shin-1さんの日記

○受け取り手のいない荷物

 昨日外出先から帰って着替えをしていると、玄関のチャイムが鳴りました。「ちょっと待って下さい」と大きな声を出して急いで着替えました。玄関先に出てみると郵便局の職員さんでした。最近は郵便局も民営化したためか、見慣れない顔の人が多くて、その人もこれまで一度もあったことのない顔でした。その職員さんは玄関を開けるなり、「荷物が帰ってきていますので受け取ってください」というのです。「えっ」と思いつつその荷物を見ると確かに妻の字で書かれたわが家発送の荷物なのです。今治に住む息子へみかんを送ったことは妻から聞いていたし、その荷物が届いても息子から連絡がないとこぼしていたのを知っていたのですが、まさかその荷物が相手である息子の元へ届かずに迷走し、わが家へ帰ってくるとは何ともはや奇妙な話です。

 私は納得いかないので、郵便局の職員さんに文句を言いました。するとその人は「何度か届けに行ったようでしたがお留守のようで、受け取られませんでした。お家の方にも連絡して欲しいとメモを入れたのですが連絡も取れなくて」と弁解されました。「それだったら送り主の住所を書いているのですから私の家へでも連絡をくれたらよかったのに」と反論しましたが、堂々めぐりになるし、この人には責任もないだろうと思いあきらめました。

 一週間迷走した荷物は中身の腐敗が進んでいるのでしょう、箱の下から汁が出ていました。私は早速息子の所へ電話を入れましたが、仕事中でつながらず、夜になって息子から電話が入りました。私は「折角みかんを送ってやったのになぜ受け取らぬ」と叱りました。息子の言うのには「このところ仕事が遅くなり、家に帰ってから郵便局へも何度か電話をかけたものの、本日の営業は終わりましたので明日にしてください」との回答ばかりで、結局受け取りタイミングを失ってしまった」とのことでした。荷物の迷走は荷主、荷受人、宅配人、それぞれが努力したのでしょうが、受け取らなかった原因もそれぞれにあるようで、一階に責める訳にもいきません。しかし私も息子も気をつけなければならないことは重々分かりますが、生モノと分かっている郵便局の対応も考えてもらわなければなりません。


 私はクレーマーではありませんが、早速顔見知りの郵便局長に電話を入れました。残念ながら局長は留守で協調代理が出ましたが、平謝りされる電話の向こうに対して少し冷静になってお話をしたのです。私は毎年100個に近い荷物を主に郵便局の窓口から送っています。それは郵便局長との長い付き合いや、郵政懇話会などに招かれたり、郵政研修所で講義をしたりして深いご縁をいただいていることへの感謝の意味を込めてのご愛顧なのです。郵政が民営化され間もないのですが、これが民間の宅配業者だったらどうなっていただろうと、まだまだ甘い郵政の対応に少し眉をひそめました。

 かくして迷走した荷物は私の手によって開けられ、腐敗の進んだみかんとまだ食べられるみかんとに仕分けし処分しました。この荷物が息子に届いていたと仮定すると今頃は、息子の胃袋に納まっていただろうにと思うと、やるせない気持ちになりました。年末年始で忙しくなるこれから、私も息子も、郵便局もみんなでトラブルのない明るい正月を迎えたいものです。後二日で師走ですから・・・・。

  「一週間 迷走続けた 荷が帰る 箱の底から 涙こぼして」

  「信用を していたはずの 郵便が こんな姿で 帰る寂しさ」

  「文句言う 私はやはり クレーマー? 煙たがられて それで終わりか」

  「受け取らぬ 息子も悪い お叱りの 電話しつつも どこか心に」

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shin-1さんの日記

○FAXの調子が悪い

 インターネットでメールが入るようになって、私にとってはすこぶる便利な世の中になってきました。何せ24時間いつでも発受信ができるし、全ての文字や画像が鮮明に読みとれるのですから、こんな嬉しいことはありません。しかしEメールにも欠点があって、相手がメールの送受信のできない人にとっては猫に小判なのです。メールを送って下さいと連絡をしても、FAX番号を聞いてFAXで文章を送って来る人の殆どは、メールが苦手や使えない人が多いのです。

 数日前相手先から「FAXで文章を送ったが届いているか」と問い合わせがありました。FAX兼用の電話に行ってみましたがFAXの文章は届いていないようでした。相手にそう伝えたものの心配になってよくよく調べてみると、FAX用のカーボン紙がなくなって受信した用件が5件も、FAXの中に閉じ込められていたのです。でも最近のFAXは利口なものでそのことをちゃんと記憶して、私に伝えることができるのです、

 わが家のFAX兼電話は接続調子やカーボンの調子が悪く、最近になって買い換えました。ゆえにカーボンもまだ補給しなくてもあるだろうと思っていたのですが、先日相手先から私が書いた40数枚もの原稿の校正ゲラが送られてくるなど、そういえばかなりカーボンを使ったと振り返りつつ、替え用のカーボンをNTTに注文しました。ところが土日を挟んでいたためカーボンが届いたのは昨日で、私が出払っていたため入れ替えが今日になってしまったのです。

 今度のFAXは前回故障した機種とは全く操作が異なっていて、FAXの送信は裏と表が全く反対なのには驚きました。先日も送ったはずの文章が白紙で送られてきたと文句を言われるほどで、メカに弱い自分がつくづく嫌になりました。今日だってそうです。外出先から帰ってNTTから送られてきたカーボンの入れ方が分からず、図解を見ても結局あんな単純な操作を20分もああでもない、こうでもないと触りまくって、やっと飲み込めたのです。


 FAXからプリントアウトして出てきた文章は大切な会議の要件で、早速相手先にFAXのカーボン切れでご迷惑をかけた旨の連絡をして事なきを得ましたが、最早古い情報手段だと思っていたFAXにもしっかりと対応しなければならないと肝に銘じた次第です。

 FAXが役場に設置された頃、なんて便利な道具だろうと思ったものでした。その後ワープロが登場した時も人間の英知に驚いたものでした。そしてまたインターネットに驚き、テレビのデジタル放送に驚きながら、現代を生きています。はてさて今度はどんな情報機器が出現するでしょうか。僅か10年の間に起こったさまざまな情報機器の変化に、ついて行くのがやっとといったこれまでを振り返り、もう賞味期限の切れかけた自分の姿を垣間見るのです。

 今年私はウインドウズXPという比較的新しい情報ソフトにおさらばし、ウインドウズビスタという新しい情報ソフトに乗り換えました。ウインドウズXPをマスターしないまま、これまで使っていたパソコンが壊れたため仕方なしの選択でしたが、進化しない私と進化したパソコンの距離は開くばかりです。リタイアした私にとって13万円の投資は余りにも大きな出費でした。でもこの2ヶ月余りで投資効果は確実にアップして、仕事の効率も大変良くなりました。このパソコンを大事にすると同時にFAXもしっかり使ってやりたいと思いました。


  「FAXの 調子今一 イライラが 募り何とか 修理しました」

  「俺などは 賞味期限も 切れていて 電子機器など 猫に小判か」

  「FAXは カーボンなくも 受信して ちゃんと知らせる 記憶が凄い」

  「ふと見れば 図解している マニュアルを 読みもしないで 分からぬはずだ」

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○新酒と新米が届く

 先日山の向こう大洲市田処に住む亀本さんが突然見えられ、今年の新米を届けてくれました。最近は早場米などが8月に出回るせっかちな時代になったので、今頃の米を新米といえるかどうかは疑問ですが、山里の棚田で作るお米は、八十八というお米という字そのままに手塩にかけて育て、しかも稲刈りを終えると稲木にかけて自然乾燥させる手間暇の末出来上がった、いわばお百姓さんが愛情を注いで作り上げた芸術品なのです。新潟魚沼産こしひかりなどが美味いお米の代名詞のように言われていますが、最近の汚染米騒動などを考えれば、お米の向こうに作り手の顔が見える安心安全なお米もこれまた一味違ったお米なのです。

 私たちは昔のようにお米を食べなくなりました。昨日一日だけでも朝はパンとリンキャベでご飯なし、昼は麺類でご飯なし、夜は酒宴ががあって飲み放題の店で締めのさつまをいただいたお陰でかろうじて茶碗に軽く一杯ですから、私のお米の消費量は僅か1合にも満たない少量なのです。

 昨日外出先から帰ったのは10時頃でした。酒宴が終わって知人との約束で寿司屋へ立ち寄りました。それまでに腹いっぱい食べていたので、失礼ながらその寿司屋ではあがりを一杯いただいて早々に店を出ました。遠来の知人ながら彼も出来上がっていました。帰り際「手土産のつもりで地元では銘柄の新種を送っておいたから」といわれました。

 家に帰ってみると妻が、「お父さんお酒が届いているよ」というのです。みれば先ほど寿司屋で再開した知人が言っていた手土産の新酒でした。知人は私がまだ酒を止めたことを知らないのでしょうが、いくらいい酒を送られても酒を止めた今の私にはまるで猫に小判といったところでしょう。私の妻もお酒は丸っきし駄目で息子たちも酒はそれほど飲まないので、私が酒を止めた今では正月用の酒がまだ残っているのです。親父は90歳になりますが若いころから酒好きで、今も晩酌を欠かさないのです。さすがに若いころのように量は飲みませんが、それでも毎晩1合弱の酒をたしなんでいるのです。

 おやじに知人の話をして新酒を手渡しましたが、親父は大層喜んでくれました。今晩あたりこの新酒を楽しむことでしょう。

 この酒も元はといえばお米から作られています。最近は酒米事情も変わって酒米を確保するのに大変のようです。先日解禁になった外国産のワインについてはマスコミも大々的に取り上げるのですが、ここは日本なのに何故か新酒の話題は少ないようです。私の町にも最近まで奥嶋酒造という蔵元が島錦という銘柄のお酒を作っていましたが、日本酒の消費量の落ち込みに対応することができず、残念ながら長い歴史に幕を閉じました。高い煙突も白壁の酒蔵も町の格式を示すように残っていますが、酒を作る息遣いが消えた建物が泣いているような寂しさを感じるのです。

 米も人、酒も人なのに全てが洋風化の波に押し流され、米も酒も人の気配がしなくなりつつあります。これも時代の流れでしょうか。私のささやかな日々の暮らしの中からも米と酒は消えようとしているのです。日本人の体に病気が増えた原因を、「米を食べると太る」という間違った宣伝をし続けた結果だという反論学者の説を聞くと、やはり日本人の暮らしや健康にはお米が一番だとも思うのです。そうだこれから少しお米に軸足を移して暮らしてみようと思った次第です。

  「酒飲まず お米も食べぬ 日本人 最早私は 何人でしょう?」

  「送られた 稲木のお米 玄米の ご飯に炊いて 妻と二人で」

  「送られた 酒でちゃっかり 親孝行 親父喜び 一日長生き」

  「蔵元の 酒が消えたる 界隈を 寂しく歩く 秋の夕暮れ」

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○作務衣

 先日国立大洲青少年交流の家で開かれた地域教育実践交流会に参加しました。日ごろ青少年を中心にしたボランティア活動に取り組んでいる170人もの人が集まり、楽しい集会となりました。この集会を開くにあたり実行委員会が組織され、私も愛媛大学の讃岐先生のお声がかりでお世話人さんの末席に加わり、何度か実行委員会に出席して意見を述べたり、当日の運営に参加しましたが、今回も様々なことを学び意義ある参加となりました。

そんな中で私の思いと運営に携わる人の思いが少しずれていて思わぬ効果をもたらしたのが卓話でした。

 私はライオンズクラブや倫理法人会早朝学習会などに呼ばれて卓話をすることがよくあります。ゆえに卓話を今回のプログラムに入れたらどうかと提案したのも私でした。それなら言い出しっぺのあなたがやるべきだといわれ、それなりの覚悟とまではいかなくても、軽い気持ちで引き受けたのです。卓話は一人だけでなく学校の校長先生でもある堺雅子先生を選んで、二人ですることに決まりました。それから何カ月かがあっという間に過ぎ去りました。先生は実行委員会の度に「若松さん卓話はどうする」と誘いの言葉があるのですが、私のイメージとしてはライオンズや法人会のように30分の与えられた時間にしゃべればいいと思っていたので、気にもせず当日を迎えることになったのです。前日事務局からメールが入り、「卓話は作務衣をするようになったのでそのつもりでお願いします」というのです。当日会場に行ってみると既にステージには炬燵まで用意していて、これでは卓話ではなく座卓の卓話、つまり対談ではないかと思いました。仕方がないのでいわれるまま校長先生と一騎打ちならぬ対談をさせてもらいましたが、私のイメージとはかなりかけ離れた結果に終わり、卓話を期待した人も多分「あれっ」と思ったに違いないのです。

(作務衣を着て卓話をする私と堺校長先生)

 私も校長先生も有無を言わせず作務衣に着替えさせられました。聞くところによるとこの作務衣は東南アジアで作られたらしく、HIVに感染した人たちの家族が収入を得るための手段として製作にかかわり、福祉ボランティア団体が販売してその収益金を送金しているのだそうです。

 私は紺のM寸でぴったり、自分で言うのもおこがましいのですが、一度は着てみたかった服だけに体にフィットしてとても着心地がよく、一辺で気に入りました。しかし長時間着ていると私の白いシャツがみるみる紺色に変わり、私の手先も紺色になってきました。多分染めてから水洗いが出来ていなかったものと思われますが、まあそんなことは大したことではなく、家に持ち帰って2度ばかり洗えば色も落ち着いて藍染の渋い色が出てきました。

(作務衣を着た私、似合っているでしょう)

 作務衣はもともと禅宗の僧侶が労働(作務)をする時に着る作業着のことですから、薪割りや畑仕事をするときだって着ればいいわけです。最近は作務衣は芸術家のような人が着ていて、それなりに文化を感じるのか、それなりの人が着て町を歩いているようです。わが21世紀えひめニューフロンティアグループの大野事務局長も盛んに愛用しているのです。

 さて私は卓話というプログラムの思わぬ勘違いから作務衣を手に入れ、卓話のお礼にと校長先生と私の二人とも試着後いただくことになったのです。タダにはタダの礼という言葉があるように、私はこの作務衣の販売の手助けをしなければなりません。そこで考えたのはこの作務衣を着て、この上に塩崎さんに貰った三崎の裂き織袢纏を羽織って落伍をするという試みです。扇子も日本タオルも、ましてや高座の台までも全ていただき物で落伍は益々オーバーヒートしそうな雲行きです。

 勘違いから出た誠とでも申せましょうか、作務衣は思わぬ方向へ向かいそうです。

  「作務衣着て 卓話をせよと 言う人の 言うがままにて 卓話終わりぬ」

  「作務衣着た お陰で作務衣 いただいた 広告塔にて 作務衣宣伝」

  「作務衣着て 落伍をすれば 箔がつく 裂き織上に 羽織ってやろう」

  「染物の 色に染まりし シャツズボン 妻に叱られ 自分洗濯」 

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shin-1さんの日記

○3Cの変化

 かつて私たちが若いころの日本は戦後の混乱期という暗いトンネルを抜け、高度成長期の真っただ中にありました。その象徴は東京オリンピックだったように思うのです。それまでは暖をとるのは火鉢、ご飯も風呂も薪をたいていました。洗濯はタライと洗濯板、掃除も箒でした。それがストーブやガス、洗濯機や掃除機が開発普及して今のような文化的な暮らしになったのです。その頃は豊かさの代名詞として3Cという流行語が生み出されました。カー・クーラー・カラーテレビです。そんな3Cを手に入れるためにみんな一生懸命働いたものです。それが今では現実のものとなって、今ではくる桃一家に一台以上は殆ど持っているし、クーラーやカラーテレビは当たり前の時代になっていりのです。

 しかしそんな高度成長も長く続かずバブルの崩壊といわれる時代がやってきて、トイレットペーパーが不足するような、そして全国各地で公害が起こるようになり、選挙も革新的な人や芸人が当選するような時代を迎えたのです。「物から心へ」というキャッチフレーズも生まれ3Cはカルチャーやコミュニティといった横文字で形容されるようになったのです。しかしそれも長く続かず、最近は再びバブルの崩壊が始まり、世界的な経済不況が訪れ、株価は暴落や乱高下を繰り返しているのです。また私たちが子どもの頃は固定相場で1ドル360円だった円とドルの関係は変動相場制になって今や100円を割り込んでいるのです。また油も今は少し値を下げていますが一時は180円の高値を付けていました。それでも自動販売機で買う水やお茶は500ミリリットルで150円ですから、1リットル換算すると300円ものお茶や水を飲んでいて、油の倍の値段がするのですからおかしな話です。

 こんな混沌とした時代は必ず変革を求めるのは世の常で、次期大統領に就任することが決まったオバマ氏はチェンジを訴え、アメリカ史上初の黒人大統領が誕生するのです。オバマ氏は名うての演説家で、Chenge Yes

I Canと訴え、チェンジが流行語となっています。まさにCの時代の到来です。

 私たち人間の一人一人の力は無力で、そのことを承知しているのか自分には出来なくても誰かの力で予直しをして欲しいという強い願望を持っています。多分その表れが保守的なマケイン氏よりオバマ氏を選んだのでしょうが、果たしてオバマ氏がアメリカや世界の救世主になり得るかどうかは疑問な所があるようです。現大統領のブッシュ氏だって就任後起こった湾岸戦争時は圧倒的な8割を超す支持率だったのに、現在の支持率は下がる一方です。これは海の向こうの話だけではなく日本の麻生さんだって同じ運命をたどっているのです。

 オバマ氏の言葉を借りれば確かにチェンジしなければなりません。しかしチェンジしたギアーやハンドルをどこに向かせるのか、そのことが問題なのです。多分キーワードは二つのCだと思うのです。Challengeによって   Cannceをつかむことだと思うのです。チェンジシフトした志はチャレンジしなければチャンスは生まれてこないのです。これからの3Cはチェンジ・チャレンジ・チャンスだと思うのですがいかがでしょうか。

 オバマ氏のような広い世界に生きている人と、私のような小さな世界に生きている人間とでは考えも行動も、その影響も月とスッポンでまるっきり違いますが、私たちのような地べたを這って生きている人間にだってこれからの3Cは必要かも知れないと、密かに行動を起こす決意をしたこのごろです。

  「三Cか 思い指折り 考える チェンジ・チャレンジ そうだチャンスだ」

  「いつの世も アクセル踏み過ぎ ブレーキが かかって気づく 人の愚かさ」

  「アメリカが クシャミをすれば 日本など 周りの国が 風邪をひきます」

  「日本でも オバマ再来 期待して 間抜けな人が 間抜け真似する」 

 

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shin-1さんの日記

○娘のマンションでの留守番と子守り

 今日は松山市道後にある娘のマンションで、留守番と孫の子守りを頼まれ一人出かけて行きました。来春小学校に入学する孫朋樹の学校での健康診断があるらしく、1歳5か月の孫尚樹の子守りをして欲しいというのです。私の予定表をチェックした妻が娘と相談して有無を言わせず私の予定表に「留守番と子守り」と勝手に書き込んでしまったのです。仕方がないので少し早く出かけました。今日は比較的天気もよくて気温も温かく、「まだ時間があるので温泉にでも入って来たら」と勧めてくれるので、車をマンションに置いて歩いて出かけて行きました。

 ものの5分程度の所に椿の湯という松山市営の温泉があります。温泉と言っても大浴場があるだけの公衆浴場のようなものですが湯質はきわめてよく、私は娘の家に来たついでに時々利用しているのです。真昼間の温泉はかなり空いていて、やはり地元の高齢者が圧倒的に多いようでした。ゆっくり温泉につかり久しぶりにのんびりしました。こんな時間だし、知らない人ばかりだろうと鷹を喰っていたら、いきなり「若松さんじゃあないですか」とお声がかかりました。はてさて誰だったかな?と記憶の糸を手繰るのですが中々思い出せません。それもそのはずで、「私はあなたの話を県民文化会館で聞きました」というのです。温泉につかりながらその時の話をしてくれましたが、はてさて正直な話覚えていないのです。体を流そうと風呂桶を持って洗い場に行くと、隣で洗っていた人がまた声をかけてくれました。その方は市役所の職員だった人で広域行政を担当していた頃出会った方でした。あれやこれや積もる話をしましたが、落々風呂にも入れない心境でした。

 湯からあがって外に出て商店街を歩いて道後温泉本館前まで行きました。昨日までの連休が終わったもののお昼時なのでそれなりの観光客が集まって盛んに記念写真を撮っていました。この界隈は区画整理によって随分立派になり、人力車なども停まっていてどこか懐かしい観光地の風情を感じさせてくれました。再び元来た道を引き返し、娘のマンションまで帰りました。私が出かけるときお昼ご飯を食べていた孫尚樹はすでに寝室で午睡の時間らしく、娘の差し出すお茶をいただきながら孫の昼寝に付き合ってソファーにゴロリ横になってウトウトしました。そのうち娘は学校へ出かけて行きました。寝室を覗きましたが孫はスヤスヤなので、私は娘のパソコンを開けブログを打ちはじまました。しかし勝手が分からず、マウスのないパソコンで打ったブログの内容を登録することができず、ついに幻の原稿となってしまったのです。

 孫尚樹は3時半までぐっすり寝込んで、私の子守りの仕事は手持無沙汰でしたが、そのうち起きてきた孫のオムツを替えたり、おやつを食べさせたり、本を読んでやったり、時には腹の上に乗せてアクロバットのような遊びまでして、楽しいひと時を過ごしました。そのうちコートを着せ靴を履かせて戸外へ連れ出し散歩をしました。言葉がまだはっきりと喋れないのですが「ワンワン」だけは言えるようで、あちらこちらから聞こえる犬の鳴き声を頼りに細い路地道を好き勝手に歩かせました。そのうち大きなお屋敷の塀の下でドングリがいっぱい落ちているのを見つけました。孫は喜んでそのドングリを拾い家に持ち帰りました。まもなく娘と一緒に帰った孫朋樹も一緒になって再び薄暗くなり始めた道をドングリ拾いに出かけました。

 今日は孫のお陰ですっかりのんびりすることができました。しかし都会のマンションは音もなく声もなく、隣に人の気配もなく、ましてや暑さ寒さの季節感もなく、田舎に住む私には少々息の詰まるような空間でした。

  「音もなく 人の気配も ない社会 田舎育ちの 俺には不向き」

  「お元気か? 声をかけられ 振り返る 思い出せない 知らないのだから」

  「孫の手を 引いて路地裏 のんびりと 映る人影 長く尾を引き」

  「パソコンで ブログ書くけど 記憶せず 結局消えて 元の黙阿弥」

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shin-1さんの日記

○身近な晩秋の景色

 楽しみにしていた11月の連休も、最後の日が雨にたたられながら昨日で終わりました。私のようなサンデー毎日な日々を過ごしている人間にとって昨日のような一日中の雨は、いい骨休めになるのですが、みかん農家やイベントを企画している当事者にとっては残念としかいいようのない恨めしい雨になったようです。

 私は久しぶりに会議や出張のスケジュールもなく、今月初めて家でブラブラできる休暇となりました。今月はまだ一週間を残しているというのに島根県松江市、長野県木曽福島町、大分県大分市、島根県益田市、高知県芸西村など、県外にも度々出て結構忙しい日々を過ごしました。今週末には東京へ行きますので、自分の行動範囲がかなり広いことを実感しているのです。

 昨日雨に濡れた家の周りの風景を見て少し驚きました。気がつかない間に家のすぐ前に見えるわが町のシンボル本尊山辺りはハゼやクヌギの紅葉が進んで見事な景色になって季節が動いていると実感できるのです。最近の里山は何処へ行っても杉やヒノキの植林が進んで常緑樹ばかりなので、季節感を感じられないと思っていましたが、こんな身近な場所にこんな素敵な風景があったのです。昔は植林もできない価値のない山だと思われ、車の入る林道や農道もなく放置されている山ですが、それがかえって一周遅れのトップランナーとなって自然林を残しているのですから、世の中は分らないものです。

 今朝裏山に登ってみました。雨上がりのしっとり濡れた草を踏みしめながら小道を歩くと、急斜面に昔からある柿の木の実もかなり熟していました。私が収穫しないものですからヒヨドリなどの恰好の餌場となっているのです。遠くで鳴く野鳥の声が長閑に聞こえてきました。柿の実が葉を落とした木に残っている姿は晩秋を表現するにふさわしく、絵になる光景です。折角だからと柿の実を4~5個枝につけたまま折って持ち帰り、玄関先の大きな花瓶に活けてみました。部屋の中へ秋の風情を持ち込んでみたのです。しかし残念がら華道など知らない無趣味な私には上手く表現できませんでしたが、妻は「まあ綺麗」と褒めてくれました。

 私のブログ「shin-1さんの日記」にも度々登場するわが書斎の前に置かれている庭石に張り付いて生きるシノブもすっかり紅葉し今は秋の色を見事に表現してくれています。朝な夕な書斎の窓越しに見えるシノブは、私に季節の移ろいを感じさせてくれる道具立てかも知れないと思いました。葉を落とした丸裸の冬、燃えるような芽吹きの春、緑濃く生い茂る夏など、たったひとつの庭石と植物が織りなす詫寂の世界なのです。この庭石に昨冬は孫朋樹と割りばしに輪切りのみかんを置き、野鳥の餌付に挑戦し、メジロやヒヨドリを呼び寄せ、野鳥観察までしましたが、今年もそんな冬の楽しみも味わいたいと思っています。

 季節は確実に寒い冬へと向かっています。今朝の裏山から遠望する瀬戸内海は漁船が出漁するエンジンの音も賑やかでした。

  「晩秋を 庭に見つけて 写真撮る 間近な冬を 感じさせつつ」

  「時流れ 職辞してから 早四年 仲間はすでに あの世旅立つ」

  「ヒヨドリの 声も長閑けき 裏山に 登りでハゼの 赤き下行く」

  「雨あがる 濡れ草踏んで 路歩く 長靴の中 少しひんやり」  

賑やかでした。

 

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shin-1さんの日記

○大根の調理

 私は外では男女同権だのと格好いいことを言っていますが、こと家に入ると家事一切を何もしないし何もできない男なのです。ですからこれまで家でご飯を炊いたこともないし、一度だけ妻が入院した時子どもに牛丼を作って食べさせたことがあるだけで、後にも先にも調理などしないのです。私のことを妻は二重人格だと思っているようですが、私には私の仕事があると、これまでは何とかそれで済んでいました。

 私が子どもの頃の教育はまさに「男子厨房に入るべからず」の教育でしたし、わが家は漁家なので特に封建的で船の神様は男が仕切るものと決められていました。ですから正月の元旦だけはもう中学生の頃から雑煮だけは長男である私が親父の指導を受けてやっていました。家庭での料理といえばただそれだけで、何もせずに男風を吹かせているのですから、二重人格といわれても仕方がないのです。

 昨日と今日は孫たちがやって来て賑やかに楽しく過ごしましたが、妻にとっては子どもたちの2家族が三食を食べるのですから、まるで目の回るような忙しさだったに違いありません。子どもたちもそのことが分かっているのか近頃は連休の最終日は昼ご飯を食べると早々に色々な食材を土産に帰ってゆくのです。今日も午後3時ころに帰って行きました。妻は土曜日が一日仕事のためこれで今週も家でのんびり休むこともできず、来週につないで行くのでしょうが、年齢的にもう60の坂を越えているのでかなり疲れた様子なのです。

 子どもたちが帰ったので妻は「温泉へでも行きたい」と私を誘いましたが、私はあいにく原稿の締め切りに追われているため、妻は一人で出かけました。出かける折私に「大根を畑から取ってきて輪切りにして湯がいておいてくれない」というのです。私はそんなことしたこともないので、「そんなことできない」と突っぱねて書斎で原稿を書いていました。

 やがて原稿の一つが書きあがったので、気分転換に外に出ました。ふと妻の言葉を思い出して、畑に行き大根を引き抜いて水洗いしました。そしてテレビなどのおでんを作る番組で見た大根の輪切りを見よう見まねでやってみました。まず大根を適当な厚さの輪切りに切り、桂剥きのようにして皮を取りました。そして上下の面を取って太鼓のようにしました。鍋に大根が浸るくらい水を張り、ガスコンロにかけて火をつけました。それから約30分コトコト茹でました。本当はこれまでは下ごしらえでここからが調理なのでしょうが、妻からの依頼はここまでなので、妻が帰ってから味付けして食べるようにする予定です。今日は外も朝から一日中雨なので親父の夕食も6時ころには持って行かねばならないため、午後5時過ぎにはわが家へ帰ってくるでしょう。よく出来たと褒められると嬉しいのですが、また次回もお願いといわれそうなのでとりあえずこれ以上のことはしませんが、親父と同じようにもうそろそろ我を張って何もしないことを誇りのようにするのはやめて、少しでも妻の仕事をカバーできるようになりたいものだと思った次第です。


  「大根を ただ洗うだけ 湯がくだけ それでも進歩 一歩進んだ」

  「もし何か あったら俺は 生きられぬ 何にも出来ぬ 駄目な亭主だ」  

  「休みなく 働く妻に 感謝して ここまでならば 誰でもできる」

  「大根が コトコト音を たて踊る 今夜はこれが 胃袋中へ」

 

  

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shin-1さんの日記

○孫朋樹6歳の誕生日

 今では私の相棒といわれる孫朋樹が昨日6歳の誕生日を迎えました。早いもので来年は小学校へ入学するのです。孫朋樹は私たちにとって初孫だっただけに、その成長は私たちにとっても生きがいになってきました。その後尚樹、希心と男の孫ばかりが誕生して3人となりましたが、私の定年後の良き相棒となって、特に人間牧場をフィールドにしてよく遊び、よく育ってくれました。自分の子どもの子育ては仕事の多忙さゆえに殆ど妻に任せっきりでしたが、孫は目に入れても痛くないほど可愛くて、木心も合って随分行動を共にしてきました。それでも最近は私の仕事が忙しかったために約2ヶ月近くも出会いがなく、この週末も私が出かけていて、昨晩やっと出会ったのです。

 誕生日が来て6歳になったから余計思うのかも知れませんが、孫朋樹も随分成長して大きくなりました。わが家のダイニングにある大きな柱には、わが子や親父、母、妻の成長が一目で分かるようマジックインクで印をしているのですが、孫朋樹の成長はこのところ著しいようです。自分もそのことを自覚しているようで、最近では弟尚樹の面倒をよく見て、今日も弟に御飯を食べさせる手助けをしてくれていました。

 私がブアメーバブログにブログを書き始めて3年余りが過ぎましたが、私のブログには朋樹のことが常連的に度々登場するので、ブロガーたちにはもうなじみの顔で、時々朋樹の近況を聞かれることがあるのです。またいつも私の金魚のフンのようについて歩いているため、シーサイド公園やまちづくりグループではすっかり顔なじみの人ができているのです。

 昨日は私が帰るのを待って夕方朋樹の誕生会を開きました。あいにく娘婿は勤め先である大学の入学試験のプレゼンテーションがあるとかで、誕生会には間に合いませんでしたが。長男の家族も駆けつけ賑やかな誕生パーティーとなりました。妻の用意したバーズデーケーキに6本のローソクが灯され、みんなでハッピバーズデーの歌を歌いました。そしてローソクの灯が朋樹の息で一気に勢いよく消されましたが、得意満面な成長した朋樹の姿にみんな目を細めました。やがてケーキか切られ、切り分けたケーキを食べながらみんなで楽しいお話をしました。そのうち娘婿も帰ってきて楽しいひと時を過ごしました。

 ふと私はこんな可愛く素直な孫たちのような子どもが、大きくなったら何で親の言うことも聞かない人間になるのだろうと、不思議に思いました。確かに子どもは年齢を重ねる度に反抗期を繰り返しながら成長していくのですが、そのプロセスの中で周りの人の育て方が誤ると、とんでもない方向へ向かう危険性をはらんでいるのです。

多分孫朋樹もそんな反抗期の階段を駆け上がっていくのでしょうが、せめて私の子どものように人間的に温かい普通の人間になってほしいと願っています。

 昨晩は久しぶりに孫朋樹と一緒に風呂に入りました。そして頭や体を洗ったりしてやりましたが、孫は何を思ったのか、「おじいちゃんも洗ってあげる」と私の背中をタオルでゴシゴシ洗ってくれました。人生最高の幸せだと思いました。来年からは長女の次男尚樹と長男の長男希心が少しばかり大きくなってまたおじいちゃんの役目が必要になるでしょうが、朋樹同様私にできることをしながら孫育てに一役果たしたいものです。

 わが家も何だかんだと言いながら、90歳になる親父も私たち夫婦もどうにか元気だし、息子二人はまだ未婚で気がかりですが、長女夫婦、長男夫婦の家族もそれぞれ幸せそうにに暮らしていて、ひょっとしたら今が一番幸せなのかも知れません。幸せとは幸せと感じる心なのです。

  「孫六歳 ケーキに差したる ローソクを 一気に消して 頼もしきかな」

  「金もなく 地位も名誉も ないけれど アットホームで どこか幸せ」

  「おじいちゃん 背中を洗って あげようか 孫のいきなり お目々ウルウル」

  「俺などは 六歳頃は 字も書けぬ 今時子ども 何でもござれ」

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○白滝の紅葉を訪ねる

 地域教育実践交流集会が終わり、午後1時ころ国立大洲青少年交流の家を解散お暇したので、連れの松本宏さんの車に便乗して帰りました。昨日行く時は長浜町今坊にある慈光寺という久保さんが住職のお寺さんに立ち寄りました。ここはハゼとイチョウの紅葉が見事なはずだから、少し早く出て寄り道しようということになったのです。昨年のこのころ、三崎町へ行く折訪れた時の印象が余りにも目に焼き付いていたためです。しかし今年は季節が少し遅れているようで、残念ながらイチョウもハゼもまだ紅葉には少し早かったようでした。それでもお寺の庭からは青島が一望でき秋の眺望を満喫することが出来たのです。また沿線には野菊やツワブキの可憐な花が今を盛りと咲いていて、目を楽しませてくれました。

 そんなこともあって、昨日行く時に帰りには瑠璃姫祭をしている白滝に立ち寄ろうと話していたのです。昨日は白滝の入口にある玉井石材にも立ち寄り、上島町に移住してこの度「島カフェ」や「会社を立ち上げる、年輪塾塾生である兼頭さんに何か祝いの品をと考え玉井石材で、フクロウの置物を3個買い求めました。フクロウをおふくろ「恩への感謝)、月給袋(経済的繁栄)、胃袋(健康)に見立てた物語を即興で考え付いたのです。都合よく玉井石材の社長もいて送ってくれることになったのです。

 白滝にさしかかったので石材店前の肱川堤に車を止め、玉井さんとあいさつを交わして川沿いの道をゆったりとした歩調で登って行きました。この日は3連休とあって、かなりの人が上り下りをしていました。中には顔見知りもいて暑くもなく寒くもない午後のひと時を松本さんと二人登りましたが、松本さんは100キロ超級なのでかなりきついようで、60歳を超えた私の方がペースが速いようにも見えました。松本さんは一昨日、高知県馬路村魚梁瀬の千本山へ登山したばかりなので、それが響いているのではないかと思われましたが、逆に私は自分の体調に自信が持てるほど快調な歩きっぷりでした。滝の頂上付近から見える白滝の家並みもどこか懐かしさが感じられました。

 最近の雨のせいでしょうか、滝の水は予想以上に流れていて、幾筋も滝の流れが見え、紅葉した紅葉と見事にマッチしていました。昔は臨時列車も止まるほど近郷に名の知れた名所でしたが、今は滝祭りや瑠璃姫祭りしか人手がないと地元の人もこぼしていますが、今日ばかりは地元の人が車の交通整理に出て駐車場に誘導するほどの人出だったようです。

 何日か前、信州木曽福島で日本一の紅葉の姿を見ているため、左程の驚きではありませんでしたが、それでも滝と紅葉のコラボレーションは実に見事で、いい目の正月をさせてもらいました。水車小屋では鉄製の水車が勢いよく回り水車小屋の中ではうどんやソバが作られていましたが、自然エネルギーを使った水車の音がどこか懐かしい田舎の郷愁を醸していました。

  「滝麓 何処か懐かし 水車小屋 暗き明かりで ソバうつ親子」

  「よく見れば 中国人の 声がする 国際的に なった白滝?」

  「風流を 楽しむ余裕 ないけれど せめて身近な 紅葉で一句」

  「元気かい すれ違いざま 声をかけ 通り過ぎたる はてさて誰か?」

 

 

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