shin-1さんの日記

○全国大会近づく

 昨日は第26回地域づくり団体全国研修交流会愛媛大会の第4回実行委員会が、主会場となる宇和島市であり出かけました。積もる話もあるので伊方町三崎の塩崎さんに電話をかけ、途中で落ち合い一緒に行こうと誘いました。塩崎さんは今年の春役場を定年退職し悠々自適家で農業をやっていますが、私と一緒に長い間地域づくりをやっていて、今回の大会の私が実行委員長、彼あh県市町振興課長さんと二人で副委員長を務めてくれているのです。彼はやはり私と同じで長年の心労がたたって少し体調をくじしていましたが、今は通院程度に回復して一緒に活動をしているのです。

 昨日は松山へ奥さんと友人の入院見舞に行った帰りに落ち合うことで相談ができていました。ところが昨日は国道378号のあちこちで道路工事が沢山あって要所要所で通行止めにあい、早めに出た私は20分前に到着、遅めに出た彼は30分遅れとなり、昼食でもしようといっていたのに間に合わないかも知れないと、昼飯を食べぬまま会場入りとなりました。

 南予文化会館の裏にある駐車場に車を止めて文化会館の表玄関に行くと、佐々木館長さんが出迎えて部屋まで案内してくれました。佐々木館長さんも議会事務局長をこの春退職され、第二の人生をここで過ごしているのです。

 間もなく一週間後にはこの一年間かけて準備をしてきた全国大会が始まりますが、この日の実行員会は直前とあって、平易に装ってはいるものの皆さんの意気込みが強く感じられました。事務局の説明も確認の作業が殆どですが、全国から集まる参加者もスタッフも既に決定し、300人を超える人たちの顔を思い浮かべながら綿密に、そして濃密に打ち合わせを行いました。

 会議は毎回実行委員長の私が議長を務めますが、この日も私流にあまり時間をかけないように区切りながらやったため1時間余りで終了し、前夜祭の会場となるJAの会議室を全員で事前見学に行き全ての日程を終えました。全国大会は何度も経験していますが少しの緊張とハプニングへの適切な対応をすべく肝に銘じた一日でした。

 帰りは再び塩崎さんと二人で元来た宇和島市~西予市~八幡浜市~保内の道を通りながら、久しぶりの会話を楽しみました。家族のこと、合併後の役所のこと、私たちにつながる友人のこと、間近に迫った大会のこと、私たちの将来のことなどなど、車窓に消えゆく風景には目もくれず話しました。僅か1時間余りの時間でしたが充実した打ち合わせや話し合いができました。

 私も地域づくりの世界に飛び込んでもう20年を越えました。その間様々な試練や成果に一悠しながら何とかここまでこれましたが、そろそろ次のことを考えなければなりません。64歳という年齢は第一線で機関車役をやるのには気力も体力も限界かもしれないのです。加えて後進に道を譲ることも考えなければなりません。機関車の後を押すことに徹する時期だとも自覚しています。その意味で今回の全国大会は一つの区切りだとも考えています。「私は若い」と思うのは勝手でしょうが、それとこれとは別なのです。いい年齢になったとしみじみ思いました。

  「一週間 後に迫った 大会を 成功さすべく 士気を高める」

  「四十年 近くも友で あり続け 今なお無地の 親友うれし」

  「色々な ことがあったな しみじみと 語る二人も いつの間にやら」

  「三日前 昨日来週 立て続け 宇和島詣で 元気伝えに」

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shin-1さんの日記

○デジタル情報の整理

 最初にデジタル情報を意識したのはワープロでした。勤めていた役場の職員が当時珍しかったワープロを購入し様々な資料を作成しているのを見て私も欲しいと思い、当時のお金で15万円の大金を工面して手に入れました。先に買った仲間の手ほどきを受けながらこれほど便利なものはないと、フロッピーに入力して保存できる記憶装置に感心したものです。そのうちパソコンが出回るようになってワープロが時代遅れになりましたが、パソコンを買う大金の工面ができずしばらくの間ワープロに甘んじていたものの、役場の机に一人一台のパソコンが用意され、否応なしにパソコンの世界に引き込まれていったのです。デスクに置かれたパソコンは持ち運ぶことができないため、仕方なく自宅用のパソコンを購入しましたが、その互換性も分からぬまましばらく使ってそれぞれの資料を作り。それぞれのフロッピーやCDに保存して書斎の引き出し収納して今日を迎えているのです。

 ワープロ時代の使わない情報を入力したフロッピーとパソコンのDVDが混在する中から、時々必要に駆られて情報を取り出すのですが、それらの整理がうまくできていないので、これまた探すのに一苦労しつつ一人悩んでいるのです。パソコンの記憶を検索するには、もう私の記憶がパソコンの記憶について行けないことに気づいているものの、何とかしなければと思う心の焦りが余計退化ししつつある頭をぐじゃぐじゃにしてしまうのです。

 役所を退職して3年半が過ぎました。多分それ以前の資料は処分しているので、3年半分しかないのに収めたDVDの数は50枚を超えていて、先日息子がくれた真新しいものも20枚あるのでこれからもどんどん増えそうな勢いだし、故障しかかった以前のパソコンに内蔵された情報もまだそのままの状態で残っているのです。

 パソコンを使うようになって私の暮らしは一変しました。毎日の暮らしの中でパソコンの前に座って向き合う時間がだんだん増えてきていることに気づくのです。かつてのようにペンと紙を相手にものを書く時間が極端に減り、昨日送った原稿などはパソコンで書き、デジタル化されたバーチャルな原稿をペーパー化することもなく画面で校正しデジタル写真とともに指定されたメールアドレスに送付して一件落着です。早速届いた返信にも同じような作業を繰り返しましたが、結局は相手の顔の見えないままでこの仕事は終わってしまいました

 最近近所の野菜畑にパソコン用のDVDが何枚も吊り下げられているのに気がつきました。最初は何だろうと?と不思議に思いましたが、近づいてみると七色に輝くDVDなのです。野鳥や害虫などを追い払う脅し用だと分かりました。とっさに最近の野鳥や害虫もいよいよデジタル化されたのかと一人苦笑しましたが、畑もアナログな案山子からデジタルなDVDへと変化しているようです。

 便利なデジタル情報も整理ができない私には不便な情報になりつつあります。それでも写真がセピア色に変色化するのに比べデジタルで保存した写真は変色もしませんし、データーの所在さえしっかりしていれば、いつだって鮮明な写真が取り出せるのです。またこれらの情報を送ったり受けたりすることも自由自在で便利です。

 先日パソコンに堪能な人から面白い写真が送られてきて驚きました。私の写真を行ったことも見たこともないない外国の美しい夕日の風景の前で、何と私が記念写真に納まっているのです。いわゆる合成写真でしょうが、これだとアリバイ工作に使えるのではと、人気番組「相棒」みたいなことを考えました。世の中は私の知らない、私のできないことが多いようです。

  「情報を 保存し過ぎて 何処へやら これでは便利 かえって不便」

  「行ったこと ないのに私 写ってる 合成写真 ここまで進歩」

  「キラキラと 七色光る 野菜畑 野鳥害虫 デジタル時代」

  「顔見えぬ 人に原稿 パソコンで 送って返事 何処か不安に」

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shin-1さんの日記

○積ん読か熟読か

 私は子どもの頃から本が好きなタイプではありませんでしたが、それでも必要に駆られて読んでいるうちに、いつしか本を読むことが日課のような暮らしになりました。私が子どもの頃貧乏なわが家には、教科書以外本は殆どなく、「本は学校の図書室で借りて読むもの」という認識でした。ところが図書室に通うようになって自分の好みの本が分かるようになって本の魅力に取りつかれ、小学校の図書室は私の最もお気に入りの場所となったのです。そんな私の行動を見てた担任の先生が小学校5年生の時、私を図書部長にしてくれました。私についた初めての公職だったのです。テレビなどない時代でしたから私は一躍クラスの物知りになりました。本を読んで知り得た知識は自分の錯覚を生みました。それまで劣等生だった私が読書によって少し勉強のコツが分かるような気がしてきたのです。勉強もしなかった私が勉強し始めたのです。驚いたのは先生と両親でした。参観日など来なかった母親が参観日に来たりするようになり、その余勢をかって中学・高校へ進みましたが、そこそこの成績を修めことができました。私にとって本はその頃からかけがえのないものになりました。

 役場職員として努めるようになってからも公民館や広報を担当し、特に広報では読まないと書けないため膨大な本を読みました。その本の一部は人間牧場・水平線の家の壁片面を埋め尽くすほどの量で、人間牧場・水平線の家の知的インテリアとして存在感を誇示しているようです。

 しかし時代の流れでしょうか、これらの本も訪れる人たちは殆ど手にすることもなく、開くでもなくやがては紙ごみとしての運命をたどることでしょう。それでも前に来られた宇和島の女性が本棚の本を何冊か貸して欲しいと申し出があり貸したところ、先日宇和島へ講演に行った折、お返しに見えられました。イカの一夜干しまでお礼にいただきました。ただ今のところ貸し出している本は50冊くらいあるようですが、いつ帰る当てもなく、また読んだ感想も届かず行方知れずになっているようです。まあそれでもどこかの人のどこかの場所で積ん読されているのだと思うと気も休まるのです。

 私の友人に浜田さんという人がいます。人間牧場に開設した年輪塾の塾生第1号ですが、彼は本を読むのが大好きな人間です。と同時に本を人に配る奇特な人間です。私も彼から色々な本をいただき、その度に熟読してきたつもりです。浜田さんから本を読むことの大切さを改めて教わりました。

 一昨日門田眞一さんを通じていただいた栄養学の本類は昨日友人に貸し出しました。その人も無類の本好きで、度々自分が読んで良かったものを紹介してくれるのですが、彼らのようなスピード感あふれる読み方は残念ながらできず、机の隅に積ん読しながらゆっくりゆっくり熟読しています。

 このところ忙しくて一ヵ月も本屋に行っていません。本屋へ行かないと何か時代に取り残されたような、また情報に乗り遅れたような錯覚に陥ります。今日あたりは宇和島に行くので昔懐かしいキング堂という本屋さんにでも立ち寄ってみようかと思いました。

 「本に金をかけない人は自分に投資しない人である」とは私の持論です。

  「積ん読じゃ 知識得られぬ 熟読し 作者の真意 しかと読み取る」

  「はじめにと 後書き読んで 本文を 読む癖今も 治らず健在」

  「そういえば ひと月間も 覗かずに 本屋遠のく 金は要らぬが」

  「辞書要らぬ インターネットの 世界にて 読み書き忘れ 能力退化」

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shin-1さんの日記

○夫婦の会話

 「お父さん、今が一番幸せじゃねえ」と、昨晩テレビを見ながら妻がいきなり言うのです。「何でそう思うの?」と尋ねると、「だってこれまであなたは仕事仕事で殆ど家にいなかったし、また働きと子育てに夢中にならざるを得なかったでしょう」と追いうちの言葉が返ってきました。そういえばわが家は妻の言うようにこれまで、五里霧中のようなやみ雲な暮らしでした。

 私が教育委員会に勤め始めた頃、私26歳、妻25歳で結婚しました。当時の社会教育は目の回るような忙しさで、土日も昼夜も関係なく13年間働き続けました。私が青年団出身ということもあってわが家には連日連夜多くの青年たちが飲みに来たりしました。また町に旅館がないため遠来の友や先生は全てわが家に泊めました。それらの世話は全て4人の子育てをしながら妻の背中にのしかかっていたのです。その13年間の間に香川大学へ社会教育主事講習で1ヶ月、青年の船班長としてアメリカ・メキシコへ約2ヶ月それぞれ家を開けました。

 町で降って沸いた町名変更騒動では町を二分するリコール運動や選挙などの渦中に私がいたものですから、私のストレスは相当溜まっていましたが、左遷と思われる人事異動にもくじけず、それを励ましながら支えてくれました。

 家も建てました。綿密な妻の経済的生活設計に基づいて借金も全て返済しましたが、赤貧洗うが如き日々の暮らしは生易しいものではなかったようです。

 その後まちづくりの世界に移り、夕日によるまちづくりをした時は、これまた奇抜なアイディアを次々繰り出し脂の乗った仕事を、家庭を顧みずやりました。たった一人の日本でいちばん小さな課の課長として孤軍奮闘しながらシーサイド公園を整備し、12年間も早朝5時から3時間、12年間も掃除活動に明け暮れました。

 その間、21世紀えひめニューフロンティアグループを立ち上げ、無人島に挑む少年の集いなどのボランティア活動を20年間やったり、松山工業高校PTA会長として6年間PTA活動にものめり込みました。

 役場を早期退職し2年間教育長という要職を経験しましたが、この時は合併騒動の渦中であり、閉町までのタイムスケジュールが決まっていたためこれまた忙しい日々でした。

 いつの間にか大きくなって独立したように見える4人の子どもたちを、立派とはいえないまでもどうにか独り立ちさせたのも妻であり、今も孫たちを含めた若松家集団の真ん中で輝かざるを得ないのが今の妻なのです。

 妻が言うのには、子どももそれぞれ独立し、二人は結婚して孫も3人生まれ、一応幸せに暮らしています。親父も90歳になったとはいえまだまだ元気で何とかスープの冷めない距離の別棟の隠居で暮らしています。何よりなのは私が退職して責任のある地位から去ったため、気苦労をしなくて済むそうなのです。リタイア後にこんなに忙しく私が過ごすことだけは誤算だったようですが、それでも妻も私も色々言いながら健康で過ごせるのですからこの上ない幸せのようです。

 不足を言えばきりがありませんが「今が幸せ」、これは何にも代えがたい価値あるものなのかも知れません。そこそこ飯が食え、家族が健康で明るく、そして楽しく働ける、少しだけ余力(年金生活かも?)の経済がある、これ以上の幸せはないと自分でも思っています。これからは次第に背中に背負った荷物を降ろしながら穏やかな老いを夫婦で生きていきたいと思い、夫婦で同じ風呂に入り同じ床につきました。

  「不足なく 飯食い暮らす 幸せを 幸せ思い 生きて行きたい」

  「気がつけば 人生土俵 後がない も少し余裕 持って生きねば」

  「人生の 恩を返して やりたいと 妻をねぎらい 足肩を揉む」

  「幸せは みな身にあるを 自覚して これから先も しっかり生きる」

 

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shin-1さんの日記

○イギリス人へザーさんからのメール

 今朝0時17分に次のような一本のEメールが入りました。

 若松様

 先日は、貴重な御縁をいただき、ありがとうございました。

 若松さんにお会いすることができ、とても嬉しく思います。

 松江の旅はいかがでしたか。無事に帰られましたでしょうか。

 講演やパネルディスカッションで、とても面白くて興味深いお話を聞かせていただき、ありがとうございました。

 若松さんが地域のため、色々なことを乗り越えてこられたこと、諦めずに頑張って、地域を元気にされたこと

 は、私にモチベーションを与えました。

 トンボもいただき、ありがとうございました。大事にします。

 来年双海町にお邪魔したいと思いますので、その時はよろしくお願いします。

 今後ともよろしくお願いいたします。

 ヘザー・ディクソン


 私も早速メールを送りました。

 

 ヘザーディクソン様

 先日は楽しくも嬉しい出会いをいただき、ありがとうございました。

 これまで色々な外国の方と出会ってきましたが、特にあなたのことは忘れられない思い出となりました。

 島根県松江市であったためでしょうか、まるで小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)と会ったような気持ちです。

 双海町は、瀬戸内海に面した穏やかな気候の町です。近くには坊っちゃん(夏目漱石)の愛した道後温泉も

 あります。

 是非一度遊びに来て下さい。

 差し上げた赤トンボは、日本の四季を代表する秋に、飛び交う小さな生き物(動物)ですが、歌によく歌われ

 ています。

 作ったものですが、実によくできていて、まるで生きているように感じます。

 寂しくなったら日本生まれのトンボと空想の世界で話し合ってください。

 またお目にかかりましょう。グッバイ・シーユーアゲイン。

 人間牧場主 若松進一


 先週の土曜日11月1日に、島根県松江市で開かれた夕日サミットのパネルディスカッションで、同じパネラーとして登壇したヘザー・ディクソンさんと出会い親しくなりました。

(左から2番目がヘザーディクソンさん、右端が松江市長さん、右から2番目が私です)

 堪能な日本語で、彼女は楽しく次のような話を話されました。

 ●外国人にとって夕日とは、松江市への想い、宍道湖の夕日が大好き、現在の活動

 ●海外の有名地の紹介と夕日に関連した活動

 ●夕日の情報発信、外国人を誘致するために必要なこと

 ●今後の活動、情報発信の継続など

 控室で色々な話をさせてもらいましたが、背の高いそれでいて私好みの端正なマスクをした方で、いきなり気が合い、控室では食事をともにしながら殆どの時間を私との話に終始してしまいました。また会いたいものです。

  「迷惑な メールと思い うっかりと 消すところだった 外人メール」

  「控え室 市長さて置き 会話する へザー・ディクソン 忘れ得ぬ人」

  「また会おう 熱い握手を 交わしつつ トンボの玩具 プレゼントする」

  「また一人 地球に生きる 仲間増え 思い巡らせ メールを送る」

 

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shin-1さんの日記

○栄養学の創始者佐伯矩博士顕彰記念イベント

 今日は朝から小雨が降っていて、下灘地区の文化祭だというのに何となく気の重い朝を迎えました。大体体育の日や文化の日は昔から雨が降らないものと思っていましたが、天気も時代を映す鏡なのでしょうか、少し言い伝えが合わないような気もするのです。

 先日えひめ地域づくり研究会議の運営員会の折、標記の研修会をやる旨のチラシが資料の中に入っていたので、運営員でもある門田眞一さんの関わっているイベントでもあるので久しぶりにプライベートな気分で顔出し参加することにしました。しかし参加して驚いたのは私のようなカジュアルな姿で参加していた人は皆無で、皆さんスーツを着こなし、賑々しいいで立ちの姿を見るにつけ戸惑ってしまいましたが、出席した以上帰るに帰れず忍の一字を貫きつつ大恥をかいてしまいました。妻が言う「背広を着て行ったら間違いない」の諭しの言葉をけったばっかりに、さすが度肝の座った私も面映ゆい感じがしました。追い打ちをかけるように市役所の職員が「若松さん何で来ているの?」と声をかけられ、「興味があったものですから」と答えてしまいました。その人はそんなつもりで言ったのではないのでしょうが、「場違いな場所へ来たもんだ」と深く反省したのです。

 でも勇気を出して出かけてよかったと今はむしろ清々しい気持ちなのです。というのは栄養学という学問も、伊予市に深いつながりのある佐伯矩(ただす)博士のことも今まで全く知らなかったことを知ったのですから、恥は恥として水に流し、今一度人間の命の源である栄養について考えて見たいものだと、いただいた書籍類を少し読み漁りました。

 除幕した碑文には「佐伯矩博士は明治九年旧新居郡氷見村に生まれ、三歳の時。医者であった父卓爾、母シンと共に旧北山崎村本郷に移り住んだ。幼少の頃から学業成績は抜群であり、地元の鹿島小学校、桂小学校に通い郡中高等小学校から松山中学校に進学した。当時はまだ鉄道が開通しておらず、約十五キロの道を毎日徒歩で通学した。

 第三高等学校(現岡山大学)医学部、京都帝国大学医科学教室に進み、その後北里研究所で細菌学や酵素について研究、野口英世とも親交を深めた。三十歳の時、米国エール大学大学院に留学して学位を取得、父の病気のため帰国した。博士は、当時医学の付随分野としか扱われていなかった栄養学の重要性を認識し、帰国後は世界で初めて栄養学の確立をめざして尽力した。大正9年には念願の国立栄養学研究所が開設され、初代所長に任命された。

 また関東大震災による被災者、北海道・東北など凶作地への救済、恵まれない幼少年に対する学校給食など、社会に対する食育の実地指導によって栄養への関心と普及に努めた。更に更に大正十三年には、専門家を養成するために佐伯栄養学校をを創立し、多くの栄養士を世に送り出した。博士は、当時使われていた「営養」の語を健康増進の意味を込めて「栄養」に改定することを文部省に進言、大正9年からは「栄養」が公用語となり今日に至っている。博士の発想の原点は、少年時代、通学途上にあった栄誉寺の寺号だったと思われる。

 栄養学は佐伯博士によって日本で生まれた学問である。世界の国々は、博士の業績によって今日の興隆をもたらし、今や私達の日常の食生活に多大の恩恵を与えている。昭和三十四年逝去、栄養にささげた一生であった。戒名醍醐院殿榮覺矩堂大居士 墓碑は西条市氷見にある」

                平成二十年十一月三日建立

                            佐伯矩博士五十回忌顕彰碑設立委員会

(栄養寺の山門)
(顕彰碑除幕式)

(顕彰碑)
(50回忌法要と記念講演会)


 記念講演会で合田徳明さん(元愛媛県栄養士会副会長)と柳井一雄さん(東京慈恵会医科大学付属病院栄養部長)のお話を聞きましたが、短い時間ながらためになるお話を聞きました。

  「背広着て 行けと勧める 妻言葉 無視して恥を かきぬるおわか」

  「この歳に なっても未だ 先よめず 修行足りぬと 反省しきり」

  「世の中は 偉い先人 いるものよ お寺の名前 学問にする」

  「栄養の バランス話 聞いたから 今日から少し 食べ方変わる」
 


 

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shin-1さんの日記

○親父の大工仕事

 何日か前、先日全国から仲間を集めて青年の船班長会を松山で催した折使った16ミリフィルムを視聴覚ライブラリーに返しに行くついでに、四国遍路札所のある寺山門近くの骨董屋に立ち寄りました。この店の主人夫妻とは馴染なので、前触れもなくぶらり立ち寄るのですが、ご夫妻は家にいない時が多く空ぶりも時々あるのです。この日も近くまで来たついでにくらいな軽い気持ちで立ち寄りました。人の気配がするのにチャイムを鳴らしても気がつかないのか、中々出てきません。そこで失礼とは思いながら裏の庭先から声をかけつつ中に入ると、ご主人が出てきました。奥さんはあいにく留守でしたが、立ち話をしながら繁雑に置いている骨董を見せてもらいました。私も骨董屋には時々顔を出しますが、この骨董屋は整理が苦手なタイプのようで、1年前に出かけた時も同じような雰囲気でしたから余り品物が動いてないような気もしました。しかし品定めする方は案外こんなお店の方が掘り出し物に出会うことがあるのです。

(屋外に作られつつある室内展示室、今は昔の手動ポンプが展示されている)

 前回出かけた時は汽船に使う霧笛(フォグホーン)を見つけました。今回は小さな木の火鉢が目につき、自分の浅はかな目効きで調べましたが、かなり古いもののようなので少し高いと思いながら小遣いの範囲内なので購入することにしました。ご主人がお礼にと井戸の釣瓶を汲み上げる鉄製滑車をくれました。そこへ奥さんが帰ってきてまた雑談に講じながら大谷焼の壺を値ぶみしました。これも欲しいので買うことにしましたが、残念ながら乗用車には積むことができず、次回トラックで取りに来る約束をして売約済みとしました。

 私は親父と同じく親子二代にわたって骨董品の趣味があります。多分親父の影響でしょうが、そのため家には所狭しと骨董品が置かれているのです。家族からはこの趣味は不評で何年か前、倉庫を改造してそこにまとめて置いたため、家の中はすっきりしました。しかし好きなだけにあれからも幾つか珍しいものが増えて、また置き場が狭くなってしまいました。

 私が骨董品を収集するのは母が亡くなって寂しくなった親父の気慰みのつもりで集めている親孝行のようなものなのです。親父は息子の私が言うのも何ですが、先ほど紹介した骨董屋さんとは違ってかなり綺麗に整理するタイプなので、収集している品物はそんなに高価なものは殆どありませんが、どこか気品があるのです。親父は私が手に入れた骨董品をしっかりと磨き相応の展示をするのです。今回の木製火鉢も取って帰った時とは見違えるほどに手入れをして展示に備えているようです。

 4日ほど前隠居へ行くと親父がこの火鉢の置き場所がないので、屋外の倉庫を改造してそこへ置きたいと唐突にいうのです。余り反対すると血圧が上がってもいけないので、しぶしぶ了解しました。するとどうでしょう。さっさと自転車に乗って近所の金物屋さんに出かけ、材料を運んでもらって着工したのです。

 私はこの4日間、島根県や宇和島市などへ続けて出張をして家を留守にしていました。今朝出帳から帰って倉庫辺りに出かけてみると、なんとまあ、すごい勢いで工事は進んでいるのです。とても90歳とは思えないような仕事ぶりに、家族も近所の人も驚いているようでした。

 妻はこの工事のことを知らないため、「お父さん、おじいちゃんがまた何かを始めたようですが知ってるの。するのはいいが、また足が痛い腰が痛いというと後が大変なので甘い無理をしないように言ってください」といわれました。いくら同じ敷地内に長年住んでいてもそこは義理の嫁と舅の関係です。お互い遠慮もあるのでしょうが、「病気で寝たっきりよりましだから、好きにさせた方がいい」と、やんわり両方の間を取り持ちました。

 あなたは少し体力の衰えを感じる歳なのに、おじいちゃんは果たして何歳まで生きるのかしら。ひょっとしたらおじいちゃんの方が長生きするかも知れない」とは妻の弁です。若くしてガンにかかり一命を取りとめた親父はひょっとしたら100歳以上生きるのかも知れないと思いつつ、妻が心配する自分の体を少し心配するこの頃です。

  「おじいちゃん 何か始めた 知っている 妻の言葉に ついついハッと」

  「歳とって 活き活き生きる 親父見て 俺も気力と 体力つけて」

  「足腰が 痛いといいつ よく動く パンを二枚も 朝食う訳だ」

  「骨董を 集め集めて 資料館 自分が骨董 なってる知らず」


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shin-1さんの日記

○友人のお家に招かれて

今日は宇和島での講演が終わってから、友人に誘われてお家にお邪魔しました。旧津島町から松尾峠のトンネルを超えて農面道路に入り、曲がりくねった山道やトンネルを超えると、宇和海特有の美しいリアス式海岸見えてきます。その海岸に沿って再び曲がりくねった道を走ると三浦半島の豊浦トンネルに出ました。「私の家は豊浦トンネルの入り口付近です」といわれてはいたものの道に不案内で不安に思いましたが、今日は妻と孫朋樹をお供に連れていたので無様な真似もできず、記憶を頼りに走りました。


 目指す是沢さんの家は直ぐに見つかりました。先に講演会場を出た松広さんが是沢さんの家の入口で待っていてくれましたが、手土産も持参しないことに気づいて、近所の酒屋を探し酒でもと思いついたまではいいのですが、近所に酒やは皆無で、どの浦々にある集落で聞いても酒屋などはなく、農協のAコープもあいにく日曜日で休みのため、結局は片道10キロも走って石応という小さな集落の小さな店でビールを買い込んで引き返すというハプニングでした。

 是沢さんの家は百年を有に超えた古民家です。外見も見るからに少し傾いているように感じられる古さで、玄関ならぬ勝手口に看板がかかっていました。中に入ると昔の民家そのままの古くて大きな梁や大黒柱、敷居など目を見張るばかりでした。昔土間だった場所を改造して囲炉裏を切って民芸風にしていましたが、惜しむらくは板間の板が立派過ぎて古民家にそぐわないほどアンバランスでした。



 早速私の古い友人が何人か集められていて、久しぶりに囲炉裏を囲んで懐かしい話に花を咲かせました。市会議員をやっている土居さんや土木業をやっている西平さんとは本当に久しぶりなのです。是沢さんが用意していた生きたアジは、頼まれて急遽わが妻が刺身にするべく包丁を使いました。他の人は囲炉裏の網の上に肉や野菜を置いて焼きながら食べ、食べながら飲んでいました。お陰さまで体中がバーベキューの匂いで燻製されたような感じになりました。

 妻と孫が一緒なため、是沢さんのお許しを得て早々にお暇することにしましたが、帰る途中に家のある西平さんを後部座席に乗せ、高光まで帰りました。h差しぶりに訪ねた西平さんの家にも請われるままに上がり込み、僅か5分程度でしたが流木アートはストンアートをの話を聞き、手土産にいただいて帰りました。

 実は今日、妻と孫朋樹にかねがね見せたいものがあったのです。それは「耕して天に至る」という表現や形容がぴったりの遊子水ヶ浦にある段々畑なのです。私は何度もこの地を訪れていますが、妻は初めてとかで是非一度訪ねたいと思っていたのです。念願かなって今日は朝早く家を出て講演の前に水ヶ浦まで足を伸ばしました。天気もまずまずで、段々畑が見える丘の上から見ると、まるでピラミッドのような石垣が幾何学模様をなして見えました。


 水ヶ浦の段々畑の下の駐車場にある即売所に立ち寄りましたが、店番をしていた4~5人の奥さんたちに久しぶりに出会って交友を温めました。かつて公民館や漁協女性部の集会に招かれたことがあって、有難きかなみんな私の顔を覚えていてくれたのです。

 妻以外にこのように、私は旅先のあちこちに、多くの知り合いの女性がいるのですが、妻は私の知名度の広さに驚いたり感心したりしていました。


  「現代の ピラミッド似たり 段畑に ただただ驚く 先人の汗」

  「久し振り 旅先声を かけられて 思わず弾む 近況報告」

  「友人の 自慢の民家 訪ねけり 柱一つに 百年歴史」

  「旧友と 囲炉裏囲んで 話し込む 懐かし日々が 思い出される」

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shin-1さんの日記

○何でこんなに忙しいの?

 昨晩夜遅く出張先の島根県松江市から帰ってきました。風呂を入り休む間もなくパソコンの前に座ってとりあえず一日のノルマである2本のブログをキープした頃には12時を回っていました。その様子を見ていた妻は「お父さん、そんなに無理や根を詰めると病気になるよ」と捨て台詞を残して、週末わが家へやって来ている孫たちの布団に潜り込んでサッサと寝てしまいました。

 それからです。私はこの二日間疲れているはずなのに眼が冴えて、結局は今朝2時ころまで起きていたのです。それでも今日は宇和島へ行く出張日なので、寝なければと自分に言い聞かせ床に着きました。それでも朝5時前には目が覚めて、今日の話の大まかなストーリーを考えたりして、何気なく朝を迎えたのです。

 そのうち居間で寝ていた1歳半になる孫尚樹が起きて、さっさと私の書斎にやってきました。朝一本のブログを書こうと思っていた矢先の出来事だったのですが、久しぶりに出会った孫を連れて比較的暖かい朝の散歩を孫を抱きながら楽しみました。

 そのうち妻が起きてきて朝食の準備にとりかかり、孫と一緒に朝食を取りました。そのうちお兄ちゃんの朋樹も起きてきて相変わらず賑やかに食卓を囲みました。

 わが家の週末はこのように孫たちの襲来で賑やかですが、これも見方によっては楽しい出来事なのかも知れませんが、私の忙しさにまるで拍車をかけているようでした。

 私のこの一ヵ月は知らぬ間に過ぎて旅に出て10月が過ぎ、旅先から帰るともう11月と月が変わっていました。ブログの目次も11月に変ってこれからまた前月のように毎日2本の目次ページを積み重ねて行くのです。

 私の忙しさの秘密は毎日やることが多いことにも一因があるようです。ブログを毎日朝夕かけば約2時間パソコンの前です。ハガキを3枚書く日課も一枚5分として×3=15分は最低必要です。また毎日の30分読書やハーモニカ5分以上のレッスンも馬鹿になりません。今でこそ毎日ではなくなりましたがシーサイド公園の掃除に要する時間も必要なのです。まあそんな時間は他の人や妻が寝ている間の時間を割いた、寝る時間を短くすれば出来る事ですからそれほど苦にはならないのです。でもこのリズムが講演などの旅によって狂うと、やり過ごせばいいのに、それを夜遅い時間や次の日に繰り下げてノルマを果たさなければならないので忙しく思うのです。この気の焦りが忙しさを増幅させていることは自分でも分かっているのですが、そのノルマ達成のための平凡な一日の積み重ねが非凡を生んで行くような気がしているのです。

 忙しい毎日はそれだけではありません。

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shin-1さんの日記

○出雲路での楽しい思い出②

 今日は昨晩の荒れた天気が全く嘘のような上天気に恵まれました。私はまだ東の空が白み始めた午前6時にホテルをそっと抜け出し、宍道湖の湖岸をのんびり散歩しました。時折忙しげに走る車のヘッドライトやテールランプの明かりが自分の体を照らしては通り過ぎて行きました。開けなずむ宍道湖の風情は格別でカモの群れ人の気配を気にせずが悠然と羽を休めていました。

 昨晩夜遅くまで交流会をしていたため少し気だるい所はありましたが、雲南市から松島さんと川住さんとの予約があるので、バイキング朝食を済ませて8時30分に待ち合わせ場所のロビーで二人と出会いました。松島さんとはもう1年以上も会っていなくて懐かしい限りです。3人で松江城に行きました。昨日の夜来の雨もすっかりあがり上天気です。前日堀めぐりをした場所から城内に入りましたが、菊花展の最中で立派な菊を見せていただきました。


 松江城は天下の名城で、松山城のような城山はありませんが堀も城も立派で荘厳な感じがしました。また城内にある今は歴史資料館になっている白亜の建物も立派で、城山から見渡す松江の市街も高層ビルなどなく山陰の中心都市として歴史の重みあありました。そこここを散策しながら3人で色々なことを話しました。川住さんは実業家で小泉八雲旧居近くの北堀に面した民家を借りて料亭と貸切宿泊所を経営しています。その縁の宿(えにしのやど)を見てほしいと誘われ出かけましたが窓越しに見える堀めぐりの移ろいもすごく落ち着いた雰囲気でした。縁の宿に行く途中松平家ゆかりの明々庵に立ち寄り抹茶を頂きました。庭から見る松江城も茶室も文人墨客が愛しただけあって素晴らしい詫び寂の世界を堪能させてもらいました。その後のんびりゆっくり伝建地区を散策しましたが、前に来た時とは違った出雲の文化にゆったりと浸ることができて、嬉しい限りです。

 11時にこの日の会場となる市町村共済会館白鳥へ到着し、市長さんはじめ色々な人と名刺交換し、打ち合わせを兼ねた昼食会に臨みました。私のような一介の田舎者がこんな場所へ来ていいのだろうかと思いましたが、ここまで来たからには性根を据えねばとスキルをアップして会に臨みました。

 会場は200人予定の椅子が全て埋まり、非ジョイスを出すほどの盛況ぶりでした。私の役目は開会式後の基調講演講師を約1時間、パネルディスカッションのパネラーとして約1時間半の中の、自分の発言時間と一人二役の重労働でした。

(市長さんの横の席に座って話しました)

 

 私の場合はアドリブで話すので、何を話したかはよく覚えていませんが、ステージへの反応は最高で、講演もパネラーもいい仕事が出来たのではないかと思っています。

 この日私は木になるカバンに私紹介のDVD、赤トンボの模型、ポスター、ハーモニカなど様々な小道具を用意して会に臨みました。また偶然の思いつきで新居浜の加藤さんから頂いた小さな電光掲示板まで活用して、参加者をくぎ付けにしました。このころには参加者の雰囲気も相当ゆるんで、爆笑の渦でした。また妻が車の中ででも食べたらと持たせてくれた美味しい双海町産のミカンを先着100人に配ったことも大好評で、貰わなかった人から少々不満の声が聞こえました。

(壇上でミニ電光掲示板を胸につけ熱弁をふるう私)

 日本一と自負する夕日の町伊予市からは残念ながらサミットの誘いがあったのに出席がなく、少し寂しい思いをしましたが、それでも3人で休みを取って一私人として参加でき、全国の夕日の美しい町へ伊予市双海町の夕日を情報発信できたことは何よりも大きな収穫でした。これからも私的な部分でしっかりと昔の実力を温存して夕日によるまちづくりをしっかりと推進してゆきたいと心を新たにしました。せっかくつかんだ夕日をテーマにしたづくりのソフト的遺産を守り伝え、遺し伝えてゆきたいものです。

(同時に開催された全国や世界の夕日写真展)
(夕日の見える時刻表示が至る所にありました)

  「日本一 今でも思う オンリーワン 夕日魅せられ 夕日を語る」

  「この頃に なってようやく 夕日とは 遅れているな 既に俺など」

  「ラフカディオ ハーン愛した 宍道湖の 夕日肴に 湖畔の宿で」

  「嫁ヶ島 見るほど魅力 こりゃ凄い 持てるものなら 荷物にゃならぬ」


 
 

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