shin-1さんの日記

○私はメガネをかけたことがない

 「私は顔は悪いが目がいい」(顔を知ってる人は納得)とまるで漫才のネタになるようなことを言っています。事実62歳の今日まで一度もメガネをかけたことがないのです。「顔がいいか目がいいかどちらを選ぶか」と問われたら私は即座に「目がいい」方を選びます。だって顔がいいのは若い頃の少しの間で、この歳になると顔なんてどちらでもいいのです。目は色々な仕事をしますから目がいいと大助かりなのです。第一メガネを買わなくてもいいし、メガネをかける煩わしさもないのです。ましてや新聞や資料を見ても間違わずに読めるのですからこれに越したことはありません。

 目は遺伝するのかメガネをかける家系の人は案外メガネをかけています。わが家では7年前80歳で亡くなった母は、新聞を読むのも平気で死ぬまでメガネをかけたことがありませんでした。私は母の家系に似たのでしょう。

 私は高校進学間近な中学生のとき軽い仮性近視になりました。受験勉強をし過ぎたのかも知れません(それはない)が、私にとって大変な出来事でした。というのも私は愛媛県立宇和島水産高校の漁業科を受験しようとしていたからです。この学科は将来船乗りになるために海技試験を受けなければなりません。海技免状の受験資格は当時視力1.0以上でした。私は慌てましたが、その日から視力表の全てを暗記しました。これは邪道なのですがそうでもしないと通らないので必死でした。結果は0.8くらいなのに、受験の日の視力検査は2.0といわれました。でも仮性近視は生活習慣さえきちんとすれば元に戻ると目医者さんにいわれて、遠くを見る癖をつけました。また目の体操もしました。結果は1.5の視力を回復し現在に至っています。

 私の妻は5~6年前から老眼を愛用しています。「老化はまず目に来る」という言葉が本当ならば妻は確実に5~6年前から老化の一途を辿っているのです。妻がメガネをかけた姿は、私は大好きです。メガネをかけた姿が何となく知的に見えるからです。私はメガネをかけないので知的には見えないでしょうし、石原裕次郎のように格好よくサングラスをかけることも一度だってないのですから、妻は不満かも知れません。でも目がいいため針仕事をするときは重宝がられ、何度針の穴に糸を通したことでしょう。また細かい字は「お父さんこれ何と書いているの」といわれ読んでやったことが何度もありました。

 妻は時々メガネを置いた場所を忘れることがあります。職場と自宅にそれぞれ専用のメガネを置いているのですが、その混乱からか時々分らなくなるのです。何年か前首に吊るす紐を付けていましたが、これも煩わしくて結局除けてしまいました。

 「あなたの目がいいのは私の食事の世話がよいからよ」と時々自慢しますが、「だったら同じものを食べているお前の目が悪いのは何故」という返事は帰ってこないのです。わが家は子どももみんなメガネはかけていません。どうやらこれも家系ではなく妻の食事のお陰なのでしょうか。

  「メガネなく この歳なっても 新聞が 読める嬉しさ これから先も」

  「メガネなど 買う金もなき 貧乏人 お天道様は しっかり見てる」

  「メガネかけ 妻知的顔 一段と 輝き見えて 惚れ直したり」

  「顔か目か 俺が選んだ 宝物 大事にします これから先も」 


 

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shin-1さんの日記

○ツツジの花の咲く頃

 今年も季節は巡り、わが家の庭先にも色とりどりのツツジの花が咲き始めました。通りに面した下から見上げると長い土塀もわが家の特徴ですが、その土塀を含めると100メートルを超えてツツジの生垣が続いているのです。このツツジは私が挿し木で育てた平戸ツツジの苗を細長い家の横にある家庭菜園に沿って植え込んだため花の帯って感じがします。私は植えただけですがこのツツジの花守りはもっぱら親父の仕事で、剪定や除草、施肥や消毒などの作業を一手に引き受けて世話をしています。このところの初夏を思わせる陽気に誘われて一輪、二輪と咲く花の数を増やし、特に白系の花はもう満開に近い状態です。花は近く遠く色々な角度から楽しむことが出来ますが、冬の寒さを経て一年に一度だけ咲く花はいとおしく、もっともっと愛でてやりたいような心境になります。このところの周期的に短い雨の影響でつつじの花の持ちも更に短くなることが予想されるので、早めに花見をしなければなりません。

 毎年わが家の庭には親父の兄弟姉妹など親類や知人友人が花見にやって来ます。年老いた親父にとっては一年で一番嬉しい季節かも知れませんが、親父の年齢が加算されると同時に親父の兄弟も何人かは高齢になって足が遠のきつつあります。昨日も松前町に住む85歳になる親父の弟の家へ出かけたついでに花見の誘いに立ち寄りましたが、自分の部屋で転びベットの端で打撲したとかで顔一面大きく腫れ上がって見るも無残な姿になっていました。老いはこうして私の身の回りにも進んでいるようです。

 わが家のツツジは大きく分けると4種類に大別されます。白、薄紫、濃紫、班入りですが、白が一番早く咲きついで班入り、薄紫

、濃紫と続いて咲き続けるのです。家の裏庭にも数本のツツジが植えられていますが、これらは日当たりの関係でしょうかまだ花はぜんぜん見えない状態で、生垣のツツジの花が終わってから咲くので2度楽しめます。今になって思うのですが、植えつける時に花の色も分らずただ無造作に植えてしまったため、残念ながら配色は今一で、今頃になって後悔しきりですが後の祭りなのです。

(薄紫の花も咲き始めました)

 県内でツツジの名所は何といっても大洲富士山(とみすやま)が有名ですが、わが家のツツジが咲き始めた10数年前からは富士山のツツジを見に行くこともなく、身近なわが家でツツジの花見を楽しんでいます。

 ツツジといえば昔はールデンウイーク頃の話題でしたが、最近は地球温暖化の影響かどんどん花の開花が早くなり、昨日は八幡浜市双岩のツツジ祭りの話題が新聞に載っていました。花の名所では花を目当てにやって来る観光客のために開花予想を立てて迎える準備をします。今年のような暖冬だと桜の開花が二転三転し、気象庁の発表ミスという失態もあって大変な騒ぎになったようです。それもそのはずその人たちにとっては花で一儲けの算段が外れた訳ですから怒り心頭といったところでしょう。考えてみれば大体自分の花でもない花で一儲けしようとする魂胆そのものが可笑しいのですが、そうもいっておれない事情がおありのようです。

 追伸

 昨日の雨で開花が一気に進み、夜が開け雨がやむのを待って写真を追加することにしました。

(今年も綺麗に咲きました)

(花の向こうに見えるのがわが家です)
  「花よりも 団子気にする 仲間たち 花はまだかと 誘いの電話」

  「花の陰 黙々草を 引く親父 だから咲くのと 褒めてまんざら」

  「早咲きと 遅咲きありて 面白く 同じ植えても 同じにあらず」

  「この花を 守る役割 親父だが 次のバトンは どうやら俺に」

 

 



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shin-1さんの日記

○春真っ盛りの人間牧場界隈

 昨日は久しぶりに休暇が取れました。休暇といっても別に定職についている訳ではないので休もうと思えば休めるのですが、このところ大学の授業の準備や提出書類、それにこまごました用事があって忙しかったものですからついつい人間牧場への足向きが疎かになっていました。昨日は絶好の春日和で数日前の各地で雹が降ったり雪便りがある肌をさすような寒さは遠のいて、日向だと汗ばむほどの陽気でした。人間牧場の草丈は一週間前とは違って腰近くまで延びて、早く刈って欲しいような叫びに見えました。

 自宅から持参した草刈機に混合油を満タンにしてエンジンをかけ、丸刃で刈って行くのですがまるで長く延びた頭をバリカンで刈るように面白い程綺麗に刈られて行くのです。人間牧場の畑は殆どが急峻で地下足袋に麦藁帽子のいでたちでも時々ひっくり返えったり転がったりと四苦八苦です。草刈機はもう10年も使っている年代物でエンジンの調子は最高なのですがかなり重く手や腕にずっしりときて、体力減退の私に長時間続けての作業は無理なため、油が半分くらい減る度に腰を下ろして休憩です。これがまた気持ちがよく、時には刈り取ったそこら辺の草を少し集めると立派な草ベットになります。梅の木の木陰に陣取って汗を拭い魔法瓶に入れたお茶を飲む、大の字になって空を見上げる、雲ひとつない青空は何処までも澄んでまるで大空に吸い込まれそうな雰囲気でした。

 今は山が燃えているような錯覚にとらわれます。木々の芽吹きと新緑の色が若草色で、絵に書きたいような爽やかな色なのです。そこここには早くもピンクやオレンジ色の山つつじの姿もちらほらと見え始めました。近くでは卵を温めているのでしょうかキジが「ケンケンケーン」と甲高い声を張り上げて鳴いています。遠く近くの山々からはやはり私と同じように草を刈っているのでしょう、草刈機の音がまるでこだまのように山や谷を越えて聞こえて、長閑な農村の風情を醸していました。

 昼は昼でまた楽しみがあります。妻の作った弁当を広げてたった一人で食べるのです。今日はおにぎりが3個、おかずは玉子焼きと筍の煮物が主なもので佃煮や漬物、それに果物が添えられています。愛妻弁当と呼ぶべきでしょうが、弁当箱の上に「疲れるので草刈は3時まで、気をつけて」と走り書きのメモが入っていました。嬉し恥かし妻の気配りです。私は夢中になると時間を忘れて作業に没頭し、日が暮れるのも忘れる間抜けな男であることを長年の連れ添い経験から分っているための警告文なのでしょう。

 夕方4時過ぎになって息子が人間牧場へやって来ました。「携帯電話をかけても応答がない」と渋い顔です。我に帰ってポケットの中に入れた携帯を見るとマナーモードのままで着信文字が表示されていました。息子は建設中の倉庫兼作業小屋の進捗状況を確かめに来たようでしたが、建築の仕事をしている人間らしく「こことここを大工さんに直してもらおう」と私に説明するのです。小屋はもう殆ど出来上がっていました。押し戸は割った板がお洒落に貼り付けてあり、小屋には勿体ないような雰囲気です。最初はこの小屋は大洲の亀本さんから貰った耕運機を格納するためでしたが、出来栄えがよいのでこの中を遊びの空間にしようと思っています。耕運機は右の方におだれを作りたいと思い親父に相談したら既にそのプロジェクトも進んで、地元の土建屋さんにコンクリートを流してもらって基礎を作るよう依頼もしています。来週には出来上がる予定です。次々と進む人間牧場の姿に肝心の活動が追いつかないのですが、まあぼちぼち急がずやりましょう。

  「春盛り 絵になるような 山の色 燃え立ちいずる 香りを添えて」

  「三度目の 春を迎えし 牧場に 今年も生えし 山蕗摘みぬ」

  「また一つ 建物増えて 物語る 自慢貰いし 赤い耕運機」

  「卵抱きし キジの鳴き声 こだましつ 春は長閑に 牧場満ちて」 


 

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shin-1さんの日記

○えひめ地域づくり研究会議

 昨日は午前中伊予市大平の老人クラブ総会講演に招かれ、午後は防犯相談所長委嘱式に出席、夕方からえひめ地域づくり研究会議の運営委員会、夜は懇親会とまあ忙しい一日でした。それぞれの会議にそれぞれの目的があるので、夜の懇親会を除けばそれぞれにかなり気を揉みました。中でも私が代表を務めるえひめ地域づくり研究会議は役員改選もあり、今回も引き続いて他の2名とともに代表を受ける結果となりました。前年度はえひめ地域づくり研究会議が発足して20周年を迎え、記念行事をするなどそれなりに忙しい一年でしたが、小さいながらも大事業を終えた時点で後進に道を譲りたいと覚悟を決めていました。初代事務局長だった時期を含めると20年も会議の役員としてかかわってきたのですから、もうそろそろ身を引かなければなりません。公職は自分で幕を引かねばならないのは分っているのですが、一年後に地域づくりの全国大会が愛媛県で開かれる予定なので行きがかり上どうしても関わらなければならなくなったのです。私がいなくても別にどういうことはないのかも知れませんが、長年やっていると恩義のの様なものがあり、恩返しもしなければならないのです。

 えひめ地域づくり研究会議は貧乏所帯の団体です。会員も150人程度とこじんまりしていますが、会費収入が主な財源なのでやりたいこととやれることのギャップを感じながら運営しなければなりません。今年は20周年記念誌を作りました。(間もなく出来上がる予定)。1部500円で売らなければ昨年20周年で使い過ぎた穴埋めができないことから昨日の運営委員会で1人20冊~50冊の販売ノルマを提案しました。多分今までだといくら決めてても売る人は売るし売らない人は売らないのです。この際責任を明確にするためにノルマ達成一覧表を張ることにしました。地域づくりの甘さをどこまで払拭できるか自分も含めて挑戦し結果を出さなければなりません。

 私は代表ですから最高目標の50冊がノルマだと自分に言い聞かせました。今のところ当てはありません。でも自信はあるし、もし売れなければ自分が被るくらいな覚悟はできているつもりです。ワンコインの五百円、多分内容はそれだけの価値があると思うので、研究会議への加入勧誘も含めて努力したいものです。

 代表を続ける決意にはもう一つ訳があります。それはえひめ地域づくり研究会議の事務局を伊予市職員の松本さんがえひめ地域政策研究センターに出向して担当することになったのです。彼は私が教育長時代同じ双海町教育委員会で2年間一緒に仕事をしてきました。公民館を担当していたのですが「合併後の公民館の在り方」を公民館運営審議会に諮問し答申案を作る作業まで一生懸命仕事をしました。合併後は本庁の産業課で仕事をしていましたが、これから3年間センターで修行をするのです。私たちに続くホープとして育って欲しいと願っていますし、彼と再びコンビを組んで研究会議の活性化を図りたいと思います。

 坂を登るが如き彼と、坂を下るが如き私とでは余りに置かれている立場は違いますが、彼が3年後立派に成長して鮭が再び川を上って帰れるようにしてやりたいものです。幸い研究会議の同志に伊予市の門田眞一さんや岡崎直司さんがいます。みんなで盛り立てていい仕事をしたいと思います。

  「手の指を 折ても足りぬ 年数を 今期が最後と 決意新たに」

  「この頃に なると必ず 清見持ち 配る三崎の 粋な奴」

  「世の中は 面白いもの またコンビ 組んで地域の 元気をヨイショ」

  「二年前 二年後考え 代表に 今度も二年 後を考え」



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○近所の花咲かおばさん

 近所の軒先にそれは綺麗な花を作っているおばさんがいます。私は「平成の花咲かおばさん」と呼んでいますがそれはまあ見事に咲いています。役場の行き帰りこの花の前で何度立ち止まって花を愛で、このおばさんと立ち話をしたしたことでしょう。この家は最近までモータース、いわゆる車の修理屋さんをしていました。2年前の年末、家の入口に小さな張り紙が張り出されました。「長い間ご愛顧有難うございました。今月末を持ちまして閉店いたします。店主敬白。」と書いた張り紙を見る限り、経営に行き詰まったのか、それとも家の中で何かゴタゴタがあったのか?と思いがちですが、聞けば「無一文からお店を興し一生懸命生きてきました。自動車業界もハイテク技術が進んで、かつてのエンジン修理技術では間に合わなくなり、仕事に自信がもてなくなりました。自営業は定年がないのが取得ですが、定年を迎えたいという願望もあります。思い切って65歳を定年とずっと前から決めました。一緒に勤める弟の転職が気になりましたが思いきって辞めることにしました」と閉店の理由を説明していました。

 私の退職と同じ頃の出来事だったので、その夫婦の価値ある決断をじっと見続けていますが、年金生活をしながら近所の狭い畑を耕したり時には好きなゴルフに行ったりするご主人と、趣味の花づくりや孫の世話に忙しそうにするおばさんの姿は何ともほほえましい初老を迎えた夫婦の姿なのです。

 実はこのおばさんは実は私の姉なのです。二つ違いの姉ですが修理工場に勤めていた義理の兄と結婚したころ独立して小さなお店を持ちました。文字通り小さな田舎の修理工場ですが、車社会という時代背景がよかったのか順調に仕事も増えて、工場用地を購入したり修理工場を建てたり、慎ましやかな3人の子どもにも恵まれ、お母さんは早く亡くなりましたがお父さんは100歳の天寿をまっとうするなど、平和な家庭とごくありふれた商業を営んできたのです。学歴があるわけでもなく借金から始めた二人三脚の人生は喜びもあったかも知れませんが多分しんどかったに違いありません。それは「65歳を定年と定めたい」という夫婦の閉店理由が物語っています。今は仕事という大きな肩の荷を降ろしホッと一息ついているに違いなく、日曜日には早くして逝った弟と両親の菩提を弔うためのお大師参りをしているようです。

 「閉店セール」「閉店につき在庫一掃セール」などの看板や張り紙やチラシをよく見かけます。これらの店は「何時閉店するの?」と首を傾げたくなるほどお店を続け、閉店はカモフラージュや客寄せの手段だったなんてことをよく見かけます。また商店街のシャッターが閉まっている張り紙も「勝手ながら当分の間閉店させていただきます」と書かれてお客様不在を思います。まさに商店の「勝手」なのです。そこへ行くときっぱり見切りをつけた勇気ある行動に拍手を送りたいと思います。



 車や単車が所狭しと並んでいたモータースの玄関は綺麗に片付けられ、「えっこんなに広かったの?」と思うほど広くなりました。これまでは商売第一で好きな花作りも脇に追いやられていましたが、今はプランターの数々が単車や車に変わって所狭しと我が物顔に並んで綺麗な季節の花を咲かせています。

 昨日は人間牧場の蕗を収穫しておすそ分けのために4時過ぎ立ち寄りましたが、余りにも美しいので持っていたデジカメで一枚撮りました。姉曰く「もう1時間前に来てくれたらもっと綺麗な花を見せれたのに」というのです。聞けば花は3時から夕方の顔になって花の中にはもう眠気を催すのもあるそうです。私にはそんなには見えませんでした。

 「花を作ることが趣味」というのはどうやらわが家の家系のようです。親父も私も花が好きです。親父はそろそろ咲き始めたつつじの長い生垣の手入れに余念がありません。間もなく近所や親戚の人が花見にやって来ます。親も子もみんなが花を肴に過ぎ越し人生を語りたいものです。

  「爺ならぬ 花咲かばあさん ここにあり 花と語らい 花を愛で生き」

  「花作り 花見る人は 通行人 綺麗といわれて 更に綺麗に」

  「花だって お休みモードが あるという 聞いて始めて 納得納得」

  「花盗らず 花を撮るのは どうすれば まるで一休 とんちの世界」

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shin-1さんの日記

○息子の給料日

 私には1女3男の子どもが4人います。少子化といわれて久しい現代にあって今時珍しい4人です。子どもが小さい頃は1、2、3歳と上と下の年齢が積んでいて、ひどい時は小学校に3人もいてPTAの大株主でした。ですから運動会や入学式などは仕事柄忙しい私が出れないものですから、妻はあっちへ行ったりこっちへ行ったりりと忙しかったようですが、その子どもたちもやっと全員がこの春職場の人となりました。私の生活設計ではもっと前の段階で子どもの学業を終え、それぞれの伴侶を得るようセットしていたつもりですが、こればっかりは上手く行かず、末っ子は大学を卒業後いったん四年間就職をしていましたが、最初の希望が捨て切れず警察官にチャレンジして思い通りの就職をしました。次男は高校を出て8年間も就職をしていたのに思うところあって看護士を目指して5年間も学び直し、この春目出度く就職したのです。

 一昨日は次男の始めての給料日です。近頃の給料は私の頃のような直接手渡しでなく振り込み通知書なので、給料袋がありません。ですから給料の重みは数字の大小なので多少感激は薄いものの、前職場で給料体験はあってもやはり嬉しさは隠しきれないようで、朝からウキウキしていました。就職して2週間なので前の職場だと働いた日数分しか貰えなかったようでしたが、今回は看護士という職責の重みなのか予想以上の給料を貰ったようで朝からウキウキでした。でもこの2週間は新入社員のドキドキや、ハラハラの毎日で、帰るとさすがに疲労の色が濃く、「今日は患者さんに始めて注射をした」などと、私には分らない世界の緊張を伝えていましたし、疲れても勉強があるのか夜遅くまで自室の机に向かっていました。

 「お父さん、今度の土曜日空いてるかい」と妻が唐突に私に尋ねました。「何でも次男が初任給で私たちにご馳走したいそうなのでその日は空けてください」というのです。嬉しいことなので甘んじて受けようと妻と相談している所です。この次男もそうですがわが子どもは全て初任給でご馳走してくれたり、ささやかなプレゼントをしてくれました。それは額の多さや品物の値打ちではなく、親にとっては凄く嬉しいことなのです。保育園を含めると小学校、中学校、高校、専門学校、大学など実に様々な長い学びの期間がそれぞれの子どもにありました。その度に幾つものハードルを親子で越えて来たのです。そのことを当然と思ったり、頼んで生んでくれた訳じゃないなどと居直られることもなく感謝の気持ちを持っていることは、私たち親の教育方針が間違っていなかったのですから、それはそれとして喜ばなければなりません。

 そこには長女と長男の助言が常にありました。学びの途中に頑張れと声を掛けたり、安い給料ながら正月や誕生日には小遣いを渡したり、国家試験や入社試験の合格祝いをしてやったり、「初任給を貰ったらお父さんやお母さんに何かしなさいよ」と声を掛けていました。兄弟の存在は4分の1ではなく4倍の価値があると思うのです。

 さて初任給でのご馳走は何にしようか思案中です。お寿司にでもしようかといったら「立派なお寿司屋さんにはよう連れて行かんので、回転寿司くらいにして欲しい」旨の返事が返ってきたようです。どんなものでもいいんです。初任給で親にご飯をご馳走しようという感謝の心で十分なのです。次男が就職しやっと一段落です。年金も自分で掛けるし小遣いだって渡さなくて済むのです。後は次男と三男の結婚をと、早くも次なる目標を妻は掲げ、何時まで経っても子どもであることの心配の種はなくならないようです。でもとりあえず一区切りに嬉しいご馳走です。

  「初月給 貰って親に ご馳走を すると意気込む 回転寿司か」

  「兄弟の 仲良きことが 何よりも 嬉しく思う この歳なると」

  「給料日 振込み通知の 紙一枚 時代は変り それが普通に」

  「寿司ネタが どうであろうと 嬉しさは 親に感謝の 心あること」 

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shin-1さんの日記

○二つの記事

 今朝の新聞に印象深い市長を巡る2つの記事が載っていました。一つは選挙運動中に銃弾で撃たれた長崎市長の話しです。長崎市は広島市と同じ世界に類のない被爆都市です。被爆以後50年は草木も生えないといわれながら、自然の持つ偉大な治癒力と市民の努力によって大きな復興を遂げてきましたが、戦後60年を越えた今もなおその後遺症に苦しむ多くの人たちがいることを国民の殆どは忘れてしまっているのです。平和の像に象徴される平和を求める都市だからこそ平和であって欲しいと誰もが思うのですが、人間のエゴが見え隠れしたりイデオロギー論争に巻き込まれたりして、長崎も広島も平和とは程遠いイメージがあります。本島等市長が銃弾で撃たれ重傷を負った記憶を甦らせるような事件が昨日の夕方起きました。選挙運動の最中の出来事であったため、折りしも統一地方選挙真っ只中の日本列島に衝撃が走ったのは当然のことかも知れません。テレビで映し出される伊藤一長市長の横たわる生々しい現場の映像は平和な国日本とは思えぬ臨場感でした。

 いつの頃だったか社会党委員長の浅沼稲次郎さんが日比谷公会堂の壇上で選挙演説中に刃物で刺された事件が、テレビで映し出されてことを思い出しました。最近では民主党の石井紘基衆議院議員が自宅前で刺殺されました。政治は理想を掲げて論陣を張ります。体制批判や右か左かどちらかに偏った話をしないと大衆受けしないのも事実です。でも言論の自由が保障されている現代にあってこんな暴力で口封じをすることは断じて許し難いことなのです。心肺停止という記事が嘘であるよう心から回復を祈ります。

 もう一つ、「長崎市長撃たれ重体」という記事のような一面トップ記事ではありませんが、三面記事の隅に「地震後もゴルフ・登庁せず懇親会」という見出しで三重伊賀市長の記事が載っていました。三重県中部で15日に発生した震度5の強い地震で被害が出ていたし、その知らせを受け対策本部設置を指示したにもかかわらず市議らとゴルフを続け、登庁もせずにその後の懇親会にも出席していたというのです。ゴルフが先か地震への対応が先かは子どもでも分る話です。今は登庁すべきだったと反省している」そうですが、どこまで本気でいるのか疑問です。「頭を下げればそれでいい」というその場逃れでは済まされない大きな出来事のように思うのです。日本列島は地震大国といわれるように頻繁に地震が起こります。その度に多くの被害があり尊い人命が失われています。自主防災組織を作れとその必要性を説き、行政はトップダウンの形で迫ってきますが、自主防災組織を作っても、肝心の行政のトップがこんな醜態では機能しないばかりか、嘘つき行政といわれ、住民と行政の間に不信感が生まれると、まったく機能しなくなってしまうのです。

 私の母校である愛媛県立宇和島水産高校の練習船えひめ丸がハワイ沖でアメリカの原子力潜水艦に衝突し沈没、尊い9人の命が奪われた時も、時の内閣総理大臣だった森さんは報告を受けていたにもかかわらずゴルフを止めず、そのことが国会で問題になって辞任に追い込まれました。

 甘い誘惑は地位や名誉、お金だけではありません。しばしの悦楽のためにゴルフや酒、女に講じて身の破滅を迎えた政治家や知識人は指折りしただけでも五万といます。自戒も大切ですが、ゴルフには市議会議員も一緒にいたというから驚きです。「周りは常にイエスマン」、これが政治や行政の実態のようです。何故そこで市長を対策本部へ急ぐよう戒めなかったのか、このことも問題です。

 今日本列島は統一地方選挙の真っ只中、舌戦論戦の最中ですが、せめて舌戦も二枚舌にはならぬよう願いたいものです。

  「ゴルフ止め 対策本部に 出向くべき 頭下げたら 薄くなってた」

  「子どもでも 分る対応 何故やらぬ お前の言うこと 信じはせぬぞ」

  「イエスマン 従えゴルフ いい気分 しっぺ返しが 待っているのに」

  「銃弾に 倒れし市長 気遣うが ゴルフ市長は 誰も見向きも」


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shin-1さんの日記

○送られてきた二枚の委嘱状

 私の元へ今年になって2枚の委嘱状が届きました。一枚は地域中小企業サポーター、一枚は地域活性化伝道師への委嘱です。ちょっと珍しいので紹介します。

 

    委  嘱  状

              若 松 進 一 殿

  中小企業の地域資源を活用した事業展開の支援に関する関係省連絡会議の推薦により貴殿を「地域中小企業サポーター」  

 に委嘱します。中小企業の地域資源を活用した取組の活性化に向け積極的にご支援いただくようお願いします。なお委嘱期間 

 は平成19年1月15日から平成19年12月31日までとします。

                       平成18年1月15日

                   経済産業大臣   甘  利  明

                   国土交通大臣   冬  柴  銭  三


     地域活性化伝道師

               若 松 進 一 殿

  貴殿におかれましては、「地域活性化伝道師」として、知識、経験を最大限に生かし、各地の地域活性化の取組を応援いただ 

 きますよう、お願い致します。地域の埋もれた宝物の発掘を助け、地域のやる気と情熱を喚起してまいりましょう。

                        平成19年3月30日

                   地域活性化担当大臣    渡  辺 喜  美


 中小企業サポーターの委嘱状は現代的な額装丁を施し大臣印を押したものですが、地域活性化伝道師の方は手すき和紙の縁あり、しかも大臣の印は戦国武将が好んで使った華押文字で、どちらも工夫の跡が見られる素晴らしいものです。

 奇人変人と言われながら長命総理大臣だった小泉純一郎さんが身を引き、阿部さんが美しい国日本を旗印に登場してから、これまで遠い政府だった霞ヶ関が私にとっては近い政府になりました。勿論私に与えられた観光カリスマ百選という選定称号は前総理小泉さんの発案ですから一連の伏線と思えばよいのでしょうが、それにしてもリタイアしたような私に3名もの現職大臣から委嘱状が届くのは一体私に何を期待してのことでしょうか。内閣官房という仰々しく印刷された封筒の封を切り中から出てきた委嘱状を手にして、さて私はどんな戦略と戦術で日本という国の地域おこしに貢献できるのか考えてみたのです。

 観光カリスマ百選は観光の振興、地域中小企業サポーターは中小企業の振興、地域活性化伝道師は地域の活性化なのですが、地方にとっては三ついずれも厄介な問題を抱えています。まず観光ですが風光明媚な景色や歴史的町並み、温泉地など観光資源のない地域では、様々な策を巡らしても結果的に恒常的な観光地にはなりにくく、グリーンツーリズムのような生産や暮しをテーマにした新しい交流事業も中々骨が折れるようです。中小企業にあっては一部を除いてどの会社もIT時代への対応にはかなりの投資が必要なのですが、人材と資金がネックになって中々一歩踏み出せず、好景気といわれる日本なのに格差社会の洗礼をもろに受けているのが現状です。また地域の活性化にいたっては、過疎と少子高齢化が同時に進行し、高齢化率50パーセントを超えた限界集落が次第にその数を増しています。合併によって人口が増えたような錯覚をしていますが、小さなエリアでの中央集権と自治体の財政破綻は第二、第三の北海道夕張市が生まれる寸前まできているようです。

 観光・中小企業・地域という三つの分野だけでも活性化は口で言うほど容易なことではありません。ましてやそんな役割を紙切れ一枚の委嘱状で担えといわれても余程の知恵者で、余程の資産家で、余程の奇特な心を持った人でないと務まる訳がないのです。でも受けたからにはそれ相当の覚悟が必要です。地位名誉や売名のためならいざ知らず、ボランティア精神を持ち進んで国のためになる人間になれるよう努力したいと思っています。

 5W(いつ、誰が、何処で、何を、どのように)それぞれに整理をし、目標を決めてことに当たらなければなりませんが、いつの時代にも人・もの・金・こと・情報が大事であることは周知の事実です。特に人と情報と道のネットワークは大事です。

  「大臣の 名前の入りし 委嘱状 貰った限り やらなばならぬ」

  「伝道師 まるでザビエル 華押文字 秀吉ならぬ 現職大臣」

  「カリスマと いわれ三年 経ちました あちらこちから 知恵貸せ来いと」

  「何時の世も 人材大事と いうけれど 人財ならぬ 人罪多し」 

 

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shin-1さんの日記

○3千枚目のドラマが始まる似顔絵の名刺リニュアール

 定年退職以来、「肩書きや名刺とは縁のない暮しをしたい」と思って2年前に始めた自由人生活でしたが、意外な所で名刺や肩書きが必要なほころびが出て、昔のよな肩書きや名刺ではないが仕方なくその方向に引きずられています。まず肩書きですが、小さい集会の講演でも「肩書きは何にしておきましょうか」と問われるので、「人間牧場主」という肩書きを作りました。「えっ?、人間牧場って何ですか」と相変わらずの知名度のなさにうんざりしながら話すのですが、お陰なことに新聞や雑誌やテレビのご支援でとみに有名となって、県内では今では「ああ、存じ上げております」で通るようになりました。しかし県外となると「愛媛大学法文学部非常勤講師」や「夕日のミュージアム名誉館長」などの方が一目瞭然分るようです。

 さて名刺ですが、これも最初は名刺などいらないと思いつつ、役職なしの夕日をあしらった名刺を使っていましたが、仕方なく渡辺悦子さんに書いてもらった似顔絵の名刺を一昨年千枚作りました。「お父さん、何が何でも千枚なんていらないのでは」と妻は千枚という多さに拒否反応を示していました。しかし五百枚も千枚も金額は左程変らないといって印刷費用2万円を出してくれました。無職の男にとって2万円は大金ですから先行投資としてはかなりの出費です。でも「この名刺とインターネットと携帯がなかったらビジネスは成立しない」と説得して投資をしました。これまでのように飲み屋のママさんにまで名刺を配るようなことはしない方がよい」と妻に釘を刺され、「それもそうだ」と自戒をこめて使いましたが、次第に使う名刺の数が増えて1年も経たないのに更に千枚を追加印刷、1年半で残部ゼロという結末です。つまりこの一年半で2千枚の名刺が消えたことになります。2千枚は2千人ですから毎日2人以上の人と会っている計算になります。現職の頃の1ヶ月600枚、年間7200枚からすると微々たるものですが、それでも毎日2人は凄い数です。

 今度もえひめ地域政策研究センターの清水さんに仲介をお願いしました。清水さんは快く引き受けてくれて、少しだけリニュアールしました。これが最終校正を終わった名刺で印刷工程に回りました。

 間もなく印刷が終わって届くであろう名刺の仕上がりが楽しみです。多分妻はまた「えっ、名刺はこの間千枚も印刷したのじゃなかったの?」と不思議がって2万円の出費を疑問視するでしょうが、「必要経費」ですから仕方がありません。でも今回も無駄遣いしないようにしっかりと意味のある使い方をしたいものです。

 さて2千枚からカウントする3千枚までの間にどんなハラハラ・ドキドキ・ワクワク・ジーンとする出会いがあるでしょうか。一枚の名刺が私の人生を物語れるようにしっかりと、西郷隆盛の言葉のように「足は野につき心は天に向かって開く」人生でありたいと決意を新たにしました。

 この1年半でいただいた名刺は2千枚を超えて私の書斎の戸棚に眠っています。私の名刺は引き算です。千枚単位の分厚い高さから毎日一枚、また一枚と減って行きます。逆に貰った名刺はゼロ枚から次第に増えてゆくのです。うず高く積まれた名刺の一枚一枚を捲り名前と顔を記憶の彼方から呼び返すのも楽しみの一つです。

 インターネットのメールで仕事をするようになって、顔と名前が一致しなくなったのもこの頃の特長です。便利になった反面、電話の声さえも聞かず講演に出かけたり、要件を済ませることだって多くなりました。このままだと人の顔を忘れそうです。そのためにも名刺を上手く活用したいものです。私の自著本「昇る夕日でまちづくり」の巻末に「若松進一生きざま語録」というのがあります。「人は逢えば逢うほど逢いたくなり、学べば学ぶほど学びたくなる」という言葉を載せています。人と逢うのも学ぶことも人間が生きる上で極めて大事なことなのです。

  「あれ程の 名刺の数が 消えるとは 貰った名刺 同じ数だけ」

  「少しだけ リニュアールした 名刺見て 一年前の 自分と違う」

  「落語家の 喜久蔵似たり 似顔絵に 笑い振りまく ニタニタしつつ」

  「千枚の 名刺注文 どれ程の 効果あるのか 分らぬままに」

 


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shin-1さんの日記

○山寺を訪ねる

 その寺は山深い場所にありました。久々に訪ねたかつては上浮穴郡小田町といわれた町も、上浮穴郡久万高原町や伊予郡砥部町との合併を模索しながら結局は喜多郡内子町と合併しましたが、町内は長年の歴史がそうするのか四国八十八ヵ所岩屋寺や大宝寺への巡礼の道としての趣きが色濃く残り、交わす言葉や風情はやはり上浮穴郡を感じさせていました。

 小田への道は久万高原町からと、砥部広田を通る道、中山から山越えをする道、それに内子町大瀬から入る道など様々ですが、距離や時間を勘案して今回は往路砥部広田の道を選びました。春霞のかかった山道を走り、上尾峠を越えると、かつては伊予郡広田村へ出ます。途中に道の駅があって、昼なのに提灯をぶら下げ何やら少しばかりの賑わいです。聞けば「山菜まつり」とか、しいたけやウド、ワラビ、中にはボタンの鉢植えなどがあって顔見知りの人もちらほら、長閑な山村の長閑なまつりが長閑に行われていました。請われるままに丁度昼時だったので湯だめうどんを買い求め食べましたが美味しく、小食な私には少し多めの量でした。杵つき餅も買い再びカーナビの誘いどおりの道を小田町に入りました。途中道沿いの神社の巨木が目に留まりました。機を見るのが好きな私は山門の近くに車を止めて神社の境内に入って行きました。看板によると樹齢千年、県指定の天然記念物のケヤキ2本と樫の樹1本はそれは見事で思わず「凄い」と思いました。しかしよる年波には勝てず一本のケヤキは樹木医努力処置にもかかわらずの枯死寸前といったところでした。境内の陰で4人の方が陽気に誘われて弁当を広げて食べていました。「若松さんじゃないですか?」、「?はてなと思いましたが私と同郷で今は西条市で車屋を営む魚見さんでであることを直ぐに思い出し、懐かしい会話を交わし神社を出ました。

 何日か前住職さんから電話で場所を「参川小学校の前を通り過ぎ、橋を渡らないで右の道を」という記憶を頼りに確認しながら走りましたが、よくある田舎のお寺は視界の中に中々入ってこないのです。でも一本の大きなモミの樹の樹上を見つけ坂を少し登ってお寺の境内に入りました。失礼な話しですが、山門も苔むし本堂は民家にも似て壁の剥がれ落ちた、無住寺といってもいいようなお寺でした。しかし「寺の構えだけでお寺の格式を判断してはならないときつく心を戒め境内へ入りました。さっき見上げたモミの木は天狗のモミの木というのだそうで、町の天然記念物に指定されているそうですが、その看板も私と同じように行儀悪く寝そべっていました。小さなお寺なので中から聞こえる住職の読経や鐘の音が手に取るように分りますが、部屋からはみ出すように座っている檀家の人や履物類を見ていると入り辛くて、右往左往していると奥さんと出会い、裏口から控え室へ案内されました。奥さんとは永平寺を本山とする末寺の女将さん会に招かれ話をしたり、その方々を人間牧場に案内したりしましたので顔見知りなので、安心して抹茶などをご馳走になりながら世間話をしました。勿論住職さんも顔見知りで住職の能仁さんとは教育委員会に勤めていた関係で若い頃から旧知の間柄なのです。でも能仁さんのお寺で会うのは初めてなので、寺の質素さには正直驚きました。聞くところによると寺の再建も間近とか、そのためこの古いお寺で最後の催しとなるお般若講にどうしてもお話をして欲しいと、私に白羽の矢がたったのでした。



 妻曰く、「お父さん(私のこと)も色々な所へ話をしに行くが、住職さんが説教で馴れているお寺へ何を話しに行くの。行かない方がいいのでは」でした。でも所変れば話も変るで、小さいながら本堂いっぱいに集まっていた檀家の方々は熱心に大きな声で笑いながら私の話を聞いてくれました。話をしながら思いました。最近はお寺から講演の依頼がよくあるのですが、お寺の本堂は天井が高いため声の響きもよく、仏間の雰囲気がとてもピッタリあってとても話しやすいのです。嬉しくなりその気になって乗った話をさせてもらいました。かつて小田町教育委員会に勤めていた顔見知りの鶴田さんは既になくなっていますが、この寺の檀家で奥さんも見えられているという話を後で聞きました。ご冥福をお祈りします。

  「苔むした 寺の山門 くぐらずに 裏口入門 野辺花一輪」

  「天を突く 天狗モミの樹 目印に 参道進む 心洗わる」

  「道元の 言葉しみじみ 思い出し 春の息吹を 肌に受けつつ」

  「山寺の 境内響く 般若経 鼻に届きし 線香の臭い」  


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