shin-1さんの日記

○今日は何曜日?

 退職をして一年が経ちましたが最近は曜日の感覚がまるでなくても生きていけるため、毎朝「今日は何曜日だろう」と自分自身に問いかけるのです。妻にそのことを話すと、「まあ羨ましい。私なんか日曜日だけが休みだから、日曜日の来るのを月曜日から後何日と指折り数えて待っているのに」と言われました。先日も兵庫県尼崎からお客様を迎えるのに、曜日を勘違いして結構慌ててしまいました。私は現職の頃も土日のないまるで月月火水木金金のような暮らしをしていましたので今とそれ程変わったとは意識していません。でもお勤めをしていた時とは随分違うようです。

 最近は土曜日でも学校が休みだし、特に街の中の学校の正門は年中門扉を閉ざしているので、何時が休みなのか登校日なのかさえも分らない始末です。

 私の暮らしで曜日を意識するのはゴミを出す月水金、大学の講義日の水曜日、集会予定の多い土曜日などですが、妻の休日もやはり意識しますし、週末になると孫がやって来るので意識せざるを得ません。

かつて私は父が「今日は何曜日か」と尋ねるのを聞いて「何て羨ましい」と思ったものですが、私がその年齢になろうとは夢にも思っていませんでした。「あなたの仕事は」と聞かれ、「サンデー毎日(毎日が休み)」と冗談を言って大笑いをした一年前のジョークが懐かしく思い出されます。

 今日は土曜日、といっても何にも関係のないことですが、妻に弁当を作ってもらい、熱いお茶を魔法瓶に入れて朝早くから人間牧場の農作業に出かけました。出掛けに隣のおじさんにばったり会い、「何処へ行くのか」尋ねられたので訳を話すと、「雨でも降らなければよいが」と笑われました。何とその予言がピタリ当って、昼前から雨が降り始めました。でも朝が早かった分作業がはかどり、ジャガイモ畑の草削りを兼ねた根寄せと肥料やりは何とか済ませ、周辺を清掃したゴミに火をつけて燃やしました。またススキの株も夏から秋の原風景づくりに一役かってくれていましたが、そろそろ新しい葉っぱと交換したくて、株だけ残して鎌で切り落とし切ったものを焼却処分しほっとしました。この雨で肥料の効きもいいだろうと思います。そうだ今日は半ドンだから昼からは休もうとストーブに薪を入れ寝椅子にゴロリと横たわって本を読んでいるとついつい眠たくなって昼寝を楽しんでしまいました。今夕は二人の女性が人間牧場にやって来ます。野の花でも活けようと思ったのですが、あいにく花瓶が見つからず、迎えに下りた時に花瓶を用意したいと思っています。

 

? 写真がまずくて済みません。実はこの写真は人間牧場に今にも咲かんとする鬼アザミの花なんです。余りの美しい姿についパチリとデジカメを向けてシャッターを押してしまいました。バックが緑の同色なのでさえませんが悪しからず。アザミは雑草で痛いイガを持っていますが、綺麗な花にはトゲがあるの諺どおり実に美しい花を見せてくれます。鎌で刈るのは勿体無いと思い畑の隅に残しています。

 いい天気だと来客の女性に自慢してやりたいところですが、あいにく雨で残念でなりません。

  「土曜日の 仕事をを終えて やって来る サンデー毎日 俺はいつでも」

  「半ドンと 言っても今は 通じない 土曜の昼から ワクワクしたっけ」

  「野の花を 楽しむ術は デジカメで 一年かけて 小まめにシャッター」

  「今日何曜 聞いた相手が悪かった 親父も同じ サンデー毎日」


 


 

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shin-1さんの日記

○同じ課長が部長と主幹に

 合併とは不思議なもので、昨日まで小さな町役場の課長だった人が、合併によって主幹に格下げされたり部長に昇格したり、様々な影響が出ています。しかしその殆どが何の根拠もなくといえば御幣がありますが、化学的な根拠もなく決められてゆくのですからおかしな話です。

 昨日そんな人事を象徴するような二人の人に偶然にも一緒に会いました。部長になった人は市役所の市長や助役の視角や視線を意識するのか常にその中にいるような位置に陣取って、さも「私は中枢にます」と言わんばかりの態度で、昨日まで同じ課長だった人を連れ歩き、名刺を配り膜っているのです。私はその姿が滑稽に見えました。人の値打ちや権威は周りの人が決めるのに、まるで天下を取ったような雰囲気です。勿論私に対しては、私の苦言が怖いのか礼節を尽くしてくれましたが、どう見ても異常としか言いようのない出世なのです。

 一方部長になった前述の彼とは対照的に合併によって誕生した市では、役職の枠が少ないことから旧町の課長から主幹に格下げされた人は、「おい元気か」の声をかけるのが気の毒なような雰囲気で返ってくる言葉にも覇気がなく、私の「人間牧場主若松進一」と書いた名刺を差し出すのに、「名刺など持ち合わせていない」といいながら、私の名刺をおもむろにポケットにしまいました。

 私の目から見ても、同じ年齢なのに一方は白いシーツのかかった椅子や部屋が与えられ、一方は昨日まで「課長さん」と呼ばれてた人が他市町村の課長だった人の部下となって部屋の隅の名もなき椅子に座って息を凝らしたように実務をこなして行くのです。二人とも年齢は一緒で後一年したら定年を迎えますが、前や元の後ろには永久に部長と主幹という肩書きだけが一人歩きするのです。私は年功序列をいいとは言いません。でもこうした人事の妙を見るにつけ、何処が二人の役職の分かれ道になったのか理解に苦しみ、むしろ年功序列も日本の風土には合っている部分もあるのではと思ったりもしました。帰り際、主幹格下げのその人は「若松さん、近いうちに人間牧場へ行かせて下さい。積もる話もありますので」と声を掛け、握手をして分かれました。私は「頑張れよ」と声を掛け「主幹になったからといって給料が下がるわけではないのだから」と笑いを誘いました。

 今回の平成の合併はこんな辻褄の合わない辻褄合わせが沢山ありました。合併時の異動、合併後の人事交流と称する異動、そして今春の異動と早い役所は3回も人事をやりました。丸印のついた人は栄転で新聞の異動便りに華々しく写真入で乗ったりします。一方左遷や降格とおぼしき人は活字も小さく、聞いたこともないような2行にも渡る長ったらしい役職を貰っています。同じ市役所の人事とは思えないほど広域になったため海辺の人は県境近くの山に登り、そこから海辺へと下りて新しい年度が始まりました。人生色々あるものです。でも忘れてならないのは、たとえどんな異動であれプロとしてしっかりと仕事をしてもらいたいものです。

  「昨日まで 同じ課長の 人二人 一方部長で 一方主幹」

  「悪いこと したのか住民 聞くという 課長主幹に 降格されて」

  「前や元 辞めればそんな 肩書きは 糞を食らうが 如きことなり」

  「新部長 急にお偉い 仕草する 昔知ってる 滑稽止めろ」  



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shin-1さんの日記

○坊ちゃん劇場こけら落し演劇鑑賞

 田舎が田舎のゆえんは様々な芸術に触れる機会が少ないことです。都会の芸術全てがよいとはいえません。それでも都会には多様な価値観の人が多く住んでいますから、見たり聞いたりしようと思えば様々な芸術を幾らでも鑑賞することが出来るのです。文化都市という看板は掲げていますが県都松山市でさえも芸術の分野では質量ともに満足いくものではありません。

 そんな中でこの度東温市に秋田県田沢湖町のわらび座と提携した常設の坊ちゃん劇場がオープンし、今日こけら落としのセレモニーとお披露目の演劇鑑賞会が開かれ、どういう訳か私にも招待状が舞い込んでのこのこと出かけて行きました。利楽という温泉を含めた商業施設の一角にこじんまりとした佇まいを見せる劇場は、一見映画館かと見間違うような造りで、中々おしゃれです。私たち内子座のような古い芝居小屋に愛着がある古い人間には少しモダンすぎるのかなあとも思ったりしましたが、6億円をかけたという500人収容の劇場は音響や証明も素晴らしく、「あー21」の一番前のかぶりつきの席から見る舞台はど迫力で、2時間弱のこけら落とし公演は、脚本家のジェームス三木さんも舞台あいさつに登場するという心憎い演出もあって、いい芸術を見せてもらったという満足感がありました。

 招待された人々は私のような自由人ではなく、各界の著名人ばかりで、面識のある人たちとは久しぶりに会ったものですから、近況報告や名刺交換ではいい交流もおまけとしてありました。持って行った人間牧場主のイラスト名刺50枚は、東温市長の高須賀さんはじめ多くの方に貰っていただき、恥をかかずに済みました。

 今日見せていただいた「坊ちゃん」の原作者は夏目漱石です。夏目漱石生誕100年のこの機を睨んでのオープンだと思いますが、年間300回もの公演を目指すというこの目論見は果たして県民にどう受け止められるのか、劇場側の力量とともに県民の文化度も試されるだろうと思います。

 田舎は5千円の会費での飲み会ならそんなに高いとは思いませんし参加者も多いのですが、いざ5千円の演劇チケットとなると、中々売れないのが現実なのです。息子のイリュージョンの演劇だって毎年やっていますが県を売るという作業は大変なようです。

 私の息子も演劇をやっています。今日の演劇を見て息子たちの演劇のレベルの高さも納得しましたが、ジェームス三木という一流の脚本家が書かれた舞台もまた小説では書き足らなかった部分を書いており、違った視点のミュージカルでしたが、毎年2回の息子の演劇を見て育ったここ10年間の実績は、凄い知的財産になっていると改めて感じた次第です。

 あなたにも一度足を運んでみることをお勧めいたします。

  「常設の 劇場こけら 落とす日に 招待鑑賞 今日は充実」

  「ジェームスの 脚本違う 視点から さすが一流 表裏から」

  「漱石の 生誕百年 記念して 愛媛あちこち 坊ちゃんだらけ」

  「お茶請けに 坊ちゃん団子 食べながら 横を矢絣 マドンナ役が」 

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shin-1さんの日記

○タオルが届く

 昨日は夕方総代を務める稲荷神社の集会があるので、人間牧場の農作業を早々に切り上げ夕飯を食べている所へ、関西汽船の浜田さんがやって来ました。何処かへ行った帰りだったのでしょうが、お互い急いでいたので玄関での立ち話と相成りました。浜田さんは前にもブログで紹介した人間牧場塾生第一号候補の人です。彼は周防大島出身の民俗学者宮本常一の生き方に関心を持っている人で、昨日の来訪は九州に宮本常一の研究会が発足したことを知らせに新聞のスクラップコピーを持参したのです。

 その折タオル製造者からいただいたというタオルを沢山土産にいただきました。彼は機を見て俊敏なりというか、人間牧場に五右衛門風呂が完成したことをブログで読んだからと付け加えました。さすが第一号候補だけのことはあるなあと感心しながらタオルの入った手提げ紙袋を受け取りました。

 「タオルかあ」とふと五右衛門風呂のことを思い出しました。そういえば第二期工事で五右衛門風呂を造ることを思いついて以来、五右衛門風呂を造ることばかりに集中し、五右衛門風呂に入ることやタオルの用意までには思いが巡らなかったと反省しました。あの風呂には誰がいつ、どのようにして入るのかは想像もつきませんがタオルは風呂にとって必需品ですから早速備品にして使いたいと思います。

 一昨日水道工事屋さんに春祭りの寄付をお願いに行ったところ、水道工事屋の社長さんが「息子さんから依頼があったのですが古い湯沸かし器が手に入りましたので取り付けますか」と言われました。息子が話していた給湯器の話なので、宜しく頼んでおきました。予算オーバーの話を息子にしているので知らない部分で苦労している姿を見て内心ホッとした次第です。

 タオルが届けば石鹸や湯桶も必要、足拭きマットはとまるで連想ゲームのように不備な点が次々と思い浮かびました。タオルをくれた浜田さんのお陰です。彼は今関西汽船に務めていて間もなく山口県柳井市にオープンする花のテーマパークへのツアーを成功させるため足を棒にして頑張っています。人は仕事に熱中するとき輝くものです。昨日の浜田さんはいつになく輝いて見えました。浜田さん有難う。浜田さん頑張れ。

  「このタオル お使い下さい 差し出され 風呂に入ること すっかり忘れて」

  「このタオル 使って妻の 風呂に入る そんな姿を 頭描きつ」

  「さすがだね 気配る出来る 人だから 仕事も上手く 動いています」

  「このタオル 風呂に入れろの メッセージ 入れますあなた 沖の船見て」

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shin-1さんの日記

○人間牧場から見た今日の豊田漁港

 今日は北西の風が強く、海は白波が立つほどの時化で豊田漁港の漁船は全て休漁です。小型底引き網の漁船は普通だと早朝2時頃から出漁して、遠い漁場でははるか豊後水道入り口まで行って漁をします。約100隻の船体を黄色く塗った漁船は、休みだと港にこのようにきちんと係留されているのです。

 この漁港も私たちが子どもの頃は僅か一本の突堤にしか過ぎませんでした。ですから親父の乗った船が出漁する度に家族総出で船を海岸から降ろして見送り、帰ると又海岸にウインチで揚げなした。この作業は気の遠くなるようなしんどい仕事で、特に時化た日の「船のぼし」作業は困難を極めたものです。でも何故かその頃の思い出が鮮明に残っているのは、やはり家族の絆の深さではなかったかと思うのです。また鯛が沢山獲れた大量の日などは浜が活気付き輝いて見えました。漁港には漁港計画というのがあって、度重なる計画の推進によって見違えるような姿に変身を遂げました。今では西日本、とりわけ瀬戸内海では屈指の漁港規模を誇り、全国各地から視察者が相次いでいます。この写真の右側に出来た新しい漁港は計画図面区域の段階から私も深く関わり、その実現にいささかなりとも努力したものですから、いつかその顛末を書いておかなければならないと思っています。

 漁港の全体がこのように美しく見える場所は探しても中々見つからないので、人間牧場のこのアングルは私のお気に入りの場所です。昔「港が見える丘」という流行歌が流行りましたが、まさに港が見える山といった所でしょう。私はこの漁村で生まれ、この漁村で育ちました。私の人生の心の港はこの港なのです。そして遍歴を辿ってはいますが、青年時代の7年間は自らも若吉丸の船長として漁船に乗り込み漁師をしたのです。この港を出てこの港へ帰ってくる作業を何百回も繰り返しました。港の灯台の灯りに見送られて出航した思い出は今も忘れられない光景で、時々陸路この灯台へ歩いて行くのですが、漁港の外郭施設が拡張される度に灯台の位置も変わって、今は気が遠くなるほど歩かねば灯台へ行くことは出来ません。

 しかし人間とは素晴らしいものです。何もない場所にコンクリートの塊でこんな立派な港を造るのですから信じ難い仕事です。その度に漁港担当者は漁民の意見を聞き、その意見を絵にして県や国に金のむしんをしてきました。またその実現のために町長は県と国への陳情を繰り返し、その隠れた努力がこの漁港を造ったのです。私は担当者として魚市場と、新しい東側の漁港計画を直接担当しましたので感慨も一入です。

 自分の人生と矢の様に駆け抜けた昭和や平成の時代を重ねながら、この港の物語を振り返ってみました。そういう意味でこの原風景が独り占めできる人間牧場のこの位置に満足しているのです。

  「北西の 波風強い この位置に 人の力で 港立派に」

  「灯台の 赤き光に 送られて 何度港を 出漁したか」

  「この一枚 俺の思い出 原風景 何時まで見ても 飽きぬばかりに」

  「えっあれは 知らぬ間に 家が建ち 屋根の姿に 記憶まさぐる」  

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shin-1さんの日記

○ 春の一日西

 私たちの地方には天気を現すことわざや言い伝えが沢山残っています。漁村であるが故の、また天気予報など発達していなかった時代が故のことだと思われますが、「板子一枚下地獄」といわれる海で働く人々にとってみれば、天気の目利きは何よりも大切な仕事だったのです。私はそんな漁村に育ったものですから、子どもの頃から大人の世界の天気に関することわざが自然と耳に入っていました。「平群島に雲がかかるとやまじ風が強い」とか、「お日様が高入りすると雨が近い」とか覚えているだけでも十本の指を軽く越えるほどです。お陰さまで教育委員会や産業課、企画調整室、地域振興課などを渡り歩いて各種のイベントを数多く手がけましたが、日和を見る名人として天気は天気の、雨は雨の対応をしてきました。

 今日は冬の季節風にも匹敵するような北西の大風が吹き荒れました。ここ数日地元では「やまぜを食う」と表現する南西の風が吹いていたので漁師さんは今日の北西の風を予測していたようです。それにしても強い風です。人間牧場で農作業をしていたのですが一日中この強い風に吹きさらされ、被っていた帽子を何度飛ばされたことでしょう。その都度拾いに行って被り直して作業をするのですが、時には下の畑まで飛ばされました。

 春になると冬の間吹いていた北西の季節風が止んで春の南よりの風に変わるのですが、時おり季節の変わり目でしょうかこんな北西の季節風が吹くのです。こちらではこの風のことを「春の一日西(ひしてにし)と呼んでいます。これほどの強風も長続きせず一日で終わるというのです。この言い伝えも殆ど当るのですから昔の人は偉いものです。

 やっと芽が出た木々たちも昨日まではつよいやまぜ(南風)にあおられ、今日はまた北西の強い風にあおられきっと驚いていることでしょう。

 「風土」という言葉があります。その土地の状態や気候、地味などの意味だと思うのですが、私流にいえば読んで字の如くその土地に吹く風だと思うのです。その地域には土地の条件によって一年中様々な風が吹き、その風を受けながら人間も自然も生かされて生きているのです。風は人々の暮らしにとって厄介者であると同時に恵みでもあるのです。その風の方向や強さをよみながら風とともに生きてきたのが人間の知恵となったのです。家の周りやみかん畑の周りに防風垣を廻らせたのも生活の知恵なのです。風土は時として風土病などという病気も起させます。その地域独特の水や食べ物が長い年月をかけて人々の体に影響し原因不明の病気に蝕まれたりすることもあるようです。

 漁師さんの予想やことわざが正しければ明日はこの季節風も収まるでしょう。

  「この風は 誰が吹かすか 知らねども 春の眠りを 起しやがって」

  「ひして西 漁師の言葉 信じれば 明日は収まり 漁に出るかも」

  「二度三度 帽子飛ばして 吹き抜ける この風俺に 何の恨みが」

  「一向に 温くならない 春日和 桜は遠に 散ったというのに」


 

 

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shin-1さんの日記

○日本一高い山と日本一低い山

 人間牧場へ来た人が、急峻な地形の上に立つ水平線の家で「ここは標高何メートル」とよく聞くのです。地図上で一度調べたいと思っているのですが、最近まで下のみかん山に標高100メートルという表示があったのを記憶しているので、100メートル以上であることは間違いないと思っています。急峻は平地が少ないなど欠点も多いのですが、悪いことばかりではなく眺望がすこぶる良いので訪れた人は感嘆の声をあげています。

 昨日来た人との談笑で日本一高い山富士山は3776メートル、では日本一低い山はと聞かれたので「大阪市港区にある天保山で、確か4.5メートル」と知ったかぶりに答えました。ところが物知りの彼が「それは違うというのです」彼の話によると大阪の天保山は確かに低いそうです。天保山は天保2年、安治川浚渫の土砂を積んで作られた人工の山です。江戸時代には葛飾北斎が絵の題材にしたこともあるという由緒ある入船出船の目印でした。作った当初は20メートルほどの山だったそうですが、その後地盤沈下が進んで地図上から抹消された時期がありました。地元住民からの指摘で平成8年、大阪西南部25,000分の1の地図に復活したそうで、それまで日本一低い山といわれていた仙台市日和山を抜いて日本一低い山になったそうです。

 物知り彼の話を続けましょう。ところがこの日本一低いという論争は国土地理院に公認されている山の話で、日本一低い山は実は他にもあるのです。秋田県大潟村に3.776メートルの大潟富士というのがあるそうです。大潟村は干拓によって出来た村全体が海面より低い村です。干拓の際富士山の100分の1の山を作ったそうですが、偶然にもその山が海抜ゼロメートルになったというのです。国土地理院に申請すればギネスものかも知れないと彼は教えてくれました。海抜ゼロメートルの山があるなんてと思わず吹き出しましたが、調べてみれば意外な事実があるものです。

 標高と海抜は一緒ですが、広辞苑によると平均海面からの高さだそうで、日本では東京湾がその基準になっていますから、わが人間牧場より見下ろす海面は直ぐ側まで迫っているような「高さ」の意識はやはり錯覚の世界なのでしょう。ジャガイモの芽吹きがわが家の庭のものより遅いのもこの標高差のせいなのです。

  「日本一 高い山なら 知っている 低い山など 何処にあるのか」

  「おらが山 海抜百の 高さなり 高みの見物 横をヘリ飛ぶ」

  「石投げて 届きそうだと 人は言う 直ぐ下海が 迫り開けて」

  「遅咲きの 俺に似たのか この桜 今が盛りと 人知れず咲く」

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shin-1さんの日記

○寄付のお願い

 自治会長をしていると様々な役職がついてきます。その一つに神社の総代というのがあります。総代は小中学校の頃、勉強の好くできる同級生が右総代になって表彰状を貰いに行くことぐらいしか記憶にないのですが、自治会長の区長になると自然に神社の副総代に祀り上げられるのです。副総代といっても何のことはありません。こまごました雑用が回ってくるだけのことなのです。例によって間もなく行われる春祭りの件について総代会が開かれ前例に習って寄付を集めなければなりません。今日は町内の事業所を回って寄付をお願いして回りました。寄付は顔効きが行くことを良しとします。私も役場に勤めていた関係上顔効きということであちらこちらにお伺いしました。日銀や政府の発表では景気が上向いていざなぎ景気を上回ったなどと報道されていますが、田舎の事業所は何処も厳しいいのでしょう、何処へ行っても「不景気で困る」という話の後に「あんたが来たのでは仕方がないなあ」と言われてしぶしぶのご寄付を頂きました。

 「寄付を貰いに行けばその事業所の格や品が分る」といわれるほどに考えさせられることが多い寄付集めでした。「社長がいないので明日にして下さい」「去年は幾らでしたか」「今年は出しますがもう来年は来ないで下さい」「うちが寄付を貰いたいくらいです」などなど様々な反応ですが、中には「御役目ご苦労様です。これは些少ですが、もう来られる頃だろうと思ってご用意をしておきました。どうぞお納め下さい」と、寄付をお願いに行ったこちらが恐縮するような事業所もあるのです。

 同じ5千円でも「明日取りに来い」という事業所や「不景気で寄付どころではない」と不満を漏らす事業所があることも事実として受け止めなければなりませんが、折角の5千円をせめて気持ちよくと思うのはこちらの都合でしょうか。

 私が総代を務める稲荷神社は狐が神様のお使いをしているとよく言われ、狐の好物が油揚げだと承知しています。ところがどうやらこれはコジツケと誤解による言い伝えのようなのです。そもそも稲荷とは「稲生り」のことで、米の生産をつかさどる神のことです。この神様は別名「御食津神」(みげつかみ)といい、「みけつ」はみき(酒)と、けつ(食べ物)が一つになった言葉「みけつかみ」が「三狐神」とされたため狐の話になったのです。狐が油揚げを好むというのも根拠はないそうです。動物学者が研究のために狐を捕獲するときに使うのはフライなどの油物だそうですが、油物は狐ばかりでなく他の動物も油のにおいは好物のようです。結局は油揚げと狐の色が良く似ていているから狐の好物にしてしまったというのが定説のようです。

  「狐など 見たことないのに 寄付集め 稲荷神社の 狐に化かされ」

  「狐そば 狸そばとは どこ違う 油揚げ揚げ玉 やはりだまされ」

  「銀行で 寄付断りの 張り紙を 横目で見ながら 寄付下さい」

  「対応を 見れば会社の 格分る そんな雑談 言いつつ回る」    

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shin-1さんの日記

○毎月第3水曜日は憂鬱な日

 私にとって毎月第3水曜日は憂鬱な日になっています。この日は私が昨年の4月から自治会長を務める300戸余りの自治会の不燃物回収の日なのです。この日は役場の裏の駐車場に設けられた不燃物置き場に沢山の不燃物が出されます。それはそれとして当然のことなのですが、ルールを決めているにもかかわらずルールを守れない人が多いのです。私たちの自治会ではこの不燃物の後片付けは区長の私と副区長のHさんと二人でやっています。自治会長の引継ぎの時にはそんな引継ぎ事項はありませんでしたが、前自治会長さんがやっていたこともあって、仕方なくやらざるを得なくなりました。しかしこの一年間その世話をしてみて人間は人の見ていない所では平気でルールを破るのだということをしみじみ思い知らされました。この一年間お世話してみて気がついたのは「不燃物とは一体何か」という認識が周知されていないことに気がつきました。ひと頃私たちの町内では不燃物回収のことを危険物回収と言っていました。「不燃物」と「危険物」は根本的に違うのですがそのことがまず徹底していません。さらに「不燃物」とは単純明快「燃えないもの」です。昔燃えてた私も燃えない不燃物みたいになっていますので燃える話はしたくありませんが、この不燃物の徹底こそが私の憂鬱を和らげる特効薬になりそうです。そこで役所のゴミ担当者に相談に行きましたが、余りよい返事は返ってきませんでした。

 そこで考え付いたのが27人いる組長さんに不燃物の現場を見てもらい住民の不燃物の出し方を指導してもらおうと毎回2人を割り当てて当番表を作りましたが、同情はしてもそれは区長さんの仕事でしょうと言わんばかりに否決されました。「私は区長ですからその任期中はやりますが、誰が区長になっても大変ですよ」と開き直って苦言を呈しました。

 今日は憂鬱なその第3水曜日です。副区長のHさんと11時に不燃物置き場で会うことを約束してますので、二人でブツブツいいながら後片付けをしなければなりません。でも私はあきらめていません。ゴミの出し方はこれからの社会では当然のルールなのですから、この一年をかけてしっかりと住民を教育したいと新たな意欲を湧かせているところです。

 今朝親父が「今日は危険物の回収日じゃろうが」と言いにきました。私は「危険物じゃなくて不燃物。これから出しに行くからじいちゃんの分も持って来て」というと、きちんと分別して持ってきました。中身を点検するとプラスチックの植木鉢が出てきました。「じいちゃんこれは不燃物じゃあなくて燃えるゴミで出して」と言ったら少しご機嫌斜めでした。親父の若い時代にはこんなプラスチックはそういえば・・・。などと考えさされてしまいました。もう一度役所へ行って「不燃物とは」を聞いてこようと思っています。

  「俺だって 今は立派な 不燃物 出されないだけ いいとしようか」

  「自治会長 見えない部分の 苦労あり 嫌がるはずだよ 割に合わない」

  「でも誰か やらねば社会 回らない 人のお世話は こまい親切」

  「憂鬱を さわやか変える 秘訣あり 汗を出すより 知恵を出します」  


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shin-1さんの日記

○わあ綺麗なボタンの花

 何通りもある人間牧場へ通じる道は狭い道が多いため、来客をご案内するには容易なことではありません。私「シーサイド公園をご存知ですか」、客「はい知っています」、私「ではシーサイド公園に着いたらお電話下さい」、客「分りました」。こんな携帯電話のやり取りがあった後、客「シーサイド公園に着きました」、私「ではそこから長浜へ向かって西進して下灘の二つある信号の始めの点滅信号を右折して駐車場で待っていてください」、客「はい分りました」。私は仕事を中断し車を走らせて近道を下りて行くのです。お客さんは約7キロを一直線、私は約2キロの狭い道、ヨーイドンでスタートするのですが、待ち合わせ場所の駐車場では殆どピッタリに出会います。あいさつもそこそこに「まあ乗って下さい」と軽四輪自動車に乗せ、「この信号を左折すると安全な広い道を行けるのですが、今日は近道の狭い道をスリルを味わいながら行きましょう」と説明しながら国道から狭い旧道へ、そしてまるでモグラの巣の中へでも入ってゆくような狭いトンネルを通って一気に登って行くのです。

 まあいつもこんな具合ですが、そのトンネルを出た所で綺麗なボタンの花を見つけました。誰が植え誰が育てているのか分りませんが、狭い場所に似つかぬようなボタンの花は今が盛りと一生懸命咲いているのです。思わず車を止めて手動式の窓をいっぱい開け、車の中からデジカメで花の承諾も持ち主の承諾も受けぬままパチリと写しました。後ろから来た車を運転している顔見知りのおじさんが、「何をしよるの」というので、「綺麗でしょう。思わず写真を撮ってしまいました」と断りをいれ車を発車したのですが、その美しさをもう一度見ようと空き地に止めて引き返ししっかりとこの目に焼き付けました。通りかかったおばさんは、さも自分が褒めてもらったように「綺麗でしょう」とボタンの花の話に花が咲きました。

 この道はいつか来た道ではなく今月は5日(いつか)来た道なのに、この花の存在にはまったく気付かずに通り過ぎていました。心の余裕がなかったのか、それとも昔はこの横の急峻な山道を背負子を背負って通った苦しい経験しか頭になかったのか分りませんが、気付かなかっただけなのです。

 私は花が大好きです。ですからまちづくりでは菜の花、水仙、桜、アンズ、つつじ、酔芙蓉、アジサイなどを植えまくり、それぞれ町のシンボルに育てました。それは母親の影響だと思うのです。母は自分で花など作らぬ働き者で、どちらかというと「花より団子」の実益主義者でしたが、道端の花を見ると必ず私を座らさせて花をまじまじと見つめてその美しさを心に留めるよう話してくれました。そして「この花はここに咲くから美しい」とか「この花も一生懸命咲いているのだから見てあげないと可愛そう。この花を見るのは世界で私たちだけよ」と誇らしく言うのです。母親の一言は若松少年の育ちに大きく影響しました。私は今でも道端の野草でも綺麗に咲いているのを見ると思わず立ち止まり思わずしゃがみ込んで見てしまいます。

 このボタンも次の雨でもう散ってしまうかも知れないと思うと勿体無いような気がして思わずパチリでした。

  「このボタン 誰が植えたか 知らねども 思わず見つけ 写真にパチリ」

  「一年を かけてこの花 咲きました 見てよ見てよと 言わんばかりに」

  「無造作に 通り過ぎ行く 人たちは この花さえも 目には留まらず」

  「写真見て 花の後ろに ゴミ写る 余りの綺麗さに 気付かずパチリ」

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