shin-1さんの日記

○讃岐路を旅する

 昨日は合併して出来た香川県三豊市の保育研修会に招かれました。香川県西部に位置する観音寺が途中にあるものですから久しぶりにぶらりカメラを提げて周辺讃岐路を散策しました。長閑な初夏の観音寺周辺は昼下がりということもあって観光客もまばらでしたが、小高い山の上から銭形公園を見下ろす風景は何時見ても絶景で、改めて人間のなせる知恵と技に感心しました。この古銭を模して造った砂絵は藩侯巡視の折藩侯を慰めようと地元の人が造ったそうですが、百数十年を越えて今でも年に一回市民ボランティアによる砂ざらえで大切に原型を留めているというから大したものです。これぞ文化を重んじる日本の心だと思うのです。

(燧灘の青と松の緑が見事にマッチしていました)

(周囲300メートル余り、上下と左右の長さが微妙に違うものの、遠望では殆ど正確な円形に見える砂絵を、よくもここまで仕上げてものです)

 この山を下った所の道上に値上りの松がありました。松の幹はそんなに大きくはありませんが、まるでタコが足を広げた、いやひょっとしたらタラバガニが足を広げたような格好の奇妙な姿は、凄い年月をかけて根のマサ土が風雨で流されて出来たのでしょうが枯れもせずひっそりと生きていて、訪れる人も少ないのかゴミや落ち葉が散乱していました。運良く車の中にゴミ袋を持っていたので車まで取りに下りて再び戻り、観光カリスマ百選としてみて見ぬふりも出来ないので、ひとり清掃活動をしました。遍路の姿をした若いカップルが登ってきましたが、清掃する私をまるで邪魔者ように無視して携帯カメラでキャーキャーいいながら柵の中に入って値上がり部分に登り写真を撮っていたので、「ここは入ってはいけません。木にも登らないで下さい」と厳重注意をしてやりました。遍路姿を何と心得ての巡拝なのでしょう。日本人の旅の心を知らない若い不届き者もいるものです。

 折角なので、二つのお寺に参拝しました。このお寺は珍しいお寺で、山門をくぐると同じ境内に2つの札所があるのです。

 石段から見上げた場所に彫刻を施し扇垂木を配した立派な鐘楼があり思わず見とれてしまいました。

 また境内には二つのお寺の本堂を結ぶような場所に根元のそれは立派な大きな楠木がでんと座っていました。何の説明版も見当たりませんでしたが、これも銘木に数えられる曰く因縁のありそうな大樹とお見受けしました。八十八ヵ所参拝の途中にこの木にもめぐり会っているはずなのに、思い出せないのですから私の記憶もいい加減なもののようです。


 さてすっかり道草をしてしまいましたが、研修会の会場となっている旧仁尾町文化会館を訪ねました。会場では役員さんが大勢玄関まで出迎えに出ていただいていて、関係者180人は既に着席して開会を待っておられました。使用前・使用後ではありませんが、この写真が講演会の始まる前のリラックスした会場風景です。

 

 下の写真は1時間半話した後の写真です。参加者は講演などを聞きなれているのでしょう。反応がとてもよくってビンビン跳ね返って、最近では一番話しやすい研修会だったようです。それぞれの心にどう響いたか知る由もありませんが、まあよかったのではないでしょうか。私は再び元来た道を引き返しわが町わが家を目指してひたすら走りました。

  「讃岐路も 高速道路で 近くなり 昼出て所用 夕方帰宅」

  「寺参り 話す雑談 国なまり ちゅうちゅう言うは 高知弁だな」  
  「反応が 良くって悦入り 喋り過ぎ 時間オーバー これはしまった」

  「根上がりの 松に登って 写真撮る 偽善者ぶって 注意促す」 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○夢工房での語らい


 役所に勤める人は、意外と異業種交流の場に姿を現しません。多分公僕としての守秘義務やあらぬ噂に巻き込まれたくないという気持ちが先に立つようです。でも同業者といわれる役所の人たちだけと々傷をなめあうような会議や交流をしても、余り役に立たないものであることをもっと知るべきでしょう。10数年前県庁に勤める若手職員と市町村に勤める若手職員(果たして若かったかどうかは疑問ですが、少なくとも心の若さは持っていました)で県と市町村の垣根を越えた交流のための「夢工房」という研究会を立ち上げました。当時は県と市町村の関係は縦社会で、県は市町村を下や指導対象として見ていました。当然市町村も県を上や補助金を貰える対象としてすり寄る態度がありありでした。そんな中県民や市町村民に目線を合せたいい仕事をしようと、役所おしでありながら異業種交流とも取れる集団をつくりました。集団と行っても別に会長などの役員がいる訳でもなくこの指とまで的な性格で、2ヶ月に1回程度の集会も県内にいる著名人を呼んできて卓話を聞き、それを肴に飲むといった単純なものでしたし、今もその方法に変りはありません。昨晩も四十雀という店のご主人には叱られますがそんなに立派でないJR駅前裏通りにある縄暖簾のかかる飲み屋で会合を持ちました。昨晩の卓話者は中央省庁から県庁に出向して来られている局長さんをお招きしました。私は昇任校長・教頭研修会の後の交換会に出席していて、残念ながらその話の殆どを聞き逃してしまい返す返すも残念です。当時は若かった会員も頭に雪化粧し、早い人は私を筆頭に定年を迎える人もいたり、県庁組みは課長や課長補佐、係長を拝命し、油の乗った面々に成長しているのです。時の流れの早さを感じながらも職場のこと、家庭のことなど色々な積もる話をしました。中でも課長や課長補佐といった職責の重大さを改めて感じている話はかなりなストレスとして重くのしかかっているように感じました。


 昨日は管理職についての話に花が咲きました。職場で働く人間にとって課長や課長補佐になりたいという思いは誰しも持つ当然の願望です。傍から見ている上司は威張れるし命令も出来て何となく楽をしているようにさえ見えます。「あんなんだったら私も・・・・」と思ってその歳になって管理職を拝命してみると、肉体的な労働はないもののストレスの多い知的労働が頭を悩ませることに気付くのです。ましてや職員の不祥事など自分がやってもいない不始末の責任を被らなければならないのですから、これほど割に合わない話はないのです。私はそれを夕日に例えて話をしました。ご存知水平線に沈む夕日は光の到達する時間を科学的に考えると私たちが見ている夕日は既に沈んでいる。明らかに見えている夕日は錯覚の世界です。自分の定年退職年齢時を頂点としてダブらせを羨望の眼差しで見ていた格好いい課長や課長補佐の殆どは、登りきっていないのに既に見えない部分では下り坂になっているのだということを知らなければならないのです。

 昨日は偶然にも昇任校長や教頭との出会いや夢工房がダブリ、人間は何のために生き、何をするのか随分考えさせられた一日でした。その話が話題になる度に「若松さんはいい生き方をして羨ましい」と言われました。そうです。私には辞めてからもやることが幾らでもあって、むしろ現役時代より忙しいのではないかと妻が言うほど毎日背広を着て日本全国へ行脚に出かけています。友人とのそんなやり取りの中で、「いずれは私もくたばるだろうが、その日までニコニコピンピン生きよう」と思いました。生涯現役の気概で、後に続く友人たちのモデルになるような生き方をするには、まだまだ学びが足りません。ワンランクアップを目指し更に進化したいと思って会場を後に深夜の道を妻の待つわが家へ帰って来ました。

  「夢紡ぐ そんな想いの 集団で 人生色々 学び今日まで」

  「もう一年 すればあんたの 仲間入り どこか寂しい 定年待つ日々」

  「見た目ほど 楽な仕事じゃ ありませぬ 伊達に給料 高くはないぞ」

  「我々の あんたは見本 頑張って 先を走るが どうぞお先に」 


[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○昇任は責任

 昨日は愛媛県内で今年誕生した昇任校長先生と昇任教頭先生の研修会が県庁であり、お話を頼まれて出かけました。「昇任」という言葉がピッタリの参加した40代後半の教頭先生と50代前半の校長先生からは、打てば響く太鼓のような卒啄(卵が孵化する時内と外でお互いが卵を割ろうとつつき合う様)にも似た、何かしら初々しさややる気が感じられました。しかし一方でこれから長い教員生活の締めくくりを管理職として責任を全うしなければならないであろう事の重大さを思うと少し哀れにも思えてきました。「昇任は責任」を伴うのですから・・・・。

(県庁第2別館6階大会議室での研修風景、私の話が終わった直後のスナップです)

 私の話は、①時代の変化を読む、②子どもたちは今、③地域の教育力=学+社+家=融合、④教師に一言(日本人や教師の常識は世界や社会の非常識-世界地図の教え)、⑤教師と教頭に一言というストーリーのはずでした。しかし予定された1時間10分の短さでは、いくらスピードを上げても間に合わず①と②が中心で③はスピードアップ、④などはさわりもせず⑤で締めくくってしまい、聞く人を無視したシナリオの不味さを痛感しながら壇上を下がりました。まあその話の続きは私のブログにアクセスしたやる気のある方のみの個人授業となってしまいそうで、アクセスしなかった方々には何の処方箋もないままにおさらばしそうです。早速松山市の沖に浮かぶ中島に赴任しているA教頭先生から昨晩のうちにメールが入っていました。私は夕べ11時過ぎまで仲間と松山市内での激論酒宴に加わっていて昨晩はメールを見落としていました。

 ⑤の昇任校長と教頭に一言だけ書いておきます。

 ①責任を取る。

 校長や教頭に昇進して嬉しい反面、責任の重さを痛感していることと思いますが、昇任して管理職になることは責任を取らなければならないことを意味します。校長は学校の経営や起こるであろう様々な事象、特に今の時代何が起こるか分らない部下教員の不始末までも責任を負わなければならないのです。日本全国では数えればきりがないほど学校をめぐる問題が起こっており、今の時代切腹などありえませんが、その度に死を持ってその責任から逃避する校長もいるほどの悩みにさいなまれるのです。校長という役職は何かあった時責任を取って「辞める」という覚悟の辞令かも知れません。私も小さな町の課長や教育長という役職を10年余りやりましたが、小さな不祥事はその都度小さな責任を取ってきました。幸い辞めなければならないような事態には至りませんでしたが、責任の重さは相当なプレッシャーでした。

 ②説明責任を果たす。

 校長と教頭に一任された学校経営の向こうには子どもと親と地域があります。子どもはそんなに文句を言いませんが、親と地域は少しでも理不尽と思われることがあると、必ず反抗や説明を求めます。昔のように子どもは先生に任せる時代ではなく、一時預かり所的な甘い考えの、しかも高学歴で理論武装した見勝手な親は一筋縄ではゆかないものです。こちらの弱みには必ず付け込んだり大きな声を武器にします。ましてやマスコミを味方に引き入れるような事態になるともうそれはパニック状態になります。事の推移をしっかり見て、こちらに非があれば謝らなければならないし、教育委員会への報告や指示も早めに手を打つべきでしょう。情報公開の時代であることを肝に銘じ、穏便にとかもみ消すといったことだけは慎むべきです。

 ③数値目標を掲げそれを達成する

 教育は行政や民間のように成果が目に見えにくくプロセス的な意味合いを持っています。しかしそれは過去のことであって、今は学校評議委員会制度の導入など、抽象的なスローガン倒れの学校経営でお茶を濁すことはできないのです。教育長をやった経験からいえば各学校の計画は抽象的過ぎて何をどうしてどうなるといった表現が少ないようです。数値目標を掲げ、教師も子どもも親や地域から何を目標にどんな事をしてどうなったか公表できるようにしなければなりません。私は現在3つの学校の評議員を依頼されてしていますが、年度末にその成果や出来なかった事を反省評価することこそ、次年度につながるのです。校長は多分普通だと3年間はその学校に留まります。3年の中期計画を立てて1年毎にステップアップすることが肝要だと思うのです。

 ④上を見ず下を見る

 校長は得てして自分の成果のために教育委員会や教育事務所を視線の向こうに見ようとします。しかし子どもや親や地域を無視して上を見る姿が子どもや親や地域に感じられるとそこには大きな意識的な隔たりが生じるものです。学校教育の基本は子どもですから、絶えず意識の対立軸の向こうは子どもと親である事をしっかりと肝に銘じなければなりません。

 ⑤危機管理

 このことは多分、県や市町村の教育委員会や教育事務所からマニュアルが提示されているので触れませんが、意識の底に学校内は勿論のこと通学途中や地域内も「子どもの安全」領域であることを考えて行動して欲しいものです。

 ⑥進化

 人間は夢や目標を持つとサムシング・グレート(目に見えない大自然の偉大な力)が働き、遺伝子のポジティブスイッチ(自ら進んでやろうとする積極的な力)がオンに入ります。逆に日送り日和見な優柔不断だとネガティブスイッチ(否定的・消極的な力)がオンに入るのです。私はこれまで「夢はドリームではなくターゲットである」と考えて行動してきました。一日3枚のハガキを20年続けてきたことも、毎朝3時間砂浜の掃除を12年間続けたことも、殆ど毎日ブログを書くこともポジティブスイッチをオンにしたからこそ進化したのです。

(参加した校長52名、教頭55名、総勢107名の中で、懇親交流会にくじ引きで私の横の席w引き当てた川之江南中学校のK教頭先生と縁の不思議を話しながらウーロン茶を飲みました。ハガキ道の半田さんを広島向島に訪ねたほどの活動家です。またお会いましょう)

 ⑦校長と教頭のコンビ

 双海町翠小学校の鹿島校長と山田教頭の3年間を話しました。(鹿島校長は管外に異動しました。)

  「校長に なって嬉や 高潮す 紅潮顔が 好調語る」

  「教頭の 中から校長 いずれなる 今は修行だ 花を持たせて」

  「昇任は 責任あると いうことを 肝に銘じて 頑張れエール」

  「やる気ある 校長早くも メール来る ポジティブスイッチ オンに入った」

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○自然回帰志向

 日本の人口は減少傾向にあって、私が死んでいないであろう50年後には1億人を割り9800万人になると予測されています。地球上では日本のように人口減少傾向にある国もあれば人口爆発といわれる増加傾向の国もあって、全体的には増加の一途をたどって、近い将来食糧問題が深刻との予測も出ています。都市と地方の人口問題では抱える悩みが違います。地方の人口減少は加速され、北海道などでは今でさえ市町村の9割以上が1万人以下の小さな自治体であり、たとえ合併をして一時的に人口が増えたような錯覚を覚えても、端々には限界集落というのが幾つもあって、自治省の推計によるとこれから10年間で日本全国では1600もの集落が消えるかも知れないと予測されているのです。私たちが子どもの頃から始まった過疎と過密という現象は過疎対策法などの効果も出ないまま現在も緩やかに、時には激しく続いているのです。

 しかしこうした地方が長年抱えてきた過疎化や高齢化は、一見過密と思われる都会にも知らず知らずのうちに忍び寄っていたのです。都市は今数多くの高齢者と単身世帯という両極端が暮らす悩み多い地域なのです。高齢者や若者を合算した人口を高齢者の数で割るとその地域の高齢化率が出てきます。若者の数が多い都会では高齢化率は一見低いように見えますが、これは数字のまやかしで、ニュータウンなどともてはやされた尊工住宅団地などでは深刻な高齢化が進みゴーストタウンになるのではないかと危惧する人もいるほどです。地方と都市という質の違う悩みを持った両極が今後均衡ある地域を形成してゆくには、交流がキーワードになることは間違いのないことだと思うのです。

 最近そうした動きが活発になってきました。人口減少に悩む地方では団塊の世代のリタイアに目を付けて「帰ってこいよ」と盛んにラブコールを送っているのです。中には農地農家付きでという間合い誘惑もあって、団塊の世代の人の心情をくすぐっています。団塊の世代の人は元をたどれば田舎出身者です。集団就職列車に乗せられて暗くて貧しい貧乏から開放されたい一心でお上りの人となりました。多分心の奥底にはふるさと回帰のような心がくすぶっていて、「いつか俺も出世をして郷土に錦を飾りたい」という思いで頑張ってきたに違いないのです。でも40年という時の流れは地方も都市も一変させました。ましてや都会で知り合った相手たる妻は都会の便利な暮らしにどっぷり漬かり、夫のそうした心の底に流れる「ふるさと回帰志向」など考えもせず、「ふるさとへ帰り人生を終えたい」言い出そうものなら「どうぞお一人で」となってしまうのです。折りしも年金分割という新たな印籠を貰った妻の鼻息は荒く、結局は終の棲家で一人寂しく都会での満ち足らない暮らしをしながら一生を終わるのです。

 定年→帰農は果たして地方が言ってるほど魅力的なのか、地方の側から言わせればそんなに生やさしいものではないのです。田舎には住むに必要な一定のルールのようなものがあってライフラインといわれる水も道も、コミュニティ活動も全て役割分担しながら汗をかかなければなりません。都会では自分が汗をかかなくてもお金で全て解決していたのに、汗などかいたこともない人にとってそれは封建的な古い因習やしがらみだと思うに違いないのです。まずここでボタンを掛け違うと、「こんなはずではなかった」という信頼関係が損なわれてしまうのです。都会の人は何でも権利だと主張します。田舎は何でも義務だと言い張ります。権利と義務、たった4文字の間に入った「と」がとてつもなく深い意味を持っているのです。

 最近はそういう時代を反映してか、私の元へは沢山の自然回帰志向の人が相談にやって来ます。人間牧場を見てその構想や施設の数々に感動するのですが、これを日々の暮しや今後の人生にダブらせて考えると大変な誤解を生じるのです。田舎暮らしの大原則は「車に乗れて夫婦が長生き、地域とともに」が大前提なのです。景色の良い所は必ず不便です。公共交通機関の発達していない田舎は車がないと身動きがとれません。夫婦のどちらかがなくなれば完全にリタイア組みは独居老人です。最後は老人ホームなどでお世話にならなければならないのです。地域も金持で他所から来た人ですから最初は優しくしてくれますが、毎日優しくする訳にもいきませんから普通の人になって役割を押し付けるのです。

 まあたった一度の人生ですから自分がどう生きたいのか、生活設計を立ててしっかりと覚悟を決め生きることでしょう。

 先日やって来た夫婦にきついそんな話をしてあげました。するとすっかりメル友となってあれやこれやの交流が始まりました。最近はわが家へ夫婦でやって来てすっかり親戚気取りの都会人がいます。高い航空券を夫婦で買ってこんな田舎へ何をしに?」と妻は不思議がりますが、まあこれも交流でしょう。

  「住みたいと 田舎志向の 人ありて 冷遇するも またやって来る」

  「田舎住み たまに東京 いい気分 こんな贅沢 俺しかできぬ」

  「パソコンが 田舎暮しに 魅力増す 情報あれば こっちのもんだ」

  「鳥かごで 一生終わる 馬鹿もいる 俺など自由 大空大地」 


[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○夕やけこやけラインを走る

 私が「夕焼けプラットホームコンサート」を下灘駅でやり、夕日のまちづくりに確かな手ごたえを感じ始めて間もなく、二つの事業を手掛けました。一つは国道の愛称を公募する事業です。その事業を始めるに当たって私は、国道を管理する愛媛県の出先機関である当時の伊予土木を訪ねました。「国道に愛称をつけたい」という私の申し出に頭のお堅いお役所は「本庁に聞いてみないと何とも」と右往左往し、結論は「国道には番号があるので愛称などもっての外」という「NO]という結論でした。開き直った私はことごとく金を出さず口を出す県庁に対し「勝手にやるから見て見ぬふりをしてくれ」と決裂状態で帰えって来ました。そして当時行政の事業としては珍しい賞金まで出してこの事業を公募し始めたのです。新聞記者の知人に記事を書いてもらい始めたところ、同じ国道を持つ隣町長浜町から「一緒にやらせて欲しい」という申し入れがありました。「まちづくりは隣町戦争」といわれるように「隣に倉が立ったら腹が立つ」ような時代だっただけに、隣町からのすり寄りは何よりも嬉しい出来事でした。しかし二つの行政が手を組むなど、ソフト事業ではやったことがなく、審査員の人選や募集の方法などで余りにも意見が食い違い、前途多難を感じさせました。

 新聞や公募雑誌で紹介されたこの事業はさまざまな形で話題となり、前代未聞と思われる外国からも応募があり、何と応募総数3800件にもなったのです。慌てたのは県と隣町でした。地元でお茶を濁すはずだった審査委員もそれなりの対応をと、県内マスコミの知識人を並べ、地元有志とともに頭を並べ慎重な審査をしました。しかし結果的に内なる人は「サンセットロード」、外なる人は「夕やけこやけライン」という意見が対立する形になってしまったのです。最後は審査委員長を務めた地元紙の部長さんが「この愛称は誰に向けて情報発信したいのか」という一言で決着し、「夕やけこやけライン」が誕生したのです。もとより私は事務局なので表向き口を挟むことはできませんでしたが、今になって秘話を明かせば、「夕やけこやけライン」こそ最高の名称と思い、密かに暗躍しながら委員長に名称を選んだ基本コンセプトまで考えてもらって誘導したのです。今やロードマップにも必ずといってよいほど記載され、ドライバーの間ではすっかり知られるようになった「夕やけこやけライン」の愛称も、静に振り返ると命名当時のことが懐かしく思い出されます。

 一昨日夕方保内町宮内公民館から講演依頼があり夕やけこやけラインを走りました。夜7時半からの会合だったので6時半を挟んでのドライブとなりましたが、右手に広がる海となんの遮りもない水平線に綺麗な夕日が沈んでい行く様は、まさに天体ショーと呼ぶにふさわしい、そして日本一と呼ぶにふさわし見事なものでした。

 それでは少しの間、ブログ画面で夕やけこやけラインの夕日をお楽しみください。

(双海町西海岸満野付近の夕日、この辺りでは国道から海面までが低くて近く、まるで金色の道ができているような錯覚にとらわれます)

(長浜町沖浦を過ぎた場所からは葦竹やネレゲヤキの樹間から南国風のムードで夕日が楽しめます)

(少しデジカメをアップにして狙ってみました。)

(長浜町須沢付近の夕日です)

(と大洲市長浜町出海辺りからとらえた写真です。何組ものカップルがガードレールに腰かけて夕日を見ながら恋を語っていました)

(八幡浜市保内町と大洲市長浜町の境辺りからみた夕日です。)

(この日は残念ながら最後の夕日は、夕やけこやけラインの終点ゴゼトンネルに入ったたため、これが見納めの夕日でした。)

 伊予市双海町高野川から始まる夕やけこやけラインは双海町分16キロと長浜町分に加え保内町のゴゼトンネルまで約40キロ余り続いています。何の特長もない変哲な一直線の道ですが、それでも海から吹き上げる潮風が満開を迎えたみかんの花の香りを漂わせ、加えて美しい夕日と穏やかな海はやはりとっても魅力的です。「夕やけこやけライン」の愛称はこれからも長く人々の心に残るロマンチックな道であって欲しいと願っています。

 宮内公民館の集会を終え再び暗闇の国道378号を少しスピードを上げ気味でわが家へ急ぎました。往路とは違い暗闇の海は車のヘッドライトの光で何にも見えず、先を走る車の赤いテールライトが鈍く光っていました。明日も天気かも・・・・。

  「この道に 愛称つけた 馬鹿がいる 周囲反対 今はすっかり」

  「まじまじと 夕日眺めて 走らせる 日本一だと 納得しつつも」

  「金色の 道の向こうに 夕日あり そのまた向こう どこの国かな」

  「もう少し 遅れて生まれて いたならば 恋の一つも 語っていたかも」


[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○ワンポイント

 サッカーにお株を奪われ、最近野球の人気が急落しています。しかもその野球でさえ松井やイチローのアメリカでの活躍が話題になって、日本でいれば6球団の一人でそんなに話題にならないのに、郷土宇和島出身の岩村だって、日本にいるときよりはるかに知名度が上がっているのですから情報とは怖いものです。特に近所の話は近いのに私の耳には中々届かずに、海の向こうの遠い話が一見近い話題として伝わる珍現象にはただただ驚くばかりです。結局はいつの時代も最先端の情報源を持っている人間が勝ち組になっていくのかも知れません。そんな野球選手の中に岡島というリリーフ専門の投手がいます。大きな声ではいえませんが、アンチ巨人の人が随分多くなった社会で、巨人・大鵬・玉子焼きを自認している私なので、野球を知らない私でも岡島や桑田といったかつて巨人でプレーしたことのある選手がアメリカへ渡ったことぐらい知っています。残念ながら桑田は故障してリハビリ中ですが、レッドソックスに入団した岡島は、華やかなスポットライトを浴びる松坂に比べると影は薄いものの、リリーフ投手として存分の活躍をしており、強打者居並ぶアメリカ大リーグの選手を相手に小さな大投手が立ち向かう姿は、表現は悪いのですがまさに真珠湾攻撃や特攻隊のような感じがして声援を送らずにはいられないのです。彼の投法は思い切って投げるため投げた後打者を見ていない、まるで背を向けるような姿になっているのです。よくあんな姿で・・・と感心しています。野球のことをを余り知らない私ですが、彼のような投手のことをワンポイントリリーフというのでしょうか。

 私はワンポイントという言葉をよく使います。ワンポイント付け加えるだけで随分違った効果が出るからです。役場に勤めていた頃広報を10年間担当しましたが無味乾燥的な役所の広報を何とか身近なものとして町民に読んでいただこうとワンポイントカラー印刷を思いつきました。それまで黒一色だった紙面がまるで魔法のように明るくなり好評を博しました。また講演などのその度に金融広報アドバイザーとしての学びを生かして生活設計の大切さをワンポイントレッスンするのです。これも人生いかに生きるかという意味では大切なアドバイスなのでそれなりに受け止められているようです。

 さてこの2~3日前から始めたことがあります。それはワンポイント清掃です。身近な家庭内のちょっと気になる場所を探して掃除をするのです。掃除は妻と決めてはばからない亭主関白な私でしてこれまで家の掃除といえば一年に一度の年末大掃除くらいなものでしたが、妻が務めていることもあり自由人の私としては妻と形勢逆転になったため、少しでも妻の役に立とうと考えたのです。どうです凄い事を考えるでしょう。そんなこと当たり前なのにさすが自由人と自画自賛している自分を褒めてやりたい心境です。

 昨日は書斎の窓ガラスを拭こうと思いました。畳三畳もあるような大きな掃きだし窓のある書斎ですが窓の向こうは庭と裏山が続いて見えます。その窓を拭いたついでに、居間の窓やその周辺をを拭いて掃除をし、レールにぶら下がっているレースカーテンを外して洗濯機にかけ干したのです自分でも信じられない行動にニヤニヤしながら、妻が昼食に帰る時間を待ちました。妻の驚く反応が見たかったのでしょう。お昼になって妻は居間に入るなり驚いた様子で、してやったりの心境でした。妻曰く「まあ綺麗になって、どんな風の吹き回し、雨でも降らなければよいが」と皮肉たっぷり、でも「ありがとう。随分助かるわ」と嬉しい褒め言葉をいただきました。人間褒め言葉に弱い動物で、「褒めれば豚も木に登る」のかも知れません。

 これからも少しずつではありますが、ワンポイントにこだわって、家の清掃を少し心がけたいと思います。

  「心がけ 次第で清掃 はかどって お陰で綺麗な 窓から外を」

  「清潔に 整理整頓 掃除する 四Sですよと 誰かいってた」

  「ちょっとした ワンポイントの 掃除でも 習慣なると 週間だけでも」

  「気がつけば 心のゆとり この頃は 少しできたか 掃除するとは」


[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○5月の夕日

 昨日は雨模様の前日から一転して爽やかな天気に恵まれました。夕方下灘の親類から魚を取りに来るよう連絡が入り妻の車に発泡スチロールの箱を積んで出かけました。親戚までは僅か8キロ、10分足らずの短い距離ですが、信号を左折してシーサイド公園辺りから綺麗な夕日が遮るものも泣く見えました。親類は漁師で度々新鮮な魚をくれるのです。今日は立派なチヌを2匹と甲イカを6パイいただきました。夕日のことが気になっていたものですから帰りに思いきって旧道を走って下灘駅へ立ち寄ってみました。最近はフイルムコミッションなどの紹介もあって下灘駅の人気はうなぎ上りで、最近ではNTTの宣伝にも登場している人気スポットなのです。この日も高校生らしき女性がキャーキャー言いながら携帯電話のカメラで写しながら騒いでいました。若者たちの邪魔をしないようにデジカメで夕日を2~3枚狙ってみました。

(これが下灘駅の駅舎です。駅の改札口からはプラットホームと海しか見えないシンプルな駅です。今は無人駅になって、備え付けの落書き帳のみです。かつては日本一海に近い駅として、フーテンの寅さんもやって来ました)

(改札口を出ると自慢の夕日が迎えてくれます)

(プラットホームの屋根やベンチも夕日を際立たせる立派な道具です)

(これが私の一押しの夕日が沈む風景です。このショットに憧れてこのプラットホームを使ったコンサートを思いつきました。もう20数年前の若き日の出来事です。でも忘れられない光景です。

 この日の夕日も綺麗な夕日で、一人で見るのは勿体ないと思いつつ、「そうだ、この頃だとわが家の裏山からこの夕日が見えるかも知れない」と急に思い立ち、急いで車を走らせました。夕日は天気と時間との勝負です、天気は心配ないとして時間を気にしながらわが家へ帰り裏山に走りました。「運、間に合った」と自分で納得しながら沈み行く夕日を観察しました。

 わが家から見ると夕日の沈む海はV字型の谷の向こうにあり、春から夏にかけてしか夕日が見えませんが、こんな立派な夕日がわがyの裏漢も見えるのです。ちなみにその場所からわが家を見るとまるで箱庭のように庭や長い塀が見えます。夕暮れ時なのであるいは写らないかも知れないと思いつつ撮りましたが何とか写ったようです。


(夕日に映えるわが家と前庭、柿の若葉が美しい季節となりました。煉り塀が長く延びています)

(わが家のお粗末な庭です。妻の愛車おんぼろアルトが写っています。)

 こんな位置から美しい夕日が見えるのですから幸せです。
(丁度夕日が沈んでいる辺りに長い長い鉄橋があって、ここを列車が通る姿はまたおつなもので、夕日と列車のコラボレーションはお気に入りだし、夕日が沈んだ後に通る列車の走る姿は銀河鉄道と呼んでもいいくらいロマンチックです)

 夕日の町でありながら毎日夕日が見える訳でもありませんが、天気がよい日などは時たま思い出したように夕日に出会いたい心境になります。夕日を見た後私の心には何故か温かい風が吹き、何故か元気が出てくるのです。夕日は私のパワーの源だと思うのです。夕日でまちおこしをした私にしてみれば、夕日は地域資源だしお宝なのです。合併によって最近はその色も薄れ何処かに置いていかれたような感じがしないでもありませんが、私はこれからもこの夕日をしっかりと売り歩きたいと思っています。

  「この夕日 沈む右端 3丁目 まるで映画の 題名みたい」

  「下灘の 駅に沈みし 夕日見て 同じ夕日を わが家の裏で」

  「両の手を 合せて祈る 夕日かな 明日は朝日と なりて昇りぬ」

  「風誘う 皐月の夕日 ほのぼのと 余韻残して海の彼方へ」 

 


[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○ふるさとを訪ねる

 私のふるさとは双海町です。といっても今は双海町上灘という現在の場所に住んでいますが、生まれた場所は下灘です。当時は伊予郡下灘村大字串、通称豊田の浜といわれた下浜に生まれました。家は代々漁師でしたから家の裏は直ぐ海で、まだ波返し護岸も漁港も整備されてない砂浜でしたから、家の部屋で寝ていても波が海岸まで打ち寄せる音が枕辺にまで聞こえ、それはもう長閑なものでした。海が時化ると玄関先まで波が押し寄せてくるような錯覚を覚えたものでした。まあよくある海水浴場の「海の家」って感じの風情でしたから、砂浜や海、時には居並ぶ船蔵を遊び場として育ち、砂浜の石ころなどは格好の遊び道具でした。幼年期に数を覚えるのもこの石ころで、石ころを100個拾ってきてひ、ふう、みい、ようと数え、原始的な方法で算数の基礎を築いたのですから、今の電卓などの時代にはついて行けないのが正直な話です。

 下灘で31年間育った私が現在の場所上灘に移ったのは、青年の船でアメリカへ行った明くる年昭和52年ですから、今年で31年、私の人生の前半半分は下灘がふるさとなのです。そんな生い立ちもあって人間牧場はふるさとへの想いが捨て切れず、生まれた場所が一望できる下灘の地に建設したのです。そんなこんなで現在も下灘へは毎日のように通っています。しかし自宅から人間牧場へ一直線で通うため、狭いと思われる田舎でも随分久しぶりに歩いたような感じのする場所や、久しぶりに出会う人たちがいて懐かしさが甦ってくるのです。

 数日前の5月5日、親類の叔母の三回忌法要があって、少し早めに到着したため妻を誘って二人で漁港の突堤を灯台のある先の方まで歩いてみました。突堤といっても西日本屈指といわれる大きな漁港なので往復1キロ以上もある長い突堤で、コンクリートの分厚い塊が道を作り、今更ながら人間の英知と行動に驚きながらゆっくりと歩きました。妻が嫁いできた36年前にはまだこの港はなかったのですから、妻にとっても驚くような変貌振りで懐かしく指を差しながら、「あそこら辺りの浜辺に長男の鯉幟を立てたよね」などと思い出の地を遠望しました。外海も静で内港には黄色い漁船が整然と係留されていました。港を歩いていると知人友人によく会います。「進ちゃんか」と声を掛けてくれる人もいれば、私の方からも声を掛けます。中にはすらない人だのに大きな魚を釣り上げて見せてくれる人もいました。

(7キロもある大きなコブ鯛、通称モブシを釣り上げていました。これは美味しい魚です)

 突堤から見ると、人間牧場がよく見えます。残念ながらこの日は今にも降り出しそうな雨模様のためそんなにはっきりとは見えませんでしたが、それでも黄色い水平線の家がくっきり見えました。

(山の尾根に見える黄色い家が水平線の家です)

(アップにすると水平線の家の下にロケ風呂も見えます)

 人間牧場までは谷を渡り尾根を越えてここから2キロくらい上がった場所にありますが、とっておきの近道だと10分もかからない
ほど近いのに道が狭くて、私のよな達人でないとこの道はお勧めできません。

 やがて突堤の先まできたので、嫌がる妻を無理やり写真モデルにしました。嫌がった割にはポーズなどとるあたりはやはり女性なのでしょう。


(下灘の中心地をバックにそれなりに撮れてる妻をモデルの写真です)

 港には漁船の他、かなりの遊漁船が係留していましたし、中にはヨットなども停泊していてどこか別の町へ行ったような雰囲気でした。子どもの頃には直ぐ上の線路を蒸気機関車が煙を上げて走っていたし、国道に昇格する前は離合するのもやっとという狭い道をノロノロと定期バスも走っていました。昔のうらぶれた漁村としての下灘下浜・上浜を知る人にとっては、私たちが驚くくらいですから、「ここは何処」って感じの変貌なのでしょう。

 「ふるさとの山に向かいていうことなし ふるさとの山はありがたきかな」、ふとそう思いました。私の原点がここにあるのです。漁村ゆえ決して豊かな暮しではなかったけれど、それでも幸せがいっぱいありました。親父もおふくろも一生懸命働きましたし、私たち子どももそれなりに働らきました。私は宇和島水産高校漁業科を卒業してガンで倒れた親父の後を継いで7年間もこの港を母港にして漁師をしました。青年団活動もここで思い切りやりました。またNHK青年の主張の県代表になったのもここなのです。結婚して3人までがこの地で生まれました。思い出すと少ししんみりするのがふるさとなのでしょう。私にとって下灘という地は思い出であり宝物であり恩人なのです。余生はこの地が一望できる人間牧場で恩返しをしなければなりません。それは私の宿命だと考えて進化することなのです。

  「久方に ふるさと訪ね あれこれと 思い返して 少ししんみり」

  「あの家で 式を挙げたな 指を差す 妻も六十路の 峠を越えて」

  「お父さん あそこに見えるの 牧場ね 指差す彼方 霧に煙りて」

  「コンクリの 固まり囲う ふるさとを のんびり歩く 妻と二人で」

   

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○病気知らずの食生活3つの原則

 「若松さんこの本を読んでみてはどう」と誘ってくれたのはえひめ地域政策研究センターの清水さんでした。私にはメル友や風呂友、飲み友など様々な友だちがいますが、勉強をしない私に本を勧める人も県庁の高岡さん、関西汽船の浜田さんなど結構いるのです。さしずめ高岡さん、浜田さん、清水さんは読み友とでもしておきましょう。その読み友を通じて様々な本を紹介受けるのですが、色々な本を読んでいる読書が趣味の彼らが勧める本は結構ためになるものが多いので、小遣い銭をはたいて買い求めては乱読しています。

 今回清水さんが勧める本は松田麻美子著「常識破りの超健康革命」(グスコー出版・1200円)と、ハーウ゛ィー・ダイアモンド著「フィット・フォー・ライフ」(グスコー出版・2100円)という2冊の本です。「フィット・フォー・ライフ」は米国の本の翻訳版、「常識破りの超健康革命」はそれを分り易くした日本語版みたいなもので相関関係にあります。

 この本を読んで思うのは、この本が本当ならば私たちの今までの健康に関する常識は一体何だったのかという疑いです。でもなるほどと納得させる部分もあって、早速食生活の改善に取り組んでいます。

 まず冒頭に出てくる「病気知らずの食生活3つの原則が次のように紹介されています。

 第1の原則 「命の水を豊富に含む食べ物」を食べること

 第2の原則 「食べるにふさわしい時間帯」に食べること

 第3の原則 「正しい組み合わせの原則に」にしたがって食べること

人間は果食動物で、生物学的に「人間の身体は果物と野菜を主食とするように作られている」という根拠は、①果物と野菜は「水」を豊富に含んでいる(身体にとって水は食べ物より重要)、②果物と野菜は「糖」(炭水化物)を豊富に与えてくれる。(糖は身体のエネルギー源)、③果物と野菜は「酵素」を豊富に含んでいる(酵素=生命力)、④果物と野菜は健康な身体づくりに必要な栄養や生活習慣病を撲滅する成分を含んでいいる、⑤果物と野菜は身体を弱アルカリ性に保つのに役立つというのです。命の水を豊富に含む食べ物とは、果物と野菜なのです。

 人間の身体のサイクルは正午~午後8時は摂取と消化(食べることと消化の時間帯)、午後8時~午前4時は吸収と利用(身体への同化の時間帯)、午前4時~正午は排泄(体内の老廃物と植物カスの排出の時間帯)、このサイクルを考えると朝食をしっかりとるという根拠が崩れることになるのです。身体のサイクルも知らず夜遅くまで食べることがどんなに健康を害しているか、改めて知りました。

 正しい組み合わせで食べることの原則とは、「バランスよく食べなければならない」という今までの栄養学が根本から間違っていると指摘をしています。その一定の条件とは、凝縮食品(米・パン・肉・魚・卵・乳製品など)を二つ以上一緒に摂らないこと。肉や魚は、野菜と一緒に摂ること。ご飯やパンも野菜と一緒に合せて食べること。この原則は一般的な食べ合わせよりも効率よく楽に消化できるという発見から生まれたもので、この組み合わせによって身体のエネルギーを合理的に活用できるのだそうです。

 果物もルールに従って食べれば幾ら食べてもかまわない。朝食は必ずしもしっかり摂らなくてもよいなど、常識では考えられない話を半信半疑で考えながらこの2冊の本を読んでいいるところです。

  「嘘ホント 何を信じて 生きるのか 知らない方が 良かったのかも」

  「そういえば 夕食門限 9時以降 何も食べるな 検査の時は」

  「健康が 気になりだした 俺の歳 今日から少し 考え生きる」

  「読み友が 勧める本に 書いてある 朝飯食わぬ 人も健康」 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○重い荷物を運ぶ

 家の入口に第一駐車場、家の玄関先を屋外第二駐車場、家の横を第三駐車場と呼べばいいのでしょうか、わが家はそれらを含めて660坪もの広い敷地を有しています。都会暮らしの人たちには何とも羨ましい広さなのですが、広ければ広いでまた悩みも多いのです。まず家の周りの草刈りや、敷地内の草引き、家庭菜園の世話、庭木の手入れなど、思わぬ労働力がいって中々管理が大変なのです。今はその殆どを90歳になる親父がひとり一手に引き受けてやってくれていますが、親父の高齢化とともにそろそろ代替わりの時代がやって来ました。家の中は妻の仕事と割り切って、私はもっぱら外回りの仕事を親父と二人でしなければならないのです。

 第三駐車場を魚梁瀬杉の一枚板と大理石の石盤枚が、この半年余りわが者顔に占拠していました。どちらも一人では動かせないほどの重い荷物で、妻からは掃除が出来ないから片付けて欲しいと散々苦情を言われていました。しかし動かす場所もなくさてどうしたものか思案をしていました。魚梁瀬杉の板は馬路村からいただいた大切なものだし、大理石の石盤板も息子が知人からいただいたこれまた大切なものなのです。今朝ひょんなことから思いつき、この二つの重い荷物を、出来上がった人間牧場の倉庫へ運ぶ事を決意しました。姉の家からトラックを借りて帰り、さて一人で動かせないこの重い荷物をどのようにして車に積み込み、どのようにして車から下し倉庫に入れるか、様々な方法を考えました。そこで思いついたのがテコの原理です。まず片方を持ち上げて板の下に敷物をして片方の端を車の荷台に乗せ、乗ったら片方の敷物台を徐々に上げ、最後は板の下に敷いたコロで転がせました。多少難儀はしましたが、計算どおり3枚の重い荷物をたった一人でトラックに積み込めたのです。自分を自分が褒めるのは馬鹿な話ですが、不可能と思ったことが可能となって鼻高々でした。

 自宅から人間牧場までの道を運びましたが板と石の荷物はかなり重そうで、トラックが山道に差し掛かるとトップでは走らずセカンドギアーでそろりそろり登って行きました。積荷の時は何とかなったのですが、さて下ろすのは一苦労で、足場も悪く恐る恐る少しずつ下に座布団を敷きながら下ろし、苦労しましたが何とか事故もなく倉庫に収納することができました。それにしても妻が驚くほど、よくもまああんな重いものを一人で運べたと感心しきりでした。

 木の板と石の板を移動した第三駐車場はかなりの落ち葉が積もっていましたが、これを綺麗に掃除してやっと元通りの清潔な駐車場兼洗濯物干し場となり、妻の苦情も今日から聞かなくて済みそうでやれやれです。

 さて、問題は人間牧場に一時保管した二つの重い荷物をどのように活用するかです。まず高知県馬路村魚梁瀬から届いたかなり立派な魚梁瀬杉の一枚板はテーブルにしようと考えていますが、水平線の家のどの場所に置いてどのように使うか、未だにその効果的な利用方法を考えあぐんでいます。というのも水平線の家には既にこじんまりとした高知県奈半利町の坂本さんから贈られた魚梁瀬杉の切り株があり、新築の祝いに親戚からいただいた一枚板も置いてあり、何処をどうするか迷っているところです。一方大理石の2枚の板は倉庫を工房にして使うのであればうってつけの土間机に大変身しそうなのです。建築士の息子と良く相談して効果的に使いたいと思っています。

 このところぎっくり腰の具合も良く、あれほど思い荷物を一人で運んでも、何ら支障がないほどに回復しているようです。調子に乗って余り無理をしないようにと早速妻の厳しい忠告を受けました。はいごもっともです。知識を知恵にして良い仕事をした一日でした。

  「テコ原理 知識を知恵に 変えました お陰さまにて 荷物運べる」

  「汗を出し 知恵を出したる 荷の移動 妻もびっくり 俺もびっくり」

  「昨日まで ざわめきたった 町なのに 今日は静かな 朝を迎える」

  「俺だって まだまだ火事場 糞力 調子に乗ると ギックリ腰病む」 


[ この記事をシェアする ]