shin-1さんの日記

○一人の人間でこうも変わるものなのか

 「お前がいなかったら双海町の夕日もなかっただろうが、一人の人間で町はこうもが変わるのか」と、町の余りの変貌に戸惑いの言葉をかけられた数年前のことを思い出しました。事実夕日でまちづくりを始めた20年前と今を比較してみると双海町は大きな変貌を遂げました。それは町長さんはじめ多くの人の力でなし得たことで私一人の力ではありませんが、今の変化が悪い変化に変わった時は多分「あいつさえいなかったらこんなことにはならなかった」と批判の矢面に立たされるのは自分であると、覚悟を決めて暮らしている今日この頃です。

 昨日村づくりコンクール表彰式の記念講演に招かれ宮崎県宮崎市を訪れました。会場となる県源ホールが県庁の近くだったものですから、今話題の東国原知事の居城宮崎県庁を訪問しました。先日訪ねた和歌山県庁や愛媛県庁と同じく歴史を感じさせる県庁本館を前に度肝を抜かれたのはまず県庁の設えです。シックな県庁本館は玄関にサボテンや花、それに噴水と、まるでテーマパークのようなのです。そしてひっきりなしに入ってくる観光バスからは胸に観光ツアーのバッチをつけたおじさんやおばさんが下りてきて、盛んにカメラで撮影しているのです。聞けば知事がテレビに出て「どげんかせんといかん」などと流行語をいい、マスコミに登場するものですから、それが社会現象となって、今では県庁はれっきとした観光スポットに変身しているのです。折りしもプロ野球が春のキャンプに入っていて、旅行業者はちゃっかり東国原知事の人気にあやかって県庁とキャンプの二枚看板で宮崎を売りまくっているのだそうです。



 私は時間があるので県庁本館を見学しました。まず本館入口には知事の等身大の人形写真パネルが立てられていました。これはアイディアで知事がいなくてもちゃんとPRできるのです。

 本館は重厚な造りになっていて知事室に通じる階段や廊下、それにドアなどは「県庁」という雰囲気でした。




 「お客さん一枚撮りましょうか」、いきなり観光客に声を掛けられ、恥ずかしながら知事さんとツーショットです。さて「男前はどっちでしょう」。はい知事さんの知名度を考えて私は一歩下がって写真に写りましたので「男前は知事さん」でした



 前県知事が逮捕された不祥事の頃県庁を訪ねましたが、そこ頃の県庁は硬く門を閉ざしているような、火の消えた存在でしかありませんでした。ところがどうでしょう。県庁の横にある物産館はツアーのコースに入っていることもあって連日満員で、私が訪ねたまだ早い午前中の時間になのに沢山の観光客が列をなしていました。

 「今日は平日でお客の数が少ない」と店員さんは言っていましたが、まるで都会のお店のようでした。観光客のお目当ては東国原知事の似顔絵シールが貼ってる焼酎や地鶏の燻製など様々ですが、ここにも知事の顔がブームとして反映されていて、知事さんの似顔絵シールがあるだけで中身は別として売れるのだそうです。

 それにしてもブームとは恐ろしいものです。宮崎の人に聞けば今の段階では知事さんの功績は誰もが認めていますが、「今の宮崎は知事の人気に助けられています。これは地震のようなもので、いずれ人気が下火になると必ず揺り戻しが来るでしょう。それまでに本当の実力をつけないと」と気を引き締めていました。

 県庁に通じる楠木の並木も、県庁の敷地内にある大きなガジュマルの木も、東国原知事の人気に浮かれて誰も見向きもしませんが、私はその木の存在が県庁という景観を形成しているような気がするのです。砂漠に建つ楼閣県庁にならないようくれぐれもご用心あれ。

  「行ってみて 始めて分る 大ブーム 今や県庁 観光スポット」

  「東国原と いう名の知事が いたっけな どぎゃんいわれる 二十年後は」

  「似顔絵を 書いた名刺を 手渡すと 知事に似てると 笑われました」

  「特産品 知事の似顔絵 似つかぬに 便乗儲け 狙ってどれも」

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shin-1さんの日記

○宮崎県の朝日が見たくて

 私の町は日本一夕日が美しい町と自認していますが、西瀬戸の水平線の彼方にしずんだ夕日はどこかの朝日になって昇るのですから不思議です。その不思議さからか夕日に深い思い入れを持っているのに朝日にも憧れているのです。そんな思いもあって、豊後水道から太平洋に面した宮崎県の海から昇る朝日を見てみたいという思いに駆られ、二日前の夜わが家を車で出発しました。車の中で日替わりとなり午前1時20分八幡浜発の臼杵行きフェリーに乗船しました。さすがにこの時間の乗船はトラック便が殆どで、上昇者は僅か3台で、船室はまるで貸切のような状態で散閑としていました。所要時間は2時間20分なのですることもなく横になってうとうとと眠り、気がつけばもう豊後水道を横切って臼杵の港です。この港は本匠村へ行ったり息子の遊学地を訪ねたり、何かとよく使った場所なので、道筋は知っているつもりでしたが、夜のことでもあるのでカーナビに目的地である宮崎県庁を入力し、その支持に沿って走りました。カーナビは山道を越えて国道10号線に入って間もなく山周りのコースを選んいて、驚きつつも10号線を外れて大分県境を越え延岡まで出ました。

 カーラジオは周波数の混乱で電波をうまく拾うことが出来ずガーガーいっていましたが、そのうち左手に太平洋が黎明の中に見えてきて、懐かしい海の香りが漂ってきました。

 さあ今回の旅のお目当てである朝日をどの場所で見ようか、思案しながら走りました。夕日に比べ朝日は一瞬の出来事なのでシャッターチャンスはを逃すと上手くゆきません。途中ランドマークで朝日の美しい場所を示す道路標識を見つけましたが、時間が早く思い切って南下しました。ここが限界と水平線辺りが明るくなったので、海からは距離があるもののルミナスパークと書かれた農業公園へ入り、カメラを構えました。時計を見ると午前7時9分でした。何て美しい日本の夜明けなのでしょう。思わず体内に太陽がくれたパワーのような気力がみなぎるのを覚えました。

 冬枯れの箒を逆さにしたようなケヤキの木の小枝の向こうに朝日が昇りました。感動的な一瞬です。眠い目を擦りながら走った甲斐がありました。私の下手糞なカメラ技術でもこの2枚の写真はいいアングルな出来栄えだと自分で自分を褒めたいと思いました。

 道路沿いに設置されたデジタル温度計は外気温0度と示していました。カーラジオから流れるニュースによるとこの冬一番の冷え込みらしく各地で強風が吹き荒れ積雪も増えているとのことでした。宮崎は東に九州山脈を背負っているため晴れの日が多く、今日もラッキーだったと思いました。

 しばし幽玄の世界を堪能した私は、さらに気を引き締め直して国道10号線を南下し、宮崎市内へと入りまたが、早朝なので海岸線へ迂回してそこら辺をドライブしました。何処までも続く松並木の中にシーガイアやホテル、植物園など近代的な建物が所々に立っていて、自然にマッチしていました。経営難がささやかれた施設の運営はその後どうなっているのか気がかりなことも去来しましたが、どこも早朝のことなので入口はチェーンロックされて一般人の侵入を拒んでいました。仕方なく宮崎県庁を目指し再び走り始めました。


  「昨日見た 夕日の顔を 見たくなり 車走らせ 朝日を拝む」

  「ルミナスと 横文字書いた パーク入り 朝日写真に バッチリ撮りて」

  「朝日見て 何がそんなに 面白い 人尋ねるが われ関せずと」

  「太陽の パワーいただき 意気揚々 敵陣乗り込む そんな心境」

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shin-1さんの日記

○寒い日には戸外へ出よう

 私の住む四国双海町は、滅多に戸外の温度が氷点下以下に下がらない南国といってもそれなりに寒く、特に今年は寒さが例年になく厳しいとみんなが口を揃えていうのです。でも松山地方気象台の話だと、戸外の温度が氷点下以下の真冬日はまだないというからおかしな話です。でも最近は例年暖冬気味だったから余計そう思うのかもしれません。

 ストーブを焚いて室内にいると春を感じさせるような陽気になりますが、部屋の障子や襖を開けるとまるで冷蔵庫から風が吹き込むような肌寒さを感じ、「早く戸を閉めて」と誰もが言うのです。温かい所へ吹き込む冷たい風は余計寒く感じるものなのです。

 そんな時には思い切って戸外へ出て少し体を動かすと体の中からポカポカと温かくなるから不思議なものです。あれ程温かい場所では冷たく感じた室内の外気でさえ寒く感じるのに、戸外の寒さや冷たさが全く感じられないのは何故だろうと、その不思議さに時々疑問を持つことがあるのです。

 気温が下がるとついつい戸外へ出るのが億劫になり、運動不足になりがちで、小太り気味の妻は1キロの体重増減に一喜一憂しながら毎日暮らしています。そのため自宅から僅か500メートルの距離にある勤務先の歯科医院まで歩いてゆくよう心がけています。朝行き500メートル、昼行き帰り500×2=1,000メートル、夕方帰り500メートルの2,000メートルですが、歩かないよりましと毎日気休めに歩いているのです。短い距離の徒歩なのでそれ程効果は出ませんが、それでも偉いものでもう何年も続けているのです。

 私は年末年始に痛めた腰の具合もすっかりよくなったので、これも気休め程度、腰に余り負担がかからないように家庭菜園の草削りや人間牧場の草刈りを短い時間ながらやっています。お陰様で食欲も睡眠も充分取れて、気力の充実した日々を過ごしているのです。こうして戸外に出て外気温に体を馴らすと風邪をひくこともなく、北海道紋別で風邪を土産に貰った以外は風邪もひかずに頑張っているのです。親父も今年は寒い寒いといいながら風邪をひかず頑張っているので、まずは一安心です。

 昨日は人間牧場梅林の草削り、今日は家庭菜園にあるみかん畑の草削りと、作業時間2時間ずつながら農作業をやりました。このt頃の寒さゆえ汗もかかず日焼けもせず、喉も渇くことなく働き、畑もすっかり綺麗になりました。

 戸外に出ると意外なことを発見します。隣のおばさんが7年間も孫を保育園に迎えに行っているが、4人の孫も保育園年長のため今年が最後だと立ち話をしたり、秋ジャガと大根、ブロッコリーを近所の奥さんにおすそ分けして喜ばれたり、長い長い鉄橋の上をマッチ箱のような列車が長閑に走ったり、双海町のシンボル本尊山を夕日が染めたり、また近所の子どもの歓声が聞こえたりなどなど、身近な人々の暮しが見えてきます。時折聞こえるカラスの鳴き声も流れる雲の行方も全て忘れていた光景です。もっとのんびりゆっくり体を動かし、大地に根を張ったように生きて行きたいと思いました。

  「寒いなど 言わずに戸外 出るといい 冷たさ馴れて 体ポカポカ」

  「鉄橋を 渡る列車の 長閑さよ 鍬を休めて しばし眺むる」

  「もうこんな 時間か時計 五時を指す 町のチャイムは 夕やけこやけ」 

  「行く人が 声掛け通る 無理するな 俺の体を 気遣いながら」

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shin-1さんの日記

○梅が満開

 昨日は息子の家族が人間牧場へやって来るというので私も少しの時間だけ穏やかな日和に誘われて出かけてみました。人間牧場界隈はもう春の農作業が始まっているのか、畑のあちこちではチェンソーの音や人の気配が感じられ、野鳥も沢山見えました。

 人間牧場の入口にある西嶋さんのお宅ではご主人が狩猟をするので4匹もの猟犬が飼われていて、春の訪れを感じているのでしょうか盛んに吠えていました。西嶋さん家族は取り入れた完熟ミカンの袋を取り除いて出荷する準備作業に追われていました。先日おじいちゃんが亡くなったものですから、お見舞いの言葉をかけるつもりで車を止めて立ち話をしましたら、はね物のみかんを一箱もいただきました。何個か食べましたが、「こんな甘いみかんがあるのか」と思われるほど美味しいみかんです。このみかんは秋の収穫時に取り残し、ヒヨなどの野鳥の食害からみかんを守るため袋掛けをして樹上越冬させた「越冬みかん」なのです。完熟ですから味は抜群です。でも冬を越すため製品率が悪く、これが農家の悩みの種のようでした。

 水をいただいていることから水事情についても話し、おいとましてから人間牧場へ上りましたが、息子と嫁、それに孫と嫁の妹さんがやって来てストーブを焚いて話し込んでいました。妹さんは人間牧場が始めてとあって、感動した様子で盛んに水平線の家やデッキからの眺望を褒め称えてくれました。

 息子はお客様のためにせっせと風呂を沸かしていました。普通は灯油ボイラーで沸かすのですが、念入りなお客様には直火で風呂を沸かすので、煙がモクモクと上がっていました。

 私はロケ風呂の下にある梅林に下り、梅の花の咲き具合を見て回りました。11本ある梅の木は種類もまちまちなので、花が一度に咲くことはありません。満開を迎えた梅の木が一本あって、メジロが沢山やって来て花を啄ばんでいましたが、花にそっと顔を近づけると何ともいえない梅の花の香りが漂って、まるで花見気分でした。

 昨年が梅の表年の豊作だったため、今年は多分裏年だろうと少し諦めていますが、花の付きはまあまあで、これから水がぬるみ始めると一気に開花しそうな雲行きで、蕾は大きさを増しているようです。

 嫁の実家が喫茶店を経営しているのでお店に梅の花を切花にして持って帰るよう、まだ蕾の枝振りの良い何本かの枝を切り落とし束ねました。

 

 春の日差しを浴びて腐葉土作りのために作った囲いの中も、落ち葉の分解が順調に進んでいるようです。来月に入るといよいよ農作業を始めて、この腐葉土の上に土を乗せて種芋を伏せ、ビニールで被覆して芽を出させるる計画です。順調に行くかどうか半信半疑ですが、成果を期待したいと思っています。

(ツリーハウス)

 

 ツリーハウスは息子の手で押し上げ窓が開けられ外の風が入れられています。間もなく町内のこども達がやってきて、歓声が聞こえることでしょう。今年はこのツリーハウスの横の木に新たな本物のツリーハウスを計画していますが。さてどんな夢が実現するのでしょうか。息子の話だと露天風呂も既に頭の中では計画されていて、問題はオーナーたる私の資金力が頼りのようです。甘い顔は出来ないし、さりとて夢は大事にしたいし、まあぼちぼちやりましょう。

  「満開の 梅の香匂う 畑には メジロ沢山 花見訪れ」

  「こりゃ美味い 思わずとろける 完熟の みかんいただき 農家の苦労」

  「おいちゃんと 呼ばれてはっと 我返る 自分のこととは ついぞ知らずに」

  「あの女体 沈めるつもり お湯溢れ 女性ホルモン 畑に蒔くか」

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shin-1さんの日記

○モグラの穴

双海町閏住という地区の入り口にまるでモグラの穴のようなトンネルがありました。縦に長いかまぼこのような形をして、どこかノスタルジックな雰囲気を漂わせていました。今や県下でも有名な菜の花畑の隅にあるものですから、「向こうに何があるのだろう」と花見に来た人は珍しがって通っていました。予讃線海岸周りの線路の下をくぐって向こうに出るだけのトンネルなのですが、その道を進むと20数戸の閏住という地区へ通じるのです。

 このトンネルは乗用車がやっというどちらかというと穴的存在で、消防車も救急車も通行できず、それらの車や運搬用車はこれまた細い道を踏切を迂回して行かねばならないのです。そのため閏住地区の人は長年かなりの難儀を強いられてきました。いわば地区の人の悲願はこのトンネルを大きくすることでした。

 その願いが国や県、市を動かして2年前に工事が始まりました。何せ上を毎日列車が走っているのですから、列車を通行止めにして工事をすることが出来ないため、掘っては固めるという作業を繰り返し、「何でそんなに長くかかるのだろう」と素人の私たちが思うほど長い工事でした。その間閏住の菜の花は一部柵が設けられて立ち入り禁止となり美観を損ねていましたが、昨年末にやっと工事が完成したようです。

 今はまだまるでコンクリートの塊といった違和感があってトンネルの周りに菜の花が咲いていた昔のトンネルとは似て似つかぬ風貌をしていますが、そのうち周辺の景色にマッチすることでしょう。

 寒い寒いと思っていた今年の冬も少しずつ寒さもゆるんで、閏住の菜の花は日毎に黄色い色を増しつつあり、気の早い観光客は車を止め足を止めて花見を楽しんでいるようです。私も一昨日大洲市長浜町豊茂へ行く途中そこを取り掛かりましたし、昨日も人間牧場へ行く時通りましたが、車の窓を開けるとどこか懐かしい菜の花の香りが潮風の磯の香りとマッチして、春間近かを感じさせてくれました。

 時折通るまるでマッチ箱のような一両編成のジーゼルカーもどこか懐かしい印象が感じられ、熱心なカメラマンは列車の時刻表を頼りにシャッタースポットにカメラを固定して、この寒空だというのに列車の来るのを日がな一日待っているようです。

 昨日もそうでしたが、花が咲き始めると困った事に花の中に入って写真を撮る不届き者が必ず出てきます。その人たちは鼻を踏み潰し自分さえよければいいという感じで写真に納まり帰って行くのですが、折角育てた菜の花を踏み潰されるのは何とも心が痛みます。

 私が考えた横たわる看板は当時すっかり有名になりました。この閏住地区の人から相談を受け、職員でお立ち台を作りました。そうすれば花の中へ入らなくてもすむし、撮影した写真にはさりげなく「しずむ夕日が立ちどまる町」などという町のキャッチフレーズが写る様にしたのです。これは大受けでしたし全国放送にも乗ったほど有名になったものです。もう間もなくそのお立ち台も設置されるでしょうが、遅きに失しないようして欲しいと願っています。

 余談な話ですが、菜の花の蕾は塩漬けにすると美味しい漬物になります。折角育てた菜の花の蕾も随分盗難に会い悔しい思いを何度もしました。そんな折、相談を受けた私は「消毒中につきご注意」などと看板を作って立て、これも見事なアイディアとして褒められてものです。菜の花の思い出は沢山ありますが、これも逸話として語り継ぐべき落伍の落ちネタなのです。

  「トンネルが 出来て菜の花 すっきりと 通る列車も どこか他所行き」

  「花の中 入らないでと 注意する うそぶく女 化粧濃いくて」

  「花咲けば 隣の店が 繁盛す 目の付け所 大したものだ」

  「看板に くじらと書いた 店に入る 女店主は 目(女)(雌)くじらなのか?」 

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shin-1さんの日記

○何と40周年・あっぱれ豊友会

 「40年前、私は一体何をしていたのだろう」。ふと思いました。63歳から40年を引き算すると23歳です。そう、私は40年前双海町の青年団長でした。家業である漁師をしながら青年団活動にうつつを抜かし、その年には第14回NHK青年の主張の県代表にも選ばれるなど、それなりの活躍をしていたようです。そしてこの年の秋、青年学級で「青年の生活設計」という学びから自分の目標をしっかりと立てたのでした。私にとって40年前は旅立ちの記念する年だったのです。

 その頃、昨日招かれた大洲市長浜町豊茂では、青年団OB有志によって「豊友会」なる集団が誕生していました。そして今日までの40年間時には輝くように、時には牛歩の如くひたすらバトンを受け継いで活動してきたのです。全国の事例は別として愛媛県内では地域に特化してこれほど長く有志が集団を組んで活動を続けている事例は聞いたことがないのです。「いやああっぱれ」と豊友会の皆さんに心からなる賞賛の拍手を送ります。

 この40年間、日本の山村地域は大きく様変わりをしました。過疎、少子高齢化、農林業の疲弊など指を折っても余りないほどマイナス面が襲いかかり、10年後という近い将来さえも分らないほど五里夢中の暗いトンネルの中に入ってしまっているのです。トンネルの向こうに出る一筋の光さえも見えてこないままに・・・・・。

 それでも人々は歩みを止めるどころか、その糸口を探ろうと、記念大会を催しました。地元の人たちが約80人ほど集まっていました。勿論記念大会ですから市長さんや地元選出の市会議員さんたちも顔を連ね厳かな式典と地域づくりフォーラム、それに祝賀交流会が持たれました。

 私の役割は「まちづくりの新しい風」と題した基調講演と、「地域の特性を活かした魅力あるふるさとづくりをどう進めるか」というテーマでのパネル討論コーディネーターでした。講演は50分、パネル討議は2時間でした。

 講演では私の知りえた豊友会の活動の問題点を経済という視点、活性化という視点、未来という視点で話させてもらいましたが、意識も知識も高い豊友会の皆さんにとっては馬耳東風でしょうが、新たな旅立ちへの応援歌とでも理解して欲しかったのです。特に居並ぶ市会議員さんへ、腰の引けた行政への橋渡しとして聞いて欲しかったのです。

郷土史研究家米岡幸市さんの歴史というタテ軸からの話は中々興味をそそる薀蓄のある話でした。地域ボランティアの鎌田清美さんの活動や交流というヨコ軸からの話は棚田や統合後の学校利用という提案もあって、おもしろ発想でした。柳沢から駆けつけた木林森クラブ会長の平谷和夫さんはジャンボ門松・ほたる祭り・雲海展望公園などを手掛けた実績を楽しく話されました。豊友会会長の菊岡禎巳さんは日頃の活動を紹介しながら見えてくる問題点を披瀝しながら話されました。

 討論はフロアーも巻き込んで進めましたが、やはり感心事は3年後に廃校になる予定の小学校跡地の活用でした。私も翠小学校の事例を引き合いに出しながら、学校の持つ目に見えない影響について話しました。学校がなくなれば次は限界集落です。襲い繰る不安の中でどう生きてゆくのか、いよいよ豊茂にも正念場がやって来るようです。

 祝賀の交流会を終え松本さんとふたりで帰路に着きましたが、余韻や興奮冷めやらず二人で潮路という店に立ち寄って二次会をやりました。飲むほどに饒舌になるはずの松本さんも昨夜ばかりは飲むほどに気持ちが冴え、これからどうするのか、お互いの腹を割って話し合いました。私は引き時の潮時、松本さんは上げ潮時と潮時立場が違うため、次へのステップアップに向けたアプローチの仕方もまちまちですが、旧友知人にも会え、将来を考える考える上ではいい一日でした。

  「元気かね 声かけくれる 人ありて 体の変化 少し気になり」

  「偉いねえ 四十年間 続けてる 俺にはちょっと 真似が出来ぬわ」

  「帰らない 褒めた言葉に 帰れない 言うんじゃなかった 言ってよかった」

  「参加者は 全員四十 歳とりて 十年後には みんなプラス十(とう)」  


 

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shin-1さんの日記

○雪の金山出石寺

 「おい松本君、金山出石寺へ行こうか」。それは急な思いつきでした。昨日は大洲市長浜町豊茂で行われた「豊友会40周年記念大会」に招かれていたので、えひめ地域政策研究センターの松本さんと二人で出かける事にしました。松本さんは双海町下灘の出身なので私の車で行こうと相談がまとまっていて、彼の実家の前で11時の待ち合わせです。家を10分前に出ましたが、途中妹の経営する「くじら」という海産物の店先で妹の顔を見たので、素通りも悪いと思い立ち寄り、会釈程度の会話を交わしました。国道沿いで松本さんを乗せ昼前のことでもありラーメンでも食おうと通りすがりのラーメン屋に立ち寄り、ラーメンが来るまでの時間に金山出石寺へ行くことの相談がまとまりました。

(豊茂入口の人面広場に設置された大きな草鞋に度肝を抜かれました)
(豊茂の名物人面岩)

 穏やかな瀬戸内の海を右手に見ながら長浜まで走り、つい最近出来た信号を左に曲がってしばらくすると肱川に出ますが、引き潮のため肱川の水も少なめで、右手後ろにかかる片勝ち鬨の赤橋がバックミラーに映りながら視界の外に消えてゆきました。JR出石駅付近で右折し、出石大橋を渡るともう金山出石寺へは一直線です。途中豊茂の大本さんと連絡を取った松本さんは、今日の会場となる豊茂公民館に全国大会のパンフを置いて、再び坂道を走りました。この道を走るのは久しぶりなのですが、改良は途中までしかできておらず、行政の台所事情を垣間見る思いがしました。杉木立の中を走ること15分余り、道沿いに残雪が見えてきました。カーラジオから流れる全国ニュースでは首都圏を含め太平洋沿岸を通過中の低気圧の影響で大雪に見舞われ、積雪があると報じていましたが、標高820メートルの金山にもかなりの雪が残っていて、バスの回転場辺りからは道の雪が凍ってアイスバーンになっていました。それでも往復1時間という痴愚の予定にあわせた目安があるので、ゆっくりと登って行きました。やがて町指定天然記念物である桂の大木付近に行くと、車のタイヤがスリップし前に進まなくなりました。危険を感じたのでUーターンして路側帯に車を止め、二人で雪道を歩く事にしました。凍った雪道は歩きにくいものです。日差しを浴びた所はびちゃびちゃに解けているし、歩きにくいことこの上なく、少々太り気味の松本さんの洗い息遣いをを少し後ろに聞きながら、かなり長い車道と参道を休む間もなく一気に歩きました。

 連休なので普通だと参拝客も多いのでしょうが、この雪道に行く手を阻まれまばらでした。私たちのように無防備でやって来た人もいれば、スノータイヤで追い越して行く人もいてそれぞれです。

(雪に覆われた参道)
(山門前の石段も氷ついていました)
(雪の白と空の青が見事なコントラストの金山出石寺境内)
(金山出石寺本堂)
(山門の入り口にある大師像も雪を被って寒そうでした)

 参道前の石段は完全に凍結していて手摺に捕まるように慎重に登って行きました。鐘楼で手を合わせて入り鐘をつき、大師堂と本堂を巡ってお賽銭を入れ祈りを捧げました。周囲の山並みは少し春霞の感じでしたが、その遠望を楽しむ暇もなく早々に下山です。元来た道を下るのですが、雪道は滑りやすく少し早足で新雪部分を踏み分けながら転げるでもなく元の場所に戻って車に乗り込みました。

 往復僅か50分程度の短い時間でしたが、御仏のご加護か何事もなく豊茂公民館まで帰って来ました。九十九折の狭い道の両側に広がる長閑な山村風景とは裏腹に、時折視界に入る住む人絶えて崩れしままの民家に限界集落の厳しさを感じました。数年前に襲った台風による風倒木も痛々しさをさらけ出し、冬枯れのクヌギ林や、棚田のあちこちに咲く黄色い菜の花が印象的でした。

 ここでは親友菊地さんや大本さんたちが地域を守るため長年頑張っています。しかし時代の流れは否応なしに山村の暮しを押し流そうとしています。最早見方であるはずの行政さえも見放し、ぶつける当てもない憤りを感じながら生きて行かなければならなのでしょうが、せめて人生の結末だけは楽しくあって欲しいと思うのです。

 金山出石寺への短い旅路はまた私の心に新たな火種を生んだようでした。

  「雪道を 恐る恐ると 分け入りて 霊峰出石 参拝登山」

  「住む人も 途絶え潰れし 人家あり 冬の山里 寂し風吹く」

  「もう春が そこまで来てる 山村の 棚田あちこち 黄色い菜の花」

  「村人の 姿も見えず ひっそりと 山の向こうに 煙り一本」

  「

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shin-1さんの日記

○梅一輪一輪ほどの温かさ

 庭の隅にある白梅の花が知らぬ間に咲き始め芳しい香りを漂わせています。今年はことの他寒く、90歳になる親父は「寒い寒い」とぼやきつつも、この冬は風邪も引かず何とかこの冬を乗り切れそうですが安心は禁物で、温かくなり始めた頃が油断大敵と、今朝も隠居へ行って注意しながら世間話に花を咲かせました。

 昨日は下灘で恒例の剣道大会があったようで、その大会に招かれた方が次々わが家を訪れ、親父に会いに来てくれたらしく、いつになくご機嫌でした。歳をとると私たちにとっては何でもない人との出会いが段々少なくなってくるものなので、人に会うことさえ大きな喜びのようでした。そう思いつつも最近は私の日程が詰まっていて、同じ敷地内に住みながら親父と3日も4日も会わない日があるのです。仕方のないことですが妻と二人でその事に気をつけ声をかけ話をするよう心がけて日々を暮らしています。

 昨日は妻が風邪気味だというので、今朝早く起きて畑の隅の果樹園に出かけカブスを5個ほどちぎってきました。このカブスは他所の地域ではダイダイといっていますが、こちらでダイダイは夏みかんのことで、カブスは食酢をとる柑橘なのです。わが家ではこのカブスを酢漬けやお寿司を作る時に絞って使います。特に風邪気味の時はこの酢を鍋に絞り込み砂糖を入れて少し水で薄めて熱く沸かします。それをフーフーいいながら飲んで寝ると汗が出て風邪の症状が治まるのです。

 このカブスの木は一本ながら沢山の実をつけ、正月の松飾用に使ったりして重宝しているのです。人間牧場近くの廃園になった果樹園には大きなカブスの木があったのですが、訪ねる暇もなく、多分枯れているのだろうと気になっています。

 今朝は私の取ってきたカブスを使って妻がカブス湯を作っています。台所からその美味しそうな匂いがプーンと漂ってきています。このカブス湯を飲んで、早く風邪を治して欲しいと思っています。

 さてわが家では今日から妻が友人と一泊二日の小旅行に出かけます。小旅行といっても近くの道後温泉に午後から出かけるだけなのですが、数日前から楽しみなのか少しテンションが上がっているようです。無理もありません。一年中働きたまの日曜日には子どもたちが孫を連れてやって来るし、年老いた親父の面倒も見なければなりません。ましてや頼りになるはずの夫であるはずの私は、相変わらず外に出て待った役に立たない駄目亭主なのですから・・・・。

 今朝は早く起きて家を出るための準備をしているようです。女が家を出るには食事の準備が何よりで、いつもお定まりのコースメニューなのでしょうが、おでんとカレーが準備され、親父の元へも運ばれるのです。あいにく私も今日は隣町で開かれるシンポジウムにパネラーとして出席する予定で、懇親会も予定されていることから遅くなるため、留守は親父一人になります。

 今晩は多分道後の温泉に4人の友人とまるでトドの群れのように浸かり積もる話をすることでしょうが、せいぜい楽しんできてください。

  「梅一輪 咲いて間近な 春を知る 足音更に 大きくなりて」

  「訪ね来る ただそれだけが 楽しくて 親父の弾む 話聞き入る」  

  「小旅行 楽しみながら 準備する おでんにカレー 妻の定番」

  「風邪などは すっかり忘れ 小旅行 少し濃い目の 化粧施し」

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shin-1さんの日記

○自由人の仲間入り

 「夢工房」という聞きなれないグループを20人ほどで作って活動を始めてからもう20年余りが過ぎました。20年といえば私が40代の始めですからその当時は意気盛んで、2ヶ月に1度のペースで大いに飲み大いに語ったものでした。会員は県庁の職員と市町村や団体の職員なので、ある意味組織の意識改革や自らの自己変革を目標にして、多くの人に「お酒を一緒に飲もう」などと頼んで30分から1時間程度の卓話を聞いてからお酒を飲んでいたのです。

 「夢工房」の常宿はJR松山駅前にある「四十雀」という縄暖簾のかかった店でした。5千円ポッキリで3時間以上飲み放題という余り儲けにならない客なのに、皿鉢料理が沢山出してくれてとても食べきれないほどでしたが、二次会には行かないという完結型の飲み会に誰もが満足して大いに楽しみました。

 3年前にこの会に異変が起こり始めました。私のリタイアの送別会でした。当時はまだ会員の年長者一人のリタイアくらいな軽い気持ちだったから、そんなに深刻に考えることもなく人のことだと笑って楽しんだものです。あれから3年の月日が流れ、昔ほど頻繁開催ではなくなったものの相変わらず「夢工房」は続いているのです。

 先日「夢工房」の通知がファックスで送られてきました。会員の高田さん・塩崎さん・原田さんの3人がこの春目出度くリタイアするというのです。そして一昨日人数が多くてか会場が取れなかったのか共済会館で開かれました。しかも宴会の会場は共済会館の9階という、野球に例えれば9回の裏で後がないという、たまたまの偶然でしょうが私流に考えれば面白い設定でした。

 高田さんは県庁森林行政のスペシャリストで、広島県出身の技術屋さんなので林業行政一筋といったところでしょうが、よく本を読む読書家で凄い知識の持ち主です。塩崎さんは言わずと知れた私の親友で三崎町から合併して伊方町になったものの役場職員として活躍された方です。原田さんは旧明浜町の企画課長を長らくやられ、今は西予市役所野村支所に勤務していますが小説を書くなど変わった男なのです。いずれも個性派、いずれも情熱派でそれぞれの場所に埋没することなく輝いて生きてきた尊敬できる人たちなのです。

 3人の挨拶を聞きながら、これからの豊富も聞きました。退職が近づいたといってもまだ実感も湧かず慌しい残務整理の最中のようでしたが、期待と不安が入り混じり複雑な気持ちを垣間見たようでした。既に仲間の中には旧野村町の藤本さんや旧松野町の芝さんが私と同じリタイア組みとなっていいますが、夫婦でゴルフ三昧の藤本さんや、無職を貫いている芝さんとは全く違った生き方をしている私なので、彼らの生き方にも興味があって、色々な話しを聞くことが出来ました。

 挨拶をした高岡さんや乾杯の音頭を取った鶴井さんが言うようにこのグループもいよいよ高齢化です。組織は新陳代謝しないと活性化しませんが、明らかに斜陽です。それはメンバー一人一人の世界が小さくなっているからに他なりません。つまり進化のスピードが退化のスピードを上回れないのです。変わらないのはいいことかも知れません。でも変わらないと良くない部分もあるのです。その事に気付かないと傷をなめあうグループになって「夢工房」という看板は下さなければならないと思いました。

 せめて私だけでもと、この3年間夢を紡いで会員のお荷物にならぬよう、そして「夢工房」の看板に恥じぬよう進化を念頭に頑張ってきました。お陰で充実した日々を今も生きているのです。

 人には進化の寿命はないと思っています。松下幸之助さんがPHPの創刊号に「青春とは心の若さである。心に望みを持ち日々新たな行動をすれば青春は永遠にその人のものである」と書いています。心の青春こそ「夢工房」の看板です。これからがいよいよその正念場かもしれません。いい生き方をしようと、3人の話しを聞いてしみじみ思いました。

  「次々と リタイア組が 仲間入り 見本示して 青春語る」

  「先頭を 常に走って 二十年 これから先も 歳は先頭」

  「人は皆 自由に憧れ いるものの 不自由なこと 誰も気付かず」

  「登り切る こともないのに 下り坂 気付く坂道 転げ落ちるぞ」

  

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shin-1さんの日記

○裸の付き合い

 ちょっとした打ち合わせ以外日程が入っていないので、今日は久しぶりに松山からの帰り風呂に行く事にしました。松前町にある元気人村という温浴施設です。ここは本当の温泉ではありませんが、薬風呂があって体に良いという評判が立って、今日のような三連休の初日、しかも朝から冷たい雨が降って朝から仕事が出来ないような日なので、かなり込み合うほどの賑わいでした。妻は私のために回数券を買ってくれているので、ちょくちょく来るので、今では事務所の受付嬢ともすっかり顔なじみとなって、馬鹿話に花を咲かせるほどになっていますし、風呂友とでも言うのでしょうか、「若松さんこの間テレビに出とったなあ」とか、「この頃人間牧場はどうですか」と気楽に声をかけてくれる人もいて、楽しく風呂を楽しんでいます。私はここのサウナ風呂がお気に入りで、たっぷり汗をかいて水風呂に入る爽快さは言葉で表現できないほどの心安らぐひと時なのです。

 今日は偶然にもギノー味噌の田中社長とご一緒しました。田中社長は優秀な経営者で仕事も人一倍熱心な方です。ある研修会で知り合ってから、何かにつけて出会い、今では商品開発に熱心な田中社長の相談に乗るなど、私の話など他愛のない戯言なのに意気投合して、研修会に話しに行ったりするほどじっ魂にしているのです。また田中社長は自分の子育てにも独自の考えを持って行動していて、5人の子どもを産み育て、しかもその子どもを広田村の山村留学に留学させているのです。先代社長さんもすごい人ですが、田中社長さんも独自の経営理念で会社を発展させ、新社屋が間もなく完成するそうです。

 二人は同じペースでサウナに入り同じペースで水風呂に入って商品開発について色々意見を戦わせました。やがて体を洗っていると、田中社長さんが、「若松さん背中を流しましょう」と近寄ってきていきなり背中をごしごし擦り始めました。断りましたが「まあ遠慮なさらず」と甘えてしまいました。いやあ驚きました。息子に背中を流してもらったことはあるし、夫婦同浴の私たちは時々お互いの背中をながしあうことがありますが、他人に流してもらったのは学生時代、青年団以来初めてなので、気恥ずかしい気持ちになりましたが、その気持ちのいいことは格別でした。

 背中を流してもらったからいうのではありませんが、中所企業といいながら県内では名の通った会社の社長さんが、何の億目もなく人の背中を流せる気配りにはほとほと感心しました。あっけにとられているうち、「私もあなたの背中を・・・・」と思った瞬間彼は向こうへ行ってしまってお返しも出来ず恩義をいただいたままになってしまいました。

 裸の付き合いという言葉をよく耳にしますが、今日の出会いや出来事はまさに裸の付き合いから生まれたコミュニケーションでした。わが家から僅か30分のところにある温浴施設から帰って、私は風呂の余韻に浸っていました。これからも付き合いたいいい人にめぐり合ったと思いました。

  「お背中を 思わずタオル ごしごしと ほのぼのとした サービス受けて」

  「大根の 話でサウナ 盛り上がる 櫻島なら 今に爆発」

  「裸ゆえ 腹のうちまで 見せ合って 四方山話に 花を咲かせる」

  「銭湯が 油高くて 消えている ここも苦しき 原油高なり」

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