shin-1さんの日記

○秋田の美味いものに舌鼓・秋田ルポ③

 「秋田へ行ったら必ず食べてくるように」と出発を前に友人から言われたのは「ハタハタ」と「キリタンポ」でした。全国行脚を続けている私にとって旅先での美味しい食べ物に出会うことは人間との出会いと同じくらいこの上ない悦びの一つです。体の都合で酒を断っている私には残念かな北国の美味しいお酒には無縁で、相変わらずウーロン茶一辺倒なのですが、その分ウーロン茶が口の中で食事を味わう舌を研ぎ澄ませて、美食の味が寄り鮮明になるのですから不思議なものです。秋田で過ごしたのは2泊3日でしたが、1日目は住宅課の皆さんと、2日目はフォーラム関係者との食談で楽しいひと時を過ごさせてもらいました。

 2日間で食べた美味しいもの、珍しいものは料理が運ばれて来る度に、「これは何々」と説明を受けて食べるのですが、箸を運ぶのが先でいちいちメモにも取れませんから、すっかり忘れてしまいました。でもその味はしっかり舌と腹が記憶ています。しかしどんなに美味しい料理でも、もし私がデジカメを持参していなかったら、これほど饒舌には表現できなかったでしょう。



 まず食談には人ありです。四国愛媛の伊予弁を語る私にとって酒の深まりとともに湯水のように出てくる秋田弁は全てを理解することは出来ませんでしたが、熱く語る一言ひとことに納得しながら、盃を進める知人は何よりのご馳走でした。さらに寒さゆえ七輪で暖をとる温かさもご馳走なのです。出てきた幾つかの料理をご紹介しておきます。

(ハタハタの塩焼きです。写真に撮る前に既に箸を勧めていて、思わず我に帰って写真に収めました。私たちのところではさしずめキスの塩焼きって感じの食感でした。)

(ご存知キリタンポ鍋でした。秋田地鶏で出汁を出したキリタンポは熱々フーフー、やはり冬の寒い時期は北国の鍋にかぎります。空港で買い求め家で作って食べましたが、あの夜食べた濃厚な味とは少し違っていましたし、キリタンポもやはり本物にはかないませんでした。)

(刺身もかまくら風にアレンジして、何とも風流でした。魚も寒ブリや鮭など、冬の日本海がてんこ盛りで見た目に美しく箸をつけるのが勿体ない箱庭のような絵になる光景でした。)
(「いぶりがっこ」とは沢庵のスモークなのですが、いぶりやあぶりと書いた小鉢がソバをこねる塗りの器で出てきました。美味しい秋田の味でした。)

 驚いたのは料理ばかりではありません。民芸調のこの店のトイレは一工夫が凝らされていました。「トイレの美しいお店は繁盛する」という言葉そのままに、この店の自慢は何といってもトイレです。トイレの壁には小さな木調額で昔懐かしい秋田界隈の写真がやたら張り出されているのです。小便をしながら思わずついつい見とれて長小便をしてしまう難点はありますが、それでもこれだけのこだわりはそうそうあるものではありません。

 秋田杉の四角い杯と、秋田杉の四角い枡に地酒を並々と注いでくれる独特のもてなしも気に入り、飲むほどに酔うほどに冬の寒さを忘れさせてくれた秋田の夜でした。

 2日目は出番のあった人と事務局のこじんまりした食暖でしたが、お店が変われば食べ物もまた違ったメニューで、名刺交換やまちづくりについての議論などいいお話でした。
  「行ったなら ハタハタ食べて キリタンポ 知ったかぶりの 友人勧め」

  「ご馳走は 料理に七輪 人の縁 外雪忘れ 夜はふけゆく」

  「通訳が 欲しい会話の 秋田弁 飲めば飲むほど 分らぬままに」

  「学校と 聞いた食べ物 ガッコとは 俺の耳には がっこう?と聞こえ」 

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shin-1さんの日記

○雪の久保田城界隈・秋田ルポ②

 秋田県へ出発する数日前から寒波がやって来て、北国は思わぬ雪だとテレビで紹介されていたので、あるいは雪に埋もれた秋田を見学できるかもしれないと、横手のかまくらなどを頭に描いていましたが、残念ながらそれほどの雪はなく、少々ガッカリしました。それでも朝な夕な入る妻からの携帯電話の声は、「お父さん、いい所に行けていいねえ。雪と食べ物が羨ましい」と言うのです。確かに雪はありましたが、名残の雪程度で足元にはまったく雪を踏みしめる感覚はなかったのです。それでも初日に桜庭さんに案内された感を頼りに、朝6時に思い切って戸外へ散歩に出かけました。久保田城界隈は急な寒さのせいでしょうか人の姿はなく、昨晩降ったであろう薄い春雪を踏んで城山に登りました。

 私は城といえば松山城のような高い山の上にある城を思い浮かべるのですが、久保田城の城山は小高い丘のようで、何の造作もなく登れるのです。城に通じる道を登ると直ぐに城門が見えました。この城門も松山城の頑丈な造りではなく中世後期のような風情でした。

 聞くところによると関ヶ原の合戦の後、常陸の国から国替えになった初代秋田藩主佐竹義宣が、翌慶長8年に現在の千秋公園にに久保田城を築いたそうです。公園内には御隅櫓や御物頭御番所、久保田城表門などがありました。冷気漂う雪の久保田城界隈をカメラで追ってみました。

(本丸より一段下に広場がありました。うっすらと雪化粧していい雰囲気です)

(その横に歌人の若山牧水親子が詠んだ句碑が建っていました)

(私たち四国の人間には何とも魅力の雪吊り風景です。梢から放射状に張り巡らせた藁縄が見事に冬を演出していました。一昨年は大雪で大活躍の雪吊りも今年は暖冬の影響で役割を果たせなかったようです。

(久保田城の庭園池です。雪を被った庭石や木々はまるで雪舟の水墨画を見ているようでした。

(秋田藩初代藩主佐竹義宣の銅像です)

(久保田城の本丸といったところでしょうか。)

(城を一巡して宿舎であるキャッスルホテル近くまで帰ってきましたが、城の向こうには川が、直ぐ下には堀が巡らされていました。)

(かつては秋田市一の賑わいを見せたお堀に面した中心市街地も、郊外に店が進出し空洞化が目立つようです。ひさしのように片屋根を張り出したアーケードは雪国ならではの風情がありました。)

 知らない土地ながらお城を中心にたった一人で道案内も地図もなく意の向くままに歩き回り、何と2時間足らずで私の携帯についている万歩計は1万歩を超えていました。寒いといっても風がなく、半コートのポケットに片手を突っ込んで元気よく北国の朝を散策しました。知らない土地を歩くのは楽しいもので、道端の木々やマンホールの蓋さえもタウンウォッチングの対象物なのです。時折立ち止まってデジカメを向けると、通行人が不思議そうに私の姿を眺めながら通り過ぎてゆきました。

 私にとって秋田は思い出の地です。といってもまだ今回が3度目なのですが、一回は青年時代愛媛県の国内研修生の一員として青森や北海道を訪ねる旅の途中に立ち寄りました。もう一回は教育委員会で社会教育を担当していた頃、当時の小畑秋田県知事さんが推進する秋田の生涯教育を知りたくて、旅の途中に立ち寄りました。当時は生涯学習などという言葉すらない時代でしたが、既に出来ていた県の生涯教育センターを見学し感嘆の声を上げたものでした。車でその横を通った折昔の懐かしい思い出が蘇ってきました。

 私は日本全国を旅していますが、もう一つの期待はご当地自慢の夕日に出会うことです。残念ながらどこの土地を訪ねてもその時間に集会がダブって中々見れないし、時間があっても天気も見方してくれません。秋田へ入ったその日は時間はピッタリなのですがあいにくの天候でした。でも小雪ちらつく天候なのに夕方急に宿舎のキャッスルホテルの西側が急に明るくなって、綺麗な夕景が見えたのです。私は寒い風が部屋の中に入るのを我慢して思い切り窓を開け、北国の夕日をカメラに収めました。ビルの谷間に沈む秋田の冬の夕日です。ラッキーな一日でした。

  「城に降る 白い粉雪 雪舟の まるで水墨 絵を見るように」

  「秋田にも 夕日沈むや 窓の外 雪に照り映え 金色色に」

  「城を行く われ足音の 他になく サクサクサクと 雪をかき分け」

  「枝吊が 似合うお城の 雪景色 まるで扇子を 逆さにしたよう」


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shin-1さんの日記

○春から冬へ逆戻り・秋田ルポ①

 この3日ほど春の四国から冬の秋田へ旅をしました。松山空港から羽田空港を経由して秋田空港までの空の旅はそんなに時間もかからず、まるで隣近所へでも行くような気軽さで、かつては遠いみちのくといわれた地域も新幹線が走り、スピードの速さにはただただ驚くばかりです。それでもこのところの戻り寒波の影響で、黄色い菜の花の咲く春真っ盛りの四国とは比べものにならない雪積もる白い東北の姿は、まるで別世界のような感じさえしました。羽田から飛んだ飛行機が秋田が近くなるにつれて上空は黒い雲に覆われ、出発を前に担当者の桜庭さんから「時折雪がぱらつく寒さなので、一枚余分に羽織って来るように」とメールが入ったとおりの天気でした。上空からの写真も撮りたかったのですが、デジカメが電子機器なので利用禁止とあってその願いも届きませんでした。でも私のデジカメは独りでにシャッターを押して貴重な写真の記録一枚をカメラの電子情報として残していました。呆れたものです。多分ナマハゲの仕業なのでしょう。

 空港に降り立つとその予感どおり、待合室の隅にはナマハゲの姿がありました。テレビで時々紹介されるナマハゲもこうして見ると怖いというより愛くるしいような雰囲気でした。

 初めて降り立った秋田空港は少し奥まった所にあるのでそんなに思ったよりも雪は少なく、迎えに来てもらった担当の桜庭さんの案内で、少し市内を見学させてもらいました。

 最初に訪れたのは平野政吉美術館でした。あいにく場内撮影禁止の看板が目に付き、場内にはいかめしい女性が絵の直ぐ側に陣取って監視しているので、ナマハゲにも化けられずこの目と心に留めましたが、藤田嗣治画伯が倉庫の中で数日間で書いたという秋田の四季の絵には、大きさといい迫力といい度肝を抜かれました。藤田嗣治の自画像や乳白色の色使いなどしか知識を持たない私には、価値さえも判断できかねますが、それでも目の正月とでもいうべき機会を与えてもらいました。秋田県立美術館と平野政吉美術館という二つの看板が同時に掲げられている姿には少し違和感を持ちましたが、指定管理者制度などが日常化する最近は珍しいことでもなく、秋田の風土だと理解しました。


 続いて民俗芸能伝承館で念願の秋田竿灯とご対面です。青森ねぶたと仙台七夕とともに東北3大祭りに数えられる秋田竿灯が日常的に見学や体験できる場所とあって、私たちのような観光客には有難い場所なのですが、やはり夏の祭りを見ないとその迫力や雄姿は感動として伝わらないことを承知で、少しの感動を味あわせていただきました。

 秋田竿灯は町内毎に提灯の印紋が決められていてそれが一堂に飾られていました。東北の冬は雪雲が低く垂れ込め何か侘しささえ感じますが、その分行く夏を惜しむかのごとく夜空を彩る鈍い提灯の光はやはり一度は見てみたい祭りの一つです。ちなみに大人用から子供用まで幾つもランクがあるそうですが、私は体験用の幼児用を持たせてもらいましたが大変な重さで、これを腕や腰で支え、しかも竹竿を継いで弓のようにしならせる妙技は圧巻でしょう。

 この施設は秋田竿灯を展示体験できるよう真ん中が3階まで吹き抜けになっていますが、2階・3階は展示や鳴り物の練習場になっていました。3階では若い女性が一生懸命大きな締め太鼓を叩いて練習をしていました。地域の文化もこうして若い後継者に日常的に伝承されるのは良いことです。後継者不足で日本の古き良き伝統文化が廃れてゆく話を耳にしますが、秋田県民の誇りである秋田竿灯を次の世代にしっかりと受け継いで欲しいものです。若い女性が叩く太鼓のリズムを聞いていて、懐かしさがこみ上げてきました。このリズムは私たちの町に伝わる盆踊りのリズムと殆ど同じなのです。暇があったら秋田竿灯のお囃子のルーツを調べてみたいものです。


  「菜の花の 咲く町発って 雪景色 日本の広さに 首をすぼめる」

  「秋田杉 秋田犬など 知っている だけど遠いな 来るのはたまに」

  「子供用 秋田竿灯 手に持ちて 三大祭 少し味わう」

  「太鼓打つ 娘の額 汗滲む 早くも夏に 思いを馳せて」

 

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shin-1さんの日記

○広島からのお客様

 日本全国の市町村を訪ね歩く私にとって、行きずりの街もあれば思い出に残ってその後の出会いに発展する街もあります。まちづくりは人が深く関わることから私と不特定多数の人であっても、その後の手紙やメールのやり取りで近しい関係になって行き来する人は結構多いのです。多分そのことこそがまちづくりなのだと思うのです。

 昨日広島県世羅町から升本大田公民館長さん以下8人の方が人間牧場へ見えられました。大田地区振興会連絡協議会のメンバーなのですが、この町でも合併後の住民自治の在り方を巡って様々な試行錯誤が行われ、現在の公民館が20年度から自治センターと名称を変更し、22年度からは振興会がその施設をも管理するとのことでした。公民館は教育施設ですが、自治センターは行政施設です。教育長や公民館長、さらには公民館に13年間も携わった私として、一言意見を挟むなら、こうした教育機関を行政機関に安直な方向転換する行政のやり方は如何なものかと思わざるを得ません。勿論教育行政のトップたる教育長さんも承知の政策転換でしょうが、教育行政側から言わせればとんでもない出来事だと思うのです。

 合併によって広域化した行政区域内に住む住民に行政の効果効率とまちづくりへの住民参画を促すのは何処の自治体も一緒です。財政悪化のつけをこうして教育と行政の混同でお茶を濁すようではいいまちづくりは出来ないのです。これこそ教育委員会制度が形骸化していると言われるゆえんであり、教育への不当介入だと言わざるを得ないのです。残念なことは教育の現場がそのことに気付いているのかいないのか、それとも気付いていても文句が言えないのか、寂しいことなのです。

 まあ、他所の町の出来事なので余り目くじらを立てることもないのですが、それでも大田地区振興会連絡協議会の人たちはみんな真剣で、これからの住民自治について真剣に勉強して帰りました。

 彼らが私の元へやって来たのはもう一つ理由があります。それは大田という山の中の町と双海町という海に面した町の交流を探ることです。海のない町にしてみれば海のある町はとても魅力があります。勿論その反対の海の町が山の町に憧れる事だってあるのですから当然でしょう。彼らは早春の磯の香りを嗅ぎながら閏住地区の菜の花畑や人間牧場からの海の眺めを満喫していました。世羅町は今年の高校駅伝日本一の町だし、花の観光ではかなりの知名度を持った町で、夕日の日本一美しいといいながら足元にも及ばないいい町です。でも私の町だって自治公民館活動は50年もの長い歴史を持った素晴らしい町です。お互いが行き来をしながら高めあう意味は十分にあるようです。自由人になった私がその橋渡し役をしなければならないのですが、さて受けてたる双海町の気持ちをこれから解きほぐしてゆかなければなりません。合併前の昔だと一も二もなくOKでしょうが、合併後は何かと上の意向を聞かねばならず厄介なようです。

 みんなで遅い昼飯に行きました。潮路という人間牧場の下にあるお店ですが、この店はカモメの餌付けをしており、私たち遠来のお客さんのためにテンカスをやってカモメを呼び寄せてもらいました。みんな始めて見る光景に驚いた様子でしたが、この餌付けこそまちづくりのヒントが隠されていると思い色々な話をしました。

 まああせらず、ボツボツと外堀を埋めて行こうと思案しています。世羅町に兼丸さんという面白い方がいます。彼は博学で民具の収集家で、そして家も茅葺という面白い生き方をしています。先日お手紙が来て、茅葺屋根の葺き替え写真を同封してくれました。今回も同行して私の車に乗ってマイクロを先導しましたが、いい巡り会いを感じています。私の家も民具を改造した倉庫に展示していますが、兼丸さんの収集物はその数の多さ、その広さには「目を見張りました。家の横で炭を焼いていますが、常識では考えられない鉄製の炭窯で毎日炭を焼いているのです。是非近々完成した茅葺屋根の容姿を見に行きたいと思っています。

 公民館長さんも、振興会長さんも広島弁丸出しの魅力的な方々です。更に交流を深めたいものです。

  「山人が 海人会いに やって来た 自慢の炭米 車に乗せて」

  「行政が 教育侵食 何か変 何とも思わぬ 人が可笑しい」

  「一束が 千円超える 茅を葺く 草屋懐かし 田舎消えつつ」

  「景観は 努力があって 出来るもの 無造作看板 町並み台無し」

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shin-1さんの日記

○春を食べる

 春になって野山には様々な山菜が顔を出すようになりました。折からの天候で東北では思わぬ雪が降り、暖冬で今年の営業を諦めかけていたスキー場が慌てて再オープンしたり、関ヶ原では雪のため東海道新幹線が徐行運転するなど、相変わらずの気象異変に国民は首をすぼめているようです。でも私たちのような四国に住む者にとっては寒いといっても氷点下以下に下がる訳でなく、暑いといっても沖縄ほどでない程々の気候ですから我慢しなければなりません。

 昨日人間牧場へ行ってツワブキを獲ってきました。他所の地域では馴染みの少ないツワブキですが、私たちの町はツワブキの自生地で、その気になれば幾らでも獲ることができます。最近はその味を知ってる人が沢山やって来て、処かまわず獲って帰るのです。中にはツワブキの可憐な黄色い花を楽しむために公園に植えているものや、自家山菜として栽培しているものまで勝手に獲ってゆく不届き者もいてちょっとした騒動まであるようです。

 この頃のツワブキは茶色の綿毛を被ったそれは可愛い姿をしています。親株に見守られるように生えているツワブキの子を抜き取って収穫するのですが、目ざとい人は片っ端から獲って帰るので、後追いに回ると中々収穫ができないのです。それでも何本かのツワブキを自宅に持ち帰り、新聞紙を広げて剥き始めるのですが、皮を剥く作業がまた一苦労で、ツワブキの灰汁で指先はニコチンが吹いたような汚さになります。最近はナイロンの薄い手袋が出回って手袋さえすれば指を汚さなくて済みますし、指に食酢をつけながら剥くとまるで裏技のように綺麗に灰汁が取れるようです。剥いたツワブキは水に晒して灰汁を取り軽く茹でて更に水に晒し、煮付けの魚などと一緒に煮付けるのです。ほんのり苦いその食感はまさに春の味でお酒などにも良く合う食べ物なのです。

 シーサイド公園の特産品センターには皮を剥いたツワブキが小さな袋に小分けされて200円程度で販売されており、手間暇かけずに春を味わうことが出来るし、ツクシやタラの芽も同時に買い求められます。間もなくするとワラビやゼンマイ、筍やイタドリも出て春の旬を思う存分味わうことが出来るのです。こうした山菜の数々は子どもの頃は灰汁が強くて口に合わず殆ど食べなかった嫌いな食べ物でしたが、やはり歳のせいでしょうか、山菜の味が分るようになって来ました。

 山菜と並んでわが町は海の町なので海の幸が沢山味わえます。海岸に下りて少し大きめの石をひっくり返せばニナという小さな貝が取れます。長靴と軍手の出で立ちで磯遊びをするのもこれからの楽しみです。獲ったニナは一日だけ塩水につけて砂を吐かせ、茹でにして爪楊枝で抜きながら食べるのです。ビールのつまみに最適でほんのり苦い食感もやはり春ならではの味なのです。少し深い水辺を歩けばワカメやヒジキも獲れますが、特にこの頃のワカメは柔らかく、茶色の海草が熱湯の中に入れるとまるでリトマス試験紙のように深い緑色に大変身するのです。ワカメの刺身もおつな物で、プーンと磯の香りが漂ってきます。

 昨日は魚編に春と書いて鰆と呼ぶ鰆の刺身を食べました。まるでトロのように口いっぱいにとろけます。まさに春、春、春のこの頃です。忙しい日々に変わりはありませんが、それでも2年前までの勤めていた時代とは違って私は現在自由人です。季節を楽しみ、季節を食べ、季節の中に身を置いて生きている実感をしみじみと噛みしめています。自由人っていいなあー。

  「分け入りて 綿毛被りし ツワブキを 御免なさいと 二三引き抜く」

  「そんな手も 灰汁が付いたら 大変と 手袋はめて ツワの皮剥く」

  「食卓に ツワブキワカメ 春姿 湯気の向こうに 美人の?妻が」

  「裏山の 日毎濃くなる 春の色 百合根緑葉 大きく伸びて」 

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shin-1さんの日記

○忙しい一日

 昨日は久しぶりの忙しい一日に午前中は松山市で3時間講義、午後は旧野村町で1時間半講演、夕方は氏神様である天一稲荷神社幣殿新築上棟直会、夜は上灘中学校評議員会と4つもの会をこなしました。さすがに「疲れたなあー」と感じる一日でした。夕方の飲み会と夜の集会は主体的ではなく幾分自由で気が抜けましたが、昼飯も食べず松山から野村まで2時間の移動時間を挟んで都合4時間半のお喋りは少々きつい感じもしましたが、それでも行く先々で出会いと確かな手ごたえがあって心地よい疲れのようです。

 最近朝か昼には妻と二人でNHKの「芋たこなんきん」という田辺聖子原作のホームドラマを見ますが、藤山直美演じる主人公の町子と石田あゆみが演じる秘書を見ながら、「俺にも秘書がいたらどんなに助かるだろう」と思ったりします。作家の町子ほどではありませんが、私も昨日のような忙しさだと、ついついポカをしてしまうのです。

 例によって昨日は9時からの講義だったので松山入口の渋滞事情を考えて7時30分にわが家を出ました。案の定藤原町付近で渋滞に会い、結局は約束の30分前に会場となる身体障害者センターに到着はしましたが、その折家を出て500メートルの所にある旧役場前で、上灘中学校の奥村先生が朝の交通指導をしている姿を見ました。その姿を見てとっさに忘れていた夜の評議員会を思い出したのです。早速渋滞で停まって動かぬ車から家へ電話をしました。上灘中学校の電話番号を聞くためです。先日携帯を取って警察に捕まった苦い経験があるのでそこは慎重に法に触れない程度にやりました。幸い息子が家にいて電話番号を聞きだし、早速教頭先生と今晩の集会を確認し事なきを得た次第です。息子は電話を切る時「このところの僕はお父さんの秘書みたい」と言うのです。確かにこの2年は午後から学校に通う息子が家にいる機会が多く電話番をしてくれたのです。その息子も間もなく就職するので少しばかり残念です。本当は妻に私のホローをしてもらいたいのですが、妻も孫の世話やパートの仕事に加えおじいちゃんの世話と一人何役もこなしているので、これ以上は無理がいえません。この上はもう少し自己管理に気配りをしポカの出ないようにしたいものです。でも朝奥村先生を見かけなかったら夜の集会は失礼な話ですが完全に忘れていたでしょう。

 午前の会はシルバーさん8人を相手の小さな会議での講義でした。キャップの杉本さんの仕切る会議のため請われるままに馴れぬレジメを出し、レジメがプリントされて皆さんに配られていたのでハプニングの連続でした。シルバーさんなので出来るだけ休憩を取って出来るだけゆっくり喋ろうと思って始めたのですが、前半の社会の変化と子どもたち、中盤の家庭の変化とこどもたちに予想以上の時間を食って、後半の学校の変化と子供たちや逞しい子どもを育てるためにはほんのさわりだけに終わってしまいました。返す返すも残念でした。でも参加した人は私たちと同年代に生まれ同年代に育ち、同年代に生きてきた共有意識が根底にあるようで共感・共有の話になったようで一安心でした。

 午後の会は野村町で活動している金融広報実践地区あさぎりの総会でした。会場はやく80人で満員の盛況でした。「心豊かに生きる」というタイトルでお話をさせてもらいました。田舎の穏やかな気質にも助けられあっという間に笑いの絶えない講演会は終わりました。会場には知人友人も沢山いて旧交を温めたり、ひな祭りの季節でしょうか机の上には美味しそうな雛豆が置いてあり、それをかじりながらの講演会でした。帰りには野村特産の珍しい地酒を2本も土産にいただき、早速親孝行のつもりで親父の土産にしました。

 昨夜はさすがに疲れたのでしょうか、「お父さん、夕べは軽いいびきをかいていましたよ」と一緒の布団で寝た妻に今朝言われました。普通は風呂から出て書くブログも夕べは書かずに寝てしまいました。

  「秘書もなく 日々の仕事を 組み立てる 時々ポカの あるは当然」

  「俺の秘書 ならぬか妻を 誘ったら いいですハンソン 洒落で断る」

  「日に四つ 少々無理な 日程を こなして寝息 疲れを語る」

  「ああ俺も 歳だな予定 忘れてた でも事なきは 天の助けか」



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shin-1さんの日記

○孫は動くおもちゃ

 孫からおじいちゃん・おばあちゃんと呼ばれるようになった私たち世代はいつの間にか歳を重ね、明治時代や大正時代生まれの人が段々いなくなって、気がつけば平成生まれの人が早くも成人式を迎える年齢になっているのですから驚きです。相撲の関取に平成生まれの人が登場したりする現実を聞く度に「昭和は遠くなりにけり」なんて、かつて聞いた名セリフを思い出さなければならない年齢になっているのです。「おじいちゃんなんて呼ばせない」と空元気を言ったり、「老人会には誘われても行かない」などどと胸を張ってみた所で老いは確実に私たちの所へ忍び寄って来ているのです。

 そんな初老の私たち夫婦にとって、62歳になってもまだ孫の数が1人とは、子どもが4人もいるのに何とも心もとない感じがします。しかし嬉しいことに今年は5月、長女夫婦に2人目が、8月長男夫婦に待望の1人目が誕生する予定で、今年は一気に3倍になるのですから、おじいちゃん・おばあちゃんの目尻も8時20分を差す時計のようです。

 このところ一週間ほど、頻繁に来ていた孫がすっかり顔を見せなくなりました。忙しい娘婿の年度仕事も一段落して孫の面倒を見れるような春休みが近づいているので、入院している娘がいなくても久しぶりに父子の穏やかな生活を楽しんでいるようです。いたらいたでうるさく感じる孫の存在ですが、いなければ何か物足りなく感じるもので、昨日は久しぶりに電話をしてやりました。電話に出た娘婿が「朋樹、おじいちゃんから電話だよ」と、電話口に孫が出たのは良かったのですが、「おじいいちゃん、僕は今おもちゃの片づけで忙しいの、電話せんとって」といきなり電話を切られてしまいました。「あれほどおじいちゃん、おじいちゃんと言っていたのに」と少しショックでしたが、直ぐに娘婿から電話がかかり直して少しホッとしたのです。いつの間にか孫も主張を始めました。これも成長の過程だし、いずれ成長するにしたがって私たちの手の届かないところに行くのだろうと内心腹をくくった次第です。

 孫は私たちにとってまるで「動くおもちゃ」のようです。2年前から始めたデジカメにはもう何百枚というほどの孫の写真が収められ、パソコン画面には孫のツールが用意されて日々更新されているのです。最近ではハサミの使い方もうまくなって先日は仮面を作って遊びました。まるでナマハゲのような仮面を被ってヒーローになったような錯覚で北斗の剣とかを持って私と戦うのです。悪者役は何故かおじいちゃんです。

 先日は今治の大西星の浦公園で落ち合いましたが、危ない石の上に登ってもこうしてヒーロー気取りでポーズを取っています。

 

 最近はよく孫と一緒にお風呂に入り、孫と同じ布団に入って寝ます。2~3ヶ月前は寝る頃になるとおばあちゃんがよく、私の元を離れていましたが、成長したのでしょうか「男同士」なんて言葉をよくいいます。孫と寝ていて気付くのですが、子どもは寝ている間も休みなく動きます。私などは寝たらそのままの姿で朝を迎えるような動きのない寝姿ですが、孫は処かまわず動き回ります。多分ああしてエネルギーを使って寝ている間も成長するのでしょう。お陰で孫と寝ると布団からはみ出す度に布団の中に引きずりこまなければならず、浅い眠りに終始してしまうのです。

 最近は寝小便が気になるらしく、寝る前のお茶も自ら律するいじらしさです。

 今晩はまた孫がやって来ます。「ああーああー」と「ワクワク」かな?。

  「一夜寝る 度に成長 孫姿 寝小便 気にする 歳になったか」

  「ヒーローに なったつもりの 孫相手 私はいつも 悪と負け役」

  「明日また 孫が来るから 早寝して 満を侍したる おばあちゃん」

  「何欲しい 電話予約の 甘い祖母 餃子作りて 心待ちする」

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shin-1さんの日記

○転居手伝い

 転居と聞けば普通のサラリーマンなら人事異動に伴う住家の変更なのでしょうが、私の友人でえひめ地域づくり研究会議事務局長の岡崎さんは親の人事異動による子ども時代を含めると、驚くなかれ20数回も転勤をされているそうです。私などのように地元の役場に就職した者は人事異動といっても机が別の部屋に移る程度の異動だったので、彼らのような転勤族を何とも羨ましいものだと思いました。でもいざ実際異動をしてみるとこれは大変なことだと、今日改めて思いました。

 私の末息子(三男)は念願かなって警察官になりました。警察学校を卒業して管内の警察署に配属され、交番勤務をこの一年間してきました。警察の勤務は24時間勤務ですから1日勤務すると勤務明けが2日間とローテーションが組まれるのですが、ご存知のように世情不安定な日本になりつつある現代ではその勤務も大変なようで、テレビで見る格好よさとは違って現場の仕事も大変なようです。

 数日前その息子から警察署の内部移動で一人だけの交番勤務のため、官舎を出て交番へ転居することになったのでトラックに乗って手伝いに来るよう頼まれました。私の仕事も今日は空きがあったので、姉の家でトラックを借り受け、三男の部屋のベットを取り外して、前の会社の寮生活時代に使っていた洗濯機とともに積み込み、家内と二人で朝早くから手伝いに出かけました。昨夜来の心配された雨もあがり、強風は吹いて寒さは厳しかったのですが、着込んで出かけました。妻は私より一足早く起きて朝食用の弁当を作り、お茶を魔法瓶に入れてまるでピクニックにでも行くような出で立ちです。

 日曜日の朝は比較的道路も空いていて2時間弱、9時過ぎには官舎に到着しました。異動の季節なのでしょうか既に引越し業者の車が数台来ていて、同僚が盛んに荷物を運ぶ手助けをしていました。息子の官舎は僅か6畳一間の足の踏み込む場所もないような小さな部屋でした。でもここで息子は一年間過ごしていたのかと思うと何だか懐かしく、花粉症の息子も鼻をグスグスいわせながらマスクをしての作業に余念がありませんでした。同僚や後輩が片付いた分からせっせと運び出しましたが、男所帯の寂しさなのか埃もかなりあるようで、妻はせっせと次に入居する人のことを考えて「立つ鳥後を濁さず」などと、そのことの方が気になるようでした。私のトラックと息子の乗用車で二往復でやっと荷物を運ぶことはできましたが、その片づけがまた大変で、カーテンを買いに行ったり、物干し道具や掃除道具など、一通り揃えなければならず、何かと物入りでその度に妻の財布から小銭が出て行ったようでした。粗方の片づけが済んで引越しにつき物の引越し蕎麦を食べようと3人で暖簾をくぐった頃には時計の針は1時を過ぎていました。

 息子の新しい勤務地である駐在所は4DKです。広々とした室内や外の日当たりも抜群で今までの独身寮とは比べ物にならない程の広さです。おまけに収納スペースの押入れもふんだんにあって、昨日までとは天地の差のようでした。まだ事務引継ぎも出来ていないのですが、早くも市民が何やら相談に来たようで、早速書類をテキパキ作成したり忙しい仕事の始まりを予感しました。食事が終わって粗方の片づけが終わった3時過ぎ、私たち夫婦は駐在所を後にしました。息子の朝食にと妻が作った弁当は結局食べず終いで、息子が夕食に食べるのだそうです。

 長い転居の手伝いで疲れ、汚れたので途中の温泉に立ち寄って気分を一新して我が家へ帰りました。息子にとっては新任地への転居と今回の転居で早くも2回目です。職業柄これからも県内の警察署を点々とする転居が続くものと思われますが、いい人間関係の中でいい仕事をして欲しいと願っています。親ばかなのでしょうか。

  「転勤に 伴う転居 手伝いに 妻と二人で トラック乗って」

  「一部屋の 独身寮に 別れ告げ 四DKとは リッチなもんだ」

  「春異動 前も後も 荷物積む 車行き交う 忙しそうに」

  「少しだけ 成長したな ありがとう 別れる際に 殊勝な言葉」

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shin-1さんの日記

○大豊作のほうれん草

今年の冬、わが家の畑ではほうれん草が大豊作で、殆ど毎日といっていいくらいほうれん草のおひたしを食べています。若い頃からどちらかというと肉よりも魚が好きな私は、その付け合せともいえる野菜が好きで特にキャベツは毎朝常食として食べています。妻の作る料理にはふんだんに野菜が使われるため、当然ながら野菜が好きになったのです。

 あるお医者さんの話だと地球上に住んでいる人間は大別すると肉食と草食に分かれるのだそうです。まるで恐竜の世界の話のようですが、肉食を好む人種は腸の長さが短く、草食を好む人種は生まれた時から腸がとても長く出来ているのです。勿論私たち日本人は草食動物的人種なので腸はかなり長いようです。これは肉と草の消化時間の違いから長い食生活習慣によって進化を遂げてきたわけですから、肉が好きだからといって急に腸が短くなるのではないのです。ところが草食人種であるはずの日本人の食生活がこの50年で大きく変わりました。草食から肉食に変わったのです。肉を消化するには短い腸で出来るだけ早く便にして外へ出さなければならないのに、腸が長いものですから宿便や便秘になって体内に留まり、ついにはそれが腐敗して胃や腸の内面を壊すのです。胃ガンや大腸ガンがこの50年間で死亡率のトップになった原因はここから来ていると断言する人さえいるようです。

 そういえば日本人の食生活は私たちの子どもの頃と今と比較すると雲泥の差です。年に1度か2度しか食べなかった肉を日常食として食べるようになりました。松坂牛に代表される霜降りの柔らかい脂身の肉をテレビのコマーシャルにつられて食べ続けると誰だってコレストロールが増えたり肥満になったりするのです。それでも飢餓を体験した私たち世代は豊かさの象徴としてそんな食生活に未だに憧れているのですからおかしな話です。50年の食生活の変化に腸の長さがついて行けるほど人間の細胞の進化は早くはないのですから、日本人が草食人類であることの理解をしっかりとすることが長生きの秘訣かも知れないのです。

 ほうれん草を毎日のように食べると、発癌物質が多いので要注意と言われています。でも肉を毎日食べるとガンになるとは誰も言いません。それでも私はほうれん草を食べる方が健康にいいと思って食べているのですから、よほどの変わり者か偏屈なのでしょう。

 ほうれん草はグラタンにしても美味しいです。妻は若い頃ほうれん草の食べ方はおひたしくらいにしか思っていませんでしたが、

少し時間的余裕が出来たのか、料理の本などを捲ってレシピを見ながら色々な料理を作ってくれます。例えばグラタンもその一つですがこれが滅茶苦茶美味くて、結構気に入っているし、ほうれん草を湯がいたものを芯にした巻き物も中々美味しいです。ほうれん草が豊作になった一番の功労者は暖冬という気象異変と種から育ててた親父なのですが、近所へ配っても冬野菜のことゆえ結構喜ばれます。近所に住む人の中には野菜を全て買う家庭もかなりあるので、無農薬で栽培するわが家のほうれん草は重宝がられているようで、先日は御礼にと珍しい物をいただきました。

 ほうれん草は冬野菜、谷間に位置するわが家では冬の太陽が中々顔を出してくれません。ですからブロッコリーも大根も、キャベツも、もう春の話題がちらほらというのに冬野菜の全てがこれから旬を迎えます。まさに遅咲きの旬と言ったところでしょうか。

  「エンダイブ 珍し野菜 食卓に ピリッと辛い 春の味する」

  「報告や 連絡相談 ホウレンソウ 行政マニュアル 聞いた聞いた」

  「グラタンを フウーフウー言って 口にする 春の香りが 口に広がる」

  「食べますか チャイム鳴らして ホウレンソウ 差し出す私 中からいつも」 

 

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shin-1さんの日記

○春の準備

 ♪どこかで春が生まれてる どこかで芽の出る音がする 春よ三月~♪なんて、「どこかで春が」という歌を子どもの頃に口ずさんだような記憶があります。この歌のように春がそこまで来ているような感じです。三寒四温の巡りも活発になってテレビでは早くも桜の開花予想が今月17日ごろと第一回の発表さがありました。「ああ春か」とウキウキする心がある反面草丈が伸びる心配や春の準備が遅れている自責の念が頭を持ち上げ少し憂鬱な気持ちにもなっています。年末年始に痛めていた腰の具合も随分よくなり人間牧場へ行って農作業をしたいのですが、このところの忙しさでそれも適わず悶々の日々なのです。

 一昨日の午前中少し時間が取れたので思い切って人間牧場へ行きました。人間牧場界隈は冒頭の歌のように確かに春の近づきを感じるように草の色が青くなり、進入道路のコンクリート舗装の上にさえ草が生えつつありました。昨年秋にイノシシがのたうった道の両側の崩れも美観を損ねているので思い切ってその作業から始めました。鍬で草をおごしテミでくぼ地へ運ぶ作業なのですが、やはり腰のことが気になって少しずつの作業しかはかどりませんが、それでも両側を含めると4分の1も道路を占拠していた草を除け土を取ったお陰で随分すっきりした道になりました。本当は一度にやりたかったのですが無理は禁物と途中で止めてそこら辺の枯れ木を集めてストーブに火を入れ、お昼の休憩準備をしました。

 「野良なお前が珍しい畑仕事をするからこんなに寒いと」と苦笑する親父の話のように、この日はとても冷たい北西の季節風が吹き荒れ、山には薄っすらと雪化粧、しかも時折粉雪が舞うあいにくの天気です。じっとしていると足元から寒さが伝わってくるし、畑は前日の時雨で少々ぬかるんでいるようにも見えましたが、これ以上農作業を遅らすとジャガイモの作付けにも影響素するとあって、思い切って耕耘機を動かすことにしました。

 この耕運機はまちづくりの仲間である大洲市田処の亀本耕三さんが、牛糞と一緒に昨年持ってきてくれたものです。斜面ゆえ耕運機を使う作業は腕や足に堪えますが、ガソリンを満タンにしてチョークを引き2~3度始動のための紐を引っ張ると、勢いよくエンジンがかかり、凄い勢いで耕し始めました。昨年は荒れた畑だったため約1週間もかけて鍬で丹念に作業したのに、僅か2時間で深耕し、今更ながら現代的機械の威力に脱帽しました。


 もう少し温かくなったらこの耕耘機を収納する小屋も作らなければなりません。長男とはその算段を何度となくしているのですが、設計士の息子ゆえハードルが高く中々私の思う通りにはなりません。息子の試算だと40万円くらいかかるとか、投資金額の多さに耳を疑うのですが、資金源たる妻の首は容易に振れそうもなく、未だに決断しかねているところです。当面今年の人間牧場の目標はこの納屋づくりに合わせた奥戸さんづくりですので何とか資金を捻出して一日も早い完成を目指しています。

 薪で風呂を沸かすようには出来ました。今度は薪で煮炊きが出来るようにすることです。特に薪でご飯を炊いたりしたいのですが、息子は石釜まで構想にあるようで、全て資金調達はオーナーなどとおだてられる私の責任なのです。でも先のことを思うと時間がないので、早く決断して夢の実現に一歩近づけたいものです。

 農作業中もひっきりなしに携帯電話がかかってきてビジネス?もしなければならず困ったものです。農作業中頭上よりはるかに低い見下ろすような場所を海上保安庁のヘリコブターが爆音を響かせ行き来し始めました。一瞬何事が起きたのか驚きましたが、沖合いでつき磯のため石を海上投棄している作業を水質汚濁がないか監視しているようにも見えました。この沖合いでは海上自衛隊の大型ヘリが訓練のため日がな一日飛び交うこともあり、海上自衛隊の艦船も見学できるなど、見方を変えれば何かと面白い場所なのです。

 

  「春が来た 草刈りはたまた 農作業 しんどい春も 頭をよぎる」

  「去年は 鍬で一週間 今年は僅か 二時間足らず 耕運機偉い」

  「土興す 草の根 早くも 動いてる 心痛めつ 前へ前へ」

  「蜂ならぬ ヘリの爆音 驚きて 見下ろす海に 白き物体」 

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