shin-1さんの日記

○奥の細道紀行

 関西に住む私たちにとって東北は、いくら新幹線が通って便利になったとはいえ東京から向こうの遠い地域でしかなく、音信も交流も殆どないのが実情です。それでも最近は青森や宮城県仙台、岩手県宮古などからお声がかかって、少しづずつ遠い国が近くなりつつあります。それでも回数は年に何度かでしょうから、今回の岩手県一ノ関への旅も楽しみの一つであったことはいうまでもありません。私が東北に憧れるのは松尾芭蕉の奥の細道とイザベラバードといういイギリス人女性が姉にあてた書簡を基に書かれた「日本奥地紀行」を読んだからです。松尾芭蕉の俳句の幾つかは子どものころから教科書で知っていますが、イザベラバードの本の存在を知ったのは数年前です。地域づくりを志す私にとって、アルカディア(桃源郷)は理想の地域だからです。初老を迎えつつある私にとって東北の四季は魅力だし食文化や祭りも早く見ないと時間がないような焦りもあるのです。

 そんな折、一通のメールが岩手県一ノ関の金森勝利さんから入りました。彼とは何の面識もないのですが、彼に言わせると東京上野にある国立社会教育研修所で私の講演を聞いたというのです。もう何年も前のことなので記憶の片隅にもなかった出来事ですが、彼はこれまで私の存在をしっかりと頭の片隅に置いていたというのです。最近7つの町が合併して新生一関市という人口10万人を超す街が誕生したのを機に、課長さんたちに私を呼びたいと進言し私を招聘する企画が実現したそうです。

 私は一も二もなく了承しました。ただこの10月と11月は日程が滅茶苦茶立て込んでいて、結局は私に合わせる形で28日の予定を組みました。運が好いのか悪いのかその日の前後は日本列島が深い気圧の谷にすっぽり入って、2泊3日は全て雨にたたられました。しかし雨の晩秋東北はまた見方によっては風情があってホテルの一室に閉じこもって、締め切りの近づいた原稿を書くのにはピッタリの一日となりました。

 東京から一ノ関までは上野から東北新幹線で約2時間です。昔は特急でも8時間かかっていたというから信じられないような速さです。私は最近開かれた還暦の同窓会で同級生の友人からハーモニカで「ああ上野駅」という井沢八郎の歌った昔懐かしい歌を弾くよう懇願され何とか吹けた記憶を思い出しながら、上野駅のそこここに「どこかに故郷の便りを乗せて、入る列車の懐かしさ」と口ずさみながら新幹線に乗り込みました。


 かつての蒸気機関車とは似ても似つかぬまるでおもちゃの箱から飛び出したような美しい列車に身をゆだねながら、一路東北を目指しました。車窓の風景に飽きることのない2時間はあっという間に過ぎ去り、少し肌寒いかもしれないと妻が持たせてくれたコートを着込んでプラットホームに降りたのです。

 夕方まで自室で原稿を書きながら窓越しに町並みを眺め夕方まで久しぶりにのんびりした時間を過ごしましたが、6時になって生涯学習課長さんがわざわざ迎えに来ていただき、季節料理の柳橋というこじんまりとしたお店へ案内されました。気配りの出来る女将は急な二階への階段を足元に気を付けるよう一緒に上がってくれましたが、既に若い職員さんが8人も集まっていて、その後は推し量るべき話しに花が咲きました。美味い料理と美味い酒、そして人情は嬉しいもてなしの条件が全て揃い、遠くの町からはるばる駆けつけてくれたであろう、帰りの時間ギリギリまで熱心に話しこんだのです。
?

 若い頃の私がそうであったように、集まった職員さんたちは私のむしろ失敗談に耳を傾け、熱心に話を聞いてくれました。「社会教育は楽しい」と仮説目標を立てれば絶対うまくいくと、日本一の公民館主事を目指して目を輝かせた当時のことを、明日の講演では聞けない裏話として話しました。

 会場となった文化センターはホテルのすぐ裏手でしたので、あくる朝は迎えを断って一人で歩いて行きましたが、センターの前には今を盛りと燃える紅葉が私を温かく迎えてくれました。

 餅のフルコースといわれるような珍しい昼食をご馳走になり、再び元来たコースを後ろ髪引かれる思いで後にしました。

 課長さんはじめまた出会いたい多くの人のご縁をいただきながら・・・・・。

  「一ノ関 目指す細道 ひとり旅 ご縁いただき 再会約して」

  「しとしとと 降る雨濡れる 一ノ関 家並み見ながら 締め切り終われて」

  「 


[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○広島県世羅の町・その②

⑤世羅の町を流れている川は芦田川ですが、何故かこの川は広島県でもワーストを記録する川だそうです。こんな田舎に流れる川が何故汚いのかはあえて聞かなかったので原因は不明です。最近色々な町へ出かけますが、環境問題への関心は高く、海や皮を美しくしようという動きが活発で、既にその成果が報告されています。川は川上と川下の協力なしには美しくなりません。川下が川上の、川上が川下の悪口を言い合っている間は多分川は下水の延長になってしまうでしょう。

 芦田川の土手には沢山の桜が植えられていました。春の頃に見事に咲いた桜の並木を見に行きたいものです。芦田川の両岸に植えられている桜を愛でる手段として、満開の3日間だけでも歩行者天国にして筵やゴザを敷いて花見の宴を催したいものです。

⑥三郎丸のホタルの里の予定地を見学しました。残念ながら川は二方がコンクリートブロックになっていましたが、川には中洲もあって、ホタル保護活動は可能ではないかと思いました。川に架かった橋の名前は何ともロマンチックな夕霧橋だそうです。私の町でも20年間かかってやっと満足のいくホタルが飛び交い、心を一つにしたホタル祭りが開かれるようになったし、環境庁ふるさと生きものの里百選にも選ばれました。自然を相手の運動や活動は今日や明日結果が出ないジレンマがありますが、未来に生きる子どもたちのためにもホタルを復活させて欲しいものです。兼丸さんの炭焼きも芦田川の浄化も基本的にはホタルを飛ばせる運動とリンクするものだという認識を持って欲しいものです。

⑦町内には梨やブドウやリンゴなどの果物をアピールするフルーツロードがあり、いたるところに特産品販売所がありましたが、シーズンオフということで、どこも散閑としていました。想像するに多分これから春先まで世羅町はこれから長い冬篭りの季節になるのでしょうが、冬に人を来させるアイディアが欲しいと思いました。私の町は海抜ゼロメートルの温暖な特長を生かして水仙と菜の花で、冬の何にもない季節に沢山の人が訪れるようにしました。アイディア次第で人を呼び込むことは出来るのです。一工夫が必要でしょう。

⑧せら夢公園に立ち寄りました。何年か前西大田に講演に行った時、役場産業課の馬場さんに案内されてその予定地を見学に行った記憶が甦りました。馬場さんの夢が叶って夢公園は素敵に出来上がっていましたし、馬場さんも役場を退職してワイナリーの施設長になっていました。久しぶりの出会いはとても嬉しく思いましたが、あの当時あった赤松などの自生樹は既になく、ブルで押されて一面が平面化されていました。木陰がない公園はシーズンにやって来た人にとって安らげないのが少し残念でした。人間はどうしてこうも無駄なことをするのでしょう。折角生えていた木々を切ってしまって、また木を植えるために相当なお金をつぎ込みのですから・・・。「ふるさとのこの松切るな竹切るな」は正岡子規の句です。

それでもワインも美味しく出来ていたし、将来が楽しみです。

⑨残念ながらシーズンオフだったため、自慢の花は見ることが出来ませんでしたが、町内の農園ではチューリップやユリなど様々な花を咲かせて観光客を呼び込んでいる姿が町のパンフレットから読み取れました。この町の人たちは梨やブドウなどや花で金儲けは実に上手くやって経済効果を上げています。それは素晴らしいことですが、まちづくりの視点からいうと、自分を囲い込み過ぎてそれぞれが点でしかないのです。点を線で結び面にしていかなければ大きな成果は望めません、点の線化、面化が実はまちづくりなのです。そのことをしっかり考えないと行政や住民の力が得られないことも忘れてはなりません。

⑩最後に日本一の夢吊橋へ行きました。宮崎県綾町のつり橋や徳島県祖谷の吊橋など、今までにも全国いたるところで吊橋を見てきましたが、この橋はどこにもないような吊りロープのない吊り橋でした。珍しい工法でしょが、揺れない橋だけに恐怖感も感じない橋でした。出来たときは話題になったそうですが今は訪れる人もまばらで、山間にひっそりという感じでした。若者向きの物語を作って利用の仕方を考えれば面白い素材です。一休さんのとんちが必要なのかも知れません。

 自治振興協議会の皆さんは中々熱心で、平日にもかかわらず殆どの人が地区めぐりに参加し、ホテルで開いた夜の交流会も多いに盛り上がりました。やはり山間地の人は飲みニュケーションが必要なようです。交流会ですっかり打ち解けて、海に憧れる人だけに私の町とも交流が始まりそうな予感がしました。


 明くる日の講演会はほぼ満員で、甲山の田坂さんもわざわざ手土産を持って駆けつけてくれました。そういえば旧友田中一裕さんも世羅だったと、帰ってから思い出しました。失礼しました。

 それにしても世羅町はいい町です。いい素材があり過ぎて困るほどでした。

  「この町を あなただったら どうすると 言えといわれて 言いたい放題」

  「ワーストと 言われて悲し 芦田川 桜咲いても 川面さびしや」

  「ほたる飛ぶ 夕霧橋の たもとにて 愛をささやく そんなドラマが」

  「こんなにも 集まる講演 嬉しいね ふるさと思う 人の力だ」

[ この記事をシェアする ]