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○ほたる保存会長の河野喜由さんが亡くなりました

 私の友人である河野喜由さんが亡くなりました。68歳の少し早い人生を区切った旅立ちに衝撃を受けています。河野さんが亡くなったという第一報は、年輪塾大番頭の米湊さんから出張先の八幡浜へ携帯電話でした。わが耳を疑うようなニュースに驚きましたが、「詳しいことは後ほど」という米湊さんの電話を受けながら、私の従兄の夫である豊岡強さんも亡くなっていて、通夜も葬儀も同じ時間だと困惑を隠せませんでした。こんな場合は身内の葬儀が優先するので、夕方身内の通夜に列席しました。最近は通夜も冠婚葬祭センターですることが多く、月心会館港南で通夜を済ませて、帰りに河野さん宅へ向かいました。この夜は河野さんの死を悼むように河野さん宅へ着いたころには雨がポツリポツリと、まるで涙雨のように降ってきました。

 河野さん宅には既に身内や友人が沢山詰め掛けていて通夜の真っ最中でしたが、一通りのあいさつを済ませ遺体と対面をさせてもらいました。奥さんの照子さんも時折涙で顔を濡らしながら気丈にも笑いながら思い出話をしてくれました。

 河野さんと私の出会いはかなり昔で、実家の跡を継ぐために就職先の愛知県から奥さんとともに実家にUターンした時からです。その頃私は町の中央公民館主事をしていて、河野さんの住んでいる三島自治公民館は夫婦学級などの学習活動が盛んで、私も月に一度程度その場にお邪魔していましたが、河野さんも奥さんもどこかと階の匂いのする異文化を持っていて、何かと気が合い何かと話し込んだものでした。河野さんは帰郷後生命保険会社へ就職し、詳しいことは分らないものの会社の所長などを経て定年退職後は奥さんと農業をやりながらのんびりと充実した暮らしをしていました。

 請われて地元のほたる保存会の会長に就任してから急速に私との縁が深くなり、何かにつけてまちづくりについて大いに語り合ったものでした。河野さんは一昨年双海町も分科会場として参加した地域づくり団体交流全国大会の分科会実行委員長として事務局を担当した米湊さんとともに、実行委員会にも欠かさず参加をしていただきました。私が全国の実行委員長をしていたこともあって、まるで親衛隊のように付かず離れず名サポーターぶりを発揮してくれたのです。


 穏やかながらしっかりとした理念や理論を述べる、翠小学校を中心としたグリーンツーリズムの中心人物的存在として、これからもリーダーシップを期待していましたが残念でなりません。

 河野さんとはこの2年間、伊予商業協同組合理事長徳本さんとともに、私がお世話している限界集落の勉強会

にも殆ど欠かすことなく参加して、楽しいおしゃべりをしていました。

 最近は健康診断で引っかかって入院するなど体調の変化もあったようですが、年末に風邪を引き少し体調を崩されたことが引き金で、あっという間の天国へ召されてしまいました。年末に丸山町長さんの葬儀で出会ったのが最後となってしまいました。

 退職後も都会暮らしのダンディーさは変わらず、田舎暮らしの私などは酔わせるような河野さんのカラオケの歌声に、何度感心したことでしょう。偶然にも聖浄苑で豊岡さんと同じ時間の待ち時間だったため、葬儀には出席できませんでしたが、奥さんの照子さんやご遺族ともあいさつを交わすことができました。

 年末年始は葬儀が多くこの二日間は通夜や葬儀のまるで梯子のような忙しいくも悲しい二日間でした。河野さんと豊岡さんのご冥福を心からお祈りします。


  「枕辺で そんなに急いで 何処へ行く 心で語り 涙流しぬ」

  「Uターン したころ彼の ダンディーな 姿見ながら 憧れました」

  「通夜葬儀 まるで梯子の 忙しさ 悲しみながら 二日過ごしぬ」

  「惜しまれる 人は早いと 俺に言う じゃあ俺要らぬ 人なのかしら?」

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○お墓でカメラを壊す大失態

 「お父さん、お墓にまでカメラを持って行くのは止めて」と、妻に笑いながら忠告されたものの持参した罰が当ってしまいました。妻の実家のお墓を掃除して、古いシキビを墓地内にある焼却場まで運ぼうとして背をかがめた瞬間、ポケットに入れていたデジカメが地上のコンクリートに落下しました。慌てて手を助ましたが、その手までコンクリートに激突してしまい、人差し指の根元から少し血がにじむほどこすりました。手は自然治癒力で治るのですが、カメラはバッテリーとチップを入れる片隅が少し変形して開かなくなってしまいました。妻の忠告を聞くべきだったと悔やみましたが全て後の祭りでした。

 カメラは落とした衝撃で写らなくなりなっていましたが、少しいじくっていると回復したものの、扉は開かないままなのです。自宅に帰ってマイナスドライバーの小さなのを取り出し何とか蓋を開けましたが、窮屈でいよいよこのカメラも請われたかも知れないのです。

 妻は笑いながら「お父さん、年末に自分の貯金箱を郵便局へ持って行って開封したデジカメ貯金があるでしょう。それで買い変えたら」と、早くもバリアーを張ってきました。確かに郵便ポスト型の貯金箱を開封して貯めたお金がかなりあるので資金面では心配しないのですが、自らの不注意でせっかく息子が買ってくれたカメラを壊したことが悔しいのです。今朝はそのことが気になって朝早く目が覚めました。外は昨日の好天とは打って変わって冬特有の突風がもがり笛のように音を立てて吹く大荒れの天気のようです。

 早速親父が仕事場にしている倉庫に行ってペンチを取り出して書斎へ持ち込み、カメラの曲がった部分を修正してみました。多少へこみはできましたが、何とか修復することができました。当分は使えそうなので、その間に機種を選んで購入しようと思っていますが、今回も息子に相談して買おうと思っています。


 ブログを毎日飽きもせず書いている私にとって、今やデジカメは、日々の暮らしになくてはならない大事な持ち物となりました。持ち歩き過ぎて時々カメラを忘れる小知った芋繰り返して人様に迷惑をかけてきましたが、カメラが記憶した写真の数々はブログもさることながら、私の最近の生き方を記録する上で貴重な存在となっているのです。道端の草花を見ても一枚、孫の成長も一枚、人間牧場の様子も一枚と、枚数を重ねてきました。初心者ゆえ上手くゆかなかったパソコンへの取り込みや活用も、失敗を繰り返すことによって何とか下手ながら上手く使いこなしています。

 写真に撮るという行為は私の心の目を開かせることにもなりました。今まで気づかなかった出来事や季節の移ろいをファインダーを通して感じ取り、それらの写真に文字文章を加えることで私の平凡な暮らしも、少しは生き生きと輝いているのです。


 人は覚えるために忘れる動物かも知れません。日々の暮らしの中で覚えている何気ないことも、明日になったら「はて?」と思い出せないくらい忘れてしまいます。このことはしっかり覚えておこうと自分に言い聞かせても全てを覚えていることは不可能なのです。記録をしておくことで記憶をよみがえらせることができるのですが、記録なしで記憶することが不可能な年齢になると、まさに記録は記憶です。これからも記録による記憶をしっかりと行いたいと、壊れかけたカメラに感謝しました。

 

  「妻注意 聞かずに罰が 当たったか カメラ壊れて ペンチで修理」

  「デジカメは 今や私の 宝もの 肌身離さず お守りのよう」

  「お墓など 写真撮る人 いないわよ 妻に諭され それでもパチリ」

  「記録する ゆえに記憶と して残る もう歳だから それしか記憶」

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○仏様のお正月

 私の住んでいる双海町では、仏様のお正月とでもいうのでしょうか、正月三が日が明けた1月4日に、短冊に切った餅や小みかん、干し柿などを持って親類縁者のお墓を参り、線香を手向けてねんごろにお祈りをする風習があります。毎年行われる風習なのでまず自分の家のお墓に参ってから、決めている順番に沿ってお参りをしました。昨日の朝は今年一番の冷え込みでしたが冬としては珍しい風のない穏やかな日だったため、墓地では多くの知人友人に出会い、正月のあいさつを交わしながら回りました。

 わが家のお墓は家から約1キロ程度の近くにあります。親父がこまめに毎週お墓参りや掃除をしているので、お墓は綺麗に片付いていました。私たちの出発が少し遅れたため、既にどな鷹は分りませんがわが家の墓地にも線香やお供え物が置かれていました。私も死んだらこの墓地へ入るのかと思うと不思議な気持ちがしますが、私は不信心なため正月、春彼岸前後、お盆前後、秋彼岸前後、正月前の年8回くらいしかお墓にお参りしないので、大きな顔は出来ないのです。

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(わが家のお墓)

 上灘を終わって下灘の墓地へ向かいました。墓地は三か所とも離れているのですが、いずれも海を見下ろす高台にあって、墓地から眺める下灘の漁港や伊予灘の海が一望できて絶景の場所にあるのです。私が昭和19年に生まれた眼下に見える下灘下浜の地も、海や海岸が手の届くところにありましたが、漁港整備の一環として漁民団地などが立ち並び、様子は一変しているのです。墓地に通じる道々沿いには冬の訪れを告げる自生の水仙が満開で、馥郁とした香りを漂わせていました。

 合わせると約10ヶ所のお墓を回り終え、妻の実家の墓地がある八幡浜まで車で走りました。別名夕やけこやけラインと呼ばれる海岸国道378号も穏やかで、沿道には冬に咲く珍しい赤いアロエの花が咲いていました。

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(下灘の豊田漁港と咲き誇る水仙の花)
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(珍しいアロエの花)

 妻の実家の墓地は大宝寺という菩提寺のすぐ裏にあります。八幡浜の湾が一望できるここも双海町に負けず劣らぬ眺望が開けていて、いつ来てもいい眺めだと感心しながらお墓に通じる急な石段を上って行きました。
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(妻の実家のお墓)
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(九州に向かう船が出入りする八幡浜湾)
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(菩提寺である大宝寺)


 墓地に散らばった落ち葉などを掃除して、持参したシキビを活け水をたっぷり入れて線香を手向けひと通りの墓参りを終えました。ちょうど正午だったこともあり、日本一のみかんどころだけあって、正午の時を告げるチャイムは「みかんの花咲く丘」のメロディーが長閑に流れ、私も下手糞ながらメロディーに合わせ大きな声で歌いました。遠望の彼方には耕して天に至ると形容される段々畑が山の頂まで続いて、まさに絵になる光景です。

 八幡浜湾は宇和海に面していて黒潮が流れ込むため、瀬戸内海に面した私たちの町とはどこか違う気候風土を肌で感じながら、帰りは夜昼峠を通って帰りました。妻と結婚する前にはこのトンネルは未開通でしたが、妻は嫁いでくる時開通間もないこのトンネルを、花嫁衣装で、小柳ルミ子の瀬戸の花嫁の歌が流行った時期でもあったので、感慨深く通ったそうです。あれから30数年が経ちました。ある意味このトンネルは私たち夫婦にとって思い出のトンネルでもあるのです。


  「三が日 明けてお墓の 梯子参り どの家々も お墓は立派」

  「懐かしき 墓地より望む 出生地 昔の姿 跡形もなく」

  「ふるさとは 遠くにありて 思うもの たまに見るから 思いも新た」

  「この墓に いずれは入る わが身かな はかなき命 思えばはかなく」

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○アド・ホクラシー(特別な目的を持った集団)

10年以上も前のことなのではっきりとは覚えていませんが、アルビン・トフラーという未来学者が「未来の衝撃」という一冊の本を出しました。当時は「第三の波」という言葉が流行していた時代でした。田舎の役場に勤めていた私は、がんじがらめに縛られた年功序列のピラミッド型組織の上下関係にある意味癖々していましたから、食い入るように読んだものです。発展途上な私の頭にはやたらと横文字の出てくるトフラーの本はやや難解過ぎましたが、それでも明治維新の志士たちが外国の書物を読んだような新鮮な気持ちで何度も読み返したものでした。上士と下士という宿命とも思える身分組織に癖々していた、坂本龍馬の時代と重ね合わせながら、「煙仲間」や「21世紀えひめニューフロンティアグループ」というアド・ホクラシーを立ち上げ、組織の中で果たせなかった夢を次々に実現してきました。

 多分この本に出会わなかったら、「煙仲間」や「21世紀えひめニューフロンティアグループ」の立ち上げもなかったし、無人島に挑む少年のつどいや丸木舟瀬戸内海航海、竪穴式住居製作など次々と新しい企画を生み出し、実行することもなかったのだろうと思うのです。

 私のアド・ホクラシーはその後30人委員会、青年会議、エプロン会議などへとシフトし、夕日によるまちづくりに進んで行きましたが、凡人の私がよくぞここまでと自分でも驚くほど過去の生き方は、今までの生き方を否定するものでした。自分という人間が町の仕事の分業の一部を担当しているに過ぎないと思ったり、自分がヒエラルヒー(ピラミッド組織)の命令系統に組み込まれていると思ったり、一部担当や命令形とは永久的に自分を支配すると思っていた心を根本的に覆すものでした。

 私はひょっとしたら、組織の中では生きて行けない人間かも知れません。一時的な組織を作っても、その役目が終わると自分を否定しながら組織を解体して、新しいプロジェクトを組織して新しい仕事に取り組むからです。

フロンティア塾40回や無人島20年などと、常に目標を定めて区切りをつけ、目標に到達するといとも簡単にそれを壊してしまうのも、アド・ホクラシーかも知れないのです。

 私は今、人間牧場を場とした年輪塾という新しいアド・ホクラシーを構築しつつあります。この3年間ほどでやっとその方向なるものが見えてきましたが、この指止まれのこの集団もある意味アド・ホクラシーなのです。年輪塾には子ども塾と大人塾が必要と考えています。特に少子化で子どもたちがかつてのような、子ども会を組織して地域で自立する子どもを育てることが難しい時代になると、昔々の寺子屋のような子ども塾で、生きる力を身につけさせなければならないと考えています。

 これからは組織なき組織とでもいうべき人間牧場で、アド・ホクラシー運動を起して行きたいと思っています。

  「何年か 前に一冊 読みし本 アド・ホクラシー 分らぬままに」

  「三が日 明けて今日から 世の中は 平常戻り 私そのまま」

  「義理張りを せずに生きてく 心地よさ 組織はどうも 窮屈過ぎる」

  「上もなく 下ない世界 これ自由 へつらうことなく 生きる幸せ」  

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○未来を生きるためのギヤチェンジ

 箱根駅伝を見たり、年賀状を見たり、帰省している孫と遊んだり、ブログを朝夕書いたりと、目的を持って何する訳でもない正月三ヶ日があっという間に過ぎ去りました。年末の慌ただしさに比べたら、正月のゆったりとした時の流れはまさに至福の時のようで、久しぶりにゆっくりとした正月を過ごすことができました。

 世の中の動きを反映するように、昨日は正月をふるさとで過ごした人々の帰省ラッシュで、リフレッシュというよりは正月疲れをしょい込んで、今日からいよいよ新しい年の仕事が始まるようですが、多分今週は時差ボケのような気持ちが続き、新年会なども重なって、日本列島全体が少しタガの緩んだ桶のような雰囲気ではないかと思われます。

 昨日は同級生のお母さんが年末に亡くなり、葬儀があって出かけました。こちらは田舎なので田舎に住む同級生たちの親が亡くなったら仲間がお悔やみに出かける風習があるのです。前日二日に他の同級生からその旨の連絡が入りました。ここ4~5年は流行りとでもいうのでしょうか、葬儀を自宅でする家庭がめっきり減って、葬儀場のないわが町では、合併して同じ市内になったものの、わざわざ峠を越えて隣の街まで行かなければならないのです。ゆえに車に乗れない人たちは葬式に参列しようと思っても、誰かに足を借りねばできないので諦めるしかないのです。長年付き合った同年代の高齢者にとって一番来て欲しい友人が来れない葬儀はどこか寂しい気もしますが、やはりこれも時の流れなのでしょうが、最近は通夜も49日の法要も全て葬儀場で行うため、そうした願いはかき消されてしまっているようです。


 葬式はある意味知人友人の消息や近況を目の当たりにする絶好の機会でもあります。同じ町内に住みながら最近は同級生との出会いもめっきり減ってしまいました。昨日は喪主である同級生を含めると10人近くが集まりました。私と同じ年齢の同級生は既にリタイアした人や、自営業や農業をしていますが、出会いのあいさつもそこそこに、近況を話し合いました。その話の殆どは健康のこと、家族のこと、最近の出来事など他愛のない話で、国家国政を論じるような同級生は残念ながらいませんでした。

 同級生たちもいつの間にか頭に白髪や禿が目立ち、どこか初老の風格が漂っていました。65歳の年齢がそうするのでしょうか、何することもなく過ごしている人も何人かいるようです。私の行動は何かと町内では聞き及んでいるようで、口々に「お前が羨ましい」といってくれました。また自分が思っているだけかも知れませんが、確かに私は他の人に比べたらまだまだ元気で、若さを保っているのではないかと思いました。

 同級生の中には大病を患って、多少手足が不自由になっている人もいました。年金の満額出る年齢になっているのでさすがに最近は年金の話は出ませんでしたが、将来への不安を誰もが抱えて暮らしているようで、正直夢も希望も語れないような雰囲気に少々落胆しました。過去を振り返り「あの頃が懐かしい」と、まるで貸しボートに乗って自分の進んできた道を振り返るだけの人生では、生きている意味がないのです。

 60歳、あるいは65歳という年齢でギヤチェンジしそこなった人は、もう夢や希望を持って生きて行けないようです。幸い私は60歳でギヤチェンジに成功しました。そして65歳になった今、再び新しいこれからの生き方を目指してギヤチェンジしようとしています。多分上手くいくと自分自身の生き方を信じて新しい年を迎えた今日この頃です。


  「葬式に 久方出会う 同級生 夢も希望も 語れぬ人も」

  「六十や 六十五歳の 節々に ギャチェンジして 逞し生きる」

  「足腰が 痛いとまるで 高齢者 同級なのに 俺は元気だ」

  「強がりを 言ってもやはり 同級生 人から見れば 同じ鏡か」 

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○親父のたわ言に付き合って

 「今年の冬は寒い」と今年92歳を迎えた親父が言います。確かに今年の冬は寒く、これまで余り寒さを感じないため薄着だった私も、ズボンの下にパッチを履き、家で過ごす時はウインドブレーカーのズボンまで履いて、戸外へ出る時は妻に勧められたマフラーまでする始末です。親父の言うようにやはり歳をとったら暑さ寒さが体に堪えるのかも知れません。

 親父は隠居暮らしをしていますが、数年前大工さんにお願いして居間に掘りごたつを構えました。昔の掘りごたつは炭火を入れるのですが、親父は電気ごたつの温熱器を改造して、今風の掘りごたつにして重宝しているのです。手先の器用な親父ならではのなせる技に感心しながら、今朝も親父の隠居で色々な話をしました。


 歳をとると悩みが深いようで、自分の余命のこと、死んだ後のわが家の将来のことなどが気になるらしく、色々な話を断片的に話しました。親父の目下の心配は「今」を生きることのようです。足や腰や脛の不調を時々訴えるようになり、その都度病院へ通っていますが、一向に回復の兆しが見られず、このまま寝たきりになったらどうしようという話しでした。何処で聞いたのか、「いずれ同級生のように自分も特老にでも行かなければならないかも知れない」と思っているようです。先日妹にその話をしたそうですが、妹から「じいちゃん、特老に行ったら殆どの人が認知症なので、話相手がいないよ」といわれたそうです。

 年寄りにとって気がかりは自分の健康もさることながら、話し相手がいないという寂しさかもしれません。ふと気がつくと、わが家だって普段の日中は妻も仕事で家を空け、私も所用で殆どいません。ゆえに話相手もなく、自宅や菜園で一人寂しく暮らしているのです。

 私は昨年10月誕生日を迎え65歳となって高齢者の仲間入りを果たしました。間もなく迫りくる老いの苦しみを味合わなければならないのですから、他人事と思わず親父の苦しみを少しでも取り除いてやるような事を考えて生きようと思っています。まず手始めに親父と過ごす時間を出来るだけ頻繁に長く持とうと思っています。幸い親父と私は趣味も一緒で話もよく合うのです。これまで親子というのはどちらかというと反感反目することが多かったのですが、少しだけだけ妥協しあいながら親父を第一義に考えたいと思うようになったのは、やはり歳のせいでしょうか。

 老いは嫌だと言っても誰にもやって来ます。また死という恐怖も付きまとうのです。枚挙にいとまがないほど最近は葬儀の機会も増えて、黒い礼服にカビが生える暇などなくて、今日も新年早々12時から同級生のお母さんの葬儀があるため列席する予定です。

 名が伊予で短い人生をしみじみ考えながら、今年もいい一年でありたいと思っています。


  「歳をとる 今日や明日が 気になって 何処かもやもや どこか不安に」

  「足腰や 膝が痛いと 言う親父 今朝も背中に サロンパス貼る」

  「気休めに なるかも知れぬ 聞き役に 回る私は 孝行息子」

  「気がつけば 同じ道行く 親子かな やがて私も こんな姿に」

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○しめ飾りと長男教育

 年末の大安吉日という縁起のいい日をカレンダーの中から選び、親父は近所の農家から貰った藁を5束そぐり(稲の葉っぱの部分をはかまといいそれを抜き取り芯だけにする作業)、しめ縄づくりの準備をしてくれました。その6日後の大安の日、私は例年わが家の恒例となっているしめ縄づくりを行いました。オタマジャクシといわれるオタマジャクシに似た小さなしめ飾りを15個、その中型を1個(隠居の玄関用)、簾のようなしめ飾りを1個(本宅の玄関用)、エビというしめ飾りを1個(神棚用)それぞれ作りました。

 私が小学生の頃のわが家は、親父が鯛網の漁師をしていたため、船霊様という漁や海の安全を司る神様を絶対的なものとして信じていました。ゆえに昔は船に穢れがついてはいけないと、民俗学的に言う風習や習慣にのっとって様々な家庭的行事が行われていました。ゆえに漁師を継ぐ長男にはそれらを伝授されつつ育ったのです。ゆえに中学生になったころにはしめ縄づくりは親父に教わらなくても充分独り立ちして立派にできたのです。

 その名残でしょうか、以来高校生で宇和島水産高校へ遊学した3年間を除けばほぼ毎年、65歳の今日までしめ縄づくりを一人で行ってきました。最近はどの家庭でも生活習慣が変わって、しめ飾りをどこかのスーパーで買って飾るようになってきましたが、日本人の神仏に対する曖昧さが露呈して、「何のために」という意味付けも、「人がするから」とか、「去年もやったから」くらいのものが多いようです。

 「じゃああなたは何のために」といわれたら、私だって「小さいころからやっているから」とか、「親父がうらさいから」くらいが先に立って、しめ飾りを飾る意味など余り理解していないので、人のことをとやかく言うことは出来ないのです。でもしめ飾りを玄関に張って悪、魔や悪い霊が家の中に入らないようにするくらいの知識は分っていて、自分の家の玄関を新年早々しめ縄で飾り、穢れなく出来たと信じることができるのですから、まあ気休めにはなるのです。今年は年末ぎりぎりに叔父がなくなり、はてさてどうしたものかと思案していましたが、せっかく作ったしめ飾りを流すのは失礼とばかり、ウラジロやダイダイ、それに五采を半紙にくるんだものを水引で結び、本格的なしめ飾りを飾ることができたのです。

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(本宅の玄関を飾ったスダレ風のしめ飾り)
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(隠居の玄関を飾った中太なしめ飾り)
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(海舟館の玄関に飾った小型のしめ飾り)

 神棚にエビ型のしめ飾りを飾った他は、海舟館に飾ったものと同じオタマジャクシ型のしめ飾りを、仏様、鏡餅、水神様、荒神様、トイレ、風呂などに飾り、自転車や車などの乗り物にも飾りました。これがわが家流の正月しめ飾りなのです。

 わが子が小さい頃は男の子どもを集めて伝授手ほどきをしたものですが、残念ながら一人前になるほどの手ほどきができず、このようなわが家の風習も私一代で終わりになるかも知れないのですが、息子はまだ37歳なので間に合うかもしれないと思い今年も狙っていましたが、仕事が忙しいとか何だかんだと言い訳をして、やはり今年も私が作り私が飾ってしまいました。

 日本の伝統はこうして廃れてゆくのかと思うと少々残念ですが、これもやはり時の流れと諦めるべきでしょうか、少々心が痛む正月でした。でも今年の正月は長男夫婦とこれからのことについて、コタツで暖をとりながらじっくり話をすることができました。息子夫婦は長男が間もなく保育園に入園する歳を迎えます。その時期を見計らって同居を決意してくれているようです。私は自分の長男が生まれた時、長男だけは私と同じように親と同居をさせようと、ある意味長男教育をやってきました。その効果が表れて息子夫婦もその気になっているようです。今年一年で家を二世代住宅に改造してその準備をしなければならないと思っています。私の35年間の長男教育の結果が生んだ朗報に少し安堵をしながら新年を迎えました。今年はいい年になりそうです。

  「今年また 自分作りし しめ飾り 飾りて気分 一新正月」

  「この技を 息子伝える すべもなし 何処か寂しく しめ飾り見る」

  「金出せば 買えるものだが この手にて 作るからこそ 神に守られ」

  「この歳で 俺も古風な 人間に なったものだと 自分納得」

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○孫奏心がハイハイが出来るようになりました

 4人目の孫奏心が親に連れられ3人目の孫希心とともにわが家へ帰って来ました。年が明けたので昨年になりますが5月19日に生まれた奏心はその後の育ちも順調で、母乳に加え離乳食も沢山食べて丸々と太っています。年末に風邪を引いて200グラム減ったそうですが、それでも体重や身長も平均をはるかに上回る健康優良児です。

 この孫奏心は帰省に合わせたかのように、大晦日の日にハイハイが前に進むようになったそうです。寝返りも後ろ下がりのハイハイも順調でしたが、ここにきてやっと真似ぬ進むようになったのだそうです。おもちゃにつられてそこら辺を這いまわるのですが、これがまるでネジをかけたおもちゃの人形のようで、みんなが面白がって盛んに拍手をしてやるものですから嬉しくなって一生懸命ハイハイをしていました。

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 「這えば立てば歩めの親ごころ」とはよく言ったもので、寝返り、ハイハイとくれば次は歩くことを期待するのです。孫の成長は雨後のタケノコと同じで、しばらく見ないと目を見張るような成長を遂げています。二歳四ヶ月になった兄希心は相変わらずなやんちゃぶりで、弟奏心に目が向く周りの視線を意識して早くも弟とのバトルが始まっているようです。それでも兄ぶって弟を可愛がる側面も持っていて二人を見ていると、お爺馬鹿とでもいえるような目の細め方をしている自分がついつい可笑しく見えるのです。


 孫たちは新聞広告が大好きです。年末年始のため新聞にはかなりな量の新聞折り込みチラシが入っていますが、それをクシャクシャにして、部屋のそこら中がチラシでいっぱいになるのです。大人から見れば汚い光景も孫たちにとっては楽しい遊びの空間なのです。

 日ごろは娘の子どもが一緒にやって来ておもちゃの取り合い喧嘩が起るのですが、この年末年始は競争当てもなくおもちゃを専有できるのでおもちゃでも楽しく遊んでいるようです。

 孫奏心は疲れると抱っこをせがみます。滅多に孫を抱けないのでその都度抱いてやりますが、約10キロの体重は長く抱くと腰に来て、少々疲れます。でもこれも爺の役得と思い、職月休みの短い期間なので、思いきりいい目をさせてもらっています。


  「七ヶ月 育ってやっと ハイハイが まるでネジかけ 人形のよう」

  「孫を抱く お乳の匂い いいもんだ 目じりを下げた お爺幸せ」

  「二人目は スポット機会 少なくて 少々不満 ハイハイ初日」

  「親一心 子ども希心に 奏心と 三心家族 自賛の名前」






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○今年も年賀状が届きました

 正月元旦は田舎ゆえ、色々な正月行事があって一日があっという間に過ぎ去りました。年末に叔父の不幸があったため、初詣には行きませんでしたが、それでもわが家が本家のため親類縁者が次々に新年のあいさつに来て、その度に賑やかに談笑しました。長男息子家族が帰省しているためわが家は大賑わいです。看護師の次男と警察官の三男も帰り、長女家族が娘婿の実家である大阪へ里帰りした以外は、久しぶりに全員が揃い、いつもは空き部屋が目立つ二階の部屋部屋にも灯りやストーブが灯り、大家族の暖かさを実感しました。

 家族が集まると私のような何もしない人間は楽しいのですが、妻は正月休みどころではありません。元旦の朝の雑煮は風習に従って私が作るものの、その後片付けや昼・夕食は妻の役割で、加えてこれだけの人間の寝具やストーブを数日前から用意しなければならないのです。それでも親は子どもや孫の帰省を喜びながら準備や世話をするのです。

 昨日は朝10時ころわが家に二束の年賀状の束が届きました。リタイアしているわが身なのですが今年も昨年に負けず劣らず相変わらず多く、孫がいるので書斎に持ち込んでざっと届いた近況を読みました。年賀状も最近はパソコンで宛名を書いているものが多くなりました。それでも少しだけ近況をしたためているものもあり、読み応えがありました。中には自分の名前を書くのを忘れていたり、年賀状のプリントが逆だったり、また同じ人から2枚もいただいたり、明らかにプリンターの盲点とも思える失敗作があって、思わず笑ってしまうものもありました。

 年賀状の中には相手に届かずしぶしぶ帰って来た迷い年賀状もあって、相手の近況の変化を気遣ったり、こちらの確認ミスを恥じたりしました。出していないのに届いた年賀状は今日あたりゆっくり見返して処理をしなければならないようです。

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 年賀状の中には随分少なくなりましたが、親父に来た年賀状、息子たちに来た年賀状もありました。息子たちが私の年賀状の中からそれぞれの年賀状を選び出し、それぞれごとにゴムバンドで止める作業をしてくれました。今年92歳を迎える親父にも親類縁者を中心に30枚ほどの年賀状が来ていました。隠居へ持って行ってやりましたが、親父の名前が進、私の名前が進一と紛らわしいため、親父の名前でも私宛のものもあったため、親父は30枚の中から3枚もその年賀状を選んで、「自分に来たものではない?」と持ってきてくれました。

 最近は殆どなりましたが、町内には「わかまつしんいち」と読める若松新一(わかまつしんかず)という従兄弟がいて、私のが相手に、相手のが私に間違って配達されることがあるのです。年末にも宅配便で間違って相手に届いたとわざわざ持ってきてくれました。私に届くはずのものが従兄弟に届くものが圧倒的に多いため、相手に迷惑をかけることもしばしばで、困惑しながらも自分と同じ読み方もできる紛らわしい名前をつけた叔母を多少恨んでいるところです。


  「年賀状 一枚一枚 捲りつつ 相手の顔や 思い出巡る」

  「こんなにも 私を思う 人がいる 思い返せば 嬉しくなりて」

  「年賀状 一目瞭然 写真入り ほのぼの家族 遠い昔を」

  「書いたのに 宛先届かぬ 迷い文 相手気遣う 正月元旦」

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○スポーツ報知22面全面に載る

 年末の28日、スポーツ報知から新聞が送られてきました。スポーツ新聞は飛行機に搭乗するか近所の散髪屋さんで見る程度で、日ごろは余り馴染みの少ない新聞なので、「おや?」と思った程度でした。そういえば年末に大阪から取材に来たなあと思う程度でした。12月22日(水)付の新聞をめくると最後の前のページ全面に双海シーサイド公園のことが詳しく紹介されていました。

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 私が先日亡くなった当時の町長さんと一緒になり、夕日のメッカとしてシーサイド公園を造ったことは知る人ぞ知る話ですが、私もシーサイド公園の運営から遠ざかって久しいので取材を辞退したのですが、「市役所で詳しいきさつは分らないので当時の話を若松さんに聞いてください」と紹介されたそうです。仕方がないと思いシーサイド公園で約1時間余り取材対応をさせてもらいました。

 「新聞記者、見てきたようなことを書く」とはよく言ったもので、私が喋った話をまあそれなりに上手くまとめて書いていましたが、その記事がいつ出るのかも分らずすっかり忘れていたのです。この新聞の取材にやってきた記者は旧瀬戸町足成出身だそうで、いつか新聞で取り上げたいと思っていたそうです。


 この新聞がどれホロの効果があるのかは知る由もありません。しかし23日のクリスマス行事に沢山の人が訪れたことも見ると、いささかなりとも新聞の効果があったものと思われます。世の中の流れが新聞やテレビといったマスコミからインターネット情報にすっかり変わってしまいましたが、まあ悪いことならいざ知らず、こうしてマスコミが取り上げてくれることには感謝しなければならないのです。

若松進一ブログ

 普通日刊新聞などは取材した記者から、何度もうるさいくらい問い合わせの電話確認があるものですが、今回の取材に限っては、余程優秀な記者なのでしょうか、一度も問い合わせはありませんでした。

 それでも年末に「この新聞を読みました」という問い合わせの連絡が2~3件あり、1月の初旬にわざわざ大阪から訪ねてくる人がいるようです。好奇心旺盛な人がいるものです。そんなこんなでまた今年も忙しい一年になりそうです。


  「新聞を 見たと連絡 二・三件 左隅下 目敏く見つけ」

  「年が明け さあ今年も 忙しく なるぞふんどし 締め直しして」

  「新聞は 記録に残る ゆえ大事 デジタル処理し セピアを避ける」

  「気がつくと 私はガイドの 役割を 果たしていたと 今に気がつく」


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