shin-1さんの日記

○久しぶりの小野田

 昨日は小野田に行くのに、柳井港駅から乗った山陽本線の列車を徳山駅でいったん降り、山陽路の拠点の一つである徳山から新幹線に乗りました。普通は長閑な各駅停車の旅を楽しむのですが、小野田はかなり西にあって会議に間に合わないため新幹線を利用したのです。20分ほどの待ち合わせ時間でしたが、西に東に駅構内を猛スピードで通過するのぞみやひかりの早さは尋常ではなく、瞬きする間に轟音を立てて通り過ぎて行くのです。新幹線もモデルチェンジが進んでいるようで、まるでカバが走るようなユーモラスな姿の機種は姿を消し、

007の映画に出てくるような流線型の格好いいモデルに思わず持っていたカメラを向けたりするのも、旅の楽しみでしょうか。

若松進一ブログ (徳山駅を猛スピードで通過する新幹線)

 列車の待ち時間は様々な人間模様を見たり空想にふけったりするものです。私はこんな僅かな時間でもベンチに座り木になるカバンの上でハガキを書いたりしますが、この日は絵心もないのにインターネットで送られてきた担当者からのメール文の裏側に絵を描きました。ふぐの絵とフグ刺しの絵です。山口県=ふぐというイメージがそうするのでしょうか。荒書きしたところで場内アナウンスの向こうに列車が見えたので止めてしまい列車に乗り込みました。

若松進一ブログ (お粗末ながら私が書いたフグとフグ刺しの絵です)

 こだま各駅停車に乗ると新山口の次が目的地厚狭駅です。コートを脱ぎコートを着る時間もないほどの速さなので、コートを着たまま空いている列車の3号車に乗りました。正直な話厚狭駅の存在は担当者から最寄りの駅の指示があるまで余り知りませんでした。降りてみてびっくりです。新幹線駅のホームは屋根もなく、田んぼの真ん中にポツリって感じです。一便早く乗れたため添付していた地図を頼りに歩こうかと思っていましたが、運よく迎えの課長さんが早く来ていて、目と鼻の先ながら会場まで車での移動です。

 会場となる文化センターには既に沢山の人が集まっていました。用意していただいた弁当を食べながら雑談にふけり、時折訪ねて来る市長さんや関係者と名刺交換しながら控室で出番を待ちました。この日の集会は農山漁村女性の集いなので、気心の知れた会議のような気がして、「女性が輝くときまちが輝く」という演題で100分程度話しましたが、時間切れにもかかわらず質問が飛び交ったりハーモニカのリクエストがあったり、それは賑やかでしかも満席の参加者を前に、いい雰囲気で仕事をさせてもらいました。

若松進一ブログ (会場いっぱいの参加者)

 控室に漁協女性部の県の会長さんが見えられました。ここだけの話だと前置きして、「農山漁村というけれど漁村関係の話はいつも少なく、今日は楽しみにしてきました」と私にプレッシャーをかけました。「私は漁村出身なので」と話すと、「うれしい」といって会場へ去って行きました。私の話は漁村に特化したものではありませんでしたが、漁村の方々の耳にどう響いたことだろうと、少し反省しながらの帰郷となりました。

 3日前にも山口へ来ているだけに、見える町並み、出会う人々、頬を撫でる詰めてい風さえもまるで親戚のような親しみを覚えました。山口県といえば隣の県なのに海を挟んでいるためどこか遠い街のような気がしますが、私は朝な夕な沖合いに浮かぶ周防大島や平郡島、八島、大水無瀬、小水無瀬など山口県の島々を見ながら暮らしているのです。まるでルーツは一緒だと思うように・・・・・。今月末にも三度山口県を訪ねます。その時もよろしくお願いします。


  「農漁村 おばちゃんたちの 声高く 笑い転げて ホールこだます」

  「瞬きの 間に通過 新幹線 今更ながら 速い驚き」

  「ホームにて ふぐの絵を書く にわか画家 やはり凡人 俺は駄目だな」

  「俺話す 聞く人呼吸 ぴったりで 安堵しながら 再び列車」

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shin-1さんの日記

○日本は今に松の国から竹の国になるのでは?

 昨日は山口県へ行くため防予汽船のフェリーに乗って瀬戸内海を往復5時間もクルージングしました。もっとも帰りは夜だったので視界は利きませんでしたが、それでもあちらこちらに港や街の明かり見えて寒いながらロマンチックでした。特に私の町の遥か沖合いを通るとき、潮風ふれあい公園の夜間照明の明りが、ひと際明るく存在感を示していたのには驚き、少しだけ望郷の念に駆られました。

 瀬戸内海は海の銀座といわれるように、一日中大小様々な船が西に東に行き交うのですが、夜には暗い闇夜を白熱灯と青と赤の鈍い光が近付いては遠ざかって行くのです。船の運航をする人たちはこの三色の明りだけで、船の方向が分かるように訓練されていて、相手が徐けるのか自分が徐けるのか瞬時に判断し前もってその責任行動を明確にするのです。迷走にっぽん丸(日本の政治家)の航海士たちには、こんな操縦方法が分からないようなので教えてやりたいような心境です。

 夜の楽しみは灯台の灯りです。灯台の灯かりは一見同じように見えますが、色と灯りの質がちゃんと決められ、海図にはちゃんとそのことが記載されているのです。勿論昼間識別が必要な時間帯に航行する場合も、形と色が一定の法則で決められているのです。昨日通った航路で一番遠くで光っていたのは佐田岬半島の突端にある灯台でした。灯台の灯りにも一等星、二等星と同じように光の強い灯台と弱い灯台があります。概して難所と呼ばれたり航海上重要な場所の灯台は光源の光が強くなっていて、遠くまで届くのです。近くでは釣島の灯台も釣島水道といわれる難所だけに強い光を放っていました。灯台の光を見ながら何秒間暗闇があって何秒間明りがあるのか数えるだけでも、灯台を楽しむことができるのです。勿論私が水産高校の出身だからこんな楽しみ方ができるので、普通の人には知る由もない話なのです。

若松進一ブログ(周防大島の入口であり出口である周防大島大橋の近くにも、松に代わって竹藪が目立つようになりました。)

 日本の海、特に瀬戸内海は白砂青松といわれるほど白い砂浜と松の緑、そして海の青さが象徴的な場所はないと、多くの文人墨客が述べています。確かに私たちが子どもの頃はそうでした。しかし高度成長期が終わった頃から海は汚れ、砂浜は埋め立てられ、松は松くい虫の被害に遭って無残な姿となりました。かろうじて瀬戸内海汚染防止の様々な策が講じられるようになって少しは回復したものの、海は昔の姿いまいずこの感がします。

 埋め立てられた砂浜はもう元に戻りようがなく、無造作にコンクリートで固められた海岸が瀬戸内海の美観を

損ねていて、行政に深くかかわりコンクリート工事の片棒を担いできたわが身ゆえ、四笹か心がいたもうのです。それでも失った砂浜や自然を回復させて人々が海に親しめるよう最後はシーサイド公園を造ってつじつまを合わせることができ、多少安堵といったところです。

 ところで、松の緑は相変わらず枯れる運命にあって、まるで松が紅葉しているのではないかと錯覚するような姿になっているのです。子どものころ金毘羅詣りや宮島詣りの時に見た、水もないであろう海に囲まれた小さな島に、松の生えている姿に驚きを覚えた記憶と今を対比させていました。

 周防大島は沖合から見ると竹藪がやたらと目につくような気がしました。里山にはびこる竹の勢力は旺盛で、松の衰退とこれまた対比しながら、今に日本は松に代わって竹が日本全土を覆い尽くす日が来るのではないかと思ったりしたのです。それにしても「白砂青松」というけれど信号の色と同じで、砂は白ではなく黄色味も帯びていますし、松も青ではなく緑なのです。最初にい出した人は色盲ではなかったかと思うのです。黄砂緑松が正しいのでしょうが、これも例えの一つのようです。

  「松が枯れ 代わって竹が はびこって 今に日本は 竹の国なる」

  「白い砂 青い松とは これいかに 黄色い砂と 緑松正解」

  「灯台の 光見ながら 海の旅 遥か彼方に 佐田の岬が」

  「釣島の 灯台灯り 寒々の 心にほのか 温もり感じ」

  

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shin-1さんの日記

○今日は山口県へ旅に出ます

 今日は早立ちで、ブログを書いているパソコンの右下に表示された時刻を見ると今6時07分です。まるで和尚さんが毎朝のお勤めでお経を唱えるのと同じように既に一本、ブログを書き終わっているため、出発までの寸暇を惜しんで、妻の用意した軽食をつまみながらこの記事を書いています。

 今日は山口県美祢農林事務所から講演依頼があって7時前には出発しなければならないため、どこか慌ただしい雰囲気です。今日は自家用車で松山市三津浜まで行き、柳井航路のフェリーで中国路へ入ります。山陽本線と新幹線を乗り継いで厚狭まで行くと迎えの車が待っている算段です。

 妻が時々不思議がるのですが、最近は同じ県に相次いで行くことが多いようです。三日前にも山口県へ行って帰ったばかりですから当然かも知れません。旅先にいい人がいるのでは?、と詮索して欲しいのですが、「女房焼くほど旦那もてもせず」とばかりに安心して送り出してくれるのです。

 私の場合誰かの漫談師が言っているように、「呼ばれないと行けないのです」から、行き先はまさに相手次第で、悪ければ二度と呼ばれない怖い側面を持っていますが、逆にいい舞台を務めると座布団が運ばれて再訪問や近所の町村に呼ばれるのです。たったひとりの気楽な旅も、やはり呼んでくれた人の顔もあるので気を抜くことはできません。今日もその人に恥をかかさないよう一生懸命励みたいと、「気をつけて行ってらっしゃい。早く帰ってね」と妻に見送られて出発するのです。今日の帰りは同じ道を辿って帰るため多分家へ着くのは11時ころになるような気がするのです。

 「お父さんそろそろ出かける時間よ~」と居間から妻の声、行ってきます。尻切れのブログは帰ってからのお楽しみです。じゃあ。

 こう書き残して旅に出ました。新幹線と在来線、それにフェリーと自家用車を乗り継いで自宅へ帰ったのは10時半頃でした。船が港に着いた頃妻から携帯電話が入り、家に着くといつもながら温かくて美味しい家庭料理を作って待っていてくれました。最近は9時をお腹の門限と定めているのですが、今日ばかりは腹が減って寝れそうにもないし、加えてメールの処理も時間がかかりそうなので、アジの刺身、湯豆腐、焼き魚などなど、美味しそうな料理を前にして、大胆にも門限を破って大食いしてしまいました。いやあいつもながら妻の料理は美味しいです。

時々テレビの料理番組でことさら美味しそうに食べる姿を見て、「私の家ではあんなもの毎日食べてる」とないしい誇らしげに思っているのです。

 今日の出来事をブログに書き込むのはとりあえず明日に伸ばすとして、今日は長旅で幾分疲れましたのでこの程度で終わりにします。お休みなさに。

  「移動距離 宮本常一 匹敵す そんな錯覚 旅のつれづれ」

  「門限を 破ってまでも 食べたいと 妻の手料理 舌鼓打つ」

  「老い間近か 妻の心の 温かさ 湯豆腐湯気を フウフウ言いて」

  「昨日今日 寒波戻りて 寒いねね 挨拶交わし 人は集いて」 

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shin-1さんの日記

○一芸のできる人は身を助ける

 私は「無芸大食」といわれるように、何の芸当も出来ぬまま若い頃を過ごしてきました。私が若い頃にカラオケなんてものが流行し、凝った人は自分の家にカラオケのスタジオまで作り、仲間を呼び集めて主に演歌を歌って楽しんでいました。その流れは松山の飲み屋でも同じで、せっかく飲みに行ってもお互いの話が聞き取れないほどボリュームを上げたスピーカーから音が流れ、マイクを片手に得意になって歌っていました。そしておついしょ拍手とでもいうのでしょうか、時には下手くそだと思っても「上手い上手」とこれもおついしょで、拍手や言葉を送ったものでした。「今度はあんたの番だ」とせかされるのですが、残念がら18番の歌もなく、歌詞本をめくりながら、「望郷酒場」「味噌汁の唄」「昔の名前で出ています」を適当に歌ってお茶を濁していました。

 今もその流れは続いていますが、夏まつりともなるとカラオケ大会がつきもので、歌の分からない人たちが仕方なく審査員に名を連ねて座り、ビールのジョッキを片手に審査して、これまたカラオケが上手いと自負する人たちが町外からやってきて、自慢ののどを披露しトロフィーをかっさらって行くのです。私はその草創期に司会が上手いいということで司会を担当して、一度だけ役目がら出なければならなくなってみんなの前で歌ったことがありますが、司会ではあがらないのに歌で上がったことを記憶しています。

 あれから何年がたったでしょう。最近の飲み屋や飲み会もすっかり様変わりして、今はカラオケを歌う店はだんだん少なくなって、隣の席に座った仲間とお喋りをするまでに飲み屋の環境は回復して、いい酒が飲めるようになりましたが、皮肉なことに私は酒が飲めない体になったのです。

 さて私はこのまま歌を忘れたカナリヤになる運命でした。ところが息子が無造作に捨てた一本の、僅か15の穴のハーモニカのお陰で一芸を見つけ、見事に自分らしさを表現できるようになったのです。私はまるでフーテンの寅さんのように、そして旅芸人のように木になるカバンを持って相変わらず日本全国を飛び回っていますが、そのかばんの中にハーモニカを忍ばせ、講演の途中で下手くそながハーモニカを披露しているのです。私のハーモニカはカラオケと違って何の準備も要りません。アカペラと呼ぶべきかも知れませんが日本のハーモニカを使い分けて、人の迷惑など顧みず日本人の心の中に染み込むような、「赤トンボ」や「ふるさと」などを吹くのです。相手の顔触れを見て時には「ああ上野駅」や「南国土佐を後にして」なども吹きますが、みんな惜しみない拍手をしてくれるのです。時にはその拍手の多さを「アンコール」と勘違いをして悦に入って吹くのです。

 ハーモニカが吹けるようになって私も俄然集会が楽しくなりました。私がハーモニカを吹いていることを知っている仲間からは、時々リクエストがかかりますが、臆することなく挑戦しています。先日私の親友の高知県馬路村の山猿こと木下君が、マジックを披露してくれました。彼はなんにでも挑戦する積極人間で、目下のところ私の知る範囲では最も積極的な人間だと思うのです。マジックを始めてまだ一年だというのにもう村中をマジックで埋め尽くすほどの勢いです。マジックで村おこし?なんて聞いたこともないだけに、過疎で高齢化で少子化だと嘆く前に、こんな特産品?もあるのだと、他所も真似をしてほしいと思うのです。

 一芸は随分身を助けます。私もハーモニカのお陰でどれほど講演の幅ができたことか計り知れないのです。これからは人が真似のできないような一芸をしっかりとマスターする人を育成したいと、年輪塾で密かにたくらんでいます。一芸も出来ぬ人は最早不必要とばかりに迫ってみたいものです。私の友人には大酒飲みが沢山いますが、タダ酒だけを飲むと今に体を壊します。一階を披露している時間だけでも酒が休めるのも酒量を減らす妙案かも知れません。

  「ハーモニカ 吹いて一芸 披露する 疲労はするが 拍手喝采」

  「マジックを 最近始めた 友人が 友のブラジャー 脱がせ喝采」

  「マジックで 村を起こすか 面白い 特産品より よっぽど楽し」

  「ハーモニカ 新たな人が 出ぬ限り 俺の独断 ざまあ見やがれ」

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shin-1さんの日記

○ポンカンの植えかえ

 わが家の家庭菜園の隅には甘夏みかん園があり、冬だというのに沢山の実をつけて樹上完熟の日を待っています。しかしこのところの春一番の大嵐が木々を揺らせて随分落果させて、管理をしている親父をがっかりさせています。甘夏みかんは春から夏にかけてみかん類が端境期でなくなる頃なので毎年重宝して食べています。他のかんきつ類に比べて酸味が多いのが特徴ですが、これを好む人もいて毎年友人や親類に送って喜ばれているのです。わが家のように無消毒を貫くと病害虫がついて中には木が枯れるものもあり、その都度園芸店で苗木を買い求めて捕植をするのですが、先日同じ町内に住む妹から、家のそばの園地を菜園にするため購入したが、そこにはポンカンの苗木が植わっているので、欲しければ取りに来るよう連絡を受けました。連絡を受けたのが親父だったので、親父は私の休日を待って取りに行くようせがむのです。

 今日は春のような昨日の陽気と打って変って冷え込み、外は寒々として冬に逆戻りのような感じの朝でした。親父が手伝ってやるというので、親父を軽四トラックに載せ車で10分くらいの妹の家に出かけました。妹の案内で持参した鍬を持って畑に入り、5本ばかりいただくことにして早速掘り始めました。ポンカンの幼木は4~5年生で昔田んぼだった所に植えていましたが、幼木とはいいながら土の中から堀起こす作業はかなりの重労働です。ましてや普通こんな作業に馴れていない私は、フーフーいいながら作業をしました。ところがどうでしょう。91歳になる親父は毎日家庭菜園で農作業をしているだけあって、呼吸の乱れもなくせっせと周りの草を削る、堀あげて行くのです。いやあ驚きました。64歳の親父から見えれば若者のような私よりはるかに作業がはかどるのです。しみじみ思いました。人間は鍛えれば年齢なんて関係ないと・・・・。

 ポンカンの幼木を5本堀あげトラックに積み込み、畑に空いた穴を埋め戻し家に帰りました。さあこれを植えなければなりません。親父が芽吹きつつある草を削り、そこに鍬を打ち込んで穴を掘るのです。5つの穴を掘るのもむしろ親父の方が元気なようでした。私は少し遠い距離のトラックから一本ずつ運び穴の中へ差し込み、穴の調整をして埋め戻して植えて行くのです。

 すべての作業が終わったのは12時近くでした。昼食に帰ってきた妻は、早い作業に驚いた様子でした。汚れ車を洗い一王の作業を終えましたが、さ魚に夢中になっていたためお茶も飲まず一服もせずだったので、急に空腹を覚えましたが、やはり働いた後の食事は格別で、妻と二人で美味しい昼食を食べました。

 親父は昼食が済むと軽い午睡をします。私も昼食後テレビを見ているとついついウトウトして、親父と同じように約30分午睡をしてしまいましたが、炬燵に入っての午睡は気持ちいいものでした。

 さあれから忘れていた水やりです。植え替えた幼木は葉っぱが沢山あって蒸散作用が激しいため、葉っぱを枝ごと落とす作業をしなければ活着しないので、剪定ばさみで元の姿がないほど思い切って選定作業をやりました。はてさて首尾よくこの地に根付いてくれるでしょうか。将来が楽しみなポンカンに「頑張って」と言葉をかけました。


  「ポンカンの 苗木親子で 堀あげて 菜園横に 命再び」

  「驚いた 俺より凄い 働きを 九十一歳 親父軽々」

  「昼飯を 食って午睡の 掘りごたつ 毛布をそっと 妻の気配り」

  「根付いてと 穴に丁寧 植えて行く 親子二人で ただ黙々と」

  

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shin-1さんの日記

○年度替りの狭間は毎日忙しいです

 間もなく平成20年度が終わり、新しい21年度が始まるのでしょうが、年度替りは何かと騒々しく、私のようなリタイア組でもそれなりの片付けと準備があって、何かと忙しいこのごろです。まず愛媛大学法文学部の非常勤講師をしているため、一年間のとりまとめとして学生たちの成績を評点して大学に送らなければなりません。今年度からその作業もコンピューター処理となったため、慣れない手つきで挑みましたが、最後は大学の先生の手助けを求めました。評点が終わりやっと一年間の仕事が終わったのもつかの間、一昨日大学から通知が来て、来年度も引続いて授業を担当する承諾書の提出を求められているのです。非常勤講師としてこの6年間授業をしてきましたので、農学部での仕事も入って、もうそろそろ潮どきだと思っていましたが、行きがかり上もう一年お付き合いをしなければならなくなりそうです。そうなるとこの時期は二つの学部のシラバスを作らなければならず、これまた忙しい日々が続きそうです。

 テレビのニュースで、昨日から税金の確定申告が始まったというニュースが流れて、俳優の高橋英樹さんが電子確定申告している姿が紹介されていました。私たちのような税に詳しくない人間にとって、年に一度のこの作業は煩わしく悩みの種です。私の場合リタイアしているので給料は入りませんが、何がしかの講演料をいただいています。講演料の殆どはその都度源泉徴収と称して10%の税金が差し引かれていて、税金を上乗せして支払うことはなく、むしろ還付金が返ってくるのです。いつも不思議に思うのですが講演料は普通講演料と旅費をまとめていただきます。講演料は10%の税金がかかるのは納得ですが、旅費にも税金がかかるのです。旅費は要った分だけ実費でいただくのですから、旅費から税金を差し引くと旅費に赤字が生じるのです。例えば松山観光港から広島宇品まで高速船で行くと往復13400円かかります。ところが支給される旅費はフェリー代の往復7000円の所もあって、税金が引かれると実態と赤字になるのです。まあリタイアすると、そんなこまごましたことにも気がつくような懐になるのです。

 私の場合、確定申告は税に詳しい友人がいてすべからく教えてくれますので大助かりです。お陰さまで手続き後は毎年還付され、嬉しいのですが残念なことに国保税がその収入に合わせて請求されるのです。まあ、税金を支払うことは市民、国民として当然の義務ですから、これも一年に一度のイベントのように考えやっています。

 古い年度が終わるにあたって私は自分の幾つかの役職から退く決断をしています。地域づくりに関する役職がかなりあるので、その幾つかから身を引くことを、既に早めに皆さんに伝えていて、それなりに後任人事が進んでいるようです。少し遅過ぎた感じもあり多少悔やんでいますが、後進に道を譲る歳になったとしみじみ思っています。組織を活性化するため自分では一生懸命やっているように思っていても、傍からみれば「早く辞めたらいいのに」とか、「あの人がいる間は・・・」なんて陰口を叩かれないうちに身を引くのが肝要だと思っています。どんな小さな組織でも長いは禁物でしょうが、私はあまりにも長く居過ぎたと反省しているのです。

 悠々自適、意の向くままに暮らすことはもっと先のことかも知れませんが、とりあえず少しばかり重い荷物の一部が肩から降りそうなのでホッとしています。

 でも人間牧場を拠点にした新しい運動体が芽吹いて、これまた新しい荷物が増えつつある姿を見ると、どうやら私は死ぬまで重い荷物を持ち続ける運命にあるのかも知れませんね。


  「年度など 関係ないと 思ってた リタイアしても 何故か年度に」

  「確定の 申告時期が やってきた 驚き落胆 交互に感じて」

  「もう一年 大学教壇 立てという 契約社員 なったみたいだ」

  「目標に していた歳に 近づいて そろそろ矛を 収める時が」

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shin-1さんの日記

○バックヤードを見ればその店が分かる

 人はそれぞれいろいろな仕事をしています。その仕事先にはバックヤードと呼ばれる場所が多かれ少なかれあるのです。35年間役場に勤めデスクワークを仕事にしていていた私にでさえも、小さいながら机やロッカーといったバックヤードがあったのです。私は元来整理整頓の下手な方です。ゆえに公民館主事をしながら町の広報を担当し月に2回発行していたころは目の回るような半端ではない忙しさでした。机の上にうずたかく積まれた書類の中から取材のメモや電話連絡のメモ、写真などを探すのは容易ではなく、次第に探す時間が長くなって、時々パニックになることさえありました。その都度要らないものを捨てて処分し、整理整頓ができたように思うのですが、またいつの間にか元の姿になってしまっていました。私は自分のの上の上の整理ができないのはてっきり仕事のせいだと思っていました。ある日のことNHKの有名なアナウンサーが自分の事務所の机の前でいる姿がテレビの画面に映し出されました。そのアナウンサーの机の上は私の机など比ではないほどにうず高く積まれていました。小さな田舎の小さなジャーナリストを自認していた私は、そのアナウンサーの机の上と自分の机の上をだぶらせながら、仕事を多くやっているからこうなるのだと、安堵をしてものでした。

 私は10年余り、自分がかかわって造ったふたみシーサイド公園という道の駅で商売をしました。その研修会で「バックヤードを見ればその店が分かる」というショッキングな話を聞きました。その方が言うのには、いくらお店をきれいにしても、裏口がちゃんと整っていないといい商売はできるはずがないというのです。思い当った私は社員にそのことを話し、自らも清掃活動をするなど色々と実践したのです。不思議なことにバックヤードをきれいにするとお客が増え売り上げも伸びるのです。そんな目でよそのお店を見てみると、流行っているお店は必ずと言ってよいほどバックヤードの整理整頓ができていました。

 自分の家でもそうだと思います。家には倉庫や車庫などがありますが、きちんと片付きている時は家族の人間関係も良いし、いい仕事ができているように思うのです。幸いわが家には片付けを専門にしているような91歳の親父がいて、息子の私が叱られるほど整理整頓や掃除をしてバックヤードを守ってくれているのです。数日前春一番が吹いて山の近くにあるわが家へも沢山の落ち葉が舞い込みました。掃除をしなければと思いつつ、出張したたのですが、昨日帰ってみると、すっかりきれいに掃除されて大助かりでした。

 私のバックヤードは書斎です。これは親父も手をつけられない部分なので、自分以外に整理整頓をすることはできません。このところの忙しさでと、また言い訳じみた話になるのですが、少し乱雑になって先日も欲しい資料を探すのに骨が折れました。

 私が若いころは見合い結婚が主流でした。そこここに若いカップルの世話をする仲人さんなどがいて、時々見知らぬ人が役場に入ってきて、用事もないのにキョロキョロして帰ってゆく風景をよく見かけました。その人は紛れもなくお目当ての人の様子を探っていたのです。ほとんど結婚が決まっていた女性の様子を探りに来て、机の上の整理整頓ができなかったことと、靴の踵を踏んで歩いている姿を見て破談になったという話を聞きました。多分その人は付けの上と靴の踵をその人のバックヤードと思ったに違いないのです。

 いつの間にか親父を頼って生きてきた自分に気づきました。こんなことを思いつつ、近々書斎の整理整頓をしたいと思う今日このごろです。




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shin-1さんの日記

○歌は世につれ世は歌につれ

 学校の音楽の授業で習った歌を除けば、私が一番先に覚えたと思われる歌は「リンゴの唄」でした。私の生まれ育った時期が戦後の混乱期で、そんなに口ずさむ歌がなかったこともあって、この歌を覚えているのかも知れません。作詞家サトウ八ローさんがこの詞を作ったのは戦時中でした。戦時下には軟弱過ぎるという理由で検閲ふかとされ、戦後になって日の目を見ました。可憐な少女の思いを赤いリンゴに託して歌う歌詞が、戦後の焼け跡の風景や戦時の重圧からの開放感とうまくマッチしたのと、敗戦によって焦燥しきった憔捽しきった国民の心を癒す楽曲と評価され、空前の大ヒットとなりました。レコードは昭和21年1月に日本コロムビアから発売され、3ヶ月で7万枚を売り尽くし、17円50銭のレコードに100円の闇値がつくほどでした。

 この当時まだリンゴは貴重品で、昭和20年12月に行われた公開ラジオ番組(NHK希望音楽会)において並木路子がこの歌を歌いながら客席に降り、籠からリンゴを配ったところ、会場がリンゴの奪い合いで大騒ぎになったというエピソードもありました。またテレビ番組などの資料映像として終戦直後の焼け跡や空爆、闇市、買い出し列車などのモノクロ映像が流れる度に、必ずと言っていいほどBGMにこの曲が流れていました。

いつだったか、川中美幸さんとそば焼酎雲海酒造提供のラジオ番組「人・歌・こころ」に出演したとき、私はこの歌をリクエストしたことがあるのです。

(歌詞掲載不可のため割愛)

私の心に残る歌はこればかりではありません。集団就職列車に乗って都会へ向かう同級生を送ったとき流れていた井沢八郎の「ああ上野駅」、18歳の時、日本を目指して北上中の愛媛県立宇和島水産高校の練習船えひめ丸の船中で聞いた吉永小百合・橋幸夫の「いつでも夢を」、高校を卒業するころに聞いた舟木一夫の「高校三年生」などなど、歌手と歌詞、それに曲が一致しないものの、自分の人生の端々に様々な歌や歌詞が蘇えり、そしてその歌を聞くと何故か自分の過ぎ越し人生が見えてくるのです。

 この歌を口ずさんだり、時には最近凝っているはーモニカで吹いたりして一人楽しんでいますが、もうそれらの歌も私の加齢そのままにナツメロとなってしまいました。先日91歳になる親父にはーモニカで軍歌を吹いて聞かせたところ、とても喜んでくれました。人それぞれ、「歌は世につれ世は歌につれ」思い出の歌はたくさんあるのです。これからも人に何と言われようと大いに記憶の中にある歌を歌いたいと思っています。

 

  「あの歌や この歌歌い 思い出す 過ぎ越し日々が 鮮やかにして」

  「若い人 俺の歌聞き キョトンする それもそのはず 歌は世につれ」

  「今朝リンゴ 食卓並び 食べながら 歌って聞かせる 妻もしみじみ」

  「幸田未来 知ってはいるが 歌えない 古くなったな 賞味期限か」 

 

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○第4回人づくり・地域づくりフォーラムin山口

 山口県セミナーパークは、四辻駅からほんの2キロ余りの清閑な場所にありました。はじめて訪れた施設ですがその立派なことといったら比べようがないほどです。昨晩はこの施設の宿泊棟、しかもリップ待遇で一人部屋の講師室に泊めていただきました。昨晩は交流会があ終わって部屋に帰り、ひと風呂浴びてから今日が締切の原稿を執筆していて、気がつけば午前様を回っていました。急いで寝支度をしてベットにもぐりこみましたが、5時ころに目がさめ、再びエアコンをつけて最後の仕上げを6時ころまでかかりやっと仕上げることができました。

 テレビを見ながらくつろぎ、さて今日は何を話そうか考えましたが、いインタビューダイアローグということなので、コーディネーターを担当する生涯学習・システム研究者三浦清一郎先生とはこれまでにもタッグを組んだことがあるので、下手な考え休みに似たりで、あっさり出たとこ勝負の賭けに出ることにしました。

 7時半になり朝食会場へ出かけましたが、昨晩の酒の勢いなある人、昨晩の酒にのまれた人など様々な顔をして兆勝を食べていました。今朝も夜の余韻そのままに楽しいおしゃべりをしながら島根県益田の人たちの交換は続きました。

 「地域ぐるみで、子どもの健全な育成のための環境づくりを具体的にどう進めるか」について、坂本登常磐大学教授、長尾彰防府市佐波中学校前校長、西山香代子やまぐちネットワークエコー代表、それに私を加えた4人の話を、三浦先生が軽妙に引き出し1時間30分間、楽しいおしゃべりをしました。私の話はさて置き、皆さんの話はとても楽しく深いものでした。

若松進一ブログ

 会場は満席でさすがに私も顔見知りが多く、あちかちから盛んに手を振ったり拍手をしてくれたりの応援ぶりに応えて話をしました。特に昨晩すっかりお友達になった真砂公民館の中村真理子さんと豊川公民館の石田和美さんは特別なシグナルを出してくれていたようです。それもそのはず中村さんは双海帳に昨秋来られて時・・・・・おっとつと、これは中村さんと私だけの内緒の話でした(笑い)。

 インタビューダイアローグの話の内容は、事務局の記録と生後しなかったら困りますので、ここではメモや感想を差し控えておきます。

若松進一ブログ

 前回は参加していないので知る由もありませんが、前回参加した人の話だと、今年の大会は前3回より格段に進化していたとのことです。

 私は夜の会議の予定もあって時間に遅れるといけないので早々にお暇し、タクシーを呼んでもらい四辻駅へ向かいました。この二日間お世話になった、そしてお世話していただいた赤いジャンパーのスタッフの方々が見えなくなるまで手を振って見送ってくれた姿には深い感動を覚えました。その余韻に浸り過ぎてタクシー券を紛失してしまい使うことができませんでした。(多分どこか書類の中に入れたのだろうと探しましたが、結局使うことなく家に帰り、木になるカバンを開けたら、いただいた旅費の封筒に挟んでいました。私はドジです)。

 帰りの列車もフェリーも順調で、同行していた松山市桑原まちづくりの朝山さんと船の中で色々な話をしながら帰りました。

 家に帰ってすぐに夜の会議に出かけ、快い疲れの中夜10時過ぎ帰宅となりました。


  「インタビュー 形式議論 白熱す 会場からは 拍手喝采」

  「筋書きの ない討論は面白い やる方大変 いきなり直球」

  「会場の あちらこちらで 手を振って 俺も答えて 手を振り合図」

  「引出しの 中から話題 取り出して 少し喧嘩を するよう仕組む」 

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shin-1さんの日記

○長い旅路

 昨日は伊予市双海町~今治市~山口県山口市を、車~フェリー~山陽本線と乗り継いで移動するという忙しい一日でした。幸い前日吹き荒れた春一番の風と雨も止んで、4月下旬並みの温かさで、むしろ暑過ぎるくらいの温度で、用意していたコートも車の中で留守番するというほどの大助かりでした。

 今治へは最短コースの山周りのコースを走り、10時過ぎには今治市役所の隣になる公会堂に到着して、老人クラブ連合会の研修会に出かけました。会場入り口で参加者全員に配るパンと牛乳をいただき、かなりの参加者で会場は熱気ムンムンの会場にはいり、裏手の講師控室でお茶をいただきながら開会行事の終わるのを待ちました。この日は表彰式も行われていて、予想どおり最初から10分ほど時間をして進行していました。出番の前に元県会議長の先田通夫さんが面会に来ていただき、開会式の前にもかつて一緒に仕事をしたことのある鳥生福祉部長さんの来訪挨拶に恐縮してしまいました。

 10分遅れて私の「心豊かに生きる」と題した記念講演が始まりました。さすが大勢の参加者なので、笑いのボルテージも半端ではなく、まるでお笑いびっくり箱のような雰囲気が会場を包み込みました。この日は高齢者が相手なので最初はゆっくりとした口調で話をしましたが、1時間20分の予定で仕組んだ話だけに、押した分だけの10分間延長を許してもらい、いい語り口の満足のいく話をさせてもらいました。

若松進一ブログ (今治老人会の研修会)

 講演が終わるとすぐに会場を後にして、今度は海沿いの道を松山に向かって走りました。三津浜から出るフェリーに乗るためです。この日は土曜日ということもあって道は予想したよりスムースに走れました。フェリーの出発時刻はこの時期、船がドック入りするため臨時ダイヤが組まれることが多く、これまでにも痛い目に逢っているので、前もってインターネットで調べていて、先方にはその旨伝えていますが、間に合えば一便早く乗れるかも知れないと淡い期待を抱きながら走りました。松山西警察署前の道路に差しかかった頃、沖合いにこちらに向かって走るオレンジフェリーを見つけました。ラッキーと思いながら岸壁近くの駐車場に車を止め、急いで船着場まで行きましたが、どんぴしゃりで間に合いました。

 春一番一過の瀬戸内海はまさに春の海という表現がぴったりでした。芸予諸島の島々や周防大島を横目に見ながら渦潮の流れる海峡を長閑に走り、塩の香りを存分に味わいました。この日は大広間に横になって仮眠をしたり明日予定されている討論会の調べ物をしたりしながらのんびり過ごしました。やがて周防大橋の下をくぐり、柳井港に到着しました。柳井港駅発が16時12分、②分しか乗り継ぎ時間はないのですが、走れば間に合うとばかりに走って駅に着くと、間一髪滑り込みセーフで列車に乗れたのです。

若松進一ブログ
若松進一ブログ (山陽路の穏やかな春の海を照らす夕日)

 柳井港から四辻駅まで1時間余りでしたが、車内で切符を買い求め、西に傾いた夕日を眺めながら冨海の穏やかな海をカメラに収める余裕の各駅停車鈍行列車の度を楽しみました。快速だけあって途中駅での待ち時間もなく17時26分に到着し、送ってもらったタクシーチケットを使って会場入りしました。

 既に17時30分からレストランで大交流会が始まっていて、乾杯の音頭を取る場所にこれまた段取り良く入って行きました。

 どこのあ誰がどの程度来ているのか、聞きもせず知りもせずで輪の中に入って行くと、何と島根県益田市からバス一台に乗って来られた方々が大歓迎をしてくれました。この方々の殆どは11月末に私の町や人間牧場へ研修にやってきた人たちでした。顔見知りとはいいもので、それからしばらくの間は益田の陣取った席で名刺攻めやお話し攻めにあいたじたじでした。

若松進一ブログ (楽しい交流会風景)
若松進一ブログ (どうしてこうなったのか?、いつの間にか益田市真砂の公民館長が壇上で丸で主催者のような顔をして挨拶をしていました)

 この夜はラウンジで二次会が行われ、9時ころまで楽しいおしゃべりをしました。その中心はやはりバス一台でこの大会に乗り込んだ島根県益田市のメンバーでした。私もこれらの方々が結成した活性化協議会の顧問に就任しているので懐かしい顔々と積もる話を山ほどしました。

 この大会に先立って岩国市美川町の親友岡さんから電話が入りました。岡さんは岩国市と合併をしたのを機に役場を退職して悠々自適の生活をされているようですが、腰の具合が悪いようで気分がすぐれないとのことでした。私が書いているブログを毎日見ていて、「山口県へ旅に出ます」と書いた記事を読んで電話をくれたのです。岩国市美川町から会場までは遠い道のりなので会いたいけれども会えないかも知れないとのことでした。今週も山口を再訪する予定ですが、次回はさらに遠い美祢市です。気になりながら通り過ぎるご無礼をお許しください。また暖かくなったら会いたいものです。


  「中四国 くくっているが 広いです 瀬戸内またぎ 旅を続けて」

  「親友の 気分すぐれぬ 近況を 聞きつも会えぬ 心苦しさ」

  「男時なる 幸運続き 間に合って 懇親輪中 すんなり入る」

  「覚えてる 落語の席で 眠る人 前の晩から 寝ない訳聞く」

 

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