shin-1さんの日記

○上に目を向けている上司

「ねえ若松さん、どう思いますか」唐突な電話をかけてきたのはある街の市役所の知人でした。彼が言うのには今日は新しい年度の始まりの日で、昨日が日曜日だったため月曜日の今日の朝、全員で朝礼をしたそうです。新しく支所長になってやって来た支所の責任者は、朝礼で開口一番こう話したそうです。「今日から支所長になった○○です。私の考えは市長の考えであり中央のやり方に合わせて仕事をして下さい」と短いながら決意を述べたそうです」。この支所長は定年間近でもう一年だそうですが、これまでどちらかというと上司や部下との人間関係が上手くいかなかった方だと伺っていました。

 電話をかけてきた友人が指摘するのは支所長の言葉の意味です。本庁から帰った人は得てしてこんな物言いをするのかもしれませんがまず「市長という威厳で部下をひれ伏そうとする態度です。確かにその街の代表は市長であり、市長の言うことは絶対です。しかし支所長と市長が同じはずはありません。ましてや中央の考えに合わせるという中央集権的な発言は、これまた出先にとって何とも割り切れぬ発言なのです。この支所長はこれまで上に対して批判を繰り返していたのに、たった一年の中央暮らしでここまで洗脳されるのかと見まがう程の変身ぶりに周りが驚いたのは無理からぬことだと思うのです。

 もし私がこの支所長だったらどういうあいさつをするだろうと考えてみました。今回支所長になった若松です。私は支所という仕事は中央の末端出先ではなく最前線だと思います。住民に最も近い最前線にいい職員がいると痛みも苦しみも悩みも分っていい行政ができるのです。支所はそんな意味で合併後の最も重要なテーマである参画と共同のできる場所かもしれません。中央には中央のやり方がありますが、支所には支所の地域個性があります。この個性個性を磨くことも大切な支所の仕事です。お互い市民のためにいい仕事をしましょう」くらいな気の利いた話はするでしょう。この一言を聞いたなら私へ電話した知人はもっと違った反応を示していたに違いありません。短いあいさつながら失望と信頼は大きな違いであることを一言一言肝に銘じて話さなければいい上司とはいえません。

 私にとって今日は二つの特別な日となりました。ひとつは空調業界の雄といわれるダイキンエアテクノ四国株式会社の入社式の記念講演に招かれました。新入社員は6名でしたが、多数の幹部も出席して「新しい発想で生きる」と題した私の話を熱心に聞いていただきました。若さ溢れる皆さん方を前に人間としてどう生きるかという話でしたが、中には熱心にメモを取る社員もいて嬉しい限りでした。

 もう一つは期を同じくして日赤に看護士として入社した次男の入社式でもありました。さすがに息子の入社式には同席できませんでしたが、夕方わが家へ帰った次男は興奮した面持ちで入社式の模様を話してくれました。そして「今日は感動した。いい職場に入ったので頑張る」と言ってくれました。

 新しい年度が始まり、また社会がまるでエンドレステープのように回り始めました。上司とはいかなる責任を負うものなのか、部下はどんな上司と巡り会うのか、小さな職場の歯車に翻弄されながらそれぞれの人生が始まったようです。上司はある部分で部下を選べないし部下もまた絶対的に上司を選べないのですから、数奇な運命の出会いを大切にいい仕事をして欲しいものです。あくまでもこの仕事は人の幸せ実現のためにやるということを忘れないで欲しいと思います。究極の幸せは人のためにできる幸せです。

  「一言の あいさつ失望 電話する 知人の言うのが 当たり前だよ」

  「選べない 上司の下へ 配属し 貧乏くじ引く 宝くじかも」

  「ああ俺も 昔はこんなに 若かった 何より勝る 若いということ」

  「威厳とは 自分が作る ものでなし 市長と同じ 言ったところで」


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shin-1さんの日記

○人間牧場主という読み名にやっとなれました

ヤフーで「若松進一」を打ち込んで検索すると今日現在で856件もの情報が打ち込まれていて、個人情報だのいう割には個人情報が無断で飛び交い今更ながら情報化社会の凄さに驚かされます。パソコンを始めたころはその一つ一つをチェックして見ていましたが、近頃は自分のブログの文章書きや書き込み対応が忙しく、また届くメールへの返信など、2~3日家を留守にするとその対応だけで半日も潰れることがあるのです。その様子を友人に話すと「若松さん。そろそろあなたも会社を興して秘書などを持ちスケジュール管理をする人を雇ったらどうですか」と言われたりします。その度に私は「とんでもない話です。私のような自由人にはこれくらいが丁度よいのですから」とお茶を濁していますが、自分が自分を管理することは中々容易な事ではないのです。

 一昨年の4月1日、35年間勤めた役場を教育長を最後に退職して自由人となってから、早くも昨日で2年間があっという間に過ぎました。自由といっても現在の私の仕事は主に4つに分類されます。1つは愛媛大学非常勤講師です。毎週水曜日の午後6時から8時まで法文学部の夜間主で教壇に立ちます。資料を作ったり講義をしたり4年ですっかり慣れたつもりですが、これが中々骨の折れる仕事です。4年間を終わったのでさてどうしようか考えましたが、続投の方針を固め現在今年度のシラバスなどの準備中です。

 2つ目は全国行脚の講演活動です。昨年は北は北海道から沖縄まで請われるままに様々な地域に出かけ主にまちづくりや生涯学習、青少年問題などについて弁舌を振るいました。最近は国土交通省の観光カリスマ百選に選ばれていることもあって、観光の仕事も多いようです。3つ目はボランティア活動です。えひめ地域づくり研究会議代表運営委員(20年)、愛媛県金融広報アドバイザー(30年)、21世紀えひめニューフロンティアグループ代表(22年)、などの他様々な役割をこなしています。この2年間就任していた自治会長は再任の要請が強かったのですが後任に道を譲りました。ですからこの分だけでも随分楽になったと胸を撫でています。4つ目は私人若松進一として人間牧場主であったり、私設公民館煙会所や海の資料館海舟館の経営とこれまた私事ながら多忙な仕事なのです。特に双海町へ視察に来る人は結構多くその度に私的な施設への案内がセットされ、多くの出会いがあるのです。そんな4つに分類される仕事の中で一番気に入っているのはやはり人間牧場主という肩書きで、千枚も作った名刺がまたたく間に売れて、現在の名刺は2千枚目がもう数えるほどしか残っていないので、えひめ地域政策研究センターの清水さんにお願いして、リニュアールした名刺を作り直してもらっています。

 最初は馴れなかった「人間牧場主」という肩書きの名刺を見て、どの人も「人間牧場って何ですか」から始まるのですが、「はい人間を放し飼いにする所です」から始まって、人間牧場の薀蓄を話すのです。人間牧場の施設も水平線の家、ロケ風呂、ツリーハウスと進み、今回の倉庫を含めると小さいながら4棟にもなりました。施設の夢を息子と描く度に最後は資金について話し、結果的には少し萎んだ夢に落ち着くのも仕方がないこととあきらめています。それでも夢さえ持てばソロバンは後から付いてくるもので、何とか持ちこたえてきました。

 人間牧場もそれぞれのマスコミがそれぞれの立場で紹介するものですから否応なしに人気が出て、今は沢山の人が順番待ちのような状態です。人間牧場には比較的若い人の来訪が多いのも一つの特徴のような感じもしています。

 人間牧場主という肩書きに違和感のなくなったこの頃ですが、今年はニューフロンティア塾の開講や様々な会議が予定されています。今年はもう少し進化した自分を目指したいと心を新たにして新年度の今朝を迎えました。

  「早いもの 人間牧場 肩書きで 動き始めて 二年が過ぎた」  

  「牧場に 行きたい旨の 連絡が 日増しに増えて 嬉しい悲鳴」

  「2千枚 名刺を配る 人に合う 明日も何人 出会うことやら」

  「四棟も 家持俺は セレブかも 懐金は 無いに等しき」

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shin-1さんの日記

○孫と団子虫

 春休みになって孫がわが家に来ています。「お母さんは入院、お父さんはお仕事」と、近所の人からの質問にも平気で答える孫の春休みは、お父さんの実家である大阪羽曳野への小旅行から始まりました。20日から25日まで大阪に滞在し帰ると直ぐにわが家へ直行しましたが、何せ私も妻も次男までも年度末の慌しさで孫にかまってやることができず、朝は私、昼は息子、夜は妻とまるで三交代のような孫育てが続きました。それでも孫は楽しそうに我が家で過ごしています。でも母親が入院してから始まった「朋樹プロジェクト」は長引く母親の入院で予想以上に長期化し、私にとっては馴れない孫育てて少々お疲れモードです。

(私の背もたれ椅子でじゃれる孫朋樹)

(窓ガラスを掃除する孫朋樹)

 昨日は孫と二人で人間牧場へピクニック気分の遊びに出かけました。私は大洲の亀本さんから貰った牛糞の処理がそのまま残って美観を損ねているため、少し片付けようとの思いもあって作業服で出かけましたが、孫は朝からおばあちゃんにおにぎり弁当を作ってもらいリュックに入れておおはしゃぎでした。二人で人間牧場用の軽四に乗り歌を歌いながら狭い山道を登って行きました。道沿いは何時の間にか春真っ盛りで山桜の花がそれは見事に咲いていました。また緑のトンネルだと孫が言う山道のあちこちにはタンポポ、椿、菜の花など数えればきりがないほどの野草が咲き乱れ、野イチゴの花も初夏のイチゴ狩りを想像するに十分な雰囲気でした。

 孫を納得させ私は農作業を始めましたが、水平線の家は山里の一軒家なので寂しくなるのか直ぐに大きな声で「おじいちゃーん」と呼ぶのです。そして急峻な畑へ振り撒く牛糞をシトラーに入れて運ぶ度に私についてきて、上がったり下りたりを繰り返していました。倉庫の新築工事に来ている大工さんと口相撲をとったりしていましたが、孫が突然牛糞に群がる団子虫を見つけました。「おじいいちゃーん団子虫」と意外な発見に孫は興奮した様子で竹の切れ端で恐る恐る触っていました。手で触るよう勧めましたが最初のうちは中々手を出そうとしませんでした。それでも小一時間観察していましたが、手にとって触れるようになると安心して沢山の団子虫を拾い集めていました。孫にとっては団子虫に触れた意義ある一日となったようです。

(団子虫を持って喜ぶ孫朋樹)

 「喉が渇いた」といってはジュースを飲み、「腹が減ったといってはお菓子を食べていましたが、その内お昼のミュージックサイレンの音に気付いてお目当ての弁当を広げることにしました。リュックサックから出てきた弁当は2段重ねで大きなおむすびとウインナーなどが入ったおかずです。手を洗って食べ始めたのですが孫の食欲は運動量に比例するのか旺盛で合計6個のおにぎりも孫4個、私2個で孫に軍配です。

(おばあちゃんの作ってくれたお弁当)

(おにぎり4個の大食)

 昼過ぎ長男が親父を乗せてやって来ました。親父にとっては建て前以来の人間牧場なので目を細めながらあちこちを散策していましたが、先日作ってくれた風呂の蓋の出来具合を目で確かめたいおもいもあったのでしょう。「もう5ミリ大きかったら」と私の採寸の間違いを悔やんでいました。

(二人の隠れ家で寝袋に入る孫朋樹)

 大工さんも息子たちも帰ったので水平線の家の2階ロフトに作った私の小さな隠れ家に孫を案内し昼寝をすることになりました。中には長男が持って来ている寝袋が置いてあるのですが、その中に蓑虫のように私と孫が潜り込みました。はしゃいでいた孫はいつの間にか寝込み、軽い寝いびきが聞こえるようになりました。私はそっと抜け出し再び思い牛糞をシトラーに入れて下の梅林まで下し根元に振り撒く作業をしました。1時間半ばかり経つと孫は午睡から覚め元気に起きて来ました。お母さんの病院へ持って行く花摘みをするのだと孫とそこら辺りを散策しました。孫の目に留まったのは名残の薮椿です。一輪ずつ二枝を折って持ち帰り牛乳瓶に差して台所の隅に飾っていますが、団子虫といい、薮椿の花といい、孫にとっては自然の豊かさに驚いた一日だったようです。「おじいちゃん、明日も弁当を持って団子虫と椿を取りに人間牧場に行こうね」と、一緒にもぐりこんだ夜9時の布団の中で話しかけていました。

  「蓑虫の ような姿で 潜り込む ロフト隠れ家 孫と二人で」

  「団子虫 始めて触れる 感動に 孫は興奮 これが自然だ」

  「薮椿 母にあげると 手で折って 牛乳瓶に 活けし美し」

  「牛糞を 担いで下る 俺の足 体力落ちて 少しヨタヨタ」

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shin-1さんの日記

○キツツキにやられました

 キツツキという鳥は知っていますが、キツツキが直接木をつついている姿は中々お目のかかれないものです。人間牧場ができて一年余りが経ちましたが、水平線の家とロケ風呂の外壁に何やら大きな穴が開いているのを発見したのは丁度一年前でした。でも最初、それがキツツキの仕業だとは余り気付いてはいませんでした。水平線の家で歓談中外で何やら「コン、コン、コン」と音がするので出てみるとキツツキが直立の外壁に足の爪を立て器用に止ってくちばしをハンマーのように思い切り外壁にぶつけているのでした。始めて見る光景を面白そうに口を開けて見ていましたが、これは大変と手拍子や木切れで威嚇しました。しかしその効き目は一向になく、新品の外壁は無数の穴だらけになってしまったのです。近所の人に話すとキツツキの被害など日常で、イノシシの方に気を取られていますが、木製電柱や青竹さえも穴を開けてちゃっかり住みついている姿を見かけるのだそうです。足場を外した外壁付近にキツツキ脅しのための鏡やカラスの模型など吊ってみましたが焼け石に水で、何ら効果を上げることができませんでした。鳥おどしの網を張ればいいのでしょうが外観を損ねることからそれもできず、当面は大工さんにお願いして入れ木をしてもらいましたが、その付近にまた大きな穴を開けるのです。

(キツツキの被害に遭ったロケ風呂の東側外壁)

 広辞苑によるとキツツキは4本の足指中2本は前に、2本は後に向かい鋭い鉤爪があって樹幹に止るのに適し尾羽堅くとがっていて、これを幹に体を支えながら巧みに幹をよじるのです。嘴は鋭く舌の先に逆向きの鉤があり、幹に穴を開けて中の昆虫を掘り出して食べます。巣は幹を掘って作った洞穴中にあります。普通雄は頭が赤く雌は赤くないそうです。

 戦国時代にはキツツキ作戦と称して相手を誘い出して滅ぼす戦法も聞いたことがありますが、キツツキの撃退法を知っている人がいたら教えて欲しいものです。

 でも本当はフクロウとともに森の番人といわれるキツツキが、ねぐらにしたいほど人間牧場周辺の自然が豊かであることを感じなければならないのかも知れません。私たち人間は得てして人間の都合のみで生きています。野菜に虫や病気が発生すれば農薬を散布して、自分たち人間の健康はおろか自然の生態系などへの影響を考えもせずになりふりかまわず行動し、自分たちの暮らしの便利さのためにダムや観光道路や埋め立てを平気で行ってきました。共生という言葉を平気で使っている割には自然や他の動物のことなど無視して生きているのです。

 昨日人間牧場でキジの鳴き声を聞きあの素敵な雄姿を見ました。「ケン、ケン、ケーン」とかん高い声を出しながら大きな羽を広げて目の前を低空飛行したのです。多分この頃はキジにとっても恋の季節であったり子育ての季節なのでしょう。近くで聞こえる草刈機の騒音への警鐘にも見えました。

 さりとてこのまま水平線の家を赤ゲラの餌食にするわけにもいきません。人間牧場の豊かな自然の贅沢な悩みはまだまだ続きそうです。

  「キツツキが コツコツコツと 音を立て 穴あけ帰る 何を目論み」

  「イノシシの 次はキツツキ また被害 撃退知恵の なさに失望」

  「鳥なれど まるでドリルか 大工さん 器用なもんだ まあるい穴を」

  「警察に 被害届けを 出そうかな 器物損壊 いか程量刑」


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shin-1さんの日記

○校長先生勤務地最後の日

 昨日の送別会で岡崎さんから「翠小学校の校長先生が会いたがってたよ」という話を聞いていたものですから、愛媛新聞社の方と会う約束が終わったので、午前中孫を連れて翠小学校まで出かけました。この時間だと離任式かあいさつ回りで留守かもしれないと思いつつ校門の入り口に車を止めるなり、私たちの姿を目ざとく見つけて、一目散に走って迎えにこられました。

(3人で記念の撮影です。息子の恩師宮岡先生に撮ってもらいました)

 普通校長先生は松山教育事務所管内で移動するのが常識ですが3年前、管外交流という名目ではるばる宇和島教育事務所管内から昇任校長として赴任してきたのです。当時は私も地元の教育長をしていたし、そんな関係で出迎えました。しかし今回の見送りは無位無官となった一私人としての見送りなので、むしろ晴れ晴れとした気持ちで見送ることができそうです。

 鹿島校長さんはかつて派遣社会教育主事として南予の町村で活躍した実績を持っており、特に同和教育などは得意の分野でそれなりの評価を受けていました。勿論役場職員といえども社会教育活動で県下一円を回っていた私にとっても彼は知り人の範中で、彼の来校と活躍を心密かに待っていました。「県下で一番若い校長で県下で一番給料の安い校長」などと笑いを交えて紹介した赴任を祝う歓迎会がつい昨日のことのように思い出されます。笑いのついでですが、少々頭も薄くなって風貌は年齢相応に見えるのですが、彼のフットワークの軽さと柔軟な発想力、違った視点でのものの見方は、派遣社会教育主事をしただけのことはあると思ったものです。

 彼は単身赴任でした。学校の近くの教員住宅に居を構え24時間体制で学校を守りました。PTAや時には校区内の住民を私邸?に招き入れ交流を盛んに行いましたし、学校が木造校舎ということや文化的価値があることもあって頻繁に学校を訪ねてくるまちづくり人たちと交流を続けてくれました。

 私が翠小学校に興味を持ったのはもう20数年も前のことです。当時は昭和5年の建築物である木造校舎は地元にとって「古くて危険」というイメージしかありませんでした。したがって鉄筋コンクリートの学校が町内に建つ度に次は翠小学校とみんな淡い期待を持ったものです。でも財政難や町がやらなければならない政策の優先順位は次々に別のものに先を越されて、残したくて残ったのではなく結果的に残っただけのことなのです。気が付いてみると(本当は気が付いていたのですが)県内の現役木造校舎では最も古くなっていました。関係者が今頃になって「この校舎は文化的な価値が高く」と胸を張りますが、知っている私は「よく言うよ」と呆れて聞いています。

 鹿島校長さんが赴任してからのこの3年間は翠朱学校にとっても様々な出来事がありました。私が教育長としてではなくまちづくり人として関わったミニシンポや建築関係者が取り組んだ実態調査などで科学的裏づけがなされ、環境庁の指定を受けてエコ改修の指定も受けました。その度に休日返上で見守り支えた業績は凄いと思うのです。

 私はこの学校に4つの贈り物をしました。一つはカワセミの彫刻物です。学校の名前の由来さえ誰に聞いてもあやふやだったものですから、カワセミに由来することを伝えたいと、長浜の彫刻家にお願いして掲額を作ってもらいました。予算などあるはずはなかったのですが10万円を7万円に値切り贈りました。二つ目は学校建築当時の写真です。この写真は私が写真屋に拡大を依頼しただけです。この学校の原点ともいうべき写真なので大切に飾られています。三つ目は木製の机と椅子です。当時の上田町長さんと久万町の林業まつりに出かけた折、高田課長さんと出会い、ほたる祭り加戸県知事さんの来校を実現させてあっという間にスチールの椅子と机が木製に変身しました。四つ目は学校を中心とした環境庁「ふるさといきものの里」という冠です。お陰で水車小屋も出来翠小学校周辺はほたるの里として整備が進み、翠小学校の赤い屋根が原風景となっているのです。

 鹿島校長先生ご苦労様でした。あなたの記憶にも翠小学校3年間は残っているでしょうが、翠小学校や私にとってもあなたの名前や記憶は永遠に残ることでしょう。3年間お疲れ様でした。


(校長先生と孫と私と二宮金次郎の4人で記念撮影)

  「また一人 記憶に加え 去る人の 姿すがしい 校長先生」

  「結果的 残りし木造 小学校 子供減りゆく 少し気がかり」

  「少しだけ 目に涙する 校長の 想いの裏に 在りし日々見ゆ」

  「次に来る 女先生 どんな人 早くも次に 歴史めくりて」 

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shin-1さんの日記

○異動の季節に移動する

 誰がどこで決めるかさえも分らないたった一枚の紙切れによる人事異動の季節がやって来ました。このところの地元紙は「そんなに記事がないの?」とか「役所の異動がそんなに重要なの?」と想うほど、これでもかといわんばかりに紙面の大半を割いて異動を報じています。私のように全県下に知人友人がいれば別ですが、伊予市に住む人たちにとって四国中央市や愛南町の人事異動の記事など何の関係もないのです。多分新聞社内部にもこんな紙面づくりで果たして良いのかと異議を唱える人も多いのでしょうが前例踏襲とは面白いものです。

 今年も異動の季節がやって来ました。異動しなかった人たちは異動した人たちの送別会をしなければならず、たった一日なのに4月1日後以降の新年度にはまた歓迎会と称する飲み会を、異動した人の分まで異動しなかった人が被ってやらなければならないのです。自分が異動した時もやってもらうのですからお互い様なのでしょうが、このところ飲み屋に少し異変が起きているようです。それは合併によって中央となった地域と支所になった地域の差なのです。中央となった地域の飲み屋は息を吹き返しつつあります。これまでの異動は小規模だったため、内示が出ると酒飲み会につきまとう煩わしさを避けて近隣の街で送別会をしていましたが、合併によって様変わりしたため地元志向が強くなって「空いていたら何処でもいいわ」てな調子で、地元の小さな飲み屋での送別会と相成るのです。飲み屋の女将さんが「合併して良かった」と言うように合併のメリットはここら辺にも現れています。ところが支所化した地域ではいつもの年の年度街には大小の宴会が入っていたのに、合併後は役場の職員数がまるで10分の1になった雰囲気で、早々と暖簾をたたむお店も出てきたのです。「合併してさっぱりだ」と嘆く人の苦悩は大変なもののようです。

 昨日は伊予市で珍しい参加者手出し、いわゆる会費性の珍しい送別会に出席しました。えひめ地域政策研究センターに出向している研究員の送別会なのです。2年間もお世話になった方々なので送別会をと思っていたのですが、酒を飲まなくなった私には敷居が高くその時期を逸してしまいました。でも心ある親友の門田さんや岡崎さんの計らいで小さいながら送別会が持てました。兵頭さんは旧津島町から、脇田さんは旧内海村から、河井さんは大洲市からそれぞれ出向して2年間の仕事を終え、それぞれ合併してなくなった旧町村へは帰ることができず、新しい町へ帰るのです。

 本来いるべき場所へ帰る喜びと、2年間の貴重な体験をした職場から去る寂しさの交錯する複雑な心境を吐露しながら終電車に遅れそうになるほど、飲むほどに酔うほどに楽しい弾んだ話をして過ごしました。

 この日は先日の内示発令でセンターへ出向することが決まった松本さんも参加して、歓送迎会のような雰囲気でした。松本さんは私が教育長をしていたころ同じ教育委員会で仕事をした心許せる人だけに内心はとても嬉しく、しかも私が代表を務めているえひめ地域づくり研究会議の事務局も兵頭さんから引き継ぐとあって、万々歳なのです。

 35年間に教育委員会から産業課へ、産業課から企画調整室へ、企画調整室から地域振興課へ、地域振興課から教育長へと35年間に僅か4回しか人事異動せず、しかも異動といっても1階から2階へ、左から右へ机を動かす程度の私の移動でした。彼らは合併という時代の流れに翻弄されながらも、また市町村職員でありながら出向という異動でそれぞれの拠点を離れ県庁所在地の松山で2年間を過ごしました。この何ものにも変え難い経験を生かして、いい仕事をするいい職員であって欲しいと願っています。

 異動の記事の尻切れに退職という欄があります。これまでは部長や課長など常にトップ近くの記事に扱われていた方々が、この記事を最後に退職されます。かつて仲間として同じような仕事をしてきた方々が退職です。虫眼鏡でしか発見できないような片隅の小さな名前に人生を感じます。彼らの中には天下りや再就職先が決まっている人もいるでしょう。私のようにあえて自由人を選ぶ人もいるかも知れません。でも職場での人生ドラマはもう終わったと自覚して、一日も早く自立ある自分本来の人生を取り戻して生きれるか、その後の生き方が問われています。

  「内示出て 異動が移動を 強いられる 夢や失望 人それぞれに」

  「2年間 ご苦労様と 酒を注ぎ 矢のよう過ぎた 日々を反芻」

  「年度末 酒屋と飲み屋 忙しい 一方客足 遠のく店も」

  「送別会 嬉しい悲鳴と 女将言う 光と影が 見え隠れしつ」  

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shin-1さんの日記

○人間牧場に第4サティアン?着工

 人間牧場に第4サティアン?が着工しました。サティアンといってもただの倉庫です。息子が建築の関係の仕事をしているためあちらこちらで出る廃材をゴミ袋に入れて貰ってくるのですが、置き場所がなくてそこら辺に積んで美観を損なっているため、思い切って薪倉庫を作ろうと思い立ちました。加えて大洲の亀本耕三さんから貰った耕耘機もシートを被せたままなので、これも入れなければなりません。そんなこんなで倉庫が必要になりました。資金源の妻は再々再の計画実行に渋い顔をしていますが、私の小遣い節約資金も少し貯まりましたので思い切って着工することとなりました。人間牧場に水平線の家を建てた頃は夢とそろばんが合致して、設計を担当した息子のアイディアもかなり採用してきましたが、ロケ風呂、ツリーハウスと夢が実現するにつれて肝心な資金源が底をつき、今回の第4サティアンは見るからに貧弱ですが、まあ今回は倉庫ということで屋根もスレート、そんなこんなでお茶を濁そうと思っています。

 先日お願いしていた大工さんの工事が始まりました。土工事はコンクリートで基礎を仕上げる作業なのですが、元受の大工さんの仕事の工面が付かず近所の左官さんに下請けとなりました。億を超える仕事なら下請けも良くある話ですが、僅か1坪半の建物に下請けとはと作業を見ながら思わず笑ってしまいました。それでもその下請け左官が近所の親戚とあって仕事はがっちりしていましたし出来栄えも思ったより頑丈なので安心をしています。美観を損ねていた人間牧場周辺もこれで一気に整備されそうです。

 このところすっかり春めいて三寒四温の巡りの中で雨が頻繁に降り始めました。着工すれば一日も早い完成を心待ちにするのは当然かもしれません。昨日は孫を連れて午前中人間牧場へ行きましたが、既に大工仕事も始まって建て前は終わっていました。本当はここにかまどを置きたかったのですが、予算の都合でこんな小さな建物になってしまいました。でも人間牧場の道具小屋としては適当な大きさと認識し使いたいと思っています。

 この施設の総事業費は45万円ですが、金策尽きた世の中でも助ける神様はいるもので、一昨日関奉仕財団から教育文化奨励賞なる立派な賞をいただきましたので、その副賞としてこれまた沢山のご芳志をいただきました。人間牧場への投資は受賞理由にぴったりなので使わせていただくことにします。私の夢にまたひとつソロバンが乗っかって夢がドリームではなくターゲットできそうです。



 竹とんぼを作る道具類も家の倉庫に眠っていましたが、いよいよ引越しができそうですし、亀本耕三さんから貰った耕運機も収納できそうです。薪はできるだけ美観を損なわず、それでいて人間牧場を演出できそうな軒先に積めるようこれから作戦を練ってみようと夢を広げています。

 昨日地域政策センターの清水さんから梅とスモモを人間牧場に植えた話題をメールとブログで発信したら、鳥獣の食害にご注意をと水を掛けられました。昨年サツマイモをイノシシに食べられたことを知ってのご忠告のようですが、何年か後に実を付けるであろうスモモの食害も急に心配になってきました。でも植えない木は育たないし、鳥にも生きる権利があるのですから共生を考えました。多分実がなって食害に合うと悔しい思いをすることでしょう。梅も10本植えましたが、そういえば「悔」という字は「梅」という字に似てますね。早くも清水さんの忠告が悔いを生み出しているようです。

  「四軒目 家主力量 余裕あり 次々着工 妻の驚き」 

  「田舎ゆえ こんな遊びが 次々と 俺は幸せ 福の神来る」

  「三十年 すれば俺など 土の下 今が大事と 年輪刻む」

  「何で飯 食ってる茶碗 当たり前 飢えもしないで 夢を実現」


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shin-1さんの日記

○何故私はコーヒーを飲まないのか

 「コーヒーは如何ですか」。「いいえ私はコーヒーを飲みませんので」。今までこんな会話をどれ程したことでしょう。中には懇切丁寧に「どうしてですか」と尋ねる人がいますが、「どうして」といわれても嫌いなものは嫌いなので答えようがないのです。私が始めてコーヒーを口にしたのは中学1年生の時でした。私の住む町は田舎でしたし私が生まれたのは昭和19年ですから、カレーやマヨネーズなどに出くわすのも随分遅れていたように思います。多分その遅れからでしょうか中学1年生までコーヒーに出会っていないのです。ある日の夜中学校の宿直室へ勉強を教わりに宿直の先生を訪ねました。先生は私のためにインスタントながらコーヒーを入れてくれました。勿論砂糖は白砂糖、クリープなどありませんでした。その時のコーヒーの苦かったことは今でも忘れることができないほどでした。さらに困ったことにそのコーヒーのカフェインのお陰で、その夜は一睡もすることができませんでした。「コーヒーは苦くて不味い」これが私の第一印象で、あれから50年間も私はコーヒーを口にすることはなかったのです。同じように若い頃ウイスキーをボトル一本空けて上げ下げして、「俺の口にウイスキーは合わない」と勘違いしてから、ウイスキーを口にすることはありませんでした。(誰が飲んでもボトル一本空けると二日酔いは当然だという事を後で知りました)。

 中学校1年の時のことなので今なら飲めるのかも知れませんが、何故か私にとってコーヒーとウイスキーは嫌いな飲み物なのです。そんな私の長男がよりにもよって喫茶店を営む娘さんと結婚したのですから、嫌がらせとしかいいようがありません。私は娘となった長男嫁の実家が経営する喫茶店にちょうちょく顔を出しますが、私が行くと手馴れたものでブラックならぬホワイト(牛乳をホットにする)を出してくれるのです。

 一昨日広島に行った折も相手がコーヒーを注文しそうになりました。「私はコーヒーを飲まないので結構です」と断ると、「じゃあ紅茶にしましょうか」で、紅茶と相成りました。



 差し出された一杯の紅茶は講演前の逸る気持ちを押さえて私の心を落ち着かせてくれました。コーヒーを飲む人も多分私と同じようにコーヒーを飲むことで落ち着くのでしょう。しかしコーヒーを飲まない私にとって理解し難いことが一つあります。それは食後のコーヒーなのです。妻は美味しい食事の後に食後のコーヒーを飲みます。多分食後のコーヒーをたしなむ通の方は、私の理解し難いこの発言を笑うことでしょうが、世の中はこのように色々な人がいるのです。

 私はどちらかというと日本茶派です。日本食の食後に美味しい日本茶を飲むと何となくホッとします。これからも多分死ぬまでコーヒーとウイスキーは飲まないでしょうが、私は人から言わせると変わった人のようです。

  「コーヒーを 飲まぬ原因 聞かれたら 50年前 苦かったから」

  「コーヒーを 飲まぬ私の 長男に 喫茶店から 何故か嫁さん」

  「紅茶飲む ホッと一息 安らいで それじゃボチボチ 始めるとするか」

  「コーヒーも 飲めないなんて 田舎者 言われてみても 飲めない自分」 

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shin-1さんの日記

○経由地が拠点地に

 どちらかというとまちづくり談義は中山間地からの要望が多いため、私の訪問する場所は田舎が多いのです。そのため大都市と言われる広島・博多・岡山・大阪などはこれまでそんな田舎への経由地的存在でしたが、つい最近は広島や博多などでの講演会が多く、多少の戸惑いを感じながらも出かけています。一昨日は中国経済連合会の開催する観光振興委員会に招かれ広島へ出かけました。四国と本州には3本も橋がかかっていますが、西に位置する松山や広島からは遠い位置にあって利用しづらく、松山~広島は高速船かフェリーを使います。高速船だと1時間15分、フェリーだと2時間半なのですが、フェリーの運賃は2時間半も乗って2900円なのに、高速船は1時間15分で6300円もするのです。ゆっくりのんびりできない所用の時は「高いなあ」と思いつつも結局時は金なりで早くて便利な高速船を使ってしまうのです。


 この頃の瀬戸内海は春の海という表現がピッタリの穏やかさで、松山と広島を結ぶ航路はとても快適な船旅でした。いつも通る見慣れた光景でも音戸の瀬戸を通って寄港地呉港付近になると、みんなの目は俄然外に向けられます。石川島造船のドックには見たこともないようなでっかい船が艤装作業をしていたり、海上自衛隊の潜水艦や艦船が停泊していたり、また呉の港には大和ミュージアムがあったりで、結構目を楽しませてくれるのです。

 今回の講演会は広島平和大通りに面した三井ガーデンホテルの5階会議室でしたが、このホテルはかなりグレードが高く私などのような庶民には縁遠い場所だと思いつつも90分のおしゃべりをしました。メンバーには瀬戸内海汽船会長さんやかつて東京ロマン亭の経営にも携わった西林洋治さんもいて、こちらもかなりグレードの高い方々でした。

 広島は行く度に大きく変貌発展を遂げています。特に宇品の港周辺の開発は著しく、道路網の整備や大型ショッピングの進出は目覚しいものがあります。タクシーで通った場所には広島に本拠地を持ついづみが専売公社跡地に大きな出品具センターを建設していました。

 講演が終わると折り返しの高速船で宇品の港を後にしましたが、僅か1時間15分の船旅を経て松山に帰ると、ここが愛媛の中心なのかと見まがうほどな規模の小ささを感じずにはいられませんでした。ビルの高さも、道幅も、車の交通量も、道行く人までもが都会と田舎と感じる落差です。でもなぜかホッとするのは私が田舎者だからではなく、四国らしい穏やかな気候風土と人情味なのでしょう。普通の人だとこの状態を見て広島は活気があっていい、松山は発展性がないなんて言葉を口にするのでしょうが、私は発展することだけがいいとは思わないのです。少し視点を変えてみるとそこには幾つもオンリーワンの良さが見えてきます。来月に入ると統一地方選挙で県会議員などが様々な訳の分らぬ議論を喧しい拡声器を通して訴えます。それは自分が当選するための言い訳で、市民の幸せなど選挙に勝ってしまえばどうでもいいことなのです。

 これまでに何回か私に選挙に出ないかと熱心に勧めてくれた人がいます。でも私にとって政治の世界は余りにもウソと建て前が多くてどうしても好きになれず、結局は今のような独立独歩な道となりました。でも悔いはなく信念を曲げなかった自分をむしろ誇りにすら思うのです。

 「旅の途中」、それは目的地までの時間をもう一人の自分と語り合う時間かもしれません。行く先の目的に思いを巡らせるし、帰りには目的の成果や失敗について反省もします。それ以上に自分のこれまでの生き方とこれからの生き方を色々考えるのです。

旅は自分探しなのかも知れません。経由地が目的地になりつつある昨今、また私の価値観が少し変わりつつあることを発見しました。

  「経由地が 目的となる この頃は 旅の想いも 少し変わりて」

  「広島と 目と鼻の先 松山は 落ち着き払い 変わりもせずに」

  「庁が省 格上げされた 呉港の 岸壁繋ぐ 艦船大きく」

  「戦争の 懐古か大和 ミュージアム ミーハーぞろぞろ 日本は平和」

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shin-1さんの日記

○関奉仕財団第1回教育文化・社会福祉奨励賞授賞式

 今日は私にって晴れがましい一日となりました。2年前役場を退職してからは表彰などという晴れがましい表舞台には縁のない人間だと思っていましたが、関奉仕財団から通知があって、長年の活動に対し第1回教育文化・社会福祉奨励賞の教育文化部門に選ばれたので授賞式に出席するようにとのことでした。うれしいことではあっても果たしてそんな賞に値するかどうか不安な面持ちで出かけました。伊予鉄会館のこじんまりした部屋での受賞式でしたが、愛媛県知事(代理・副知事)や愛媛県教育長、主だった経済団体の代表も列席する重々しい授賞式に驚いてしまいました。

 印刷された私の受賞者紹介には次のようなコメントが載っていました。

 自宅の敷地内に若者が自由に集まる場所として「煙会所」と称する私設公民館を開き、人材育成に力を注いでこれれました。現在は、この煙会所を発展させ「人間牧場」と名付けた住民の生涯学習の場を設置し、人々の体験活動や研修の場のみならず、県内外のリーダーを対象に「町づくり人材育成研修会」を開催される等、リーダー養成の場としても活用されておられます。

 人間牧場主の傍ら、全国各地からの要請に応え、これまでの経験や研究の成果についての講演活動を行い、後進の指導に尽力されておられます。

 主な功績

 ・県の青年団のリーダーとして青年団活動の活性化に貢献

 ・21世紀えひめニューフロンティアグループを立ち上げ、子供たちの体験活動の指導者として活躍

 ・住民の町づくりの意識高揚のための組織づくりに力を注ぎ、夕日をコンセプトにした町づくりに取り組む

 ・「煙会所」「人間牧場」を設置し、住民の生涯学習の場を提供

関奉仕財団と私の関係はもう20年も前に遡ります。当時私は自らが主宰した21世紀えひめニューフロンティアグループの代表をしていました。ある日関印刷の会長さんから電話で呼び出され100万円の小切手をいただくことになったのです。弱小ボランティアグループにとって資金の乏しさは悲しい出来事として私たちの活動の行方に重くのしかかっていました。喉から手が出るほどの嬉しさでしたが、理由もないのには受け取れないと一度は拒否しました。しかしたってのご依頼なので甘んじて受け取りました。その時の会長さんの「100万円儲けることは難しいが、100万円使うことはもっと難しい」という言葉は今も強く心に残っています。その資金は「今やれる青春」という20周年の記念著書となりましたが、それ以来関財団は私たちに毎年30万円の資金援助をずっと続けてもらっているのです。その影には元愛媛県教育次長の藤原茂さんの存在が大きかったことは言うまでもありません。今日の授賞式には藤原さんも出席されていたので、感謝を込めて藤原さんの話を交えながら謝辞を述べました。

 「人は人によりて人となる」という言葉がありますが、まさに今日の受賞は関会長さんや藤原さんの支援なくしては語れないのです。奨励賞とあるのはこれからの成長に期待すると理解しまた新たな気持ちで進化したいものです。なお奨励賞の副賞は人間牧場の整備に使わせてもらいたいと思っています。

(表彰式終了後のレセプション。左二人が受賞者。その右は前副知事)

(私の席の横が副知事、県教育長、理事長)

(関奉仕財団理事長さんと記念写真)
  「縁遠い ものだとばかり 思ってた 表彰受ける 少しドキドキ」

  「陰徳を 積んで活動 四十年 お天道様は しっかり見てる」

  「知らぬ間に 六十路越え来た 春の日に 奨励賞など にぎにぎ受けて」

  「横に知事 その横会長 雲上の 人に囲まれ うれしは恥かし」

  

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