shin-1さんの日記

○優美な山伯耆大山

 松山から特急しおかぜに乗って瀬戸大橋を渡り、岡山で特急やぐもに乗り換え、中国山地の幾つもの橋を越えトンネルを抜け、急に視界が開け始めると進行方向の後ろに伯耆大山の美しい山が窓越しに見えてきます。乗客は一応に窓辺に集まりその姿を心ゆくまで堪能するのです。島根地方や鳥取地方の町や村へ何度も足を運んでいる私にっては、見慣れた光景ですが伯耆大山、別名伯耆富士と呼ばれるこの山には何故か心引かれ、いずれ近いうちに必ず登ってやろうと思っているのですが、残念ながらその夢は未だ果せていません。それでも特急やぐもに乗り込むと何故か伯耆大山の見える側の席に陣取ってこの山の見えるのを持っているのです。

 今回の伯耆町(溝口町と岸本町が合併してできた町)への旅は明くる日の日程が積んでいることもあって、自家用車での旅となりました。松山道・高松道・瀬戸大橋・米子道と高速道路を乗り継いでひた走ると約5時間弱で目的地溝口のインターチェンジへ着きますが、途中蒜山高原などのサービスエリアでゆっくり目の休憩をとって約束の時間前の2時に到着し、当てもなく散策しようと決めていましたら、溝口のインターチェンジで、それまで小雨模様だった伯耆大山の雲が一気に晴れてその全容が見えてきたので、伯耆大山のふもとにある大山寺へ参拝することを思いつきました。何年か前登った大山寺までのダラダラ坂を登ると遠望では見えなかった深い樹海の中に入って伯耆町と大山町の境界を越え、大山寺が大山町にあることを知らせる大きな看板を横目に参道入口に到着、車を止めて長い参道をゆっくりと歩きました。標高が高いこともあって大山はもうすっかり秋の気配が漂い、一昨日の台風の名残かあちこちに小枝や葉っぱが散乱し、それを片付ける背負い掃除機の鈍いエンジン音が参道に響いていました。

 参道は訪れる人もまばらで、参道の両側にある土産物屋も旅館も流行る様子もなく往時を偲ばせていました。

 参道の奥まったところに山門があり、「檀家を持たない寺ゆえ300円の入場料」と書かれた看板に習って入場料を払いお参りを済ませ、石畳の続く奥の院へ向かいました。

 道端に可愛いお地蔵さんを見つけました。秋の木漏れ日がまるでスポットライトのようにお地蔵さんを照らし、雨露に濡れた赤装束のお姿は何とも神々しく見えました。

 苔むし、それでいて雨に濡れている石畳は何とも歩きにくく、余程足元に集中しないと滑るので飛び石を渡るように表面の平坦な杉木立の石道を15分も歩いたでしょうか、奥の院の参道を経て本堂へ到着しました。本堂は神社のようで中には金箔を貼りつめた立派な八角神輿が展示され、宮司が熱心に説明をしていましたが参詣の人もまばらで空耳のようでした。

 お参りを済ませた後再び同じ道を引き返し、ふもとにある物産交流センターで店員のお姉さんと特産品談義に花を咲かせました。鳥取は20世紀梨の山地だけあってこの季節はどこへ行っても梨が多く出回っています。最近は特産品センターや直売所のような店、道の駅などが各地に相次いでオープンし、どこに行っても見慣れた光景で、そこの色が出せないで閉店する店や商品が売れず苦戦が続いているようです。道の駅に深く関わった過去があるだけに他人事では済まされない気持ちでお話しましたが、売る気迫や物語が少ないような気がしました。

  「伯耆富士 ご本家山より こじんまり 一度は登って 見たいものだな」

  「参道の 店も旅籠も シャッターが かつての賑わい 今は何処に」

  「木漏れ日を 受けてお地蔵 あったかそう 思わず微笑む 仏と私」

  「この道に 何千年の 祈りあり 石段磨れて 少し傾き」 

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shin-1さんの日記

○日本一の親子孫水車

 細川元首相が熊本県知事をしていたころ、平松大分県知事の「一村一品村おこし運動」の向こうを張って始めたのが「何でも日本一運動」でした。この運動は高度成長のブームに乗って日本全国に広まっていったのです。そのブームは過激ともいわれる熾烈なもので、ナンバーワン・ベストワンを狙って各自治体がギネスブックなる認定書を振りかざし、大きさや長さをやみくもに競争する馬鹿げた運動に堕落して行ったのです。石段の長さが熊本県で日本一と名乗りを上げれば、それよりも数段数を増やして日本一を名乗り、水車は僅か5センチ超えて日本一だと大きな看板を掲げてはみるものの、数ヵ月後には新たな日本一に追い越され「数年前までは日本一と言われておりました」と釈明する自治体も出たのです。私は水車の大きさでは自称日本一と名乗った水車を3箇所見ています。一つは大分県本匠村の水車です。この村には知り人も多く、成人式や社会教育の大会などに講演に行ったころは日本一だと胸を張っていました。最近岩国市と合併した山口県美川町の水車も度肝を抜く大きな水車でしたが、今は日本一ではないようです。本匠村と同じく美川町へは合併にからむ自治会のあり方について随分お邪魔をしたものですから複雑な気持ちでした。福岡県朝倉の三重連水車の優雅さや住民が出資して作った内子石畳の水車など数えればきりがないほど、日本の各地には水の国日本と言われるだけあって数多くの水車が今も現役で動いているのです。

 昨晩宿泊していた鳥取大山のふもとにある大山ロイヤルホテルを朝5時に早立ちし、カーナビゲーションの示すままに新見経由で福山まで出るコースを選んで走りました。その目的は親・子・孫の三世代水車を示す看板を昨年夜に通った時見ていたのが残像として頭の中にあったから、一度見て置かなくてはと思ったからでした。

 新見の市街を過ぎて川沿いに看板が立ち、記憶どおりその水車はありました。

 草家の向こうに見える水車は実は骨組みは鉄で出来ています、。多分この大きさになると木では長年持たないのではないかと思うのですが、屋根の高さをはるかに越える大きさですからいかに大きいかがお分かりでしょう。

 これが正面から見た親水車です。水は随分下の方から受けるように設計されていましたが、近くに行くとその大きさはまるでジャイアント馬場のようなお化け水車なのです。

 手前が子、その向こうが孫と3連ですが別々の機能を持たせているようです。ここは水車をシンボルにして紙の館と称して神博物館となってるようで、和紙の手漉きが体験できるようになっていました。

 先日の台風で吹き飛んだ葉っぱを拾い集めて周辺を掃除しているおばさんに少しその辺について質問してみました。水車の水受けは木でできているため風でも吹いてほって置くと木にヒズミが出来て動かなくなるそうです。水の量やその辺を調整するのにかなり手間が要るそうです。3つの水車を「親・子・孫水車と命名し、「三つ揃っているのは日本一」だt胸を張っていましたが、その人の話では北海道に日本一の水車があるのだそうです。

 まあナンバーワンやベストワンを目指すことも大事ですが。、わが町のようにどこにでもある夕日をオンリーワンにして日本一を自認するのも一つの方法だと思うのです。私の町の夕日は水車のようにメンテナンスもいらず、いま振り返れば、手間のかからない地域資源をよくも見つけたものだと、今更ながら感心しているのです。もうナンバーワンやベストワンのような競争の時代は終わり、いかに共生するかを考える知恵の時代になったようです。しかし数時前にも高知県のある町で風力発電の風車を日本一作ってまちおこしなんて話題がテレビで紹介されていました。少し時代のピントがズレているのかも知れないと思いました。

  「日本一 座を奪われて 子と孫を 作って何とか 対面保つ」

  「大きさが 5センチ小さく なっただけ 粉挽く力 変わらないのに」

  「風吹けば 桶屋儲かる 言い伝え 今は水車の 回り影響」

  「水車米 都会じゃ値打ち あるという 田舎じゃ米は どれでも一緒」

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shin-1さんの日記

○彼岸花の咲く頃 

 季節は移り彼岸花の咲くしのぎよい頃になってきました。この花は別名マンジュシャゲとも呼ばれていますが、その色合いが真赤でド派手なことから好き嫌いの好みも分かれています。わが町では敬老の日頃から咲き始め10月の終わりには姿を消す意外と夏季の短い花のようです。

 わが家の周辺は夏の終わりを告げる草刈を10日前に草刈機で刈り取ったのですが、その後に綺麗な彼岸花が四つ咲き始めているのをミョウガを取りに行って発見しました。その見事さに惚れ込み早速デジカメを取りに帰って撮影しにチャレンジしました。

 ご覧下さい。この彼岸花の美しさを。カメラの技術もさることながら自然が生んだ最高の傑作といっても過言でないほどの出来栄えです。上の花は満開ですが下の花はまだ7分咲きといったところでしょう。花を観察しながらもう一枚花を真上から撮って見ましたがこれまた夏の夜大空高く舞い上がる花火に似て絵に書いたような美しさなのです。最近は珍しい黄色い彼岸花もあちらこちらで見るようになりましたが、彼岸花はやはり燃えるような赤が一番と私は思っています。

 彼岸花は田んぼのあぜ道などに群生して真っ赤なジュータンを敷き詰めたようになっている姿をよく見かけますが、こうして一、二輪咲く姿も清楚でいいのではないでしょうか。この2枚の写真を見て俺の腕もまんざらではないと指で鼻の下をこすりわが妻に自慢たらしく者損を見せてやりました。妻曰く「私は彼岸花は毒花と聞いているので昔から余り好きじゃあない」と冷めた反応です。辺りを見渡すと葛の花やススキの穂、それに瑞々しいばかりの露草の青い花がこれまた印象的に咲いていました。しかしこの写真を見てがっくり、小さな写真だから目立たないのですが花は完全にピンボケしています。焦点が露草の葉っぱに当たっているようで、妻から「これボケてるよ」と指摘を受けて、「私はやっぱり腕が悪い」と先程の鼻をへし折られた感じがしました。

 やっと夏の喧騒からも夏の忙しさからも開放され、野の花を楽しむ気分になれました。といっても、明日はまた鳥取県へ出かけなければなりません。でも夏の疲れも出ず、今のところ体調もいいので、せいぜい虫の声や野の花を楽しみたいと思っています。

  「彼岸花 裏の畑で 見つけたり しゃがんでしみじみ 自然の神秘」

  「露草を 一輪摘んで 活けにけり 部屋に生気が 満ちて清しい」

  「台風の 風にもめげず 破れ傘 凛と咲き立ち 季節演出」

  「野の花に 心動かす 余裕出来 秋ゆっくりと わが家に来たり」  

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shin-1さんの日記

○小学校の運動会

 台風13号の接近で昨日の午後は暴風雨波浪警報が出るなど、西日本では雨交じりの突風が吹き荒れ各地に大きな被害をもたらしましたが、昨日の午前中は何とか天気が持って地元小学校の運動会がヒヤイヒヤながら行われました。機を見て敏なろとはこのことを言うのでしょうか。他市町村では早々と延期を決めたというのに、無謀とも思える決断が好結果を生んで開会を早めたりしながらの運営で暑くもなくいい運動会が出来たようです。

 評議員としてご案内をいただきましたので孫を連れて運動会の見学に行きました。やはり小学校の運動会は華やいで、万国旗が運動場一杯に張り巡らされ、とてもいいふんいきでした。私の見学した由並小学校は児童数が減ったといいながら100人以上を維持しているため、まあそこそこの規模ですから、親子のゲームもとても楽しそうでした。

 小学校の運動会はご多分に漏れずビデオカメラの数も相当なもので、低学年などは競技中ながらカメラにVサインをする子どももいて何ともほほえましい姿があちこちに見えました。

 水疱瘡で昨夜は眠れない夜を過ごした孫はまだ早い時間だというのに見学もそこそこで眠そうで、記念に一枚と撮った写真も何となく元気がなく早々に引き上げてきました。

 帰ると中二宮金次郎さんの銅像が気になって、お得意の『何故、どうして」と盛んに私に質問してくるのです。知ってることを色々話してやりましたが、背中に何を乗せてるか、本はどうして読んでるかなど、3歳の子どもらしい質問ですが私にとっては難問でそれ相当な物語になってしまいました。

 さて皆さん二宮金次郎が何の本を読んでるかご存知でしょうか。実は意外と知らない人が多いのです。二宮金次郎の銅像は中国の古書大学という本の一説を読んでいるのです。このことは旅の途中に大阪の古本屋で見つけた大学の中身にについて、詳しく書いたので割愛しますが、三歳の孫の「何の本を読んでるの」という質問には参ってしまいました。

 帰り際学校の直ぐ下にあるシーサイド公園の池で、顔なじみの所長さんから鯉の餌を貰い池の鯉に餌をやりました。鯉は凄まじい勢いで餌に群がり孫の餌をめがけてまるで押し競饅頭のような勢いで迫ってきました。

 この3~4日、水疱瘡の孫は幼稚園にも行けず、昼間は両親の仕事の都合でわが家へ預けられたままです。私にそのお守り役が舞い込んで思わぬ仕事が増えました。お陰さまでこの週末は少し疲れ気味です。水疱瘡といっても体は元気ですから動くのなんのって、いやあ孫の守りは体力が要りますねえ。今日はやっと自宅へ帰るようなので今晩は枕を高くしてゆっくりと休めそうです。

  「おじいちゃん 金次郎さんは 何の本 読んでいるかと 難し質問」

  「校庭に 万国旗風 はためいて 長閑な秋の 一日楽しむ」

  「カメラ据え まるでスターの 運動会 教育熱心 いつまで続くか」

  「コンビニで 買った弁当 広げ食う どうして手づくり しないか不思議」 


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○台風の威力

 裏山の崖が家まで迫っているわが家では長雨や台風の度に心配で眠れる夜を過ごすのですが、昨晩も大型台風の接近で暴風波浪警報が出たため家の周りの見回りをして台風に備えました。幸いというより不幸にして私たちの地方では大した被害がなかったものの九州地方では9人もの人がなくなったり土石流が発生したり、宮崎県では突風で列車が横倒しになるなど、各地に大きな被害をもたらしました。台風の進行方向に向かって左を通ると危ないといわれるほどに左側を通って、長崎県佐世保に上陸した台風は玄界灘~日本海を通って、行く手を高気圧に遮られながらも北海道を覗っているようです。

 明日は講演のため鳥取県へ行く計画なので、気をもんで台風の行方や速度を気にしていましたが、どうやらこの分だと大丈夫のようなので安心して出かけられそうです。

 しかし台風はどうしてあんなに大きな力を貯えているのか、台風の来る度に人間の科学でさえも説明できないような不思議を感じるのです。アメリカのハリケーンもそうですが、今は気象衛星のお陰で台風の動きを逐一上空から監視して予報を出せるまでになりました。しかしその予防は幼稚でいわば台風をやっつけるような決定的対策は残念ながらまだありません。台風が発生するのは熱帯の海ですから、発生した場所で台風を壊すような方法はないものかと浅はかな知恵で思うのは私一人ではないと思うのです。もしそんなことが可能ならばノーベル賞ものでしょうね。

 台風で思い出すのは私が18歳の時、愛媛県立宇和島水産高校の練習船愛媛丸で南太平洋へマグロを追って帰る途中の出来事でした。冬としては珍しい980ミリバールの低気圧の洗礼を受けマグロを腹いっぱい抱えていた愛媛丸は何日もその時化に翻弄され、伊豆半島沖の海で木の葉のようになすすべもなく漂い続けました。船を風上に立てるのがやっとという1時間1ノットの速さの向こうに日本があるそのジレンマは、「ひょっとしたらこの船は沈没するかも知れない」という恐怖に変わり若干18歳の若者たちに死さえも覚悟させたのでした。幸いなことに荒れ狂う数日間の暗闇の生活の果て、水平線の彼方に富士山の姿を見た時の感動は今も忘れることが出来ません。人は必ず一度は死ぬのですが生きていることの実感は中々つかめるものではありません。生きていてもつまらないからと悲観して死を選ぶ若者に言いたいのです。日本では戦争で生きたいのに死ななければならない人を数多く死なせました。私たちのように死ぬかもしれないと思いながら死ななかった人間は、生きるということがどんなに素晴らしいことなのかよく分るのです。死ぬかもしれないと思った時に頭の中に思い出したのは「ふるさと・両親や兄弟といった家族・友人」でした。何気なく傍にあるものの価値は普通は中々その意味すら分らないものなのですが、無くして初めてその存在に気付くのです。

 台風は時には裏山を壊したり水害に会ったりの悪さもしますが、私にとっては生きることや自分の周りにある大切な宝物を発見することが出来た恩人かも知れないのです。恩人は手厚く迎えたいのですが、招かざる客なので出来れば来ないに越したことはありません。でも台風が来たら備えを万全にしてその心を受け止めながらじっと通り過ぎるのを待つのです。

 台風は私たちの町から遠ざかりつつありますが、一方で近づきつつある地域もあります。東北や北海道では稔りを迎えたリンゴの実がたわわになって収穫を待っています。気が気ではないと思いますが、どうか海の上を早く去ってくれることを祈ります。

  「台風を 壊す発明 ノーベル賞 俺の浅知恵 それは出来ぬな」

  「何事も 無かったように 行く台風 リンゴ農家の 苦悩ありあり」

  「気がつけば 台風一過の 高い空 目にも鮮やか 飛行機雲が」

  「台風が 来る度思う 愛媛丸 死んだつもりで その後を生きた」

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shin-1さんの日記

○灘町地区の敬老会

 敬老の日を18日に控え、各地で敬老会などの催しが盛んに行われていますが、私が自治会長を務める灘町地区でも敬老の日に先駆けて昨日敬老会を開催しました。台風13号の襲来で結果的にはいい日を選んだと胸を撫で下ろしましたが、昨年は食中毒騒動で随分気を揉んだため、今年は万全を期して敬老会に臨みました。

 灘町地区では75歳以上が122人いますが、70歳以上に対象を広げているため約60人が加わって、合計180人程度なのです。組長さんを通じて申し込み制にしているため3分の1に当たる70名ほどの参加となりました。昨年までは市役所から申請すれば3,000円の補助金が出ていたのですが、1,000円も減額されて2,000円となってしまい、そうかといって昨年より仕出し弁当の質を下げることも出来ず、結局はこれまで対象者全員に配っていた記念品を取りやめることになってしまいました。高齢者にとっては一年に一度の楽しみにしていたことなので随分悩みましたが、老人クラブの会長さんと事前に相談していたため高齢者の理解を得て何とか改革に踏み切りました。

 それにしても広報区長会の席で市役所の言い分を聞いた区長さんから随分そのことについてブーイングが聞かれました。高齢者の敬老より、高齢者の生きがい対策に社会全体の方向が向かっていて県下の実態は・・・・。だから伊予市も・・・・。と横並びの話をして財政難に対する理解を求めようとする市側と、予算の乏しい自治会が高齢者の祝賀行事を市側の一方的な理由で縮小するのは納得できないという自治会側の議論がかみ合わず、減額して浮いたお金をどのような高齢者の生きがい対策に振り向けたのか説明するよう詰め寄る険悪な一幕もありました。

 私は思うのですが、対象人数×2,000円という、出席もしない人もいる人数に金額を乗じた補助金よりも、出席した人数に減額しない金額を乗じたらいいのではないかと実質てきな考えを思い浮かべました。そうすれば金額が3,000円から2,000円に減るような錯覚をしないで済むだろうにと・・・・。まあ来年どうなるかお互い知恵を出して考えるべきだと両方の意見を聞いて思いました。

 さて、今年の敬老会は12時から始まって14時までの2時間、会食や地元婦人会の皆さんのフラダンスや踊りなどを中心に例年通りの盛り上がりを見せました。ご多分に漏れず女性が元気で女性が多いという傾向はどこも一緒で、米寿や卒寿を迎えた人への市と社会福祉協議会からの記念品も女性が圧倒的に多かったようです。市会議員さんと民生児童委員さんの祝辞や、市長さんと国会議員さんのメッセージなども昔の敬老会に比べたら簡素でいい敬老会だったように思いました。昨年出席した人で今年は病気で出席できない人や亡くなった方の思い出話をしながら、来年もぜひ出席するよう、「ニコニコ・ピンピン・コロリンシャン」に気をつけましょう」とお得意の笑い話をしましたら、みんな大爆笑で多いに受けました。

 婦人会長さんの踊りも、老人クラブ会長さんの歌も、そして私のハーモニカも大きな拍手をいただきました。

  「あと何年 すれば私も 敬老会 世話をするのも 今年最後か」

  「昨年は 腹がうずいて 中毒に 今年こそはと 言いつつ食べる」

  「台風に 合わず敬老 会終わり ほっと息つく 片付け終わり」

  「下手なれど 吹いた楽器に 拍手来て 私てっきり アンコールだと」

 

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sin-1さんの日記

○シーサイド公園周辺の景観整備

 シーサイド公園の整備を始めたのは平成5年度からでした。国道のバイパスを通すついでに海を埋め立てて造成地を作り道の駅を整備する計画は、目に見えないものだから町の命運をかけた事業と位置づけて推進するも反対意見と賛成意見が拮抗してえらい難儀をしました。でも孤軍奮闘の末完成し、その後の運営も軌道に乗り希に見る成功例として極光を浴びたのでした。

 シーサイド公園の整備と合わせて国道の周辺整備も目論みましたが、県管理の国道だけに私たちの思いと県の思いの板ばさみで苦心しましたが、結果的には県の献身的な努力によって素敵な景観整備が出来ました。

 シーサイド公園の入口です。右折レーンもあって道路はかなりゆったりした設計です。

 左脇には階段式花壇があって約千本の芙蓉が植えられています。

 昔の方位を示す磁石版が埋め込まれています。

 近海で獲れるお馴染みの魚がイラストで彫られ埋め込まれています。

 石張りの歩道と松並木です。

 ひょうたんとナマズをあしらったモニュメントが遊び心をくすぐります。

 夕観所と呼んでいる東屋です。沢山の人が休憩します。特にツーリングを楽しむ単車族が多いようです。

 東屋前の広場にはお洒落な車止めがあります。ここから見返ると双海町のシンボルである本尊山が美しく映えます。

 夕観所横の石積み常夜灯です。

 双葉公民館前の橋の欄干に陶板を埋め込んでお洒落にデザインしています。

 ゆうやけこやけと書かれた石で出来た水飲み場です。

 金子みすずの詩の世界や瀬戸内海のイワシの大群を思い出させるモニュメントです。

舟と白帆をイメージした巨大な石のモニュメントです。

 中間の3本柱の休憩所です。

 大きい石の灯篭ですが、何か口を開けているようにも見えます。

 意味ありげな石のテーブルです。残念ながら松が一本枯れました。

 一番最後の小ぶりな東屋です。ここもよく若いカップルがデイトをしているのを見かけます。

 僅か1キロ足らずの歩道沿線の狭い場所をよくもまあこんなに立派に仕上げてくれました。勿論前面に広がる伊予灘や水平線にしずむ夕日、さらには島影の遠望はまさに景観と呼ぶに相応しい光景なのです。歩道の巾も広いし、沿線の花作りは亀の森の人たちが花守りとなって立派な花を年中咲かせてくれています。三島神社の400段を超える長い石段も中間ぐらいにあり、歩いて良し、自転車で走ってよしの自慢できる景観なのです。

  「石畳 歩けば分る 心地よさ 松の緑が 目にも鮮やか」

  「目をやれば 季節の花々 咲き誇り 花守り人の 心思いつ」

  「瓢箪と ナマズ掘り込む モニュメント 意味も分らず 思わず撫でる」

  「みすず詠む イワシの大漁 彷彿と するよな彫刻 誰が彫ったか」

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shin-1さんの日記

○小さな景観空間

 「田舎は長閑で自然が一杯あって美しいし人情が豊かである」と田舎に住む誰もが思っています。田舎の反対語が都会であるなら、多分都会と比較しての田舎でしょうが、本当にその言葉どおりなのでしょうか。私は仕事で田舎と都会をたまに往復する人間なので、いつもその対比をしながら考えるのです。都会のマイナス要因といわれた交通混雑、騒音悪臭、治安の危険、水質汚濁、孤独などのある部分での不安はあるものの、かつてのような殺伐とした都会の姿ではなく、人間の作り出したコントロール能力によって活気や緑が随所にある快適な景観空間に生まれ変わっているのです。これまで田舎の代名詞だったカラスやスズメさえも都会へ引っ越したのか随分都会で見かけるようになりました。

 田舎は人間が手をつけてない自然のままであり続けるなら人間が作り出した不自然な都会よりはるかに価値があるはずです。ところが戦後六十年の間に田舎から知恵を持った人間が都会に移り住み、知恵の少ない残された人間が田舎を守ってきましたが、残念ながらその田舎人は徹底的に都会を模倣し始めて田舎はおかしくなってしまったのです。都会の食料供給源だった田舎はその能力さえも失い、安い東南アジアの国々との食料戦争に敗れて所得格差は益々広がるばかりなのです。

 田舎は長閑に違いないのですが、車に乗れない弱者といわれる人にとっては交通手段は不便極まりなくまるで時間が止まったような錯覚さえ感じるのです。自然に目を向けても各所に乱開発の痕跡が生々しく残り、耕して天に至った先祖伝来の田畑は放任されて草生い茂り、台風の爪痕は修復することもなく放置されて随所に危険が露出しています。高齢化した社会では一人暮らしも寝たきりも高齢者を標的にしたニュービジネスの餌食となって、画一化された施設に囲われたり施設葬祭で悲しい一生を終わるのです。

 そんな田舎なのに誰もそのことに気付かないのか、気付いても目と口と耳を塞いでただ黙々と生きるためだけに働いて、携帯電話みたいな都会と同じ持ち物を格好よさそうに持ち歩いて満足しているのです。

 そんな双海町という田舎でも自然と調和した景観空間を作りたいと思っていました。人々の暮しの便利さを優先するために海は埋め立てられて国道になり松山へは僅か1時間弱で行けるようになりましたが、その国道を守るために幾何学模様と表現すれば格好いいのですが無数のテトラポットが海岸を埋め尽くし、無造作に白い帯のようなガードレールが美しい海や島影を遮っていたのです。「あのガードレールを取っ払ったらどんなに美しいだろうか」なんて浅はかな考えからスタートしました。でも海沿いの一直線の道はまるで高速道路ではないかと見まがう程のスピードで車が行きかうものですから、「とんでもない発想だ」と叱られました。でもその道その筋に心ある人はいるもので、私の話に耳を傾け「塩害でガードレールが危険になった」という理由をつけて、新設でなく修復という形で工事が行われ、ものの見事に海岸国道16キロのガードレールが海や空と違和感のない水色のパイプガードレールに生まれ変わったのです。まだその真意や景観に気付かない人が沢山いますがそれでもいいんです。自己満足といわれてもせめて私が満足する景観の向上にいささかなりとも役立てたのですから。私はこのガードレールの変化は国道が開通したと同じぐらいの価値があると景観空間の持つ意味を感じているのです。

 「花より団子」の田舎の人々に「団子より花」と幾ら言っても平行線でしょうが、景観には目に見える景観と目には見えない景観があり、手っ取り早い景観は目に見える形の自然と人工による複合物で構成されるものだと仮定して、シーサイド公園の周辺整備を実験的に行いました。でも目に見えるこれらの景観すら人々には何ら意味を成さないのです。そればかりか田舎の景観空間創出事業も、「もっと他に金を使うことがあるのでは?」と言われ、「人が来なかったらどうするのか」とか「赤字になったらどうすrのか」といった無駄遣い論に終始するのです。

 田舎は都市の模倣では駄目です。田舎の個性をどう田舎らしく保ったり美しく見せるかが大切です。「田舎はいい」というだけでは田舎は生き続けることはできないでしょう。

  「田舎いい どこがいいのと 尋ねたら 空気上手いし・・・・ その後続かず」

  「花植えて 少しばかりの お手伝い 町が綺麗と 褒める人あり」

  「景観は 人と自然の ハーモニィー 見える景観 見えない景観」

  「この町に 思いを寄せて 四十年 景観分る 次なる人は?」

 

 

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shin-1さんの日記

○庭木の消毒

 今朝方、このところの雨続きで「庭木に害虫が異常発生しているようなので防除したいから手伝ってくれないか」と親父から相談が入りまました。そういえば天気予報だと明日はまた台風がらみの雨になるかも知れないとのことなので、快くでもないのですが引き受けました。誰だって消毒は好きではないのでしょうが私も消毒は極力避けてきました。でも人間と植物が共存していくためには最低限の消毒は必要かなと思いつつ、親父に付き合ったのです。このような話を聞くと何か仰々しく感じるでしょうが、私の手伝いの内容は50メートルを2本繋いだ約100メートルの消毒用ホースを、親父の消毒に合わせてただ引っ張ったり伸ばしたりするだけなのです。

 親父は消毒用機械を作業しやすく家の隅にある小屋の中に設置して、電源コイルに差込を差すだけで動くようにしています。その横にはコンクリートの1石タンクを置き、消毒液を定められた倍率で薄めて入力と出力のホースを差し込めば、勢いよく噴霧になった消毒液が出てくるのです。今日の作業は約100メートルに渡って植えられているつつじの生垣と、畑に植えられているみかん類、松・ヤマモモ・クロガネモチ・マキ・サザンカなどの庭木類、それに早めに蒔いた大根に早くも虫がつき始めたため倍率を低くしてかけました。

 88歳になった親父は偉いです。約2時間の消毒作業を一人でこなしてしまいました。近所の人がこの光景を見たらどう思うでしょうか。多分「若松さんちのドラ息子は88歳にもなる親父に消毒をさせ、自分は後ろでホースを引っ張るだけで何もしない」と言うに違いありません。私自身さえそう思ったのですから人は思うに違いありません。

 最近は消毒の残留農薬が随分世の中を騒がすようになってきました。先日も何処かの町の生産者が出荷した大葉の残留成分が検査で引っかかってえらい騒ぎとなりました。数年前には考えられなかったような話です。わが家でも野菜類は極力農薬を使わないようにしていますが、中々いい成果は出ません。ふと八百屋に並ぶあの野菜はどのようにしてあんなに立派に出来るのだろうと考えたりするのです。「嘘」と「誠」という言葉がありますが、自分が納得して自分が消毒した野菜はどこへも文句は言えません。でも買った野菜に「無農薬の有機野菜」と表示されていて、安心だと思って買った「誠」の野菜に農薬の残留成分が出るとこれはもう明らかに「嘘」としか言いようがありません。農薬は見た目には何ら見えないものですから騙そうと思えば騙せるし、その騙して高値で売れるのでしたら人をだまして自分が儲ける立派な詐欺罪なのです。

 消毒が終わってホースや機械類を片付けやっと一段落、風もなく雨の前の穏やかな天気で消毒できたと親父は喜びを隠しきれないようでした。これで後は冬を迎える年末に防寒用のマシン油をかけて一年が終わります。庭が広く庭木も沢山植わっていて剪定や草削りという夏の作業も大変だったのだろうと、少し疲れが出てきて体の調子を崩しそうになった親父を見て、心の底で労わりの気持ちを持ちました。

 さてこれらの作業は、88歳という親父の年齢を考えるともうそこまで代変わりの時期が来ているのです。はてさて、私は親父のようにただ黙々とこれらの作業が出来るかどうか、今から深いため息が出ています。妻曰く「お父さんなら大丈夫、おじいちゃんの子供ですから」だって・・・・・。褒められたような気もするし、「あんた頑張んなさいよ」と叱咤されているようにも聞こえました。

 早くも夕方雨模様、945mbの大型台風が宮古島付近を北上しており、本土をうかがっているようです。長雨や大雨が心配です。明日は私が自治会長をしている灘町区の敬老会です。大した雨にならなければよいのですが・・・・。

  「消毒で 虫を殺すが 消毒に 強い虫たち 更にはびこる」

  「虫殺す 消毒液を 体浴び それでも長生き 親父ロボット」

  「消毒を すればてき面 蚊と蛾減る 自然を殺す 俺は罪人」

  「青ジソの 葉っぱ虫食い 太い穴 だから安全 言い聞かせ食う」

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shin-1さんの日記

○元役場職員からの電話

 私には尊敬する元役場職員がいます。多分35年間の役場職員生活の中でこれ程影響を受けた人は後にも先にもないと自分の半生を振り返るのです。その人はあえて実名をあげるなら役場の元総務課長で中嶋さんといいます。中嶋さんに始めて出会ったのは青年団頃でまだ私が漁師をしていました。当時中嶋さんは教育委員会で社会教育主事をしていましたが、双海町の自治公民館活動の基を築いた方で、学校の先生でありながら青年学級の指導をしていた福井先生や武智先生とともに、私たち青年の指導にも熱心で、田舎にありながら中嶋理論と言わしめるほど全県下にその名前は轟いていたようです。私の青年団活動への傾注は中嶋さんの紹介で、国立阿蘇青年の家で開かれた全国青年学級生研究集会へ派遣してもらったことがきっかけだったように思うので、いわば恩人の一人です。その後NHK青年の主張の県代表になった折も双海町の成人式で発表を依頼されたり、病気で転職して役場に就職したときも様々なアドバイスを受けたものでした。役場での上司と部下の関係は殆どといっていいくらいないのですが、何故か目標にしたり気になる存在として私の星であり続けたのです。わが家には何かの縁で中嶋さんから貰った山取り庭木の黒松が親父の手で大事に育てられています。この木を見るにつけ中嶋さんのことを思い出しています。

 歴史に詳しく郷土史に精通していて史談会の会長を務める元役場職員中嶋さんとは、今は史談会の会合で二月に一回程度会うのですが、一昨日の夕方私の留守中に電話がかかってきたと妻が高知から帰宅した折メモと口頭で伝えてくれました。早朝電話するとの約束どおり朝7時に電話がかかってきました。何事かと思いきや、シーサイド公園から唐崎に至る国道沿線の整備についての私観についての話でした。散歩をして見た周辺整備への感想は私と同感だったものですから延々20分も話し込んでしまいました。この周辺整備は私の強い要望もあって愛媛県伊予土木事務所が特段の配慮をしてくれた場所です。前例になると他の所へも波及要望が出るからと恐れながら当時の担当者は熱心に1キロにも及ぶ歩道整備事業を推進してくれました。

 魚の陶板を埋め込んだ石張りの歩道、階段式ドハの整備と芙蓉の花の植栽、黒松並木の植栽、東屋の建築、モニュメントの設置、常夜灯の設置、橋の欄干整備、帯ガードレールからパイプガードレールへの変更などなど、数え切れないほどの整備です。多分相当の金額になぅたのだろうと思うのですが、私たちの言い分をしっかりと受け止めて工事を完成してくれました。

 この沿線には長い石段と扇垂木で有名な三島神社があるし、遠望は町のシンボル的存在の本尊山や瀬戸内の島々が景観をなしているのです。人々は忙しくこの界隈を車で通り過ぎ、ゆったりとくつろいで談笑するのはツーリングを楽しむ人たちだけで、地元の人もその価値を知らないと中嶋さんは残念がっていました。でも中嶋さん一人でも、いや中嶋さんにこの価値に気付いてもらっただけで十分だと内心一人喜んだ次第です。

 中嶋さんは「価値が分る男」なのです。価値の分らない人に幾ら景観の価値を話しても「それがどしたん」で終わります。これこそ「猫に小判」で何の価値もないのです。私も精進して景観が分るような人間に成長したいものです。中嶋さんお電話ありがとうございました。

  「景観が 分る感性 持ちし人 少ないながら 出会い嬉しく」

  「景観を 愛でる心の ゆとり持ち 生きて行きたい 残し人生」

  「影響を 受けたであろう 人の声 響きあいつつ 長々電話」

  「早速に カメラ片手で 訪ね来し 歩いて足と目 確かめつつも」

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