shin-1さんの日記

○お父さん滅多なこと書かれん

 昨日外出から帰った妻が開口一番言った言葉は「お父さんめったなことは書かれん」という言葉でした。それというのも今日出席した会合で、役所の人で私のブログの愛読者がいて「若松さん、あなたのご主人のブログにはご家族やお孫さん、それにあなたのことが書かれていて、とても楽しく拝見しています」と言ったそうです。寝耳に水の妻は自分が私のブログを読んだことがないので、トンチンカンナ話に終始したそうです。特に体重の話は相当気にしているらしく、顔を赤らめ恥をかいたような錯覚をしていました。だから「私のことは絶対に書かないように」と念を押されてしまいました。

 私はどちらかというとこちらの方言かも知れませんが「あまのじゃく」、つまり「やるな」と言われたらやりたい方ですので、口も渇かないのに妻の事について、妻には内緒で少し補足しておきます。

 私の妻は南予八幡浜の出身です。私の理想の人は南予出身だったのでいわば出身地だけは理想の人です。南予人らしくおっとりしていて、4人の子どもを育てたり、祖母・母の2人を介護をして天国へ送ったり、父の面倒を見たり、更には私のわがままな性格に付き合って多くの人が訪ねてくるのを一手に引き受けてお世話をしてくれています。最も凄かったのはフロンティア塾を開いた時、40回の塾の半分以上は毎回50人もの食事の準備を一手に引き受けてやったことです。

 最初結婚したごろは料理が下手で、私たち家族はたくさんの黒コゲを食べさされました。もし私がガンになったらその黒コゲが原因ではないかと思われるほどです。でも必要は成長を促すのか、我が家へやって来るお客さんのもてなしや、大家族の世話をするうちに今では飛び切り腕の立つ料理人に成長しました。特にお魚ママさんで特訓した魚のさばき方は半端ではなく、トロ箱でいただく親類からの贈りものも冷凍庫という優れものを味方にしてわが家の火の車だった(今もかも)台所を見事にこなしてくれました。

 妻は私の苦手な数字や経済に強く、大学ノートを使った家計簿は中々大したものですし、私にかかってきた電話番号でもメモせず覚えているくらいいです。しかし時間がないのか時間の概念が余りないように思われます。ですから二人で家を出る時はいつも喧嘩になります。遅いと怒る私を見て、まりで一休さんのように「慌てない慌てない」ですから困ったものです。

 まあ、今日は「お父さん滅多のことを書かれん」と釘を刺されましたので少し褒め、少しけなしましたが、これからも妻のことはどしどし書くつもりです。奥さん悪しからず。

  「汗もかく 恥もかきます かきついで ブログに妻の あることないこと」

  「ブログとは 怖いもんだね 筒抜けで 妻の悪口 人が知ってる」

  「大丈夫 一向上達 しない妻 パソコンブログ まだ読めません」

  「妻のこと 書けばすっきり ストレスが なくなる錯覚 私の健康法」

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shin-1さんの日記

○石の上にも3年

 地元の大学に非常勤講師として教えに行くようになって3年が経ちました。私が教育長になったばかりの頃、まちづくりの理論と実践を学生たちに教えて欲しいと大学から依頼があったのですが、私の上と下の人たちは反対をしました。その大きな理由は「本業に集中するように」とのことでした。私は「本業とは何か」を真剣に考えましたが、最後は「あなたの意思だから」ということで仕事に穴を開けない確約で講師をお引き受けしたのです。私にとって毎週水曜日の仕事が終わってからの夕方6時から8時までの講義はかなりきついものでしたが、それでも教育長をしながら2年間、教育長を辞めた後も1年間、通算3年間も講師を勤めました。教育長であるのにあえて講師をしなければならない理由はありませんでしたが、これは私の進化論としての挑戦でした。お陰さまで教育長だけをした人よりはるかに多くの教育理論を学び、教育行政に生かすことが出来たと今でも確信をしています。人は何もしなければ水面に波風は立ちません。また失敗もないでしょう。でもやるのです。

 私はえひめ地域地域政策研究センターの機関紙舞たうんの紙面をお借りして「まちづくりと若者」という文章を都合8回書きましたが、そこここで若者の地域離れが問題になっているだけに関心が高く、色々な意見が寄せられました。

 昨日私のゼミ生からメールが入り人間牧場で仲間とともにまちづくりの勉強がしたいと言ってきました。彼は私のゼミ生でない仲間を誘いたいというのです。嬉しい限りです。今の時代若者が集まらなくて四苦八苦している所は沢山あります。人が集まらないのか人を集めれないのか分りませんが、多分行政なら若者が集まらないと集まらない原因を若者の医師こと行動のせいにします。でも本当は若者は集まりたい気持ちを持っていることをこの3年間で学びました。

 私が教えた学生はこの3年間で僅かに70人足らずです。そんな少数にいくらまちづくり議論を大上段に振りかざしてみたところで、まちづくりの現場は何も変わりませんが、一点突破の風穴は開けたと思ってます。こうした地道な取り組みがかつての青年団のような大きな力となって、社会を動かす日が来ることを祈っています。

 今日は4年目の始まりである先生方との会議が行われました。私にとっても4年目とあって、今年の授業は少し知恵を出そうと秘策を練っています。どうなるかは分りませんが、大学の授業が私の思っていたよりアバウトなとらえ方が出来るようなので一応のメドをつけたいと思っています。

 その意味で人間牧場の構想はビッグチャンスのような気がしています。すでにブログ配信の写真を見て来週にも下見に来るというのです。

  「大学も 出ない私が 教壇に 立って教える 不思議な社会」

  「学生に 教えてもらう ことばかり これでは逆だ 授業料どっち」

  「芽が出たぞ 今度は花だ 実を付けろ そんな期待の 三年でした」

  「大学で ばったり出会い 学生と 立ち話する いいもんだねえ」 

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shin-1さんの日記

○わが家の愛玩動物

 最近はどの家庭でも愛玩動物の一つや二つは飼っているようです。隣のおじさんの家では犬と金魚、その隣では犬と猫に小鳥と様々です。その背景には豊かさと満ち足りない心の充足とでもいうべき何かを感じます。しかも犬や猫は外で飼うという概念が崩れ、犬・猫・鳥はおろかは虫類まで人間と同じ世界で暮らしているのですから異常としか言いようがありません。

 わが家でも子どもが小さい頃子どもの要求に押されて犬を飼い小鳥を飼っていました。しかし子どもたちのその熱も大きくなるにしたがって冷め、また動物の死という悲しい別れに直面して、それ以来飼うのを止めています。時々犬や猫と同居している家へお邪魔することがありますが、多分暮らしている人には当たり前と思っているのでしょうが、何かわが家とは違う動物の匂いのようなものを感じたりすることがあります。

 先日一人暮らしのおばあちゃんに会いましたが、そのおばあちゃんの目が真赤に腫れているのです。よくよく聞いてみると同居していた猫が戸口を開けた途端外に飛び出し、車に引かれ死んでしまったというのです。身寄りのないおばあちゃんにとってこの猫は生きがいであり、唯一の話し相手だっただけに、その悲しみは察するに余りあるものでした。死んだ猫をどのようにして手厚く葬るか考え、市役所に電話をかけたのだそうです。犬猫担当とおばあちゃんが言う人は、多分野犬などの係りの人だと思われますが、人間と同じく猫の死骸をダビにふしお墓を造ってやりたい旨の相談だったようですが、担当者は「猫の死骸は人間と同じには出来ません。ゴミ袋に入れてゴミに出してください」で終わりだったそうです。そのことを聞いておばあちゃんの悲しみは倍化し、目を真赤に腫らしたという次第です。

 人間の世界で身寄りのない人にとって愛玩動物は人間以上の共生の意味を持っています。それをゴミと一緒にされたのでは悲しむのが本当です。だからといっておばあちゃんの願いを聞き届けてダビにふしたりのお手伝いは出来ないでしょうが、せめて心を癒す言葉くらいは持ち合わせた行政マンであったらと、おばあちゃんの話を聞いて思いました。

 わが家にも長男が結婚する前から飼っている土佐金という金魚が数匹飼われています。次男にその世話をするよう伝えて家を出ましたから、ブツブツいいながら次男は金魚の世話をしています。でも飼っているとなつくので今は余りブツブツいう声は聞かれなくなりました。

 人間もそうですが、動物や植物には必ず死なるものがやって来ます。可愛ければ可愛いほど死など考えにくいものなのです。しかし死を覚悟して飼うぐらいの覚悟がなければこのおばあちゃんのように気狂いに似たことになりかねません。ペットの飼い方にはくれぐれもご用心。

  「猫死んで 嘆き悲しむ おばあちゃん 死骸ゴミだと 言われ再び」

  「昔かな 将軍綱吉 お犬様 笑ったけれど それに似たよな」

  「犬猫の 病院人より 大流行 保険利くかと 窓口尋ね」

  「犬の糞 片付けせずに 通り過ぎ ウンが付くのか ウンの尽きだか」

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shin-1さんの日記

○山が萌える春

 上灘川を挟んだわが家の対岸の山は、安山岩の岩肌があちこちに見える急峻な地形の山です。中世の城郭本尊城の跡で、今でも山頂には一級といわれる石類群が残っており、松山城とほぼ同じの高さゆえに海に突き出たような山頂からの眺望はすこぶるよく、城を築いた武将たちの先見性が偲ばれます。まちづくりの草創期私たちはこの山頂に中世の城郭を再現してはと提案し、足しげく山頂に上って矢竹を刈り綿密な調査を行ったものでしたが、その夢もはかなく消えて今はひっそりとした佇まいを見せています。

 この山はわが家から見ると余り綺麗ではありませんが、長浜寄り、つまり唐崎やふたみシーサイド公園から見ると独特の風格で一山をなし、町のシンボルとしての呼び名も高い名山です。この山へ登るには天一稲荷神社からの赤道しかなく車では行けないことから松やクヌギといった自然雑林に覆われ、人工の樹木はまったく植えられていません。ですから季節の変化が著しいのです。

 最近の山は戦後の植林が進んでどの山も年中緑で余り変化のない山が多く、それを人間は美林だと勘違いをしていました。しかし最近になってCO2などの環境問題が取りざたされるようになったり、昨年や一昨年のような相次ぐ台風で杉や桧の脆さが露呈して改めて自然林の自然治癒能力が見直されてくると、手を付けられなかった本尊山のような価値が改めて見直されるようのなったのです。

 今まで金にならない価値のない山とされていた山が人間に優しい山となるなんて、まさに一周遅れのトップランナーのような気がします。この山を見続けている私としては大変喜ばしいことで、年に一度は草深いこの山に感謝の念を持ちながら登って自然の恵みをに感謝しています。しかし残念かな地元の人はこんな時代遅れな山へは登ろうとしません。ふと数年前自著「昇る夕日でまちづくり」という本に書いたブラジルリオデジャネイロのことを思い出しました。

 双海町の春分の日頃の夕日は、地球の裏側ブラジルリオデジャネイロの朝日なのですが、そのリオの入り口にはシンボル的な山があってその山頂にはイエスキリストの大きな像が建っています。夕日と朝日こそ違え何か良く似た光景を思い浮かべ、本尊山の山頂にも何かあったら面白いと考えるのは、夢を食べて生きてる私の真骨頂なのですが、この夢は実現出来そうにもありませんのでこのくらいで止めておきます。

 夏の緑、秋のハゼ紅葉やクヌギ紅葉の美しさ、冬の落葉寂しい木枯らしの季節、そしてこの頃になると山桜が咲いて山は一気に芽吹きの頃を向かえ、「山萌える」という表現がピッタリの季節となりました。昨夜来の雨と南の風の恵みでしょうが、こんな季節感を味わえる原風景はわが家の借景だけでは勿体無い気持ちです。今朝も散歩しながら山に向かって大きく深呼吸しました。

  「山萌える 色とりどりの 芽吹き受け 大きく胸を 広げて呼吸」

  「価値のない 山だとみんな 言うけれど 見方変えれば 俺の財産」

  「つわものが 山に築いた 城の跡 草苔深く 今は眠りて」

  「この町の 夕日はリオの 朝日にて いつか訪ねて この目で見たい」

 

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shin-1さんの日記

○イカもタコも足は八本

 孫と昨日お絵書きをしました。私たちは普通イカは10本タコは8本と子どもの頃から教わってきました。ところが先日漁師をしている親類から届いたタコは茹でるまでは気がつかなかったのですが、茹で上がっていざ刺身にしようとして切り分けてみると何と足が7本なのです。何だか気持ちが悪いと妻が言いましたが、タコの足は最大が8本で中には外敵に襲われたり共食いで自分の足を食ったりで7本や6本だってあるのです。時には無くなった場所から赤ちゃんタコの足みたいな不揃いな足が生えていることだってあるのです。でも孫に教えるときは必ずタコの足は8本と教えながら書きました。

 さて本日の問題はここからです。イカの足は果たして何本でしょう。そう入学試験の問題が出たら正解は10本なのですが、これは正しくも間違っています。「えっ、どっちだ」と言われそうですが、イカの足は確かに10本あります。しかしその内の2本は他の足より長く触腕と呼ばれています。触腕は餌を捕獲するときに活躍する」利き腕のような存在なのです。他の足と異なり吸盤が先の方に集中しているのも自在に動かしながらハンティングするのに有利なように出来ています。

 イカはどうして泳ぐかというと体内に水を取り込み小さな穴から噴射させることで推進力を得るのですが、あの小さな体で時速10キロから0キロまでの速さで移動出来るというから驚きです。イカは無脊椎動物ですが水を利用したジェット噴射ができる優れものなのです。

 私の町は猟師町なのでイカやタコを見る機会が多いのですが、イカの目はこれならよく見えるなあと思われるほど立派な目をしています。イカはこの目をレーダーのように使って遠くからでも獲物の存在をキャッチできるのだそうです。

 巨大なイカが人間を襲う映画が話題となりましたが、あれは大きいものは体長20メートルにもなるダイオウイカだったのかも知れません。

  「タコ八で イカは十本 足の数 孫に説明 画用紙いっぱい」

  「本当は タコ八イカ八 二本腕 みんな知らない 俺は博士だ」

  「イカ刺しで ちょいといっぱい 飲み屋さん 生きたまま出て しばらく観察」

  「イーカんじ イカれた俺に イカす妻 イカに褒めても イカり直らず」 

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shin-1さんの日記

○これが150年の年輪を刻んだ高知県魚梁瀬杉の切り株

 双海町出身で高知大学に通っている堀川奈津さんがインターンシップでまちづくりのお手伝いに行っていた高知県安芸郡奈半利町へ講演に行った折、ふとしたことからまちづくりの中心メンバーである坂本利男さんと出会いました。彼は百姓はするは養鶏はするは、また高知新聞の直売所はするはと手広く事業を行っており、その生き方に感服していますが、彼から貰った魚梁瀬杉の切り株が我が家へ届いてから、親父と切り株の格闘が冬の寒さの中で行われ、その成果物が水平線の家へ運ばれたことはブログでも紹介しましたが、どんなになったかはお知らせしておりませんでした写真でお見せします。

 切り株の年輪は数えてみましたがとにかく目が込んでいて数えづらいのですが有に150くらいはありました。したがってこの杉は150年生と呼んではばかりません。こんな大きな杉の木が果たして何処に生えていたのか坂本利男さんに一度お聞きし、その現地を訪ねたいと思っています。想像もつきませんが多分150年生の杉の木は天をも覆う大きな木であることは間違いありませんし、この切り株の年輪に比べたら私の年齢なんて僅か3分の1程度でまだまだ青年の木なのです。

 それにしてもこの切り株を貰った私より、この切り株に再び命を吹き込んでテーブル台にする作業は相当な労力だったのだろうと思うと、88歳の親父の技は素人ながら大変な仕事だったようです。当てにならない息子より当てになる友人にお願いしていびつな切り口を木の個性を出来るだけ活かして使い、テーブル台に仕上げました。下の脚はまさに職人芸でいびつなままで横木を巧みに配置しテーブル台の上は水平を保つように出来ているのです。これぞ水平線の家の最も素晴らしい調度品です。杉の年齢150年に親父の年輪88年を合わせて240年の労作なのです。

 馬路村の上流に位置する魚梁瀬地区は魚梁瀬杉に詳しい馬路村役場の木下さんの話によると、魚梁瀬杉も戦後の伐採で古木はかなり減っているそうです。九州の世界遺産に登録されている縄文杉で有名な屋久島でも屋久杉は減っており、その価値が高くなればなるほど人間は手に入れたいエゴのような気持ちが生まれてくるのです。

 この切り株は魚梁瀬杉の物語と親父の物語の合作です。山が海の恋人なら杉が育った魚梁瀬の地は川と海で結ばれ、果てしない山野を越えて瀬戸内海を見下ろす山の一角人間牧場にたどり着きました。150年生の杉の木はこれから終焉の地水平線の家で一体どんな夢を見るのでしょうか。

  「この杉は 江戸の終わりに 芽を出して 竜馬の脱藩 見つめて育つ」

  「切り株と 厳冬格闘 した末に 見事なテーブル 山に登りぬ」

  「一二三 数えて驚く 木の太さ 一つ一年 何と百五十も」

  「坂本さん 龍馬の末裔 かも知れぬ 俺に託すは どんな生き方」 

  

 

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shin-1さんの日記

○これが人間牧場の水平線の家です

 間口4間半、奥行き2間半、まるで2階建てのようなこの木造の建物が、ブログ本邦初公開の人間牧場の中心施設である水平線の家です。これまでデジカメの写真を圧縮することが私の技術では残念ながら出来なかったため公開が遅れていましたが、いよいよその姿をブログ上でお見せする事になりました。建築構想が浮かび上がってから丁度一年目のことですので感慨も一入です。これまでにも昨年9月から始めたブログの愛読者からは「人間牧場の記事は読むけどその実態が分らない」「写真で紹介して欲しい」などのリクエストが再三再四寄せられていました。それでも見たいという人が後を立たず工事中や工事現場に沢山の人がやって来ました。この水平線の家を見て感激した人、それ程でもないと落胆した人様々ですが、それでもオーナーの私としましては、目いっぱい頑張ったつもりだし設計した息子も私の頑固でこだわった主張をよくぞ表現してくれたと感謝しています。

 水平線の家は片屋根式です。海に面した北側がまるで2階のように高くなっています。人間牧場が海抜100メートルに位置して急峻なため部屋の大きさと同じ広さのウッドデッキは、スライドして開く3間半の窓を開けると室内の広さが倍になるよう設計されています。このウッドデッキからの眺望は絶景ですし、室内から眺めるとウッドデッキが地球のごたごたを全部消し去って海・水平線・空・島・雲しか見えません。このことも水平線の家という命名の源なのです。

 外壁のペンキは防腐剤ですが、木調色でとても周囲の風景にマッチしています。勿論このペンキ塗りは私たち家族の共同作業で塗りました。少しムラがあるのもお愛嬌です。

 来る人たちが異口同音に言うのは「私もこんなセカンドハウスを手に入れたい」という願望です。そしてその口裏として「どのくらいお金をかけたの」です。確かに県庁所在地の松山市から1時間程度、海が見えて夕日が見える場所にセカンドハウスを造りたいというのは中年男の最後の願望かもしれません。もし手の届きうる金額だったらと思うのも無理からぬことです。その度に私はポール・J・マイヤーの言葉「鮮やかに想像し熱烈に望み心から信じ魂を込めた熱意を持って行動すれば何事もついには実現する」という言葉を引用して説明するのです。お金より優先するのは「何をしたいか」なのです。

 田舎にこんな夢のような私設を造ることは容易なことではありません。土地を探し、水を確保し、地域との人間関係を築き、仲間を集め、豊かな人生を共有する。ワクワクするけれど難問が幾つも前へ立ちはだかります。それを一つ一つクリアーしてこその成果物なのです。でもここからがまた大変です。この施設を維持し何のなめに使うかという知恵がなければ、芸能人が金に明かして別荘を持つのと一緒です。焼肉を食ったりするだけではいけないのです。

  「五右衛門の 写真配信 ブログにて 早速メール 早く行きたい」

  「なんぼ要る 必ず聞かれる 金のこと そんなことより 何をしたいの」

  「いいとこだ 異口同音に 美辞麗句 訪ねた人は みんな感嘆」

  「海と空 これがコスモス 牧場と 夢の世界を 言うが人には」




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shin-1さんの日記

○私の人生はどんな色?でどんな時代?

 自分の人生を色や時代で表現すると今の自分はどんな色でどんな時代だろうと考えてみました。今の自分の人生をばら色なんて輝く表現はできませんから、さしずめ黄色と表現しましょう。そんなに遠くない昔、「幸せの黄色いハンカチ」という高倉健と倍賞千恵子の北海道の炭鉱が舞台になった映画を見ましたが、赤や青の連続した人生の果てに迎えた今の心境は、少しだけハッピーエンド的な黄色がピッタリのようです。降り返れば私にも社会教育に燃え、町名変更に燃え、夕日に燃え、まちづくりに燃えた赤の時代がありました。その赤く燃えた分だけ裏返しとして真っ青な失敗や反対に一喜一憂した時代もあったのです。言い換えれば赤と青が交互に襲ってきたから赤は赤でより鮮明に、青は青でより深い青となって心に焼きついているのだと思うのです。同じ赤と青の時代にも若草色の期間も混在しました。初めて子どもが生まれた時の喜び、長男が生まれた時の喜び、青年お船でアメリカやメキシコを旅した時の喜びは、まさに草燃える春の色だったように思うのです。

 ここでは何故か赤い色の文字で表現しようとしていますが、わが人生の黒色の代表格は何といっても母親の死です。祖母も祖々父母も見送り叔父や叔母も見送りましたが母の死は格別な黒色でした。台風襲来で裏山が崩れその片付け作業中チエンソーで足を切った時も一瞬ではありましたが黒色です。でも何故か黒色であるはずの昨年3月31日はブラックデーではなく黄色でした。たった2年間でしたが激務に明け暮れた教育長としての役割から解き放たれ、しかも35年間の公務員生活に終止符を打てた安堵感が黄色に感じさせたのかも知れません。

 ああ、ばら色で思い出しましたが、たった15分間の見合いで妻と知り合い結婚を決めたあの頃は短いながらばら色でしたし、アメリカから帰って一念発起して自宅を新築した時もばら色だったようです。でもその後には赤貧洗うが如しとまではいきませんでしたが、ローンや子育てで妻にはかなり窮屈な思いをさせたようです。

 孫の声を聞くと赤くなり、妻の声を聞くと灰色になる、まあ一日のうちでもこうして色々な色が交互に現れるのは人生が充実しているからなのかもし知れません。打ち沈んだ老後を一人寂しく過ごす黒色な人生はご免こうむりたいものですが、人生は一寸先はどうなるか分りません。でもたとえそれが沈んだ色の人生であっても明るい色の人生にするよう努力すればいいのです。今の時代のスピードは私たちにとってはあまりにも速過ぎ変化が多過ぎます。そう感じるのはスピードの速さと変化の大きさについて行けない人間になっているという自覚も必要でしょう。その自覚をしてマイペースで明るい色の人生を生きて行きたいものです。

  「今の俺 色に例えりゃ 黄色です 信号注意 いやいやし・あ・わ・せ」

  「孫の声 若草色と 思いきや いきなり妻の 声で灰色」

  「俺だって ばら色人生 ありました もう来ないかも あんな楽しさ」

  「ふと見れば 周り素敵な 春の色 赤青黄色 いい色染まろ」

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shin-1さんの日記

○お酒をお土産に貰うのですが

 私は全国を旅している関係上行く先々でお土産にお酒類をいただきます。日本酒、焼酎、ワインなど全国には地酒と称するものが数えきれないほどあるようで、その土地の水と原料を使っているだけにお菓子と並んでお酒はやはりお土産として最適なのでしょう。最近は地酒を差し上げても重くて大変だろうとわざわざ宅配便で送ってくれる所もあって恐縮します。

 私に頂いたお酒はもっぱら私の家にやって来るお客に振舞い酒として使われますが、酒好きの友人は私が酒を飲まないことやわが家にそうしたお酒が転がっていることを知っているようで、時々やってきては寝酒用に持って帰るのです。お土産に頂いたものの中には中々手に入らない名品もあるようで、酒飲みはそこいらをちゃんと知っているのです。

 私たちまちづくり人の話題が満載な雑誌に「舞たうn」というのがあります。えひめ地域政策研究センターが発行している機関紙なのですが、今月号は「酒文化と地域とのかかわり」が特集で組まれています。普通お酒は飲むもので記事にはなりにくいのでしょう、今まで88号も発行を重ねているのに酒などというテーマはありませんでしたし、地域づくりの現場でも三人寄れば酒の話しなのに何故か取り上げられることはありませんでした。そういう意味から言うと大胆で、表紙の挿絵を見た瞬間懐かしく読んでみたい気持ちになりました。

 編集子の兵頭さんが特集への想いを表紙裏に述べているように、「酒は人生の慶事になくてはならないもので、もともと御神酒として神に祀られ、やがて祭事の折に人々に飲まれるようになった。産業の一形態となった現在でも、地域やその文化とかかわりが深い。かつては一村一蔵といわれ、まちなみあるところに酒蔵があったものだったが、今や造りを続ける蔵は減っている。日本酒の低迷と、地域文化やコミュニティの衰退は無関係だろうか」は同感である。

 私の町にも酒蔵は何軒かありましたが、時の流れの中で姿を消し、もうその存在したことすら忘れ去られているのです。P10~P11に愛媛県内の酒蔵一覧表と県内マップが載せられていますが、もしもう数ヶ月早ければわが町の「嶋錦」酒造の酒蔵も載っていただろうにと思うと残念でなりません。双海町の中心地に白壁の酒蔵があります。嶋錦の酒蔵は町並みのシンボル的存在なのですが、今年からついに酒蔵の営業を止めたそうです。嶋錦は町きっての名家で町の歴史を誘導してきた功績は計り知れません。私のように酒蔵を惜しむ寂しさより、歴史を守り受け継いできたご当主の心痛はいかばかりかと、察するに余りあります。

 昨日私の元へビール券が送られてきました。私がビール好きだったことを知っての贈り物なのですが、キリンのラガービールの券を見ながら、ビールをたらふく飲んだ昔が懐かしくなりました。煙会所の4畳半で朝までビールを飲み、空瓶で4畳半の周りを一周した豪快な飲みっぷりは今でも語り草だし、キリンビールのラベルの中のキリンというカタカナを探したりしたことが懐かしく思い出されました。

 酒は飲まずとも酒の思い出は語れるし、酒の席で酒は飲まずとも飲んだような雰囲気で付き合いながら酒の話をしております。

  「この冬は 寒くいい酒 出来た聞く この蔵既に 酒を造らず」

  「蔵のある 白壁風景 街の顔 在りし姿と 写真に収め」

  「酒蔵の 前を通ると 匂ってた 絞る酒の香 子ども心に」

  「お土産に 貰った地酒 人が飲む お礼は私 割に合わぬわ」

 

 

 

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shin-1さんの日記

○PTAの研修会で貰った蘭の鉢植え

 私は時々講演に行った先で花束を貰うことがあると前にも書きましたが、我が家の玄関先に蘭の花が一鉢置いてあります。去年貰ったものですからもうかれこれ4ヶ月も比較的冷たい玄関先で目を楽しませ、心を和ませてくれたのですから花持ちの良い花で、長持ちは他の花々の比ではありません。本当は早く花を切取るのが蘭のためなのでしょうが、惜しくてそのままにしておりました。でも大分くたびれたので残念ながら片付けることにしました。

 蘭は今でこそバイオテクノロジーの培養普及によってあちらこちらに出回っていますが、その豪華さや高級感は貰った人の心に深く焼きつきます。私のような年齢になってリタイアした人間にはもう何ら関係のない話ですが、女性に花を贈る場合、貰った女性が感動する花は断トツでバラの花が一位だそうです。勿論蘭の花もランクインしていました

 ところが昨日雑誌を読んでいて意外な蘭の語源に出会いました。蘭は英語でオーキットといいます。この言葉の語源はギリシャ語のオルキスで意味は何と「睾丸」なのです。厚顔でも紅顔でも抗癌でもない男性の持ち物なのです。意味は簡単で蘭は二つの球根を持っておりその内の一つから花芽花茎が伸びて花をつけるのですがその球根の形が睾丸の形にそっくりなのだそうです。言われて観察して見ると名前の形そのままなのです。このことを知っていたらお堅いはずのPTAから蘭の花は贈られなかっただろうと一人苦笑いをしてしまいました。付け加えておきますが、古代ギリシャでは蘭の球根から作ったサループという飲み物が勢力増強剤や媚薬として売られていたというのです。でもこの花を贈ってくれたPTAの人に悪いので、蘭の名誉を回復するため次のような蘭の花言葉を考えてみました。

 「蘭の花言葉は紅顔です。紅顔は小さな心の恥じらい、相手を思う気持ちを相手に伝えたくても伝えられない心のときめきとでもいえましょう。また蘭は二つの球根を持っています。私とあなたはいいカップルに発展するようにとの願い、つまり球根は求婚へのメッセージなのです。あなたも相手を思う求愛の心が強いのなら蘭を贈っては如何でしょう」なーんて意味不明の花言葉を信じるか信じないかはあなた次第です。

  「深い意味 考えることもない 花言葉 語源を辿れば 贈る気ならず」

  「花貰い 怒る人など いないはず 花に囲まれ 幸せ戸口」

  「花香り 鼻で感じて 楽しむも これまた一興 花ある季節」

  「気がつけば 湯上り妻の 芳しい オーデコロンの 香り感じて」 

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