shin-1さんの日記

○宇和島からの来訪者

 地元新聞の影響は絶大で、4日前の7月15日に掲載された「人間牧場」の記事を見て沢山の方々からお電話やら見学の申し込みが相次いでいます。家の横に設置した「煙会所」と違って自宅から12キロも離れているうえ、私の日程も積んでいるため期待に応えられないのが現状です。相手「勝手に行きますので地図を送ってください」、私「地図などありません」、相手「道順を説明してください」、私「ややこしくて迷う上道が狭いので説明できません」、相手「あなたの何時が空いていますか」、私「当分無理でしょう」なんて会話はここ数日、もう何十回となく繰り返しました。電話の向こうで相手のいらだちが手に取るように見えるのです。相手の中にはこの施設が私個人のものであることを存じてない方もいて、少し険悪な雰囲気になることだってあるのです。多分「人間牧場」は役所が設置しているタダの施設だと思っているのでしょうか、「今度家族で泊まりに行って焼肉でも・・・」なんて自分中心の人も結構いるのです。その都度「この施設は私個人のものでして・・・・」と言い訳するのですが、このやり取りは当分続くものと思われます。

 そんな中、旧友たちが私の日程の間隙を縫ってやって来ました。宇和島市に住む平和の鐘のメンバーです。宇和島市には国連に寄贈した平和の鐘と同じ鐘がお寺さんに設置されています。中川元市長さんの提唱した平和の鐘運動は、平和が脅かされる度に大きな反響を呼んできましたが、その鐘を守り続ける熱心な人たちがいて、今も毎年9月21日に平和の集いが行われています。

 昨日やって来たのは川口さんはじめ3人の女性でした。9月21日の打ち合わせと言うものですから、あいテレビの取材を早々に切り上げてもらい2時からの出会いとなりました。「いいですか。宇和島から来ると下灘の信号があります。次の信号を左折するとコミュニティセンターがありますので、その駐車場で待ち合わせしましょう」。いつものパターンで電話を切りました。2時きっかりにコミセン前の駐車場で待っていると、「今シーサイド公園です」というのです。スピードを上げ過ぎたのでしょうか、電話を聞き間違えたのでしょうか、それとも私の説明が悪かったのでしょうか、空白の10分が過ぎやっとの思いで出会いました。「都会の人ならいざ知らず、宇和島の人が間違うなんて」と冗談を言いつつ私の軽自動車に乗り換えて人間牧場へ到着しました。

 昨日は蒸し暑く施設の案内も汗だくでしたが、標高130メートルを吹く風は心地よく肌に感じました。宇和島の人とたちとは知人友人も多く話が弾みます。宇和島の経済地盤沈下の話や海の駅構想などにも話が及び熱を帯びました。先日開いた宇和島でのシンポジウムの様子や市議会議員さんとの出会いなどで得た情報を基に濃密な話をして3人の女性は私とともに山を下り再会を約束して別れました。

 「宇和島をどうする」。愛媛県も南予地域の活性化に向けてプロジェクト事業がスタートしたようです。南予の人は多分大きな経済投資を期待しているのでしょうが、かつて南レクに湯水の如くつぎ込んで失敗した苦い経験を忘れてはならないと思います。先日南レクに行く機会がありましたが、錆びついた諸施設を見る度に南予の活性化は南予の人たちのソフト的な努力以外に妙案はないと思うのです。

 南予のおおらかな気質は私も大好きです。でもおおらか過ぎて、世の中の変化に無頓着な他人任せの気質だけは改めないと、何時までたっても地域は活性化しないのです。

  「愚痴ぼやき いつも聞こえる 繰り返し まちを良くする クスリなどなし」

  「平和です だから平和を 考える 二度と過ち 犯さぬために」

  「ぬるま湯に ひたった蛙 死んでゆく 南の人も 同じ憂き目に」

  「この地域 一周遅れ トップなる 気概で住む地 起そうじゃないか」


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shin-1さんの日記

○集落が消える

 (財)明日の日本を創る協会が発行している季刊誌まちむら94号の「まちづくりの現場から」というコーナーで、依頼されて私の書いた゛愛媛で動き出した「人間牧場」構想゛が掲載され手元へ送られてきました。3ページ立ての記事は、「若者の溜まり場ー私設公民館煙会所からの出発」「人間牧場での三つの課題」「自分自身の生き方追求」「家族との向き合い」「まちづくりをテーマにした人と地域への自立支援」という中見出しが示すように、人間牧場を何故つくり、人間牧場をどう使うのかといった私の想いを書き綴っています。多分この雑誌はまちづくり団体やまちづくり人に送られるのでしょうが、残念ながらその殆どは聞き流し情報として紙ごみとなる運命にあるのでしょうが、それでも僅か1パーセントの読者がこんな小さな記事を読み、その読んだ人の1パーセントが触発されて行動を起せば、日本の隅々にまちづくりは広がって行くのです。まあこんな具合におおらかな目で見ないとアナログ・デジタル入り乱れた情報化社会では生き伸びれないのです。

 まちむらのラビア・ルポ・論文・現場報告を隅々まで読みながら、集落のことについて考えてみました。私の町旧双海町には大小36の集落が谷あいにへばりつくように点在しています。奥大栄や富岡・、壷神といった地域では戸数が激減し、東越のように集落が消えるのも時間の問題ではないかと心配されています。かろうじて集落を保持している他の遠隔地域も独居老人が増えてそれはそれとして高齢化問題などで悩みは尽きないようです。

 別の雑誌ですが現場からの報告と題した記事が目に留まりました。山形県酒田市の沖合いに浮かぶ飛島という島の話題です。酒田市から船で1時間半のこの離島は9割以上が50歳という超高齢化の島です。人口も減り続けて10年後の人口推計は限りなくゼロだというのです。そんな島に夢なんかあるはずがないと思いがちですが、そこに住む人たちはかつての賑わいを思い出しながら何とか夢よもう一度と頑張っているのです。こうした地方の厳しい窮状など東京で政治をする霞ヶ関の人たちには知る由もなく、自治省の統計ではこの10年間で1000箇所とも2000箇所ともいわれる集落が消える数字にさえも殆ど驚くこともなく放置しているのです。

 私の町にお激しい過疎と高齢化の波が押し寄せています。行政はそんな実態に手を差し伸べるでもなく、合併によってこの一年間で都市型に合わせる平準化行政、画一化行政にすっかり様変わりしてしまいました。市会議員も行政職員も誰も気付かないふりをして時は流れているのです。

 「集落が消える日」はそんなに遠いことではありません。集落のあちこちに空き家が目立つようになりました。不便な田舎は車なしでは暮らせません。車に乗れる年齢を最大見積もり80歳としても時間の止まったような高齢者はこの町にも沢山ひっそりと暮らしています。やがて私も車に乗れなくなれば時間は止まるのです。その日のために自然と向き合って生きるすべをお年寄りから学んでおかなければなりません。見本はわが家の親父でしょうか。

  「ショックです 10年推計 人がゼロ 私の力じゃ どうにもならぬ」

  「情報誌 読めば読むほど 味がある 知識を知恵に 変える秘訣が」

  「読みました 突然届く メール読み 見知らぬお方に 返事返信」

  「三通の はがきを書いて 投函す 返事は全て メールで届く」   



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shin-1さんの日記

○懐かしい人に会いました(4/20・家地地区)

 デジカメの写真を整理していたら7月11日の日付の写真の中に忘れてた3枚の写真を見つけました。それは4回目の旧西土佐村行きの時の出来事です。3回目の会場で一人の女性に会いました。見覚えのある顔の女性が「若松さん覚えていますか」と唐突にいうのです。不特定多数に講演する私としては参加者の顔を全て覚えるのは困難なことなのですが、そう言われて心の動揺を覚えました。確かに覚えている顔なのに名前が出てこないのです。相手の女性は「JAの講演でお世話になった坂井伸美といいます」と告げ、やっとの思いで数年前の出来事にたどり着きました。彼女がJAの生活課に務めていた頃女性部の研修会に講演で招かれ知り合っていたのです。彼女からその後JAを辞めて国道沿いに小さな喫茶店を開いているので時間があった時立ち寄って欲しい旨の話を聞いたのですが、立ち話だったので場所を聞くことも出来ずに講演終了後暗い国道を走っていました。突然行く時気付かなかった話しに出てきた喫茶店が見えました。車を駐車場に入れると彼女は既にお店の中に帰っていたようでしたが、突然の私の来訪に驚いた様子で、落としていた電気のスイッチを入れて店を見せてくれました。先を急ぐ夜のことなのでその日はあいさつ程度で再会を約束し分かれました。

 7月17日の講演会に行く途中少し時間があるのでお茶でもと思い、「彩花」という看板に誘われてその喫茶店に立ち寄りました。

 店の中では中年夫婦がコーヒーを飲みながら彼女と話をしていましたが、コーヒーを飲めない私はフラッペを注文しました。居合わせた電話工事を営むご主人も交えお店やその周辺を案内してもらいました。退職金の全てをつぎ込んでの転職による起業はかなり勇気がいったそうですが、長年の夢をかなえた安堵感でしょうか彼女の顔は生き生きと輝いて見えました。同じ境遇でJA職員から転職しお店を持った私の妹の話をしながら出されたフラッペで喉を潤し、四方山話に花を咲かせました。

 裏庭に出て工事現場に捨てられていたものを拾って育てている犬とツーショット、彼女が坂井伸美さんです。一見何処にでもありそうは住宅風で外から見ると喫茶店とは思いませんが、中に入ると素敵な木の香りのする日本風な造りになっていました。

 裏には四万十の流れがあるのですが、残念ながら竹やぶが茂ってその全貌は見れないのです。でもその分瀬音に心情をかきたてられいい雰囲気でした。店の名前「彩花」からは程遠いようでしたが、そこここに花や木を植えたりしながら花園の中の喫茶店を目指しているようでした。夢から現実へ彼女の挑戦は投資を伴っているだけに後戻りは出来ない厳しさです。でもそんな生き方が出来る彼女は凄いと思いつつお店を後にしました。頑張って欲しいものです。

 「幾らですか」と清算して出ようとすると幾ら出そうとしてもお金を受け取ってくれませんでした。「氷くらいでお金はいただけません。いつでも立ち寄ってください」と優しい言葉が帰って来ました。「損をして得をとる」借りが出来たと思いつつ、次の機会に委ねました。

  「妹と 同じ境遇 重ねつつ 赤いフラッペ 喉を潤す」

  「夢追いし ここにもひとり 馬鹿がいる 苦あれば楽あり 繁盛祈る」

  「捨て犬を 拾い育てる 優しさに 思わず触れる 旅の途中で」

  「四万十を 見せることより 隠すこと 反対ですが 逆も真なり」

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shin-1さんの日記

○今年も暑い夏がやって来ました

 私の昨年の予定表によると昨年の7月29日に水平線の家の建前をしています。あれから1年が経ちました。人間牧場にとって初めての夏がやって来ました。周りの草は梅雨の水分をいっぱい吸って伸び伸びと育ち、刈り取るのが追いつかないほどになっています。昨日と今日の2日間は休養日で予定を空け自宅の周りと人間牧場の周りの草刈を行いました。曇り空で太陽の日差しはそれ程きつくはありませんでしたが、梅雨明け間近な外気は湿度が高く35度を越えて、草刈機の熱風とともに大粒の汗が噴出しました。

 草刈機の混合油をタンクに半分くらい使ったところで休憩するのですが、すっかり旧式になった草刈機ながら調子は絶好調で、昨日買い求めたチップソーの刃に付け替えたため、作業はどんどんはかどりました。しかし途中でエンジン始動のための引っ張り紐が突然切れてエンジンをかけようにもかからなくなってしまいました。日陰に持ち込んでドライバーで外蓋を外し、いよいよこの草刈機も寿命かなと思いきや、私の不器用な腕でも修理が出来てちゃんと直ったのです。

 百姓の真似事をし始めて約一年が経ちましたが、百姓とは百の仕事が出来ることだと教わりましたが、少しずつその意味と腕が上達して行くのをわが事ながら頼もしく思った瞬間でした。

 夏の水分補給は主に冷えた麦茶を氷とともにポットに入れて山に持って行くのですが、すぐさま空になるほど体は水分を要求します。日焼けと藪蚊対策のため長袖シャツを着用し地下足袋をはいての作業ですが僅か満タン1クルーでも汗で長袖シャツはビショビショになるのです。このところ新聞や雑誌の取材が多くその記事を見た人が見学に来るので、余り見苦しいことも出来ず、草刈は小まめにやっていますが、中々追いつかないのが現状です。息子は息子で土日になると風呂を沸かし仲間を呼んでは五右衛門風呂の入浴を楽しんでいますが、草刈は親父の仕事と言わんばかりに手伝おうとはしないのです。その息子が今日はトラックを借りて薪を運んできました。自分の仕事のかかわりで建築端材を貰うことになったらしく、沢山運んできました。風呂下の倉庫は満杯で予定している薪小屋を早く建てねばと思っています。

 私の水分補給のもう一つはスイカです。双海町は東峰という県下でも名だたるスイカの産地を持っており味は抜群です。この山スイカを作っている農家の方が妻と友人というよしみもあって、7月には入ると見事なスイカが届きます。私は子どもの頃からスイカが大好物であれば主食かと思われるくらい食べるのです。昨日など朝飯後、昼食後、夕食後と一日3回も妻が中身だけにして冷やしてくれているスイカをほおばるのです。昨日4個届いてキッチンの隅にでんと座っているので、当分の間はスイカの味を楽しむことが出来るのです。

 2~3年前までは自宅横の畑でスイカを作っていましたが、やはりプロには叶わず味が今一なので親父は作るのを止めてしまいました。百姓に挑戦しているので再度挑戦してみたいと思いますが、その場合はハクビシンの被害に泣くような出来事が起きるかも知れません。暑い夏もいよいよ本番、さあ今年も人間牧場で夏を楽しみたいものです。

  「梅雨明けを 期待しながら 予報見る 梅雨の末期の むしむし天気」

  「玉春日 勝ち越し嬉し 名古屋場所 暑さ忘れて 熱い声援」

  「サウナなど 行かず減量 草刈で タダで出来ちゃう 一石二鳥」

  「日焼けした 顔見て友が 元気そう 褒めた言葉に 鏡見直す」


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shin-1さんの日記

○よく似た海沿いの風景

愛媛県の南西に位置する地域は訪れる度に何かよく似た風景だと何時も思います。八幡浜の真穴、西予市三瓶や明浜、宇和島市の吉田、白浜、津島など、急峻な地形にしがみつくように道や家があり、前は海といった光景はリアス式海岸ゆえに似ているのは当然かもしれません。道の狭さも暮らしている人にとっては余り気にならないのかもしれませんが、たまに訪ねるとまさに運転手泣かせの難所なのです。

 昨日姪が嫁いでいる西予市三瓶町周木へ出産祝いに妻と孫の3人で出かけました。田舎者のくせに妻は曲がりくねった道で対向車が来る度に「車が来よる」とか「危ない」とかいちいちうるさく言うのです。その声を聞きながら自分の生まれ育った地域も今でこそ二車線の海岸国道が走っているものの、昔はこんな状態だったことを思い出しました。

 カーナビのお陰で迷うことなく到着し無事目的を果したので、帰りは別の道を帰ることとなって真穴、真網代、合田の道を選びましたが、天皇賞を受賞した日本一のみかん産地といいながら、やはりここもよく似た風景の街でした。八幡浜市出身の妻は子どもの頃に訪ねた真穴周辺を感慨深げに眺めていましたが、ねずみ島付近で車を止め、普通は沖に浮かぶ島も干潮で陸続きになっていたため海岸を歩いて島に渡ってみました。孫は最近買ってもらった麦藁帽子が気に入って少しおすましな顔で写真に収まりました。

 海岸では親子連れが泳いでいたり若いお母さんが潮干狩りを楽しんでいました。梅雨明け間近な海岸はムンムンの暑さで汗が噴出しました。島へ渡る海岸できれいなアワビの貝殻を見つけました。孫は「お父さんのお土産」といって拾い上げて持ち帰りました。

 海岸は宇和海特有の青石海岸で海も透き通るようにきれいで、沖合いを別府~八幡浜航路のフェリーが長閑に走っていました。くじら病院の石の風車や諏訪崎半島を横目で見ながら八幡浜の元の道に無事戻り、孫と私のリクエストに応えて、大洲の温泉でひと風呂浴びて食事をし、暗闇の中を瀬戸内海側に出ると、わが双海町の下灘みなと祭りの花火が威勢良く上がっていました。寝ていた孫を起こし路側帯に車を止めにわか設えの花火見学と相成りました。思えばこの下灘みなと祭りも私があらん知恵を出して魚市場を開放した祭りに育て上げました。今は後輩たちや漁協、それに地域の人が一丸となって祭りを支えてくれています。花火を見ていると朝早くから夜遅くまで夢中になって祭りを運営した昔が懐かしく思い出されました。

  「花火見て 祭りの記憶が 甦る 夏は今年も 同じ暑さに」

  「海沿いの 家並みの向こう また海が 見え隠れする のどけき景色」

  「この島で 泳いだ昔を 懐かしむ 妻のふるさと 海は長閑けき」

  「麦わら帽 被った孫の 得意顔 夏の日差しが 強く照りつけ」 



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shin-1さんの日記

○人間牧場が愛媛新聞で紹介される

 まちづくりの第一線から退いてからは新聞や雑誌の掲載などはほど縁遠いものと思っていましたが、このところ人間牧場の話題があちらこちらで一人歩きするようになって随分取材の依頼があるようになりました。売名や地域を宣伝することももう余り意味がないと思っていただけに多少の戸惑いや困惑があるのも事実です。一昨日の夕方、愛媛新聞の樋口さんから「明日の朝刊地方版に人間牧場の記事を載せる予定です」と旅先の大分県へ携帯が入りました。6月に開いた「逆手塾」の取材が何かの手違いで出来なかったため、それを含めた取材が先日あり、伊予市担当地方部記者の樋口さんが人間牧場へやって来ました。まちづくりをライフワークにしてきた私にとって、地方新聞記者との付き合いは長く、30年の時の流れの中で知り合った記者の数は数え切れないほどですし、新聞社を訪れるとその人たちが偉くなって新聞社を背負っているのです。多分樋口さんも20年後にはそんな地位に赴き昔を懐かしむのでしょうが、その頃には名もなき私の名前が新聞の「お目出度お悔やみ」の欄に無造作にも寂しく載ることでしょう。

 一昨日私は、大分から帰る間もなく二つの集会に参加しました。ひとつはNPO法人CINCという団体の定時総会です。最近はNPO花盛りでこの名前を聞いたとき「何ですか」と聞き返したほどでした。何でも四国エリアの建設業関係者が社会貢献の一環として地域交流、地域環境、地域防災に持ってるノウハウを生かそうと設立したそうですが、その集会のお世話をしている方がその新聞のスクラップをコピーして参加者に配っていたので、大きな関心が寄せられました。もう一つはその夜開かれた私が会長を務める県立松山工業高校PTAのOB会「まさご会」総会でも新聞の話題で持ちきりでした。ふって湧いた新聞記事にタイムリーさや懐かしさを覚ええるに足りる十分なネタだったようです。新聞の記事に載った人間牧場とは何をする所か、場所は何処だ、一度お邪魔したいなどの意見が相次ぎ、この日は何時になく深い交流が出来たように思います。新聞の効果は大したものです。それにしても自分が旅先で見てもいない新聞記事が元で、わが家は朝から大変な騒ぎだったようです。妻は朝から電話対応に追われ、電話の上の白板は書ききれないほどのメモで埋まりましたし、私のメールも何時いなく多くて、9時に帰ってからその対応に追われました。

 新聞のスクラップも合併したり私が現場からいなくなってすっかり少なくなり止めていましたが、また騒がしくなってきました。情報の発信は私たちまちづくり人にとって大切な仕事です。新聞を見たテレビ局から今朝は映像取材の依頼です。この歳になりこの立場になると目立つことが少し後ろめたく感じるのですが、ええい、この際最後の一花と思うべきででしょうか、誰か私の悩みにお答えください。

  「朝刊に デカデカ載った 記事を見て 音信復旧 あちこち声が」

  「新聞の 効果は凄い もんだねと 改め思う 一昨日朝刊」

  「孫さえも 人間牧場 口にする 麦わら帽子 買った知らせが」

  「どうしよう 突然故障の 草刈機 寿命ですとて 直して使う」


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shin-1さんの日記

○三丁目の夕日

「若松さんええ映画だから見たらいいよ」と友人から勧められていた映画を、思いもかけず息子が借りてきたDVDで鑑賞する機会を得ました。大学の講義が終わって家へ帰り妻の手料理で遅い夕食を食べようとすると、妻が一人テレビを見ているのです。「お父さんこの映画はお父さんも見たらいいよ。私たちが子どもの頃の出来事みたいだから」と勧めてくれました。食事をしながら見たのですが、ついつい午前様になっても止められず最後まで見てしまいました。

 私は昭和19年、妻も昭和20年の生まれですから、少年時代は物のない時代に育ちました。しかし戦後の復興を肌で体験した私たちにとっては今のような犯罪も殆どなく、日本が最も安定した幸せな時代だった用に思うのです。最初から見ていないのでこの映画の主役が誰なのか分りませんでしたが、たくさんの自分の思い出と重なって最後のシーンは涙が出て止まりませんでした。

 町工場というべき小さな自動車屋家族の生き方は実に面白く、頑固な親父、腕白な息子、知的な奥さん、工員募集と履歴書で自動車と自転車を間違い青森から集団就職でやって来た住み込み中卒女性の織りなす下町のドラマは実にほのぼのとしていました。私は最近よくその頃に井沢八郎が歌って大ヒットした「ああ上野駅」という歌をハーモニカで吹くのですが、金の卵と持て囃され田舎から集団就職列車に乗せられて都会へやって来た若者たちのことを思うと、あの物悲しいメロディーについつい胸が詰まるのです。私たちの同級生もみんな同じように都会の雑踏に消え、45年余りの時の流れの中を必死で生きて今定年を迎えようとしているのです。

 もう一つのシーンは大学を出て小説を書くもののいつも懸賞小説に落選しうだつの上がらない小間物屋の青年と飲み屋の女性、それにその女性からふとしたきっかけで預かった妾の子との同居生活、淡い恋物語も泣けてきました。子どもを親の社長が迎えに来るも再び帰って来るシーンは夕焼け空がいい雰囲気を出していました。私たちの子どもの頃は妾を囲い込むハイカラな親父が私たちの村にも何人かいて、同じような子どもの話題も事欠きませんでした。

 テレビを買い、そのテレビを貧乏なご近所さんが大勢集まって力道山の空手チョップを見るシーンは私の子どもの頃の思い出と全てダブりました。多分このシーンを知っている私は古く、もう賞味期限が切れ掛かっているのでしょうが、もののない時代であっても本当の幸せがあったように思うのです。ちゃぶ台のある居間はキッチンに様変わりをしました。風呂だって五右衛門風呂から蛇口をひねればバスにお湯が出ます。麦ご飯や芋のおやつも今はダイエット食品です。痩せた家族は肥満屋成人病を気にする孤独な群集になり、一つ屋根の下に住みながら家族の団欒さえもありません。何かが狂い、どこかでボタンを掛け違えた姿は、三丁目の夕日という映画を見ていると滑稽にも思えてきました。

 この映画に私の町の美しい夕日をダブらせたのは私だけかも知れません。結局この映画のシーンに美しい夕日は一回も登場しませんでしたが、でも夕日の持つ最大の魅力を最後まで隠した作者の心憎い演出にはただただ脱帽です。いい映画を見せてもらい、また新たな夕日の魅力を発見しました。

 (この写真は伊予市双海町灘町3丁目辺りに落ちる正真正銘の「三丁目の夕日」です)

  「友人に 勧められたる 映画見て 思わず涙 アルバム捲り」

  「何もない だから幸せ だけかない 何でもあるに ないは幸せ」

  「白黒の テレビカラーに 様変わり チャンネル回す 昔懐かし」

  「テレビ買う 屋根の上には アンテナが おーい買ったと 威張るようにも」


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shin-1さんの日記

○三崎から佐賀関そして日田へ

 宇和島での講演が終わったのは10時30分でした。三崎発のフェリーは12時30分、前を行くノロノロ運転の車に苛立ちを感じながらの移動時間は何ともハラハラドキドキの2時間でした。フェリーは遅れた人や車を待つことなく出航するものですから、私は宇和~八幡浜間を走る予定を変更して宇和から高速道路に乗りました。一見遠回りのような感じもしましたが、夜昼峠のトンネルを越えて八幡浜へ入ったのは丁度11時30分でした。そこから先は三崎までメロディーラインを1時間、楽勝と思ったのですがノロノロ紅葉マークのトラックの餌食となったり三崎の入り口の交互通行止めをくらいやっとの思いで10分前にフェリー乗り場に到着しました。もし予定通り海岸の道を選んでいたら多分間に合わなかったと思うと、正しかった判断力を自画自賛せずにはいられませんでした。

三崎半島は霧に霞んでいましたが、何時見てもいい景色です。最近は突端にある灯台へも行っていませんが旧友塩崎さんの住んでいる土地でもあるので近々訪ねてみたいと左の井の浦海岸、右の串漁港をデッキから眺めながら1時間10分の船旅を楽しみました。やがて船は豊後水道の速い流れを乗り切り、関さば関あじを釣る漁船が群がる中を横切って佐賀関港に着きました。東洋一といわれる佐賀関の巨大な煙突が出迎えてくれましたが、この煙突は子どもの頃は私たちの町からも年に何回か遠望することができましたが、今はそんなこともなくなりました。佐賀関にはこれまた三崎の塩崎さんを介して知り合った渡辺さんが住んでいる土地でもあります。

 「俺の町を勝手に歩くな」と渡辺さんにいつも怒られるし、佐賀関に来たら必ず連絡するように言われながら、急ぎの旅なので国道197号を突っ走り、カーナビの情報表示どおり高速道路に乗ってひたすら日田市を目指したのです。途中日出ジャンクション辺りから降り出した猛烈な雨は雷を伴い、50キロの速度制限です。ワイパーも効かないほどの雨で前方のテールランプも雨にかすんで危険なほどでした。少しの余裕を感じながらパーキングエリアで遅い昼食を済ませ、日田のインターに到着したのは公園開始1時間前でした。あれほど激しかった雨は日田では一滴もなく控え室のテレビが今日の全国の暑さを報じる一番上のランクに「大分県日田37.7度」とありました。どうりで暑いはずです。

 今日の会議は日田市と天ヶ瀬町の観光協会が合併した設立総会とのこと、その記念講演なのです。日田や天ヶ瀬の全国的な観光地に乗り込み、観光カリスマ百選に選ばれているとはいいながらよくも強心臓だと自分でも思いつつ壇上に立ちました。旧友大山町のひびきの里の支配人緒方英男さんも駆けつけてくれ、自分でいうのも何ですが饒舌な話しというよりはいつも変わらぬ漫談調の話しに会場は爆笑の渦で、眠る人は一人もいませんでした。

 日田は天領のふるさと、筑後川の上流域にあたる三隅川を使った屋形船観光はどこの街にも負けない独特の雰囲気があります。これまで別府温泉や湯布院温泉それに黒川温泉などに隠れていましたが、高速道路の開通によって北九州との距離も縮まり裏から表へと変貌を遂げつつあるようでした。

 宿は江戸時代の町割りが残る豆田町の風早という僅か7室だけの隠れ家的な宿に泊めてもらいましたが、細やかなサービスの行き届いたお洒落な雰囲気は、洗練されたもてなしの心を感じました。筑紫哲也さんが泊まるという一室をあてがわれましたが、いい雰囲気でした。

 昨日の朝早く宿を抜け出し豆田の街を散策しました。

 早朝の豆田の街は人通りがないだけ素敵で、途中花に水をやる薬屋の奥さんと話しこみました。今度はゆっくりと散策をしたいものです。

  「ゆっくりと 時が流れる 豆田町 そこここ感じる 歴史の重さ」

  「夏暑く 冬も寒いと 人はいう 風土は人の 心育てて」

  「三隅川 ぼんぼりちょうちん 屋形船 船頭棹差す 夏の夕暮れ」

  「大山に 若者連れて 昔来た 神社の祭り 今も脳裏に」 


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shin-1さんの日記

○第二のふるさと宇和島

 人にはそれぞれふるさとがあります。私のふるさとは合併して自治体としての地名は亡くなりましたが、紛れもなく愛媛県双海町なのです。最近は伊予市双海町という紹介も随分慣れましたが最初は随分戸惑いました。「あなたにとって第二のふるさとは何処ですか?」と問われたら、私は何の疑いもなく「宇和島」と答えます。何故なら私は高校生活3年間をこの宇和島で暮らしたのです。

 3日前、宇和島市議会事務局長の佐々木さんからお声がかかり県下の市議会職員の研修会に招かれました。前日の交流会から参加するよう指示があったものですから何の疑いもなく出掛けました。

 梅雨明けは聞いていませんが宇和島への道すがら大洲市長浜辺りで肱川の上流付近で夏を告げる逞しい入道雲を見つけました。空の青さと雲の白、それを映す肱川の流れはまさに夏の色を感じさせ、思わず路側帯に車を止め写真を一枚撮りました。後続の車が「何事か」と横目で見ながら足早に通り過ぎて行きました。その夜の宇和島は旧友佐々木さんの配慮で正副議長さんや昨年まで議長をしていた旧友で同窓の土井議員さんも駆けつけ、二次会まで付き合いすっかり甘えた楽しい交流となりました。佐々木さんの行きつけのスナックではママさんが私の下宿していた松原さんの同級生ということも縁の不思議さを感じました。

 一昨日の明くる日、私は朝5時に宿泊先のクレメント宇和島をそっと抜け出し、たった一人で久しぶりの散歩を楽しみました。意の向くままに足の向くままに港付近を歩いていると懐かしい光景に出会いました。『宇和島橋」です。学生の頃何度もこの橋は渡っているのですが、これまで気付かなかった橋に思わず立ち止まりました。モダンな橋なのです。

 橋のたもとに碑文がありました。何でもこの橋は大阪にあった宇和島藩ゆかりの橋を大阪から貰い受け移築した年代ものの橋だと読んでびっくりしました。ここにも歴史の生き証人がいるのかと思わずカメラを向けましたが、多分宇和島市民の殆どはこのことを知る由もなく毎日あくせくとこの橋を渡っているのでしょう。

 私の足はその向こうに伸びる一本道へ向いていました。思い出の彼方にあるこの道の端にはガス会社の丸いガスタンクや軒を並べた造船所、その周りにはレンコン畑が広がっていました。しかし今はその姿はすっかり様変わりして高規格道路の高架橋が時代の移り変わりを象徴しているようでした。

 私の母校である宇和島水産高校に行きました。早朝なので学校の門は全て閉ざされていましたが、悪いと思いつつ卒業生のよしみで通用門から校内に入らせてもらいました。

 正門玄関の趣きは今も昔も変わらず、正門横には「海を怖れず海を愛し海を拓け」という石碑が堂々と建っていました。

 その横には日本中に衝撃を与えた、忘れもしない2001年2月10日の愛媛丸沈没事故記念碑がひっそりとありました。

 愛媛丸事故の追悼慰霊碑

 事故の状況を知らせる碑文

 ハワイ沖階梯00メートルから引き上げられた愛媛丸の錨(9個の鎖は犠牲者の人数)

 この事故で沈んだ実習船えひめ丸は4代目の船で、私が高校3年生の時に乗った船は初代の愛媛丸(214.5トン)でした。もう6年も前の出来事で、人々の悲しみも風化しつつありますが、愛媛丸で育った私としては決して忘れられない出来事ですし、2001年2月10日は私の自費出版本「昇る夕日でまちづくり」の出版記念パーティと重なった因縁もあるだけに衝撃的な出来事でした。

 慰霊碑に深々と頭を下げて追悼した後私は下宿をしていた枡形町界隈を散策しました。この辺りもすっかり様子が変わり45年という時代の流れの早さを感じつつ、青春の思い出に浸りました。

 西側の登山口から城山に登りました。入り口には宇和島出身の児島の記念碑が建っていました。

 宇和島城はそんなに高くはないのですがうっそうと茂る登山道は昔見え隠れしていた市街の様子をすっかり隠してまるで緑のトンネルの中にいるようでした。

 修復工事のためでしょうか至る所に立ち入り禁止のロープが張られ、城の全容は山頂付近にしか見ることが出来ませんでした。山頂の鶴島城は夏の朝日に輝き美しく見えました。

 僅かな

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shin-1さんの日記

○大学生とフィールドワークに出掛けました

 松山市駅に集合し伊予鉄郡中線の電車に乗って長閑な田園風景を横目に見ながら」松前駅(電車賃片道350円)で下車、徒歩で松前町役場を訪ねました。昨年までのフィールドワークは貸し切りバスかマイカーで行っていましたが、マイカーは事故の心配、貸し切りバスは予算がないなどの理由で今年度は前回に引き続き公共交通機関を使う事になりました。

 先週の今治に続いて今週も県内の先進地へフィールドワークに出掛けました。先週の今治が広域合併と地域づくり、今回は合併しなかった町の地域づくりです。私の住んでるまちは昨年まで伊予郡というエリアに所属していました。当然松前町には知人友人も多く、その人縁を頼りに今回の調査研修ははなはだ失礼ながら愛媛県の町村会会長を務める白石町長さんに直接受け入れを依頼しました。町長さんは私の願いを快く引き受けてもらいました。何せ学生にとっては、町村の首長さんの話を聞くことなど滅多にないものですから、目を白黒させながら立派な庁舎の3階会議室でお話を聞きました。

 町長さんの話はNHKの記者として全国各地に勤務し、町を離れていたから分る町の良さや悪さ、町に対する熱い思いが随所に見られました。また合併、三位一体、地方分権という全国各地で話題になっていることが合併をしないという決断の裏に隠されて、その解決のためのプロセスを通して町を自立させようとする並々ならぬ決意が伝わってきました。学生たちも1時間という約束を越えて質問を交えた研修は1時間半にも及びました。

 昼食の後、現地研修は私たちのために公用車を4台も用意していただき、保育所、特養施設、給食センターの三ヶ所が隣接する施設を見学しました。保育所と特養施設に間には垣根がなく、世代を超えた交流が日常茶飯事に行われ、お互いが有形無形の恩恵を受けている旨の話を聞きとても参考になりました。特養では顔見知りの双海町出身の方もちらほら見えて、懐かしく声を掛けさせていただきました。またドライ方式で一日3000食の学校給食センターも見学しましたが、食中毒対策、地産地消などに学生の意見が出されていました。

 

 その後環境問題に取り組む元給食センターでのEM菌培養や中河原リサイクルセンターを見て回りました。特に中河原のリサイクルセンターはその運営方法がユニークで、顔見知りの加藤さんの話は学生の心を捉えて離しませんでした。中河原の本田区長さんもかつてPTA会長時代の顔見知りなので、様々な学びか出来ました。これまでゴミ問題はどちらかというと行政にまかせっきりな所がありましたが、中河原の活動はこれからの市民運動に大きな影響を与えそうで、身近な場所にこんな優秀な取り組みがあるなんて正直びっくりしました。今度は少し離れた立場で一人学びに来ようと思っています。

  「この町が 合併しないと 決めた時 自立に目覚め 自立の道を」

  「町長の 話を聞くなど 大それた 事を仕組んで 学生驚く」

  「この一年 知恵が町を 変えている 来年成長 これも楽しみ」

  「究極の 幸せ何と 問われたら 人のためにぞ 働く喜び」

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