shin-1さんの日記

○旅先の思い出

 「項目を起しましたが、今日は書かず明日整理をして紹介します」。こう書いたのは初日の宿泊場所となった茨城県水戸市の駅前通りにあるみまつホテルのロビーに置かれている利用無料のパソコンを利用してでした。普通は旅先へパソコンなど持参しないため、ブログは書けないのですが、最近はありがたい事にインターネットが楽しめるようにしているホテルがあって嬉しい限りです。この日も食事が終わった出発間際の慌しい中で、項目予約を入れました。こうしておくと帰ってからその日が留守でも後で記事の編集が出来るのですから有り難いことです。しかしそのことが原因でホテルの部屋をチャックもせずに慌しく出てしまったため、デジカメを忘れるというハプニングを起し、同行した松本研究員にその手配やタクシーで届けたカメラを、受け取るなど大変迷惑をかけてしまいました。ただでさえ忘れることの多い年代になったのですから、もっと自分の事をしっかりせねばならないと、肝に銘じた次第です。

 この日の会場は茨城県立県民文化センターです。市内バスで向いましたがそんなに遠くはなくあっという間に着いてしまいました。午前中はポスターセッションとワークショップがあるため、それぞれ決められた役割にそって働きました。私はポスターセッションで愛媛の宣伝をする役目だったので、やって来る人たちに愛媛をしっかりとPRしました。ポスターセッションは分科会を開催している町や団体がその活動を紹介するもので、次年度開催をPRするのは愛媛だけとあって、興味を示した方々と名刺を交換し、深い話をしました。途中この大会の主催者である地域づくり団体全国協議会長である岡崎昌之先生なども見えられ楽しいおしゃべりに花が咲きました。


 受付では愛媛から持ち込んだ500本のオレンジ100パーセントジュースがえらい人気で、これは正直大ヒットでした。


 開会式には橋本茨城県知事も見えられ挨拶がありました。またトークセッションも常磐大学の吉永先生のコミカルな司会がうけて、いい流れで全体会が行われました。最後の締めは時期開催権である愛媛県に10分間の時間が与えられ、愛媛県のメンバー全員が壇上に立ち、私がハーモニカを使って挨拶、その後実行委員会事務局が作ったスライドショーで15の分科会を説明し、来年度に望みをつないだのです。ステージへの感触は相当良かったと自負しています。
 
その後、17の分科会に別れ、バスに乗って分科会場まで大移動です。私はひたちなか市で開かれる「こどものためのまちづくり」分科会に参加しました。ホテル白亜紀までは全体会場から30分程度の所にあって、海の直ぐ側の絶好の場所でした。

 16:00~17:00  活動報告 「こどものためのまちづくり」

 18:00~19:00  歓迎セレモニー

              ・伝統文化日本舞踊子ども教室

              ・東石川小学校陣太鼓

              ・平磯中学校郷土芸能クラブ民謡民舞



 19:00~21:00  夜なべ談議

明くる日は

  8:30~9:00   バス移動

  9:00~9:30   歓迎挨拶

  9:30~10:15  子どものためのまちづくりの在り方講義


 10:15~11:15  ワークショップ 遊びの体験

 11:30~12:30  昼食

 午後          エクスカーション


このようなプログラムが組まれ多くの事を学びました。県外から参加した人は18人、県内参加や地元参加の方々との交流を期待していただけに期待はずれもありましたが、主催したボランティア団体茨城遊びのサポーターの方々の献身的なお世話や茨城大学教育学部の学生さんたちも参加して新しいスタイルの地域づくりの在り方を学んだような気がしました。

 帰りの飛行機の時刻もあってエクスカーションへの参加は出来ませんでしたが、勝田駅から水戸駅に出て、愛媛のメンバーと合流し、水戸駅の黄門様に送られて、名残惜しくも茨城を後にしました。

  

  「少子化と 言われて久し 日本だが 子どものために 一肌脱ごか」

  「ひょっとして この分科会 最先端 子どもをテーマ 当っているかも」

  「若者と 言葉を交わす 面白い 学生相手が 役に立ちます」

  「来年は 必ず行くと 握手して 互いに違う 行き先列車」


[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○長旅から帰りました

 2泊3日の、しかも日頃縁遠い東京以北の茨城県水戸市から無事帰って来ました。私のように日頃から旅慣れている者でも今回のような長旅はさすがに疲れた気分になるのですから、同行した51名の参加者は、20分余り遅延した飛行機が小雨そぼ降る松山空港に着いて降り立った時は、さすがに「疲れた」という雰囲気でした。それは多分、飛行機を降りた後県内に散らばって自分のふるさとを目指さなければならない、旅の先の旅がまだ残っているからかも知れないのです。そんな事を思うと宇和島周辺や今治しまなみ海道周辺へ帰る人たち、また佐田岬半島へ帰る人などは、急いで帰らないと今日中には帰れないような距離の人もいるのです。その点私などは遠いといっても中予だし、夜だと飛行場から30分あまりでわが家へ帰れるのですから有り難いことなのです。

 水戸周辺は天気も良く東京も曇っていたものの経つ時は雨は降っていませんでした。出発ロビーの旅先天気だと、札幌は欠航、岡山空港や広島空港は雪で出発見合わせなどの場内アナウンスがあって、少し心配しましたが、松山の天気が傘模様だったので、飛行場まで迎えに来てくれる予定の妻の事を心配しながら飛行機に乗り込みました。上空の気圧が低気圧の影響で不安定とかで飛行機も幾分揺れましたが、思ったほどのことはありませんでした。

 松山やわが町は迎えに来た妻の話によると昼頃から雨だったようです。夜、しかも降雨のこともあって飛行場で車の運転を妻と交代をしました。三崎の塩崎さん、伊予市の松本さんを同乗して途中で降ろし、無事わが家へ帰りましたが、やはりわが家は落ち着きます。

(太平洋の水平線から昇った朝日)

 今朝は分科会で訪れていた太平洋に面したひたちなか市の海岸から、自慢の朝日を見ようと5時半に起床して海が一望できる展望風呂に向いました。周囲は暗かったのですが6時半ころになるとホテル白亜紀の外が黎明になりはじめ、いよいよ機運が高まり始まりました。夕日の町を自認する私ですから、当然朝日が見えると地元の人が自慢しているのですから、見ない訳にはゆかないのです。しかし残念ながら雲が出て水平線から上がる夕日を見ることは出来ませんでした。

(酒列磯前神社の入り口)

(神社までの境内はヤブ椿の見事なトンネルでした)

(酒列磯前神社の本殿)

 身支度を整え少し厚着をしてホテルの側にある酒列磯前神社へ散歩に行きました。ここも地元の人が自慢するだけあって立派な神社でした。特に参道に両脇から覆いかぶさるように茂るやぶ椿のトンネルは圧巻で、他に類を見ないような立派さでした。新築された立派な本殿にお参りして引き返し、ホテルの反対側にある灯台を見ながら海岸に下りました。ここら一帯は白亜紀の馳走が露出しているそうで、海岸にも奇岩が荒々しく露出して見応えがありました。

(水戸城跡の道端に茂る天然記念物のシイの木の大木)
(水戸光圀が心血を注いで完成した大日本史編さん地の記念碑が中学校の校門の隅にありました)
(弘道館に通じる緩やかな太鼓橋)

(弘道館の入り口)

(弘道館の正面玄関)



(弘道館の内部)

(弘道館の見事な庭園)
(水戸城址に向かって上がる道沿いにあったイチョウの古木)
 

 庭に植えられた梅の木も立派で、さぞかし開花の頃は素晴らしいだろうと思いを馳せました。

 テレビで紹介されている水戸黄門はまったく違った人物につくり上げられていますが、水戸城跡をゆっくる歩いて、一人束の間の学びをすることが出来、今日は朝からいい思いをさせてもらいました。

  「やぶ椿 咲きし境内 くぐり抜け 吐く息白く 神に頭を」

  「白亜紀と 名付けたホテル 風呂に入り 彼方目凝らし 朝日出る待つ」

  「黄門の 足跡辿る 束の間に 心洗われ 後ろ髪引く」

  「この朝日 今日はわが町 夕日にて あくる日ここで 再び朝日」

  

帰りの行程のこともあって早めに分科会を切り上げ、スタッフの方に勝田駅まで送ってもらい、水戸まで帰り、塩崎さんたちと合流する調整時間を利用して行きたかった国指定史跡の水戸城跡周辺を散策しました。国指定重要文化財である弘道館へ出かけました。弘道館は水戸藩の藩校で、藩主徳川光圀は藩士の教育のため、藩校の建設を計画したのですが、大日本史編さんのため多忙で果たせなかったそうです。第9代藩主斎昭がその意思を注ぎ天保12年(1840)に開館したそうです。人材育成を目指すのは今も昔を変わらないものだと実感しました。
 建物も庭も立派で、何時間いても飽きないほどの重厚な造りと趣き、それに展示された弘道館を巡る歴史上の人たちの姿にただただ感心するばかりでした。

[ この記事をシェアする ]