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◯門松飾り(その2)
 私が公民館に勤めていた昭和の頃双海町では、生活改善運動の一環として、印刷した門松を各家庭や漁船に配布して飾っていました。山に生えた松の木守るためでした。その後松の木にマツノダイセンチュウ、通称松くい虫が入り、松の木の殆どが枯れてしまったり、また生活改善運動が下火になり、また市町村合併もあってたち消えになりました。

追い打ちをかけるように時代の変化で、門松といった日本古来の風習も廃れてしまいつつあるようです。そんな中わが長男息子は内を思ったのか、先日友人に誘われ自分の子ども2人を連れて門松講習会に出かけたようです。門松の材料を沢山持ち帰り、昨日は親子で私も手伝って作りました。

 さすが講習を受けただけのことはあり、ミニチュア名が立派な門松が出来上がり、玄関先に飾り付けました。どこかいつもと違う玄関の雰囲気に、家族みんなが大喜びでした。平成の最後の年に、門松を作ったことは、やがて来る新しい年へのプロローグでもあるような予感がしました。

「平成の 最後の年に 門松を 息子が作り 玄関飾る」
「若い頃 生活改善 運動で 神様ならぬ 紙の門松」
「わが息子 以外や意外 古きもの 遊び半分 興味示して」
「親父から 私に伝えた あれやこれ 次代息子は いかよう受け継ぐ」

孫奏心と門松作り
門松を作る長男息子
しめ縄と門松を飾った玄関
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〇同級生との話題遍歴

 年末になると、私たちの町のような田舎にも帰省の人が目立つようになり、一時的ですが人口が増えたような錯覚さえ覚えます。多分帰省した人たちはこの町で生まれ育ちながら親元を離れ、全国各地へ散らばって、望郷の念に駆られながら暮らしているのでしょうが、久しぶりに見たこの町の姿を同級生は、どう感じているのでしょう。

昨日久しぶりに帰省した同級生が3人、前触れもなくわが家へ訪ねて来ました。当たり前のことですが、みんな同級生ですから同じように歳を取り古希を過ぎた74歳で、既に現職をリタイヤし悠々自適の生活を送っていますが、最近は帰省することも殆どなくなり、ましてや両親が亡くなっていると帰る当てもなく、今回も仏事や慶事を理由の帰省だったようです。

はっきりとは覚えていませんが、若い頃の同級会は職場の話や世間の情勢などの議論を熱を帯びて戦わせ、活気に溢れていました。還暦を迎えた同級会の話題は趣味や孫の成長をにこやかに話していました。古希の同級会では先に逝った同級生の思い出話や年金、それに病気の話が中心で、持病の血糖値や肝機能の数値などをまるで医者顔負けに披歴していました。

昨日わが家にやって来た同級生のつかの間の話は、衰えつつある体力と記憶力の話が多く、運転免許証の高齢者講習や認知症、前立腺やガンなど、むしろ長生き寿命より健康寿命に関心が集まり、やがて特老に入居し一生を終わるであろうことを予測したような、少し寂しい話となりました。2時間ほどした別れ際、3人が私に異口同音に「あんたは自分の生まれ育った町で暮らし、この町で死ねるのだから幸せだ」と羨ましがられました。そう言えば私は幸せかも・・・・・。さて次の予定されている喜寿同窓会は一体何が話題となるのでしょう。

「正月を 前に田舎は 人口が 増えた錯覚 帰省した人」

「3人の 同級生が 訪ね来る 昔と違い 老後の不安」

「次喜寿に あった時には 何話題? 歳相応な 話に終始」

「この町で 生まれて死ねる 幸せを 羨ましいと 同級生が」 

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〇ウラジロ採り

 正月飾りに欠かせないのがウラジロです。最近は山が荒れてウラジロ採りも一苦労だと近所の人は嘆いていますが、私は毎年とっておきの自分の場所を見つけているので、造作もなく綺麗なウラジロを確保しています。その場所は歩いて5分ほどの裏山です。ただし急斜面のため採るのに一苦労しますが、注意さえすればどおってことはありません。

裏山から採ってきた正月飾り用のウラジロ

 このところ毎日のように冬とは思えない雨が降り、山へ入るのは億劫でしたが、昨日は長靴を履いて、思い切ってウラジロ採りに出かけました。雑木の中はまだ露が残っていました。シダ類をかき分けて奥へと進み、傷んでいない頃合なウラジロを70枚程度採って山を下りましたが、僅か20~30分ほどで採って帰った私を見て、妻はその早業に驚いていました。

ウラジロは12月30日、同居の長男息子に手伝ってもらって、私が既に作っているしめ縄につけて玄関や神棚に飾る予定です。子どもの頃から有無を言わさず長男に生まれたため、当然のこととして親父が私に教えてくれたわが家の伝統的習慣は、いつの間にか自分の身についていますが、息子の代への引継ぎは残念ながら終わっていないのが少し心残りです。そんな無駄なことをしなくても、ホームセンターへ行けばお金で買える時代になりました。

「裏山に 分け入りウラジロ 秘密場所 造作もなしに 採ってきました」

「山草(やまくさ)と 言う名ウラジロ しめ飾り 正月縁起 担いで使う」

「正月を 迎える準備 着々と 昭和生まれの 古いしきたり」

「リタイアし サンデー毎日 はずだった やること多く 今日も明日も」

 

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〇農協のマーク

私が若い頃のそんなに遠くない昭和の昔は、わが町の役場、郵便局、農協には沢山の職員が働いていて、その人たちが青年団活動を賑やかに活発にリードしていました。私もその一人で役場職員ながら愛媛県青年団連合会の会長までしたのですから驚きです。ところが農協の広域合併に端を発した合理化で、農協、郵便局、役場から地元職員が殆どいなくなり、青年団もいつの間にか消滅してしまいました。

昔懐かしい農協のマーク

それでも私の知人には農協に勤めていた人や、今でも農協の役員をしている人が沢山いますが、その人たちにとって農協という組織の変化はどう映っているのでしょう。先日ある古い農家倉庫の壁板に、赤く錆びたホーロー鉄板の農協看板を見つけました。ご存じ麦と協という文字をデザイン化した昔懐かしい農協のマークでした。最近はリバイバルブームでこのロゴマークが見直されているようです。

 

JAマークと遊び心

一方最近の農協のマークはご存知JAというアルファベットの横文字をデザイン化した緑色のロゴです。私は門外なので言う資格はありませんが、昔の農協のマークの協という文字を分解すると十と力が3つあるはずですが、デザイン簡素化したため真ん中の力という文字は、クルリ落ちのようにも見えるのです。このロゴマークを造った頃の農協は、「ザ農協」と言われ世界に誇る盤石の組織でしたが、いみじくもマークを作った人は今の農協の衰退を予言していたのではないかと、邪推してしまうのです。

JAのマークはどっしりとして山や緑の自然を表しています。ふとパソコンの回転機能を使ってマークを回してみると、両方とも今まで気づかなかった人間のようにも見え始めました。発想を巡らして自然と人間の調和を考えたら、農協草創の時誓った「ひとりは万人のために 万人はひとりのために」に結び付くような気がすると思いました。こんなことを考える私は暇ですね。サンデー毎日(毎日休み)、教養(今日用がある)、教育(今日行く所がある)ですから・・・・。

「麦と協 農協シンボル 揺らいでる 日本の食を 守って欲しい」

「協の字は 力が3つ あるけれど マークは一つ 滑り落ちてる」

「このマーク 作った人は 予言者だ 右肩下がり 今の農協」

「日本の 食料安心 安全を 守って欲しい 切なる願い」

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〇久しぶりの山仕事

 数日前親友の小西さんから、人間牧場に植えているコンニャクイモを欲しい人がいるので、何とか分けて欲しい旨の電話が入りました。この一週間雨模様の天気が続いたので、赤土の畑がぬかるんでいて掘れないと連絡していましたが、気になって昨日の午後出かけ、植えている畑が北向き陽陰なのでやはりまだじゅるかったものの掘り始めました。

コンニャクイモは超不作でした

 

三つ鍬にまとわりつく赤土を掘り返したものの、念願のコンニャクイモは中々見つかりませんでした。どうやら昨年の災害が出るほどの大雨で、種芋が腐ってしまったようでした。幾つか小さい芋は見つかりましたが、注文の4~5kgを確保することができないような雲行きで、小西さんに電話で状況を説明しお断りをする羽目と相成ってしまい、傷心の面持ちでした。

杉の枝打ち作業

コンニャク芋堀を途中で断念し、夕暮れまでにはまだ時間があったので、陰となっている杉の枝打ち作業を行いました。木に登るのも久しぶりです。足場にするため枝のつけ根を残しつつ切り落として行きましたが、さすがに年齢のせいか木の上が少し怖くなりながら、先日スモモの木の剪定時のように、滑り落ちないよう注意を払って作業を続けました。農作業はやれば切りがないほどあります。

夕暮れ迫る下灘豊田漁港の遠望
クリスマスの夕日

 サンデー毎日と言いながらあれこれ何かと忙しく、畑仕事にまで手が回りませんが、それでも冬の間にやらなければならない作業の手を抜くと、夏秋のいい実りを迎えることはできません。暇を見つけてしっかり対応したいと思います。夕やみ迫る頃帰途についていると、上浜青石付近には2台も観光バスが止まり、沢山の人が浄土の坂を上ってJR下灘駅を目指して歩いていました。平日だというのに下灘駅のプラットホームは大入り満員のようでした。帰りに夕日の名所シーサイド公園に立寄り自慢の夕日を見ました。やはり日本一の夕だと自負しました。

「頼まれた コンニャクイモを 掘るために 赤土鍬を 入れたが不作」

「大雨の 影響もろに 受けたよう 芋が腐って 種芋さえも」

「電話にて 断る言葉 見つからず 至極残念 リベンジ誓う」

「杉の木に 登って枝打ち 黙々と 落ちないように 慎重慎重」

 

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〇公友会誌が届きました

 毎日2本のブログを書き、毎日3枚のハガキを書き、毎日書き言葉に関わって日々を暮らしていると、いつ何をどのような書いたのか分からなくなり、送られてきた雑誌や新聞などの掲載記事を見て、「ああこんなこと書いていた!!」何て思い出したりしています。でもそのままやり過ごしてしまうと、折角書いたものが記憶の隅にも残らないので、極力残すようにしていますが、これまで掲載された記事が余りにも多いため、結局はしまい忘れてしまうという悪循環を繰り返しています。

 それでも近頃は紙ペースよりもコンパクトに収まる、デジタルにして保存できるようになりましたが、記憶力や検索能力の衰えて行く今後を考えれば、結局元の木阿弥、私が年老いたり死んでしまうと、ゴミの運命を辿ってしまうことは、私より早くあの世に旅立った仲間の結末を見れば明らかなのです。人はこうして消される運命にあることを覚悟して余命を生きなければなりません。昭和という時代に大きな足跡を残し、死後まもなく国民栄誉賞に輝いた偉大な国民的作曲家古賀政男さんも死ぬ数日前、『自分の作った歌は苦しい時代の歌ゆえ、平和になれば忘れられるから、早く忘れられるような世の中になって欲しい」と述べています。

はてさて、数日前私が会長を務めている公民館OBの会公友会から会誌が届きました。いつも拙文は免れないものの会長ゆえ少し長めの文章を書いて、近藤局長へメール便で送りましたが、実直な局長に校正までさせてもらいながら、届いた会誌を読み返しながら、書いたはずの内容すらはっきりと覚えてないのですから始末に負えません。会誌も積読の運命を辿るのですから、スキャンしてブログ記事にしておこうと思い、今回もまた無駄な抵抗をしています。アッハッハです。

「書いた記事 何を書いたか 忘れてる 忘れるからこそ 人は生きれる」

「掲載の 雑誌も積読 運命を 辿るであろう 悲しいけれど」

「私など 見栄を張っても ゴマのハエ 社会の片隅 気にもされずに」

「ああ今日も かくてありなん 明日もまた かくてありなん 恐らくその後も」

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〇ウイークリーえひめリック

 私たちの住んでいる所は田舎ゆえ無料配布の対象外ですが、松山圏域の家庭には「ウイークリーえひめリック」という新聞が無償で配られているようです。先日親友から「12月13日付ウイークリーえひめリックというリビング新聞に、あなたの書いた記事が載ってます」と電話が入りました。愛媛県金融広報委員会から頼まれて書いたことは覚えていますが、どのように載っているのかも分からず、とりあえずお礼を言いました。

 

こんなツリーハウスについて書きました
ウイークリーえひめに掲載された私の書いた記事

おっつけ4~5日前、金融広報委員会の事務局を担当している日銀松山支店から、掲載紙がページに付箋をつけて送られてきました。ゲラ校正はしたものの5面の暮らしフォーカス「お金」という囲み記事を見て、少し恥ずかしくなりました。今回の記事は昨年末から正月を挟んだ今年初め頃の、私と孫のユーモア溢れる笑い話です。タイトルは「育爺(いくじい)のつぶやき・お小遣いで買った釘100本」というお話です。

家の敷地内庭に、昨年度の冬休み中小さな畳2畳ほどのミニハウスを孫と二人で造りました。費用はウン万円かかりましたが、孫が親と相談して、貯めたお小遣いの中から出したのは僅か千円でした。孫を連れてホームセンターへ行き、千円で釘を100本買いました。孫は寒さをものともせず私と一緒にその釘を使って、ミニハウスは無事完成しました。その後約1年間、今ではすっかり子どもたちの間で人気となり、沢山の子どもたちが遊びにやって来ています。

 同居している私はさしずめ育爺です。幸い私は金融広報アドバイザーなので、金銭・金融教育という観点で孫に様々な形で関わっていますが、今回の原稿もそんなある意味とるの足らない話題を書きました。このところこの新聞の反響は大きく、今日は新聞を見た親が4~5人連れ立って、松山からわざわざミニハウスの見学に来るようです。嬉しい反響に目を細めています。

「情報紙 田舎の町ゆえ 配布なし 見ることもなく 見た人松山」

「育爺の つぶやきリビング 新聞に 載ってあれこれ 電話やメール」

「釘100本 自分の小遣い 千円も 出してハウスを 完成させる」

「ミニハウス 今では子ども 居場所です ワイワイガヤガヤ 大人に秘密」

 

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〇私設公民館煙会所の大掃除

 仲間が呑みに来るというので、昨日は久しぶりに家の敷地内にある私設公民館煙会所の大掃除をしました。煙会所を造ったのは今から42年前の昭和51年でした。青年の船に乗って太平洋を渡り、建国200年のアメリカへ行ったカルチャーショックが、青年のたまり場を造りたいという夢に代わり、自宅横に青年仲間の力を借りて粗末ながら手造りしました。

大掃除ですっかり綺麗になった私設公民館煙会所

何かにつけて理解があり器用だった親父の絶大な協力を得て造ったたまり場は、僅か4畳半の囲炉裏を切った部屋ながら、その後県内外や時には外国からも、多くの来訪者を得て今日に至っていますが、もしも私が煙会所を造っていなかったら、これほどあらゆるジャンルの人と繋がって、いい人生は送れなかったに違いないと、あらためてその存在の大きさに気づくのです。

四畳半の畳に雑巾をかけ、トイレやトイレに通じる縁側もただ一人黙々と掃除をしました。また囲炉裏の灰もゴミを取って均し、火を入れると薪の煙が部屋中に充満し、まるで燻製室のようでした。天井一面に保存している、私が代表を務める21世紀えひめニューフロンティアグループが20年間にわたって実施した、無人島に挑む少年のつどいなどの看板が目に留まりましたが、これらの活動も、また夕日によるまちづくりも煙会所での語らいから生まれたので、懐かしく物思いにふけりました。

「そんなにも 経ったのだろうか 42年 あの日あの時 思い出しつつ」

「大掃除 する手時々 休めては 道具小道具 書画骨董」

「30人 食を賄う 南部鉄 大鍋つつき 大酒呑んだ」

「この部屋で どれほどの夢 板間書き 実現したか 懐かしき日々」  

 

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〇髪は長~い友だち

 昨日散歩をしていて偶然にも同級生に出会いました。1人は町内、もう1人は松山に住んでいますが、こんなに近くに住みながら出会うのは久しぶりだったので、「おい元気か?」「幾つになった?」などとと、同じ同級生で同じ歳のはずなのにこんな馬鹿げた立ち話に花を咲かせました。

私の髪はまだ白髪が多少混じっていますが・・・。

 あれこれ話すうち、話題は頭の髪の毛談議でした。1人の頭の毛は既に殆どなく自分の頭をさすりながら禿山のようだと言いました。もう1人の頭は真っ白で、黒い髪は殆どなく白頭と呼ぶべき容姿でした。2人の視線が私の頭に向き、「進ちゃんは染めているのか?」と聞きました。「わしはまだ髪を染めたことはなく地毛だ。毎日風呂に入って洗髪するが、頭にヘヤ―トニックやヘヤ―リキッドなどつけたことは殆どない安上がりの頭だ」と自慢げに話しました。「羨ましい」と言いながら、眼鏡をかけた2人に「わしは今でも眼鏡なしで裸眼で新聞が読める」と自慢してしまいました。

 親から貰った黒い髪があることも、眼鏡なしで新聞が読めることも、普段はそんなに意識せず暮らしていますが、言われてみれば嬉しいことです。禿た友人から興味ある「ヘヤ―ドネーション」という耳新しい言葉を聞きました。その友人の娘さんは親に似ず黒い髪を長く伸ばしていて、先日成人式を前に何を思ったのかその髪を、バッサリ切って寄付をしたそうです。世の中には小児がんにかかり、放射線治療によって頭の毛が抜けて、社会復帰を目指すも「禿」と言われていじめに合う子がいるそうです。

 小児がんの治療にはかなりの費用が必要で、更に高価なかつらなどを買う余裕もないため、子どもの心は深く傷つき人生を台無しにするケースだってあるのだそうです。「ヘヤ―ドネーション」はそんな子どもたちのために、かつらを作る材料として髪を提供するボランティア活動のようでした。30㎝以上あればいいそうで、目頭が熱くなるような立ち話に感動しました。

髪のある人ない人、黒い髪の人白髪の人などなど、髪の悩みも人それぞれです。折角親から貰った黒い髪を、お洒落という意味合いだけで染めている若者をよく見かけますが、年が開ければ間もなく成人式、友人の娘さんのような考えの若者がいるといいな~あと思ったりしました。

「久しぶり 同級生に バッタリと 出会い楽しい 立ち話あれこれ」

「俺の髪 見て羨ましいと 言う二人 禿と白髪を 自慢たらたら」

「難しい 言葉を聞いて それ何?と ヘヤ―ドネーション 奥が深くて」

「成人式 前に髪寄付 した女性 感動ものです 大きな拍手」 

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〇住所録のハプニング

 年末と言えば年賀状作りです。毎年のことながら沢山の年賀状をいただいているので、歳が歳だけにもうそろそろ失礼しようかと思いながら、いただく年賀状を見るのが楽しみで、今年も出すことに決め、妻が前もって私400枚、息子100枚、計500枚を購入してくれました。本当は手書きしたいのですが、400枚も書く自信と暇がないため、例年通り印刷屋さんに頼むことにしました。

やっと再生できた住所録

 印刷屋さんは現職時代からご厚誼をいただいている岡田印刷で、古い付き合いの大見さんにメールで原稿を送り2校正を経て印刷しましたが、その住所録はパソコンにデータがあるものと鷹を喰っていました。ところがそのデーターがどうしても呼び出すことができないのです。息子に頼んで診てもらいましたが、どうやらパソコンが故障して新しい機種に変えた時、「筆王」のソフトを入れていなかったことに気がつきました。

新しいソフトを入れるのには2千円ほどかかりましたが、何とか復旧してホッとしたものの、住所録の宛先が500枚以上あり、年賀状が100枚も足らないことに気がつき、慌てて近くの郵便局へ出かけて何とか100枚購入し、印刷屋さんへ持って行き、無事今朝の宅配便で印刷した500枚の年賀状が届きました。早速今日か明日当たり宛先をプリントして発送したいと思っています。

最近年賀状に、「今年の年賀状で終わりにします。来年から年賀状を出しません」という人がちらほら目につくようになりました。相手の年齢のことを考えれば無理からぬことでしょうが、最盛期には1000枚も届いていた年賀状も、昨年は600枚ほどになりました。私も出す年賀状の数を1000枚から規模縮小して500枚にしました。それでも「多い方ですよ」と郵便局の人たちが驚いています。

「年賀状 年末恒例 重荷感 パソコン使い 便利になったが」

「規模縮小 してもやっぱり 500枚 止める潮時 そろそろ考え」

「住所録 再生できぬ ハプニング 慌てたけれど 息子何とか」

「印刷は 無機質ですと 言うけれど 書く暇腕も ないと納得」

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