shin-1さんの日記

○人間牧場落伍高座用座布団の贈り物

 一昨日わが家へ宅配便で何やら大きな荷物が届きました。妻と二人で開けてみると中から大きくて立派な座布団が出てきました。ハガキに書いたメッセージが添えられていました。

 「今年もあと一ヵ月、師走の月を残すのみとなりました。つどいでは大変アンコールにお応え下さり、ありがとうございました。人間牧場を訪問させていただいてより思っておりました。若松さんへの送り物がやっと出来上がりました。楽屋裏にでもお敷きいただけたら嬉しく思います。時節柄ご自愛下さいませ。

                                    山本イツミ


 山本さんが厚生年金受給者協会宇和島支部の支部長さんたち数人を連れられ、人間牧場へ来られたのは7月26日のことでした。受給者協会の研修会に講演をして欲しいとの依頼のためにわざわざ来られたのです。この研修会には以前にも講演したことがありましたが、アンコールの声がかかったと嬉しいお話でした。山本さんは人間牧場での散策を楽しみ帰られましたが、10月30日に宇和島市福祉センターで行われた講演会に再開し、無事役目を果たしたのです。年金受給者協会には各支部があって、それぞれ同じような時期に集会を持っていますが、今年も西条や八幡浜の支部から講演依頼があって出かけたのです。

若松進一ブログ

 数日前山本さんからメールが入りました。「ささやかな送り物をしたいのですが、少し大きいいので驚かないでください」とのことでした。そんな矢先の送り物が座布団とは嬉しい贈り物なのです。贈られた座布団は裏地(薄緑色)と表地(朱色)の配色がまったく違うのです。察するに一枚で2回も使い分けることができるようにとの配慮でしょうか。山本さんはこの座布団を楽屋裏でと言っていますが、これは表舞台の高座用座布団として大切に使いたいと思っています。


 私が高座に上がり落伍をするようになって、ごひいき筋から様々なプレゼントが届きました。高座用の切り株は高知県奈半利町の坂本さん、羽織代用の半纏は三崎町の塩崎さん、めくりと人型パネルは国土交通省観光カリスマ塾、そして先日作務衣は社協の白方さん、扇子とタオルは南海放送もぎたてテレビ、さらには電光掲示板は加藤さん・十亀さんと、揃いも揃ったごひいき筋の贈呈です。

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 はてさて、そろそろ「夕日亭大根心高座本、「夕日徒然草・地の書」も残り少なくなってきました。年末までには原稿を書き上げ、「水の書」を作らなければなりません。そして肝心の落伍の話芸をもっと高めるよう修行もしなければなりません。正月を挟んだ冬ごもりの季節こそ、来年へのステップにしたいものです。


  「こりゃ立派 友の送りし 座布団を 敷いて高座に 上がり落伍す」

  「裏表 違う絵柄の 座布団は 裏と表の 話に似たり」

  「そろい踏み できた落伍の 調度品 ごひいき筋は 有難きかな」

  「矢の如し 落伍始めて 早一年 悲喜こもごもの 話芸語りぬ」    

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shin-1さんの日記

○秋の夕日に照る山もみじ

 今日は松山工業高校の100周年期成会の役員会というのがあって、出かけて行きました。「お父さん、よく行く所があるねえ」と妻に感心してもらいながらの外出です。妻が言うように自分自身でも「よう行く所があるなあ」と感心するのです。松山工業高校は来年100周年を迎えます。この区切りを大切にしようと期成会が結成され、私は現職でもないのにPTA会長を6年もやった物好きな関係からでしょうか顧問に祭り上げられ、これまでの役員会には全て参加して意見を述べているのです。この会に集まる人は同窓会の役員と学校の先生方、それに現職のPTA役員の方々ですが、同窓会の役員はかなり歳を召した方が多く、若い先生たち集団と、どっちつかずの私たちのような中間層で構成されているため、意見の相違が歴然としていて、意見が行ったり来たりの堂々巡りが多いようなのです。それはそれとして仕方がないのですが、これまで何度も積み重ねてきた会議をぶち壊すような意見も飛び出して、関わった方々からはブーイングが起こりそうな雲行きもあって、はらはらしました。

 「この若造が何を言うか」と思われながらも私は会議では必ず意見を言うたちなので、積極的に意見を述べています。今日は記念式典の時の記念講演の講師の選定をめぐって長時間を費やしました。結局は私たちの意見が通って決定はしたものの、会議の方向未だ定まらずといった感じです。

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 会議が終わって昨日と同じように夕闇せまる道を引き返し、家に帰って車を降りて辺りを見渡すと、昨日から師走に入って暦的には初冬で秋の夕日ではないのですが、秋の夕日と同じような真っ赤な夕日が双海町のシンボル本尊山のもみじを真っ赤に染めているではありませんか。

 思わずデジカメを取り出し裏庭に駆け上がりその美しい残照に輝く風景を一枚撮りました。いやあ実に見事でした。思わず童謡唱歌である「もみじ」という歌を歌いました。

    ♭秋の夕日に照る山もみじ

      濃いも薄いも数ある中で

      松をいろどる楓や蔦は

      山のふもとの裾模様♯


 ふるさとは遠きにありて思うものというけれど、自分の身近な場所にこんな綺麗な原風景があるとは、今の今まで気づきませんでした。私たちの暮らしの中には借景と呼ぶにふさわしい風景が存在しますが、いつの間にか日々の暮らしに慣れて当たり前の風景としてしか自分の目には映らないのです。

 この何気ない風景の中で私は双海町の海に沈む夕日の美しさに気づき、その夕日を地域資源にしてまちづくりをやってきました。多分これからも、今まで気づいていなかった部分から新しい発見があるかも知れないのです。

身近な人、身近な風景、身近な暮らしの中に新しい発見をするよう心がけて生きてゆきたいと思っています。


  「庭に出て 始めて気付く 夕暮れの 本尊の山の 美しきかな」

  「朝夕に 見続けている 山々の 紅葉夕日が 照り映え綺麗」

  「会議終え 帰りしわが家 ホッとする 外は紅葉で 中からお帰り」

  「このところ 天気続きで うららかな 初頭の日差し 干し柿照らす」


 


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shin-1さんの日記

○得意が違う妻と私

 私の妻はパソコンをやりません。パートで務めている歯医者さんでは仕方なく仕事でパソコンをいじっているようですが、「家に帰ってまであんな難しい道具を触るのは嫌だ」というのが本音のようです。ゆえに私がこのパソコンを使い、妻の悪口を少々書いても妻の目には触れることもなく、書きたい放題、言いたい放題というのが実態のようです。でも谷岡和美さんなど私の友人の女性から素敵なブログ文章やメールが届く度に、私の妻の情報的遅れを気にするのです。今は務めているから町内の情報は歯医者さんのロビーでのお客さん同士の会話で驚くほど知っています。しかい今にその職場を辞めると情報御地になるのではないかと思ったりするのです。機嫌の良い時にその話をすると、「そのうち仕事でも辞めて時間ができたらするわ」と軽くいなされます。

 私の場合もパソコンをいじり始めてそんなには経っていませんが、パソコンをいじることが下手くそな私にとってさえ、パソコンは重要な情報発受信の道具となっていて、パソコンなしでは生きていけないとまでは行きません、そのくらい重要な役割を果たしていることは間違いないのです。

 私の妻は数字に強く、電話番号でもかなりの数を暗記していて、息子娘への連絡や親類への相談など、番号簿を見なくても平気で間違わず通話しています。また高校が商業科だったこともあってソロバンや簿記は自慢するほどでもありませんが、まあ得意な方だと思われます。そんな妻のお陰でわが家の経済的基盤は貧乏ながらも何とか火の車になることもなく、度重なる危機を乗り越えてきました。若いころ家を建てた時も、子育てによる教育費のねん出も、また安月給ながら家計のやりくりができたのも全て妻の努力の賜です。やはりわが家の一番の功労者は妻だと思っています。おっと、こんな美辞麗句のような、そして歯の浮くような褒め言葉をいくら並べても、このブログを目にすることのない妻にとっては馬の耳に念仏といったところでしょうか。

 その妻がこの2~3年凝っているのが、ビデオの操作です。これまでのようなテープによるビデオでなくCDで予約録画できるのを買ってから、盛んに使ってビデオを楽しんでいるのです。例えば相棒という今流行りの番組や人生の楽園などなどに加え、妻の妹からアガサクリスティーのサスペンスを借りたりして観ていますが、お陰で私のチャンネル権はまるでないのです。

 たまにこの番組が見たいといえば別の部屋のテレビを見るように言われたり散々ですが、まあ犬も食わぬ妻の楽しみですから、テレビくらいは妻のいいなりにしたいと思っていますが、何年か後にアナログからデジタルに変わるタイミングをとらえて、このチャンネル権を奪い返すか最低共有にしたいと手ぐすね引いて待っているのです。しかし数字やチャンネル操作に強い妻には争う前から敵いっこないと白旗用意ともとれる不安がよぎっているのも事実です。


 毎日湯水のごとく入ってくる情報は今や盃とも丼とも思われる私のような小さな器には盛りきれず、溢れ放しのようですが、そのような情報の中から必要情報や重要情報を取り出し加工することは容易なことではありません。妻の情報処理能力が丁度良いのかもしれないと、私と妻を足して2で割ったらいいのだと、夫婦のレベルの低さを諦めている今日この頃です。

  「今朝書いた ブログも知らず 妻今日も 違う世界で 情報拾う」

  「妻と俺 足したら丁度 いいのかも 得意違って 補い合って」

  「チャンネルは 妻のものだと 諦めた デジタル放送 今に見ていろ」

  「数字には めっぽう強い 妻の前 嘘もつけぬと 嘘をいいつつ」

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shin-1さんの日記

○魚の下ごしらえ

 今日は大学の講義日なので、4時半に愛媛大学を出て、平和通りの色づいた銀杏並木を感慨深げに見ながら帰ってくると、途中の伊予市で綺麗な夕日を見ました。車が少し混んでいて、多分間に合わないだろうと思いつつ、はやる気持ちを抑えて国道378号が海に出る高野川付近で、今まさに沈まんとする夕日の名残りを見ることができました。高野川の入口に車を止めて、取るものもとりあえず持っていたデジカメで写真に収めましたが。

 このところ忙しくて、全国大会の夕日寄席以来双海町の夕日を見ていないので2週間ぶりの夕日でしたが、やはり夕日を見た後は何となく癒された感じになるのです。

 家に入ったのが5時過ぎでした。すると電話が鳴りだしました。多分不在の妻に代わって、この時間だと家に帰っているだろうと思っての電話でしょうが、立て続けに切ったと思えばまたかかってきて、合わせて6件の電話を受けたのです。その中には今日出漁した下灘の親類から魚を取りに来るようにとの知らせです。このところ海はしけ続きでまともに出漁したのは今日くらいでしょうから、嬉しい知らせに甘えて発泡スチロールの箱を田舎のオープンカーに積んで約7キロの道をいただきに行きました。

 今日の魚は葉もが0本くらいとメッキアジ、それに皮ハギの三種類に加え、私の好きな刺身用のアジをいただきました。妻は月曜日の夜は仕事が7時過ぎまでかかるため、とりあえず妻の割烹着をつけて魚の調理に取り掛かりました。ハモは背開きにして骨切りすること、皮ハギは皮をむくことなどかなり面倒な魚です。ゆえにハモなどは料理のできない人にはいただかない代物なので、それなりの調理をし始めました。そのうち妻が帰って私の姿を見て大笑いをしていました。家では何もしない、何もできないと思っていた私が少し家の手伝いをするようになったので、「雨でも降らなきゃあ良いが」とくさされました。


 ハモの骨切りが終わった頃、夕食の準備が出来て、プリプリの味の刺身を生姜醤油でいただきましたが、コシコシした絶品で食欲をそそりました。食後テレビを見ていると妻が「さあお父さんもう一踏ん張りしてね」というのです。メッキアジを下ごしらえ、つまり頭としっぽと内臓を取り除くのです。私は昨日の東京行きと今日も大学の授業で少し疲れているので渋りましたが、妻との人間関係を損なわない程度にフォローすることになりました。今日の夜のブログを一本書く作業を後回しにして始めました。しかしメッキアジの量はトロ箱いっぱいもあるので中々進まず、ついに半分程度で断念し、氷を入れて明日の朝友人宅へおすそ分けすることになりました。

 妻は私が風呂へ入ってる間に下ごしらえした魚を全て冷凍庫と冷蔵庫に処理していました。伊達に長年魚の保存をしていないと改めて感心した次第です。さあこれから当分の間の食料品を確保しましたので、わが家の家計は大助かりのようです。


  「妻が言う 雨でも降るかも 知れないと それもそのはず 家じゃあ何にも」

  「お魚が あればご馳走 思う俺 肉は食べぬが 魚ご馳走」

  「師走入る その名の通り 忙しく 今日も一日 西に東に」

  「食卓を 獲れたばかりの お魚で 飾る幸せ 妻も私も」

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shin-1さんの日記

○久しぶりに東京を歩きました

 友人の息子さんの結婚式に招かれ、東京日帰りの旅に出ました。松山空港を午前8時10分定刻に出発した飛行機は羽田空港にほぼ予定どおり約1時間10分の所要時間で到着、普通は羽田~浜松間をモノレールで移動するのですが、昨日は京急で品川まで出て、品川、秋葉原で乗り換え飯田橋まで行きました。この日の東京は木枯らしが吹いて寒い一日でしたが、妻の忠告通り少し厚着をして出かけたため寒さも何のそのといった感じです。飛行機に乗る人、電車に乗る人、道行く人全てがもう冬の装いで、周りに木々の葉っぱも私の上京を祝うかのように威勢良く風に舞って落ちていました。明日から師走なので街のあちこちにはクリスマス商戦のイルミネーションが飾られていますが、残念ながら昼間なので電飾の色も分からずといったところでした。

 時間があるので飯田橋駅から結婚式の会場まで行く秋を惜しむように歩いてみました。途中で本屋さんに立ち寄ったり、何気なくお店に立ち寄ったりしながらのぶらり歩きでしたが、意外な所に意外な物が売られていて、近くだったら買うのにと思ったほどでした。

(靖国神社参道の夕暮れ)

 結婚式は想像どおり約2時間半で終わりました。出席していた友人や知人と別れ再び羽田空港まで行かねばならないのですが、出発便は午後7時15分の最終便なので、これまた時間があるため、ホテルから飯田橋とはまったきう逆方向の水道橋に向かって歩こうと思いましたが、路上に点々とある看板地図を見ながら歩いていると九段坂まで出ました。折角だからもう何年も前にしか行ったことのない靖国神社に参拝することにしました。これが中国や韓国との関係をいつもぎくしゃくさせる靖国神社かと思いつつ、イチョウ並木の参道を歩きました。そこでちょっとした珍しい光景を目にしました。進軍ラッパを吹きながら行進する兵隊、模造銃を抱えて行進する兵隊の二人でした。観光客や外国人は物珍しそうにその姿の近くに集まり写真に収めていましたが、一瞬戦時中を連想するような気持になり、靖国神社ならではの光景に心が動きました。

(進軍ラッパを吹き行進する兵隊さん?)

 戦争については色々あるし靖国神社についても異論の別れるところでしょうが、戦禍に散った人たちに敬謙な祈りを捧げることは日本人として当然のことなので、深々と頭を下げて祈りました。

(半蔵門辺り)

 さあそれから坂下門~千鳥ヶ淵~半蔵門~桜田門と荷物を殆ど持たないことをよいことに歩いて歩いて歩きました。国立劇場、最高裁判所、国会議事堂などを横目で見ながら自分の健脚を確かめました。昨日一日で携帯電話が示す万歩計は1万7千歩も歩いていました。夕闇迫る日曜日の東京の素顔を足早に歩きながら散策しましたが、これまたおつな旅でした。日本の中枢といわれるこの界隈ではまた明日から様々なドラマが生まれては消えることでしょう。

(桜田門を望む)

 桜田門から地下鉄ですぐ隣の有楽町に出て、山手線で品川~羽田~松山と再び空の旅を終えて故郷愛媛・伊予市・双海町へ帰って来ました。結婚披露宴とはいいながらぶらり旅を満喫して少し鋭気を養いました。本当はせっかくの東京を友人のように一泊でもしてのんびりすれば良かったのでしょうが、今日は大学の授業もあるしそれも叶わずの日帰りになりました。今度東京へ行くのは年明けてになりそうです。さらば2008年の東京でした。

(最高裁判所)

  「久方の 東京ぶらり 一人旅 行くあてなしに ぶらぶら歩く」

  「靖国の 社彩る 並木路 舞い散る紅葉 何処か寂しく」

  「参道を 進軍ラッパ 吹きながら 行進するは 兵隊さんか?」

  「この国の 進路を決める 中枢も サンデー故に そぶりも見えず」

 

 

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shin-1さんの日記

○今日は都へ結婚披露宴出席ののため旅立ちます。

 「今日は友人の息子さんの結婚式に出席するためこれから東京へ旅立ちます。東京は日帰りで夜遅く帰ってきます。ご機嫌よう」。そう告げて東京へ行きました。東京での結婚式などそうそう滅多にないものですから、神妙な面持ちで列席しました。会場となったホテルのロビーには埼玉県北本市からボランティア仲間の峯尾さんたちも顔をのぞかせ、愛媛県から参加していた児島さんとも合流し、いよいよ12時30分から開宴です。

 促されて会場に行くと、神妙な面持ちの大野ご夫妻が金屏風の前で新郎新婦とともに出迎えてくれました。来春定年を迎える大野さんも歳を重ねるごとに親父さんの風貌と同じになって緊張の面持ちでした。

(神妙な面持ちの大野ご夫妻)

私たちの席は新郎のお父さんの友人でまとめられていて、話も弾みましたが酒の飲める人が殆どいなくて何処となく盛り上がりに欠け、隣の晃君の友人の席とは対照的な雰囲気でした。やがて高砂の席に新郎新婦が着くとスピーチです。主賓の挨拶と乾杯が終わった頃司会者が私に歩み寄ってきていきなり「若松様、このあと祝辞を予定していますのでよろしく」と、出し抜けにいうのです。驚いた私は「いや、聞いていません」といいつつ、大野さんの所へ出かけ、「おい祝辞なんて聞いてないぞ」と小声で話しました。「案内状にスピーチをというメモを入れとったでしょうが」「そんなメモは見てないので・・・」と言いつつ時間切れです。

 「それでは新郎のお父さんの友人を代表して若松さんにお祝辞をお願いします」。ああ嘆かわしやと思いつつ、恥をかく覚悟でマイクの前に立ちました。わずか5分足らずのスピーチですからそれなりにアドリブでやってしまいました。友人の児島さんや横に座った峯尾さんから、「さすがですね」と美辞麗句を言われましたが、まさに旅の恥はかき捨てでした。

 

 結婚披露宴は友人や知人との旧交を温める場所でもあります。同席した仲間と食事を楽しみながら過ぎ越し人生について多いに話しました。私たちの席に座っている人たちはもう殆どがリタイアしたり寸前の人たちばかりなので、話の関心はいあままでの人生と、今どんなことをして過ごしているかが殆どで、残念ながら未来についての話は少なかったようです。

(愛媛から出席した児島さん。無人島では看護ボランティアとしてすっかりお世話になった人です)

 やがて結婚披露宴のプログラムも滞りなく進行し、花束贈呈で目出度くお開きとなりました。若いカップルの心境やご両親の心境は2度もその場面を経験したことのある私には容易に想像でき、思わず目頭が熱くなりました。お幸せにと祈るばかりです。結婚披露宴の司会を537組もやった私には、若い司会者の進行ぶりは少々物足りない気持ちもありましたが、それ以上に心のこもった披露宴の余韻が心をほのぼのと温かくしてくれました。

8花束贈呈は感動でした)

  「何時の間に 親父の背を抜き このような 立派な人に なったのだろう」

  「鼻垂れし 子どもの頃を 覚えてる 腕白盛り 脳裏かすめる」

  「あと二人 俺の息子も 縁欲しい 何処でどうして いるのだろうか」  

  「異境地で 暮らす息子は 帰らずに 親はひっそり 生きる寂しさ」

 

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shin-1さんの日記

○行ったり来たり

 島根県益田市道川公民館にお邪魔したのは11月16日でした。その折「2週間後にはそちらへ視察研修に行きますからよろしくお願いします」と、三好館長さんと別れてから2週間しか経っていないのに、今度は益田市真砂公民館の音頭で43人もの人が一台のバスに乗って双海町へやって来ました。191交流協議会輝という団体名での視察研修なのです。私は国道191号沿線の人たちが地域おこしをしているこの会の顧問を頼まれていて、既にその協議会に招かれて講演もしているのです。

 島根県益田市といえば島根県の西に位置する地域で、こちらへ来るにはかなりの遠隔地で、早い人は朝6時にバスに乗って出発したというから驚きです。そんなに朝早く出発しても、瀬戸大橋を経由してこちらに到着したのは午後2時でした。今回の旅の目的はシーサイド公園で漁協女性部のおばちゃんたちと交流することと、人間牧場で私の話を聞くことです。

 あらかじめ漁協女性部、通称じゃこ天おばちゃんたちに視察研修受け入れのお話をして快く受諾の返事を受けていたので、おばちゃんたちは心得ていて、名物ラヴじゃこ天やお茶を準備して待っていてくれました。松本部長さんはあいにく結婚式出席のため留守でしたが、イベントホールの会場も全て整え待っていてくれました。

 この日のことを男時というのでしょうか、バスは2時10分前に到着し、地域政策研究センターの松本研究員にお世話になったシーサイド公園から人間牧場までマイクロバスのピストン輸送も絵にかいたようにピタリとおさまりました。

 シーサイド公園での説明は富岡喜久子さんが担当し、軽快なおしゃべりに益田市から来た面々は感心して聞きました。私が少しフォローして、その後戸外の施設を案内しました。この日は小雨のしぐれるあいにくの天気でしたが、これも男時のお陰で雨に遭うこともなく順調に視察プログラムは進みました。

 さて人間牧場には大型バスの乗り入れができないため、参加者を2班に分け先発、後発をリムジン風に分けての対応となりました。昨日寸暇を惜しんで人間牧場へ行き掃除をしていたので安心してお迎えしましたが、残念ながら自慢のロケ風呂での足湯のサービスは間に合わず、見学だけとなってしまいました。

 それでも山間地に暮らす人たちにとっては、瀬戸内海の眺望はいい刺激になったようで、私の短いお話にも感心して耳を傾けていただきました。私は先発のバスに乗って一便を迎え入れた後歩いてバスの中y差している場所まで見送り、後発の人を再び迎え、一緒に帰るという非常に忙しくも慌ただしいスケジュールとなりましたが、それでも、2時間のプログラムを消化し、日没寸前の5時にシーサイド公園へ帰ってきました。残念ながら夕日は見えなかったため、サービスとして暮れなずむ中をわが家の私設公民館煙会所と海の資料館海舟館を見学してもらいました。

 皆さんが帰ったあと私は田舎のオープンカーにのってバスを追いかけ、宿舎である松山の共済会館えひめへ出かけ、午後7時からの交流会に参加しました。少々夜遅くなった食事会でしたが皆さん満足して思い出話に花が咲きました。私は今朝早く東京へ発たなければならないため早々にお暇しましたが、いい交流が出来た一日でした。


 

 

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shin-1さんの日記

○柿の実が熟れる頃

私が子どものころ、「柿の木坂の家」という歌が流行っていました。青木光一という歌手が歌っていたように記憶しています。手元にある歌詞本をめくると、昭和32年発表と書いています。石本美由紀作詞、船村徹作曲のようです。私はこの曲が大好きで下手糞ながら今も思い出しながらハーモニカで吹いています。

1 (歌詞掲載不可のため割愛)

2 (歌詞掲載不可のため割愛)

3 (歌詞掲載不可のため割愛)

  この歌を聴く度にどこか懐かしい少年や青年の頃の思い出が蘇ってくるのです。今はこうした自然を友とした農村の風景もすっかりなくなり、住む人絶えた家が点在し、柿の実さえも取る人とてなく、寂しい感じがするのです。ましてや春の市もなくなり、秋祭りもすっかり様変わりしているようです。

 子どもの頃のこうした懐かしくも楽しい思い出は、時代の流れの中で消え失せて行くのでしょうが、ある意味私たちの年代はこうした素朴な心のぬくもりを感じる思い出を持っているだけでも幸せかも知れません。残念ながら今の子どもたちにはそんな心のふるさとすら味わえないないのです。



 わが家の裏に柿の木が五本ばかりあります。殊勝な柿の木で、毎年実をつけて家族の食べるだけの量を確保してくれています。今年はこの柿の木も大豊作で食べきれないほどの実がなりました。先日和歌山県庁の橋口さんから立派な柿が届きました。わが家の何の手入れもしない無農薬な柿など比べ物にならないほどの甘さで、親類縁者におすそ分けをして喜ばれましたが、親父はもっぱらわが家の醜いあひるの子のような柿を食べているようです。私も柿は大好物で、西条市丹原町の佐伯さんから毎年届く渋抜きの西条柿に加え今年も橋口さんから届いた柿を堪能するほど食べています。

柿は実だけでなく葉っぱも柔らかいうちはてんぷらにして食べたりしますが、やはり柿は「柿の木坂の家」の歌と同じように原風景にマッチする庭木としての存在も欠かせません。これからも裏庭の柿の木に柿の実が熟れる度に「柿の木坂の家」という歌を思い出しながら感傷にふけりたいと思っています。

そういえばわが家は「柿の木坂の家」かも知れません。

「柿の木に 今年も沢山 実がなって 昔の歌を 思い出しつつ」

  「下手糞な ハーモニカ吹き 思い出に ひたりしみじみ あの娘どうして」

  「幼な頃 トンボやメジロ 追いながら 遊んだ野山 今は荒れ果て」

  「食べきれぬ ほどの柿の実 収穫す 親類縁者に 配り歩いて」 

 

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shin-1さんの日記

○ストーブの火入れ

 ここのところの冷え込みで、寒さには強いと思っていた私もさすがに堪え切れなくなり、ついに昨日の朝書斎のストーブに火入れをしました。それもそのはずもう明後日には師走といわれる季節ですから、南国四国といえども朝晩の冷え込みは5度程度まで下がっているようです。私の昨年の予定表によると去年の火入れが11月25日でしたから、随分化石燃料の節約につながったと妻に自慢してやると、「それはやせ我慢で、寒さで脳卒中にでもなったらどうするの」ととがめられてしまいました。私は案外寒さに強い方で、退職までは真冬でも下着は年中袖なしランニングだったし、ズボンの下にもパッチなども履きませんでした。勿論コートなども殆ど使わなかったのです。そんな私を見て妻は口うるさく指導をします。やれパッチを履けとか、コートを着ろとかいちいちうるさいのです。私の体のことを心配して言ってくれるのでしょうが、私にはそれが普通だったのです。

 人間の慣れとは恐ろしいもので、薄着で通すとこれまで殆ど風邪もひかずいたって健康に過ごせたのに、厚着をした途端に風邪気味になったりするのです。私の子どもたちも子どもの頃は全員元気で、一年中半袖のような姿で学校へ行っていました。その姿を見て親類の叔母が、「繁子さん、あなたのお家は着る物がないのではと思われるので、洋服を着させて学校へ行かせなさい」と苦言を呈されたことがありました。それもそうよと嫌がる子どもに服を着せると途端に風邪をひいたことがありました。まあ人間は寒いと思えば服を着たりストーブを入れたりすればいいのですから、自分の体感のままに暮らせばいいと思うのです。

 ストーブに火を入れるとわが書斎の部屋は僅か4畳半ですから、直ぐに温度が上がります。そのため乾燥を防ぐ手段としてストーブの上にステンレス製のやかんを置いていますが、昨年はパソコンに夢中になり過ぎて何度か空炊きをしてしまいました。

 私はコーヒーを飲みません。お茶は日本茶緑茶なのですが、これもお客さんが来ない時は自分でお茶を入れて飲むことなど殆どないのです。昨日は妻の留守中に来客が3組もあって、ストーブの上で沸いたお湯でお茶を入れて差し上げましたが、お茶葉や急須、お茶受けのお菓子などがどこにあるのか、慣れないものですから右往左往しました。これでは自立できないと妻に笑われましたが、妻は早速私の来客のために専用の道具と専用の置き場を用意してくれました。

 南国といえど冬の寒さはこれからです。少なくても立春までの3ヶ月間はストーブのご厄介にならなければなりません。小型のストーブゆえ3日に一度は給油もしなければならないし、やかんの水も足さなければなりません。少しずつ迫る冬と老いの足音を聞きながら、火入れしたストーブの赤々と燃える火を見つめました。火はいいもの、何だか心までもポカポカしてきました。冬の寒さががあるから春が恋しいのでしょうが、冬の寒さを迎えるように昨日は今年一番の北西の季節風が吹いて海はもがり、雨風に加えて雷まで鳴りました。今年の冬も元気に過ごしたいものです。

  「ストーブに 火を入れ過ごす 書斎では 戸外の寒さ 別の世界だ」

  「この油 何処から来たの 聞いてみた ストーブ答えず 黙々燃える」

  「お茶さえも 自分入れれぬ 無精者 急須何処やら? お茶葉何処やら?」

  「乾燥は 喉に良くない やかんにて 湿気発生 させて守りぬ」


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shin-1さんの日記

○国から出向した素敵な人と出会って

 色々な集会やイベントを計画実行した後は、反省会や慰労会というのがつきものです。私たちが若い頃は集会やイベントの企画段階から反省会や慰労会が組み込まれて、その費用の中で実施されていました。しかし最近は特に食糧費と称する飲み食いのお金に批判が集中するため、飲み食いのお金は会費だと誰にも文句を言われないので、会費制の反省会や慰労会がこじんまりと行われているのです。しかしそんな割勘の反省会や慰労会に金まで出して出席するのは嫌だと何だかんだと理由をつけ参加しない人もいて、その温度差を感じています。私の場合も7~8年前から酒を絶っているため、誘いにくいのでしょうか、誘う方が申し訳ないような小声で「酒も飲まないのに会費なんですが」と誘いをかけてくれるのです。私は元々お酒の場が大好きなので誘われれば余程のことがない限り参加するようにしているのです。


 

 一昨日、先日行われた地域づくり全国大会の事務方を務めた方々からお誘いを受けて松山の小料理屋へ出かけました。昔だったら妻の送迎が必要でしたが、酒を飲まなくなった今ではその心配もなく、車で堂々と出かけられるのです。この日はえひめ地域政策研究センターの面々に、県庁の担当課である市町振興課の人たちを加え楽しい食談会となりました。センターの方々とは年中こんな会をしていますが、県庁の人とは久々なので積もる話を随分しました。特に北村課長さんは国から出向して愛媛県庁に来ている人なので、視野も広くこの一年何かにつけてお話しする機会があるのですが、横に座って飲みながら話をすることなど滅多にないので、どうしたら愛媛県が元気になるか議論をさせてもらいました。

 国・県・市町村とそれぞれ格式の違いがあった昔はこんな横並びの酒席など考えられなかったのに、今は有難いことにこうして胸襟を開いてお話ができるのです。愛媛に来られて3年目だそうですがこれまで国から色々な方々が出向して来られましたが、この課長さんくらい馴染みのある、それでいて心のこもったお付き合いができる人も珍しく、先日も実行委員長を務めた私に心温まる労いの手紙をいただき、恐縮してしまいました。

 課長さんと私の付き合いは昨年8月10日(金)に、栗田所長さんと人間牧場を訪問され全国大会の委員長を要請されたころに遡ります。勿論委員長は実行委員会の互選なので事務局案的な提案でしたが、課長さんはその時の私の話を、私などとっくに忘れていたのによく覚えていてさすがの感じを持ちました。以後実行委員会の副委員長をしてもらったこともあって、実行委員会のその度に宇和島や大洲などへ進んで足を運ばれました。

 先日上京して共催した地域活性化センターへお礼にも行かれ石田理事長さんとも面談していただきお礼の言葉もないのです。

 国から来られる人は比較的若い人が多く、組織の中では難しい面もあるのでしょうが、この課長さんの偉ぶらない立ち居振る舞いの姿はとても好感が持てるのです。国から県への出向の目安は3年ぐらいだと思うと、もうそろそろと思いつつも、県政の抱える限界集落や合併の仕事をもう少しの間お骨折り願えないものかと、欲張った考えも持っています。いい課長さんに巡り合っていい一年でした。

  「お国より 出向課長 気さくにて 何でも話し 夢を共有」

  「そういえば 一年前の 夏だった 人間牧場 草分け訪ね」

  「リタイアの 俺など傍に 寄れぬのに 同席貰い 楽しく話す」

  「色々と 問題あるが 愛媛県 人情良いと 褒めて酒飲む」

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