shin-1さんの日記

○今年も確定申告の季節がやって来ました

 確定申告のシーズンになって、昨日立ち寄った市役所支所では何人かの人が紙袋を提げて役場の中に入ったり出たりしていました。「ああもうそんな時期か」と3月が年度末であることを実感しました。役場に勤めていたこの頃は年度末は補助金事務の処理に追われたり、新しい年度の計画作成と重なり、「忙しい日々を過ごしたなあ」と昔を懐かしみました。役場が市役所支所になってから当分の間は地元灘町の区長をしていたこともあって、何かにつけて足繁く通っていましたが、次第にその足も遠のいて今は視察研修にこれれる人のためにパンフレットをいただきに行ったり、少年少女おもしろ教室の実行委員長を務めていることもあって教育委員会へ行く程度に減ってしまいました。それでも顔見知りの職員さんからお茶でもどうぞと事務室内に招かれたりして、四方山話に花を栄えますが、それでもこちらが忙しいこともあって数えるほどしかなくなりました。他の市民と同じように私にとっても市役所の敷居は少し高いようです。

 一般の人なら誰でもそうかも知れませんが、私は確定申告などの手続きに関して勉強不足で中々自分で計算したりすることができません。ゆえに恥ずかしながら旧友の力を借りて毎年やってもらっています。先月その友人と会うと、「もうそろそろなので準備をしておいてください」といわれました。毎年のことながら1月は去る、2月は逃げると言われるように忙しく、1年間にどの程度の収入があったのか、一覧表を作るのが一苦労なのです。私のの収入は講演料や執筆料などが全てですから、殆どの場合はいただくときに源泉徴収という名目で課税され既に差し引かれているので、いただいたり送られてきた源泉徴収票を自分の日程表と付け合わせながら作成します。講演などの場合講演料に旅費を含んでいるため、源泉徴収票でその旨の確認をしながら旅費を割り出します。インターネットが使えない時は、旅の行程や旅費を小まめにノート記入していましたが、今は旅費計算はパソコンが瞬時にしてくれるためかなり楽になりました。しかしいつも思うのですが、旅費は確実に実費がいるのに旅費にも税金がかかるのです。多分確定申告では旅費で引かれた税金は必要経費で帰ってくるのだろうと思いつつ、旅費を調べて再掲をしているのです。

 「あんたは口で稼ぐからいい」と友人や周りの人は私のことを羨ましがります。またある人は「あんたは弁当箱も投資も何も要らん」といいます。確かにそんな羨ましがられる部分はあるかも知れません。しかし私だってかなりの部分で人に言えないような苦労や努力があることも事実なのです。私は漫談家綾小路さんではありませんが「呼ばれないと行けない」のです。呼ぶ側にも都合があって、私の持っている総合力を評価してフィーリングが合えば話がまとまるのです。問題はそこからです。ただ行くだけだったら簡単でしょうが、行った先々ではそれなりの仕事をしなければならないのです。それは肉体的には楽そうに見えますが神経的にはかなりの重労働です。時にはその重さが原因でストレスも溜り体調を崩すことだってあるのです。

 ポジティブに生きているように見える私を見て「ウソー、信じられない」と思うでしょうが、こう見えても以外と繊細な精神の持ち主なのです(ウソー)(笑い)

 2月末にやっとこさで一覧表をまとめ友人に源泉徴収票と一緒に渡しました。私にとってこの友人は1年に一度お世話になるだけながら、生きていくための頼りになる人なのです。今年も減税方よろしくお願いいたします。


  「お前楽 いつも言われる 言葉です 口先一つ 飯を喰うやつ」

  「旅費にまで 税金とるは 何事か いつも思うが 答え帰らず」

  「申告は 市民の義務と 言い聞かせ 今年もきっちり ぬかりなきよう」

  「早4年 時の流れに 竿差して 浪人暮し すっかり板に」 

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shin-1さんの日記

○またもや金融広報アドバイザーに再任されました

 記憶を遡れば思い出せないほど昔になった昭和51年に、一枚の辞令をいただきました。もうその辞令も探さないと何処へ行ったか定かでないのですが、当時は貯蓄推進委員会という組織が中央にあって、そこから「貯蓄推進委員」というお役目をいただいたのです。当時は公民館主事をしていたこともあって、貯蓄や家計簿記帳の必要性を県下各地の公民館へ出かけて熱っぽく語っていました。あれから30数年があっという間に過ぎ去りましたが、再び、三度、四度と回を重ねて12度目の辞令をいただいたのです。辞令をいただく前に再任の場合は簡単な説明とお誘いがあって、その都度「まだ若いのだから」と事務局である日銀松山支店長が会長を務める愛媛県金融広報委員会からの勧めるままに甘んじてきました。しかしそろそろと退任希望を出せば出すほど、強い引き止めに合い、今回もまた今期限りという約束で引き受けてしまいました。

 役立ち感が薄れて行くことだけは避けようと、自分の得意な分野で活動していますが、金融をめぐる社会はこの10年で大きく様変わりをし、また金融のトラブルも絶えまなく大きな社会問題を引き起こしているのです。


若松進一ブログ(金融広報中央委員会長から金融広報アドバイザー委嘱状が届き、今日愛媛県金融広報委員会長である日本銀行松山支店長さんから委嘱状が伝達されました)

 今日は大学の出勤日で、午前中大学での打ち合わせが2件ほどあったので、午前中の会議はやむなく欠席をさせてもらいました。しかし退任される山口章子さんを囲んで昼食会を行うという事務局からのお誘いもあって、打ち合わせを早めに切り上げ、やっとの思いで日銀松山支店に到着し昼食会に間に合いました。

 山口さんとは12年来の付き合いで、現アドバイザーの中では一番古い付き合いです。彼女が始めて私たちの仲間になった12年前には、私より若い人でしっかりしていると実感し折に触れてご指導いただきました。現在は若い人が何人か入られましたが、山口さんのような出会いが中々なく、少し不安を感じていただけに寂しい退任となりました。ご主人の転勤でえひめを離れるそうなので益々寂しくなります。

若松進一ブログ(左が丹治日銀松山支店長さん、中央が退任された山口章子さん)

 日本銀行といえばどんな仕事をしているところなのか、庶民の私たちには中々分からないベールに包まれたところです。その中に金融広報委員会というのがあって、その仕事のひとつとして金融広報や金銭教育などがあり、私たちアドバイザー10人余りが第一線で活動を行っているのです。

 金銭に余り縁のない私がアドバイザーとは少々おかしな話ですが、私はこれまでの30年の貯蓄推進や金融広報活動を通じて自らの人生の生活設計などで大いに役立ち、充実した半生が送れているのもこの仕事をしたお陰であると、恩返しの意味も込めてこれから3年間一生懸命頑張ろうと心に誓いました。


  「一口に 三十年と 言うけれど よくも関わり よくも出来たと」

  「また一人 仲間が一人 去って行く 俺より先に 何でこうなる」

  「若い方 思っていたが いつの間に 歳をとったの 自分にさえも」

  「さあやるぞ 最後踏ん張り しなければ 恩は返せぬ そんな意気込み」

 

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shin-1さんの日記

○体調変化の兆し

 私は元来体は丈夫にできていて、人様のように頭や腹がうずいたり、体に異変が起こることが少ないタイプなのですが、今年の年末年始に風邪をひいてから体の異変が起こったのか、3日前に食当たりをしてしまい、腹は痛くならなかったものの胃の中が空になるような下痢に見舞われました。食べた物をあれこれ考えてはみたのですが、同じものを食べた妻に食当たりはなく思い当たる節がないのです。普通は逆で食べ物に敏感な妻が食当たりしても私は平気なことが多く、妻を羨ましがらせていたのです。妻が「私が作ったた料理のせいではない」と犯人夏かされることを嫌って、「同じものを食べたのだから」自己弁護しているのですが、妻の言うように「このところ忙しかったから疲れているのよ」と、体調を気遣ってくれました。

 それでも明くる朝からえひめ地域づくり研究会議の研修旅行に、一応責任者として参加しなければならず、下痢のため度々トイレへ行き寝れない夜を過ごしたつけは大きく、参加した人からいつも元気はつらつな私と違う様子を見て、「若松さん体調が悪いの?」と気遣ってくれるほどでした。

 私は出がけに妻に正露丸を出してもらって3粒飲みました。食当たり、水当たりには正露丸はよく効くのでいつも愛用しているのですが、この日もお陰さまで下痢はおさまり、体調も昼過ぎには回復しました。それでも日ごろあり得ない眠気は終日続きました。

 年末年始に風邪で体調を崩した時も、歳を感じたり体力の衰えを実感したので、今回もそのことを頭に入れて行動しないと、取り返しのつかないことになりそうな予感がしました。このところ相次ぐ長旅による疲労の蓄積が体の目に見えない部分に少しボディブローのように効いていたような気もするのです。

 3月いっぱいはまだ忙しい予定が組まれていて、気を引き締めてつとめてリラックスした日々を過ごせるよう気遣いをしたいと思っています。余裕といえば机の上が少し乱雑になっているようです。締切のの原稿もまだ2つもあって、その調べ物のために出した本がそのままになっていたりするのです。また昨日届いた郵便物も封を切ることもなく机の隅にうず高く積まれています。今日も大学や金融広報委員会のの会議が予定されていているのでとにかく早く体調を整えて、バックヤードの整理整頓をしたいと思っています。

 健康といえば、最近は寒かったせいもあって運動不足になっているようです。携帯電話についている万歩計の歩数経歴などは惨憺たるもので、歩く距離をできるだけ伸ばそうと試みてはいるのですが、昨日のように旅に出た時ですらかろうじて10,299歩ですからもっと歩かなければなりません。


 私の体調変化の兆しは妻も気が付いているようで、自分の体調もさることながら私の体調を気遣って盛んに食事面に気を使ってくれています。例えば昨日は柳井から乗ったフェリーが三津浜についた頃携帯電話がかかり、「何時に家へ到着するか」と聞くのです。「食事の準備がある」と付け加えました。家に帰ると期せずして御飯が炊きあがって、炊き立てのおいしい御飯を食べることができました。また美味しい早良の刺身が食卓に並び、野菜のしゃぶしゃぶとともに、栄養満点、家庭円満を満喫しました。

 子どもたちもそれぞれ独立し、私たち夫婦もそろそろ老域、お互いがお互いをいたわる年代になりつつあることを実感しつつ、これからは夫婦が健康を第一に日々の暮らしを整えて行きたいと思っています。


  「家に着き あったか御飯 炊きあがる 機を見て敏の 妻に感謝し」

  「正露丸 たった三粒で もうケロリ 落ち目の体 実感しつつ」

  「歩く距離 運動量も これじゃダメ 体鍛えて 若さ回復」

  「春来れど どこかすっきり せぬ体 波状攻撃 忙し日々が」

 

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shin-1さんの日記

○新たな旅立ちのために

 昨日の夜は瀬戸内荘やまもとという小粋な民宿に泊まりました。新山さんはじめとする周防大島の町づくり活動者を囲んで楽しい語らいの食談会が催されました。テーブルには海の幸が並び、新山さんからいただいたお酒などを召しあがりながら、地域づくりについて楽しく語りました。

 今期限りでえひめ地域づくり研究会議の代表運営委員をの職を退任する予定の私にとっては、これまでの県外研修とはまた一味もふた味も違った感傷にふける旅となりました。私にとってこの20年余りの地域づくりは研究会議とともにあっただけに、少し寂しい気もしましたし、私の仕事を引き継ぐべき二人の代表の参加がなかったのは不安な気もしました。しかし私の自律と自立のためには避けて通れない道と思い、4年前に辞意を漏らしたものの受け入れてもらえずついつい長引いてしまいました。でも今はホッとしてゼロに戻れる自分を喜んでいます。

私はこれから人間牧場を使って新し地域づくりをしようと思っています。そういう意味で今回の旅は発願の旅と位置付けました。これまで自分が輝いてきた輝きの部分を後継者に光を当てる作業ですが、これも思っているほど容易なことではありません。でももう自分で決めたことなので、想いをこめてチェンジとチャレンジをしたいと思いました。昨晩は同室だった仙遊寺の小山田さんと過ぎこし人生を話しました。二人が出会ったこと、二人がこれまで歩んだこと、二人がこれから歩もうとしていることなどなど、しんみりと話しました。

若松進一ブログ(宮本常一のお墓に皆さんでお参りしました)
若松進一ブログ(宮本常一の墓に並ぶ父親善十郎のお墓)

 夜明けの5時前に目がさめましたが、同室の菊池さんも小山田さんもまだ就寝中なので私も布団の中で色々と思いを巡らせ、薄暗い電球の下で思いつくアイディアをいつものごとくメモしていました。今朝は7時に食事をして7時30分には宮本常一さんのお墓参りに行こうと約束していた通りみんなで朝の空気を吸いながら出かけました。田舎の朝は歩く人もなく時折通る軽四トラックに道を譲りながら豊田さんの案内で約20分をかけて墓地まで行きました。お寺の境内のすぐ裏に宮本常一さんと父親善十郎さんのお墓はありました。佐野眞一さんの旅する巨人を読んでいるため、私はむしろ善十郎さんのお墓に興味がありました。今日は数日前までの雨模様の天気が全く嘘のように快晴で清々しい春の陽気で、田んぼのホトケノザの濃いい薄紫の花が一段と鮮やかに咲いていました。せっかくだからと宮本常一の生家を訪ねました。時代の変遷で生家はこじんまりとした家に生まれ変わっていましたが、宮本常一に思いを寄せる一人の人間として、いい思い出ができました。

若松進一ブログ(宮本常一の生家あたり)
若松進一ブログ(周防大島町東和支所が併設されている星野哲郎記念館は、演歌の世界らしくすっきりとしたたたずまいでした)

若松進一ブログ(星野哲郎さんの等身大人型パネルとともに、記念写真を撮りました)
若松進一ブログ(道の駅とうわには、双海町で習ったじゃこ天の店もありました)

若松進一ブログ(宮本常一につながる宮本農園の焼き芋屋も出店していました。わたしはそこで東和金時という種イモを31個買い求めました。人間牧場でこの芋の増産を図りたいと思っています。その芋はもうかすかな芽吹きが感じられるほどでした。さっそく今週中には種イモを伏せる作業をしたいと思っています)

 作詞家星野哲郎記念館を見学したり、宮本常一記念館を見学したり、また道の駅サザンセトとうわを見学したりして午前中を周防大島で過ごし、いつもは沖合い遠き場所から眺めながら旅する周防大島の北側の道を走り、周防大橋を渡って最後の目的地である柳井へ入りました。昼食会場である四季旬菜蔵やのの2階へ上がりました。ここでは春を待つ心そのままに艶やかな和風創作料理がテーブルに並び、料理もおいしく堪能しました。事務局である松本さんの手配よろしく柳井市白壁の町並みを守る会事務局長国森さんの話を、同じ会場で聞き、連れだって観光ボランティアガイドの方の案内で町並みを散策しました。やはり印象に残ったのは国の重要文化財に指定されている国森家の素晴らしさでした。

若松進一ブログ(きれいに整備された柳井の白壁の町並み)
若松進一ブログ(蔵やの創作料理は美味しい味でした)
若松進一ブログ(柳井の名前の由来になった三代目の柳の傍にある井戸)
若松進一ブログ(国の重要文化財に指定されている国森家はその規模に圧倒されました。隠し階段や大火から守る工夫が随所に見られました。旧家らしく調度品にも深い味わいが感じられました)
若松進一ブログ(二階の土蔵窓風の格子窓から見る街並みもおつなもので、まるで時代劇を見ているようでした)

 僅か一泊二日の旅でしたが、好天に恵まれ、仲間との語らいも楽しく、防予汽船に乗って夕闇迫る三津浜へ帰り、参加した人たちはそれぞれの目的地を目指して帰って行きました。


  「転機なる 旅をしみじみ 味わって 過ぎ越し日々を 思い出しつつ」

  「古きもの 深き味わい 感じつつ  まだ春浅き 街並み歩く」

  「風揺れる 柳の枝の 芽吹き見つ 木々の営み 人に勝ると」

  「格子戸を 透かして見える 大通り 観光客ら ぶらぶら歩く」 

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shin-1さんの日記

○周防大島東和町を訪ねる

 私が代表運営委員を務めるえひめ地域づくり研究会議では毎年この時期に、県外視察研修を行っています。豊予海峡地域づくり交流事業の助成を受けて行う事業なので、しっかりとした学習プログラムが組まれていて、今年は山口県周防大島・柳井を目的地に17名が参加しました。

 出発点となる三津浜港に集合した一行は周防大島フェリーで伊保田港向かいました。船中では出向するやいなや早速、宮本常一を語る愛媛の会の浜田久男さんの話を客室で聞きました。他の船客もいるため大きな声では出せませんが、船のエンジン音が聞こえるためまるでかぶりつきのような形で講義を受けました。浜田さんは愛媛では豊田さんと並んで宮本常一研究の第一人者らしく、様々な宮本常一に関する書籍類を目の前に並べ、まるでフーテンの寅さんのような出で立ちで講義をしていました。昨年人間牧場の年輪塾である部分の話は聞いていましたが、その後様々な資料が追加されてバージョンアップした話に皆さん熱心に耳を傾けていました。

若松進一ブログ(読書家浜田さんは、宮本常一の諸世紀を並べ船内で熱弁をふるいました)

 伊保田の港までは約1時間で、浜田さんの話を聞いていたためあっという間に到着しました。伊保田の港は何度も訪れているだけに懐かしい雰囲気でした。あらかじめチャーター手配がされていた久観交通のバスが迎えに来ていて、昼食講和会場となっている竜崎温泉へ向かいました。温浴施設となっているためそれなりの人が訪れ温泉や買い物を楽しんでいました。私たちは二階に通され食事をした後「周防大島の島おこし」という話を、島スタイル編集部大野圭司さんの話を聞きました。30過ぎの若い人でしたが、プレゼンテーションの仕方は一流で、今回は若い人が参加していたため、かなりのインパクトがあったようでした。特に大島高専での起業家養成塾島スクエアは中々面白い内容で、注目をして聞きました。

若松進一ブログ(温浴施設の中にある特産に品売り場には、ミカン王国愛媛もまねのできない様々な商品が開発されていました。みかん鍋?、みかん饅頭など面白いものがありました)
若松進一ブログ(大野さんの夢語り)

 私も仕事がら色々な島を訪ねてきましたが、島を舞台に力強く生きている人は沢山目にしてきましたが、起業家を育てるという大きな夢に向かって努力している姿には熱いものを感じました。

若松進一ブログ(小松先生を迎えた集中講義)
若松進一ブログ(小松先生を囲んでの懇親会)

 その後私たちのために日程を合わせてもらった周防大島郷土大学の開かれる周防大島文化センターへ行きました。ここは一昨年宮本常一生誕百年の記念事業の際に尋ねた場所なのです。この日は政策研究大学院教授の小松正之先生の「日本と周防大島の水産業再生」という話を拝聴しました。先生は元水産庁職員として日本水産のために働いてきた人なので、水産をグローバルな視点でとらえ、ローカルな行動を起こすよう促されました。この日は水産関係者も多くいて、質問も活発でした。先生を囲んだ懇親会には私たち愛媛が大勢を占めていたため、いきなり新山さんから乾杯の音頭のご指名がいきなりあり驚いてしまいました。会場には道の駅とうわを作るとき何度も教えを請いにこられた現周防大島町総務課長の中野さんの姿もあってこれまた2度びっくりの懐かしい再会となりました。

 宮本常一という文化人を輩出したこの地は、宮本常一の影響もあってかなり文化度が高く、郷土大学では数日前にも立松和平さんが見えられるなど活発な活動が展開されているようで、見習わなければならないことが沢山ありました。多分この視察研修は私にとっても参加した皆さんにとっても幾つかのヒントがあったのではないかと思いました。

若松進一ブログ(周防灘に沈む夕日)

  「みかん鍋? 思わず噴き出し さてお味 一度は食べて みたいものです」

  「高齢化 進む島でも 文化度は 日本一だと 納得しつつ」

  「若者が 夢を一気に 機関銃 あんな時代が 俺にもあった」

  「この地にも 夕日は沈む 対岸の ふるさと今は どんな色して」

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shin-1さんの日記

○世界一のホタテ貝を食べる

 昨晩わが家は凄いご馳走でした。外出先から帰ってみると一個の宅配便が届いていました。送り主の住所と名前を見て納得というよりは有難いと思いました。先日まで4日間北海道に出かけていましたが、講演の行く先々で親しい人がどんどん増えて、色々なお土産をいただきました。ワカサギの佃煮やサケの加工品、中には自分が作詞をしたというカセットテープなどその中身は様々で、あらためて女性の人のきめ細やかな配慮に感心しているのです。

 講演が終わって佐呂間町の方々を交えたお茶会が開かれました。講演二日目は夜の集会だったためホテルへ帰ったのは午後9時です。それからのお茶会なので①時間余りの短い時間でしたが、私の本の注文などの取りまとめなどをして集合写真を撮り握手をして、雪道をそれぞれの家路に急いだようです。

 帰り際佐呂間町の船木さんがいつも送ってくれる立派なホタテ貝の話になりました。今の佐呂間町はオホーツク海も佐呂間湖も氷に閉ざされているためホタテは氷の下なのです。その時同席した一人の女性が「少しだったらあるから送ってあげる」と名乗り出ました。いくら船木さんを知っているからといってもほ耐えを送ってもらう訳にはいかないと思いながら帰ってきました。そして昨日思いもかけないホタテ貝が宅配便で送られてきたのです。


 その人の名前は井田貴子さんでした。宅配便の荷物の中には綺麗な字のお手紙が添えられていました。

 「時季はずれということもあって、わずかなホタテです申し訳ありませんがご賞味ください」と書かれたその後に「私の愛する夫の養殖ホタテは世界一と思っています」と書かれているのです。いやあ驚きました世界一だと胸を張るのですから・・・・・。そして「一緒に入れたホタテガイの稚貝の佃煮は私たち佐呂間漁協女性部のオリジナル手作りのものです。合わせて召し上がってみてください」と書き添えられていました。

 さあそれからが大変です。妻と二人で焼いたり刺身にしたり、バター炒めにしたりと、香ばしい香りに食欲をそそがれながら妻の料理を手伝ったのです。

 さあ食べようと口に入れて食事を始めていると、期せずして井田さんから電話がかかってきました。私が夕方お礼の電話をかけた時は貴子さんはあいにく留守でした。電話に出た息子さんに伝言していましたが、帰るのは8時過ぎだと伺っていたのです。

 世界一のホタテ貝を食べながらその模様をまるで実況放送のように伝えましたが、さすが本場のホタテ貝です。ご飯のお代りをして少々食べ過ぎてしまいました。妻いわく「お父さんは幸せ者だね」です。「違う違う、私のお陰でこんな美味しいものが食べれるお前が幸せ者だ」と笑いながら楽しい食卓は9時過ぎまで続きました。

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shin-1さんの日記

○ある若いお医者さんからのメール

 私のパソコンにはインターネットで毎日たくさんのEメールが送られてきます。先日のように北海道へ出かけていて4日間も家を留守にすると、帰宅後メールを開けるのが何だか憂鬱になるほど未読のメールが軒を連ねて出てくるのです。それでも最近は迷惑メールと必要メールに大まか分けられてフォルダボックスに入るので、迷惑メールは日の目を見ないまま消去され随分助かります。それでも年輪塾をネットや燃える人ネットなど、身近な全員配信メールも多くその分類作業も時間的にはかなりの量のようです。でもネット時代に生きているのですからこれぐらいな作業は当然と考えると、我慢術より楽しむ術の方に軍配が上がるのです。しかし時には大切なメールが迷惑メールに交じって消されてみたりの小さなトラブルは絶えないのです。

 先日年輪塾ネットの書き込みについて、立ち上げからかかわって運営している清水さんから、少し辛口なご指導があって、みんな何気なくやっていたメールのやり取りを立ち止まって考える良い機会となったようです。パソコンのイロハを知らない私は、まるでいいとこ取りのような形のメール利用をしていますが、デジタルといえどアナログなハガキのように大切に扱うことを君に命じました。

 

 そんなメールに交じって心温まる一通のメールが届きました。先日の夜、ある病院の顔見知りの看護師長さんから頼まれて病院の職員さんにお話しに行きました。会場には沢山の参加者がいましたが、同じような看護服を着ているので、どの人がお医者さんでどの人が看護師なのか分からず、一ぱからげた話をしました。会場の雰囲気は最初「どんな人がどんな話をするのかな?」という不安がよぎって少し硬めでした。しかしその硬さもいつの間にか取れて、最後は質問まで出る賑やかな講演会となりました。講演が終わって帰り際には看護師長さんに加え女性の病院長までもが玄関まで送っていただき、恐縮しつつもほのぼのとした気持で夜の道を帰郷しました。明くる日その病院から3通のメールが届きました。看護師長さんからのお礼のメールと後の2通は若い女性職員と若いお医者さんからでした。

 メールを使えるようになって何年かが経ちましたが、これまでお医者さんからメールが届いたことはないので、一瞬驚きました。と同時に嬉しい出来事なので返信メールを送り、昨晩ハガキをしたため今日投函する予定です。

 そのメールによると私の印象を、「会場に入って来られた時は小柄だな~という印象でした」と述べています。そして「講演が終わった後はなんて大きな人だろうという印象に変っておりました」と書いてくれました。それはお世辞だと分かっていても、一方で決してお世辞ではないと思いつつ、メールの持つ意味を考えました。講演などで人の前に立つ機会が多い私ですが、このお医者さんが書かれた講演前と講演後の印象の違いこそ私が目指している講演の姿なのです。

 多分私は他の講師のように「○○大学を優秀な成績でご卒業され」という学歴もないため、普通の田舎のおじさんに見られることが多いのです。でも私には学習歴や実践歴は沢山あって話のネタは心のポケットにたくさん詰まっているのです。フィーリングが合えば私の話も医療現場にだって応用できるのです。

 「にこ・ぴん・ころの話、潜在能力の話、幸せの話、変えていいもの、いけないものの話、どれをとっても印象深い話でした」と批評してくれました。始めてお医者さんから頂いたメールは、ひょっとしたら私をレントゲンされたのかも知れないと思うのです。人間の心の動きはレントゲンでも名医でも中々見抜くことはできませんが、せめて医療現場に生きる人たちは、患者さんに対して役職や名刺などでその人の偉さを判断せず、一人の人間として向き合って欲しいと思いました。メールをいただいた若い医師のいるこの病院は少なくともそのことができる病院だと思いました。

  「第一の 印象小さく 見えた言う 講演終わり 大きく見えた」

  「人を知り 人から話 頼まれて 人に話すが 人は変わらぬ」

  「お医者さん 相手に話す 度胸持ち 呼ばれた先で 今日も講演」

  「若い医者 メールいただく 嬉しさに 涙出るほど 嬉しくなって」

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shin-1さんの日記

美幌町去り難し②(四国から春色の風の便り)

 四国から春色の風の便りを北国の皆さんに心をこめて送ります。

若松進一ブログ (黄色く染まって満開が近いことを告げるように咲き誇るJR予讃線沿いの菜の花畑)
若松進一ブログ (中学校の校庭には一足早い桜がピンクの色も艶やかに咲いています)

 「美幌町去り難し②」とテーマを書いたのに、いきなり二枚の花の写真が登場しました。一枚目の写真は、一昨日わが町へ視察研修にやってきた筑波大学大学院生加藤つむぎさんを案内した折撮影した、町内閏住の菜の花畑です。二枚目の写真はこれも一昨日夜地元上灘中学校の評価委員会に出席した際帰りに気がついて撮った校庭の彼岸さくらです。

 雪に閉ざされたモノクロ写真のような風景の美幌町の皆さんにささやかながら一足早い春の足音をお届けしようと用意しました。下の写真は白鳥公園で撮った雪国ならではの動きのある写真です。「狭い日本」というけれど、やはり日本も北と南西ではこんなに差があるのです。

若松進一ブログ (白鳥公園の野鳥はやがて雪解けとともに更に北を目指すのでしょう)

 全ての日程を終え、私は美幌を後にしました。飛行場には女性の集いに参加した方々や教育講演会に参加した方々、またわざわざサロマから船木さんたちも駆けつけて盛大な見送りをしていただきました。船木さんたちは前回紋別での管内社会教育研究大会の折にもオホーツク空港へ見送りに来てもらい、飛行場の屋上から盛んに手を振って見送る姿がとても印象的な光景として今も目に焼き付いているのです。空港で写真を撮りましたが何故か私の木になるカバンを松本所長さんが持っていて驚きました。

若松進一ブログ(写真を撮っていただいた小池さんを復縁ると9人もの人が見送ってくれたのです。大感激でした)

 今回は主催者側で航空券のチケットを手配してくれたため、帰りは羽田ではなく中部空港経由でした。晴れの北国から雨の四国へと乗り継いだ飛行機は、夕日に照らされ、プロめら木ということもあってとても印象的でした。夕日に照らされて舞うプロペラを窓越しに眺めながら4日間の思い出に浸りました。訪ねた場所、出会った人々、そして懐かしい人との再会などなどが浮かんでは消えて行きました。

若松進一ブログ(私が乗ったプロペラの飛行機)
若松進一ブログ(プロペラを照らす2月24日の夕日)

 飛行機は約10分遅れで松山空港に到着しました。普通は機内に持ち込むはずの荷物ですが、この日は女満別で預けました。地方空港なので荷物は直ぐに出てきました。到着ロビーには妻が迎えに来てくれていました。「お父さん寒かったでしょう」「流氷が見えて良かったね」と矢継ぎ早の質問が家へ帰るまで延々続きましたが、普通は無口な私も久しぶりに饒舌になって北海道の思い出を話してやりました。妻は過去2度も流氷観光にアタックしながら涙を飲んだ苦い経験を持っているのです。毎日家を留守にする私ですが、最近は長くても殆ど一泊二日程度です。今回は4日間という長旅だったので久しぶりに帰ったという実感です。

 旅の思い出はメモをしておかないと忘れてしまい忘却の彼方に消えてしまうものです。幸いブログという優れ物を持っているので、デジカメの100枚を超える写真の中から何点かを選んでブログに載せました。美幌町での思い出は電子文字としてパソコンに記憶させ、プリントアウトして人間牧場の書棚の片隅に置枯れる予定です。

  「双発の プロペラ夕日 染め沈む 雲の上から 印象的に」

  「飛行場 見送る友を 見送りて 飛行機雲間 ふる里目指す」

  「二十度も 差のある気温 迎えたり 妻の笑顔に 疲れ忘れて」

  「四日間 留守したわが家 懐かしく あれこれ話す 土産の替わり」

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shin-1さんの日記

○美幌町去り難し①(北海道の自然と人情に大感激)

 北海道4日間の旅は飛行機便欠航というアクシデントに見舞われ結局3日間となりましたが、私にとってはこれまでのどの北海道訪問にも勝るとも劣らない、忘れられない思い出の一ページとなりました。マイナス10度という外気温体験と流氷体験はその最たるものでしたが、それと同時に美幌町で出会った北国の人の温かい人情と、美幌町の冬の飾らない光景でした。

若松進一ブログ

 この写真の風景は北海道を観光した人なら見覚えのあるアングルだと思うのですが、美幌峠から見える完全結氷間近な屈斜路湖の姿です。全ての仕事を終って北海道を去る日の午前中、松本所長さんと小池さんは私をこの絶景スポットへ案内してくれました。弟子屈町との境に位置する美幌峠までは町内移動といってもさすが北海道だけあって、中心地から25キロ以上もあるのです。この日は風もなくマイナス10度の冷え切った外気で降り積もったパウダーのようなきめの細かい雪が太陽の光にあたってキラキラと輝いていました。美幌峠からは360度の視界が雄大に開け、どこを切り取っても絵になるほどの光景で、遥か遠く大雪山の山並みまでも遠望できました。松本所長さんは指さしながらあれは摩周岳、あれは蝦夷富士などと説明してくれるのですが、美幌峠から見える景色の余りの美しさに見とれて上の空といった感じでした。

若松進一ブログ

 美幌峠のスポットにはご存じ美空ひばりが歌った「美幌峠」という歌の歌碑が建っていました。傍に置かれている小さなスピーカーからは美空ひばりの歌う歌が控え目に流されて、知らない歌ながら歌碑に刻まれた歌詞を目でなぞりながら口ずさんでみました。松本所長さんが「今度来る時はこの歌をハーモニカで吹けるようにして下さい」と依頼されましたが、はてできるかどうか楽しみです。

若松進一ブログ (松本所長さんと歌碑の前で記念撮影しました)

 美幌峠のレストハウスの中で一服休憩をしました。小池さんがジャガイモの塩ゆでにしたものに衣をつけて揚げている小型爆弾のようなものを買ってきました。串に刺した2個を一個ずつにして食べましたが、「北あかり」という品種らしく、とても美味しい味でした。ふと40年も前に尋ねた弟子屈青年の家での地元せ因縁との交流会で食べた塩茹でジャガイモを思い出しました。あの頃の私は若さに燃えていて、北海道を巡る国内研修団の班長として他の仲間とともにオンネトー青年の家や大雪山青年の家を渡り歩いて武者修行をしていました。当時弟子屈青年の家は麦ごはんだったことを覚えています。


 「若松さん珍しい所へお連れしましょう」と向かったのは山の中でした。夏の間に牛を放牧するという放牧場でした。道沿いは深い雪に覆われ、除雪車が除雪した道は1メートルを超すような雪の壁ができていました。

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 大平原の向こうに見たこともないような大型のサイロが3基雪の中に立っていました。サイロの向こうに人の気配を感じながらUターンして引き返しましたが、若草燃える初夏のころの雄大な姿を連想しながら車から降りて写真を撮ってもらいました。観光で来ればこんな場所へ踏み入れることは絶対にないと思いつつ、案内してもらったお二人に感謝しました。

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 松本所長さんは来年一年で退職と伺いました。社会教育でもうひと花咲かせたいという思いが強く、商店街の店舗を利用した展示や学習成果物の即売などについても一案があるようで、是非実現して欲しいものです。

 最近は社会教育にかかわるやる気のある人に中々出会わなくなりましたが、社会教育もまちづくりも何よりも優先するのは夢を持ったやる気と行動力です。お二人のこれからの活躍を遠い四国から見守りたいと思っています。


  「町内の 雪道走り あれこれと 夢を聞きつつ やる気感じて」

  「ジャガイモを 食べつつ昔 思い出す 青年の家 今はいずこに」

  「色黒が さらに雪焼け 色黒く 写真に写りし わが顔黒く」

  「雪魅力 南国人は 言うけれど 雪国荷物 除雪費かさむ」

 

 

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shin-1さんの日記

○その名も網走番外地

若松進一ブログ(橋を渡るとそこは刑務所、見返橋は受刑者の人生の悲喜こもごもを幾つ記憶しているのでしょうか)

 昔映画で高倉健さんが「網走番外地」という歌を歌って、網走はすっかり有名になりました。しかしよくよく考えれば網走番外地というのは網走刑務所のことなのです。私たちはそんなことも余り知らずに、ただ網走観光地の一つくらいにしか考えていませんでした。でも今回古い網走刑務所を保存目的で移築した網走監獄というミュージアムを見学して、そんな甘い考えを払しょくしたのです。

 流氷見学の予約時間までの寸暇を惜しんで、松本所長さんと小池さんの二人に案内してもらった監獄ミュージアムは驚きの連続でした。

若松進一ブログ (本物の刑務所入口を移築再現していました。顔つきの悪い私ですから、本物の受刑者と間違われそうです)

 橋を渡り、網走刑務所という看板のかかった門をくぐると、広い園内には順路に沿ってそこここ監獄といわれる昔の過酷で厳しい時代の姿が垣間見えるように配置されていました。昔はムシロの上に囚人服一枚で毛布をかぶって寝るという劣悪な生活環境があったようで、家の中へ入ると蝋人形が幾つも横たわっていて、当時の姿を再現していました。いやあそのリアルな表現に驚きました。外の寒さが堪えるこの時期ゆえの疑似体験のようでした。

若松進一ブログ (昔の寝室の様子を再現したリアルな蝋人形)
若松進一ブログ (移築された監獄は看守室から一望できるよう放射状に5つの牢獄が整然と並んでいました)

若松進一ブログ (牢獄や独房も昔のまま再現されていました。今は犯罪を犯したといえども人権を尊重しなければならないので、こんな劣悪な環境ではないそうです)

若松進一ブログ (当時の共同浴場の様子も再現されていました。わずか15分の間に看守付きで入浴する刺青姿の蝋人形の後ろ姿に、寂しさとホッとしている様子がうかがえるようでした)
若松進一ブログ (仏式祭檀を祀った講堂は洋風の立派な建物でした。ここで受刑者たちは束の間の娯楽を楽しんだしことでしょう)

 私たちは不幸にも過ちを犯して塀の向こうで暮らしている人のことは、映画やテレビで擬似的にしか見聞きすることはできません。故にあの有名な網走刑務所もそこにあるという事実だけで番外なのです。最近は昔と違って受刑者の犯罪も多岐におよび、刑務所は満杯だと聞きました。また受刑者の権利も私たちと同様に認められ、更生自立に向けた様々な訓練が行われていると聞きました。また最近は刑務所そのものの運営を民間に託する動きもあるようですが、いずれも法務行政という厚いベールに覆われて私たちは知る由もないのです。でも安心安全な日々の暮らしをかく乱したりするような行為を、この世の中からなくしていかなければならないことも事実です。更生保護女性部の活動が身近に存在したり、私の従弟も刑務官であったり、またわが息子も警察官であったりするするため、今回の網走監獄ミュージアムの見学は大きなインパクトを与えてくれました。


  「刑務所が ミュージアムになる 時代です 本質見つめ まざまざ見入る」

  「人権を 無視した時代 寒かろう ムシロの上に 毛布一枚」

  「強がって 入れた刺青 風呂場でも やはり顔効く 道具のひとつ」

  「番外地 ここは今でも 別世界 何を思って 冬を越すのか」

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