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〇綺麗な宿り花

 8月8日に立秋が過ぎ、お盆のころになった今朝辺りは、2~3日前に降った雨の影響でしょうか、暑さも幾分やわらいだ感じがして、何となく秋の気配を感じています。そろそろ庭木の手入れも本格的にしなければと、親父亡き後を憂いていますが、親父の死のショックが余にも大き過ぎて、49日の法要が済むまでは手につかないというのが正直なところです。それでも大きな剪定用のハサミを使って、折に触れ少しずつ始めています。

名も知らないジャスミンに似た美しい花
名も知らないジャスミンに似た美しい花

 昨日の朝妻が、「お父さん、ツツジの木の上に咲いている花は綺麗だけれど何という花?」と尋ねられました。よく見ると車庫横のツツジにまるでカズラのように絡みついたつるに、まるでジャスミンのような小花が無数に咲いていました。私のような浅学な知識の人間に、この花の名前を聞かれても、「分らない」としか答えられませんでした。家の裏で蜜蜂を飼っている私としては、蜜源である花の少ないこの時期は、たとえ雑草花でも、貴重なので、暫くの間はこのまま取らずに置いておこうと思っています。

 それにしても宿り木ならぬ宿り花が、こんな時期にこんなにいっぱい咲くなんて、凄いことだとただただ感心しています。私たちはいつの間にか、朝顔やアジサイ、ツツジ等、花を見るのが目的で植えた花は大切に育てますが、ホタルブクロやアザミ等名もないような野の花は楽しまれることもなく、雑草と一緒に草刈機で刈り取られてしまうのです。これも人間が生きていく上で仕方のないことかも知れませんが、野の花の美しさにも少し目を向けて見たいと思いました。今朝家庭菜園で朝露に濡れた、キューリの黄色い花やナスの紫の花を見つけました。野菜の花もまた美しいものです。

  「つつじの木 覆ったつるに 無数花 宿り花とでも 言うのでしょうか」

  「蜜蜂は こんな小さな 花でさえ 見つけ蜜源 一生懸命」

  「何の花? 聞かれたけれど 分らない 名もなき花も 綺麗と誉める」

  「キューリ・ナス 果菜の花も それぞれに 露を含んで 美しく咲く」

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〇町民会館の解体工事始まる

 旧双海町という自治体は過疎地域に指定されていました。指定されると作成した過疎計画に沿って過疎から脱却するため、過疎債という国の有利な資金恩恵を受けて、様々な施設や設備を整備できたのです。町ではさらに農林省の定住促進などの補助を得て農林漁業者トレーニングセンターや基幹集落センターなどを建設し、多くの町民が利用してきましたが、ここに来てこれらの諸施設設備が幾分くたびれて、耐震基準に適合しなくなったのです。

解体中の基幹集落センター
解体中の基幹集落センター

 

教育長室はここにありました
教育長室はここにありました

長年町民に愛され利用されてきた基幹集落センターもその一つで、最近はその後の計画もないまま使用禁止になっていましたが、跡地を駐車場にする案がまとまり、このほど解体工事が始まりました。足場が組まれ囲いで囲われた通称町民会館は、私にとって思い出の多い施設でした。特に双海町最後の教育長として勤務したのはこの施設でした。正面玄関の入口にある一部屋を教育長室としてあてがわれ、35年間勤めた双海町役場職員としての最後の2年間を過ごしたのです。

 この町民会館は各種会合の他、町が推進する結婚改善運動でも大いに使われました。私はこれまでに驚くなかれ537組もの結婚披露宴の司会をしていますが、その殆どはこの2階大ホールでした。多くの若者がこの会場で結婚式を挙げ、人生のスタートを切ったのです。外から遠目でしか見えない2階大ホール内を窓越しに見ると、華やいだかつての思い出が鮮やかに蘇って来ました。間もなく施設の解体は終わり新地になることでしょうが、この施設での思い出は私の脳裏から一生離れることはないでしょう。

 私は冷房が嫌いでした。ゆえに教育長2年間だけでしたが、自分だけの時は一度も冷房をかけることなく、毎日大きな窓をいっぱい開けて、外の風を取り込んで過ごしました。窓辺に置いた手づくりの竹の赤トンボが風に揺れ、まるで生きているように見えました。窓を開けているので通りすがりの人がよく声をかけてくれたものです。人間牧場で開いている私塾年輪塾の塾頭をしてくれている清水さんと、初めて出会って経済談義に花を咲かせたのもここ、小番頭の松本さんや中尾さんと一緒に仕事をしたのもここでした。懐かしい。懐かしい。ああ懐かしい。

  「耐震に 適合しない レッテルを 張られ建物 取り壊わされて」

  「あの部屋で 結婚披露 司会した 指折り数える 数の多さよ」

  「あの部屋で 最後の仕事 したっけな 思い出彼方 夢のまた夢」

  「この写真 もう二度と 撮れないと 思うと何故か 胸がつまりて」

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〇BE-PAL9月号で下灘駅紹介

 かつて私が下灘駅のプラットホームを使って夕焼けコンサートをやったころのJR下灘駅は、フーテンの寅さんシリーズ「殿様と寅次郎」という映画の舞台になって、そこそこ知られてはいたものの、山周り内山線の開業で予讃本線の座を奪われて特急も走らなくなり、構内は列車が対向する線路があったものの取り払われ、線路を外した枕木だけが残った淋しい雰囲気で、並行路線ゆえ廃線も時間の問題とささやかれていました。

 img740 img741「弱者の足といわれる海岸周りを残したい」、そんな思いから駅のプラットホームを使った奇抜と思える夕焼けコンサートを思いつき、大方の反対を押し切ってやったコンサートが意外な方向へと発展し、隠し味だった夕日も有名になり線路も残ったのですから、これほど嬉しいことはないのです。最近は「夕日ビールトロッコ列車」や「伊予灘ものがたり」という観光列車まで走って、何かと話題の多い駅になったのは、今年30周年を迎える夕焼けコンサートは勿論のこと、多くの人の熱い思いに他ならないのです。

 昨日息子が愛読しているBE-PALという雑誌の中から、絶景!各駅停車の旅という特集記事で下灘駅が紹介されているのを見つけました。下灘駅は今や何もないことを売りに、知る人ぞ知る人気スポットに成長していますが、この記事は下灘駅だけでなく周辺の見所や味処も紹介していました。私のような年高齢な人間には文字が小さ過ぎて多少読むのに難点がありますが、リポーター女性が紀行文風に面白くまとめていました。今日にでも天気が回復したらヒマワリの咲く下灘駅へ出かけてみようと思っています。

  「あのころは 廃線間近と ささやかれ 何の変哲 なき駅だった」

  「コンサート 駅を救った 救世主 みんなの汗と 知恵の結晶」

  「全国版 雑誌やテレビ しょっちゅうで 今や抜群 人気度高い」

  「キャンペーン ポスター何度 出ただろう 旅先で見た 感動忘れじ」

 

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〇夏、あれやこれや

 天地を焦がすような猛暑が続き、そろそろ一雨欲しいと思いつつ家庭菜園のナスと里芋に、薮蚊やブトに悩まされながら、潅水を始めて一週間が経ちました。その願いが天に通じたのか、今日はウォーキングから帰った朝6時過ぎから雨が降り出し始めました。4日前の夕立以来のお湿りで、今日は潅水をする必要もなく、少しのんびりとした朝を

仲間がfacebookにアップした夕焼けビールトロッコ列車の盛り上がり
仲間がfacebookにアップした夕焼けビールトロッコ列車の盛り上がり

迎えています。

一昨日わが家から見えた綺麗な夕日
一昨日わが家から見えた綺麗な夕日

 上天気が続いた昨日までは、毎日のように綺麗な夕日がわが家からも見え、連日デジカメで写真を取り続けています。ありふれ感のある夕日の写真をブログ記事やfacebookにアップしても、誰も振り向いてくれないだろうと思い、パソコンにフォトストックしていますが、8月10日に双海の仲間が貸切で運行した、夕焼けビール列車の記事や写真が載る度に、案内を受けながら乗れなかった残念さが胸を過ぎり、次回は必ずと思いを新たにして、ストックした夕日の写真を見直しています。

 4日前の8月8日は立秋でした。暦の上では秋が始まり、あいさつ状も「暑中見舞い」から「残暑見舞い」へと言葉を変えなければならず、朝夜が明けるのが遅くなり、夕暮れも少し早くなって「秋来ぬと目にはさやかに見えねども~」の感じがしています。妻の兄の奥さん、つまり私にとっては義姉にあたる身内が、四国ガンセンターで子宮胎ガンという少し重い病気で入院していて、昨日はその手術日でした。私は午後から講演予定が入っているので、とりあえず朝7時に家を出て、四国ガンセンターへ8時30分に着き、病室で9時からの手術をする義姉の病室へ入りました。

 手術前の重苦しい空気が漂う病室で、義兄や息子と義姉を元気付け、やがて車椅子で手術室へ向う義姉をエレベーターまで見送りました。手術医師の話で手術には5時間~7時間かかるらしく、病室で何をするでもなく雑談しながら待ちました。12時近くになったので私は講演会場へ向かうため、一旦病室を離れました。手術が終わるころに妻も病院に駆けつけ交代する予定でした。講演が終わり自宅へ帰ると孫希心が一人留守番をしていました。孫希心も熱中症で体温が高く、鼻血まで出て最悪でしたが、やがて帰った若嫁が近くの病院へ連れて行き、点滴をしてもらって、少し病状が収まったようでした。

 夜遅く帰った妻に聞けば義姉の手術は7時間以上にも及んだとのこと、夫たる義兄も2度にわたってガンセンターで手術を受けるなど、あれこれと難儀が続いています。親父の終末も重なり妻の疲労困憊ぶりも気になるところです。せめて私だけでも元気で家族に迷惑をかけないようにしなければと、思いを新たにした朝でした。お盆が近づき町中が少しざわつき始めました。明日は迎え火を焚いて先祖を迎えなければなりません。今朝も妻はお料具膳と重ね団子を作り、仏壇に供え般若心経を唱えています。

  「乗りたいと 思っていたが トロッコに 乗ることできず 少し消沈」

  「天地焼く ほどの太陽 今日はなく 雨シトシトと 畑を濡らす」

  「ガン手術 する義姉病院 朝早く 出かけて見舞い 頑張れ激励」

  「あれやこれ 気揉めすること 多過ぎて 妻の疲労も 極限のよう」 

 

 

 

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〇夏の暑さに弱い日本人

 セミの声が賑やかです。梅雨の時期が比較的涼しかっただけに、連日続いている猛暑日や熱帯夜で、毎日嫌というほど大汗をかき、このままだと汗疹ができそうな雲行きです。気象庁は連日高温注意報を出して、熱中症に注意するよう呼びかけていますが、それでも暑さに弱い現代人は、連日救急出動の救急車に乗って病院に運ばれ、死者や意識不明者まで出ているようです。

 先月親父が亡くなったので、熱中症の気遣いはしなくてもすむようになりましたが、気がつけば私も70歳の高齢者なので、他人事ではなく時折暑い畑で仕事をするので、妻からは「暑いから止めて」とか、「水分を十分に取るように」とか言われていますが、現代人はいつ頃からこんなに暑さに弱くなったのでしょう?。考えられる原因は冷暖房に頼る日々の暮らし方のようです。

 私はもうリタイアをしているので、冷房の効いた部屋で仕事をすることはありませんが、たまに講演や会議などで冷房の効いた部屋で過ごすと、寒過ぎて風邪を引いてしまうのです。ゆえに上着を携帯していますが、「何でこんなに冷やさなければならないのか?」と時々首を傾げたくなります。私は冷房嫌いの貧乏性なので、家で冷房は殆ど使いません。息子たちの部屋は時々使っているようです。

 冷房は余り身体には良くないようです。冷房に馴れた暮らしをしていると、外の熱射を想像以上にきつく感じるのは当たり前で、時には熱中症で命を落すことだってあるのですから要注意です。「夏は暑いもの」と原点に立ち返って考え、暑さに強い丈夫な体づくりに日ごろから取り組めば、冷房病にもならなくてすむのです。私のような人間を「やせ我慢」とか「屁理屈言い」というのでしょうが、人はどうであれ「健康は自分が自分に贈る最高のプレゼントである」ことを肝に銘じ、残り少なくなった2015年の暑い夏を、せいぜい大汗をかいて楽しみたいと思っています。

  「冷房も 使わず過ごす やせ我慢 大汗かくが これが自然だ」

  「現代人 冷房馴れて 暑さには 滅法弱く 熱中症なる」

  「冷房が 日本人を 弱くする 戦争よりも 病気が怖い」

  「健康は 自分に贈る プレゼント サプリメントも 助けてくれず」 

 

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〇家庭菜園の潅水始める

 このところお天気が続き、家庭菜園の野菜類が水不足で少し元気がなくなり始めました。一度水をやり始めると水を貰うものと勘違いして、自助努力をしなくなり、かえって寿命を縮める結果になるので、ギリギリまで待とうと思っていましたが、ついに痺れを切らして昨日の夕方からとりあえずナスと里芋に水をかけ始めました。

井戸水を野菜に潅水
井戸水を野菜に潅水

 わが家は裏山から流れ出る清水と、親父が井戸の水をポンプアップして菜園に配水できるようにしてくれていて、2本立ての水脈があるので、日常的には清水を利用していますが、ここに来るとさすがに水を汲んでジョロで野菜にかけるのは「焼け石に水」って感じがするので、井戸水を使って野菜の頭から水をかけ始めました。

 今朝ウォーキングを終えて畑を見回りましたが、昨晩水を沢山やったナスも里芋もどこか元気を回復しているように見えました。天気予報だと今週の木曜日か金曜日に少し雨が期待できそうなので、とりあえずそれまでは潅水をしたいと思っていますが、潅水を始める夕暮れ時になると、薮蚊やブトが出てきて身体にまとわりつき、どここことなく刺されるので、用心をしなければなりません。

 水は人間をはじめ生命体にとって命です。野菜は地中の水分を根が吸って成育し、葉を茂らせて花や実をつけます。私たちは野菜の根、葉っぱ、花、実など、それぞれの特徴に応じた部位を食べ、それらを栄養源として生きていますが、夏野菜は身体を冷やし、冬野菜は身体を温めるという特徴を持っていると聞きます。スイカを食べると体が涼しくなるのもそのためです。もう少しの間夏野菜のご厄介になり、体温を下げて欲しいと願い、今日も晩方には潅水をしたいと思っています。

  「猛暑日が 続いて菜園 元気なく そろそろ水を かけてやりたい」

  「水遣りの 癖がついたら 自助努力 しなくなるから ギリギリ待って」

  「夏野菜 食べると体 冷えてくる 自然の摂理 上手くできてる」

  「わが家では 清水と井戸を 併用し 野菜育てる 知恵を親父が」

 

 

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〇巷の話題

 地元の漁師を転職してから35年間、職業が地元の役場勤めだったため、町内の話題はその日、晩くても2~3日のうちに自分の耳元へ届いていました。また取るに足らない噂話も月に1回出かける散髪屋や行きつけの呑み屋で疲労ことができていました。10年前現職を退職してからもまちづくりのお手伝いをしたり、道の駅へ時々顔を覗かせるものですから、昔ほどではないにしても大まかな話は耳元に届くし、妻が近くの歯科医院で働いていることもあって、お目出度お悔みの類もそれなりに知っているつもりです。

 一昨日自宅の家庭菜園で収獲したナスを発泡スチロールの箱に入れて、シーサイド公園のじゃこ天の店で働く人たちに持って行ってあげました。おばちゃんたちは大層喜んで、お礼につみれをいただき世間話に話が弾みました。聞けば岡田さんという漁師さんが2~3日前ネットローラーに巻き込まれる大きな事故があったとのことでした。岡田さんは漁業後継者の時代から活発に活動をしているよく知った間柄ですが、一人で漁に出ていて事故に遭ったものの、僚船が異変に気付き助け出して松山の救急病院へ運び一命を取りとめたようです。命があっただけでも奇跡だと不幸中の幸いを話していました。

 上灘漁協ではこれまでにも同じような事故に何人も遭い、尊い命をなくしているだけに心が傷み、私も元漁師ということもあって、決して他人事とは思えないのです。人は絶えず危険と隣り合わせで生きています。何の危険もなく安全という柵の中で生きているような私でも、一昨日は草刈り作業の最中に蜂に襲われ、顔が変形するほど腫れたりもしました。幸い大事には至りませんでしたが、あることない事のないことや根も葉もない噂話は別にして、これからも町の話題を、積極的に人の輪の中には入って、知る努力をしたいと思います。遠い情報はネットで瞬時に入ってきますが、得てして近い情報は遠いものだとしみじみ思いました。

  「遠いこと 知ってはいるが 近いこと 意外と知らず これが世の中」

  「漁船にて 漁師ローラーに 巻き込まれ 幸い命 落さずすんで」

  「世の中は 傍に危険が いっぱいだ 他人事とは 思えぬ毎日」

  「この歳に なると噂も 蚊帳の外 知らないことが 多過ぎますね」 

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〇私はスイカで生きている

 夏は私の大好きなスイカのシーズンです。妻は体の都合で酒の呑めなくなった私のために、この時期になるとスイカの名産地の一つである双海町東峰の妻の親友赤尾さん宅まで出向き、山スイカを沢山買ってきて、朝な夕な食べさせてくれるのです。私もその熱意に感謝しながら、昨年から自宅の家庭菜園で小玉スイカを作り始めました。昨年は初めてのことだったので作り方が分らず少し苦労しましたが、それでもそれなりのスイカができて楽しみました。

食卓二出された美味しいスイカ
食卓二出された美味しいスイカ

 

収穫したスイカ
収穫したスイカ

今年は昨年の経験を活かし満を持して望みましたが、植えて間もない頃やまぜという南西の突風が吹き、折角植えたスイカの苗が吹き飛ばされ駄目になってしまいました。それでも諦めきれずに敷き藁を敷いて大事に育てたところ驚異的に回復してツルを伸ばし、3本の苗に40個もスイカの実をつけました。ハクビシンに食われないよう周囲や天井に網を張り、テレビで見た地下足袋を吊るすおまじない?もやったところ、近所のおじさんのスイカ畑はハクビシンの被害に遭ったのに、わが家は無傷のまま収獲を向かえたのです。

 7月25日から収獲し始め、毎日のように2個ずつ収獲して朝昼晩の食後のデザートとして食べていますが、味も色も抜群で美味しくいただいています。妻が「お父さんは夏はスイカで生きているようなものだ」といわれるほどで、食べ過ぎを心配するほどです。スイカは利尿作用があって体の熱を冷ましてくれるので、熱中症が気になる猛暑日の続く日々には、最適の野菜なのです。昨日はそろそろつるが枯れてきて熱射で味が落ちそうなので、思い切って全てのスイカを収穫し、倉庫の涼しい場所へ置きました。これも来年のためのテストです。昨日収獲したスイカが保存できるのであれば、少なくともお盆までは嬉しいスイカ三昧の日々が続くようです。有難や有難やです。

  「菜園で 好物スイカ 昨年に 続き作付け 成果抜群」

  「毎日の ようにスイカを 食べている 三昧な日々 お盆ころまで」

  「来年は もっと上手に 作ろうと 思いも新た シナリオ描く」

  「40個 スイカの一つ ハーロウィン 孫にも夢を お裾分けする」

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〇中学生の新聞取材

 最近新聞の内容が少し変ったような気がするのは私の思い違いでしょうか?。テレビが出現するまでニュースは新聞一辺倒でした。ところが最近はパソコンやスマホといったデジタル情報に押され、新聞は活字離れ、テレビは視聴離れとなり、特に若い人たちの新聞やテレビ離れは顕著で、新聞さえデジタルで配信される有様です。このままでは新聞の未来はないと、マスコミも危機感を募らせて、子どもや若い世代に新聞に親しんでもらうよう色々な工夫を凝らしているのです。

 学校の教材に新聞を活用したり、新聞作りを体験させているようですが、先日わが家へも地元双海中学校の生徒4人が、先生と愛媛新聞社の記者を伴って取材にやって来ました。聞けば愛媛新聞の紙面を使って10月に伊予市を紹介する大掛かりな特集を組むようです。そのコーナーに「キーパーソン」というのがあって、子どもたちが相談した結果どうやら私が選ばれたようでした。中学生の豆記者4人はいずれも女子生徒で、4人とも小学生の頃から人間牧場で開いている「ふるさと体験塾の」に参加していて、今もジュニアリーダーとして活躍してくれている者ばかりでした。

 自宅の横の東屋で取材に応じましたが、インタビューをする子、写真を撮る子、メモを取る子などしっかりと役割分担ができていて、こちらがハッとするような質問を沢山してくれました。若いころから新聞やテレビには嫌というほど出ていますが、さすがにこの歳になると少し気恥ずかしい気もします。はてさて57歳も離れた初老の私をどのように中学生は料理するのか、その出来栄えがとても楽しみです。ついでに海の資料館や私設公民館煙会所を見学して帰って行きました。お土産に私の取った蜂蜜の小瓶を差し上げました。

  「豆記者が 4人もわが家 やって来て 新聞取材 楽しいひと時」

  「子どもらは 最近新聞 テレビなど 余り見ないで スマホに夢中」

  「新聞の 未来はないと 危機感を 持っているよう 対応ありあり」

  「子どもの目 老いた私は どう映る インタビューに 楽しく応じ」

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〇どこか懐かしい四万十市への小さな旅(その2)

 PTA主催の講演会は、新築間もない素敵な中村小学校の2階で行なわれました。この部屋は冷房が効いていて、約80人ほどの参加者にピッタリの中会議室といったところです。午後7時から「逞しい子どもを育てるために」というテーマで90分間目いっぱいお話をさせてもらいました。四万十市といえば昨年日本で一番暑い温度を記録したことでも知られていますが、昨日は冷房のお蔭で快適で、寝る人もなく私の話に熱心に耳を傾けてくれました。

DSCN0528 講演会が終ると、かつて頻繁に行き来をしていた旧友の和田さん、篠田さん、乾校長さんが集まって、西土佐出身の人が経営している笑竹という居酒屋で私の歓迎会を開いてくれました。和田さんと乾さんは今年一杯で定年らしく、篠田さんは農林関係の課長として活躍されているようで、昔の懐かしい話から現在の近況、今後の身の振り方などを楽しく話しました。年齢的には一歩も二歩も先を行く私ですが、「これからの生き方がこれまでを決める」という逆転の発想についても体験を語りました。

 テーブルの上には今が旬の鮎の塩焼きや、四万十の天然ウナギの蒲焼、それにカツオのたたき、メジカ(ソウダガツオ)の味噌和えなど、美味しいものばかりでした。私は酒が呑めないので残念でしたが、呑むほどに酔うほどにボルテージは高くなるばかりでした。今回も日帰りの小さな旅だったので、10時30分にお暇して帰路に着きましたが、口屋内の民宿せん母に約束の鮎を貰いに立ち寄ったものの、11時を過ぎてもご主人は火振り漁から帰らず、遅くなるので後ろ髪を引かれる思いでお暇をしました。

 片道150キロ、往復300キロは日帰りにしては少し遠い距離です。松野~三間~大洲~長浜を経由し日付の変った今日の午前1時前に無事わが家へたどり着きました。和田さんとは西土佐村役場時代から手紙を交換したり、一緒に私の講演会に同行したりした親しい友人です。篠田さんは中村市で開かれ結婚披露宴の司会をしたご縁で今も時々お米をいただくなど交遊が続いています。乾さんは若いころ派遣社会教育主事として3年間派遣された折知り合い社会教育で今もご縁をつないでいます。3人三様懐かしく、かけがえのない人たちです。

 また行き帰り立ち寄った民宿せん舟の3人も私にとっては若いころ結婚披露宴の司会をするなど思い出に残る人たちです。11月には幡多農業高校へ講演に出かける予定が組まれていて、民宿の美空ちゃんの通っている高校だけに今から楽しみです。昨日は講演会でアドリブながら木になるカバンの忍ばせているハーモニカを取り出し、ペギー葉山のかつての大ヒット曲「南国土佐を後にして」という歌謡曲を、下手糞ながら臆目もなく披露してし、大きな大きな拍手をいただきました。これも忘れられない小さな四万十の旅の思い出です。皆さんありがとうございました。

  「若いころ ご縁いただき 今もなお 忘れることなく お座敷お声」

  「結婚の 披露宴では 高知まで わざわざ出かけ 司会数組」

  「県民歌 南国土佐を 後にして 下手糞ながら ハーモニカ吹く」

  「四万十は どこか懐かし 味がする 狭いカーブを 思い出しつつ」 

 

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