shin-1さんの日記

○「さる」の教え

 今や世界遺産になっている日光東照宮、ご存知のとおり徳川家康をお祭りしている神社です。徳川家康は三河岡崎城で生まれ、戦国乱世を平定し幕藩体制を確立、江戸時代260年の基礎を築きました。家康は駿府城で75歳の生涯をおえていますが、久能山に埋葬された一年後遺言によって現在の地に移されたたそうです。私は若い頃何かのついでに行ったような記憶があるのですが、煌びやかな陽明門などが記憶に残っているもののはっきり覚えていないのです。栃木県日光から比べるとはるかに近い広島県瀬戸田に西日光と異名を持つよく似たお寺があって、むしろ何度も訪ねているこのお寺の記憶の方が鮮明なのでダブっているようです。

 日光東照宮の境内に神厩舎というのがあります。ご神馬をつなぐ厩です。昔から猿が馬を守るとされているところから長押上には猿の彫り物が8面あり、人間の一生が風刺されています。中でも見ざる・言わざる・聞かずの三猿が有名で、何かにつけて引き合いに出されるため、知っている人も多いようです。

 昨日大学の講義を終えて帰り、くつろいでいるとわが家のチャイムが鳴りました。着替え中だったこともあって「少々お待ち下さい」と大声で叫び玄関に出ました。すると50歳がらみの見知らぬ夫婦が立っていました。「突然で恐縮ですが、ちょっとお聞きしたいことがありましてお伺いしました。近所で聞けば若松さんは双海町の事だったら何でも知っているらしいのですが、実は息子が結婚することになりそうなので、行く当てもなく調べに来ました・・・・・・。」と切り出すのです。その方は栃木県に住んでいるらしく、息子さんが東京で知り合った双海町出身の女性と恋仲になり、親に結婚したい旨の相談があったそうです。しかし縁もゆかりもない愛媛県のことゆえ、どうしたものか思案した挙句、飛び込みのような形で双海町へやって来たというのです。それとはなしに娘さんの家を探し当てましたが、内情は聞くに聞けずうろうろしていたら、シーサイド公園であるおばさんに会ったそうです。そのおばんさんはその娘さんの家のことを知らなかったようで、丁寧にも「双海町のことだったら若松さんにお聞きなさい」と、まあこんな具合でチャイムを鳴らしたようです。

 はてさて、あなただったらどう対処しますか?。普通滅多なことは言えないと、栃木県日光東照宮の猿の彫物のように「見ざる・言わざる・聞かざる」で通せば問題はないのですが、お節介な私は「まあお茶でも」とお茶まで出して話しを聞きました。私は人権教育を受けているし、人権教育をした人間なので、慎重に言葉を選び、そして人権教育の立場からお話をさせてもらいました。幸いご両親やそのご家庭のことは知ってたので、身の上調査にならないよう配慮をしたのです。

 この場合ある部面では「見ざる・言わざる・聞かざる」を貫くことも大切です。でも結婚はあくまでも若い二人の幸せを第一に考えなければならないので愛の深さについても「見るぞう・言うぞう・聞くぞう」で望むようお話しました。その娘さんがどんな家柄でどんな町の人かなんてことは、二人の愛の深さや強さに比べたら些細なことなのです。その娘さんは私もよく知っている人だったので幸せに結婚できるよう両親の胸のつかえを取ってあげました。お二人は明るい笑顔で帰って行きました。降って湧いた栃木県日光からのお客さんは、私に猿の教えを残して去って行きました。

  「ピンポンと チャイムを押して 知らぬ人 唐突話す 結婚話」

  「あの人に 聞けば何でも 知っている いわれる私 どうすりゃいいの」

  「東照宮 猿が三匹 彫ってある 見ざる言わざる 聞かずの教え」

  「目も口も ましてや耳も ある身ゆえ それを上手に 使うは知恵か」

  


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○塾の立ち上げ準備

 人間牧場での塾活動がいよいよ始まりそうです。というのも人間牧場を作った時、かつて10年間で40回のフロンティア塾のようなものをつくりたいと思っていたものの、リタイアしたにもかかわらず私の日常が余りにも忙しく、向こうが見えにくかったため伸び伸びになっていました。しかしそこら辺の飲み込みも一応できたので、そろそろ始めようかと思っていました。人間牧場を作った折、もし塾を開くのなら私が第一号とばかりに名乗りを上げ、申請書まで持参した人がいます。関西汽船に勤める浜田久男さんです。彼は不思議な人で、子どもの頃お父さんの仕事の関係で旧下灘村日喰に住んでいました。その後のことは不祥なのですが、今は民俗学者宮本常一の足跡をたどることをライフワークにして、その生き方を研究しているのです。アカデミックな凄い読書家で、私も彼から沢山の宮本常一に関する情報を得てきました。たまたま人間牧場の眼下に宮本常一の生誕地である周防大島が見えることも、彼が人間牧場に興味を示した大きなきっかけなのです。

 私はこれまで3年間、別に意図があった訳でもないのですが彼の塾生第1号希望を無視し続けてきましたが、それでも彼は足繁く人間牧場へ通い続けているのです。先日地域試政策究センターの清水研究員と松本研究員が浜田さんと一献盃を交わしたらしく、その模様を三人三様酔いたんぼの声で電話してきたのです。「機は熟したからそろそろ浜田さんを門下生に」という懇願でした。開塾となるとそれ相当な準備をしなければなりません、先日長崎へ行く途中で乗った松山観光港~小倉間のフェリーの中で坂本龍馬の船中八策ばりに、色々考えてみたのです。そのことについては志ある人に示すとして、浜田さんを塾生第一号にすることを決めました。

 さて一号で始まり一号で終わるかも知れないようでは芸がないと思い、日頃からこのことについて話している清水さんと松本さん、それに弓削島に越してきた兼頭さんと馬路村の木下さんを加える事にしたのです。このことがパソコンネットで流れて、菊間の大河内さんの耳に入り、強烈な入塾へのアピールがありました。早速返事を保留していましたが、あらかじめ用意していた名札用の板に、塾生の名前を書かなければならず、「夕やけ徒然草」出版の折、題字をお願いした伯父に名札を書いてもらうよう依頼したのです。伯父も体調が優れず高齢のため嫌がりましたが、シブシブ引き受けさせました。昨晩出来たから取りに来るように連絡があり、大学の講義日なので途中立ち寄りました。あいにく病院通いのため留守でしたが、机の上に置いているとの託けだったので、受け取ったものの文字が違うのです。塾という字の下の土が抜けているのです。困ったと思いつつ、病院から帰る頃を見計って家に押しかけ、間違った部分を書き直してもらいました。病院から帰った直ぐのドタバタだったので、これまた間違いがありまあ大変でした。

 持って帰って気がついたのですが、何とその名札に大河内さんの名前が既に書かれているのです。多分私が一昨晩書いた原稿に大河内さんの名前を、無意識のうちに書いていたのでしょう。大河内さんについても断る理由もないのですんなりことが運びました。

 さて塾長はフロンティア塾での経験から私が務めますが塾頭には清水さんになっていただくようお話しました。

私の思案ですが、塾の目指す方向にある理想の人は二宮尊徳と坂本龍馬(ジョン万次郎を加える)それに宮本常一の三人です。故に塾生はこの三人の生き方を基本とするため、誰よりも詳しく学ばなければなりません。二宮尊徳は経済と愛国、坂本竜馬とジョン万次郎は行動力と夢や発想、それに運命です。また宮本常一は日本人の心と生き方、それに愛郷心です。

 さあいよいよ船出です。血が騒いできました。

  「入門を 願い三年 経ったので ここらでそろり 腰を上げるか」

  「達筆の おじに頼みし 名札書き 土書き忘れ 半塾未熟」

  「わが名前 まんざらでなく 手にとって 付けた親父に 感謝をしつつ」

  「人の書く 文字をあれこれ いうけれど 自分の文字は まるで落書き」 

 

  

  

 

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shin-1さんの日記

○過去と今を語るOB会

 私は26歳から39歳までの13年間教育委員会に勤め社会教育、とりわけ公民館に重きを置いた仕事をやりました。故に公民館関係者との交友が深く、今もその人たちと様々な活動を行っています。他の人は知りませんが、当時の私はこの仕事を終生の仕事と選び、プロに徹し思いを込めて仕事に打ち込んでいたように思います。ですから13年目に一枚の辞令で産業課に異動した時は一日中涙が出て止りませんでした。それでも様々なことを学んだ公民館をこれまた終生の恩人と選び、今も公民館の事だったらなにはさて置いても馳せ参じるようにしているのです。

 当時たもとを分かち合い、夢を語り合った人たちも年齢を重ね、一抜け、二抜けと去っていく姿を見ながら時の流れの儚さを思うのです。しかし老いや病気、それにそれなりの理由なら一抜けも納得できますが、公務員とは勝手なもので、自分が仕事の間は夢中になるのにその仕事を離れれば、「今まで言っていたことや行動は一体何だったのか」と思わんばかりに、「そんなの関係ない」的になって、私たちの視野から消えてゆくのです。

 社会教育もまちづくりも福祉も産業も、殆どの仕事はボランティアによって支えられています。ボランティア精神の必要性を仕事として説いただけなら、その人の仕事は給料のためだけだったということになるのです。公民館に勤めていた人が異動になって他部局へ変わったことを知らずその家へ電話したら、「私は公民館ともボランティア活動とも関係ない」と言って冷たく電話を切った話はそれを物語っているようです。

 昨日は公友会という公民館OBの会が催されました。道後にぎたつ会館に集まった参加者は12人で少し少なめでしたが、集まった人数など問題ではなく、久しぶりに懐かしい燃える人たちに出会い嬉しいひと時を過ごしました。欠席通知の中には病気や会議の都合で来たくても来れない人も沢山いて、コメントを寄せていました。

 近況報告では、誰もが過去と今を思いを込めてお話ししていました。中には今の公民館へのご意見や痛烈な批判もあって、衰えぬ毒舌に誰もが自分の人生や意見を重ねながら熱心に聞き入りました。しかし寄る年波とでも言うべきか、その話は過去と今の話が多く、残念ながら未来を語る部分は少なかったように思うのです。無理駆らぬ事ながら、残された余命をどう生きるか、それはとりもなおさず自分への問いかけでもあるのです。

 私は幸せな事に今は未来への夢を持ち、夢の実現に向って走れています。健康も今のところ問題もなく暮らしています。また人間関係もすこぶるよく、これといったトラブルも抱えていませんが、親父の加齢と妻の健康が気にかかり始めました。これまでどちらかというと自分だけの人生を思う存分生きてきただけに、これからは周りの人にお返しもしなければなりません。

 こうして過去と今を語る人の話しを聴きながら、今に自分もそうなる運命にあるのだろうかとしみじみ考えさせられた一日でした。

 この日私の提案で昨年卒寿を迎えられた岡島会長さんにご退任願うことにしました。20年間公友会をリードされ、私たちの星でもあり恩人だっただけにいつまでもと思っていましたが、やはり世代交代です。新会長に魚島村の佐伯元村長にご就任いただきました。岡島さんご苦労様でした。佐伯さんよろしくお願い致します。

  「懐かしい 人に出会いて 懐かしむ 懐かし話 記憶の彼方」

  「消息を 聞きつつ人は 老いるもの しみじみ思う 俺もそのうち」

  「ああそうか 過去があるから 今がある 今なき未来 ある訳もなし」 

  「恩人も ついに今年は 顔見せず 少し寂しく 体案じて」

  「

 

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shin-1さんの日記

○凡人の私でも論語から学ぶ

 この歳になると、落ち着いて本を読みたい心境になるのですが、逆に長時間本を読むと目が疲れてきて体に疲労がたまるようになりました。昨晩も本を読んでいると夢中になって、気がつけば時計は回り午前2時です。孫をトイレに連れて行くため起きた妻が、「お父さん、早く寝ないと体にさわるよ」と注意してくれました。それでもその言葉を「うんうん」とうなずきながら無視して午前3時まで読みふけりました。サンデー毎日の自由さがそうするのでしょうが、今日は朝起きるとさすがに寝不足のような気だるさを感じるようです。それでも読書によって何か体内に新しい知識が注入されたみたいで、読書の持つ魅力を感じています。

 私の場合は読書と文字書きを組み合わせているため、読んだ本の中から感じた部分を単語にしてメモします。丸写しだと自分流にならず盗作になりますので、極力単語を自分流に解説するようにしているのです。時に分らない部分はヤフーの辞書検索もしますが、それも全て書き写したりプリントアウトしたりはしないようにしています。

 昨晩読んだ本の中に論語が出てきました。論語は「論語読みの論語知らず」といわれるように昔から何かと引き合いに出されるものの、原本などは浅学な私には到底理解できず、解説本を読む程度なのです。論語学而編では天与の尊い道を「温・良・恭・倹・譲」という五つの言葉で表現しているようです。この五つの言葉は道徳真髄を表しているようですが、解説で「温」とは柔軟な義、「良」とは善良にして人を愛する、「恭」とは容貌、起居、動作などの敬虔にして篤実な事、「倹」とは他人を敬って他人に快感、満足を与える事、「譲」とは他人に対して当然自己の受くべき名誉、若しくは利益を譲り与える事と書かれ、シンプルな漢字一字も解説によって随分深みが出ると思う反面、解説に解説を加えなければいけないような迷い道へと入ってしまいました。

 まあ余り深いことを考えず、漢字の読み方そのままにポジティブに考えれば大体の意味は通じるのです。「温」は暖かい思いやりの心を持つことだし、「良」は良い行いをすればよいのです。「恭」は比較的馴染みの薄い文字ですが敬うことぐらいでしょうか。「倹」は読んで字の如く倹約です。「譲」も譲るですから相手に渡すことです。

 日々の暮しを反省してみると、言うは簡単ですが行いとなるとこれまた難しいものです。特に倹約は自分の暮らしの中で実行しなければならないし、譲ることも相手があることですから譲るものや地位名誉も対象となります。

 今朝は倹約について考えてみました。数日前部屋を掃除していて沢山ストックしていた紙ごみを焼きました。この量たるや半端なものではなく、キャリーに5杯分は処分したでしょう。本来ならこの紙ごみは分類して資源ごみに回すべきなのでしょうが、シュレッダーにかけなければならないような個人情報が多く、その分類をする暇もなく処分してしまったのです。もし私に資源ごみという意識があったら、日頃から廃棄紙ごみと情報処理ごみに分別していたらこんなことにはならなかったのです。一方では環境問題を語り一方ではこんな事もできないとはお粗末な話です。

 このところ、電気を小まめに消すこととつもり貯金を始めました。コーヒーを飲んだつもり、タバコを飲んだつもり、お酒を飲んだつもりで貯金箱に小銭をれて行くのです。ちょっとしたことですが、これが意外と貯まるのです。わたしはこんなささやかな小銭しか融通しかできませんが、「一円を笑うものは一円に泣く」の姿勢で人間牧場という大きな成果を得たことを思えば、これからもつもり貯金で自分の次なる夢を是非手に入れたいと思っています。

 

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○カブトムシの幼虫

 今年の梅雨は結構メリハリがあって、降る時と降らない時がしっかり区別されているようで、晴れと雨が交互にやって来て随分助かります。でもこれから梅雨の終わりごろになると雨の量も次第に多くなるので気をつけなければなりません。雨といえば二つのことを思い出します。ひとつは大雨による裏山の崩壊です。急峻な地形のわが町では雨が降る度に各地で土砂崩れが起こりますが、わが家でも例外ではなく覚えているだけでも3度も土砂崩れに見舞われ、5年前にはあやうく家が土砂に埋まりそうになりました。そしてその片付け最中にチェンソーで足を切り救急車の搬送を得て入院手術、車椅子の暮しを余儀なくされたのです。幸い大事だったのに大事に至らずどうにか回復しましたが、今でも時々右足の古傷を見る度に、当時のいまわしい大雨を思い出すのです。

もうひとつは高知県の雨粒の大きさです。隣県ということもあって、高知県の殆ど全ての市町村へ講演などでお邪魔していますが、その度に雨の洗礼を受けています。高知県には四万十川や安田川、仁淀川など全国にその名を知らしめている名だたる川がありますが、何度大雨に出会ったことでしょう。特に旧西土佐村と馬路村での雨との出会いは忘れられない思い出です。

 昨日は昼から孫朋樹がわが家に遊びに来ました。松前町での講演の後迎えに行ったのですが、最近は私の仕事が忙しく、中々出会わなかったのです。昨日は土曜日と重なってお休みだったのでお目当てのカブトムシの話で盛り上がりました。

 かなり激しい雨の中、田舎のオープンカーに乗って人間牧場へ行きました。朋樹のリクエストによるものです。というのも人間牧場赤とんぼの館の倉庫には、県庁職員からいただいたカブトムシの幼虫が、ポリバケツに入れられ養殖されているのです。孫はそのことがいつも気になっているらしく、電話の度に「カブトムシの幼虫はどうなっているの?」と訪ねるのです。晩秋に貰ってからもう半年が過ぎました。人間牧場へ行く度に蓋を開け中を観察するのですが気まぐれな幼虫はずっと腐葉土の中に潜んでいて、中々ご尊顔を拝せないのです。それでも時々幼虫が1~2匹表面に出ているのも見ることがあって、おおよその状況は逐一電話の向こうの孫に報告していたのです。

 昼なお暗い大雨の中を人間牧場に着いた私たちはポリバケツの蓋を開けて驚きました。17匹もの白い幼虫が表面に出ているのです。朋樹は「わあ~凄い」と思わず歓声を上げました。

 幼虫は間もなく成虫になるのでしょうか、以前より茶褐色を帯びてきたように見えるのです。「おじいちゃん、ウインナーみたいだね」と上手く表現した孫は、早速持ってきた虫篭にこの幼虫の一匹を入れて持ち帰りたいと注文しました。本当は触ってはいけないのでしょうが初めてのことなので、腐葉土を少し虫篭に移し、幼虫を一匹入れました。そしてその上からまるで布団でくるむようそっと腐葉土を掛け手やりました。雨が次第に激しくなってきたので早々に下山する事にしましたが、4WDの田舎のオープンカーに同乗した孫は大事そうに自分の膝の上に置いたままでした。途中西嶋さんの家でラッキョウを加工しているところに出会い美味しいビワをいただきました。またカブトムシの幼虫を自慢したくて妹のお店「くじら」にも立ち寄り、朋樹は知ったかぶりのカブトムシ談義を得意げに話していました。

 昨晩は私と一緒に寝ましたが、カブトムシの幼虫で興奮したのか、風呂にも入らず夕食が終わるとテレビの前で寝込んでしまいました。9時ごろ起して風呂に入れましたが、おとボケて泣きました。それでもカブトムシの幼虫と寝るのだといって、枕元へ虫篭を運んでやると嬉しそうに夢の中へ旅立ちました。

 間もなく暑い夏がやって来ます。電話の度に「カブトムシの幼虫はどうなってる?」と問いかけてくるでしょう。今年はスーパーでカブトムシを買わなくても済みそうです。男の子の虫に対する憧れはいつの時代も変わらないロマンのようです。

  「わあ~凄い 思わず歓声 ウインナー 上手い表現 孫は夢虫に」

  「枕元 虫篭置いて スヤスヤと どんな楽しい 夢を見てるか」

  「幼虫が 成虫になる 日も近し 少し黒ずむ 命の不思議」

  「雨などは カブトの幼虫 比べたら 目じゃないように ずぶ濡れなりつつ」

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shin-1さんの日記

○同級生の前で講演しました

 伊予市・伊予郡で合併するはずだったのに、砥部と広田と松前が抜け、伊予市・中山・双海が合併して伊予市となり、3年が過ぎました。広田と中山と双海は旧伊予郡の中でも過疎地域の弱小町村だったため、対等合併といいながら引きずられるような形で合併し、合併後も悲哀をなめるような気持ちになっているのが偽らざる気持ちのようです。そこへ行くと広田を巻き込んだ砥部と単独で残った松前町はそれなりに知恵を出し合い、前にもましていい町をつくろうとする機運が高まって、積極的なことが目立っています。特に松前町は中国四国最大級といわれる商業施設エミフルが誕生し、連日多くの人を集めているようです。

 そんな松前町で開かれているひまわり塾で話しをして欲しいとお誘いがあり、のこのこ出かけて行きました。今日はあいにくの雨でしたが会場となった文化センターの2階会議室には沢山の人が集まっていました。三年前までは同じ郡だったこともあって知人友人が多いのですが、この日は小中学校で同級生だった二人の馴染みの女性が参加していました。同級生の前で、ましてや女性の前で話すのですから何ともやりにくいのです。一人は洋子さんといって私の従兄弟です。学校で失敗したりして立たされたりすると、必ず親に筒抜けだったため最も嫌な相手です。ご主人の仕事の転勤先が徳島だったため、娘が徳島大学在学中、姉の娘と共にずいぶんお世話になったりしましし、年齢が一緒ということもあって、従兄弟では行き来の多い人なのです。もう一人は万寿恵さといって洋子さんと仲のよい同級生で松前町へ嫁いでいます。お互い六十の坂を越えていよいよ初老を迎えますが、男性の私に比べお世辞抜きで女ざかりを少し過ぎた程度で若く見えました。私も日頃大学生たちと出会うためか比較的若い心を持って生きているつもりなのですが、やはり女性の若さにはとてもかなわないのです。

 最初は二人を意識して話していましたが、直ぐにそのことを忘れ平常心に戻ってお話をしました。今日のテーマは「退職後の生き方」なので、私の最も話せるジャンルなので思いつくまま90分を越えてお話しました。特に人間牧場の話は何時もより多く話してしまったようです。

 松前町では生涯学習をこれまでのように教育委員会が丸抱えすることなく、自主的に発想し自主的に運営する方法に切り替えているようです。そうすることで自律や自立の心が生まれ参加者も会場いっぱい、しかもかなり意識の高い塾に育っていて、今日は第一回の学集会でしたが、講演後の意見交換も和気藹々で今後の成長が楽しみです。教育の終局の目標は自立ですから今後の成長を陰ながら応援しています。

 それにしても同級生とはいつになってもいいものです。私たちの育った小学校・中学校時代は戦後の混乱期を脱して、日本がいよいよ発展しようと船出する時代でした。子どもの数も多く学校も活気に満ち溢れていました。同級生の半分以上は高校へ進学しましたが、中学校を出ると集団就職列車に乗って都会の雑踏の中に消えた人もいたし、家の跡を次いで農業・漁業に携わった人もいます。この年齢になるとさすがに殆どの男性がリタイアし、女性もリタイアするような年齢の男性と結婚しているため、人生の岐路に立っています。ゆっくりと過ぎ越し人生をかたりたいと思いつつ、忙しそうにそれぞれの生き方をしています。洋子さん、万寿恵さんどうかお元気でお過ごし下さい。

  「会場で 何とばったり 同級生 少し心が 動揺しつつ」

  「それぞれの 人生生きる 同級生 健やか生きろ 夫と共に」

  「今頃は 食卓囲み 今日のこと 思い出しつつ 笑い転げて」

  「お互いに 六十路を越えて 生きてきた 笑顔と白髪 物語るよう」

 

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shin-1

○お金の井戸と知恵の井戸

 昨日近所の顔見知りのおばさんが立ち話をしている井戸端会議に偶然出くわしました。楽しそうに話しているので「何の話?」と輪の中に入ってみると、どうも近所に住むお金持ちの人の話のようでした。その人は巨万の富とまではいきませんが、私たち貧乏人が羨ましくその人の収入を詮索すれば、貸しマンションを三十戸くらい持ち、年金を受け取っている分だけでも計算すると毎月の収入が百万円はくだらないというのです。そのご主人は私もよく知っている人なので、「別に綺麗な格好をして歩いているわけでもなく、そんなには見えないけど」というと、「お金持はそういうものなのよ。貧乏人に限って見栄を張る人が多い」と、中々の洞察力です。

 最近このお金持と思しき人が旅行に凝っているそうで、国内はおろか外国へも年に数回行くのだそうです。「だってお金は生きているうちに使わないとあの世へまでは持ってゆけないものね」「それにしても羨ましいわね。汲んでも汲んでも減るどころか増える、お金の井戸を持っているのですから」「私たちは毎日あくせく働いても、貧乏人のお金の井戸は直ぐになくなってそこが見えてますからねえ」と話が発展していました。

 「ほう、上手い表現だな、お金の井戸か」と思う矢先、ひとりのおばさんが、「ところで進ちゃん、人ごとではなくあなたもお金の井戸をもっているから羨ましい」と、いきなり矢が私に飛んできました。「えっ私もですか」。「そうよ、あなたもあんな広い立派なお屋敷に住んで、毎日講演三昧でお金ががっぽがっぽ入って、お金の井戸があるのですから」といわれました。

 「いえいえ私の家はあなたが考えるほどお金持ではありません。だって私の家に来てチャイムを鳴らしてみてください。あなたの家のチャイムはピンポ~ンと鳴るでしょうが、私の家のチャイムは貧乏びんぼ~うと鳴りますからね」と笑いを誘いました。

 確かに人が詮索すれば私の家は一見お金があるように見えるのかも知れませんが、内情は「ありそうでないのが現金、なさそうであるのが借金」の諺どおり、借金こそないものの「お金の井戸」などまったくないのです。安月給で4人の子どもを育て、家もローンで新築しました。私は妻の家計簿に「亭主持ち逃げ」という項目があるほど、毎月やれ勉強だなどと全国を走り回り、お目出度お悔やみなどの交際費に加え飲み会やボランティア活動などにそれなりに使っているのですから、自分のハエさえ追えないのです。でも外から見ればそう見えるのでしょうか、私の家には実態のそぐわない「見た目だけのお金の井戸」がどうやらあるようです。

 私はおばさんたちに、「お金の井戸はないけれど、知恵の井戸ならありますよ」とお話しました。「えっ、知恵の井戸ってどんな井戸」、「はいそれは人生を生きていく上でとびきり上等な井戸です。お金の井戸は汲み過ぎるとなくなりますが知恵の井戸は汲み上げても汲み上げてもなくなりませんからね」、「なるほどなるほど、若松さんは上手い表現をされますね。一度私たちのもその知恵の井戸の講演を聞かせてください」「いいですよ、しかし私の講演料は高いですからお金ができないと聞けませんよ」「講演料って幾らぐらい要るの」「一億円です」「えっ、一億円?」「はい私の家にはひとり奥さんがいますので、お金の単位は一奥縁です」「まあ面白い」・・・・・・。延々と続く人を羨む井戸端会議を尻目にわが家へと帰りました。玄関へ入るなり、「おーい一奥縁」と声をかけると、一億縁にも匹敵するわが妻の笑顔が迎えてくれました。「何を馬鹿なことをいっているの」「寒~い」ですって。

  「俺の家 一奥縁が 住んでいる 金はないけど だから楽しく」

  「金の井戸 汲めばなくなる 知恵の井戸 汲めば汲むほど 増えるの不思議」

  「人の家 詮索話し 面白い 俺の家にも 金はありそう」

  「まあいいか 喰えたらそれで 人生は 金などあの世 持って行けぬぞ」


 

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shin-1さんの日記

 昨日は来年に予定されている県立松山工業高等学校創立100周年記念事業の設立実行委員会が開かれ、私もかつてこの学校のPTA会長を6年間も務めたため、顧問として名を連ねる事になり、長年ご愛顧いただいている高須賀先生が準備室長ということで逃げる訳にも行かず就任し、会議に出席しました。学校にとっても卒業生にとっても、また私たちのようにPTAとして間接的に携わった者にとっても、一世紀という気の遠くなるような時空に身を置いたことを感慨深く感じました。

 会議は1時間の予定が40分も長引きましたが、それだけいい議論が出来たようです。会議中に妻から携帯電話がかかってきました。一度は電話を切ったのですが、再度の電話です。年寄りを抱えているため何事か心配になって部屋の外に抜け出し電話を取ると、次男が今日は非番なので遅ればせながら父の日のお祝いをしてあげると、自宅に帰って来たようです。「何時に何処で待ち合わせるか」というのです。久しぶりに寿司でも食べようと相談がまとまりました。妻は追い討ちをかけるように、「お父さん、帰ったら驚くよ。一生君がお父さんに椅子のプレゼントをするのだといって、お父さんの書斎で椅子を組み立てている。持つべきものは子どもだねえ」と感心して電話を切りました。

(立派な椅子が入り、まるでオフィスのようになった私の書斎)

 やがて妻と次男は待ち合わせのお寿司屋さんへやって来ました。「今日は僕のおごりなので大船に乗ったつもりで沢山食べて」と金もないのに太っ腹なところを示してくれました。私「夏のボーナスが出たのか」、次男「いいやまだだがこれくらいは何とかなる」。妻「おごってもらうと喉を通らないから気にしないで」。私「仕事は慣れたか」、次男「大分ね」、私「そうか頑張れよ」。次男「うん頑張る」・・・・・・・・。そういいながら親子3人で寿司を食べました。やがて食事も終り息子は自分のマンションへ帰って行きました。私たち夫婦は途中で買い物を済ませ午後8時過ぎにわが家へ帰って来ましたが、まあ凄い立派な椅子です。何年か前、私が希望して長男に買ってもらった巾の広い机にはまるで不揃いの豪華さです。私が在職中に使っていた教育長時代の椅子と座り心地もデザインも殆ど一緒で、一辺に気に入りました。やがて次男から電話が入り「お父さんどう、座り心地は、気に入ってくれた?」、「高かっただろう」「それ程でも」「有難う」、少なめながら息子との会話に子育ての嬉しさを感じました。

 次男は高校の機械科をを出ると直ぐ、自分で見つけたコンピューターの関連会社に技術者として就職しましたが、思うところあって8年間も勤めた会社を円満退社し、看護師の資格を取るため医療専門学校に5年間も通い、一昨年正看護師の資格を取得し、日赤へ看護師として就職しました。その間高校から続けていた演劇集団イリュージョンに身を置きながら、一度も辞めることなく活動してきた頑張り屋です。三交替の職場なので演劇は断念しましたが、今でも時々手伝いに行っているようです。

 私の書斎のこれまで使っていた椅子はリビングの椅子です。家族が少なくなって空いていたのを使っていましたが、余りにもみすぼらしく感じたのでしょうか、今回のプレゼントになったようです。昨日はいい一日となりました。これからはこの椅子に座ってせいぜいいい仕事をしたいものです。息子よありがとう。

  「凄い椅子 届きびっくり 仰天す まるで社長だ サンデー毎日」

  「肘付きの 椅子に座って 考える 今まで以上に 思考巡りて」

  「この三年 支え続けた 古き椅子 名残惜しいが 退役処分」

  「わが息子 平凡ながらも 親思う 優しき心 妻が育てた」

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shin-1さんの日記

○立つか座るか和服か洋服か、それとも椅子か畳か

 私たち日本人の暮しも随分洋風化したもので、おばあちゃんの代名詞とまでいわれた和服を着たおばあちゃんなど、今では日常生活ですっかり見れなくなりました。先日相次いで行われた親類の結婚式や葬式でさえ、「和服の方が楽だ」と訴える人が随分多く、時代の流れを感じつつ、今に日本から和服が消えてしまうのではないかと思わせるのです。昔の人は好んで和服を着こなしていました。しかし今の若者は余程のことがない限り着ないから帯の締め方も分らず、着ないのではなく「着れない」のです。

 私が町の教育委員会で成人式を担当していた頃、本当にあった笑い話です。ある女性が美容院や親の手助けを得て和服で着飾り、成人式に出席しました。成人式は同級生の集まりで、親しい仲間と飲みに行きましたが、その女性は中学時代に憧れていたプレイボーイからの誘いに乗ってラブホテルへ直行したそうです。和服を脱ぎ捨てて束の間の愛を楽しんだまでは良かったのですが、そのうち着物を着れない事に気付き、ラブホテルにタクシーを呼び、まるで裸同然で家へ帰り親から大目玉を食らったそうで、その話は当分の間村の巷で話題となって、女性は周りから「尻軽女」と随分冷たい目で見られ、戯言の度に引き合いに出され笑いものにされました。和服を着れない悲劇が生んだ笑い話です。それ以来根強い人気があった和服の成人式が私の町では和服自粛に統一され、県下でも珍しい洋服成人式が最近まで続いたのは何とも皮肉な話しです。

 私たちの暮しも随分洋風化しました。私たちが家を新築した三十年前は、ご飯を机と椅子で食べることに随分親子で議論を交わしました。親父達夫婦は畳がいいといい、私たち若夫婦は机と椅子を主張し、若者の意見が勝ったのです。その親も4~5年後隠居の台所へ机と椅子を持ち込んだのですから、あの激論は何だったの?と妻が笑って述懐するのです。最近親類が集まった葬儀や法事なども、高齢化を反映して畳に座布団といった風潮は完全に払拭されて、足腰膝の不調を訴える伯父叔母などは、マイ椅子を持ち込むほどの用意周到さなのです。

 さて立つか座るかというのはトイレの話題です。私はまだ足腰が丈夫ですから、他所の家に行って洋式トイレに座ることに抵抗感がありますが、最近はこれも高齢化の結果でしょうかウォシュレット付きの洋式便器が主流を占めるようになってきました。最近は田舎の宿屋もウォシュレットの洋式便器があるかどうか、申し込みの段階で聞く人が増えたそうなのです。そしてフェミニズムを反映して男性の便器不要論まで飛び出し始めました。男は立ち小便、女は座り小便と昔から決まっているように思うのですがフェミニストたちは、この風習こそ差別だと息巻いています。「女性の社会的・政治的・法律的・性的な自己決定権を主張し、男性が支配的な文明と社会を批判し、それを変革しようとする思想や運動」をフェミニズムというのですが、男も座って小便をする子どもが密かに増えていることを聞いて唖然としました。確かに観光地などの男性の便器はおこぼしやタバコの吸殻で汚れ美観を損ねていますが、男性の既得権だと思っていた小便器まで否定されると、さすがの男性たちも声を上げるに違いないと思わず笑ってしまいました。

 立つか座るか、自律していない男性にはまたまた厄介なお話のようです。

  「小便を 座ってしろと 諭す親 便器汚すが 理由らしいが?」

  「フェミニズム ここまで要求 するのかと 呆れチャックを 閉めるの忘れ」

  「そういえば 昔婆さん 尻まくり 立ちションするの 見たよな記憶」

  「そのうちに チンチン不用 言うかも知れぬ 男女同権 ここまで来れば」



 

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shin-1さんの日記

○くちなしの花

 「♭今では指輪も回るほど 痩せてやつれた~♯」と渡哲也さんが歌って大ヒットした、「くちなしの花」がわが家の庭に咲き始めました。昨晩からわが町では雨の近づきを予感させるような南風がかなり強く吹き、その風に乗って何か芳しい匂いが書斎の窓越しに匂ってきました。毎年の繰り返しなので「ああ、くちなしの花の匂いだ」ととっさに思いました。早速書斎の窓を開けて外へ出てみると、少し盛りを過ぎたくちなしの白い花が無数に咲いているのです。でも鼻の周りには無数の蕾がついていて、これから当分は楽しめそうなのですが、残念ながら雨に打たれてその役目を果たせないのかもしれません。

 ポツポツ降り出した雨もまだ大したこともないので、急いで書斎へ入ってカメラを持ち出し雨に塗れる前のくちなしの花の姿を写真に収めました。そっと顔と鼻を花に近づけ寄せると、何ともいえぬ甘い香りが漂ってきました。早速一輪指し用に鋏で一枝切り取り、小さめのコップに水を入れ挿しましたが、部屋中が何ともいえない香りで、これこそ天然の芳香なのです。

 最近は色々な芳香剤が開発され、特に臭いのするトイレなどに入ると、臭い臭いや汚いイメージを払拭するように芳香剤の香りが香ってくるのです。でもやはり天然の香りには勝てないようで、ここ2~3日はいい香を部屋の中でも楽しめそうです。

 私の記憶をたどればこのくちなしの花はもう10年も前、私が役場に勤めていた頃、島根県大根島のおばさんに貰ったものです。毎年春先になるとまるで春の使者のように、おばさんたちは竹篭で作った背負子にボタンや花木の苗木を背負って売りに来ていました。越中富山の薬売りのように毎年来るため顔馴染みとなったおばさんは、私が盆栽や花木に興味があるのを知って、色々な商品を格安で分けてくれました。「このボタンを買ってくれたら、このくちなしをサービスします」という口車に乗ってボタンの花を買いました。そのボタンの花はあえなく枯れましたが、どういう訳かサービス品のくちなしだけが生き残り、こうして大きくなったのです。ちなみにこのおばさんの紹介で島根県の出雲へ講演に行ったこともあり、はて「あのおばさんは今頃何処でどうしているのやら」と、人なつっこいおばさんの顔を思い出しながら一輪挿しに挿したくちなしの花を眺めながら朝食を取りました。

 妻にそのおばさんの話しをしてやると、「思い入れのある花だから大事にしないといけないね」と同調してくれましたが、「くちなしの花なのに口数の多いおばさんだった」と親父ギャグをいって、「寒い~」と一蹴されました。

 このくちなしは花を愛でるほかにもうひとつ役割があるのです。花が終わるとその花柄の下が膨らんで染料を貯えるのです。このくちなしの実は栗を炊いたりカキモチ、それに沢庵の黄色い色をつけるのによく使うのです。秋の頃になるとこの実を摘んで糸に通して陰干しし保管しておくと何かと便利なのです。食用の色は安全性が何よりも優先するので、くちなしの実は妻の大切な宝物になるのです。

 くちなしの甘い香りに乗って虫たちもやって来ます。特にくちなしの柔らかい葉っぱは青虫の大好物なので、放っておいたら一夜のうちに食べつくされてしまいます。食用のため消毒ができないので目と手で丁寧に取り除くしかできません。早速今朝3匹見つけて駆除しました。危ない危ない。

  「この歌を 知ってようでは 古い人 俺もそろそろ 賞味期限か」

  「くちなしは 花を愛でつつ 実も重宝 今年もこれで 沢庵漬ける」

  「くちなしの 花に心を 動かしぬ 少しゆとりの 日々が戻りて」

  「この匂い トイレの臭いと よく似てる 味も素っ気も ないよな話」

 

 

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