shin-1さんの日記

○「間」とは何ぞや

 間という漢字は「人間」「時間」「空間」などの言葉に使われるほか、話の中にも「間」をとるなどとよく使われます。私のように退職後大学や講演会、落伍など、話をすることを日課にするようになると、これまで何気なく話していた話の内容に「間」なるものがあるのかどうか気になり始めました。もう半年も前にある県外の研修会で講演をした時のビデオテープがDVDが収録編集されて送られてきました。最近は殆どの研修会でビデオカメラが設置されて写されます。本当は著作権や肖像権というのがあって、講演をする人に前もって了解を得るのが一般的な常識ですが、田舎の講演会などはそんなもの振りかざすと、「あの講師は横着だ」と言われそうなので、これまで私は一度も文句をつけたことはないのです。プライドの高い講師によるといくら撮影を事前に申し込んでもOKを出さない人だっているのです。

 先日送られてきたDVDは実によく出来ていましたが、そのDVDをこともあろうか一枚千円で販売したとのこと、何とそれが100枚も売れたと喜びの声が手紙には添えられていました。しかしここまで手が込むと事前に講師の了解を事前に得ることは常識だと思うのですが、そんな手続くをしなかったばかりか、有頂天になっている姿を垣間見た私は、チクリのメールを送りました。すると相手は大慌て、「大変失礼なことをしました」と平謝りでした。まあ私のこんな顔と声ですから、DVDを買った人たちは今頃寅さんならぬ進ちゃんの映像や声を聞きながら笑い転げているに違いないのです。

 その送られてきたDVDをパソコンで再生しながら、自分の映像と音声を恥ずかしながら1時間半にわたってノーカットで聞いてしまいました。時計を見ながらおおよそどの時間帯にどんな話をしたのかメモをしながら、入念にチェックしました。特に間の取り方に気を付けましたが、長年の癖は直しようもないのですが、随分間の取り方が上手くなった印象を受けました。自分の話を聞くというのは顔をそむけたくなるし赤面してしまいました。

 時々聞く他の講師の先生のテープや落語家の口演DVDを見ますが、間の取り方についての話芸はまだまだ修業をしなければなりません。


 「間」とは何ぞや、わが家のわが書斎も私だけの空間ですが、空間の窓越しから見える庭の姿も空間から見える「間」であるような気がするのです。日本の家屋の間取りは襖と障子の文化といわれるように昔の民家などは襖と障子で仕切られているものの、常にトなりを意識した間取りになっていて、襖や障子を取り払えば小さな空間の集合体は大きな空間に生まれ変わるのです。したがって日本の民家で唯一プライバシーが保てるのは戸の閉まる厠と風呂くらいのようなものであると思うのです。現代の家はすでに洋風化されてドアを閉めれば採光さえも差し込まない、音すら聞こえない無空間になってしまうのです。作家谷崎潤一郎が書いた文章に厠を間としてとらえたものがあったような記憶があり、その暗くて狭い間から見える空間風景がいとも細やかに描写されているのです。これまで私は自分の空間の明るさに目を奪われ過ぎていました。自分が厠に入った時自分の暗闇のガラスの向こうに感じる映し出された風景や風の動きも間ではないかと思うのです。

 間とは相手や相対するものとの距離かも知れません。近過ぎても遠過ぎても間は存在しないのです。間とは左様にこちらの気配りで決まるものなおです。

  「送られし ビデオ見ながら 考える 間の取り方の 難しことを」

  「あるお寺 座して外見る 見事さよ 散り染め紅葉 さえも気配り」

  「暗闇の 厠から見る 外明かり 谷崎翁の 奥深き知る」

  「詫び寂も 間の取り方で 味わえる 心のゆとり さらに極めて」 


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shin-1さんの日記

○鳥取県佐治村への旅・その②

 旧佐治村には5つの自慢があります。一番金をかけ、一番期待が大きく、一番人が沢山やってくるのは星を目当ての人でしょう。年間2万人を超える人が、この山里の望遠鏡を通して宇宙空間に向かってメッセージを送り続けているのです。この日私は山口さんの案内で天文台にお邪魔しました。田中係長さんや職員の案内でさじアストロパークと名前の付いた天文台で興味深い話をたくさん聞きました。愛媛県旧岩城村からやってきて学芸員として働いている宮本さんにもお会いしましたが、夕日=太陽を地域資源にまちづくりをしている私としては大いに興味のある場所でした。まるで未来の地球村のような雰囲気はとても素敵でした。

若松進一ブログ
若松進一ブログ(職員さんが作ったというアポロが月面に行った時の記念すべき足跡は興味をそそりました)

 2番目の自慢は特産品の梨です。ご承知のとおり鳥取は20世紀梨の産地ですが、天文台近くの丘陵地にはたくさんの梨畑がありました。春の梨の花の頃は見事だろうと思ったものです。今は20世紀梨に代わって新しい品種も導入されているようですが、いかんせん農家の高齢化と過疎化によってご多分に漏れず担い手不足は深刻なようです。

 それでもみなさんは頑張って梨シャーベットや梨飴などを作って売りだしていて、私もいただき帰りの列車の中でなめてみましたが中々の味でした。


 3番目の自慢は佐治谷ばなしという村に伝わる昔話です。私的にはこの物語は村おこしには欠かせないものだと思っています。落伍をしていることもあって、山口さんから頂いた佐治谷ばなしという民話集を帰るまでの列車の中で全部読んでしまいました。方言で書かれているため読むのに時間がかかりましたが結構楽しいもので、愛媛南予に残るトッxポ話とよく似た表現でした。村には佐治話の拠点となる大きなかやぶき屋根の民家が移築されていて、この家のいろり端でユーモアあふれる話を聞いたらどんなに楽しかろうと思いを巡らせました。この民話は、日本昔話で有名な人も1枚加わってCDにもなっているようです。

若松進一ブログ(どっしりとした家構えの佐治民話の館)

 さてさて、私の本題の目的はさじミラクルの会が主催する講演会です。私に与えられたテーマは「元気の出る話」です。与えられた時間は2時間、まるで早打ち鉄砲のように喋りまくりました。最初は私も観客も少し行儀よくしていましたが、そのうち私の方言に誘われてみんな大受けで笑い転げながら話を聞いてくれました。印象的だったのは、講演の最後にあるお年寄りが、「若松さんパワーをください」と歩み寄ってくれたことです。その手のぬくもりは今も忘れることのできないジーンと心を熱くした思い出です。寒い中集まっていただいた皆さんありがとう。またいつかどこかでお会いしましょう。

若松進一ブログ(講演が終わった団らんのひと時、いわば使用前でなく使用後です)

  「気に入って 思わず俺も ハーモニカ 台本にない サービス精神」

  「相当な 聞き耳持った 集まりに こちら思わず 熱入れ話す」

  「山里の 村の人口 少ないが 一人二馬力 四千馬力」

  「熱心に メモ取る人は どなたかと 尋ねてみれば 元の村長」 

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shin-1さんの日記

○鳥取市佐治町への旅・その①

「今日は粉雪舞い散る鳥取県へ旅に出ます」。こんな書き置きをブログに残して昨日は朝4時半に起き5時に自家用車で松山駅へ向かいました。冬至を間近に控えたこの頃は一年中で夜が一番長いため、毎日寝ているつもりなのですが、相変わらず私は夜12時に寝て朝4時に起きる就寝時間4時間型なので、こんなに朝が早くても普通の生活パターンなのです。

 松山駅に到着したのは5時40分過ぎでした。駅の前の駐車場に車を止め駅舎の切符売場に行きました。そして岡山経由で智頭までの往復切符を買いました。こうすれば駅前のキスケ駐車場の駐車料が24時間無料となるサービスを受けられるのです。切符を買って早速兆社場へ車を入れました。出てきた駐車券を再び切符売場の駅員さんに見せ認印と無料券といただき万全の準備で、少し早目に一番の特急列車しおかぜに乗り込みました。

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 暗闇の中を出発した特急は早朝の伊予路を走り、左手に瀬戸内、右手には昨日までの寒波で冠雪した石鎚山系を遠望しながら、本を読みふけっていると、あっという間に瀬戸大橋を渡りました。昨日までの大荒れの天気が全く嘘のように晴れ上がり、旅には絶好の日和となりました。朝が早かったり夜が遅かったりするような今回の旅は最初自家用車を使う予定でしたが、鳥取の福田京子女史から鳥取への峠道は雪があるかも知れないと忠告のメールが入っていたので、思い切って公共交通機関にしたのです。

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 岡山を出た特急スーパーいなばは途中の上郡でスイッチバックする日本でも珍しい路線であることを承知していたので、あらかじめ朝日の当たる方向に座っていたため、座席を回転させても強い日差しの難を逃れ、快適な列車の旅となりました。沿線は山の中だけあって放射冷却の影響でしょうか、まるで雪が降ったように一面白い霜が降りていて、田んぼの残り水はカチカチに凍っていました。

 今回の担当者である鳥取市職員山口さんの指示だと、智頭が一番近いので駅まで迎えに行くからと一報が入っていたので、指示通り10時30分に智頭駅に降り立ち山口さんの出迎えを受けました。途中通った智頭の家並も何年か前妻と二人で訪ねたことがあって、どこか懐かしい感じがしました。


 今回訪ねるのは今は鳥取市と合併している旧佐治村です。今は鳥取市佐治町となっていますが、人口2000人の長閑な山村は、星・梨・話・和紙・石と最後に「し」のつく「五し」を地域資源にして地域づくりをしている面白い町なのです。多分一度岡山県側から辰巳峠を越えてこの村を通った経験があるのですが、いつ頃だったか思い出せないのです。

 午後2時からの会合には間があるので、辰巳峠まで案内していただきました。前日からの厳しい寒さで峠付近には積雪が見られ、栃の木の原生林は見応えがありました。

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 すっかり葉を落とした山の木々が一層寒さをかんじさせまいた。途中山王谷キャンプ場を見学しましたが、春夏秋のシーズンは終わってひっそりとして冬の眠りについているようでした。どもどこか懐かしい雰囲気で、一辺でこの街が好きになりました。いつの日かまた訪ねてみたい町でした。

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  「栃の実の 何処か懐かし 餅を食う おふくろ今は 何処におわすか」

  「山奥は 静まり返って ひっそりと 白雪被り じっと春待つ」

  「音もなく 静か舞い降る 交ぢり雪 足元濡らし いつか消えゆく」

  「陰と陽  分け隔てたる 峠道 超えた昔の 記憶帰らず」 


 


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shin-1さんの日記

○天道(天理)と人道

 日ごろ何気なく使っている日本語も、その意味を説明せよと言われたら、はて何人の人がその意味を明確に説明できるでしょうか。その意味さえも分からず使っている私などのような凡人は、はてさて困ってしまうのです。昨日小さな集会の卓話で、理論と論理についてお話ししました。すると忘年会を兼ねた飲み会でそのことが話題となり、理論とは何ぞや、論理とは何ぞやとホットな議論が交わされました。何気なく話したつもりの卓話でも、こうして聞いているのですから軽はずみな話はできないと思いました。ましてや最近はやたらと横文字が登場して、この歳になると「それも分からないのか」と言われそうなので、分かったふりをしてうなずきながらやり過ごし、家に帰ってから広辞苑を引いたりインターネットで調べたりしながら反芻して覚えて事なきを得ているのです。

 さて広辞苑によると理論とは「ここの事実や認識を統一的に説明することのできる普遍性を持つ体系的知識」「実践を無視した純粋な知識」と書かれています。一方論理とは「思考の形式、法則、または法則的なつながり」「実際に行われている仕方、論証の筋道」と書いてあり、読めば読むほど難しくて分からなくなってしまいます。

これでは分かりやすい話が余計分からなくなってしまうのです。私は理論とは実践を無視した純粋な知識、つまり物の本を読んだり人の話を聞いて得た知識だと解釈します。一方論理は実際に行ったことから生まれる知識だと思うのです。私のような学歴や学習歴の少ない人間には理論など殆どないに等しいのです。しかし私たち自称実践家には実践から生まれた論理は山ほどあって、うまく言葉で体系的には喋れないものの沢山の事例を持っているのです。株をやったこともない先生が株の話をしますが「こうあるべきだ」と語れるし、「株はいつかは下がると予測することも学問上可能なのです。しかしいつ下がるかというと顔の見えない世界で暮らしている人は「そのうち下がるだろう」と当たらずも遠からじの話をするのです。今回の世界を揺るがす同時株安も殆どの人が的確な予想は付けれなかったのです。

 私たち実践家はどちらかというと論理型で、顔の見える現場で失敗経験や成功経験を積み重ねているので

たとえ言葉の使い方は下手でも話す言葉に重みがあって人々の心に共感を得ることができるのです。

 天道と人道はどこが違うかと問われたらこれまた、広辞苑の助けを借りねばなりませんが、天道とは自然の理にかなった流れで、人は生まれ死んでゆく、道に草は生えてゆく、形ある堤は崩れ堀はヘドロや砂で埋まってゆく、橋もいつかは朽ちて落ちてゆく、これが天道なのです。一方人道とは草を引いて道を保持して歩くのに便利なようにしてゆく、堤は崩れないように補修をしてゆく、堀はさらって深見を維持し、橋は掛け替えるのです。また生まれて死ぬまでの期間様々な努力をして延命をするのです。天然自然の道理に対応し私利私欲を投げうって人間としての対応をすることがだと思うのです。

 そのたゆまざる行いを怠ればさも神仏の罰が当たったように思える様々な負の部分が生じるのです。シーサイド公園の防波堤フェンスが腐食して人が落ち怪我をしたことが県議会の一般質問でも取り上げられましたが、まさにこれは天道に人道がそむいた結果の出来事だったと思うのです。

 日本語とはこれほど難しいものかと思われるくらい、様々な対比語があるようですが、日本人はもう少し日本語の持つ意味について勉強する必要があるような気がしています。

  「理論とは 論理とはなど 尋ねられ 答えも出来ぬ 駄目日本人」

  「分からずに 分かった顔して うなずいて 知ったかぶりで 日々を過ごしぬ」

  「天道に 逆らい生きる 愚かさよ 人道極め 人の道生く」

  「難しい 話をするな 言われるが 難しくもない 逃げてるだけだ」

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shin-1さんの日記

○久し振りのスナック

 昨日はえひめ地域政策研究センターで今年最後のえひめ地域づくり研究会議の運営員会があり出席しました。数日前事務局から卓話を予定していた人が二転三転出席できず、代理登板して欲しいとの連絡が入っていたので、「これぞ卓話」という見本を示そうと意気込みました。私の場合は別に原稿を書いて喋る訳でもないので、このように軽いノリで話せるよう日常から訓練をしているのです。昨日もアドリブで30分間軽快に喋りました。

運営員会ではメンバーの行動学を学ぼうと毎回卓話を会議が始まる前に行っているのですが、卓話を聞いたり喋ったりする機会の少ないメンバーには、卓話が一体どういうものなのか飲み込めずに喋る人もいるものですから、見本を示したかったのです。私は各地のライオンズクラブやロータリークラブから卓話の依頼があってお話しする機会がよくあります。ライオンズの例だとゴングが鳴って一応のセレモニーが終わると30分間部外講師の卓話を聞くのです。卓話が終わると講師を囲んで食事会というストーリーが毎回行われているようです。いい発想だと思い、お金のない研究会議なので部外講師を雇う余裕もなく、願わくばメンバーの話を聞いたり、メンバー自らも話術を学ぼうと卓話を取り入れたのです。まだまだ改良の余地は残っていますが、それでも毎回卓話を聞いたり喋ったりするストーリーが定着し、私自身も大いに勉強になっているのです。

 昨日は、来年1月24日に行う予定の年次フォーラムの企画と2月28日・3月1日に行う予定の視察研修が主な議題でした。既に企画委員会の企画したプログラムも出来ていて、議事運営も予想以上の速さでスムースに行われ、少し早目の終了となりました。

 この時期の集会は忘年会がつきものです。この日の一次会はさかなやという始めて行った店でした。店先でマグロの解体をショーとしてやっている珍しいお店でした。松山でなぜマグロなのかよく分かりませんが、それでもこのところ新聞紙上を賑わせているマグロですから、注目度は抜群で店先の解体作業には黒山の人だかりができていたようです。

 会費4千円で2時間飲み放題だそうですが、薄利多売的な感じがして、師走ながらも不景気風の吹く飲食産業を象徴しているようでした。私や塩崎さんは昔大酒を飲んだため体を壊して酒が飲めなくなっているため、もっぱら食べることに専念し、私などは刺身のつま物である大根のケンも全て平らげてしまいました。


 酒を飲まなくなった私たちは最近2次会に繰り出すことは滅多になくなりましたが、昨日は久しぶりにそのビルの9階にある桂子というスナックに行きました。始めての店なのですが実はこの店のマスターとはご縁があって、一度は訪ねたいと思っていました。というのもここのマスターである小笠原さんは変わり者でスナックを経営しながら4年前には社会教育主事の講習を愛媛大学で受講しているのです。その時「社会教育とまちづくり」について講義をしたり、現地演習で双海帳に来てもらったりした旧知の間柄なのです。加えて先日国立大洲青少年の家で平kれた地域教育実践交流集会の実行委員でもあるため、必ず近いうちに行くからと再会を約束していたのです。たまたま一次会とお店のあるビルが同じだったため、千載一遇のチャンスとばかり乗り込みました。お店は清潔感が漂い、10人で行ったのですが話も出来ていい雰囲気のお店でした。驚いたのは隣にかつて行きつけだったシーホースというお店が隣なのです。ここのママさんとは私が工業高校のPTA会長をしていた折の役員さんで、昔はここが根城のようなものでした。いずれの店も9階のにあるため野球になぞらえ「九回の裏で後がない」なんて軽い冗談を飛ばして飲んでいました。小笠原さんは奇遇にも松工ラグビー部出身だし、地元の消防団にも入ったりしてかなり幅広くコミュニティ活動をしていて、頭の下がる思いです。また行きたい思いで、10時過ぎお店を後にしました。


  「概念を 吹き飛ばすよな マスターに 出会い二次会 楽しく過ごす」

  「久し振り 同行二次回 ウーロン茶 それでも酔った 気分で話す」

  「飲む金も 安くなったと 財布から 言われるままに 釣銭貰う」 

  「またおいで また行くからと 手を振って スナック出れば 師走の風が」

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shin-1さんの日記

○報徳を忘れることなかれ

 「自分は一生懸命生きてきました。またそれなりに社会のお役にも立ってきました」と、自分の過ぎ越し半生を自分を中心にして考え思うのですが、はてさて自分とはいったい何者なのでしょう。自分は父母から生まれました。ゆえに父母なしではこの世に存在しなかったのですから、まず父母に感謝しなければなりません。その父母が体の根本を作ってくれ、その土台の上に自分が健康を作ってきました。「這えば立て立てば歩めの親心、わが身に積もる老いも忘れて」の言葉通り親は一種賢明育ててくれたのです。「産んでくれといった覚えはない」などとこざかしいことを言うことなどもっての外です。

 私たちは縁あって結ばれ子どもを四人産み育てました。子どもたちがどうにか学校を出て世の中で働くようになれたのは、私たち夫婦の丹精努力だと思います。健康で一生懸命働いて生きてこれた夫婦の丹精に感謝します。わが家は祖父母や両親の時代から先祖代々貧乏でした。時には金持ちを見て羨ましいと思った時もありましたし、財産のなさを嘆きましたが、それでも正直に生きて働き、人様に迷惑をかけるなという根本的な教えを守って生きてこれたのは先祖の勤勉姿勢に感謝です。

 私は親の病気もあって高校しか出ていません。時には学歴のなさが自分の地位を上げれないと思いましたが、「勉強は何処ででもできる」という親父の口癖を守って学習歴を積み重ねた結果、読み書きソロバンも一通り出来て、社会生活では別に困ることもなく生きれるのは父母の教えのお陰で、父母の積善に感謝します。

 子どもが四人いますが、既に二人は結婚して孫が三人生まれ育っています。孫の成長を見るにつけ自分もしっかりせねばと進化を誓うのです。リタイアした私に進化などないかも知れませんが、それでも勤労してしっかりと生きている姿を見せたいのです。自分の勤労な生き方に感謝します。

 わが家は豊かでもありませんが、それなりに衣食住が整い、着るものも住む所も、また三度三度の食事もつつましやかながら今のところは保障されています。契約社員のいきなりの退職勧告などが問題になっていますが、衣食住があることすら私たちは忘れ、やれ年金が多いだの少ないだの騒いでいますが、衣食住への感謝を忘れてはなりません。幸いわが家では最低限の野菜は家庭菜園で、魚は親類からいただき毎日感謝しながら味わって食べています。田畑への感謝・海への感謝も忘れてはなりません。今年は去年健康で働いて得たささやかな利殖蓄財が経済的なゆとりを生んでいます。昨年の勤労への感謝も忘れてはなりません。また来年のために少しずつではありますが蓄えておこうと妻はソロバンをはじいて無駄を省いています。今年の勤労への感謝もあるのです。


 こうしてみると、どれほどのものにどれほどの感謝をしなければならないか分かりませんが、感謝して生きることの意味が少しずつ分かった今になって、報徳の教えを読み返してみてなるほどと思うのです。


  父母ノ根元ハ天地ノ令命ニ在リ

  身体ノ根元ハ父母ノ生育ニ在リ

  子孫ノ相続ハ夫婦ノ丹精ニ在リ

  父母ノ富貴ハ祖先ノ勤功ニ在リ

  吾身ノ富貴ハ父母ノ積善ニ在リ

  子孫ノ富貴ハ自己ノ勤労ニ在リ

  身命ノ長命ハ衣食住ノ三ニ在リ

  衣食住ノ三ハ田畑と山林ニ在リ

  田畑ト山林ハ人民ノ勤功ニ在リ

  今年ノ衣食ハ昨年ノ産業ニ在リ

  来年ノ衣食ハ今年ノ艱難ニ在リ

  年々歳歳二報徳ヲ忘ル可カラズ


  「読み返す 程にわが身が 恥ずかしく 感謝の心 思い起こして」

  「報徳の 教え未だに あせもせず これから先も 教え守って」

  「先祖俺 子ども孫へと つなぎたる さらに自然 までもつながり」

  「感謝して 生きれば楽し 人生も 不平不満じゃ つまらぬものぞ」

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shin-1さんの日記

○天気一変

 今朝は朝から雷がゴロゴロ鳴るし、風は強くなるし大変なオ荒れ模様の天気です。多分寒冷前線が四国地方を通過するためのいたずらでしょうが、どうやらこの雷は北国で言う雪を呼ぶ前触れのようなシグナルだと思うのです。師走に入っても連日15度以上の温かくて穏やかな日和が続いた反動で、多分これでやっと今年も冬になるに違いなく、夕方からは北西の季節風が強くなるに違いないのです。

 そんな天気の短期予報もあって昨日は半日人間牧場へ出かけました。灯油を風呂ボイラーやストーブに満タンにしたので、今月10日の地元女性の来牧場に備えて、ロケーション風呂のボイラーにも給油することも仕事です。仕事といっても18リットルのポリ容器一つあればほぼ満タンになるのです。このボイラーは中古で地元の水道屋さんから無償で譲り受けたもので、今年の春にはボイラーとタンクをつなぐホースが劣化断裂して灯油が漏れ出し、痛い目に逢っているので慎重に給油をしました。その後ホースを真鍮のパイプに変えたため大丈夫なのですが、何故か気になるのです。

 その後鋏と鎌を持って人間牧場の周辺を見回り要らぬ小枝を取り除いたり、ススキの株を刈りつけ、ぶるーべりーの下草に敷き詰めたりしながら時を過ごしました。今年の秋の草刈りは万全だったようで、その後は草も伸びておらず、このまま冬を越して春を迎えられそうです。梅林の木々もすっかり葉を落とし、栗の大木のみが紅葉をまとっていました。

 人間牧場の周りにはハゼが沢山あって、海岸沿い故に今頃綺麗な紅葉が楽しめるのです。

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 このハゼも夏には蔓が巻きついて放っておくと枯れる運命にありましたが、夏の暑い時期にこまめに登ろうとするカズラを切ったお陰で美しい紅葉を楽しめるのです。これ以外にもツリーハウスの周辺にはハゼの木が何本かありますが、カズラの餌食になって美観を損ねているようです。来年は是非のもカズラをしっかりと切り、秋の紅葉を楽しむイベントでもやりたいと思っていますが、夏になると延びる草やカズラの勢いに押されて、手に負えないのかも知れません。

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 昨日の海は嵐の前の静けさとでも言うべきか穏やかで、眼下に見える豊田漁港には漁を終えて帰る漁船が、エンジンの音も軽やかにひっきりなしに入港していました。長閑な港の風景を見ていると、何ヶ月か前原油の高騰で全国の漁師さんたちがストライキをして出漁しなかったことを思い出しました。今は原油の値段も下降を続け値上がり前の水準に戻っているようですが、世の中の不況を反映して、魚の値段が安いと漁師さんたちはこぼしていました。

 私もこの港を根城に18歳から25歳までの7年間漁師をしていたこともあって、何故かこの風景が大好きなのです。港の風景もあの頃とはすっかり様変わりをしていますが、港の沖合に見える島影などは太古の昔から変わらない姿だと思うと、少年のころにこの山から見た姿とダブって見えて、死んだおふくろや、処分した若吉丸を思い出すのです。昔日の思い出に浸る余裕もなかったこれまでとは違い、回顧する気持ちが出来たのは加齢のせいかも知れないと一人納得しながら、背もたれ椅子に体を沈めウッドデッキで本を読みながら少しの間転寝をしました。

 

  「背もたれの 椅子に体を 沈めつつ 転寝楽し 至福過ごしぬ」

  「師走だと いうのに赤い ハゼ紅葉 誰も愛でずに 散るはかなさよ」

  「七年も 眼下の港 出入りした 懐かし日々は 未だ帰らず」

  「思い出を 持てる幸せ 感じつつ 沖合い浮かぶ 島影眺め」

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shin-1さんの日記

○またもやキツツキ捕獲

 キリシタン大名である大友宗麟の生涯という本を読んでいると、宗麟は人を殺してはいけないというキリストの教えと、大名としてその地位を守るために戦をしなければならない矛盾に随分悩んだことが書かれています。むやみに殺生をしてはならないのは人間として当然の教えですが、生き延びて行くためには自分で手を下さなくても人が殺した牛馬や鳥の肉を食べなければならず、宗麟ほどの深い悩みではないにしても矛盾に満ちた暮らしをしているのです。

 今日も矛盾が発生しました。久しぶりに人間牧場へ出かけました。今日は天気もよく温かいので農作業もはかどりましたが、ふと見上げるとロケーション風呂の軒先に何やらうごめいているのです。見れば防鳥ネットにキツツキが絡まっているのです。

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 人間牧場は完成して3年半になりますが、その間に水平線の家やロケーション風呂の外壁はキツツキの餌食になって大きな穴を幾つも開けられました。何とかキツツキが来ないようにとカラスの脅しなどを吊り下げてみましたが、こちらを見透かすようにやりたい放題で、益々ひどくなって行くのです。業を煮やした息子は周りにテグスで出来た防鳥ネットを張ろうと提案しました。人間牧場施設の設計を担当した息子にしてみれば、自分の作品でもあるので当然のことかも知れないのです。息子は穴の空いた場所を大工さんに頼んで修復すると同時に、休日を利用して穴を開けた場所辺りに網を張り巡らせました。

 当分の間は防鳥ネットの効果なのかキツツキはまったく姿を見せなくなりました。私も地元の人から教えてもらった通り、防鳥ネットの切れ端をキツツキの開けた穴に差しこんで行きました。これもキツツキには煙たがられたのでしょうか、効果てきめんでした。

 ところが防鳥ネットを張り穴にネットを入れてから3ヶ月くらいして、一羽のキツツキがネットに絡まって捕獲されたのです。たまたまその姿を見た少年少女おもしろ教室の教育委員会事務局の人が、「可哀想だしこんな姿を子どもたちに見せたくないから逃がそう」ということになりました。結果的にはネットに絡まって死んでしまいましたが、愛鳥などの運動を考えると複雑な気持ちになりました。

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 私はそれまでキツツキの被害に遭っているのに、キツツキの姿を目の当たりにしたことはなかったのですが、死んだキツツキはそれは美しい瑠璃色の姿をしていました。しかし口ばしは咎って足の爪は鋭利に出来ているのです。一匹のキツツキを捕獲してから年に4~5羽はネットで捕獲されるようになりました。一回は孫が人間牧場で見つけたため家に持ち帰りねんごろに弔いましたが、こう再々だとそんな弔いもできず、今日も持ち帰ったもののさてどうしようか思案しているところです。今回も割り切ってごみ処分したいと思っています。

  「悪さする キツツキ軒先 ぶら下がり 息も絶え絶え 脚立ではずす」

  「愛鳥の 気持ちはあるが 野放しに すれば悪さを 止めぬキツツキ」

  「瑠璃色の 美し姿 想像も つかぬキツツキ 人に例えりゃ」

  「アカゲラと 別名名乗る キツツキは 赤い冠 被って悪さ」

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○言ってもらいたい褒め言葉

 心理学の世界のことでしょうが、人間には承認の欲求というのがあって、認められるくらい嬉しいことはありません。特に子どもなどは認められるとそれを自分の得意分野だと思いこんで、どんどんその個性が伸びて行くのだそうです。これは何も人間だけではなく動物の世界でも当てはまるそうで、犬や猫などのペットを手なずけたり、芸当をさせたりする時にも使われる手段のようです。

 私たちが関わっている地域づくりの世界でも、自分の業績が認められ表彰されたり、新聞で紹介されることがよくあります。それを鵜呑みにして自慢し過ぎる人がいるのはいただけない話ですが、それでも何もせずに「あれぐらいなことは誰でもできる」とか、「私もしようと思っていたが先を越された」なんて、人の業績を羨んだり苔降ろしたりする人よりはましですから、自慢話も聞いてあげるべきかも知れません。

 つい最近新聞を読んでいると「言ってもらいたい褒め言葉」という本が出たそうです。まだその本を読んではいないのですが、このタイトルを見て人間の心理が分かるような気がしました。つまり人間は殆どの人がいつも褒め言葉を言ってもらいたいと待っているのです。褒め上手な人はそのことを心得ていて「あなたがこんなことをしてくれたから助かるわ」何て言葉をかけられると、今までの苦労も吹き飛ぶのです。逆に「こんなことして何になる」とくさされると、相手に対する憎悪となってしまうのです。

 昨日のささいな出来事です。仕事が遅かった妻のために私は風呂を沸かしました。家では家事など殆ど何もしない私が風呂を沸かしたのです。そのうち家に帰った妻は休む間もなく夕食の準備に取り掛かりました。洗濯物を取り込み風呂を沸かそうと開けた途端、風呂が沸いていることに気づいた妻は、「お父さんありがとう、優しいのね」と褒めてくれました。60歳を超えた私が風呂を沸かしたくらいで褒めてもらって有頂天になることはないのですが、それでも妻の一言がその夜の食事を美味しくさせました。だから私も「おい、今日の料理は美味いな」と照れ気味に褒めました。妻は「まあ嬉しい。今度はどんな料理にしようかしら」と喜んでくれました。

 もしこれが全く違った言葉だったらどうでしょう。私「風呂を沸かしておいたぞ」。妻「まあ珍しい。雨でも降らなきゃ良いが。風呂ぐらい沸かしたって当然でしょう。私は働いて帰って疲れているのですから」と言われると、多分「ガツン」ときて、私「そんなこと言うのだったらこれから何もしない。お前は人の手助けが分からないのか。このバカたれが」と、ますます険悪な人間関係になるのです。

 相手を思いやる小さな心配りの褒め言葉がどれほど人間関係をよくしていくことでしょう。そう思うと人間は自分がしてもらいたいことは相手もしてもらいたいことなのだと、思って生きることが大切なようです。つまり人は自分を映す鏡なのです。いい生き方をしたいと思えばいい生き方を相手に与えることのようです。人の間と書いて人間と読むのですから・・・・。歯の浮くような褒め言葉はどうかと思いますが、爽やかな褒め言葉が発せられるよう心配りをして生きてゆきたいものです。


  「助かるわ なんて一言 言われたら こいつ良い奴 思ってしまう」

  「褒めながら 褒めてももらいつ 生きて行く 夫唱婦随の 二人三脚」

  「くさすより 褒めて暮らすが 上策と いつも思うが ついつい悪態」

  「こんなこと 褒めてもらって 言いつつも 悪い気しない ささいなお褒め」

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○人に感動や勇気を与えることは難しい

 私はこれまでの人生の中でどんな人に勇気を貰い、どんな感動をしたのだろうと自分自身の人生を振り返ってみました。最も強い勇気と感動を貰ったのは意外や意外身近な所にありました。それは26歳の時に私と結婚した二宮繁子という一人の女性と、この女性が産んだ4人の子どもの出産でした。

 私の生活設計では26歳で2歳年下のK子という南予の人と結婚したいという願望を持っていましたが、名前も年齢も違ってはいたもののほぼ目標通りの女性と結婚できたのです。以来38年間も飽きもせず別れもせずに一つ屋根の下で暮らしているのです。今では空気のような存在になっていますが、妻ほど私に感動や勇気を与えてくれた人間はいないのです。私が留守の家を守り、4人の子供を育て、家計のやりくりをして家族を守り続けてきました。まあ自分が自分の妻を持ち上げるのも変な話ですが、真っ先に挙げるとすればそうなってしまうのです。

 自分の子供が生まれた時も不安ながらも大きな感動や勇気を与えてくれました。私には今時珍しい4人の子どもがいますが、誰ひとりとして要らない子どもではなく、それぞれにそれぞれの夢を実現するため一生懸命生きています。残念がら飛びきり優秀な子どもではありませんが、ごく普通の子どもに育ています。まあ両親を足して2で割ったら丁度いいのだといいますから、私たち夫婦にとっては優しく思いやりのある、それでいて社会に迷惑をかけず健康であるという最低の条件を備えているのですから良しとしなければなりません。

 子どもは宝だとよく言われますが、子どもを4人も育てることは容易なことではありません。まして現代は子どもの教育にお金のかかる時代でもあるのでそれなりに苦労しましたが、でも発育のその時々に泣いたり笑ったり、時には叱ったりしながら子どもとともに私たち夫婦も成長してきたように思うのです。

 「妻と巡り合わなかったら」、「子どもが4人生まれていなかったら」と思うと、やはり妻も子どもが自分にとって感動や勇気を与えてくれた一番の功労者だと思うのです。結婚してから今日まで様々な出来事の時々には「なんでこんな女性と結婚したのだろう」とか「子どもさえいなければこんな苦労をせずに済むのに」と一瞬そんな思いが掠めたこともありますが、今になって思えば「済まなかった」と詫びる気持でいっぱいなのです。

 さて私が感動と勇気を与えてもらったと同じように、私が誰かに感動や勇気を与えることは難しいことだとしみじみ思うのです。私はこれまで家庭、職場、地域、仲間といった違う世界で様々な役割を果たしてきましたが、特に私のフィールドである地域づくり活動やボランティア活動で様々な人との出会いを重ねてきました。その中には忘れられない感動や勇気を貰った場面が沢山ありましたが、はて私は誰に感動と勇気を与えたのであろうかと思うと、少々心もとない感じがするのです。でも私と活動を共にしたり私の話を聞いたり、時には私の生き方に接して、「勇気や感動をいただいた」という人に出会うのです。そんなに多くはありませんが、これからもそうした出会いを重ね少しでも社会のお役に立ちたいと思っています。

  「感動や 勇気貰った 妻や子に 今度は俺が 与える番だ」

  「何気なく 同じ屋根下 暮らしてる そうか俺には 妻が一番」

  「結婚も 子ども生まれた その時も 嬉しさ募り 雲の上行く」

  「お互いが 零点だった 出会いだが 百点目指し 今も努力を」

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