shin-1さんの日記

○今日は少し腰と腕が痛い

 菜の花祭りも終わりいよいよ張る本番と思いきや、昨日から一転して北西の季節風が吹き荒れ冬に逆戻りしたような寒さです。もう暖房も要らないだろうとしまった矢先のことなので今朝のわが書斎は寒く、ウインドブレーカーを着込んでのハガキ書きやブログ書き作業となりました。今朝はアメーバブログが早朝5時過ぎまでメンテナンスとかでアクセスできなく、お陰さまで溜ったハガキの返事を10枚も書いてしまいました。

 昨日は本の移動で水平線の家へ行ったのですが、左官さんと大工さんが五右衛門風呂の作業に来ていて、屋根に張る竹の節を抜く作業を頼まれ、一日中その作業に追われました。金槌で半分に割った竹の節を一個ずつ叩いて抜いてゆくのですが、これがまた途方もない数でただひたすら下に向いて作業を進めました。竹の節は硬く、どうしてあの柔らかい食べれるタケノコがこんなんい硬い竹に成長するのだろう、なんて考えながら丁寧に丁寧に外しましたが、この作業中々終わらず昼食をはさんで夕方4時半までかかってしまいました。あいにく昼食を用意していなかったのですが、おやつ代わりに持参していたパンと伊予みかんという軽食で済ませました。左官さんと大工さんはさすがに肉体労働だけあって、愛妻弁当は豪華で温かい味噌汁までついていました。薪ストーブを焚いて3人で談笑しながら食事をしましたが、外の寒さとはうって変わった温かさでついウトウトしました。

 それにしても今朝は、さすがに馴れない作業をしたためか少し腰と手がだるくて痛い感じがしています。多分筋力や体力が落ちているのだろうと自分に言い聞かせていますが、昨晩寝る前に予想していた痛さほどではなかったので安心しました。妻は「若い頃は痛さがあくる日に出るが、歳をとると痛さが3日後に出るから安心はできない」と脅すのです。それでも昨年から人間牧場開拓で鍛えたためでしょうか少しは楽です。

今日はちょっと骨休みといきましょうか。丁度仕上げたい仕事もあるので外にちらつく雪を見ながら家で過ごすことにします。

 しかし自然というのは偉いものですね。たった一日で日本列島全てを10度も温度を下げるのですから・・・・。人間に「日本列島の温度を10度下げなさい」と言われてもそれは不可能というものです。人間は快適さを求めてこんな寒い日でも暖房をして部分的ではありますが春の陽気を作ります。そのためのエネルギーたるや相当なもので、油や電気といったエネルギー源を使って温度を上げるのです。一部分を除いて火鉢と炭はもう私たちの身の回りには残念ながら存在しません。火鉢を知っている私たち世代はもう賞味期限が切れ掛かっているのかも知れませんね。

  「火鉢って 尋ねられたら どう答う こんなまるいの 言って分らず」

  「弁当を 横目で眺め パンを食う これで十分 働き応じて」

  「タケノコが なんでこんなに 強い竹 なるのか分らず 黙と節抜く」

  「あれだけで 足腰痛く なりにけり 老化言われて 十分納得」 

 

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shin-1さんの日記

○山口県美川町からメールが届く

 私は日本全国色々な街のまちづくりについてお手伝いしたり、まちづくり人と深い交流がありますが、今日山口県美川町の藤本美夕紀さんからメールが届きました。藤本さんは名前が美由紀でなく美夕紀とちょっと変わっており、夕日の町の私としては「一目会ったその日から恋の花咲く時もある」なんて感じで、一変に深い仲になりました。深い仲といっても彼女が私の講演会に来ていて、講演会終了後私に質問したというただそれだけなんです。そして私にメールが来たというただそれだけなんです。でもその出会いが感傷的で、もう間もなく岩国市と合併する美川町のまちづくりについてメールのやり取りを通して随分深い仲になったのです。

 美川町では昨日合併を間近に控え閉町記念の式典があったそうです。藤本さんの所属するグループでは同時に開催されたふるさと祭りの餅つきを担当したそうですが、やがて消えゆく美川町という自治体への愛着をメールの端々に感じました。もし岡さんという美川町の課長さんと知り合っていなかったら藤本さんとの出会いも無かったでしょうが、まるでドラマの結末を見るように岡課長さんは今回のまちづくりの仕掛けを見届けるように、定年で30数年の役場生活に別れを告げるのです。岡課長さんとは公民館活動時代に知り合い、わが家にも研修にやって来てお互い酒によって炬燵で雑魚寝をした間柄ですがその几帳面な正確や仕事を最後までやり抜く姿は頭が下がる思いでした。田舎の小さな役場ながらここにも一人の老兵(60歳ですので老兵は失礼かも)が静かに職場を去って行くのです。惜しまれながら・・・・・。

 藤本さんのメールには閉町記念式典での岡課長さんの感慨深げな様子が、一人の女性の目を通してリアルに表現されていました。華やかなスポットとを浴びる訳でもない一役場職員の姿がこれほど印象深く表現されている文章は見たことも読んだこともなく、私の方がウルウルでした。ふと昨年退職した退職当時の自分の姿を思い出し、そのシーンをダブらせていました。一週間前に彼から届いたメールには職場の皆さんと退職記念のミニ旅行を計画し大阪で楽しい一夜を過ごしたと書いていました。

 まちそれぞれ、人それぞれにそれぞれの動きや人生があります。岡課長さんのこれからの人生が幸せでありますように、そして藤本さん、これからの新岩国市美川地区への熱い想いを頼みます。

  「あの町も 歴史閉じるか 寂しいね メール読みつつ ついぞしんみり」

  「一時代 築いた人が ここにいる 縁の下だが 土台となりて」

  「美夕紀さん も少し早く 出会ったら 恋の一つも したであろうに」

  「食卓に 並んだガニメ 食べながら 遠い昔や あの人思う」

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shin-1さんの日記

○世の中を憂える人

 今の日本を見て憂える人は多いはずですが、私のようにただただ傍観者に過ぎず、何の策も打たぬままその日が過ぎ去っててゆくことに心が痛んで仕方がありません。「何もあなたがそんなに悩まなくても」とか、「あなたが悩んでも世の中は変わらない」といわれるかも知れません。でも何とかしたいものですね。国家を論じるつもりはありませんが、せめて自分の手の届きうる我が家や自治会長をしている自分の集落だけでも何とかしようと少しずつ始めています。

 昨日はあいにくの雨でしたが、午後から雨がやんだので灘町集会所の横にある海岸の清掃を一人でしました。この海岸はもとも海水浴場でしたが隣にシーサイド公園ができたためお払い箱となって、今は家族連れや仲間内の野外活動の場所として使われています。今はシーズンオフで訪れる人もなく漂流ゴミが沢山ありました。

 近くの方が散歩をしていて私の清掃をしている姿を見て一緒にゴミを集めてくれました。夏になると近所の人たちは花火や騒音に悩まされるそうですが、綺麗にしないとゴミを置いて帰るので時々は散歩のついでにゴミを拾うのだと言っていました。私の小さな行いは一人の同調者と行動者を生みました。このように小さな親切の輪が少しずつでも広がると地域は良くなるのですから、私から始めなければならないと思います。すっかり綺麗になった浜辺を見て自己満足でしたが、綺麗にしたからといって漂流ゴミが流れ着かないことはありません。でも綺麗にしておくことでゴミを捨てる連鎖反応は少しでも減るのです。

 現代人は看板の文字が読めあいのでしょうか。海岸には昔私が立てた「ゴミは持ち帰りましょう」という看板のがくたびれて立っていました。その看板の横には「なんだこんな看板無視しろ」と言わんばかりにゴミがおいてありました。

 さて私と近所の人が集めたこのゴミは一体誰が処理するのでしょうか。私は役場に掛け合いに行くのが億劫です。何故なら多分押し問答やたらい回しになるからです。昨年も一斉清掃の折みんなで海岸清掃をしました。膨大なゴミだったものですから役場の担当者に電話をかけて処理を依頼しましたら、「それは海岸ゴミで私の所ではありません。産業建設課に言ってください」t言われました。産業建設課へ言ったところ「これはゴミですから生活環境課です」と振られました。結局は自分たちがトラックを借りて清掃センターへ持って行く羽目になりました。じゃあ処理費用はでまた大もめです。掃除という綺麗な善意の花はものの見事にしぼみました。「役場に勤めていたからって大きな顔するな」という後輩の冷たい目と、「役場に勤めていたのに顔も効かないのか」という住民の冷たい目に晒され寂しい思いをしました。

 今朝早起きをしてそのゴミをゴミ袋に入れ、ゴミ出しの所へ少しずつ出すようにしようと決意をして持って行きました。これ以外方法が見つからないので収集車のおじさんごめんなさい。

  「掃除する 集めたゴミは どうするの 言ったところで それはうちでは」

  「捨てないで 書いた看板 直ぐ横に ゴミを置き去る 看板読めぬか」

  「俺一人 それでもゴミは 少しでも 減ってゆくから あせらず始める」

  「昨晩は 綺麗だった 砂浜が 今朝はまたゴミ 元の木阿弥」

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shin-1さんの日記

○新聞のスクラップ

 私は若い頃から新聞のスクラップをやってきました。特に注目する記事があると切り抜いて大学ノートに張ってゆくのです。本とてまともに買えない自分としてはこれが最大の武器になっていた頃がありました。しかし何年か前100冊にものぼるそのスクラップブックを畑の隅で焼きました。当時の心境がどういうことだったのか今は思い出せませんが、焼いたことですっきりしたことを思い出しました。また頂いた名刺もその都度処分をしてきましたので、私の手元にあるのはこの一年間で貰ったものが殆どです。

 昨日書棚の整理をしていて膨大な新聞スクラップを見つけました。それは双海町や自分に関する新聞や雑誌の切抜きで、何年か前に焼却処分したものの中からより分けて取っておいたものなのです。その数やこれまた沢山でこれはさすがに処分することもできず、妻に頼んでダンボール箱を用意してもらいその中へ入れて書棚の上へしまいました。暇が出来たらこの整理をと思うことの繰り返しがまた段ボール箱とは情けない話ながら、この使い道を何とか考えなければならないと思っています。

 一つの案は水平線の家の板張りの壁に貼り付ける方法です。そうすれば来た人が懐かしがって見てくれるかもしれません。先日逆手塾の下見にやって来た和田さんはこの板壁は落書き用にした方が楽しいと発案してくれたのですが、息子に大反対されそうなので今のところは思案中です。もう一つはオーソドックスながらスクラップブックにファイルして保存することです。これは暇さえあれば出来ることですが、今の私には板張りの壁に貼り付ける案が一番と考えています。

 もう一つこれまた膨大なビデオテープの処分です。今のところ煙会所の倉庫にしまっていますが、これも磁気テープなのでDVDにダビングするとなると、これまた専用の機械と手間が必要ななってきます。

 若い頃から青年団やまちづくりなど社会活動に携わってきた私には今のところ足跡は何も残っていませんが、記事のスクラップとビデオテープは何とか整理をしておかないといけないと思っています。この4・5日ブログにこんな心境の変化ばかしを書くものですから、読んだ人たちが心配して「若松さんの様子が少しおかしい」と話しているそうです。言われてみれば自分でもおかしいくらい身辺整理が必要だと思うようになっているのです。でも決して頭がいかれたわけではないので悪しからず・・・・・。

 もう一回運べば本の移転も終わります。三寒四温の季節のめぐりで、今日の暖かさと一変して明日は真冬並みの寒さと天気予報が入りました。風邪など引かれませんように。

  「長年の 新聞切り抜き スクラップ 捨てるは惜しい 再び箱に」

  「新聞や テレビ取材で 夕日売る 人のフンドシ 何度も使い」

  「人の目に ついて値打ちの ピーアール 板壁張って 読んでもらおか」

  「板壁に 落書きせよと 友が言う 俺は古いか それはどうにも」 

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shin-1さんの日記

○日本人の美学

 日本人の美学はあえて自己主張しないことを教えているように思います。様々な矛盾があっても文句を言わずただ黙っていることが美学とされてきました。私のように役場職員でありながら夕日などを地域資源にまちづくりをしてきた人間は、急激な変革を望まず安心安全を求める周りの人から標的にされ、私の自己主張は何度もその美学のために無視されました。無視されるだけならまだ堪えられますが、自己主張をしない鬱憤は「ひそひそ話」という噂話として暗黙の威圧をかけるのです。「あなたのことを思って言うのですが、みんながこんな噂をしよります」と、私を気遣って耳打ちしてくれるこの善人ぶった人に何人も出会ってきました。「みんなとは誰?」と問い返すと「噂だから」ととぼけるのですが、この「みんな」というのは自分の中で群集を味方に引き入れようとしているだけなのです。

 自己主張するときついです。言ったことはやらない訳にはいきませんので行動する、するとまたその行動を批判され結局は多少の失敗は「それ見たことか」「言わぬことではない」と増幅され立ち上がれなくするのです。

 欧米人のように小さいころから自己主張を学び納得できないことに対しては、相手にどんな権威があろうとも意見を言い、年齢に関係なく自分のライフスタイルを貫く姿は日本人には残念ながらありません。故に「丸く治める」という美学が失敗経験をしない人間を作っているのです。自己主張をしない人は自己活動をしない人に繋がります。何もしないから何も失敗をしない、遅れず慌てず休まず仕事せず辞めない、良い人と呼ばれる人が本当によい人なのでしょうか。

 最近「ガンと戦う」という本を読みました。昔のようにガンを本人に知らせない時代は終わりました。「がん告知」や「インフォームドコンセント」などが医学会で話題になっていますが、日本人の自己主張しない美学がガンをのさばらせているというのです。ある調査によるとガンを本人に知らせた時、①ガンに対し闘争心を持ち対応した人、②病気であるはずがないとはなから否定した人、③冷静に受け入れた人、④絶望感を持った人それぞれでしたが、生存率が最も高かったのは①の闘争心を持った人だったそうです。つまり自己主張しない日本人はガンに弱いという結論です。もう少し言いたいことをいう日本人になりたいものです。

  「ガン告知 されたら自分 どのタイプ 俺は①だと はっきり言える」

  「美学にも 色々あるが 陰口は 美学と言えぬ だから混乱」

  「何もせず 何も言わずに 人生を 終わるあなたで いいのでしょうか」

  「風なびく 柳の枝の 吹流し カエル飛びつく 俺もあのように」

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shin-1さんの日記

○「読めぬこと」はいいことなのでしょうか

 昨日の交流会で、佐賀関の渡辺さんが、「若松さんあなたのブログにはよくお父さんや奥さんが登場しますね」と言われてびっくりしました。そう言われたので直近の自分のブログを読んでみましたが、確かに親父や妻、それに孫までもが度々登場しているのです。私はハッと気付きました。親父も妻も孫もブログが読めないことを発見したのです。妻はその気になれば職場のパソコンを使えるので読めるかもしれないし、妻の仲間の中には私のブログを読んで感想を言う人もいますから、絶対読めないのは親父と孫くらい、いや孫も両親が殆どを読んでいるからまったく無縁は親父くらいなものでしょう。

 読まないということは何を書いてもいいと思う安心感が私の心にあったかも知れないと思うと、急に不安になってきました。元々妻を登場させることはしない考えでした。しかし私が出版した自著本の中にも僅か1.2度いい訳程度に登場した場面を見て友人が、「若松さん、あなたが今日あるのは奥さんのお陰ですからもっと奥さんのことを書かなくては」と不満の忠告を受けました。確かにそうだなと認めていたので、罪滅ぼしのつもりで書き始めたのですが、「どうせ妻は読まないだろう」と少々鷹を食っていたようです。

 妻が私のブログを全て読んだらどういう感想を持つでしょう。まず確率的に高いのは「お父さん私のことは恥ずかしから書かないで」と止められるでしょう。次に予想されるのは「朝早くから夜遅くまでパソコンの前に座って、手っきり仕事をしているのかと思っていたら、私のことを書くなんて、何でこんな恥ずかしいこと書いたの」でしょう。けなされても褒められることは絶対にないと思いました。挙句の果ては「消して」とか口を利かなくなる夫婦喧嘩のネタになりそうです。この上は親父も妻も孫も時効が成立するまでは読まないことを願っています。時効とは多分この記事を書く作業を当面の目標である1年、つまり今年の私の誕生日くらいまででしょうか。渡辺さんは私にいらぬことを気付かせました。でも渡辺さんの一言がなかったら親父も妻も孫も私の餌食になる所でした。少しだけ親父と妻と孫を意識した文章を書きますので許してください。

 自分のブログを読んで気がつくことがもう一つありました。それは私が昔(まだ一年なので昔といえるかどうか)勤めていた役所へのメッセージです。それは一市民の立場になって気付いた役所の非常識を常識という形で考えて欲しい、いわば「こうしたら市民が幸せになります」という提案なのです。この文章も時には辛辣に、時には優しく書いているのですが、情報のメッカといわれる役所なのに反応はまったくといってよいほどないのです。私はこのことそのものが非常識だと思っています。よく役所の偉い人はあいさつで「市民の声なき声に耳を傾け」なんて歯の浮くようなあいさつをしていますが、市民のブログは仕事中に盗み読みするくらいで、そのブログに書き込みなどしないのですからこれも困ったものです。まあ腹を立てる私が悪いと思って下さい。

  「ブログ読み 忠告意見 下さって なるほど感じる 今から直す」

  「読んだのに 読まないふりし やり過ごす これも問題 声は届かず」

  「このブログ 妻孫親父 読めぬのを 初めて意識 友の一言」

  「顔洗う 前に座って ブログ書く 私の日課 変化しました」 

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shin-1さんの日記

○今日は関アジ・関サバ食べたよ

 今日は友人の教育長就任祝賀会に出席するため西予市へ行って只今23時にわが家へ帰って来ました。私のように教育長を辞めた人もいれば、教育長になった人もいて、世の中は面白いものです。祝賀会といっても飲み友達だけのこじんまりした宴席でしたので、みんなワイワイガヤガヤやりました。

 その席に旧佐賀関町(現大分市)の友人渡辺さんがやって来ていました。彼とはまだ3度しか会っていませんがまるで古い古い仲間のように私のことも彼のこともお互いが理解しあったよき友人です。彼は私のブログの愛読者なので私の近況は私以上と思われるくらい、丹念に読み丹念に覚えているので多いに話が盛り上がりました。それは何といっても彼が発泡スチロールに入れて持って来たご存知関アジ・関サバのお陰かも知れません。東京で買ったら一匹1万円は下らないという関サバと関アジの刺身は、ブランド品だと心して食べるからかも知れませんが、油がのって口に入れるととろけるような味でした。私は魚所、しかも漁師の家に生まれたため、鯛などの高級魚をふんだんに食べて成長しました。ですから鯛などは別に珍しくもないのですが、サバやアジの方が性に合っているのか青魚が好物ですから、とにかくたらふく食べました。

 いつも新聞やテレビでしか関アジ・関サバは見ていないので「こんなに贅沢して良いのでしょうか」なんて言いながら箸を進めました。私は甘い刺身醤油が苦手です。というのも刺身醤油が勝ち過ぎて素材本来のアジを殺してしまうために、生醤油をお店にお願いして出してもらいました。勿論ワサビは付けず生姜を少し入れて食べました。歯ごたえも喉越しもこれに勝る素材はないと思いました。旧三崎町(現伊方町)の塩崎さんも同席して食べましたが、岬アジ・岬サバのブランドで対抗しているようですが、関物と味は変わらないものの、ブランド力の差はいかんともし難いようです。

 佐賀関も大分市と合併し、三崎町も伊方町と合併をして両町名の自治体は消えましたが、地域づくりの視点から考えると返す返すも残念でなりません。これも時の流れでしょうか。

 そうそう今日の会合で渡辺さんから提案がありました。私がブログの巻末に笑売啖呵を4首書いていますが、ずずらべったりで読みにくいと言われました。一つの提案として5・7・5・7・7の文字間を一文字空けるようにとのことです。私も最初は随分迷ったのですが、啖呵が泣き別れのように二段になるので今の体裁にしましたが、早速今夜の文章から手直ししてみようと思いました。これも関アジ・関・サバのDHAのお陰でしょうか。

  「同じ海 釣る人別なら 関と岬(はな) それでも値段 月とスッポン」

  「関サバの 刺身たらふく 食べました 友のお陰と 感謝をしつつ」

  「教育長 辞めた人あり するありて 辻褄合うから 世の中上手く」

  「心臓が 悪いというのに 酒タバコ 自制できない 早く死ぬかも」

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shin-1さんの日記

○覚え易い数字

 私は余り数字に強くないタイプなののでしょうか、人の電話番号も車の番号も、自分の携帯電話の番号も自分の車のナンバーも未だに直ぐは出てきません。そこへいくとわが妻は実によく覚えていて、昨日も「○○さんから電話が入っていましたよ。電話番号は○○です。直ぐにかけてください」と覚えている番号をすらすらと言うのです。驚き桃の木といったところでしょうか。「人間は何か取り得があるもの」と褒めると、「その褒め方は余り嬉しくない」ととがめられました。妻曰く「あなたは人の名前をおぼえるのが得意、私にはとともとても真似ができません。人間には何か取り得ああるものです」とその褒め方が悪いと私を咎めておきながら、口の渇かないうちにこんな言葉を返されました。まあ担ったら一貫、夫婦足して2で割ったら丁度いい夫婦ってところでしょうか。

 しかし、私のような数字を覚えられない人間でも、最近のように車のナンバープレートを語呂合わせで取っている車などはよく覚えることができます。役所のTさんは6666なんて数字を使ってますし、2525は私の息子の番号です。自分の車の番号も覚えずに、人の車の番号を覚えているのですからおかしな話です。

 先日高知へ行って面白い話を聞きました。日本には3が何と12個も並ぶ緯度経度の地点があるというのです。東経133度33分33秒、北緯33度33分33秒という地点が高知市を流れる江の口川の河口付近に実在します。同じ数字が12個も並ぶ地点は日本でここだけだそうです。そこで思いつくのは村おこしやまちづくり、この奇妙な数字にあやかって高知ロータリークラブが南岸にモニュメントを建て、「地球33番地宣言」をしたそうですが、当時はテレビもそんなに普及していなかった昭和37年頃のことだったので有名にはならずに経過しました。その後高知市が平成3年に「地球33番地フェスティバルを3月3日に333万円の予算で333匹の鯉を地元小学校3年3組の33人の児童で放流するというユニークなイベントをやりました。

 あやかりもここまで徹底するとマスコミが飛びつきますが、じゃあその経済効果はとなると疑問符がつくのです。いくらいいアイディアでも投資効果や地域への定着がなければ川に捨てるようなものです。もう一度その辺を考えて平成33年に向けて考えてみては如何でしょうか。愛媛県から高知県へ伸びる国道はご存知33号線です。高知は晴れの国燦燦と降り注ぐ太陽もサンサン(33)と呼べますし、3を九つ並べればサンキューともいいます。サン(3)フルーツだって、珊(3)瑚だって、3月3日生まれだって何だって3は縁起のよい数字ですから探せばゴロゴロ、面白いですね。

  「携帯も車も番号覚えない数字に弱い俺の欠点」

  「3言われ3のつく事思い出すここから始まる謎解き問答」

  「世の中は面白楽しいことがある思い出しつつ思わずウフフ」

  「うとうととしつつパソコン打ってたら同じ数字が画面いっぱい」

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shin-1さんの日記

○結婚披露宴の司会537組やりました

 そんなに結婚式の司会をやったという意識はありませんが、昨日ある知人から結婚披露宴の司会をやってくれないかと内々打診がありました。その知人は自分の結婚式の司会を私がしていたので、夢よ再びと思ったそうです。やれないことはありませんが何が何でもそれはと、妻の助言もあってお断りをしたのです。

調べてみようと書棚に保管していたこの30年余りの手帳を見みると、やはり紛れもなく結婚披露宴の司会は537組まで通し番号がつけられ、1999年5月12日に終わっているのです。プロの司会者ならいざ知らず、これだけの結婚披露宴の司会を素人がこなすことは容易なことではありません。537組といえば毎日司会をしても優に一年半かかる計算ですから気の遠くなるような数字なのです。手帳のあちこちにはナンバーの打たれた○○家結婚式(司会○○時間~、会場町民会館)などと詳しく書かれていますが、多い年には一年間で20組もやっているのですから驚きです。私が司会した全てのけぅこん披露宴を覚えているわけではありませんが、私の司会をしたカップルは離婚率も低くみんな幸せな家庭を築いています。

 先月ある研修会で講師に招かれ行った会場で、私が若い頃に司会をした結婚披露宴に招かれて私の司会ぶりを体験した人にお目にかかりました。その人の話だと最初披露宴の案内をもらった時、正直気が乗らなかったそうです。双海町という田舎の、しかも生活改善運動の一環で会費制の結婚披露宴なんて、一生に一度だのにと不振がっての出席だったそうです。でも幕を開けてみるとそんな暗い雰囲気どころかハラハラ、ドキドキ、ジーンとする手作りの、それでいて手間暇かけたどの会場にも負けない実に素晴らしい披露宴だったそうです。彼女はそのお礼が言いたくて走り書きのメモとご家庭で作られた立派なトマトを持ってこられていたのです。彼女も私も感激しましたがふとその時のシーンが蘇りました。

 住所が分らずそのままにしておいたのですが、先日知人を介して再び立派なトマトが届き、私はその知人に住所を聞いてお便りを出し、その家を訪ねて双海町特産の煮干しを少しお礼に伺いました。こうしてこの方とはやりとりが始まり、深いご縁を交わすようになったのです。

 結婚式も当世はすっかり様変わりし、まるで芸能人の披露宴かと思わせるような華やかなものから、地味婚まで様々です。幸せになれるのならどんなに派手でお金をかけた結婚式でも良いのですが、一分に一組の離婚が定番となった現代では、結婚とは何かという根本を何か忘れているような気がしてなりません。

  「結婚の司会を頼まれ辞退する自信はあるがやれないそぶり」

  「結婚の司会で俺は度胸つく人の前でもあがらず喋る」

  「やったよな涙と笑いの披露宴お陰でわが家記念の品々」

  「気がつけばあいさつ増えて司会なくそんな歳になったいうこと」

 

 

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shin-1さんの日記

○自分の生き方を変える

 自分の生き方は変えようと思っても中々変わらないものです。過去に失敗を繰り返していれば、「変えたらまた失敗するかも知れない」といらぬ心配をし、過去のそれなりの成果を上げておれば、「今までの成果を捨てるのは勿体無い」とついつい現状に依存するのです。

 私のように退職してもう捨てるものも何も無いと思える人生でも、過去に執着し未来への不安を抱くのが普通の人間ですが、私は以外とさばさばしていて、昨年の3月で随分過去を処分しました。しかしその暮らしが一年間続いた最近、自分の身の回りが以外と変わっていない事に気がつきました。それは多分人間牧場建設という作業がそうさせたのかもしれません。ブログへの挑戦もそんな新しい発想からの変化でした。

 「新」という言葉は「立ち木」とも「辛い」という字にも読めます。「新」を始めるには立ち木」を使って斧で道具を作る辛い仕事であると考えます。木だの斧だのはもう人間の暮らしには必要の無い世の中になったように見えますが、昔は鍬や鎌といった道具は木を斧で削ってt作っていたのです。

 昨日急に自分の身の回りにある本を水平線の家へ移動しようとしたのもそのためでした。空っぽになった書斎の書棚を見てこれこそ私の目指す革新だと思ったのです。この10年、一度も日の目を見なかった書棚の本を見たときに、なんて私は馬鹿なんだろうと思ったものです。

 さあ、私の人生の再出発が始まりました。私の人生は考え方のある意味でゼロに戻ったのです。ゼロから出発しどういう方向に進むのかまだ定かではありませんが、少なくとも書斎の環境が一変したことは間違いありません。この一ヶ月、いや3月中に60年の人生で培ったものや思い切り染み付いた垢を落とすつもりです。やがて、「ああ若松さんは生き方が変わったなあ」と思われるようにリニュアールしたいと思っていますから、どうかご期待下さい。

 明日、私にえひめニューフロンティアグループの会長を押し付けた、ある意味で伝統や格式を重んじる変わらない人間の一人である大野哲治さんが人間牧場にやってきます。私の役目は彼を再生させる役目も負っているのです。私の変身振りにきっと驚くことでしょう。私は生まれ変わったのです。

  「何でなのそんなに変わって大丈夫妻の心配狂った思って」

  「新を書く立ち木に斧で出来上がり漢字作りし先人偉い」

  「俺だってまだまだこれから一勝負元気源妻の後押し」

  「春が来た俺の心も春が来たウグイスさえも春来たさえずる」

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