shin-1さんの日記

○時刻表の話

 この4日間、自分の車を乗り継ぎ、時刻表をめくりながら楽しい旅を続けました。全国行脚を続ける私にとって列車や飛行機の時刻表は今や無くてはならないものになっていますが、その時刻表に異変が起こったのは4年前に役場を退職してからでした。それまでは旅に出る時は役場に備え付けの時刻表をめくって旅を組み立てていましたが、退職するとそんなこともできず、何れない手つきでパソコンのインターネットで時刻表を検索しなければならなくなったのです。しかし慣れてくるとインターネットの時刻表検索はすごく便利で、乗り継ぎや次の便、さらには金額まで瞬時に出てくるのですから、プリントアウトし安心して旅に出れるのです。

 数日前、新潟県へ講演旅行に出かけました。松山空港から羽田空港まで空の旅を楽しみ、乗り継いで東京から新潟県浦佐駅まで新幹線に乗りました。車内は2階になっていて始めて2階席に座って一息入れました。席の前に車内報が置かれていて、時間つぶしにめくっていると面白い時刻表の話が載っていました。

 いつも思うのですがあの分厚い時刻表の数字の一つ一つをポイントととして無数のJR普通、新幹線、特急は勿論のこと私鉄やバス、空路、航路が日本国中で毎日動いているのです。

 時刻表は明治5年に鉄道操業とともに誕生しました。この年の6月に「鉄道列車出発時刻及び運賃表」が定められ、利用者の便に供したのです。運航路線や列車が少ない時の時刻表は一枚の紙でよかったのですが、明治中期になると冊子型時刻表が登場するようになりました。そして明治27年には月刊スタイルの冊子型時刻表が誕生しました。これは東京の庚寅新誌社から発行された「汽車汽船旅行案内」で単に列車の時刻だけでなく、各駅最寄の名所旧跡紹介するガイドや紀行文なども掲載されました。B5版より小さくページ数は本文だけで94ページ、折込路線図も入って、現在に通じるものになっていました。


 この時刻表は出版事業として成功を収め大正14年に創刊した日本旅行文化協会の時刻表は現在のJTB時刻表にあたり今年5月で通巻1000号を数えるのです。

 一方昭和62年に発足したJRでも独自の時刻表を交通新聞社が編集して出版し今日に至っています。若いころはじめて旅先で時刻表を買い求め、時刻表をめくりながらその不思議さに度肝を抜かれた鮮烈な印象を今もはっきりと覚えているのです。時刻表を繰りながら接続をページをめくって探し、それをメモして旅を組み立てた懐かしい旅のスタイルは、インターネットの出現で姿を消しましたが、時刻表をめくるたびに時刻表の中から出てくる新しい発見に何とも言えない興奮を覚えた旅の思い出はもう懐かしい記憶でしかないのかも知れません。

 何時の日か、退職でもしたら何の目標も持たずカバン一つに時刻表を忍ばせぶらり行き当たりばったりの旅に出たいと思っていた夢が叶う歳になったのに、何故か私の日常はまだまだそんな旅を手に入れることすらできないほど忙しいのです。


  「メガネなく 数字が読める 時刻表 私の夢は ぶらり旅だが」

  「この数字 一つ一つに 人ありて 日本列島 乗り物動く」

  「わが書棚 一冊残る 時刻表 下灘駅の 写真掲載」

  「今はもう 時刻表など 見ずの旅 何処でも行ける 旅の達人」 

  

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shin-1さんの日記

○今晩徳島県~新潟県~東京都~島根県と続いた長旅から帰ってきました。

 「書き込みは明日にします。お楽しみに。お休みなさい。」

 深夜の帰宅だったため、こんな戯言を書いて寝てしまいました。確かに今回の旅は徳島~新潟~東京~島根と僅か4日間の短い期間に3つもの仕事をこなして、日本列島を駆け巡る長い旅だったのです。度の主人公である私はいつものこととあっけらかんにしていますが、妻が言うように少しオーバーワークかも知れないと少し反省しているのです。

 元々は東京で行われる集会に出席要請があって、うまく新潟行きと連動する手筈でしたが、その集会がキャンセルとなり徳島での仕事を入れたためにこんな過密スケジュールとなってしまったのです。それでもそれぞれの地域で私を待っていてくれる人たちがいて、それぞれの地域に暮らす人たちと今回も深いご縁ができました。これこそ旅のだいご味だと思っているのです。

 旅に出る時気になるのは、家で留守を守る妻と親父のことです。これまではどちらかというと家のことなど妻に任せきりで、心配していそうな格好はしているもののそんなに気にはなりませんでした。しかし女と歳老いた親父を残しての旅はこの歳になると少々気になって、旅先から夜と朝の2回は必ず携帯電話で連絡を入れるようにしているのです。妻もそのことはわきまえていて、「うるさい」と思うくらい頻繁に電話をかけてくるのです。車の運転中は電話に出れないので時々困ることがありますが、まあ私を気遣ってくれると思えば有難いことです。

 妻の心配は私が余り外食をしないので、食事のことが気がかりのようです。健康のために夜は9時を食事の門限にしていますが、旅先だと相手もあってそうそう断ることもできないため健康を害しないか心配してくれるのです。昨晩も遅く帰ったため門限を破って軽めの食事を食べましたが、まあ有難い配慮なのです。歳老いた親父は今年の冬も風邪を引かず無事乗り切りました。歳をとった人間にとって大敵は風邪と骨折だといわれています。91歳になってもなお自転車に乗ったり、耕運機を使ったりするので怪我骨折をしないよう心配するのです。

 もう一つの気になることは、ブログの書き込みができないことです。故に色々言われても「留守にします。○○へ出かけます」とブログ画面に断りのショートコメントを書いて出かけるようにしていますが、それでも「ブログの書き込みがないがどうしたの」などと心配のメールが留守中のパソコンに送られてくるのです。

 今回も長旅だったためかなりのメールが届いていました。故にブログも辞めるに止めれず続けなければならないのですが、今回も二日間私のブログは空き部屋となってしまいました。旅立ちの日の朝急いで書き、旅から帰ってこれまた急いで2本のブログを書くのは少々骨が折れますが、それでももう少しの間続けようと心に誓っていますので読者のみなさん方には、拙文ながらもう少しの間お付き合いください。


  「四日間 旅に出るよと 書き込んで やっと帰って 報告を書く」

  「気がかりは 妻と親父と ブログかな 旅先電話 妻の声聞く」

  「旅マイル 今度の旅も 多かりし 記録残るは 飛行機のみだ」

  「どうしたの? ブログ空き部屋 心配で メール届ける 有難き人」

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shin-1さんの日記

○出したはずの手紙が届いていない

 今日の夕方徳島から帰って一服していると、東京から電話がかかってきました。「若松さんですか。実はもう前にお手紙を差し上げ、返信をお願いしていますが、その返信文書が届いていません。差し出していただいたでしょうか」というのです。私はその文章のことを覚えていて確かに出したと答えました。しかし相手の所へはどうも届いていないようでした。いったんj電話を切りましたが、確認のため再度電話がかかり届いていないというのです。しかもその文書は今週中に処理しないと履行できないそうなので、双方が大慌てをしました。

 インターネットのメールでその書類を送ってもらい、署名押印して今夕郵便局まで慌てて走り、無事投函して事なきを得ました。

 さて私が差し出した郵便物は一体どこへ行ったのでしょう。書き止めでもないのし、いつ頃出したかまでは記憶にないため、郵便局へ問い合わせても多分調べようがないのです。相手は私が出していないと今も思っているでしょうし、私は出したというし、結局後味の悪い結果となってしまいました。

 去年警察官をしている息子に郵便物ととしてみかんを送り、着いた時にはほとんど腐っていたトラブルがあってこれまた後味の悪いことがあっただけに、少し郵便物恐怖症になりそうな気持ですが、相手にも郵便局にも迷惑がかかることなので、これからはしっかりとしなければと割り切れない気持ちを割り切って思いを新たにしました。


 私は毎日3枚のハガキを書いて色々なポストに投函します。先日ある小学校の先生に出したはずのハガキが車の中の座席の下で見つかりました。車の掃除をしていて見つけたのです。このはがきは昨年の秋のころに書いたもので、自分では届いているものとばかり思っていました。多分郵便物と一緒に出すため車に積んで、何かの拍子で座席の下に落ちたものと思われれますが、車の座席の下で約半年間も下積み生活をしていたのです。

 私はこのハガキを封筒に入れ、手紙を添えてその校長先生に送りました。先生から後日丁寧な感動したというお便りをいただきましたが、こんなこともあるのです。

 今日も3枚ハガキを書きましたが、3枚を確認して徳島県の郵便ポストに投函しました。あのハガキはどんな旅をして相手に届くのだろうと、想像したりしながら徳島県から帰ってきました。

  「出したのに 届いていないと 押し問答 気まずい空気 電話の向こう」

  「出したはず ハガキ車の 座席下 俺ももうろく これじゃあ届かず」

  「何時出した 言われるけれど 記憶なく 調べることも 出来ぬ返信」

   

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shin-1さんの日記

○今日は徳島へ早朝の旅立日帰りでした

 私は昔人間というのでしょうか、時間に間に合わないのがとても気になるのです。先日も私の町に視察がやってきて、その人はついうっかり時間に遅れてしまいました。私は20分も前から待ち合わせ場所に到着して待っていたのに、いくら待っても来ないのです。約束の時間くらいは守ってほしいと思いましたが、結局その人は30分も大幅に遅れ、着いた時に遅れた理由を、やれ遠かったとか、道を間違えたとか言い訳をしているようにしか聞こえませんでした。頭にきた私は「時間に遅れてくるようでは、やる気がないとも割れても仕方がありませんよ」と、厳しいかな冷たい言葉を浴びせてしまいました。

 その人は深く反省して断りをされましたが、次の日程が詰まっていて次の視察者と鉢合わせとなってしまったのです。遅れた人は遅れた分時間延長してもらうものと思っていたようでしたが、次の人は10分前に到着していたので、約束通り終わってしまいました。


 「時間を守る」ことは社会のルールですので、まるで嫌がらせのようでしたが、割り切りました。その夜泊まっていた松山道後のホテルからお詫びのメールが入り、明くる日の私の予定を聞いて、再チャレンジして色々な話を聞いて帰りましたが、私は会議も始める時間を守ると同じように止める時間も守らなければと、止める時間厳守を心がけていますが、予定の時間が終わってもダラダラと続く会議は興ざめしたようで後味が悪いものです。

 今日はコープ徳島の招きで徳島へ朝早く旅立ちました。昔娘が徳島の大学へ遊学していた頃は高速道路もなく5時間以上もかかっていましたが、今は高速道路ができて、片道220キロの道のりを3時間弱で行けるのです。10時からの会議なので6時に出れば到着するのでしょうが私は5時過ぎに出発しました。早朝の高速道路は伊予インターから徳島インターまで全て順調で、途中2か所でトイレ休憩しても、9時ころに到着しました。しかしカーナビで入力した場所は何故かコープとくしまという北島町のスーパーに着いてしまい、事務局へ電話をかけて迎えに来ていただき事なきを得ました。


 コープ徳島は日ごろお世話になっていた梶原さんが専務として出向していて、そのご縁で理事会の勉強会に招かれたのです。コープの理事会は愛媛でも毎月一回出席をして飲み込めているつもりですが、所変われば雰囲気も微妙に変わるため、様子を探りながら慎重にお話を始めましたが、やり始めるとそんなことは気にならなくなって、持前の話術でお話をさせてもらいました。理事会は理事長さんも理事さんも明るい雰囲気で助かりました。

 講演が終わり昼食を御馳走になってお暇しましたが、帰りはどことなく行く時より早い感じで、4時前には家に到着しました。仕事から早めに帰った妻は、私の余りの早い帰宅に驚いた様子でしたが、当の本人の私も高速交通時代の恩恵に驚きました。四国といいながら遠く離れた県外徳島で仕事をして日帰りですから、いやあ驚きました。四国でも南西部や東南部はまだ高速道路が整備されておらず、5時間くらいかかるところだってらうのです。道路特定財源や道路に対する過大投資がいつも問題になりますが、恩恵を受けるものからすれば、いい政策だと思うのです。お陰さまで今日も徳島でいいご縁をいただいて帰りました。


  「日帰りで 徳島行って 仕事する 世の中便利 なったものです」

  「忙しい 人ほど時間 考えて 使うとばかり 私も上手く」

  「始まりも 終わりも時間 守ろうよ 時間延長 まるで興ざめ」

  「徳島の 人の笑顔の 温かさ 嬉しくなって 馬力をかけて」

 

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shin-1さんの日記

○言うは難し行うはなお難し

 古いことわざに「言うは易し行うは難し」というのがあります。言うことは簡単だがやることは難しいのだそうです。しかし私流に考えれば「言うことは難し行うはなお難し」です。私は最初人の前で5分の挨拶が難しいくらい靴下手でした。ゆえに何とか人前で話せるようになりたいと念じて、人前で話す時は手間暇かけて原稿を書きあげ、その原稿を宙で話せるように覚えたのです。でも結果は覚えたことを忘れないようにすることだけに集中して、結局は余裕のない味気ない話になって、他の人の話術に比べながら自分の愚かで浅学な能力を悔んだものでした。それ以来私の心の中は「上手く話したい」「上手く話すためには」がグルグル回り、結局はその場の雰囲気で話す術を身につけ、やっと人前で話す苦難から解放され、今日を迎えているのです。そんな私ですから言うことはさして苦にならなくなりましたが、さて自分の行動に対比した話をする、つまり自分のやるべきことを言葉にすることは容易なことではないとしみじみ思うのです。

 たとえば私は「人間牧場を作りたい」と友人たちに漏らしました。その言葉は仲間から仲間へ口づてに「若松さんはどうやら人間牧場を作るらしい」と噂話が広がるのです。もし私が人間牧場を作らなかったら、「若松という男は口ばかりだ」と悪評が広がるでしょう。私は公言どおり人間牧場を作りました。結果的には「若松さんは凄い」という話になっているのです。また高知県馬路村産魚梁瀬杉の年輪にあやかった創作落伍150話への挑戦も、ある意味「言うは難し」ともいえる話でしたが、公言しているゆえに止めるに止められず、タダ今夕やけ徒然草地の書・水の書と60話まで作り、今後の行方に暗雲が立ち込めているものの、「行うはなお難し」を実感しつつ何とか目標どおり歩んでいるのです。

 言うことの難しさ、行うことの難しさを合わせて感じる今日この頃ですが、最近友人から「若松さん、あなたの今後の望みは何ですか?」と挑発的な言葉をかけられます。その挑発に乗ってうっかり喋り、行動を起こしそうな雲行きを見ている妻は、「お父さん、もう余り無理をしないように」とか、「私を巻き込まないように」と先手を打ってきますが、自分でもそのことは心得ていて、気力と体力のバランスを考えた言動をしなければならないと肝に銘じているのです。

 私の当面の目標は、85歳まで生きることですから、そのためには心も体も鍛えなければなりません。そのためには体にいいことはやるが体に悪いことは止めるよう心がけています。これだと「言うも簡単やるも簡単」とばかり思っていました。ところがこれも中々難しいことが分かりました。私は余り外食が好きではありません。つまり妻の作った家庭料理が一番と思って暮らしていますが、この数日夜の集会が続いて食事の門限を9時と決めているにもかかわらず、10時過ぎに帰宅して食事をする日が一週間続きました。自分でも可笑しいと思いつつ背に腹変えれぬために夜遅く食事を取ったのです。お通じや体の調子が今までと少し違ってきたようなので改めましたが、そんな小さな隙間を病気は見逃さず、下痢になったりジンマシンが出たり散々でした。今は元の体に回復しましたが、生活のリズムを狂わさないようにしたいと深く反省しました。

 明日から徳島県・新潟県・島根県と長旅が続きますが、体調だけは管理して望みたいと思っています。

  「言うことも やること更に 難しい 幾つなっても 奥行深く」

  「公約を 自分に科して 生きている 約束多く アップアップで」

  「もし俺が 有言実行 しなければ ただのおっやん 相手にされず」

  「偉い人 みんな言うこと やっている だから偉いと 誰も認める」

 

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shin-1さんの日記

○国際ワーキングキャンプ交流会に参加しました

 愛媛県の西端に13里(1里が4キロですから52キロ)の細長い三崎半島があります。かつては陸の孤島といわれ、松山や八幡浜から連絡船で行かねばならないほど遠い地域でした。しかし今は三崎半島の背骨にあたる頂上に、潮風メロディーラインが抜けて、私の町から旧三崎町の中心地まででも1時間半も走れば簡単に行けるような便利な世の中になったのです。

 余談ですが、私の祖母は三崎半島の中ほどにある旧瀬戸町小島の出身で、私が三崎半島やここに暮らす人たちにどこか愛着を覚えるのは、私の体内に流れるDNAのせいなのかも知れないと、密かに自分で思っているのです。

 先日友人でえひめ地域づくり研究会議事務局の松本宏さんを誘って、旧三崎町平磯地区で行われた喜久家国際ワークキャンプ交流会に参加しました。三崎町を知り尽くしているような顔をしている私ですが、釜木地区や平磯地区は若いころ船で沖合いから何度となく眺めているものの、陸道で尋ねるのは初めてとあって、国道から瀬戸内海側の入り江に続く4キロの道は釜木や平磯の集落、瀬戸内海の海が見え隠れし興味深々でした。
 

 平磯は一口で言うと青石に囲まれた生活文化漂う村という感じでした。かつて私は三崎町の名取という集落を訪ねたことがあります。青石分館を研究する集会に招かれ参加しましたが、宇和海に面した名取地区は、仙台伊達藩が宇和島に分家した時仙台から一緒にやってきた人たちの暮らしが色濃く残る飛び地のような集落だったと記憶していますが、名取の背中合わせのように瀬戸内海側に位置する平磯も同じように青石に囲まれた地区でした。夕方7時からのご案内だったのですが、知らない土地なので5時に着くよう出かけましたが、この日は土曜日だからなのか国道は空いていて、4時前に出たのに1時間余りで到着しました。杉や槇の防風垣はどこも気持ちがいいくらい立派に剪定されていて、ホ来その人たちの勤勉さが分かりました。道端の狭い場所に車を止め、携帯電話で連絡を取り迎えに来てくれた浅野洋海さんのお家にお邪魔しました。そこでこの日のチームリーダーにお目にかかり、興味のあった喜久家という、外国人が暮らす古民家を訪ねました。そこここに海岸から背負子に背負って海岸から上げて積んだと思われる石垣に沿ってやはり石張りの細くて急峻な道を登って行きました。この地区は民家へは車道が殆どなく、歩かなければならないのです。

若松進一ブログ (民家を縫うように歩いた細い石段)
若松進一ブログ (塀は殆どがこのような緑色変石の青石が見事に積まれていました)
若松進一ブログ (古民家を利用した喜久家の玄関、玄関脇には道祖神が祭っていました)
若松進一ブログ (民家の中庭は石垣で囲まれ、平たい石が敷き詰められています)

 集落の中ほどに目的の民家はありました。石垣に囲まれた門付きの立派な家です。中に7~8人の外国人がいて、丁度夕食時でしたが、愛想よく出てきて、チームリーダーや洋海さんを介して紹介を受けたものの、残念ながら名前を覚えるほどの余裕はありませんでした。彼らはここで集団生活をして農作業をしたり日本文化に触れたりしながら約1週間の国際ワークキャンプというプログラムをこなしているのです。共通の言語は英語だそうですが、まるで地球各国の代表選手が集まったような感じのワーキングホリデーとも思えるキャンプでした。

若松進一ブログ
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 夕方からの交流会は地元や遠く松山からも30人もの知人友人が集まり、かなりバラエティに富んでいました。しかし嬉しいことに合併して伊方町になった伊方町の田舎へ伊方町の都会(笑い)から何人もの若者が集まって、それは賑やかな交流会でした。私はふと青年の船に乗ってアメリカやメキシコに出かけた時の千ないキャビンでの交流を思い出しました。まさにあの時と同じで人種や言葉や年齢が違っても若者同士はボディランゲージですぐに理解しあえるのです。残念ながら私たちは明くる日の予定もあるので9時半ごろにお暇しましたが、後ろ髪惹かれる思いの交流会でした。

 この交流会を仕組んだのは平磯で農業を営む浅野洋海さんと、三崎中学の教員である浅野長武さん兄弟です。兄さんの浅野長武さんとは国立大洲青少年交流の家に勤務していた時に知り合い、浅野洋海さんとは特産品開発の会議で知り合い夜遅くまで話し込んだ旧知の間柄です。彼ら兄弟はこのままだと自然消滅しそうな限界集落を何とか活性化しようと喜久家プロジェクトを発足させました。そして様々な人を巻き込み様々な活動を行っているのです。彼ら兄弟に完敗、乾杯です。


  「佐田岬 胸が騒ぐは DNA 祖母はこの土地 生まれて育ち」

  「石垣の 一つ一つに 先人の 生きた証の 血と汗にじむ」

  「若者は 国や言葉が 違っても すぐに打ち解け 笑顔で話す」

  「ああ今日も 出会いの人の 多くあり ほのぼの帰る 頂上の道」

  

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shin-1さんの日記

○孫朋樹の入学記念菜の花ウォーク②

 「おじいちゃん、僕が写真を撮ってあげようか」と、孫朋樹がいうのでデジカメを渡しました。朋樹はこの春から小学校に入学するのですが、今年の春から虫が好きなのでお父さんからデジカメを貰って虫の図鑑を作るのだと張り切っていましたので、試しに撮ってもらいました。

若松進一ブログ(孫に撮ってもらった記念すべき一枚です。モデルがいいのか腕がいいのか、中々いいアングルに仕上がっていました)

 この辺りに来ると、孫にとって楽しみも少なく、人家も少ないことから二人で大きな声で歌を歌ったりして歩きました。水温む季節でしょうか、海岸では長閑に釣り糸を垂れている人や、山に入ってツワブキを取る人にも出会いました。また何組かのウォーカーに追い越されたり追い越したりする度に、声を掛け合いました。


 やがて石久保、本谷を過ぎ、唐崎の松が鼻を回ると双海町のシンボル本尊山が見えてきました。この辺りから見る本尊山は絶景で、まるで一服の掛け軸をに書かれた中国の蓬莱山を見ているようです。

 ここへ来るとシーサイドも見えるようになりますが、少し疲れた孫は「あとどのくらい」と盛んに聞くのです。「あと2キロくらい」と答えるのですが、孫にとっては「あと2キロぐらいはどのくらい」と、頓珍漢な会話が続くのです。

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 やがて最後の休憩所である唐崎集会所横の夕観所へたどり着きました。ここは私が役場に在任中に土木事務所にお願いして整備してもらった絶好の休憩スポットなのです。ここでくじらのお店で貰ったお餅をリュックから取り出し二人で食べました。孫は餡餅が嫌いなようで、餡の入った部分を私に食べるよう勧め、ジュースをのでいました。

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 ここには珍しいひょうたんナマズのモニュメントがあります。孫はナマズのモニュメントによじ登って楽しそうに遊んでいました。道行く人も思わず微笑ましい孫のしぐさに拍手や声をかけたり、ある人は珍しい光景だとカメラに収めてくれました。

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 三島神社横の、本郷の菜の花畑も今年は上出来で、若いカップルが何組か写真を撮るために細い道を上へ上がっていました。この写真を撮った後孫は急にトイレをもよおしましたが、もうすぐだからと城の鼻を越えて小走りにシーサイド公園へ無事ゴールしました。駆け込んでトイレに間に合って一安心、孫の顔見知りである池田所長さんやじゃこ天のおばさんたちと声を掛け合い、池田所長さんに鯉の餌を貰って楽しいひと時を過ごし、上空を飛び交うパラグライダーを見やりながら、迎えにきた長男の車に乗ってわが家へ無事帰ってきました。

 孫は私より元気で、帰って食事をした後も近くの中学校までジョギングに出かけたようでしたが、私は炬燵に入って少しうとうと昼寝をしましたが、尚樹と希心の二人の孫が体の上に乗ったり遊んだりで、賑やかな週末でした。それにしても孫と二人でいい入学記念の菜の花ウォークとなりました。

  「じいちゃんも 撮ってあげると デジカメで 俺より腕が 上だと威張る」

  「ひょうたんと ナマズ彫刻 何のため? 孫に聞かれて 説明できず」

  「爽やかに 国道歩く 弥次と喜多 デコボココンビ 楽し一日」

  「入学の 記念に歩く 海沿いに 菜の花咲いて 孫を祝福」

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shin-1さんの日記

○孫朋樹の入学記念菜の花ウォーク①

 昨日は薄曇りながらまずまずの天気に恵まれ、菜の花ウォークが開かれましたが、今年はこれまでのようにシーサイド公園を出発して長浜の赤橋を目指す片道コースが変更され、長浜を出発してシーサイド公園を目指すコースに変更されました。昨年は妻や妻の友人とともに歩きましたが、今年は孫朋樹と歩くことにしました。孫朋樹は今年の春小学校に入学するとはいいながらまだ20キロも歩く自信がないので、とりあえず私と二人の自主コースを設定し、下灘運動公園からシーサイド公園までの7キロコースに挑みました。

 前もって娘に下灘運動公園まで車で送ってもらい、10時に出発しました。

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 昨日は熱くも寒くもなく、絶好のウォーキング日和で、海からの風もそよ風程度で、国道沿いい20年前に植えた桜の木々の芽も大きく膨らんで、あと10日もすれば咲き始めるようです。

 最初の目的地は下灘駅です。浄土の緩やかな坂を登りました。眼下向こうには下灘の街が一望できて、中々いい眺めですここもチェックポイントです。

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 下灘駅に着くと、顔見知りの市役所職員が駅舎の中で夕日や夕焼けフォトコンテストの作品を展示する作業をしていました。ここで一服です。列車を待つ顔見知りの皆さんとあいさつを交わしながら休んでいると、マッチ箱のような一両の列車が構内に入ってきました。孫朋樹は出発間近な列車と競争した走ったりして楽しんでいました。

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 その後共栄製材所や日喰の一本松お地蔵さんにお参りしながら次のポイントである閏住のくじらという店を目指しました。ここは私の実妹が経営する小さな店です。この日は姉たちや家族も手伝いに来ていて、一年で一番の稼ぎ時の準備をしていました。私は大きなお釜で炊いたおでんをご馳走になり、お餅までお土産にいただきましたが、朋樹はジュースを買って飲みながら一休みです。

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 閏住の菜の花畑はもう満開で、傍の倉庫では閏住の地元の人が菜の花ウォークを盛り上げようとお餅をついたり、即売の店を出したりしていました。男性の方はビールを飲みながらもう出来上がっている人もいて、毎年ながらジュースの接待を受けました。
 道端の草花を摘んだり、枯れたススキの枝を取って遊んだりの気ままなウォーキングなので疲れもせず、軽快に歩きました。


  「入学の 記念に歩く 孫私 相棒よろしく お手々つないで」

  「いつの間に 大きくなった 孫の手に 爺体温 温もり伝え」

  「列車来て シャッターチャンス 逃すまい 一枚ポーズ 孫も緊張」

  「グツグツと 大鍋おでん 煮えている お一つどうぞ 接待嬉し」 

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shin-1さんの日記

○ミツバチも順調に飛んでいます

 数日前、山奥組の井上登さんからメールが入りました。「先日人間牧場にお輿入れしたミツバチは元気でしょうか」というのです。そういえばミツバチが人間牧場に連れられてきてからは、山口県へ3度も行き、北海道など長旅が重なって、井上さんには大変失礼ながらそれどころではなかったのです。その旨のお詫びを入れながら「果たしてミツバチは生きているのだろうか」内心不安でした。途中で大洲市田処の亀本耕三さんが人間牧場へ観察にやってきて、ミツバチが飛んでいたという情報を得ていましたが、このところの寒さや、亀本耕三さんの「ミツバチの巣が一つ風で転がっていた」という話もあるので心配でした。

 昨日サツマイモの種芋の作付に出かけた折、到着するなり北東の位置に設置している場所へ行ってみました。

若松進一ブログ(井上さんにいただいたミツバチの巣箱へはミツバチが盛んに出入りしていました)

 巣箱の中から確かにミツバチが出入りしているのを確認しました。余り近づくとミツバチに刺されそうなので傍でそっと様子を見ていましたが、ミツバチは人の気配を感じたのか余り飛ばなくなってしまいました。ウッドデッキの方に少し下がってみましたが、ミツバチは忙しそうに働いているようでまずはひと安心です。

 高知県馬路村から頂いて帰り、今回井上さんに蜜蝋を塗ってもらった二つの巣箱はまだ蜂蜜の気配が感じられないようです。ミツバチの行動範囲といわれる巣箱の周囲二キロには梅の花も沢山咲いて、早くもブルーベリーや椿の花が咲いています。少し先ですがもう間もなくミカンの花も咲くことでしょう。今年の胃にy値のリレープロジェクトは、サツマイモもミツバチも今のところ順調に推移をしているようです。


 さて井上登さんにいただいたハチミツですが、私はこれまで市販のものを食べるとき何気なく、ミツバチのこともミツバチを飼っている人のことも考えず食べていました。勿論食べているハチミツを誰が生産しているのかなど考えることも知る由もありませんでした。でもこうして自分がミツバチを飼うようになってみると、俄然ミツバチのことが気になり始めました。今朝も昨夜から泊まっていた孫に、井上さんからいただいたハチミツの話をしてやりました。孫は今度来る時は怖いけどミツバチの巣箱を見てみたいと興味を示していました。

 未だに知らないことの多いミツバチの世界ですが、少し勉強をして見たいと思っています。そのためにはインターネットも利用できますが、何といっても井上登さんにその教えを請いたいものだと思っています。


  「山奥の 友の連れ来し ミツバチが 忙し飛び交い 春が来たよと」

  「何気なく パンに塗りつけ 食べていた 蜂蜜秘話を もっと聞きたい」

  「後二つ 用意の巣箱 まだ住まぬ 何時になったら 転居するのか」

  「虫の目に なって巣箱を 覗き込む 人の気配に 蜂は慌てて」

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