shin-1さんの日記

○新聞スクラップ

 私の書斎の書棚の上には無造作に段ボール箱に入れられた新聞スクラップが沢山あります。昔はその都度フォルダーに入れて整理をしていたのですが、その整理も追いつかずこの醜態です。私がまちづくりに関わるまでは「双海町」という文字を新聞やテレビで見ることは殆どありませんでした。多分年に二、三度出ればいい方だったように思います。まちづくりが活発になったのは昭和も終りに近づいた昭和61年頃からですから約20年間、時には小さく、時には大きく「双海町」という文字が新聞紙上を賑やかにしました。自分でいうのも何ですが、その記事の殆どの出所は私の所だったのです。

 ところが伊予市と合併した2年前から「双海町」という名前はだんだんと消えて今は狸が石を投げる程度しかお目にかかれないし、その伊予市でさえ他の19市町村に比べればはるかに少ないマスコミ掲載量なのです。最近は合併した伊予市でも少なからずほころびが目立ち、マイナス的記事が新聞紙上を賑わせているのも気になるところです。

 新聞記事は人の動きや社会の動きから生まれるもので、何にもしなければ新聞記事にはなりにくいものです。かつての双海町のようなどこにでもありふれた特長のない町は、新聞もテレビも相手にしませんでした。多分ニュース性がないからでした。私はまちづくりにとってこれは致命傷だと考え、むしろ意識的にマスコミを使ってまちづくりを仕掛けようと考えました。次々に打ち出す政策や活動の様子をアイデアでカバーしました。よく言われる「犬が人間に噛み付いたらニュースにならないが、人間が犬に噛み付いたらニュースになる」の如く、一工夫も二工夫も知恵を出しました。マスコミが注目するニュースをどんどん出したのです。結果的には県内では注目を集める町になりました。

 今ではすっかり有名になっている夕日だって、マスコミの力がなかったらこんなに成長はしなかっただろうと思うのです。宣伝費のないわが町が巧みな情報戦略で公共情報媒体を使ってやったまちづくりの数々はこれからもまちづくりのヒントとして見習って欲しいと思うのですが、残念ながらその素養を持った役所の職員にはお目にかかれないのが実態です。マスコミに媚を売るようなことはしなくてもいいのですが、せめて地域の人が頑張る姿を小まめに新聞に載せてその気にさせることぐらいはやって欲しいものです。

 先日マスコミ関係者と最近のまちづくりや役所の実態についてお話をしました。役所は昔から臭いものには蓋をする習慣があります。マスコミはその臭いものを蓋を取って確認したがるのです。蓋を取って匂いが出れば市民の知る権利や正義として記事にします。役所はその蓋に鍵を掛けて匂いの出ないよう統制をする、マスコミはその鍵を更に開けようとして攻防が始まり、結局は後手に回った役所は事の重大さに気がつきお詫びや説明責任を果たさなければならない醜態となるのです。マスコミを敵にするか見方にするかは、こちらのやり方だと思います。

 先日佐賀県へ講演に出かけました。その模様が佐賀の新聞2社で記事となり、関係者から送られてきました。見落とすような小さな記事ですが、この情報発信こそ大切な仕事なのだということを、役所の人間はもっと認識すべきではないかと思うのです。私が毎日書くブログも、新聞に出た記事も読まない人には何の情報にもなりません。毎月発行し広報委員さんを通じて送られてくる広報も読まない人には紙ごみです。どうしたら読んでくれるか考えなければその次には進めないものです。読者を登場させるという関心の引き方もたまには必要だと思うのです。

  「近頃は 新聞テレビ 出なくなる 双海という名 陰に隠れて」

  「スクラップ 箱に入れられ 書棚上 一度整理を 思いつつウーン」

  「三面に 出る記事役所 嫌がって 蓋をしたがる あいも変わらず」

  「佐賀の地で 話した話 新聞に 友の送りし ファックスを読む」

 

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○歌は世につれ世は歌につれ

 私が最初に歌を聞いたのは多分母親の背中で聞いた子守唄ではないかと思われます。哀愁を帯びた子守唄を聞く度に亡き母を思い出したり心がうずくのはそのせいだと思いつつ、先日妻が泣き止まぬ孫をあやしながら歌う子守唄もまた同じような節回しだとしみじみ思いました。私にとっても妻にとっても子守唄はまさに体感音楽ではないかと思うのです。

 何年か前、私はNHKラジオ深夜便「心の時代」というラジオ番組に二夜連続で出ました。夕日を地域資源にしてまちづくりをした顛末を大いに語りました。その時ディレクターの求めに応じて得意でもない下手糞なハーモニカで「夕焼けこやけ」と「赤トンボ」という曲を二曲吹きました。放送されるやいなや全国各地から400通を超えるハガキや電話をいただき、その反響の大きさに驚きましたし、熱望する人が多く再放送されましたが、その時も同じように多くのお便りや電話をいただきました。その中に東京に住む目の不自由な人からの電話があったのです。  

 要約すると「私は生まれた時から目が不自由で、あなたの話の予告を聞いた時、『ああ夕日の話か、目の見えない私には余り関係ない話だ』と思っていました。ところが話を聞いてみると面白く、心が開けた感じがしました。特にラジオを通して流れてくる『赤トンボや夕焼けこやけ』の歌は私の心に突き刺さるようでした。多分これは母親の背中で聞いた遠い幼子の頃の歌に違いないと母親を思い出し、目の不自由な私が散々迷惑をかけた母親への追憶で涙が止らず、眠れない朝を迎えました。これは多分私の身体に組み込まれた体感音楽ではないかと思われるのです」と結ばれ、早速目の不自由な仲間に聞かせたいので、二日分のテープをダビングして送ってくれるよう依頼されました。私はNHKにお願いしてテープを二本送ってもらい、そのテープを馴れぬデッキでダビングして送ったのです。数日後その女性からお礼の電話がかかってきました。「私の友人も目が見えないのですが、『友人4人と双海町の夕日を見に行こう』ということになりました。『目が不自由、しかも不案内なので松山空港まで迎えに来て欲しい』と言うのです。当日私は空港まで迎えに行きました。行く道すがら私は「この人たちは目が不自由なのに何で夕日を見に来るのだろう」と不思議に思ったものです。でもその人たちをシーサイド公園の童謡の小路を案内しながら請われるままハーモニカを吹いてあげたのですが、彼女たちは目にいっぱい涙を溜めて泣きました。この光景は今でも忘れられない思い出なのです。

 通知表音楽2のような私がハーモニカを吹けるなんて今でも不思議です。でも今は妻の買ってくれた2本のハーモニカで160曲以上吹けるのですから驚き桃の木山椒の木です。私は残念ながら楽譜が殆ど読めません。でも私の体感音楽は口にしたハーモニカが音を奏でてくれるのですからこれまた不思議なのです。同級会で吹いてくれとせがまれ吹いた井沢八郎の「ああ上野駅」も、高知の人から吹いてくれとせがまれて吹いたペギー葉山の「南国土佐を後にして」も、もう古い歌として人々の記憶から忘れ去られた歌なのに、何故か参加者たちは心の琴線に触れてしんみり聞いてくれました。

 「青い山脈」や「高校三年生」「幼馴染」「ぎんぎんぎらぎら」「紅葉」「みかんの花咲く丘」など、童謡から流行歌まで幅広いジャンルで思いつくままにハーモニカを吹いていますが、その歌を吹く度に遠い日の思い出が鮮やかに蘇って来るのです。

  「思いつく ままに吹きたる ハーモニカ 心の扉 開き思い出」

  「同級会 請われるままに 上野駅 思わずみんな 大きな声で」

  「孫あやす 妻の歌った 子守唄 亡き母思い しんみり聞きて」

  「カーラジオ 流れる歌の 懐かしく 思わず声を 出して歌いつ」 

 

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shin-1さんの日記

○もやもやの一日

 昨日は午前中の西条公民館への対応と午後1時からマスコミ関係の取材が入り、忙しい一日でした。でも西条公民館もマスコミの取材も時間通りにに進み、少し時間が取れたと思っていたら妻からの依頼で伊予市の銀行に行く事になりました。双海町にも銀行はあるのですが、役場に勤務していた折支店長さんとふとしたことからじっ魂になったこともあって、ボーナス時にささやかながら貯金をしていたのです。その支店長さんも既に何処かへ転勤になって音信も途絶え、加えて満期になった通知を受けていたので、妻の車が壊れたので思い切って引き出し、そのお金を車代に一部にすることにしました。

 銀行へ着いて所定の用紙に記入し預金中朝の解約を申し出ました。ところがこの預金通帳に登録している印鑑の印影が違う印だと判明しました。私は早速自分を証明する免許証を提示し本人と確認してもらいましたが、銀行窓口の女性が言うのには免許証と保険証の二重チェックがないと改印届けは受理できないというのです。私はここへ来るのに30分もかかる遠隔地で、本人であることは免許証と面談で分るのではと食い下がりましたが、結局は「規則ですので」と断られました。家に電話すると次男が今日は非番の日とかで在宅、妻に電話して保険証の在り処を聞いて外出途中に寄ってもらうよう頼みました。次男は快く引き受けてくれましたが、その時間が午後二時半近くで、午後三時の銀行閉店までに間に合うかどうかやきもきしながら待ちました。

 車の中で待つのも暑いし、そこら辺を散歩でもとブラブラ歩きをしていたら、何人かの顔見知りの方に出会い、挙句の果ては商店街の空き店舗を利用した休憩所の中から「お茶でもぞうぞ」と誘われました。休憩所に中には色々な手づくり作品が展示していてちょっとしたギャラリー風になっており、顔見知りの方が三人いて、お茶とお菓子で歓待してくれました。四方山話に花を咲かせた後銀行の入り口で次男と会った時刻は閉店間際の5分前でした。早速手続きを取りましたが、ゼロ金利の続く現代ですがなかなかどうして、小額の定期預金ながら金利

がついて少し得したような気分になりました。

 それにしても銀行のチェックは厳しいものです。本人だからと面談と免許証の二重テックを受けながら、保険証で三重チェックしなければ容易には改印は出来なかったのです。次男のお陰で事なきを得ましたが、厳し過ぎるし煩わしいと思いつつも、銀行の威厳を感じた一日でした。

 私にとって金融機関は余り縁のない場所です。金融広報委員会にアドバイザーをしているにもかかわらず、カードでお金の出し入れをしたことがないという世にも珍しい時代遅れな人間なのです。便利さと危険が同居しているカード時代にあってこんな反骨な人間も一人ぐらいいてもいいのではと思ったりしながら自分を納得させているのです。

 パソコンで買い物も出来ないしやったことはありません。ましてやカードで買い物もしたことはないのです。「ご不便では」といわれそうですが、「現金」を旨として生きてきましたので、別に不便も感じていません。流行遅れな人間である事を自覚しながら、これからも生きてゆきたいと思っています。

  「本人だ 幾ら言っても 通じない 銀行偉い 俺は馬鹿です」

  「融通を つけろと言うのは 無理話 分っていても 家は遠いし」

  「ゼロ金利 言われながらも 利息つく 預けぬ金は 増えぬものです」

  「モヤモヤの 一日さすが 疲れきり 眠気もよおす 相撲観戦」

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shin-1さんの日記

○西条からのお客様

 今日は雨が降ったりやんだりと梅雨特有の天気で、視察研修の受入日なのに濃霧まで出て、やきもき、もやもやの一日となりました。最近はシーサイド公園見学と私の話をセットにした視察依頼に加え、人間牧場の見学までも加わって大忙しの日々です。視察を希望する皆さんはこちらの都合や人間牧場がどんな場所にあるか余り考えず簡単に視察メニューに加えられますが、人間牧場への案内はそれ相当の覚悟がないとこれないのです。

安直な人は私のそんな電話やメールの説明に、「若松さんが都合が悪いのであれば勝手に自分たちだけで伺いますので場所を説明してください」と開き直ります。私が「口では説明できません」というと、「じゃあ地図を送って下さい」と食い下がられます。「詳細な地図がないので地図でも説明が出来ません。たとえ地図があっても山道が縦横無尽にあって迷われますので止めた方が賢明です」などと付け加え、やっと諦めるという有様なのです。

 今日も西条からお客様がやって来ました。事前に電話とメールのやり取りでそのことを伝えましたが、どうしてもということでマイクロバスに乗ってやってこられました。マイクロバスの20人乗りだと、私が日ごろ通る近道はまず駄目で、県道を迂回しなければなりません。さらに市道を走って人間牧場の近くまで来れるものの、そこからは農道と私道を歩かなければならないのです。特に今日のような雨の日だと坂道を歩くのはこちらも心配で、「何で私たちが歩かなければ・・・」とか、「もっと道を広げたら良いのに・・・・」とかいう言葉が返ってきそうで、こちらのモヤモヤが募るのです。こちらが頼んで来てもらうのではないのですが中にはそんな人もいるようです。

 でも今日の方々は青少年の指導者らしく、そんな考えや行動は微塵もなく整然と、それでいて終始熱心に付き合っていただきました。それでも雨模様や下草が濡れているためツリーハウスへは案内できませんでした。私が魚梁瀬杉の切り株高座に上がって少しお話をした後質問形式でやり取りをしました。みんな熱心でさすがにいい指導者だと感じました。残念ながら濃霧のため視界が利かず人間牧場自慢の眺望は見えず終いで水平線の家を後にしました。

 7月5日には旧友寺戸一朗さん率いる島根県益田市真砂公民館の面々が視察研修に来られましたが、私は残念ながら佐賀県へ出張中で、漁協女性部の方々との交流をして人間牧場見学のリクエストに応えることが出来ませんでした。寺戸さんからはお礼の電話が入りましたが、済まない気持ちでいっぱいです。

 人間牧場も相変わらず草の成長は旺盛で、一昨日やって来た明浜の原田さんからは仲間を集めて草刈り十字軍の手助けをしたいと申し出がありました。その日はあいにく予定が入っているようなので有り難くも断らざるを得ないようです。

 まあ人間牧場もこうして人々の注目を集め、私の目標である「心の解き放ち」を求めてやって来る人たちにいささかなりともお役に立てれば幸いです。

 昨日人間牧場のある地元の人に会いました。「ご苦労様です。ほんの少しですが食べてください」と出始めで高価なハウスみかんを袋にいっぱいいただきました。また自分で絞ったというハウスみかんジュースまで・・・・。

ありがたいことです。

  「牧場に 来る人あるも 五里霧中 見えぬ視界は 心に似たり」

  「雨の中 坂道歩く 人たちに 雑談しつつ 私マジック」

  「初鳴きに 気がつき辺り 見渡しぬ いつの間にやら 夏風そよぐ」

  「人もなし ただ黙々と 時刻む 山家の時計 止りもせずに」


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shin-1さんの日記

○万華鏡と手づくりおもちゃ

 子どもの頃学校の工作で万華鏡を作った経験があります。当時はそんなもの売っている店もなく、キットなどなかったものですから、ガラスを売っている金物店へ行って、おじさんにガラスの端切れを寸法を計って切ってもらいました。定規を置いて先端にダイヤモンドのついたガラス切りで切る姿にまるで魔法のようなものを感じたものです。このガラスを3枚合わせて三角形の筒を作り、底と上蓋を貼り合わせ中に色紙の切ったのを入れると不思議や不思議、様々な幾何学模様が筒を回す度に出てきて何ともいいようのない世界が広がるのです。友だちのと変る変る見せ合うのですが、一つとして同じものはなくうっとりして見とれたものでした。

 今は土産物屋へ行けば千代紙を張った民芸調の万華鏡がお手ごろ価格で売られているものの、そんな時代遅れな遊び道具より、子どもたちの目は原色に近い色調のお土産に行って見向きもされないようです。

 先日私の書斎の書棚の奥にある古ぼけた万華鏡を目敏い孫が見つけました。私もすっかり忘れてしまっていた万華鏡なのですが、これは友人の快気祝に貰ったものだと思い出し、孫と一緒に穴から中を覗いてみました。

この万華鏡は木製の中にレンズが組み込まれている特殊なもので、市販されている民芸調のものとは少し違って見えるのです。万華鏡の穴から手の指を見たり人間の顔を見たりすると、これまた手の指や顔が幾つも幾何学的に写って飽きないように出来ているのです。

(まるでドングリのような万華鏡)
(蓋を取ると中にはレンズが入っています)

 孫は「おじいちゃんの顔が沢山ある」とか、穴からテレビを見てキャーキャー言って遊んでいました。その内万華鏡にも飽きて菓子箱で何やら工作を始めました。私も負けじと箱をハサミで切り取り遊び道具を作ってやりました。私の作った空飛ぶ円盤はメンコのような丸い画用紙の隅に切り目を入れ、そこへ輪ゴムを引っ掛けると面白いように飛ぶのです。円盤には孫が絵を書き、私が孫の名前をもじり「朋樹号」と書いてやりました。何個も作って外へ出て孫と飛ばせ競争をしましたが、孫は既製品のおもちゃに慣れているせいかこのおもちゃがとても新鮮に感じたのでしょう、汗をいっぱいかいてくたくたになるまで遊んでいました。

 私たちはいつの間にか子どもに物を与える場合、裕福になったせいもあるでしょうが、作られた物を与えるようになってしまいました。私たちが子どもの頃のような貧しいが故に万華鏡さえ自分の力で作った頃の事を思い出し、子どもたちと一緒になって何かを作りあげる方がよっぽど子どもたちは喜ぶことを思い出すべきだと思いました。恐竜の模型や飛行機の模型よりおじいちゃんと一緒になって作った空飛ぶ円盤の方が生き生きと輝いて遊ぶ孫の顔を見たのです。

 さて今度は孫とどんな遊びをしようか楽しみがまた増えてきました。

  「書棚から 目敏く見つけた 万華鏡 孫はキャーキャー 言いつつ眺め」

  「じいちゃんの 空飛ぶ円盤 気に入って 汗をかきつつ 孫は追いかけ」

  「何もない だから何でも 工夫して 作った昔 懐かし遊び」

  「買ったもの 与えて喜ぶ 顔よりも 一緒に作る 孫は生き生き」


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shin-1さんの日記

○友遠方より来るありまた楽しからずや

 これまで62年間生きてきて、その内約半分の35年間を役場に勤めた私ですが、人生においても役場生活においてもこれまで様々な出会いがありました。しかし人生はさて置き役場という所は何故か辞めると緊張の糸が切れるのと同じように人間関係の縁の糸まで切れてしまうようで、肝胆愛照らした仲間でさえ交流がはかばかしくないのは私だけなのでしょうか。そんな寂しさを紛らわせるように、町内市役所に勤めている人ではない遠隔の友人4人(私を含めると5人)が昨晩人間牧場に集まりました。私を除けば全て現役で数日前に夏のボーナスをがっちり貰った人たちですが、松野町の教育長をしている芝さんを除けば伊方町の塩崎さん、西予市の原田さん、大分市の渡邊さんら3人は奇しくも同級生で来年の春に退職を迎える窓際族なのです。既に覚悟を決めているのか、あるいは合併という社会の流れに翻弄されながらも、不完全燃焼気味のわが身を振り返りながら人生の機微を多いに語り合いました。私にとってこの4人は多分役場同類とでもいうべき世界では、最後の友人と呼ぶに相応しい人たちなのです。

(芝さんが仕事の都合で深夜に奥さんの運転で帰りましたので、4人での記念写真となりました。これらの写真は渡邊さんがEメールで送ってくれたものです)

 塩崎さんは旧三崎町役場職員(現伊方町)ですが私の最も古い旧友です。私が愛媛県青年団連合会の会長をしていた頃、西宇和郡連合青年団長をしていて、議論や舌戦をやりました。その後少しの空白はありましたがえひめ地域づくり研究会議の代表として今も一緒に活動をしています。渡邊さんは関アジ関サバで有名な旧佐賀関町役場職員(現大分市)で、塩崎さんを通じて知り合いました。そんなに長い付き合いではないのですが馬が合い、心を許す友人となりました。原田さんは旧明浜町役場職員(現西予市)ですが、まちづくりの仕事で知り合いました。塩崎さんと同じく夢工房のメンバーとして今も活動をしています。芝さんは合併問題で話題の松野町の教育長さんをしていますが、若い頃から企画や観光の仕事で松野町をハイレベルな町に変身させた方です。やはり夢工房のメンバーとしていっしょにかつどうしています。私は同属同行が傷をなめあうような仲間は余り好きではありませんが、これらの友人はそれぞれが確固たる信念を持って生きている人たちなので、お互いの生き方に刺激を受けながらこれからも進化を続けて行くことでしょう。

(魚梁瀬杉のテーブルを外に持ち出し、持ち寄った食材や妻の作ったささやかな料理に舌鼓を打ちながら、ウッドデッキで洒落た食談となりました)

 塩崎さんと私は体調を崩したのを機会に酒を止めましたが芝さんも原田さんも渡邊さんもかつての私と同じ酒豪で、呑むほどに酔うほどにボルテージを高くして議論しあいその話は深夜にまで及びました。ほろ酔い雑魚寝で快いいびきの大合唱を経て早朝にロケ風呂を楽しんだのは原田さんと渡邊さんです。私が沸かしたお湯に浸かって多趣な原田さんや渡邊さんは一体何を思ったのでしょう)

(原田さんの入浴シーンです。あいにく霧が出て遠望は利きませんでしたが梅雨の晴れ間のひと時を楽しみました)

(綺麗に掃除した後の水平線の家で記念写真を撮りました。芝さんがいないのが残念です)


 教育長の芝さんは別として、塩崎、渡邊、原田さんは後9ヶ月の現役生活です。気を抜くことなくしっかりと最後のご奉公をするよう堅い契りを交わして山を下りました。早速渡邊さんからはその日のうちにメールに写真が添付されて送られてきました。原田さんからは人間牧場の草刈りに仲間を連れて行くという有り難い申し出の電話をいただきました。忙しい日々の中で束の間の時間を割いた仲間との交流は自由人若松進一にとってまた新しい活力になりました。「友遠方より来るありまた楽しからずや」でした。

  「それぞれに 生きた社会は違うけど 何処か似ている 影引くうしろ」

  「これからだ 一足早く 退職を した俺先輩 ゲキを飛ばして」

  「遠心を 外れた感の 友四人 在野身を置き 清く生きてる」

  「味噌汁を 作りてすする 朝飯に 関アジ入り 何と贅沢」



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shin-1さんの日記

○鯉のいなくなった池

 わが家の池で鯉を飼い始めたのは私がまだ中学生の頃でした。何にでも興味を示す親父は骨董品収集、船の模型製作、庭木の手入れなど様々な趣味の分野に手を広げて90歳の今日まで人生を楽しんで生きてきました。お陰で骨董品収集も船の模型製作もその道のセミプロのようで、「好きこそものの上手なれ」という言葉そのままに、目利きと腕のよさは私も感心するほどの上達ぶりでした。鯉の飼育も同様で一匹何十万円もするような鯉を10匹余り飼っていたのです。ところがつい最近になって自慢の鯉が一匹二匹と死んで、その落胆ぶりはペットに死なれた人のようで、傍から見ても気の毒な感じさえするほどでした。「こんな辛い目をするのだったら自分が死んだほうがましだ」ともいうのです。死んだ鯉を畑の隅に埋めて懇ろに弔ったりしましたが、思い切って鯉を飼うのを止める事にしました。出入りの鯉養殖業者さんに無料で差し上げたり、高い金を出して設置していた自動浄化施設も全て処分してしまったのです。親父の人生にとって最後の決断だったかも知れないと、息子ながらその決断を見守ったのです。

 鯉のいなくなった池は哀れなもので、水を抜いて干し上げた池はまるで親父の心のようにポッカリと空間が出来て、毎日の日課だった餌やりや観察する姿が見えなくなりました。今日の昼に親父の隠居へ行くと「あの池を土で埋めたい」というのです。私は「好きにしたら」といいながら、この池に土を入れるとなると狭くてダンプカーも入らないし、業者に頼まなければならず困ったことだと思いました。

 私の考えでは折角掘った池だから高さも十分あるので地下室にでもしたらどうかと提案したのですが、親子の意見が真っ向から対立してしまいました。

 わが家には私設公民館煙会所と海の資料館海舟館、夕日を見る夕観所に加えて池の鯉が自慢でしたので、残念ながらその自慢が一つ消えた事になってしまいました。幸い親父の手づくりによる小さな池が昨年庭の隅に作られたので、親父の気慰みにはなるようです。

 老いや死が確実にやって来る人間にとって、生きてる証のようなものを求めるのは当然のことかも知れません。30年後には私も確実に今の親父と同じような境遇になる事を思うと、自分の人生の将来に不安も見え隠れし始めました。今は忙しくてそれどころではないのですがそろそろ身辺の整理もしなければなりません。同じような年代の人が新聞のお目出度やお悔やみ欄に名を連ねるのを見る度に、人生を考えるようにもなりました。

 まあ色々いいながら結局は今をどう生きるか、何をしたいのか考えながら今に生きたいと思います。

 鯉の死は親父と私にそれなりのショックを与えたようです。

  「鯉が死に 落胆親父 おろおろと 後なき人生 重ね合わせて」

  「あれ程に 好きな鯉飼い 止めるとは 余程の決意 俺には出来ぬわ」

  「母の死後 心和ませ くれた鯉 今は空しく 空池残る」

  「何処となく 元気の失せた 親父には 忘れかけてた 母が幻」

 

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shin-1さんの日記

○再訪馬路村

 人の思いとはこうも人と人とを結びつけるものかと思うほど、馬路村との交流は更に深くなっています。一ヶ月ほど前一件のメールが私のインターネットに送られてきました。送り主は東京の電源地域振興センター振興支援部人材育成課からでした。正直このような団体があることすら知らない私へのメールには、7月5日馬路村で四国電源地域市町村研修会(ニーズ研修会)をやるから講演をして欲しいというのです。残念ながらこの日は佐賀県に出張中と返信しましたが、馬路村農協組合長の東谷さんと日時を入れ替えることで合意し、出かけることで日程を組みました。

(切符の関係で新幹線のぞみには小倉から広島まで乗車しました)

 佐賀行きの前日は大学の講義日、馬路村の明くる日は双海町の少年少女おもしろ教室などで手がいっぱいだったのですが、時刻表と首っ丈で新幹線のぞみのスピードに助けられ、広島経由で四国に帰り寝る間を割いて馬路村入り、馬路村では午前の講義の後ワンコイン講演会が組まれたため、帰りは午前1時過ぎというまさに超ハードなスケジュールをこなしてきました。佐賀では梅雨の晴れ間で助かりましたが、昨日は一日中雨の中での研修会となりました。

(鮎釣りのメッカ安田川の清流)

(安田川に沿ってまるで路地のような狭い道を走ると馬路村へ到着します)
 電源地域の研修会には徳島県の旧友小坂さんも偶然にも見えられていていましたが、DVDの音声が出ないハプニングもありましたが、それなりの話は出来たように思ういます。

 それにしても1ヵ月も経たないうちに2回もこの遠隔地へ来るとはただただ驚きです。その間愛媛県で東谷組合長さんと研修会や酒宴で一緒になっているのですから、凄いご縁だと思わざるを得ないのです。

 この日は馬路村温泉センターや木下課長の配慮で昼食後ひと風呂浴びて1時間ばかり転寝の時間をいただきました。2時半からはアクロスに出かけ商品開発の秘策を考えたり、山中さんという方の奥まった一軒家へ予告なしで訪問したり、また村内のあちこちを散策して歩きました。特に山中さんは器用な人で、「器用貧乏村宝隣のアホに使われる」ということばそのままな、木下課長の敬愛するおじさんに出会いに行きました、丁度夕食時と重なりましたが、中山さんが手掛けた竹篭や木工手作り品は玄人はだしで素晴らしいの一言に尽きる仙人(そまびと)でした。木下課長さんとも話したのですが中山さんの作品を一堂に集めて個展でもしたらどうだろうと提案をさせていただきました。是非実現して村民を主役にする行政をやって欲しいと思いました。

(森林鉄道時代の客車は道沿いで倉庫として第二の役割を果たしていました。まるで猫バスのようなロマンチックでミステリアスな雰囲気でした)

(村長室を訪ねたのは今回が2度目ですが、気さくな人柄は何ともいえない味のある庶民派村長さんです。それでいてモナカバックを持って歩く姿はロマンスグレーも手伝って中々ダンディな人です)
(研修会に参加した若手を中心にした参加者、数はそんなに多くはありませんが、これでも全職員の3分の1くらいは集まった計算になります。つまり300人の市役所だと100人という計算になります。前の女性は県庁から派遣されてまちづくりのサポートをしている方です。夜間だというのに熱心に付き合ってくれました)

 夜はきっかり午後6時から馬路村温泉の集会室をお借りして始めました。この研修会はワンコイン講演会と称して500円のコインが入場料です。役場職員を対象にしての自主的な研修課員は沢山の人が来ていました。特に役場の将来を背負う若手が沢山来て出向して来ている県職員も2名参加され、何よりも驚いたのは村長自らが自主的に参加して、私や参加者からの質問と受け答えに熱心に耳を傾けておられたことです。嬉しい出来事です。今日は午前中村長室に村長さんを表敬訪問していましたので余計恐縮してしまいました。私が1時間話し質問に答える形で1時間話を繋ぎました。まさに村でないと、あるいは村でしか出来ないほのぼのとしたワンコイン研修会は、皿鉢料理を囲んでの懇親会にまで受け継がれ、後ろ髪を引かれる思いで、どしゃ降り雨の狭い一本道をハラハラドキドキしながら通って高速道路に乗り家路へと急ぎました。帰宅は午前一時30分でした。

(ズラリ並んだ皿鉢料理、味は抜群でした)

(安田川の天然鮎、美味しかったです)

 押しし伊料に後ろ髪引かれる思いで馬路村温泉を後にしました。

  「石一個 動かす度に 酒を飲む 高知の人は 酒で仕事を」

??? 「太平洋 アバウト気質 育てます 龍馬の思い 自分ダブらせ」

  「酒が好き 仕事も人も 全て好き 高知賢人 俺も見習う」

  「ふと思う 去年この頃 西土佐訪ね あの人元気 おわしますやら」


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shin-1さんの日記

○久しぶりの佐賀県

 1ヶ月余り前の5月31日、佐賀県嬉野温泉に行って間もない7月5日、再び佐賀県を訪ねました。佐賀県といえば熱気球や吉野ヶ里遺跡、有田焼など小さな県ながらはなわさんやがばいばあちゃんでそれなりの情報発信をしている県です。同じ九州でも東国原知事が暴れている宮崎県に比べると地味な感じもしますが、それでも一度は訪ねたい県なのです。観光はどちらかといえば吉野ヶ里や有田などに足が向くもので、県庁所在地の佐賀市には残念ながらいい情報が入らないのも事実で、今までは素通りの中心地だったように思います。

 博多からだと特急で僅かな時間で来れるので、時間的な余裕があったので私は思いきって次の肥前山口まで足を伸ばしました。何年か前関口智広さんが北海道から旅した「列島1万2千キロの旅」の終着駅が肥前山口だったのです。その時はサンポート高松駅、大豊駅とともに日本一海に近いわが町の下灘駅も登場し、私と関口さんのコラボレーションをやりました。佐賀駅と肥前鹿島駅の間にある駅ですが、とりたてて特徴があるような駅ではありませんでしたが、縁とは不思議なもので肥前山口の存在が頭から離れなかった、ただそれだけのことなのですが、わざわざ切符を買って佐賀ー肥前山口を往復してしまいました。


 佐賀駅に降り立ちましたが、佐賀は高校生のスポーツの祭典高校総体を間近に控え歓迎ののぼりがはためき、歩道の花々も綺麗に咲きそろい、美しく着飾っているようにも見えました。

 講演は午後からなので駅構内の観光案内所で市内観光マップをもらい、会場となる佐賀神社までゆっくりと散策しながら歩きました。シンボルロードを歩くこと20分余りで面白い堀川沿いに出ました。松原川というのだそうですが、佐賀神社の裏手まで通じる堀川は綺麗に整備されて興味をそそる仕掛けが随所にありました。

 河童がテーマなのでしょうか川のあちこちには河童の置物が幾つもあってその表情がとてもユーモラスで思わず笑ってしまいました

(石組みの見事さや小さな橋ながら沢山の橋はそれぞれ特長があって中々凝った造りでした。

(この河童は触ると水が出るような仕掛けになっていてアッと驚きました)

(河童は子どもや父や母などの像で、河童伝説風らしくお皿に説明が書いているのお洒落ですね)

 この通りにかかった小さな太鼓橋を渡ると佐賀神社の裏手に出ましたが、この神社は格式が高そうで幾つもの神社が同じ境内にある珍しいものでした。この季節は夏越しのための輪くぐりが茅を使って作られており、私も輪をくぐってお参りしました。

 境内には大隈重信はじめ佐賀県出身の歴史上の人物の顕彰碑や幕末鍋島藩が鋳造した大砲砲台が展示してあり、幕末から明治維新にかけた動乱の様子を垣間見ることが出来ました。

(小説で読んだことや聞いたことはありましたが、司馬遼太郎の小説「峠」に出てくるアームストロング砲ははじめて実物を見ました)

(佐賀県庁

(佐賀県庁前周辺の堀)
 佐賀県庁付近の堀や旧跡など佐賀城公園を散策ししましたが時間がなくなり佐賀城跡までは行くことが出来ず残念ながら引き返しました。

 佐賀神社の境内にある会館が会場なので早々と会場入りし、県観光連盟主催のマナーアップ研修会に望みました。参加者は約100人弱でしたが、参加者の皆さんは熱心に聞いていただきました。

 今回の旅で見つけたものに葉隠れの教えがありました。私にとっては葉隠れの思想は私設公民館煙会所の名前の由来ですので特に興味を持ちました。(煙会所は次郎物語を書いた下村湖人の煙仲間という本に由来しています。葉隠れの当時煙は最高の情報伝達手段、つまり狼煙として利用されていました。煙を見て来るもよし去る人追わずはまさに煙会所の塾是なのです。会館のロビーには大きな年輪を刻んだ輪切りの大木に文字が掘り込んでありました。

   葉隠四誓願

 一、武士道ニ於イテオクレオ取リ申スマジキ事

 二、主君ノ御用ニ立ツベキ事

 三、親ニ孝行仕サルベキ事

 四、大慈悲ヲ起シ人ノ為ニナルベキ事


  「何気なく 通る堀川 河童住み 思わず触れて 驚きの水」

  「飛道具 これで外国 打ち負かす 真剣議論 鎖国の幼稚」 

  「葉隠れの 四誓願は 今もなお 使えるものと 思えば使え」

  「佐賀有田 思う私は 古いかも 今はがばいの ばーちゃんですよ」


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shin-1さんの日記

○政局やいかに(旅先の街で拾った話題)

 佐賀県のとあるうどん屋に入り軽い昼食を取りました。昼時でしたが人もまばらで、「おっちゃん儲かりますか」と軽く投げかけると、関西弁で「あきまへんな」とこれまた軽く返事が返って来ました。おっちゃんのいうのには、「世の中景気が回復したとよくいわれているが、佐賀県まで景気回復が回ってくるのは俺が死んでからじゃあ」と冗談交じりででした。私が「おっちゃんそれまで生きてて下さいや」というと、「大丈夫あの世もうどん屋やっとるから」と軽くいなされました。

 その話を聞いていたなじみの客が、「お兄さんうまいこといいいますな。何処から来たの」と訪ねるので、「はいこの顔は宇宙人ですから宇宙から」。「面白い」てな調子で笑い転げました。

 そのうち私が出された冷し麺を食べ始めると店のご主人であるおっやんとなじみの客が何やらぼそぼそです。聞き耳を立てた訳でもありませんが、なじみの客は今度の参議院議員選挙に出馬する地元の人を応援しているらしく、封筒から後援会名簿を出しておっちゃんに書いてもらうよう頼んでいました。「おらとこはわしら夫婦と寝たきりのおばあちゃん、それに嫁に行ってない娘が二人いる」というのです。なじみの客は「それ全部書いといて下さい。もし電話が架かってきたら私の名前をいって下さい」といい、書き終わった名簿を持ってそそくさと出て行きました。

 聞いた訳でもないのにこのおっちゃんは私に向かって、「こんな名簿を今頃書くようじゃあの候補者もお終いじゃな」というのです。

 おっつけ別のなじみの客がまた入ってきました。「おっちゃん、あそこの電柱に立てかけていた○○党の党首の看板が昨晩の風で路上に飛んでいたが、その上を次から次と車が踏みつけて通っていた。あの政党は今度の選挙で地に落ちてしまうかも知れんな」と笑いながら話を切り出しました。「馬鹿たれが、それはひょっとしたら大当たりで当選するかも知れんと思わんかい」というのです。450円のうどんいっぱいでこれほどワサビの利いた話を聞いたのは久しぶりで、すがすがしい気持ちになりました。

 お店を出た所でコンクリートの地面に何やら光るもの有り、よく見ると百円硬貨のようでした。お店の前の拾得物ですからドアを開けて「おじさん百円拾いました。お店のものなのでどうぞ」といったら、「お店を一歩出ると店のものではない」と断られました。それでも百円くらいポケットに入れるのも悪いと思いカウンターに「ここに置いときます」といったら、店のおばちゃんが追いかけてきて、「あんたは正直もですね。百円は貰いますから、あなたにゆで卵を一個差し上げます」といって否応なしに手渡され、卵をポケットに何やらほのぼの佐賀の街を歩きました。

 佐賀はほのぼのいい街だ 人情厚いし うどんも上手い おまけに卵がポケットで マジックピヨピヨ孵るかも

 佐賀はほのぼのいい街だ 風も爽やか ふわふわ気球 街中花が咲いている 青春総体必ず成功

 佐賀はほのぼのいい街だ 笑顔おっちゃん ウイット富んで 客とやりとり肥前弁 今度来るとき誰を誘うか

  「よくもまあ これだけあると 不祥事を お互いつつき 国民不在」

  「昨日まで人のことかと 油断する 俺のことかも これはたまらん」

  「あの人も 政治の道具に 借り出され 落ちればいずれ 見向きもされず」

  「選挙さえ 終われば俺の 天下だと 腹の底では 政治家いつも」  

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