shin-1さんの日記

○お歳暮に切手の贈り物とは

 昨日妻が「これお歳暮」といって50円切手を100枚プレゼントしてくれました。普通の人だったら「何をふざけているのか」と叱られそうですが、実は私にとって50円の切手はたまらない嬉しいプレゼントなのです。一日に3枚は必ず葉書を書く習慣はもう18年間も続いています。一日3枚使うと100枚の切手も僅か1ヶ月で無くなってしまうのです。出張が続いて沢山書く日は10枚を超える日もあるのですから、切手の贈り物は妻だから出来る最高のプレゼントなのです。

 切手にも色々あって美術切手や記念切手などがありますが、メジロをあしらった普通サイズでないと、大きすぎるとハガキをはみ出したりするので、縦切手を横に貼らなければ収まらない時だってあるのです。

 買ってもらった切手は全て一枚一枚に切って小さな名刺入れの小箱に入れておくと、何かにつけて便利です。私の仲間にはハガキマニアが沢山いて、毎月必ずハガキが届く殊勝な人もいます。また私がハガキを書いていることを知った人からは、「古くなった切手ですがまだ使えますので使ってください」と200枚もの切手をプレゼントしてくれた時もありました。人それぞれ何気なく届くハガキに目を通し、さりげない気配りを相手に出来る人は素晴らしいと思います。

 私の書棚にはかつて趣味で集めていた切手が沢山保存されています。やがて値上がりするかも知れないこれらの切手は、記念切手が多いため使う気にはなれませんから、多分これからもずっと書棚の一箇所を占領し続けることでしょう。

 今日届いた一枚のハガキを紹介しましょう。私の水産高校の大先輩の玉井恭介さんという人は絵心が素晴らしく、昨日人間牧場に案内した時もスケッチブックのような手帳を持参し、鉛筆で何やらスケッチしていました。官製ハガキの一倍半もある和紙製ハガキに人間牧場の眺望を書いて送ってくれました。絵を書けない私などは羨ましい限りですが、その人その人特徴があるのですから諦めず自分サイズで頑張りたいと思います。

  「今日受けし人間牧場絵に書いたハガキ一枚お礼文書く

  「五十円たった一枚の切手張りゃ日本全国くまなく届く」

  「俺の字はイボ字キレ字で汚いが人の心を感動させる」

  「ある女恋文つもりでハガキ出す妻何食わぬ顔して平気」

 

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suin-1さんの日記

○イかとタコ

 私の息子はサキイカが好きです。妻の買ってきたサキイカを食べながら先日妙な話をしました。「お父さんこのサキイカはどこの海で泳いでいたもんじゃろか」というのです。「そんなんお父さんにも分からん」といったら、「お父さんは水産高校の出身じゃないん」と偉そうに反論するのです。「じゃあお前は工業高校の機械科を出ているがこのハサミの原料である鉄は何処の国の鉄か知っとるか」と言ってやったら「そんな屁理屈知らん」と険悪になりました。まあ一事が万事次男の息子とはこんな他愛のないやり取りを繰り返す間柄なのです。

 しかし、息子の「イカの出身地」を聞いた質問を考えながら、サキイカの入った袋の裏を調べてみると、原材料は「マイカ」と書いているだけでイカの出身地は書いてないのです。袋詰めした業者の名前が家の近くの海産物屋であったので、ついでに立ち寄って聞いたのですが、店の主人も「私は袋に詰めただけです」とスルメより味もそっけもない答えが返って来ました。

 聞くところによるとこのイカは韓国から大量に入るのだそうですが、何処の海で泳いでいたのかは結局水産高校出身の私にも分からずじまいでした。

 昨日の夜食卓にタコの刺身がのりました。今度は先手必勝とばかりに息子に言ってやりました。「このタコ何処の海で泳いでいたか知っとるか」。息子曰く「双海の海じゃろう」。「何で知っとるん」。だって「下灘のおじさんが持ってきてくれたの見たもん」と小憎らしくいうのです。私の惨敗でした。しかし私も負けてはいません。タコの習性やタコの住処、タコの足の八本などなど様々なタコ知識を説明してやりました。息子曰く「さすが水産高校出身じゃねえ」の終わりに、「でもこのタコは泳ぐのだからどこの海か本籍は分からない」と一発かまされました。

 私たちが何気なく食べてるサキイカやタコの刺身も、実は突き詰めれば地球上で獲れているのですが具体的には何も分からず食べているのです。「これ何処で獲れたの」なんて、そんな疑問を持つと深みに入って行くので止めますが、地産地消やスローフードの時代です。少しだけでも考えて食べたいものです。

  このイカは何処で獲れたの息子聞く知らん分からん黙って食べよ」

  「タコは何故足が八本イカは十本俺が知ってる訳もないのに」

  「屁理屈を言った息子に負けまいとええ歳こいてムキになりつつ」

  「何故何故と聞くドラ息子孫似たり成長過程まだまだ知恵が」

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shin-1さんの日記

○道順は右か左か

 人生には色々な道順があって私たち人間は、何時も右か左か選ばなければ向こうへ進めない厳しい運命を持っています。その道順を間違えるととんでもない方向へ行ったり、時には「みんなで渡れば怖くない」の群集心理で撰ぶ事だってあるでしょう。例えば夜の寒い日に集会が計画されていたとします。風邪気味だったり、気が乗らないと「行こうか・行かまいか」悩むのは当然です。その場合「行こう」と決断したらプラス、「行かない」と決断したらマイナスを撰んだわけです。さあ会場へ着きました。早めに会場へ入れば席は余程のことがない限り自由席ですから、謙譲に美徳にあやかって後ろの席を選択するでしょう。多分その時の席選びの基準は「眠っても気付かれないような場所」とか、「仲間と隣り合わせの席」とかを単純に選びます。時には「あの人の近くは嫌だから」という人だっているでしょう。基本的に前の席を選んだ人はやる気のあるプラス、後ろは群集心理に弱いマイナスとしておきます。

 やがて集会が始まりました。普通の集会だと90分の講演があります。90分の講演の時間は大学の時間割が起源だといいますから、日ごろ聞きなれない大人にとって長い時間です。ましてや興が乗らないお義理参加や講師の話が面白くないとついつい眠りこけてしまいます。逆に進んで話を聞こうと思って参加した人は聞き逃してなるものかと思うでしょう。眠った人はマイナス、積極的にメモを取って聞いた人をプラスとします。このように僅かな時間でも右か左か心の持ち方の道順選びでプラスにもマイナスにも傾いて、一日の成果が積み重ねられて行く算段です。

 あるお寺さんで聞いた住職さんの説教ですが、世の中にはマムシ型の人間と乳牛型の人間がいるそうです。同じ水を飲んでもマムシは毒にして人を襲うし、乳牛は牛乳にして人様のお役に立つというのです。マムシ型は人の話を聞いても「私には関係ない」と思い、乳牛型は同じ話を聞いても自分に当てはめて考えます。大体世の中には乳牛型人間が9割、マムシ型のへそ曲がり人間が1割だそうです。あなたはひょっとしたら1割のマムシ型人間ではありませんか?。

 結局は人生左か右か、プラスかマイナスか道順の選び方ひとつで人生は変わって行くのです。ちなみに私は乳牛型、随分プラスの要因を積み重ねてきました。

  「どうしようそう思ったらプラスへと考え変えて進む肝要」

  「住職の話はためになるものと思う心が既にご利益」

  「ねえ後ろ席に座ろと誘う友余り付き合う価値のない人」

  「前の席詰めろと言う人後ろにて人の動向伺い詰める」

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shin-1さんの日記

○風当たりが強い

 今日はこの冬一番の寒さに見舞われ、山も海も大荒れの天気です。あちらこちらからメールで初雪の便りが届いています。わが町の背後に聳える牛の峰山のパラグライダーランディング場には白く積雪も見えるのですから、青い国四国といえども寒く、やはり今度の寒波は日本全体に及んでいるようです。

 今日は冬の季節風が人間牧場ではどの程度吹き付けるのか調べたくて、知人の玉井恭介さんを伴って山に上がりました。海沿いの風の強さに比べ山はそれほどの風当たりでもなく安心しました。普通「風当たりが強い」という言葉はその人への反対意見や反対者が多いことをいいますが、人間牧場への風当たりはそんなに多くないとお見受けいたしました。

 しかし今年の寒さは例年の暖冬に比べ少し強いような予感がしてなりません。初雪も早いし妻の勧めで今まではいたこともないパッチをズボンの下にまとっています。60歳を超えた私への配慮でしょうか、妻は最近とみに私の健康のことを気にするようになっています。義理の兄のガン手術や近所の年恰好も同じ様な人が入院したりするものですから、病気の予感がするのかも知れません。有難いことです。

 ストーブの用意をしないとこの冬は乗り切れないと思い、息子に薪ストーブを手配するよう頼んでいるのですが、一向に連絡がありません。今日5千円も出して新品のマサカリを購入しました。チェンソーで足を切った昨年夏の悪夢を教訓に、くれぐれも足を切らぬようマサカリの使い方は慎重にしたいものです。

 少し時間があるので木の根っこをおがしていると、ノミ鍬のクサビが何処かへ飛んでノミ鍬が使用不能となり今日の作業は木の根っこ一つも掘り起こすこともなく残念ながら断念しました。それにしても寒さ対策はやはり身体を動かすことが一番です。あれほどブルブルしていたのに体がポカポカしてきました。

 小さくても薪小屋を作らないとマサカリで割った薪の始末が出来ません。さて何処へどんな薪小屋を造るか思案中です。

  「空の雲水に映して寒々と何処まで行くか白き船たち」

  「光たる魚影の群れを目指す船カモメつれづれ長閑に走る」

  「空と海以外は見えぬ山の家座して静かに想いにふけりつ」

  「背もたれてあくびに昼寝これもまた人のうらやむ俺の生き方」

  「今思う昨日と明日それぞれに生きた生きよう短か人生」

 

 

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shin-1さんの日記

○子どもは地域で

 広島県で子どもが殺され、ダンボール箱で捨てられたショッキングなニュースは、外国人の犯人逮捕という警察の努力で一件落着しましたが、その記憶も失せぬ先日、今度は行方不明になっていた小学一年生の子どもが、茨城県の山中で刃物で刺され捨てられているのが発見されました。目を覆うような痛ましい子どもを巡る事件の続発に、果たして日本の行く末はどうなって行くのだろうと嘆かずにはいられません。一昨夜隣町で開かれた家庭教育学級講演会でもその話が話題になりました。

 最近は家庭教育の乱れが指摘されていますが、こうした事件が起きる度に子どもは学校や家庭だけでは守れない、むしろ地域に目を向けるべきとの指摘が出されるのですが、事件が遠のくとまた元の木阿弥といった感じです。親は夫婦共稼ぎで働きに熱中する余りに地域の防犯などへの参加や組織の役員にはなり手がないのです。そんな人たちがいくら「子どもは地域で守るべき」との結論を出しても、所詮は空念仏なのです。要は子どもを地域の宝と認識し、地域ぐるみの輪の中へ入って自らも役目を果たさなければ、子どもを守ることは出来ません。

 家庭教育学級に参加して思うのですが、講座は主に人の集まりやすい夜に行われます。7時から始まって8時頃になるとひとりまたひとりときまり悪そうに、こっそり会場から人がいなくなって行きます。聞けば午後8時は塾や習い事に行っている子どもを迎えに行く時間だそうで、私はそのことを察知して予定の時間9時を大幅に繰り上げ8時20分に話を終わらせました。すると堰を切ったようにわれ先に帰り始めました。お役所仕事だと家庭教育学級は時間目標が一回2時間です。でも現実は7時から8時までが最も集まりやすいのであればそうすべきだと思いました。

 事件が起こると人はハッとします。しかし何事もなければ何も考えず行動もしません。私たちは子どもを育てる認識として「百年生の木を植える」ような心を持たなければなりません。子どもは百年生きるのです。百年生きる木を育てるには水、空気、土、太陽、栄養の恵みが必要です。家庭や学校や地域をそうした恵みと考えれば、疎かにすると育たないという理論は誰にだって分かるでしょう。立派な木ばかりを育てる必要はありません。普通の木、普通の子どもを育てましょう。

  「学級に来たけど親はそわそわと塾へ迎えの時間迫りて」

  「事件起きその度親は一優し地域大事と盛ん言うなり」

  「PTA来るのは何時も母親で破れたブラジャー父が時々」

  「ガングロも一人前の親となり子に乳飲ませタバコプカプカ」

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shin-1さんの日記

○渋柿の不思議

 今年は夏から秋にかけて天候もよく、果物類の美味しさは格別で、ブドウやスイカは過去のものになりましたが、みかんやリンゴ、梨、柿などは甘みも強く、各地から季節の便りとして送られてきます。特に柿は愛媛県内にも産地が多く、美味しい柿が格安で食べれます。あちこちの店先には、篭盛りで300円などと表示された柿が売り場を独占しているような感じです。作った人のことを考えればこの安さはただ事ではないと思うのです。

 今年もわが家では吊るし柿を作りました。近所の八百屋さんに頼んで買い求めましたが、その明くる日知人がどっさり届けてくれました。「しもた。買うんじゃあなかった」と思っても、何時いただくか分からない品物を当てもなく待つことは出来ませんから、むいで軒先に吊るしました。妻が手際よく皮をむぎ、私がビニールの紐でくくり格好よくなりました。まるで暖簾のように軒先に吊るした吊るし柿は、まさに冬の風物とでもいえる風情です。

 子どもの頃、渋柿と甘柿を間違えて食べた時の口の渋さや、柿の「ずく」という熟れ過ぎた柿を食べて口に残った渋さを思い出しながら、渋柿の不思議を思うのです。

 吊るし柿は皮をむいで寒風に晒すとあのえもいわれる渋が甘みに変わるのです。自然が織り成す化学変化なので凡人の私には中々説明が出来ません。昨日から今年一番の寒気が日本列島に流れ込み、各地から初雪の便りが届くようになって、ここ双海町でも寒い季節風が吹くようになりましたが、この乾いた北風が美味しい吊るし柿を作るのです。

 最初にむいだ柿は早くも飴色になって、白い手袋をしてお乳を揉むように揉んでやります。そうすると益々甘みが増して美味しい吊るし柿が出来るのだと、おばあちゃんから教わった通りにやってます。

 甘いものに事欠く少年時代は甘くなるのが待てなくて、つまみ食いして渋さに口を歪めたこともありました。今の子どもは吊るし柿なんてご馳走でもなんでもなく、見向きもしません。時代の変化なのでしょう。

私たちが子どもの頃は「やれ何処そこの誰が柿を盗んだ」などと、今にして思えば他愛のない出来事が学校に苦情として持ち込まれ、盗んだというより柿を失敬した子どもが竹の鞭で先生に頭を叩かれたなんて話は、日常茶飯事のことでした。かく言う私もその一人で、悪ふざけをして随分先生に叱られ、雑巾バケツを持って立たされたことを覚えています。

 正岡子規の「柿喰えば鐘が鳴るなり法隆寺」は、いにしえ昔日の出来事になりつつあります。

  「柿熟れた下を歩くも見向きせず携帯電話メールするだけ」

  「父揉みと同じ動作で柿を揉む嬉し恥ずかし誰か見てるか」

  「柿取って隣の親父に大目玉そんな昔は夢のまた夢」

  「裏山にポツリひとつの木守り柿モズが啄ばむ冬の足音」

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shin-1さんの日記

○二人で分け合って別の物を食べれる幸せ

 私たち夫婦はこれまで、私が外食を好まないこともあってめったに外食はしませんでした。故にどの店が美味しいのか、人の話を聞いてもチンプンカンプンなのです。ところがつい最近、息子の結婚話や私の退職などで二人一緒に外に出掛けることが多くなったものですから、昼食程度の軽い食事をする機会が増えました。今日も友人の踊りを見るため妻に誘われて市民会館へ出掛けました。踊りが終わって折からの寒波雨にあったので、温泉へでも行くかと相談がまとまり車を走らせました。温泉は男湯と女湯があるので時間を決めて別々に入り別々に出てきました。久しぶりの温泉は寒さが身にしみたこの日はとても気持ちがよく、「いい湯だな」と歌いたくなるような雰囲気でした。

 夕方の小腹が空く頃だったので近くの日本蕎麦屋に入りました。二人は相談して私はかき揚げザル蕎麦大、妻は山掛け月見蕎麦を注文しました。二人はまず自分の好みの蕎麦を半分食べ、半分を取替えっこして食べるたのです。「まあきたならしいしお行儀が悪い」とお思いでしょうが、これが私たち夫婦にとってとても楽しい食べ方なのです。

 先日は私が寿司御膳、妻がサイコロステーキランチを注文しましたが、その時も左様な食べ方をしました。私たちの歳になると一つのものを沢山食べる腹は持っていませんが、少しづつ色々な物を食べたいのです。お蔭様で夫婦仲良く食事が出来るようになりました。

 食事をしながら思うのですが、体重の痩せた私と少し太り気味の妻の食事の量が、最近ではむしろ妻の方が少し多めであることに気付きました。ダイエットと言いながら。妻はそのことを「私のように働くものは食い力を付けておかないと」と舌も乾かないうちにパクつくのです。

 コーヒーの飲めない私は食後のコーヒーというものが理解できません。妻は食後のコーヒーは美味しいと注文します。こればっかしは半分こできないので私はタダのお茶を飲んで時間調整をします。やがてレジへは財布持ちの妻が支払いに向かいお店を出て一件落着です。驚いたことに最近ではお客商売とでも言うのでしょうか、ファミリーレストランや喫茶店でポイントカードやサービス券を出す所があって、妻の財布にはいつの間にかあれやこれや入っているようです。無頓着な私には出来ぬ芸当でしょう。でもいくら外食が嫌いだからといっても、妻の後片付けのことを思うと、たまには外食もいいものだと思うようになってきたshin-1さんなのでした。

  「飯は家そう決めていた頑固者近頃二人で恥ずかし食事」

  「私よりよく食う妻の下腹がまるで妊婦の生み月似たり」

  「簡便をしないと持たぬ会計をよくぞここまで妻への感謝」

  「石鹸がカタカタ鳴った風呂上り昔聞いたなそう神田川」

  

 

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shin-1さんの日記

○スズメとカラスの世界も田舎は過疎

 スズメといえばお米、カラスといえば長閑な泣き声で田舎の代表選手のように思われていましたが、スズメとカラスの世界では田舎に過疎化現象が起こっています。「えっ、そんなことはないでしょう?」と疑るのは無理からぬことです。童謡や童話の世界は殆どが田舎の物語ですが、そこに登場するスズメやカラスは紛れもなく田舎の自然と共存していました。

 先日東京へ出張してその姿を目の当たりにしました。まず空港ではカラスが出迎えをしてくれました。空港ではカラスが増えて飛行機のジェットエンジンに巻き込まれては大変とあの手この手で駆除しているようですが、カラスはジェットエンジンの凄まじい音にさえ慣れてくると平気だそうです。皇居の周辺の緑豊かな公園にもカラスがたくさんいました。また街中では収集を待つゴミの上にカラスが群がり残飯をついばんでいるのです。人間はその横を避けるようにして通っていました。

 夕方ホテルの前の歩道を散歩していたら、何やら騒がしい小鳥の鳴き声が聞こえてきました。スズメの大群が木という木に群がって騒いでいるではありませんか。鳥目といって夜は目が見えないから寝るのかと思いきや、不夜城のような眠らない都会では夜も明るいので、小鳥は24時間活動をしているのです。

 田舎からカラスもスズメもいなくなったとは思いませんが、これら都会派のスズメやカラスは一体何処から来たのでしょうか。勿論都会生まれ、都会育ちのカラスやスズメもいるでしょうが、田舎からひとっ飛びして来た田舎出身のカラスやスズメもいるはずです。過疎で人々の自然の営みが少なくなった田舎は食うものとて少ない、スズメやカラスにとっても住みにくい社会になっているのかも知れません。そこへいくと都会は残飯類の余り物とは言いながら、餌が豊富で日々の暮らしに事欠かないのでしょう。

 スズメやカラスからも見放された田舎の行く末を思うと何だか侘しくなりますね。その分イノシシが増えたのですから畜害があっても人間にすり寄ってくるイノシシを大切にしてやらなければバチが当ります。

 よくしゃべる人間をスズメのような人と表現します。数年前には「カラスの勝手でしょう」というギャグが流行りました。スズメもカラスも結局は人間が恋しいのです。

  「聞きましたスズメのお宿は何処ですかホテルの前の木々がホテルと」

  「都会ではゴミ食べ物を食い漁るカラスにだって糖尿心配」

  「東北のなまりすすめはスズメかも焼き鳥暖簾くぐってすすめ」

  「カラスさん鳩の豆までいただいて平気で平和のシンボルぶって」  

  

 

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shin-1さんの日記

○人間って素晴らしい造形物

 万国博覧会以来ロボットの話題が多くなってきました。子どもの頃に読んだ漫画の主人公であるピノキオや鉄人28号のことを考えると、人間が創造から具体的な造形物を造る技術は相当進歩したようです。多分コンピューターの普及がそれを可能にしたのかも知れません。しかし進んでいるように見えるロボット製作技術でも、人間のように2本の足で歩くようになるために要した研究の年月ですら、相当なものであったに違いありません。そのことを考えると人間は実に素晴らしい造形物だと思うのです。科学者が幾ら頑張っても人間以上の動きの出来るロボットはまだ出来てはいないし、これからも無理かもしれません。

 人間のロボット造りの発想は人間に代わって人間がすることを代役し効果を上げることから始まりました。車を製造する会社が組み立て過程において採用している技術システムは、人間の形こそしていませんがロボット産業でしょうし、その技術システムの開発によって効率は飛躍的に伸びました。しかし効率を高めた代償として合理化という名のもとに人間がいらなくなる皮肉な結果を生んでいるのです。ロボットは文句を言わないし、スイッチを入れれば自動的にこちらの指示通り動くのですから文句のつけようがありません。でもここで気がつくのはロボットにはスイッチがあるが人間にはスイッチがないということです。また人間は疲れても寝て起きたら、いつの間にか元気が出るという再生装置がついているのです。人間ってなんて素晴らしい造形物でしょう。そして私という人間造形物をいとも簡単に作った親父とおふくろは天才だと思うのです。勿論私という造形物を育てるのに長い年月をかけてはいますが・・・・・・。

 ロボット開発のもう一つの狙いは立派なロボットを造って一儲けしようとしていることです。万博会場で競った各社のロボット開発にかける熱意がそれを物語っていました。初物喰いの好きな人間の好奇心を誘い懐のお金を狙っているのです。高齢化社会の到来を見越して介護ロボットの開発が行われています。多分お金持ちは近い将来介護ロボットのお世話になることでしょうが、そんなロボットに払うお金があるのであれば、有り余る人間にお願いして人間らしい心の通った介護をした方が余程ましなはずです。

 ロボット開発の副産物は人間の研究かもしれません。ロボットの動きをより人間に近づけるには、人間の動きがどういうメカニズムで動くのか、徹底的に研究しなければなりません。多分今まで分からなかった人間の知的な動きは相当研究が進んでいることでしょう。人間故障の致命傷であるガンの克服もこうした研究からの方が、案外近道かも知れませんね。

  「僕というロボット造った父母は偉大科学者真似は出来ない」

  「足動く手までが動くこの不思議スイッチ入れずも意の向くままに」

  「切傷も何時の間にやら治ってる修理修繕した覚えなし」

  「髪伸びにゃ床屋行かずもよいものを生きてる証金を払って」

 

 

 

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shin-1さんの日記

○二つの木の根っこの運命

 今日は少し時間が取れたので人間牧場へ出掛け畑を耕しました。まだ何を植えるか決めないままの耕しですが、10年も放置していたみかん畑は荒れ放題で、カズラやハズの根が縦横無尽に地下茎を伸ばし、ノミ鍬で地中深く耕しながら草と根を丁寧に拾って行きました。先日の作業でノミ鍬を折ってしまったので、ホームセンターで4千5百円もの投資をして買った新品の鍬で耕しましたが、さすが道具が良いとはかどります。

しかし厄介なことに畑のあちらこちらにチエンソーで切り倒した木の根っこが埋まっており、これが厄介者で畑の真ん中に根を下ろして座っているのです。あせらずと思ってもやり始めると熱中して、今日は2つの大きな根っこをおがしました。その大変さを思うとゴロゴロある根っこが恨めしく感じられました。でもあせらずこの冬の作業としてやり遂げたいと思っています。

 昨日高知県奈半利町の坂本さんから電話が入りました。貰っている梁瀬杉の根っこについて私がハガキを出していたものですからその返事でした。何でも「佐川急便にお願いして送って貰うと6千円くらい送料がかかるが、着払いだと1万円を超える」とのこと、どう考えても不思議だと坂本さんは「私がお金を払います」と言っていましたが、私も不思議に思いました。早速「今日の便で送るから明日は車から降ろすのを手伝うように」指示がありました。明日はそのため何処へも行かず荷物が届くのを待ちたいと思います。

 同じ根っこでも人間牧場の根っこは鍬を折る程の厄介者、片や高知県の梁瀬杉の根っこは喉から手が出るほどの宝物、同じ地球に根を張りながら月とスッポンのこの差は何なんだろうと思いました。名もなき雑木に生まれた根っこは堀り上げられて焼却されるというのに、梁瀬杉に生まれた根っこは百年を超える年輪を刻んだといいながら人々に愛されるのですから・・・・・・。

 今日人間牧場で二つの根をおがして分かったのですが、春にチエンソーで切り倒した木の根は、雑木の力強さなのか根はしっかりと生きており、切り株から新しい芽が出ていました。このままにしておくと来年の春には再び木は蘇ることでしょう。可愛そうですが仕方がありません。おがします。

  「ノミ鍬で汗をかきかき根を掘れば地中のミミズ寒き地上に」

  「神様のお札いただき棚供え二礼二拍手モゾモゾ祈る」

  「地中では根と芽早くも春待ちの準備するよに大きくなりて」

  「もよおして畑の隅にひる小便ミミズ腫れした昔なつかし」

 

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