shin-1さんの日記

○過激な話

 私のような者が大学で曲がりなりにも教えるようになって、大学の学者先生との出会いが以前にも増して多くなってきました。これまで私たちのような実践肌の人間は学者先生の話を聞くと何となく世間離れしていて、かなりの抵抗がありました。逆に大学の学者先生も学歴のない私たちを見て理論体系がないような口ぶりで目に見えない言葉の反抗を示し私たちもそれを感じていました。そんな中で面白く過激な先生がいます。熊本大学の徳野貞雄先生です。先生は先生と呼ぶに相応しくない風貌をしています。何年か前広島県立大学の先生だった彼に、私の町の町づくりシンポジウムの記念講演を頼みました。広島から船で来るというので、若い職員に松山観光港まで迎えに行ってもらったのですが、船は着いたがどうしても大学の教授というそれらしき人は下りて来ないというのです。探せと指示をしましたが幾ら探しても見つからなかったそうです。たまたま公用車に「双海町」という文字を入れていて、徳野先生の方から声を掛けられ事なきを得たのです。どう見ても大学教授の風貌をしていない先生とは以来親しく付き合い、特に逆手塾の専任講師であることから昨年は人間牧場へ来られ熱弁を振るわれました。

 大学の他の教授が穏やかな建て前論の話をするのに対して徳野先生は過激な話をします。それはむしろ本音の話として私たち実践家により近い話として胸を打つ言葉が多いのです。「口角泡を飛ばす」という言葉がありますが、徳野先生の超過激と思える発言や語り口は、色々な誤解も生まれますが、私にとってはとても心地よい響きなのです。

 先日徳野先生から「農村の幸せ、都会の幸せ」という240ペーほどの小さな本が送られてきました。帯に書かれた文章を紹介します。

 「都会でサラリーマンになって、夏でも冬型の格好をさせられ、満員の電車に乗せられて、水虫になりながら夜遅くまで仕事をする。仕事帰りにはそこらの居酒屋で上司の悪口を肴に酒を飲んでいる。そうした暮しは、GNPに換算すればかなり高くなるでしょうし、確かに経済としては成り立っています。

 経済としては成立しているかもしれないけれど、一人の人間の暮らし方としてはどうでしょう。それよりも朝早くから田んぼに出て水を見回り、・・・・略・・・・クーラーはないけれども、日本の伝統的家屋には風通しがよくて涼しいポイントがありますから、そこに寝転がって昼寝をする。休日には近くの川で魚を採ったりする。こんな暮らし方が個人としては理想なのかもしれません」。

 この本の中身を読むといかにも農村の暮しが幸せそうに見えますし、都会の暮しに疲れた人々に田舎はいいよと応援歌のようにも取れますが、田舎の悪い部分も断罪しながら家族や食や暮しといった、日本社会の矛盾を鋭くついているようにも思えるのです。

 この本の中に「暮らしの生活社会指標というのがありました。都会のサラリーマンと安定兼業農家を①所得、②生活財、③家屋・部屋数、④自然・環境、⑤教育・学歴、⑥70歳時点での仕事、⑦自分の葬式の会葬者予測、⑧家族・世帯員数という一風変った8つの生活要素を基にレーダーチャート的図式 で比較しているのですが 、①所得と⑤教育・学歴は都会のサラリーマンの方が高いものの、その他の指標は全て安定兼業農家の方が高い事に驚くのです。特に②生活財、③家屋・部屋数、④自然・環境といった地域が固有に持つ空間資源や、⑥70歳時点での仕事、⑦自分の葬式の会葬者予測、⑧家族・世帯員数といった地域の人間関係資源は全て安定兼業農家に軍配が上がるのです。さらに①の所得でも所得そのものは低いものの自給や家賃、物価を考えれば都会のサラリーマンの出費も多いようです。ただ教育や学歴、子育てや受験といった部分では圧倒的に都会のサラリーマンが優位にあるようです。

 高齢化社会が急激な勢いで迫ってきました。人間としていかに生きるか、真の豊かさとは何か、老いを迎えた生き方など様々な問題を考えれば金で推し量れない空間資源や人間関係資源の持つ意味や魅力が問い直されるようです。

 田舎に住む私にとっては納得する理論ですが、ただ私と同じように田舎に住んでいる人たちがこうした田舎の価値を認識しているかどうかが問題なのです。

  「超過劇 そんな表現 したくなる おもろい先生 私友だち」

  「近頃は 理路整然と 話す人 多過ぎ不満 もっと過激に」

  「田舎住み たまに都会へ 遊び行く これが一番 リッチ生活」

  「問題は 田舎の良さが 分らずに ブツブツ言いつ 田舎住むこと」

 

 

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shin-1さんの日記

○私の今日の占い

 昨日はこどもの日、孫にとっても私たちにとっても主役になれる記念日なのです。孫はこどもの日なのに娘のお産が近いとあって遠出近出も出来ず悶々のようなのか、親類で叔母の三回忌法要の読経最中に娘から携帯電話が入りました。そっと外へ抜け出し電話に出てみると娘からでした。「朋樹がおじいちゃんの所へ泊まりに行きたい」というのだそうです。春休みの子守から解放されやれやれと思う反面、相棒のいない寂しさかついつい引き受けてしまいました。実は5月5日は私たち夫婦にとっても結婚記念日であり、私たちだけの特別な日でもあるのです。仕方がないから二人の記念日は、泉にでも出かけて食事でもと思っていた予定を変更して孫の相手をすることにしました。

 法要から帰って喪服を着替え、普段着で裏庭の遅咲きツツジの下草を削って除草をしていると早速元気者の孫が「おじいちゃん来たよ」と大きな弾んだ声で夫婦に連れられやって来ました。妻が私の書斎へ孫を連れて行き、窓越しに裏庭の私に手を振る孫も迎える私も嬉しそうでした。折から雨が降り出したのを幸いに除草作業を止めて孫のお相手です。せっかく来たのにこの雨では「おじいちゃん虫取りに行こう」と誘われても戸外へは出れず、思い切って近所の農家へイチゴ狩りに出かけました。しかし残念ながらここも午前中で営業を終わっており、頼み込んで品薄ながら二人だけでイチゴをたらふく食べました。その後シーサイド公園へ出かけましたが、雨が降り出したこともあって特産品センターはかなりの人でごった返していました。我慢強い孫なので、出かけるとき「今日は買わない」「見るだけ」と約束をさせて毎回出かけるのですが、さすがに昨日はこどもの日、小さなお気に入りの恐竜模型を見つけ480円の買い物をしました。漁協女性部のじゃこ天のお店ではこどもの日にちなんでお菓子のプレゼントがあり、孫は二重のプレゼントに大喜びでした。恐竜ごっこや読書など孫の相手は疲れました。それでも風呂に入れ9時には床に入って孫と寝たため、午前2時の今頃になって目が覚めて寝られず、ついつい書斎でパソコンに向かいました。

 何気なく目に付いた「Ameba今日の占い」「今日のshinー1さんの運勢は?」という欄をクリックすると次のような占い予想が出ていました。

 恋愛運2

 恋愛は波乱の時を迎えています。おつきあいしている恋人に複数の異性からアプローチがあります。そんな状況を偶然見てしまうshin-1さんは、気が気ではなくなってしまい、精神的に疲れ果ててしまうのです。また、相手は誘惑に弱くなっているため、あなたの方がはっきりした態度を示さないと、別の異性にさらわれてしまうことになります。恋人を手放したくないのであれば、自分の気持ちをはっきりと当てに伝えるようにしてください。そうすることで、自然とふたりのきずなはは深まり、数多くの困難も乗り越えていけるようになるでしょう。この時期は、なによりもマンネリを打破することから、幸運がもたらされるのです。

 健康運2

 shin-1さんの健康運は上昇しています。バテ気味だった人も、元気が出てくるでしょう。この時期は、ゴルフの練習場、バッティングセンター、テニス、卓球、ビーチバレーなどに出かけて、積極的に身体を動かす事をお勧めします。じっとしていると、ストレスがたまりやすいときです。できるだけバスや電車を使わずに、自分の足で早く歩くか、自転車を使いましょう。エネルギッシュに動き回って汗をかき、食欲を増進させてください。

 仕事運5

 shin-1さんは仕事に理想を求め過ぎ、職場に不満を感じて転職を考えるかも知れません。ただし、求めるような理想的な職場や仕事は、簡単に手に入れられるものではありません。性急に結論を出さず、自分の仕事をもう一度じっくり見直しましょう。金運は順調で、アルバイトなどによる臨時収入も期待できるときです。目移りするほど買いたい物があるとしても、できるだけ貯金に回したり、転職に備えて資格試験の勉強に投資したりするのが賢明です。

 占いは当たるも八卦当たらぬも八卦だそうですが、自分に当てはめて考えてみると、恋愛運は別として、健康運や金運は結構役に立つアドバイスとして受け止めれそうです。私は神社に備え付けているおみくじなど引いたことは殆どなく、いつもおみくじを引く妻に無意味だから止めろと咎めたりしていました。ですからこの「今日の占い」も参考意見として聞いておきたいものです。

 世の中自分さえ分らない運勢を人が考えられる訳がないといつも思います。でも人間はそのように先のことが分らないだけに先の事を知りたいと思うのも本能かも知れません。でもやはり自分の運勢が上向くのは他力本願ではなく自力で実行する意志の強さ以外にはないようです。

  「偶然に パソコン運勢 見てしまう 殆ど外れ 少し当たって」

  「運勢は 他力本願 成就せず 自力で努力 勝ち取るものだ」

  「この歳に なっても気になる 恋愛運 ばかばかしいと 思いつつ・でも」

  「おじいちゃん 来たと弾んだ 孫の声 来たか応える 身体に精気」 

  

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shin-1さんの日記

○バレエ公演の案内

 私の敬愛する観光カリスマ百選の一人舩木上次さんから今年も清里フィールドバレエ公演のパンフレットが届きました。封筒の中には昨年度の公演の様子を収録したCDも入っていて、17年も続いている屋外バレエの真髄を画像で見学させてもらいました。昨年度のプログラムに書かれた彼のあいさつが全てを物語っているようなので紹介します。

   ごあいさつ

「皆様に支えられて17年目を迎えられる事に感謝の気持ちでいっぱいです。私は今までの16年間を振り返り多くの宝物を手に入れた事に驚いています。この夏の夜の夢を毎回待っていてくださるファンの皆様の温かい声援、今村博明先生、川口ゆり子先生、バレエシャンプルウエストの皆さんとの絆、このイベントを続けるために一緒に心を配ってくれる友人達、そして裏方のスタッフや地元を中心とする大工さん、ボランティアの方々との友情です。満天の星空、幻想の霧、自然が見せてくれる素晴らしい演出はもちろんですが、雨や雷の日があったからこそ皆さんの暖かい心に触れ感謝という事を知りました。フィールドバレエという文化は、先人の開拓者から教えられたチャレンジ精神に、16年間のたくさんの感謝と感動が織りなしてやっと清里という地に根付きました。今年も皆さんと共にいっぱいの宝物を手に入れたいと思います。空に向かって「ありがとう」、そして皆様に心から「ありがとう」

   清里フィールドバレエ事務局代表 舩木上次

 彼と出会ったのは東京高輪プリンスホテルで日本観光協会が開いた観光カリスマ百選のシンポジウムでした。私を含めた6人の1人として壇上に立った彼は関東人らしい洗練された語り口で喋りまくりすっかり圧倒と魅了されてしまいました。それからはつかず離れずの付き合いが続き、愛媛での講演に彼を招いた折、人間牧場へもやって来たのです。

 想いも規模も違うフィールドバレエと夕焼けコンサートという屋外イベントを仕掛けた者どうし、苦労も共有・共感・共鳴しすっかり心を許しあう友人となったのです。

 今年彼はパンフレットを入れた封筒に添えて森永チョコレートを20箱も届けてくれました。1箱に24個の一口サイズのチョコレートが入っているのです。添え書きに「人間牧場で使ってください」と書かれていました。私は遠い異郷の地ゆえ7月27日~8月9日まで行われるフィールドバレエの公演にいか程の人が行くか不明ですが、送られて来たその日から、チョコレートを手渡し食べた人全てに舩木さんのことと、フィールドバレエのことを人間牧場で話そうと決意し、話し始めたのです。東京近辺の人に書いた手紙にもパンフとチョコレートを一枚入れて昨日発送しました。

 人のために尽くすことは容易なことではありません。でもささやかな手助けしか出来ないもどかしさを感じながらもチョコレート作戦はひとまずスタートしました。でも不思議なものでこの連休で人間牧場への来訪者も多く、手紙で送った分を含めると早100個を越えています。勿論妻にもチョコレートを2枚渡し、人の倍も舩木さんとフィールドバレエについて話してやりました。

 まちづくりの志を持った友人たちにもう少しの間チョコレートを配りながら彼の事を話す日々が続きそうです。

 それにしても世の中には色々な人がいるものです。舩木さんに出会って彼のひたむきなバイタリティと行動力に圧倒されながら、自らも見習うべく日々修行を積んでいますが、意思半ばといったところでしょうか。そう思いつつふと、「私はまだ彼の清里を訪ねていなかった」と気がつきました。長野県南牧村の中島美人村長に出会ったことも、山梨県の各地へ私が出かけたことも、ある意味では彼の紹介が多いのに、そして清里の近くまで足を運んでいるにもかかわらず、清里へは残念ながら行っていないのです。「そうだ清里へ行きたい」、これが私の当面の目標です。さて善は急げというが何時になるやら・・・・・・。

  「今年また 清里バレエの 案内が チョコ添え語る お願いします」

  「雨や風 悩みの数々 思い出す 屋外イベント 自然が相手」

  「とりあえず 二十回目を 目指してる 十七回目は 峠のひとつ」

  「バレエ聞き ボールのバレーと 勘違い 田舎の文化 バレエとバレー」  


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shin-1さんの日記

○変る葬式事情

 最近新聞のお悔やみ欄を見て気がつくことがあります。死亡した人の年齢は千差万別、いったいに70歳から90歳過ぎまで高齢者の死亡が多いものの、中には私とお同じような今風にいえば若くして死ぬ人もいます。多分ガンや脳卒中、心臓発作、交通事故などで死んだものと思われますが、この欄に記載された分以上の悲しみの舞台が県内のあちこちで繰り広げられているのです。私と同じような年齢の人だと働きズ目に働いて年金を楽しみにしていたに違いないとも邪推するのです。

 お悔やみ欄の特長でもう一つ顕著なのは葬式の舞台がこの数年の流行で、自宅から葬祭場へ移ったことです。葬儀場で葬式をするのは都会の狭い住宅事情からだと思っていました。しかしこんな田舎にもその波はどんどん押し寄せ、葬祭場を持たない田舎の葬儀屋さんは完全に大資本中心の近隣の街へ吸い込まれつつあるようです。私たち夫婦も90歳になる父親を在宅で看ていますが、今朝親父がそのことを口に出しました。というのも昨日は親父の義理の姉の13回忌と義理の兄の50回忌法要が営まれるため、親類に出かけたからです。母は6人兄弟の末っ子でしたから自分を除けると11人の義兄姉がいました。残念ながらその全てが亡くなって生き残っているのは親父だけなのです。人前をはばかるようになった親父なのですが「どうしても出席して欲しい」という従兄弟のたっての頼みで私が連れて出かけました。

 義兄は50年前不慮の交通事故で亡くなりました。10人の子どもを残しての死亡は余りにも早く、家族は深い悲しみに暮れながらも助け合い、家業である製材業でそれなりの成果を収めたようで、今も3代目がしっかりと会社を発展させています。あいさつに立った従兄弟はその辺の事情を涙の出るように切々と語りかけ、親父との思い出も語ってくれました。多分高齢を押しての出席に対する配慮からでしょうが、親父にとっては「いよいよ自分の番」と思ったようです。

(和尚さんの横にあるのがホウノ木の立派な卒塔婆、50年の法事にはこのような塔婆が使われるのだそうですが、さすが製材業です)

 帰ってから二人で隠居の居間に座って法要のことや自分の最後などを少し雑談しました。親父の願望は「この家の畳で死にたいし、死んだらこの家で通夜をしてこの家で葬式を出し、愛した海が見える場所に納骨して欲しい」のだそうです。双海町は海岸に面しているため殆どの墓地が海の見える小高い所にあります。わが家の墓地も家とともに移転しましたが、そのお墓からはシーサイド付近の海がよく見えます。昨日法要で訪れた親類の墓地も負けず劣らず海の見えるすこぶる眺望の良い高台にありました。

(下灘の港や海が一望できる墓地)

 昨日は天気も親父の体調も良く、親類の家の裏山にある墓地まで何と親父は誰の手も借らず驚くような速さで墓地まで登って親類の人はその健脚ぶりに驚いているようでした。多分義理とはいえ兄弟とお墓ながら会いたいという思いが身体を動かせたのだと思います。


 

 私が若かった頃若かった従兄弟たちも段々歳をとって白髪が目立ち、足や腰や身体に不調を訴える人が多く、座ったり立ったりさえ困難な人のために椅子が用意されていました。その従兄弟たちともすっかり縁も遠のいて、お目出度やお悔やみ以外会わなくなってきました。親父にとっては懐かしい顔々なのですが、顔と名前が中々一致しないようで、私が通訳を務めました。

 身近に進む自分を含めた老いは死さえも話題になる、そんな法要でした。

  「あれは誰? 親父が出会う 人毎に 通訳務め うんとうなずく」

  「五十年 過ぎて息子が 法要を 私の五十年 はて誰法要」

  「海見える 墓地に埋めてと 父言うが 死んで分るか 不思議でならぬ」

  「それぞれに それぞれ人生 生きている それぞれ進む 人生仕上げ」

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shin-1さんの日記

○人間牧場第4番目の施設完成

 着工以来10日ほどを費やしましたが、ついに人間牧場に水平線の家、ロケ風呂、ツリーハウスに続いて、第4番目の施設が完成しました。施設といってもそんなに大袈裟なものではなく単なる倉庫なのです。人間牧場も着工して一年半、完成して1年が経つと色々な道具類が増え続け、所狭しと置いていて美観を損なうため思い切って小さな倉庫のような小屋を建てることを決意しました。自分でやれば良いのですが残念ながら暇がなく結局はこれまでお世話になった大工さんに頼むことにしました。総工費42万円の資金調達に頭を悩ませていた折りしも、関奉仕財団からはからずも表彰を受けることとなり3月27日に栄えある授賞式に望みました。その折副将をいただいたので人間牧場の整備に当てようと決意した次第です。ところが出来上がって見ると僅か畳三畳ながらこれが中々こじんまりして倉庫に使うのは勿体なく、屋外の活動拠点にすることになり、急遽小さな小屋の側に小さなおだれ小屋を作る設計変更と相成ったのです。このおだれ小屋は今年90歳になる手先の器用な親父を棟梁にまつりあげ、親父の言うがままの安い材料を構えて、親父が家で作事し準備を進めていました。その準備資材をトラックで運びこの二日間で仕上げ他のです。

 左側半分が大工さんの作った注文小屋、その右側おだれ半分が親父と私の労作による倉庫となる小屋なのです。最初は楽勝と思われた手づくり小屋ですが、敷地造成を地元の土木業者にコンクリートを打設してもらったところ地上げのコンクリートが予想以上に多くなり2万の見積もりが5万円もかかってしまいました。また仕上がって入れる予定の耕運機の巾を計ったところ広さを確保できず柱を切って移動させなければならなくなるなどハプニングの連続でした。その都度親父の機敏な判断で乗り切り仕上げてきました。材料も出来るだけお金を使わない安上がりをモットーにしたためツギハギのような感じです。でも出来上がりは一体感があって中々のものです。

 昨日は親父の作った入口の扉の据付と中に棚を作る工事をしました。トントン、カンカン、釘を打つ快い音が山々にこだまし、午前中に取り付けを完了しました。これでロケ風呂下の倉庫や水平線の家に置いていた道具類は全て収納することができるのです。ただし息子が工事現場から貰ってきた薪にする端材はどうやら処分しなければならない運命になったようです。でもロケ風呂も灯油ボイラーを取り付けているのでどういうことはないのです。いっそのこと小さな倉庫の横にまきを収納する場所でも作ろうかと、早くも次の作戦に向けて構想中です。でも資金も底をついてしまいましたので、やるとしても自分で手づくり以外方法はなさそうです。

 この工事では、設計を担当した長男、ペンキを塗った次男と三男、資金を多少捻出した妻と親父を含め、全ての家族が人間牧場の建設に深くかかわったことになりました。おっと忘れるところでしたが長男の嫁も昨年の今頃、防虫ネットを夜なべをしてミシンをかけカヤに縫ってくれました。関わった家族の思いや、ツリーハウスを建設してくれた私が代表を務める21世紀えひめニューフロンティアグループの皆さんに感謝します。また囲炉裏の灰を砥部焼きの窯から調達してくれた稲葉さんにも感謝感謝です。

 人間牧場は建設途中なのでまだ落成式らしきことは何もしていません。多分まだ先のことでしょうが、さあ準備は次第に整いました。間もなくこれまた私が代表を務めている双海少年少女おもしろ教室では今年もサツマイモの作付けを予定しています。今年こそはイノシシの知恵に勝ちたいと意気込んでいるところです。

  「板戸付け 小さな小屋が 完成す 親父棟梁 腕は確かだ」

  「次々と 施設充実 目を丸く しながら見てる 地元人々」

  「金かけず ツギハギ板で 完成す 少し手づくり 俺も胸張る」

  「ハプニング ある度知恵が 片付ける 手仕事親父 経験違う」


 

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shin-1さんの日記

○ブログへの書き込みメール

 今朝インターネットのメールを開いてみると、久万高原町に住む友人からブログへの書き込みがありました。一昨日四国八十八ヵ所遍路について私が書いた記事を読んでのショートコメント感想でした。私のような名もなきに等しい田舎のおじさんの書いた文章でも、読んでくれる人がいるのかと思うとつい嬉しくなりました。決して褒められたことではない私たち夫婦が10年以上もかかって八十八ヵ所のお寺参りをしたことなので書くまいと思いつつ、それでも私たち夫婦にとってはささやかな家庭の歴史なので書いてしまったのです。メールをくれた渡辺浩二さんはもう二十年を超えての知人だし、彼の名刺には書き込めないほどのボランティア活動への深いかかわりが記してあり、私もそれなりに社会活動はしているつもりでも、渡辺さんの足元には到底及ばないと日頃から敬意を表しているのですが、彼のひたむきな努力が際立って光るのは「四国へんろ道文化世界遺産化の会」の事務長という肩書きです。私が所属するえひめ地域づくり研究会議の活度から始まったこの活動も、まるで浮き草のように浮いては沈む細々とした活動でした。今では昨年のユネスコ世界遺産暫定一覧表追加リスト候補となり一躍脚光を浴びることとなりましたが、その陰にはひたむきな彼の努力があったことを知る人は少ないのです。商工会に勤める超多忙な身でありながら署名や遍路道清掃活動、会の運営など裏方を一手に引き受けてやってきました。多分彼の半生で一番熱意を込めた仕事ではないかと思うのです。何の代償もないのに・・・・。多分彼が人生を終えてあの世に行ったら間違いなく御仏は彼を天国へ導くことでしょう。ちなみに私は無信心な男ゆえ地獄行きの切符を手渡されるかも知れないのです。

 さて私は、この八十八ヵ所参りで果たして何を学んだのでしょう。渡辺さんのメールを見ながらふと考えてみました。整理も出来ないまま思いつくままに4つだけ書いてみます。

 ①自分を見つめることが出来た

 私は八十八ヵ所のお寺を巡る度に自分という人間を見つめることが出来たように思います。人間は自分というもう一人の自分と常に自問自答しながら生きています。特に自分という身体にもう一人の嫌な自分が巣篭もっていて、間違いや失敗、ねたみや差別など様々な喧嘩を仕掛けてきます。その都度喧嘩に勝てば善道を、負ければ悪道を歩むことになるのです。人間はしみじみ弱いものだと思います。金や食欲、性欲、名誉などをちらつかせ執拗に追い掛け回してきます。人の判断には3段階あって、好きか嫌いか、損か得か、善か悪かで判断しますが、若い頃は好きか嫌いかや損得勘定で行動したものです。でも神仏と向かい合うと不思議なことに善悪での判断となるのです。人間は超自我の世界を極めようと努力しますが、中々超自我の境地にはたどり着けないものです。でも少なからず自分と向かい合って生きれるようになったのは遍路のお陰だと思うのです。

 ②自分の生き方を探すことが出来た

 自分の道は知らず知らずのうちにある決められたレールの上を走っています。いくらその道の途中で嫌だと思っても中々外れ難いものです。我慢をして我慢をして生きてきた結果今の自分があるのです。でもそれは現在から過去に通じる道だから、未来への道は幾らでも切り開いて行けるのです。自分は何が出来るのか、自分は何をしたいのか、様々なことを仏に祈りながら考えました。その一つは人間牧場構想でした。10ヶ寺を巡った頃、私は「人間牧場を作る」という決心を仏に誓ったのです。目標時限を60歳に定め様々な策を巡らしました。どんな物を作りたいのか、場所を何処にするのか、資金はどう工面するか、どんなことをしたいのか等について仏様と話しました。仏様は答えてはくれませんでしたが、仏様と約束をしたと勝手に思い込み、60歳定年で役場を退職したのを機に実行に移し、念願を成就することが出来ました。他の人のように「幸せになりますように」なんて他力本願的な祈りは一切せず、想いのスキルアップに八十八ヶ所を選んだ私は馬鹿なのでしょうか。人間牧場に足を運ぶ度に遍路の不思議な魅力を感じるのです。

 ③家族を見つけることが出来た

 私は家族を忘れていました。空気を吸って生きている人間、水を飲んでいる人間、空気も水もあるのは当たり前でその存在すら人間は殆ど考えることもなく生きています。家族もそうです。一つ屋根の下に住んでいるから家族と思って暮らしていますが、果たしてそれだけで家族なのでしょうか。思いを寄せて生きなければ家族とはいえないのです。ドアで仕切られた密室に生き、別々の物を食べ、別々の時間で行動することの多くなった現代家庭は家庭であって家庭でないようなところがいっぱいあるのです。夫婦の人間関係、親子の人間関係はどうなっているのか、夫婦で巡った八十八ヵ所では様々なことを夫婦で話し合いました。時にはお寺参りだのに昼飯や迷い道など些細なことで喧嘩もしました。でも端々で家族を見つけられたように思います。

 ④他人の優しさや自然の豊かさを見つけることが出来た

 いやあ驚きました。四国がこんなに広いとは。行く先々で接待や優しい人の心にも沢山接しました。また春夏秋冬の優しくも厳しい季節を感ずることが出来ました。特に自然の豊かさには関心しきりです。冬は暖房、夏は冷房という暑さも寒さも知らぬまま、また季節の移ろいも知自然回帰はしましたが、ものの比ではありませんでした。

 「生かされて生きる」という言葉を感じたのも八十八ヵ所だったように思うのです。

 これから高野山参りとお礼参りが続くものと思われますが、今までの旅のスタイルを崩すことなくあくまでもマイペースで祷りの旅を続けたいと思っています。渡辺さんありがとう。

  「遍路って 言われてハッと 気がついた 自分を探す 旅だったんだ」

  「名もなきに 等しき俺の ブログにも 友はメールで エールを送る」

  「窓越しに 達筆和尚の 筆使い 眺めて感心 あの日あの時」

  「何が出来 何が出来るか 何し

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shin-1さんの日記

○四国八十八ヵ所遍路参りついに完結②

 今治には平成の合併によって四国八十八ヵ所のお寺が玉川の仙遊寺なども加わって記憶だと4つになりました。今回のお参りは南光坊と延命寺です。警察官である息子に駐在所で教えてもらったとおりの道を進んで最初は南光坊へ向かいました。この辺りは息子が警察官として第一線に配属された時官舎を探してうろうろした別宮という場所なので目印となる建物や周辺の町並みを覚えていましたし、一昨日はゴールデンウィーク真っ只中なのに意外と車の混雑もなくスムースに行けました。

 納経所で納経帳と掛け軸に達筆な寺独特の梵字を書いてもらい、ドライヤーで乾かしながら行く人来る人の話を聞きました。

観光バスで先達を務める人でしょうか、納経帳を50冊余り風呂敷に包んみ汗だくでやって来ました。窓口には団体専用があって、私たちのような個人参りとは区別していて大助かりです。お寺さんの中にはたった一人で納経帳を書いている所もあって、かなりの時間待たされたことも何度かありました。でもそれももう懐かしい思い出なのです。私たちは最初納経帳だけから始めたものですから、掛け軸はまだ何か寺が残っています。この続きは一度高野山にお参りをしてから、お礼参りで完成しようと考えています。

 さていよいよラストの延命寺です。最後くらいは間違わないように行こうとカーナビに電話番号で入力し、10分足らず向こうのゴールを目指してさっそうと向かいました。「最後のお寺が延命なんていい名前だね」と二人で話しながら進みましたが、健康で長生きをしたい気持ちありありのようです。


 同行二人の旅ならぬ妻と孫と弘法大師様を加えた同行四人で四国八十八ヵ所のごーるに到着しました。遍路参りを思いついて10年余り、この間、仕事、教育長就任、胆嚢手術、怪我入院、えひめ丸事故、母の死、市町村合併、退職、人間牧場開設など、私を巡ることだけでも数えればきりがないほどの出来事があって、まさに激動の時代でした。その度に弘法大師様のご加護でしょうか難関難儀をかいくぐりここまでやって来ました。妻にとっても同行の孫にとっても大きな出来事だったに違いありません。妻は私に、私は妻に、そして孫は両親に感謝の祈りを加えて少し長めの祈りを捧げました。さっきまで気がつかなかった周りの空気が一瞬何か晴れたような別な世界を感じました。これが八十八ヵ所参りの充実感というものなのでしょうか。

 孫はお寺の境内に店を構えているおばさんから風船を貰い、出口でアイスクリームを買ってもらってご満悦でした。

 娘が書店ギャラリーで開かれている母の日のお母さん似顔絵展へ、孫の作品を見学に行って留守なので、時間調整のつもりで、奥道後やマンションの直ぐ近くにある道後の裏の松山神社と常信寺を散歩ました。

(奥道後の石手川に架かった赤い太鼓橋、周りの緑と映えて美しい景色でした)

(少し高いように感じる藤棚でしたが、日本でも屈指ではないかと思われる長くて立派な藤棚が三重に長く続いていました。道端には早くも野イチゴが沢山赤い実を付けていました)


(葵のご紋のある立派な松山神社の山門です)

(松山神社の直ぐ裏手の道からは松山城がまるで絵に書いたように見えました)

(常信寺の山門近くにある藤棚の藤も見事でした。桜の季節に訪れて以来ですが、若葉の季節や藤の花に彩られた境内もしっとりと侘び寂びを感じて美しいものです。間もなくアヤメが咲くでしょうが、近くに来たときまた訪ねたいものです)

 妻は始めて見る奥道後の藤、松山神社の神社の格式、常信寺の境内などに目を白黒させて驚き、孫は知らず知らずのうちに凄い運動量をこなしたようでした。

  「幾度なく 行っては帰る 遍路道 やっと完結 思えば長し」

  「孫連れて 同行四人の 寺参り 季節巡りて 藤の花咲く」

  「納経の 一つ一つに 思い出が 記憶捲りて 二人懐かし」

  「狭いけど 広いと感じた 四国路を 次は何時から お礼参りに」

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shin-1さんの日記

○四国八十八ヵ所遍路参りついに完結①

 道中距離1400キロともいわれる四国八十八ヵ所遍路の旅を私たち夫婦が車でお参りすることを思いつき、旅を始めてもう10年にもなります。最初は1日で5つや8つのお寺を参ることもあって頭の中では逆算が働き、楽勝かと思われたお参りでしたが、出張のついで参りという金も時間もかけない方法を選択したため、結局は10年間もかかってしまいました。「これでは何のためのお参りか分らない」と妻にはブツブツ言われ、他の人がお寺ごとに般若心経を唱えて敬虔な祈りを捧げている姿を横目で見ながら、般若心経を覚えるでもなくとにかく私たちのスタンプラリーは終了したのです。普通1番から順番におまいりするか逆打ちかいずれかでしょうが、私たちのお参りは陽気なもので、納経帳の空いた場所のお寺を探してはお参りするピックアップ作戦なので、同じような無駄とも思えるコースを何度も走りました。多分2000キロ以上を走っているのではないかと思われます。その間車も2台目となり、ああでもないこうでもないと車内で道順でもめるもめごとを解消するため、カーナビという優れたハイメカを高いお金を出して搭載したお陰で道に迷うこともなくスムースな走りが出来ました。

 昨日は残っていた今治の2カ寺を参ろうと急遽思いつき出かけました。お寺さんには悪いのですが今回も二つのことのついで参りなのです。一つはこのお寺さんの直ぐ近くに三男の勤める駐在所があるのです。一昨日赴任以来始めて帰郷した息子と話していると、「そのお寺は二つとも近所だ」と偶然にも残ったお寺のことを離してくれました。これも御仏のお導きに違いないと妻と話したものです。赴任以来1ヶ月以上が経ったので暮らしぶりを確かめるということを考えました。二つ目は娘のお産が近づきゴールデンウイークに何処へも出かけられない孫を戸外へ連れて行ってやりたいという思惑もあったのです。

 朝7時半に家を出て松山市道後に住む娘の所へ孫を迎えに行きました。昨晩予定を伝えていたので孫はウキウキ顔で待っていました。チャイルドシートに乗せてさあ出発です。リュックにお菓子や飲み物を入れてもらって山道や海沿いの道を陽気にのんびり、歌などもでて孫も私たちもご機嫌でした。1時間弱で息子の駐在所へ到着です。息子が制服を着て勤務している姿は初めてなので全ての小道具を身に付けて玄関先に立っているその凛々しい姿にびっくりしました。この日は勤務の日なので暮らしている官舎内には入らず、交番内の隅で少しの談笑しただけで引き上げることにしました。孫は日ごろ普段着の三男しか見ていないので、重装備のお巡りさんにびっくりし、中々近寄ろうとしませんでした。叔父である三男に帽子を被せてもらい幾分か緊張がほぐれたようでした。

 それにしても三男は警察という天職を選び、縦社会の厳しい中でよく頑張っていると思いました。末っ子で甘えん坊だった三男の姿に多少の不安と安堵を感じながら、直ぐ側の登山道を登って波方の山城展望台へ向かいました。この場所はまちづくりの仕事で2度ほどお邪魔していますが、この日はゴールデンウイークなのに訪れる人もなく、私たちだけが絶好のロケーションを長閑に独り占めしてしまいました。駐車場に車を止め木漏れ日の中をゆっくり散策です。入り口にある車止めの愛くるしい小鳥の彫刻に孫はほおを摺り寄せて愛嬌を振りまいていました。



 山城を再現するような展望台はまるでお城で中からは360度の素晴らしい眺望が開け、特にしまなみ海道に架かる来島瀬戸の大橋や今治、波方、菊間、竹原始め越智の島嶼部が手に取るように見えました。

 やんちゃ盛りの孫は盛んに飛び交う蜂やチョウが気になるらしく、帽子で盛んに追いかけたり帽子で捕まえようと走り回り、記念写真などどっちでもよいような雰囲気でした。この施設も旧波方町がその威信をかけて整備したのでしょうが、合併という社会の波に翻弄されているようにも思えました。しかしきちんと管理が行われている姿はさすがでした。

 さてここから先はカーナビを使わず息子の警察官に教わった通りの道順に従って、次の目的地である今治市内の南向坊へと車を走らせました。

  「この人が 俺の息子か? 見間違う ほどに凛々しく 交番前に」

  「風の音 小鳥さえずり 聞きながら 長閑な遠望 孫と楽しむ」

  「ゴールデン ウイークなのに ひっそりと 山城訪ねる 人もまばらで」

  「一週間 会わぬ相棒 何となく 成長したよな 姿目細め」 




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shin-1さんの日記

○ゴールデンウィーク

 若い頃はときめいたゴールデンウィークも、さすがこの歳になると冷めたもので、「出来るだけ人ごみを避けて家で読書や昼寝三昧が一番」と決め込んでいる自分を発見し、「ああこんな消極的な人間になってしまった」と悔いている今日この頃です。子どももそれぞれ独立し、「ゴールデンウィークは何処へ行く?」とせがむ人間もなく、妻も「お休みぐらいは家でゆっくり」と言うものですからついつい家で過ごすのです。でも家って本当にリラックスできますね。まず普段着がいいです。何処かへ出かける場合は背広にせよカジュアルにせよ、「人目」を気にしなければなりません。最近は車で出かけるものですから「人目」を意識しないで出かけることが多くなりました。温泉などに行くとまあパジャマやネグリジェ姿のまま平気で人前を歩くオバタリアンやオジタリアン(こんな言葉あったっけ)をよく見かけます。病院で病院着ではなくパジャマ姿でウロウロする人と同じような光景なのです。私たちの年齢ならまだ良いのですが、若いお嬢さんが化粧もしないままパジャマ姿でコンビニに買い物にやって来る姿は何となくいただけないもので、服装の乱れは日本中に広まっているようです。

 家は時間を気にしないでアバウトに過ごせることがまた自由でいいです。これも私のような35年も時間に追われて過ごして来た人間にとっては有難いことなのですが、家庭にいても時計が気になって仕方がないのも一種の職業病かも知れません。腕時計を外したつもりが携帯電話には時計機能がついていて、何となく気になるのです。「もうそろそろ昼だ」とか、「あっ3時だ、お茶」、「もうこんな時間なのか」なんて始末です。生活のリズムとはこんなものなので、自由だからといって朝から晩まで寝ている訳でもなく、人間は太陽の動きによって行動するように出来ているようです。

 私たちのような古い人間は特に時間を気にします。「5分前行動」などを徹底的に訓練されているからです。したがって時間を守らないルーズな現代の若者にはイライラします。また私の元へは視察者がたくさんやって来ますが、時間を守らず遅れてくるような視察者には興ざめって感じです。「交通渋滞に巻き込まれたので遅れます」などの事前通報もなしに遅れる人には、腹立たしく思うことだって、邪険に扱うことだってあるのです。時間の約束はお互いの信頼関係で成り立っています。たとえ口約束でも約束は約束ですからしっかりと守らなければなりません。

 ただ家で過ごす自由な時間で一番困るのは電話が多いということです。私への連絡手段は家の電話と携帯電話、それにインターネットですが、インターネットは開かなければ対応しなくて済みますが、携帯と家の電話は相手たる私の自由にはなりませんから、じゃんじゃん掛ってきます。「車の運転中なので」なんて悪ふざけも出来ないので取らざるをえないのです。

 ゴールデンウィークの昨日までの2日間は人間牧場の小さな小屋の建設作業で過ごしましたので、家への電話からは開放されましたが、帰宅後庭の草取りをやっている最中にポケットの携帯は鳴るわ、家の中から「おとうさーん電話」と妻の呼ぶわ、休みくらいは電話を控える配慮はないものでしょうか。

 娘のお産が近づきました。予定だと5月中旬なのですが、流産や早産の可能性ありと診断されているため、妻も気が気ではありません。電話の度に「もしや」の緊張感が走るそうです。私はそれ程ではなくむしろ相棒たる孫の声が遠のいているので何となく気がかりです。今日はお産間近で何処へも外出できない孫を誘って少し外出しようと考えています。

  「ゴロゴロと 行く当てもなく 過ごす日々 ゴールデンだと 人は言うけど」

  「おパジャマで 買い物してる 娘さん 世の中堕落 人目気にせず」

  「電話です 妻に呼ばれて 電話出る 電話の向こう 行楽地から」

  「何してる 俺もゴロゴロ 落ち着かず 電話してくる 情けなき友」


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shin-1さんの日記

○小さな小屋の横に小さな小屋完成

 人間牧場の小さな小屋の横に更に小さな小屋が完成しました。今年の春、人間牧場に物置小屋が欲しくなり、息子と図って作戦を開始しました。畳3畳敷きの小さな小屋ですが急峻な地形でこれといった場所もなく苦心しましたが、水平線の家とツリーハウスの中間地点にコンクリートで造成して場所を確保しました。元々の発想は大洲の亀本さんから貰った耕耘機が半年以上も経った今もシートを被せて野ざらし状態なので何とかしたいと思っていましたし、人間牧場も道具類が増えて置き場に困っていたので思いついたのです。ところが小さな小屋が出来てしまうと、倉庫にしておくのは何となく勿体ないような気がして、思い切ってその横におだれをつけて耕運機や薪用の倉庫を作ろうと計画は大きくなり、予算の都合でそんなに資金がないことから、何かと器用な親父に相談し、手伝ってくれるよう頼んだのです。木材は義兄からトラックを借りて西村ジョイまで特売品を買いに行き、コンクリート工事は仕方がないので地元の土木業者に頼みました。親父は90歳になるのに何かと元気で早速仕事に取り掛かり、3日ほどで資材や道具類を調達し、土木工事の遅れを「まだかまだか」とせかすのです。一昨日コンクリートの練り込みも終り、昨日はいよいよ建て前です。人間牧場も最初は自分の力でと軽い気持ちで始めた計画でしたが、結局は設計士の息子の指図に従って地元の大工さんに頼んだものですから、自分で汗をかいたのは小さな小屋の横の小さな小屋のみとなりました。


 昨日は私の弟も手伝いにやって来て、3人で工事をしました。何せ耳が遠く足もよたよたの親父ですが気分はだけは昔のまま元気で、もどかしい限りです。柱を立てて屋根に長さ1間の波型スレートを乗せるのは重いため一苦労で、よくぞ弟が助っ人に来てくれたものと二人で感謝しました。私たちの仕事は行き当たりばったりで、釘がないため買いに町まで下り、柱がゆがんでも一向構わず仕事をしました。焼き杉材親類の製材所で買い求めたものも不足がちで、結局は4時過ぎに一日目の仕事を断念しました。

 二日目の今日は朝ご飯もそこそこに親父と二人、義兄から借りたトラックで人間牧場へ7時半に到着して仕事に掛りました。昨日やり残した外壁張りなどを順調よくこなしていましたが、途中耕運機が入るかどうか耕耘機の巾を計ってびっくり仰天、いり口が狭いということが判明しました。それから折角閑静に近づいた入り口付近の柱を切って移動させとんでもない工事となってしまいました。

 このことで親子の関係が少し険悪になりそうになりましたが、そこは親子、しっかりと手助けしながら昼食を抜いた作業で午後2時頃無事完成したのです。今はヤッホーといった充実感でいっぱいだし、親父に感謝しています。


 

 親父はこれまでその腕前の器用さから家の中でも倉庫を建てたり倉庫を改造して海の資料館海舟館や煙会所などを自作してきました。90歳という年齢から考えるとこれが最後の建て前だと思われます。その意味を込めて「俺は写真は嫌だ」と渋るけど座った写真と立った写真2枚を撮ってやりました。もし私だけだったらこんな立派な仕事は出来ていないし、改めて親の偉大さに感心するのです。私も62歳、もう少し早く親父に弟子入りして技術を教えてもらっていたらとつくづく後悔するのですが、今からでは遅すぎるようです。

 この家の扉は親父がこれから作るのだそうです。耕耘機が入り道具類が入るのもそんなに遠くないことでしょう。

 空っぽになった小さな小屋は人間牧場の諸活動に使うつもりです。乞うご期待。

  「九十の 親父に使われ 小屋建てる 幾つになっても 甲斐性ないこと」

  「目も遠く 足もよろよろ しているが 頭はさえて 親父元気だ」

  「写真など 撮るなといって 背伸びする 大分縮んだ 親父の背丈」

  「大工より 技術は上と 大工褒め 親父の顔が 満面笑みに」  


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