shin-1さんの日記

○相変わらず多い視察受け入れ

 役場、いえ正式には市役所の地域事務所、いえ正式には市役所の支所から電話が入り、「視察研修を受け入れて欲しい旨の電話が○県○市役所から入りました。○月○日のご都合は如何でしょうか」と問い合わせがよくあります。役場を辞めた人間にこんな電話があるのも不思議といえば不思議です。もう縁もゆかりもない辞めた人間にどうしてこんな電話がかかってくるのでしょうか。普通だとお断りするのが筋でしょうが、私の場合は講演活動で全国を回っているので、「若松さんの話が聞きたいのですが」と注文があるらしいのです。そんな話をホゴにするわけにもいかずついついのこのことなってしまうのですが、一日に二つも重なることもあり、現職の頃と同じような頻度でやって来るものですから余程注意していないと忘れそうで困ってしまいます。

 今日は天気も良いので久々に人間牧場へ作業に行こうと意気込んで弁当持参で車に乗り込みました。ところが車に乗って予定表を見て驚きました。午後2時半に山口県から議員さんが視察に来るようになっているではありませんか。伊予市の議会事務局を介しての議員視察が入っていたのをうっかり忘れるところでした。さあ大忙しです。地域政策総合センターの兵頭さんとの約束もあるし、明日は雨模様なので片付けたい仕事もあるしで大変でした。

 今日の視察は下関市の市会議員さんといっても、合併した豊北町の在任特例議員さんなのです。旧豊北町はこれまでにも何度か講演に足を運び、知人や友人も多い町です。特に夕日の綺麗な町として知られ、夕日マラソンなどのイベントや土井が浜遺跡の人類ミュージアムの館長さんとは下関で合併記念講演会にご一緒した間柄です。

 今日は夕日によるまちづくりや、合併後のまちづくりについて熱心な鋭い質問が相次ぎ、久しぶりにいい研修が短い時間ながら出来ました。合併後のまちづくりは正直いって難問が余りにも多過ぎます。対等合併や合併を円満にするためという理由で、実行も出来ない取り決めを幾つもして、公約違反と思われるうそつき行政がまかり通っている現実を議員さんたちはどう感じているのでしょうか。でもそれを批判すれば「お前は役場に勤めていたのに何で」などと冷たい目で見られるのです。それでも一市民として言うべきことは言おうと言ってますが多勢に無勢のようで侘しい気さえするのです。

 在任特例という法律で下関市は100人を越える議員が誕生しています。これもまた問題といえば問題で問題にならないのが問題のようです。とりわけ議員さんの視察研修は慣例が多いのですが、今日の議員さんはいっぱい質問をし、私の本まで購入して読んだり、私の講演を聞いたりして予備知識を詰め込ん臨んでいました。いやあ立派立派、大したものです。

 合併をしてみてしみじみ思うのですが、普通は首長1に対し議員は複数で首長の力は絶大です。でも合併は最後は議会の議決で決まりますし、首長は首になっても議員は在任特例で残って議会活動が出来るのですから凄いものです。次の選挙でどういう結果が出るか楽しみですね。

  「視察来る 何故か私に 出ろという 全て私が 仕切っていいのか」

  「視察者を 俺に渡して いなくなる 世話の職員 何処へ行ったの」

  「お土産は 饅頭煎餅 酒かもね 今日は違った 懐かしき人」

  「議員にも 熱心な人 いるものだ あれやこれやと 質問しきり」

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shin-1さんの日記

○これが五右衛門風呂・モデルは三歳の孫です

 普通の五右衛門風呂、つまり私たちの子どもの頃のイメージである五右衛門風呂は回りがコンクリートかタイル張りで洗い場から上へ上がって入浴していたでしょう。新調なった人間牧場の五右衛門風呂は回りがウッドデッイになっており、まるで地面に掘った穴に入っていくような雰囲気です。

 先日五右衛門風呂が出来たというので孫を連れて見学に行きました。板戸も出来ていないし窓も出来ていませんでしたが孫はこの五右衛門風呂に入るというのです。早速水もお湯も張っていない風呂釜の中へ入れてやりました。初焚きの初入浴は長男でしたが、実は初入釜は三歳の孫だったのです。孫は余程嬉しかったのかポーズをしてばっちり写真に納まりましたが、その後は私が外に出て所用をしていると不安になったのか「おじいちゃーん」と大声で呼び始めました。多分大泥棒の五右衛門のように下から火を焚かれては大変と思ったのでしょう。

 この五右衛門風呂は写真にある回りのウッドデッキ風の場所が洗い場です。孫の背中部分の板戸が押し上げ式になっており、押し上げてつっかい棒をすると、下界の眺望が開け左と右の板戸はまるで忍者屋敷のような開ければ外の風が吹き込むような面白い仕掛けになっているのです。この五右衛門風呂は下から火を焚くので煙も入ってきます。燻すほどではありませんがこれもまた演出だと設計した息子は言うのです。でも外に暖簾を吊るしている時は風呂に入れる日、その暖簾をくぐって畳2畳の脱衣場に入ると木の香りがして、それは最高の雰囲気です。行く行くはボイラーでの給湯も考えなければならないでしょうが、モデルハウスの今はまだそこまでの設備は必要ないようです。

 でも孫の写真はいいポーズですし、何かほのぼのとします。2~3日前までは写真の圧縮もままならず、右往左往していましたし、今も少なからず右往左往していますがこの写真のように何とか自分でデジカメの写真をブログに取り込めるようになりました。写真は一目瞭然、でもその分文章が疎かにならないよう努力しなければなりませんね。

  「見ておくれ これが私の 孫の顔 風呂に入って 得意げにして」

  「この孫と 一緒にお風呂 入ろうね 約束してる 早く実現」

  「一枚の 写真が語る 説得は どんな文章も 勝てぬ威力が」

  「いい湯だな ドリフの歌が 聞こえそう 朝寝朝酒 朝湯とするか」

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shin-1さんの日記

 モデルの若松あゆみ様、私のパソコン技術が未熟なために、長らく寝かせた大変失礼なフォトを掲載しておりましたが、今日(5月13日)私のパソコン技術が向上し、以下の写真を掲載することが出来ました。しかし、私への今後の戒めとして、縦と横の写真を同時に掲載させてもらいます。悪しからずご了承下さい。

?○横たわる美女とランプ

 私のデジカメ・パソコン技術はこんなものと、この一枚の写真を見て嘆かずにはいられませんでした。この写真を見たモデルの女性は多分激怒するでしょうが、そのうち息子の力を借りて修正をかけますのでそれまでは首と顔を横にして見てください。実はこの写真、人間牧場の五右衛門風呂に昨日点灯したばかりのランプ風の灯りの点灯式を兼ねた記念の一枚なのです。さすが息子だけあって申し分のないアングルと色調で写真を撮り、レトロ調の電灯をインターネットで探してくれました。そしてその記念写真のモデルに息子は自分のお嫁さんを登用したのです。ここまでは順調でした。そしてその写真データーを私のパソコンに入力して帰ってしまったのです。ここまでも完璧です。しかしそれから私の苦悩が始まりました。お目当てのこの一枚の写真を見つけたとき、いい写真だと直感しました。横向きの写真を右へ90度反転しパソコン上は立て組で表示されたのです。ところがデジカメの容量を小さくしないとブログには入らないので、圧縮のための操作を繰り返すうちにその写真は元の通り横向きのままでブログに転送されてこの通りの有様です。でもこの写真を立て組に変える技術はまだ私には備わっていないのでこんな醜態をお見せする事になってしまったのです。

 長男息子の嫁さんは義父の私が言うのもおこがましいのですが、笑顔の素敵な何処へ出しても恥ずかしくない健康的な女性です。息子の嫁には勿体ないと思うほどです。でもそのブログ初デビューのブロマイドがこれではまさに品を下げるだけですから、お約束どおり息子に頼んで早急に修正をかけますので悪しからず、深く深くお詫びいたします。

 それにしてもパソコンは私の頭では難しいです。触った分だけ、失敗の数だけ覚えると息子に説教されていますので、盛んにアタックするのですが、歳のせいにもパソコンのせいにもしたいほど一向に上達しません。多分限界かもと思ったりすることがありますが、まあ気長に気楽に楽しみながらやりたいものです。

 五右衛門風呂の第2期工事はかくして終わりました。天気がよければ明日は人間牧場へ上がってそこら辺を片付け、倉庫へ物を運び入れたいし、薪も整理をしたいと思っています。そしてジャガイモ畑の草を引いたりする農作業も始めなければなりません。だのに中旬から下旬にかけては神社の総代として春祭りの準備や寄付集めで忙しくなりそうです。

  「デジカメで 撮った写真が 横たわり 見ての通りの 醜態さらけ」

  「済みません モデル若嫁 電話にて 何とお詫の 言葉言おうか」

  「ああ俺も 歳をとったか 駄目人間 これも分らず 助け舟呼ぶ」

  「首と顔 左の倒し 写真見る 今頃読んで 思わずウフフ」

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shin-1さんの日記

○若者の目に思わず涙が

 兵庫県の招きで講演に行ったことがきっかけで尼崎の東朋子さんと知り合い、何が何でも来て欲しいと懇願されて再度2月末に兵庫県へ行きました。滅茶苦茶感動屋の東さんから「近いうちに若い者を連れて絶対夕日を見に行くから」と約束をしていました。しかしその時の熱い想いは何時しか冷めるのが普通ですが、東さんのは約束どおり3人の若者を連れてやって来たのです。私もこの時期は何かとご多忙なのですが、何はさて置いてもこのご一行様だけは大切にしなければならないと、案外大切な会をキャンセルしてまで対応しました。昨日の夕方約束の夕方5時にシーサイド公園へやって来た4人を夕日までの短い時間ながら人間牧場へ案内し、色々な話をしました。前日までの大雨が嘘のように晴れ渡り、風はきつくて寒かったものの紛れもない日本一の夕日を鑑賞し、わが煙会所、海舟館の見学が終わる頃には春の陽がとっぷり暮れていましたが、魚吉さんで夕食をとり潮風ふれあい公園に宿を取りました。

 明くる日の今日はリクエストに応えて打つ誇張の町並み視察の途中に大洲祇園公園のぼたん桜や大洲赤レンガ館、それにポコペン横丁、まちの駅朝霧を友人たちと談笑しながら見学、内子の町並みを流し見学した後、中山経由で双海町高見から谷の道を下りて行きました。

 予告もせずいきなり翠小学校を訪ねました。学校には迷惑だろうと思ったのですが、いつものことですので飛び込みで木造校舎の翠小学校へ入って行きました。私にとっては見慣れた風景、見慣れた客扱いなのに彼ら都会育ちの若者には凄く新鮮だったのでしょう。案内されて木造校舎の階段を登りつめた校長室に入ると、突然一人の若者がこらえ切れなくなって大粒の涙を流し始めたのです。私も校長先生も一瞬何があったのか戸惑いましたが、それは紛れもなく感動の涙でした。翠小学校へは学校に内緒の校門外訪問も含めるとかなりの人をご案内するのですが、言葉で「感動しました」と言う人はいますが、感動の涙を流してくれたのは初めてでした。私は「ああ日本にもこんな感受性の強い若者がいるのか」とついつい嬉しくなりました。と同時に翠小学校の持つ教育力の凄さに今一度驚きました。

 学校の校舎が古いことは学校がぼろいことではありません。学校が小さいことは学校の教育成果が小さいことではありません。学校の先生が少ないことはいい先生がいないことではありません。歴史ある木造校舎が時代遅れでなく鉄筋コンクリート校舎が時代遅れなのです。学校は「木に交わって学ぶ」と書きます。「コンクリートに交わって学ぶ」学校は学校とはいえないのかもしれません。

 本来小学校は低学年から高学年までその体力で歩いて行ける距離に置かれています。ところが段々子どもの数が減ってくると、小学校までも統合の話が水面下、いや教育行政では密かに進行していると聞きます。学校を維持存続していくためには相当の費用も要ることでしょう。しかし教育は効果効率だけでは出来ないのです。もしその学校に子どもがいなくなったら話は別ですが、最後の一人になるまで小学校は残さねばならないし、それが教育を受ける権利なのだと思います。勿論赤い屋根の木造校舎は近代化遺産として残して行きたいものです。

  「若者が 感激涙 流すよな 学校今頃 どこにあるんだ」

  「学校は 木に交わって 学ぶとこ 今はコンクリ 庭に木もなく」

  「小学は 子どもが歩く 距離基本 バスで送迎 育つ訳なし」

  「都会にも こんな立派な 若者が 田舎しっかり 肝に銘じて」

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shin-1さんの日記

○ヨモギは雑草か

 先日菜の花は雑草と書いたら賛否両論の意見が帰って来ました。菜の花を愛でる人たちは菜の花を花だと言います。一方お百姓さんは私の意見に同調して菜の花は雑草だとメールを送ってくれました。さてヨモギは雑草でしょうか。畑で農作物を作る人にとってみればヨモギは雑草でしょう。あのミミズのような地下茎は始末に悪く、取っても取ってもネダを枯らすことはありませんし、草刈機で刈ってもまた元気な茎が伸びてくるのです。コンクリートの道路でよく見かける光景ですがコンクリートの継ぎ目の土分もない僅かの隙間からヨモギが芽を出して生きています。また田舎のアスファルトの路肩ではアスファルトを突き破って生えています。このようにヨモギの生命力は実に旺盛なのです。最近の農家は省力化するために草枯らし、いわゆる除草剤をかけます。この除草剤は不思議なことに草は枯れるのですが、何故か作物は枯れません。でもベトナム戦争のあった頃米軍が度重なるゲリラの攻撃を減らそうと枯葉剤をま撒き、これが環境汚染や新生児の発達に大きな影響を与えたことが報告され、大きな社会問題となりました。確かに序す剤を撒いても私たち大人には何の影響もないかのように思われていますが、植物の根まで枯らすいわば毒物が人間にいいはずはありません。たぶん安易に撒いている除草剤は地下に蓄えられ汚染水として循環しながら私たちの暮らしにじわり影響を与えるであろうというのが大方の予想なのです。

 ヨモギは雑草であると同時に薬草としてもよく利用されています。あのもぐさはヨモギが原料だし、ヨモギの乾燥したものは薬用入浴剤とし、あせもや湿疹に効くそうです。そして私たちの暮らしに最も身近なものは草もちの草がヨモギなのです。今日人間牧場へ上がりましたが昨日までの雨水をいっぱい吸ったヨモギが伸び伸びと伸びていました。早速ヨモギをつんで草もちにしたいと秘策を練りました

 もう一つは最近流行のアウトドア天ぷらです。人間牧場の来訪者によもぎや食べれる食材を探してそれで天ぷらをして食べれば美味しい食事が出来上がるのです。幸い人間牧場は除草剤は絶対まかない環境に優しいエリアですから安全な自然食が味わえるのです。気象予報士の清水さんとその話をしたら、清水さんも同じ意見なので、ヨモギを見直す運動を起したい、はいよもぎは雑草ではなく薬草や食草なのだということを認識し、自然とともに生きてゆきましょう。

 ああそうそう忘れていました。茅とヨモギをくくって屋根の上に乗せる魔除けの風習も子どもの頃にありました。何のためだか聞きませんでした。

  「ヨモギとて 雑草処理は 可愛そう 天ぷら草もち 使い道あり」

  「切り傷に ヨモギこすって 止血した 子どもの知恵も まんざらでなし」

  「ヨモギ茅 束ねて屋根に 乗せたっけ 口でまじない もぐもぐ祖母が」

  「足の裏 ツボを探して 灸すえる ヨモギ原料 妻が毎日」

 

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shin-1さんの日記

○会議での意見

 私は現役を引退しているので現役の時代に比べたら月とスッポンの差とも思えるほどに会議は大幅に減りました。今でも不思議に思うのは何で役所はああまで無駄な会議をしなければならないのでしょう。現役晩年はうんざりしつつも、「何故・どうして」と会議をまとめたり廃止したりしましたが、それでも無駄な会議はなくなりませんでした。多分その殆どが対処法だったからです。例えば子どもの事件が起きます。すると上に立つ人は自分の身に降りかかる前に通達を出します。この通達を受けた組織は点検と問題点を洗い出し責任の所在を明確にしながら確認作業を末端組織に指示すべくまた小さな集会を限りなく開くのです。たった一人の責任を回避するため末端では相当の時間と労力をとられ、結果的にその集会だけが来年も引き継がれて行くのです。

 会議とはお互いがお互いの意見を述べ合いながら一致点を見出してゆくのが正しい姿なのですが、中には強烈に自分の意見を述べる人と終始無口を決め込む人の両極端がいて、右往左往します。最後は数の理論が民主主義ですから、大きな声に傾いて一件落着なのです。

 昨日は私が代表を務める会議に出席をしました。最近はFAXやメールの普及によって事前の会議開催通知も全てメールかFAXです。そして議案に対し意見を言い合いますから、議論が広く深まります。しかし欠点もあります。メールやFAXに参加していない人との落差が大きく、その人たちは蚊帳の外に置かれてしまうし、理念やコンセプトに主眼が置かれ過ぎるきらいもあります。

 昨日の集会は20周年を迎えた組織の20周年記念事業の進め方について議論しました。端的に言えば「20年の総括とあるべき姿」の模索なのでしょうが、議論をすればするほど深みに入ってゆくようでした。でもこの議論が実は大切な根っこの部分なので、口角泡を飛ばして議論しました。多分いい結果が出ることでしょう。会議での意見は要約され直ぐにメールで配信されます。事務局の役割もしっかりしているので安心です。

 さて、昨日の会議で意見を言う人は大きく分けて二つのタイプがあるように見受けられました。反応的に話すタイプと主体的に話すタイプです。反応的に話すタイプは状況によって起きた感情に基づき反応して話します。主体的に話すタイプはどういう状況においても自分の価値観に基づき話します。反応的な話には「行わなければならない」「どうそようもない」「○○さえしてくれたら」「彼らは頭にくる」などと否定的な言葉がやたらと出てきます。一方主体的な話には「行くことにした」「代替案を考えよう」「私は○○できる」「自分の感情はコントロールできる」などと肯定的、進歩的な言葉が出てきます。結局は反応的な人は意見が関心の輪に集中し影響の輪が小さくなりますが、主体的な人は意識が影響の輪に集中し、影響の輪が大きくなるのです。

 要は人間は関心の輪(自分で関心があるもの全て・自分でコントロールできないもの)と影響の輪(自分が影響を及ぼすことができるもの・自分でコントロールできるもの)という二つの輪を持っていますが、ストレートに反応するのではなく、自覚(自分を見つめる自分)、想像力(新しい姿を思い描く力)、良心(善と悪の区別のわきまえ)、自由意志(自分の考えで行動できる)という四つの特性を持って反応に反映させる人間を目指さなければならないのです。

 少し難しい持論を展開してしまいましたが、悪しからず。

  「色々な 意見を聞いて 思うこと 主体的なる 意見で生きよう」

  「変えちゃ駄目 だのに変わって 元もなく そんなことって 以外と多い」

  「横文字を 使えば何か 利口そう 俺など日本語 さえも使えぬ」

  「結局は 何が言いたい 言った人 自分さえにも 分らず終い」

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shin-1さんの日記

○アウトサイドインかインサイドアウトか

 自分という人間を評価するには、自分が評価する場合と人が評価する場合がありますが、自分と人の評価は必ずしも一致せず、時には大幅なズレだって生じることがあります。自分では正しいと思って行動しても人はそうは思っていなかった、なんて経験は誰にでもあるはずです。人の声に耳を傾け絶えず自分の存在を意識しながら正しい方向に導くことは、自分の人生を充実したものにするためにやらねばならない作業なのです。中には人の意見などまったく無視し、それを自分の信念だと思い込み自我を通そうとする人もかなりおり、人の世の難しさをしみじみ感じるのです。

 自分が自分の欠点に気付きその欠点を変えようとする場合に最初にやることはアウトサイドインという手法です。私の場合人の前で話をすることがまったく苦手で赤面症かと思われるくらい人の前に出ると上がってしまい思っていることの半分も言えない時代がありました。今の自分を知っている人は「えーっ、うそー」と思うくらい本当の話なのです。一度大失敗をしました。私が23歳の時双海町青年団長候補に推薦され、他の3人と演説で争うことになりました。私は原稿用紙を3枚も書いてウンコ部屋で丸暗記したのです。これなら大丈夫と臨んだ演説会でその原稿の全てを忘れてしまい、頭が真っ白になって何もいえなかったのです。でも結果は応援弁士の巧みな話術によって85パーセントの得票を得て私は青年団長に選ばれました。その時はまだアウトサイドインにその救いの手を求めて、話の上手い人の話を聞いたり、上手く話せる本を読んだりしました。でも自分の欠点に気付いて焦れば焦るほどアウトサイドインでは上手く喋れなかったのです。

 その年、青年学級で「ラブレターの書き方」なる講習を受けました。先生が「どんな美辞麗句を並べても相手のハートは動かない。普段着の気持ちを書こう」というのです。その学びが4回ありましたが、青年学級生は先生の勧められるままに第14回「NHK青年の主張」に80人全員が応募をしました。ところが何故か私の原稿だけが審査に通り、私はNHK松山放送局のオーディションに望んだのです。多分駄目だろうからと五本の指にマジックで自分の主張の粗方を書いて望み、原稿は団長選挙の時と同じようにどうせ忘れるだろうからと持参しませんでした。じつはこれが私のアウトサイドインからインサイドアウトになった瞬間だったのです。

 結果はNHK青年の主張の愛媛県代表に選ばれ、それ以来人の前に立っても余り上がらなくなって話が出来るようになったのです。原稿を書いて覚えこむと、その原稿を忘れまいという考えばかしが先走り、肝心な話がどうしても疎かになります。ですから私は今でもそのことがきっかけで、どんな2時間の講演であろうと原稿など一切持たずに話ができるようになりました。

 アウトサイドインは外側から変えようとする方法ですが、外側から個人を強制的に変革させようとしても帰って反発を招きます。人や組織を指導する場合この手法では決していい成果は生まれません。むしろ内からの変革というインサイドアウトは不可能に近いのです。私はこれまで社会教育やまちづくり、それにボランティア活動でこの手法を使って組織を活性化してきました。勿論家庭の子育てだってこの手法しか方法はないのです。インサイドアウトは個人からの変革、心の変革なのです。

  「外よりも 自分の内に 力あり やれば出来るは 魔法の言葉」

  「話せない 私は欠点 克服し 今はどうにか 内気口下手」

  「あれ程に いつもムダ口 何故か人前 急に上がって」

  「俺にでも 出来るか聞いて 話し出す 少し自信が そうだその意気」 

 

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shin-1さんの日記

○人間牧場を訪ねたい

 私に対して最近とみに多くなったのは「人間牧場を訪ねたいのですが」という言葉です。口頭で言う人もいますが圧倒的に多いのはメールや手紙です。それもそのはず私がブログに「人間牧場」というテーマで記事を書き、雑誌や新聞に「人間牧場」の記事が頻繁に載るからでしょう。その都度私は「まだ完成していないので」と答えるのですが、待ち遠しくて仕方がない方々は私の都合は二の次でどんどんどんどんやって来るのです。一番足繁く通っている人はもう10回以上の頻度ですから驚きます。その都度あの狭い山道やなれない山道への不安に対応するため国道まで迎えに行くのです。でもそんな不安というトンネルを、いや一番先に狭い本当のトンネル抜けるものですから、人間牧場へ上がった時の落差にみんな驚きの声を上げるのです。でも歓迎しようすまいがやって来る仲間の存在は私自身本当に嬉しいのです。そのために造った施設ですのでこれからも日本中のお邪魔虫が沢山やって来ることでしょう。その人たちの心に少しでも温かい希望の灯を点せたらこれ以上の幸せはないのです。

 そんなお邪魔虫の一人に門田眞一さんがいます。これまでは伊予市と双海町という街の違いから疎遠になっていましたが、合併することが決まり同じ伊予市民になることが分ってからは何かと気が合い、今では何でも話し合える気心の知れた、ひょっとして現在の自分の最もいい友人の一人ではないかと思ったりしています。彼は若いが優秀です。私より随分若いのに様々な修羅場を越えていますし、活動も幅が広い人間です。喋れるし書けるし、実践が出来るまちづくり人に必要な条件を全て満たしています。私たちまちづくり人がこの世の中に生きていく上で必要な冒険心と謙虚さを併せ持った今時珍しい男なのです。

 余り褒めると私のブログの愛読者なので「ブログを意識したな」と逆に感ぐられそうなのでこの辺で止めますが、合併して一番の収穫は同じ市民にこういう人がいて、こういう人と活動ができる喜びです。相手は堂思っているか分りませんが多分生涯の友人となることでしょう。

 門田さんは先日道に迷いながら奥さんを連れて人間牧場へ足を運んだそうです。あいにく私が留守でお相手できませんでしたし、カギがかかっていたので窓越しで中を見せることは出来ませんでしたが、いい日和に是非お越しいただきたいものです。

 「春に二日の日和なし」と言われるように、このところ良く雨が降ります。私の忙しさと合わさって、ペンキを塗ってからまだ一度も人間牧場へは足が向きません。息子は五右衛門風呂の電球をせっせとインターネットで買い集め、明日は電気屋さんがやって来て電気工事をするそうです。いよいよ春本番、「人間牧場」にも忙しい季節が訪れつつある今日この頃です。

  「お邪魔虫 春の足音 増えてくる 飲めぬ酒だが 用意しなくちゃ」

  「去年まで 雑草草刈 ヨモギの葉 今年は大事な 食料品に」

  「何時の間に 油屋社長 俺の友 お互い油を 売りつつ生きる」

  「合併は 悪いことだけ 思ったが 人と交わり いい人儲け」 


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shin-1さんの日記

○解纜の季節

 「解纜」と書いたこの文字は何と読むかご存知ですか。はいこれは「かいらん」と読みます。ではその「意味は」と尋ねられると答える人は読める人よりもぐっと減って殆ど分らないのです。国語は大好きな私でもこの言葉の意味は水産高校へ行っていなかったら分らなかったかも知れません。ちなみにこの文字をブログに書きこもうと試みましたが、解は出ても纜は「らん」という読み方では出てこないのです。

 この文字を習ったのは高校3年生の時の秋田忠俊という先生からでした。間もなく愛媛丸という実習船で遠洋航海に出発するという頃、この言葉を習いこの言葉の意味を知りました。もう45年も前の話です。先生は自分の恋人にこの言葉を書いた手紙を送るよう勧めました。今の高校生のように携帯やEメールのなかった時代ですから高校3年生の私たちにとって手紙はとりわけ大切な告白手段でしたが、恋人のいない私は数人の中学時代の女子同級生にこの文字を書いてハガキを出しました。どういう訳か数打った鉄砲の弾が一人の女性に受け止められ、返信の便りが下宿に届いたのです。その時の便りは今でも覚えていますが、「間もなく私は練習船愛媛丸で珊瑚海へと解纜します。正月は赤道直下で迎えるでしょう。帰ったらマグロやサメと格闘した楽しい話や南十字星の話をたっぷり話します」なんてかっこいい話を書きました。

 解纜は出航、船出、つまり纜は「ともづな」という意味なのです。

 私たちの船は基地となっていた神奈川県三浦三崎漁港を出航して珊瑚海へただひたすら南下を続けました。ニューヘブリデスエスピリッツサント島というイギリス領の島に寄港したり、過酷な延縄漁にも耐えて3ヶ月半ぶりに解纜の港へ寄港、纜を再び結んだのでした。

 解纜という言葉を書いた手紙で心を開いたその女性とは何回かの文通を繰り返しましたが、時の流れの中で忘れ去り先日同級会で思いもかけずその女性と会い、その話が彼女の口から話されました。彼女の話によると、解纜という文字は何と読んでよいか辞書を引いてもさっぱり分らなかったそうですが、恩師に尋ねてその意味を知ったそうです。その時は「格好いい言葉だ」と思いあなたに憧れました」と言うのです。「今だから告白するけど」という注釈をいただいはその女性も、数年前ご主人をガンでなくされ苦労をしましたと話されました。

 61年間生きてきて、高校生の時のあの一瞬に教師から習った解纜という言葉をこれまた一瞬思い出しました。その言葉の手紙を書いた青春時代の思い出は、私にとっても私に便りをくれたその人にとっても、もう遠い彼方の思い出です。ブログに紹介するほどのことではありませんが、ひょっとしたらあの手紙のやり取りはラブレターだったのかもしれないとひとりニンマリして書いていたら、横で妻が「お父さん、一人で何ニヤニヤしているの」と声を掛けられ、ハッとわれに帰りました。「うーん、いい夢見てたのになあ」

 春は解纜の季節、人生の船出をした人も多いのではないかと思います。

  「解纜の 訳も分からず 文を出す 届いた返事 昔懐かし」

  「俺だって レターくらいは 来たもんだ もてない男 今頃強気」

  「ニヤニヤと しながら昔 思い出す 妻の一言 夢を砕いて」

  「久しぶり 会ったその人 今だから 言われて顔を 赤くしながら」

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shin-1さんの日記

○北海道へ出かけていました

 寒い二月に東シナ海を越えて2度も沖縄へ春を探しに行った私ですが、昨日と今日の二日間、今度は何と桜散る春を惜しんで津軽海峡を越えて北海道へ旅をしました。松山から羽田経由で十勝帯広空港に降り立ちましたが、そこは春まだ遠からじといった一面白銀の世界にびっくりしたり首をすぼめました。あらためて小さい国ながら日本も広いなあと思ったものです。

 今回は釧勝地区の漁協女性部の一大イベントである研修会が音更町の十勝川温泉で開催され、記念講演を頼まれての出張でした。音更はかつて私が公民館に勤めていた頃長浜町の青年と双海町の青年がチームを組んで国内研修に行った折訪ねた町なので懐かしい土地でしたが、20数年の時の流れは私たちの思い出などどこにも見当たらず白い雪の中に埋もれているようでした。

 大平原という大きなホテルの大広間を会場にした漁協女性部の研修は近隣の漁村から300人もの女性が集まりそれは熱心な研修でしたし、特に昨夜の単位漁協の出し物は歌あり踊りあり、手品ありでそれはそれは楽しいものでまるで田舎芝居を見ているような錯覚にとらわれ、久しぶりに力強いパワーを頂きました。

 私も漁村・漁家の生まれなので、しかも私の死んだ母親は6年間も漁協婦人部の部長をしていたので自分の家に来たような錯覚にとらわれ懐かしさが甦ってきました。

 集まった女性の殆どは、わが双海町の漁家のおばちゃんと一緒で、見るからに働き者といった風貌で、聞くところによると殆どの人が昆布漁や底引き網漁にご主人と毎日海に出て働いている人たちでした。いつかテレビや映画で北海道の番屋で働く人たちの姿をみたことがありますが、ニシンや鮭を相手に奮闘する浜の女を髣髴するような力強さでした。

 北海道の農家では今牛乳が売れず毎日何トンもの牛乳を廃棄処分にせざるを得なかったり、第一次産業を取り巻く環境は決して楽なものではないと聞きました。でも漁家の女性たちは宮城県唐桑で産声を上げた「山は海の恋人運動」に呼応してあちらこちらの原野に木を植える運動を行っているそうです。折角植えた幼木もエゾシカの食害にあって全滅したことあったと述懐してくれました。海で獲れる昆布や牡蠣は山から川を通って流れ出た豊富な栄養分のお陰という考えは、素晴らしい話だと思うし、わが双海町の漁家女性たちも同じようなことを実践し、環境の浄化に貢献している姿は頼もしいと思いました。

 でも「どうして木を植えたら昆布や牡蠣が育つの」の、私の意地悪い質問に「山の鉄分が川から海に流れて」なんて専門的な話は聞けず、「漁連がやれというから」なんて話で動いている答えにはちょっぴり失望はしましたが、まあ「船頭多くして船山登る」ということわざもありますので、そのくらいにしておきましょう。

 浜の女性は律儀だと思ったのは、昨年の連休ごろにわが町へ北海道の派遣で視察研修にやって来ていた数名の女性がわざわざ美味しいとろろ昆布を土産に駆けつけてくれ再会したことでした、。縁もゆかりもないのにこの律儀さには涙が出るほどの嬉しさでした。

 浜の女性は農家の女性に比べ、潮来一枚下地獄といわれる厳しい職場で働くだけに連帯感は大したものです。でもそのことは手つなぎの連帯という封建社会を生み、農家女性のような手放しの連帯が出来ない恨みがあることも事実なので、息も切らさず2時間半も喋り捲った記念講演で「女性が輝く」秘訣と苦言を呈しておきました。それにしても色々な団体が組織率が低下し退潮ムードだと聞くのに、この団体の活力の源は一体何だろうと考えました。その秘密は日掛貯金を源にした経済にありました。

 今回の旅も深いご縁と学びの多いものとなりました。

  「空巡り まるで鳥のよう ひとっ飛び 僅か半日 北の果てまで」

  「今は亡き 母に会うよな 錯覚を 漁協女性部 思い出させて」

  「とろろ昆布 土産に持って 会いにくる たった一度の 縁を忘れず」

  「山に木を 植えて恵みに 感謝する 中々やるじゃん 頭が下がる」

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