこれで終わりのはずが9月5日~6日の両日再度講演を頼まれ妻を伴って広島まで出かけましたが、変更予定が急遽決まったため都合がつかず参加できなかったり、顔見世程度で帰られた人もいました。その中に松本さんという女性がいました。双海町へは来たものの広島での講演会はスケジュールが立て込んでいてチョイ顔見世程度でした。

 ところが、先日10月3日の私の誕生日に、大谷翔平さんの特大ホームランと思えるような祝電を私に送ってくれたのです。そして私のFacebookを読んで私が夕日徒然草を出版しているのを目敏く見つけ、電話で「その本が読みたいので送ってください」と依頼があり、私は早速レターパックに詰め込んで差し上げるつもりで送りました。最近ハガキや封書の配達は遅くても、レターパック便は早く、あくる日届いたようで、お礼の電話が架かり、今日は書き留め返信で達筆でステキなお手紙と芳志が届きました。

 いやはや「驚き桃の木山椒の木」です。私もお礼の電話を入れお話をしました。思うに松本さんという女性と出会ったのは双海と広島での短い時間の2回だけですが、もう100回も出会ったような濃密さで、忘れられない人になりました。「人は人によりて人となる」ようです。既に天国に召されましたがあの有名な永六輔さんとも1回しか出会わなかったのに、毎月1枚の夕日のハガキを5年間出し続けた結果、わが町でタダで講演をしてもらい、忘れ得ぬ人となりました。松本さんも私にとっては忘れないより、忘れてはいけない人になりました。

 

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人間牧場

〇同級生の女性から電話が架かり長~い電話
 昨日の夜、中学時代の同級生女性Nさんから電話が架かってきました。Nさんは昔あった富貴小学校の出身で、中学校からは一番遠い集落に住んでいたため、毎日が遠足のような学校まで往復歩いて通学していました。私は中学校から男子だけの宇和島水産高校漁業科に進学するため故郷を離れていたので、そんなに交流はありませんでいたが、嫁ぎ先が産まれ育ったところに近い大洲市田処だったし、柳沢公民館の事務職をされていたころ出会いを重ねました。

 ご主人も良く知っている方でしたが、脳梗塞を患い何年か前に他界され、今は100歳になる姑さんと2人で暮らしています。息子さんが看護師で海外の被災地に派遣されてりして、目覚ましい活躍をされていました。そんなこんなで、気になりながらも朝が峠の県道が西日本を襲った災害で土砂崩れが発生し、今も不通になっているゆえ、もう何年も出会っていないのです。

 男女の差こそあれ田舎の同級生なので積る話も多く、30分も長電話をしました。お互い今年80歳傘寿を迎えたので、体調のこと、将来のこと、昔の懐かしい思い出や、他の同級生の近況など話は尽きませんでした。近所に住む人と私が友人でもあるので、近いうちに出会おうと約束をして電話を切りました。同級生とはいつまで経ってもいいものです。

 

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人間牧場

〇自分で編み出した腰痛克服体操
 5~6年前までは、人間牧場や家の裏山の草刈りをしたり大きな荷物を運んだりすると、決まったようにぎっくり腰になって、行きつけの整体院へ、もみほぐしや治療を受けに2~3日通って治していました。

 ところがその馴染みの整骨院のご主人がガンで亡くなったことを知り、どうすればいいのか迷いましたが、風呂に入って両足を揃えて膝を左・右・左・右と100回折り曲げて風呂底に着け、その後足を縮めたり延ばしたりを10回、その後風呂桶の端に座り足を風呂桶に着けて20回腹筋を繰り返し終わりです。

 この運動のお陰かどうか分かりませんが、やり始めてから5~6年はぎっくり腰にもならず、元気に暮らしています。お陰様で腹にくびれが出来、下腹も出ず中年太りを回避しているのです。最近足首落としと屈伸運動を加えて、足腰の衰えに対応していますが、1日1万歩のウォーキングを加えると中々の運動量で、ほんの10日ほど前80歳になりましたが、元気に暮らせています。

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人間牧場

〇お父さんが死んだ時のために
 「お父さんが死んだら葬儀に使う遺影や、列席者に観てもらう動画を準備しておかないと」と縁起でもないことを長男息子が私にいました。勿論冗談だと思いますが、この度80歳傘寿を迎え、「加齢と病気と死」という3重苦を意識して生きて行かざるを得ない私は内心「ドキリ」としました。

 散髪をする度に男前の自画像を撮り続けている私には、沢山の自画像があるので遺影に使う写真は、恐らく喪主となるであろう長男息子の好みで選んでくれるだろうと鷹を食っていますが、動画には自信がないのです。幸い青年の船の班長として建国200年のアメリカへ行った時の映画を友人がVTR画像に収めてるのが一本あるので、と思っていたら、いつの間にか身の回りからVTRを再生する機械がなくなり、このVTRテープ使えないことが分かりました。

 早速その映画の所在を確認したところ愛媛県視聴覚ライブラリーにあることを突き止めました。先日から青年の船の仲間が集まる機会が何度か持たれ、借りてきたフイルムを写し懐かしく拝聴しました。そのフイルムを持ち帰った仲間がお礼にとそのフィルムを予備も含めた2本のCDにしてくれました。息子に頼んで再生して見ましたが、多少色落ち劣化はしているものの、私の葬儀用に耐えうる代物のようです。

 思わぬところで終活が出来たと喜んでいます。私的には今年の誕生日に多くの方々から祝意をいただき、その度に「100歳まで生きる予定である」ことを公言していますが、少し安心、少し不安な私自身の80年代の幕開けでした。

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人間牧場

〇愛車の修理入院
 8月下旬のある日、三崎半島に住む妻の同級生のお宅へお邪魔しました。その折そのお宅の敷地内でご主人の車をバックして車庫から出す際、私の車の後ろに追突してしまいました。ご主人の知り合いの修理工場の人がやって来て、敷地内ゆえ警察の事故証明も要らず保険で修理できると助言をいただきました。

 

 私たちが帰った後その旨を保険会社にご主人が連絡し、私も車の車検や保守点検をしているディーラーにその旨を伝えて、4~5日して車の修理のためディーラーに車を持ち込みました。修理は2週間程度かかるとのことでしたが、先方の修理予定が詰まっていてそれから1ヶ月何の音沙汰もなくあっという間に月日が経ちました。

 その間デーラーから借りたレンタル代車を使って少し遠方の山口・広島まで出張に出掛けたり、県内を乗り回して仕事をしました。レンタルした車は私からすると最新モデルであれこれの装備が完備していて、エンジンを始動するのもキーが要らず、ブレーキもサイドブレーキでなく踏み込み式で、安全に配慮した車で最初は多少戸惑いましたが、やがて慣れてきました。

 昨日ディーラーの担当者から、修理がやっと終わったので車を取りに来て欲しい旨の電話連絡があり、今日の午前中妻と2人で受け取りに出かけました。レンタルしていた車にガソリンを満タンにして返し、1ヵ月余りぶりにわが愛車と再会しました。傷んでいた後部トランク付近もすっかり奇麗になっていました。これでまたもとに暮しにやっと戻りました。

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人間牧場

〇「お父さん、今日は何日?何曜日?」
 今年の5月、妻は目の病気にかかり、32年間勤めていた近所の歯医者さんを急に辞めました。これまでにも「もう歳だから辞めさせて欲しい」と辞職をお願いしても、「後任がいない」とか「もう少し」という病院側の都合もあって慰留をされていましたが、「病気だから」を理由にお暇をいただきました。

 辞めた頃は病院へ足繁く通い、入院や2回の手術などを経てそれなりに回復して妻は終日自宅にいて、まるでサンデー毎日のような日々を過ごしていますが、伊予市の本宮眼科⇒松山南病院での治療や病院へ通っての経過観察、家庭での1日4回の目薬差しが順調に進んで、少し遠い病院への通院も大変だろうからと、「紹介状を書くから元の本宮眼科に転院したら」と勧められました。

 先日目薬が少なくなったので私が運転して本宮眼科へ行き、紹介状を提出して診察をしてもらいました。診察してもらいそれなりに回復しているようなので、1ヶ月に1回程度診察に来るように指導を受け、隣の薬局で目薬をもらって帰りました。これで約5か月間の私のアッシー君としての妻に対する役目もやっと終わりました。近場であれば自分で運転できるのです。

 最近は目の回復を待っていたかのように、外庭の草引きをしたり、食事の準備をしたりしながら毎日を過ごしていますが、記憶力は天然ボケのままで、「お父さん、今日は何日?何曜日」と、私に聞くようになりました。また以前働いていた時とは違って、サンデー毎日で専業主婦ゆえ、日にちと曜日が分かりづらいようです。目だけではなく脳の記憶力も右肩下がりのようです。

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人間牧場

〇私の名刺の遍歴
 私は若い頃余り名刺が好きではありませんでした。ゆえに集会などでは名刺など交換することは殆どありませんでした、ところが愛媛県公民館連絡協議会の主事部会長に就任したり、全国大会の司会などに推薦されたりすると名刺なしでは交流が出来にくいことに気づき、名刺を作って配るようになりました。当時の名刺は双海町公民館主事 若松進一程度でした。その後第10回総理府派遣青年の船の班長として海外に行くようになると、英語の名刺が必要となり、全て自費で作りました。

 その後まちづくりを担当し夕日によるまちづくりをするようになると、町をPRするためカラー名刺の台紙だけは町が作ることになりましたが、普通の職員は1箱作っても2年間は使う程度でしたが、私は多い月には5箱500枚も使い町長さんをしのぐ枚数でしたが、自費となると結構お金もかかりました。その後課長の私以外部下のいない日本で一番小さい課の課長になってからも、双海町の教育長で終わるまで、名刺の使用量は減るどころか増えて止まりませんでした。

 60歳で退職し国立愛媛大学法文学部の非常勤講師や、農学部の客員教授として教壇に立つ傍ら、北は北海道から沖縄まで講演活動をするようになった時、前々から名刺の裏側が殆ど利用されず白いままが多いのに気づき、ここにコマーシャルを出したらどうか発案し、とりあえず東京第一ホテルで開かれたモーニングセミナーに卓話をして欲しいと招かれた際、ギノー味噌の田中社長さんがコマーシャルを出してくれることになりました。

 その名刺が現在使っている「裏が味噌」の名刺でやっと自分流の名刺に辿り着きました。今は1年間に千枚程度使いますが、ギノー味噌の「裏が味噌」の名刺はすでに8版刷を終え、今年6月30日を麦味噌食文化の日に制定したPR名刺は、ギノー味噌の人気商品即席みそ汁とともに色々な場所で配られ、地場産業の振興に役立っています。

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人間牧場

〇愛用の小さな農業用ハウス
 わが家には家庭菜園の隅に小さな農業用ハウスがあります。季節を先取りしてトマトなどを作って楽しもうと5~6年前に造りました。今は大・中・小3種類のトマトを路地栽培より1ヶ月近く前に苗を植え目論見通りの成果を出して、家族や知人友人にお裾分けして喜ばれていますが、最近は息子が朝顔の苗育てに使ったり、蜜蜂の誘因に使う日本ラン・キンリョウヘンの冬越しにも使っています。

 今は端境期で何も植えていませんが、これから冬場の葉物野菜であるチンゲン菜や、小松菜、春菊などを植えてみようと思い立ち、草を引いた後石灰を撒いて耕運機を入れ中耕をしました。狭いハウスの中ゆえ耕運機の運転もままならず、多少難儀をしましたが、2~3日中に牛糞を撒いて再び中耕して畝を立て、種を蒔く予定です。冬場の寒い時期に一足早く葉物野菜を楽しみたいと思います。

 「お父さんはまるでお百姓さんみたい」と妻にからかわれていますが、薬を使わず安心安全な野菜作りを目指していますが、これが中々です。只今親父が生存中畑に張り巡らせている井戸水使用のポンプが故障して、新しいポンプに替えるべく水道屋さんに手配していますが、もう少しかかるようなので、当分ハウスの水遣りは、ジョロになりそうです。

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人間牧場

〇今が過去になる前に
今は一瞬にして過去となり、人の心や頭から消えて行く運命にあります。たった3日前の出来事でも、「はて?」思い出すことさえできないのです。ところがあれこれ記録していると、少々頭と記憶力が悪くても、「ああそうだったのか!!」と思い出させてくれるのです。

 3日前100人ほどが集まって人間牧場20周年「年輪塾公開セミナー&20周年の集い」がありました。その時1部のセミナーが終わった時、部屋を粗方片付け集合写真を撮りました。カメラマンは昨年まで双海公民館にいた出海さんです。その出海さんから撮った集合写真がメールで2枚私の元へ送られてきました。一枚は「ハイポーズ」、もう一枚は右手で人差し指と中指の2本、左手で人差し指と中指、それに薬指の3本立てたお馴染みの「フタミ~」でパチリでしたが、飲み込んでいる人と飲み込めないで左右逆の人もいて大笑いして一人一人の幸せそうな表情を見せてもらいました。

もう一枚は交流会で双海の歌を披露してコンサートを開いてくれた徳島県佐那河内村の佐那人が別れ際撮った一枚でした。何年か前当時の佐那河内原村長さんに連れられて人間牧場にやって来た彼らと、再び出会いを重ねることが出来始めたことは嬉しい限りです。これら3枚の写真に納まった人たちは激動する20年の時の流れと社会変化の中で逞しく生き続け、活動と想いを共有しながら交流をし続けてきました。今が過去になっても助け合いながらこれからも助け合って地域のために働きたいと思っています。

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人間牧場

〇人間牧場20周年記念「年輪塾公開セミナー&20周年の集い」こぼれ話
 今回の20周年の集いに参加した人は100人を越えました。森は海の恋人で有名な畠山重篤さんを招き「心に徳の木を植える」という講話を聴くことが出来たのは、人間牧場の大番頭である松本さんが地域活性化センターとえひめ地域づくり研究会議の資金支援を取り付けてくれたから実現できたのです。

 もう一つ忘れてならないのは「伊予のみそ汁」と「ひしお」という2つの商品をギノー味噌からそれぞれ120袋も提供を受け、商品を参加者全員にお土産として差し上げることが出来ました。私の似顔絵名刺の裏側に「裏が味噌」と書いてギノー味噌のCMを出してもらっていますが、最近その名刺に「6月30日は『麦みそ食文化の日』~早寝・早起き・朝ごはん、そしてみそ汁~」というフレーズを書き込んでいますがその名刺も約100枚飛ぶように売れましたました。

 私たちの食生活は和風から洋風へと変わりつつありますが、発酵食品である味噌を使った味噌汁など日本の食文化をもっと日本中に広めたいと思っています。加えて私がこれまで「夕やけ徒然草」というタイトルの自著本に、書き溜めた213話の落伍高座本・木の書も是非ご一読していただければ望外の幸せです。


 

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