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○雪の島根県雲南市吉田町へ

 一年中、まるでフーテンの寅さんのように、木になる鞄を提げて全国を旅している「進ちゃん」こと私は、今年も元気に全国行脚の旅を始めました。手始めに招かれたのは島根県雲南市吉田町でした。この町はかつて飯石郡吉田村といって、鉄の歴史村をキーワードに教科書に載るほどアカデミックで活気あふれる活動を行い様々な情報を発信していました。その後平成の大合併で雲南市の一部となり、村の名前もまるで格上げされたように吉田町となったのです。

 今回の仕事の源流をたどれば、小学生5人の小さな民谷分校の地域コーディネーターをしている松島俊枝さんから、「学校の地域支援の在り方についての学習会の講師で来て欲しい」と声がかかったからでした。松島さんとは15年前に島根県公民館大会が美保関町で開催された時、記念講演講師としてお邪魔したことがきっかけでした。松島さんは当時吉田村田井公民館の主事として活躍をされていて、すっかり意気投合し島根へ行く度になにかとご厄介をかけている間柄なのです。

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(眞さんのつぶやきというブログに掲載された松島さんと私)

 私はこの話があった時少し躊躇しました。というのも今年は例年になく寒く、雪深い中国地方の山間部へ行くには交通お便が気になること、二日目の15日土曜日の夜にはギノー味噌の田中社長さんの肝入りで宇和島へ行かなければならない外せないスケジュールが入っていたこと、学校支援の話ができる専門家ではないことなどでした。でも綿密な計画を立て、松島さんの全面的な協力をいただき、最終目的地である宇和島まで距離程と時間を割り出し、雪道に慣れている松島さんが世羅町から吉田町まで運転をしてくれたのです。

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 往復700キロのうち200キロ以上を時には2メートルを超す雪の壁を、すり抜けるようにスリリングに走りました。西国四国に住む私にとっては、2メートルの雪などめったにお目にかかれないとあって、車の中から車窓の景色をカメラに収めたりしました。

 それにしても雪国の人はしたたかです。14日の夜の集会もほぼ満員、15日午前中の集会もほぼ満員でした。察するに田舎の雪道をかき分けて集まったのでしょうが、まねのできない熱心さだと感心しました。もし私たちの町に少しでも雪が降るとこんなに大勢の人数が集まっていたかどうか、ただただ感心するばかりでした。


  「縁あって 二メートルもの 雪積る 中国山脈 分け入り訪ね」

  「積もる雪 ものともせずに 集まりし 人の熱意に 感心しきり」

  「桜の木 白い雪つけ まるで花 咲かせたように すっくと立ちぬ」

  「雪道を スノータイヤで スイスイと 雪慣れ運転 ハラハラドキドキ」

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○中山町成人大学に招かれて

 何年か前双海郵便局に勤めていて、中山郵便局長を最近退職した門田さんから早い年末に、「中山町の成人大学の学級長をしているのですが、新春早々の空いている日の夜講演に来て欲しい」と電話がありました。職場も住んでいる町も違いますが、顔なじみで心許せる知人からの頼みゆえ、快く1月13日の夜7時30分からの講演を引き受けました。

 7時30分は遅いなあと思いつつ、明くる日の朝島根県雲南市へ旅立たなければならないことも気にしながら出かけました。時間を早めに設定する癖のある私は、午後6時35分に自宅を出たため7時には会場となる中山町の公民館に到着しましたが、几帳面な性格の門田さんは既に玄関先に立って出迎えてくれました。

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 公民館の事務所へ通され、顔見知りの方々と雑談を交わしながらお茶をいただき、開会時間が来るのを待ちました。5分前に2階の会場へ案内されましたが、顔見知りの方も多く冬の寒い夜にも関わらず沢山の人が集まっていました。門田さんとの打ち合わせで講演のテーマは「心豊かに生きる」にしていたので、準備もせず気負うことなくごく自然体で1時間20分ほどお話しさせてもらいました。参加者の殆どの人が私の話を何度か聞かれていていますが、はてさて皆さんの心にどのように響いたことでしょう。

 それにしても集まった人たちはしっかりとした聞き耳を持った人たちばかりでした。演台で長年話していると、その日の客筋がよく分かるのです。反応の速さ、笑いのタイミング、全てがいい雰囲気でした。

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 門田さんから帰りに中山町特産の生なうどんと蕎麦、それにシイタケまで手土産にいただきました。久しぶりに退職した門田さんに出会いましたが、話によると最近は商工会長をしていた上岡さんたちと、史談会を設立して頑張っておられるようです。

 人間には竹のように幾つもの節があり、松のように人生の年輪を重ねて行くものです。また梅のように花を咲かせたり散らせたりしながら日々生きるのです。田舎に住んでいるとややもすると将来への不安が先にたって押し潰されそうになりますが、「いい時代は来ない。いい時代にする」くらいな気概で、生まれた所で死ねる幸せをかみしめながら心豊かに生きて行きたいものです。

 帰り道翠小学校周辺のイチゴハウスには、冬の長い冬を少しでも短くしてイチゴを目覚めさせようと電気が点けられていました。凍てつく暗闇に幻想的に見える電気の明かりに癒された気持ちになりました。

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  「友人に 誘われ夜の 講演会 懐かし顔が 集まり嬉し」

  「暗闇に 幻想的な 明かり点く イチゴハウスに どこか癒され」

  「お土産に 貰った蕎麦と うどん今日 旅立つゆえに 食えぬ残念」

  「隣町 やはり懐かし 人揃い 思いのたけを スムーズ話す」

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○今年最初の美しい夕日

 年末から年始にかけて波状的に寒波がやって来て陸も海も大時化で、双海町の漁師さんは年末の早い時期から昨日までまだ一度も出漁できず、会う人ごとに「これじゃあ飯が食えん」と嘆いています。普通の年だと海は時化ても年末や年始ころには何日か凪ぐ日もあるのですが、今年は何年かに一度の大時化のようです。

 昨日は午前中人間牧場へ大学生を案内し、午後は県公連の専門委員会が県の生涯学習センターであり出かけました。所用を済ませ帰る途中高野川海岸で思わぬ冬の美しい夕日を見ることができました。昨日は空も曇っていて、恐らく夕日は見れないだろうと落胆しつつ、日曜日に始まった大相撲初場所の中継をカーラジオで聞きながら帰って来たのです。

 三秋の峠を下って高野川海岸に出て、真黒い雲がまるでカーテンコールのように押し上がり、絵に描いたような綺麗な夕日が、西の端に沈まんとしていました。持っていたデジカメを取り出し、寒風の吹く中を思い切って外に出て写真に収めました。

 海から吹きつける夕暮れ時の風は身を切るように冷たく、急いで車の中へ入りヒーターの利いた車内のウインドー越しに夕日の写真を4~5枚撮りました。私と同じような衝動に駆られたのか次々と狭い路側帯に車が入ってきて、殆どの人が携帯電話のカメラでカシャカシャ音を立てて撮影していました。

 思えば年末から年始にかけてこんな綺麗な夕日を見るのは初めてのような気がするのです。

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 昨日は水平線近くに帯のような雲が現れ、期待したダルマの夕日はついに見ることはできませんでしたが、赤々と燃えるように、そしてジューンと音を立てるように沈んで行く夕日を見ながら、心がほのぼのとしてきました。これこそ夕日の持つ最大の魅力だと一人納得しました。

 この真っ赤な夕日がもう間もなく朝日となって地上の万物に降り注ぐとは、私のような凡人には分からぬ自然の営みです。と同時にこんな美しい夕日にパワーをもらえる地域に住んでいることを幸せに思うのです。この火の夕日は今年一年分のパワーをもらったような感じがしました。昨日から始まった私の仕事も順調であって欲しいと殊勝にも、沈み行く夕日に手を合わせ高野川海岸を後に夕暮れの海岸国道を家路へと急ぎました。


  「予期もせぬ 綺麗な夕日 お出迎え 雲を押し上げ カーテンコール」

  「夕日には これまでどれ程 恩恵を もらったことか 手合わせ感謝」

  「デジカメを 持って歩くは 日課にて シャッターチャンス 逃すことなく」

  「この夕日 俺のものだと よがりつつ 寒さに負けて 車内撮影」

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○舞たうん107号が届く

 えひめ地域政策研究センターが発行している「舞たうん」という季刊雑誌に、「shinn-1さんの日記」というブログと同じタイトルで、連載記事を書くようになって今季が14号ですから3年半が過ぎました。その間毎号変わる編集責任者との出会いを楽しんでいますが、今月号の特集テーマは「グリーン・ツーリズムでした。

 記事をスキャナーで取り込みましたが、容量が大き過ぎてブログに取り込むかとができず、その縮小の方法が代替パソコンのため分からなくて、結局デジカメで撮影し公開となりましたが、仲間に頼んでスキャナーして送ってもらい、お粗末ながら出来次第差し替えたいと思っています。

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 今月号の表紙は相変わらず鋭いタッチで柳原あやこさんが書いています。用紙の裏側に「表紙のことば」が次のように書かれていました。

 「双海でのピザ体験。手作りピザを石窯で焼く。中に入ると、家族連れが数組。世話役のおじさんおばさん達の、手解きを受けながらのピザ作り。お父さんの真剣な手付きに学ぶ。子どもの姿がほほえましい。伸びた生地のトッピングは近くで採れた新鮮な農・海産物が使われる。地元の方との交流を交えて、いよいよです。いろんな型のピザが窯から出てくる。私のピザも焼き上がり、いやまこと『おいしい!!』の一言。柳原あやこ」とコメントされていました。


 裏表紙には1月29日に開かれる予定のえひめ地域づくり研究会議のフォーラムの予告が載っていました。このフォーラムは年に一度開かれるもので、今回は盟友の岡田文淑さん、亀岡徹さんと私で放談をする予定のようです。大先輩の二人を向こうに回して何を語るのか、多少不安もありますが、まあなんとかなるでしょう。

 愛媛の地域づくりに深くかかわらせてもらった20年余り、舞たうんは私自身の情報受信発信誌として大きな役割を果たしてくれました。これからもみんなでいい情報誌に育てたいものです。


  「舞たうん 私の書いた 記事が載る 嬉し恥ずかし 十四号も」

  「どれ程の 記事を書いても 上向かず いつも反省 しきりにしてる」

  「絵に描くと 写真と違う 味が出る 取っておきたい 気持になりて」

  「ツーリズム 横文字好きな 日本人 何のことない 普段の活動」

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○光のページェント

 今年の寒さは誰もが認める筋金入りの厳しさです。小寒から大寒に向かう季節とは言いながら、室内温度も朝起きて直ぐには7~8度ですから、西国四国の気候温暖な瀬戸内海地域にしては相当寒く感じられ、朝寝坊の妻は私がストーブに火を入れ、部屋が暖まるまで布団にくるまっているようです。こんなに寒いと外へ出るのもおっくうで、炬燵とストーブの番をしたくなるものですが、親父も私もピューピューと電線を鳴らす北西の季節風の吹く中でも、体を動かそうと散歩に出たり、時には畑や庭の草削りをして、年末年始休みでなまった体を動かしているのです。

 寒い日に体を動かすと体内温度が上がり、体がポカポカしてきます。体が温まって室内に入るとストーブなどは不必要で、南に面した書斎には冬としては珍しく太陽の光がいっぱいに差し込みました。わが家の裏はすぐ杉山で、30年生くらいの杉の木が立て込んで、特に冬などは一日中太陽を見ることができない影の部分に家が建っていますが、年末に立ち枯れの杉の木を持ち主の了解を得て3本ばかり切り倒しました。体力的に強くないおじゃ痔と私には多少難儀な作業でしたが、電動チェンソーで伐採整理したお陰で、木々の間から光が差し込むようになったのです。

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 嬉しい冬の太陽の恵みです。それは太陽の神のような神々しさで、まるで光のページェントのようでもありました。木々の間を抜けたこぼれ日なのに部屋中が明るくなり、太陽の存在の有難さを冬ゆえ思う存分実感しました。長かった私の正月休みも昨日でやっと終りました。今年の冬休みはダイガラで顔を怪我するアクシデントや、愛用のパソコンが修理に旅立ち、目標だったブログ記事のプリントアウトも結局できず終いとなりました。でもお陰で読書や締め切りの近づいていた原稿も全て書き終え、すっきりした気持ちで今日からいよいよ本格的に始動します。


 今日は午前中愛大農学部学生で中山町出身の武智さんと松本さんと事務所で待ち合わせ、厳寒の人間牧場案内です。午後は県公連の専門委員会があって会議があり、夜は19時30分から中山町の成人大学で講演の予定と、忙しい一日となりそうです。明日から雪深い参院島根へ入りますが、途中まで迎えに来てもらう雪道が心配です。なるようにしかならない日々ですが、努力してなるようにしたいとスキルをアップして目覚め始動ました。


  「静寂な 杉の木立の 隙間から 差し込む光 神々しくて」

  「北風と 太陽イソップ 物語 やはり太陽 冬ゆえ嬉し」

  「老いの身を 惜しむが如く 生きている 親父の背中 見習うように」

  「さあ始動 冬の休みに おさらばし 今日から仕事 スキルをアップ」

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○今こそ報徳訓

 私が塾長を務める年輪塾のネットで、清水塾頭からメールが配信され、私が数日前「shin-1さんの日記」という自身のブログに書いた「道」について、報徳訓を添付していると書き込みがありました。普通だとすぐに添付資料が開いて読めるのですが、パソコン故障で修理中のため代替パソコンでは開かず、結局手持ちの二宮尊徳関係の本を開けての学習と相成りました。

 報徳訓はこれまでにも何度か読んでいて、その思想の奥の深さは北海道佐呂間漁業協同組合の報徳訓実践経営の話を通じて知っているので、すぐに理解できました。

  報徳訓

 父母の根本は天地の令命にあり

 身体の根本は父母の生育にあり

 子孫の相続は夫婦の丹精にあり

 父母の富貴は祖先の勤攻にあり

 吾身の富貴は父母の積善にあり

 子孫の富貴は自己の勤労にあり

 身体の長養は衣食住の三つにあり

 衣食住の三つは田畑山林にあり

 田畑山林は人民の勤耕にあり

 今年の衣食は昨年の産業にあり

 来年の衣食は今年の艱難にあり

 年年歳歳報徳を忘るべからず

 報徳訓は状態の因果関係を述べていて、積善の必要性を説くとても奥が深いものです。身体は自分自身のものでありながら父母が生育してくれたからこそ今があるのだと、父母に感謝して生きなければならないのです。私には父母がいます。父母にもそれぞれ父母がいて、10代遡っただけでも1024人の先祖がいなければ自分の存在はないのです。その尊い命もさることながら、自分をいつくしみ育ててくれた親を粗末にすることは人道にもとる行為なのです。ましてや子孫の相続が夫婦の丹精にあるのだとすると、夫婦が助け合って子どもを育てることも当然のことなのです。

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 二宮金次郎が育った時代と世の中は大きく変わり、衣食住の三つは田畑山林だけではなくなりましたが、田畑山林を職場や仕事に置き換えれば、勤耕は一生懸命働くことですから、報徳訓が示すものは全て人が生きるための不変不易な「道」なのです。

 報徳訓は残念ながら敗戦や自由主義、時代の変化の中で忘れ去られ、伝承することができていませんが、混沌とした現代社会の中で右往左往する日本人に、とりわけ時代を担う子どもたちを育てる任を負わなければならない親たちが、心得て欲しい教えのようです。


  「報徳訓 今読みかえしても 陳腐せず 教え導く 説得ありて」

  「自らが 報徳訓を 学びつつ 人を導く 人にならねば」

  「雨の日も 風吹きすさぶ 今日さえも 校庭立ちて 金次郎像」

  「古くても 解釈すれば 新しい 道説き示す 報徳思想」

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○わが家のどんど焼き

 正月松の内も過ぎ、昨日は鏡開きの日でした。割れるとか切るという言葉を忌み嫌う日本の古い風習にのっとり、神棚に供えた丸い重ね餅を鏡に見立てて、鏡開きと表現するのは日本人のよきファジー文化だと納得しながら神棚のお三方毎下げ、玄関先や仏壇、水神様、便所、風呂場、車など、神が宿りそうな場所を選んで飾っていたお飾りを集めて、畑の隅に持って行きました。

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 親父も母屋に比べると狭い隠居ながら、私が同じように飾ってあげていたお飾りや三方を集めて持ち寄り、親子二人でどんど焼きを始めました。わが家ではどんど焼きとは言わず、「お飾りはやし」と呼んでいますが、これまではずっと1月15日を吉日と選んでやっていましたが、国民のの祝日である成人の日が変更したため、大安や先勝などの吉日を選んでやっているのです。

 集めたしめ縄を小さく積み上げ火を付けました。昨日は真冬としては珍しく無風の好天に恵まれ、空気が乾燥していることもあって瞬く間に火は燃え広がりました。この災や煙に当たると一年間無病息災で暮らせるという言い伝えがあって、親父も私も炎や煙を体全体にこすりつけました。やがて炎が佳境に入ったころ、鏡餅をこれまた炎であぶり初めをしました。12月30日についたお餅は約10日間ですっかり固くなり、ところどころにひび割れしていました。

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 こうしてわが家のささやあなどんど焼き行事は無事終了しました。家に持ち帰った鏡餅は程よい大きさに切り分けて餅とり粉を洗い落し、他の水餅と一緒にポリバケツの中に漬け込みました。2~3日するとこの餅が水分を吸収して柔らかくなり、焼いて食べるのです。

 わが家では妻も私もお餅が大好きで、正月以来ずっと毎朝、パン焼き用のオーブントースターで餅を焼き、醤油や黄粉をまぶして食べたり、時には雑煮にして美味しく食べています。正月にやって来た孫たちもお餅は大好きで、土産に沢山持って帰ったようです。

 どんど焼きをしていつも気がつくのですが、しめ縄飾りは火をつけて焼いて灰になっても縄のままで残っているのです。しめ縄は縁起を担いで7本・5本・3本とわらをない込みます。七五三を別な呼び名「でしめ」と読むのもうなずける話です。二本のより込んだわらがたとえ灰になっても一本の縄のまま存在するのは夫婦の見本だといわれています。最近は離婚率も高く、この言い伝えも当てにならないようですが、せめてわが家だけでも神様にまつわる言い伝え通り、しめ縄にあやかりあの世までも深い絆を持ち続けたいと思いました。

  「今年また 親子二人で どんど焼き 炎と煙 無病息災」

  「焼けてなお 灰になっても しめ飾り よられたままで 夫婦の絆」

  「風習を 今に伝える どんど焼き いつまで続く 息子の代は?」

  「お下がりの 餅を小切りし 水漬ける 二、三日すりゃ 美味しい水餅」

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○田舎は切り捨てられ見捨てられるものでもない

 毎日ブログを書きながら、暇つぶしではありませんが息抜きに、お気に入りとして登録している何人かのブログを何の承諾もなく読んでいます。その人たちのブログに時々自分のことが肯定的(自分ではそう思っています)に書かれていたりして赤面したりもしますが、まあ納得しつつ時にはコメントを書き込んで声なき声のデジタル交流を行っているところです。

 昨日の喜久家ブログ(浅野長武さん)に私のことが書かれていました。同時に別の記事を読んで納得した言葉があったので紹介します。


 田舎は切り捨てられる存在でもなければ、忘れ去られる存在でもない。

 住む人の心の持ちようで輝きを増す。


 この言葉は田舎に住む、田舎応援団を自認する私がよく講演などで使う言葉とよく似ています。過疎化、高齢化、少子化、産業不振の顕著な田舎では、限界集落や学校統廃合などマイナス的現実を悲観して不安を持って生きている人が沢山います。講演などでやって来る大学の先生や著名な都会暮らしをしている講師は、自分でやらないことを慰め的に話をして、最後に「やるのはあなたたちだ」と言って帰って行くのです。

 私も大学の先生や都会暮らしの著名な講師と同じように色々な話をしますが、浅学な私は理論をは話せないため論理を話しています。論理とは実践に裏打ちされた生き様言葉なので、参加者たちには田舎のおっちゃんの話としてすんなり受け入れられるようです。

 限界集落や学校統廃合などへの行政の無策ぶりには多少憤りを感じていますが、いくら憤りを声高に叫んでも何一つ解決しないことを、田舎に住む人はしっかりと認識して生きて行かなければならないのです。行政が切り捨てたり見放しても、人間がその土地に住んで希望を持って暮らしている限り、そこはユートピアなのです。

 今はどんな土地に住もうと汗さえ出せば、知恵さえ出せばユートピアは生まれるのです。一番困るのは人の過疎ではなく心の過疎です。隣近所が離れていても今はインターネットという優れもののお陰で、情報過疎は解消できるし、うまい空気、うまい水、うまい野菜や魚を食べ、仲間とともに暮らす幸せを、都会のゴミゴミした社会で暮らす人に、田舎の良さを見せびらかしてい生きて行くくらいの勇気がないとダメなのです。

 人はどうであれ、少なくとも私はそう生きているつもりです。ゆえに大きな輝きほどではありませんが、自分で納得した自分サイズの恒星として輝いて生きているのです。私がいつも言っている、「田舎嘆きの10ヶ条」を「田舎楽しみの10ヶ条」に変えて生きて欲しいと思うのです。

 20世紀に田舎に生まれ田舎に育ち、21世紀にもなお田舎に生きています。多分死ぬ時も田舎のままで田舎で死んで行くことでしょう。これは不幸せでなく大きな幸せだと、今日も輝いて生きて行きましょう

  「他の人の ブログを読みて なるほどと 納得しつつ コメント送る」

  「ブツブツと 田舎を嘆く 田舎人 田舎こんなに いいとこなのに」

  「水うまい 空気もうまい 人情も 野菜魚と とびきり贅沢」

  「この田舎 生まれ育ちて おらくは 死んで行くはず これも幸せ」 

 

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○大きな木も小さな細根によって支えられている

 人間牧場の水平線の家には、標高130メートルの眺望が楽しめるようにウッドデッキが設えています。このウッドデッキはある意味人間牧場の象徴的なもので、観音開きのように開く硝子戸を開けて外に出た訪問者は、一応に眼下に広がる瀬戸内海の眺望の素晴らしさに感嘆の声を上げるのです。硝子戸を開けると室内25畳の広さとと同じ広さのウッドデッキ25畳が、一体的な大広間になるよう設計された息子の知恵に、手前味噌ながら感心して使っているのです。


 人間牧場は母親が長年丹精込めたみかん畑でしたが、母の加齢と私の仕事が忙しいことを理由の不義理がたたって、10年近く放任園になっていました。自然とは偉いもので10年の間にみかんの木は完全に枯れ、そこに雑木や雑草が生えて、足の踏み込めないまるで密林のような姿になっていました。この地に人間牧場を作る構想を練り、自由人になったのを機に今から6年前の4月1日、たった一人で開墾に着手しました。長年肉体労働から遠ざかっていた私の体は最初、その労働の激しさに悲鳴を上げていましたが、その内体も慣れて何とか視界を確保できたのは一カ月も過ぎてからでした。


 雑草や棘は草刈り機で、大木はチェンソーで切り倒し、切り株の下にうずくまる根っこは鍬とマサカリで抜根しましたが、太ももほどある木々の根の広がりや細根の多さには驚いたものでした。そして開墾から学んだのは、「どんなに大きくて強いものでも、小さくて弱いものによって支えられている」という教えでした。私は田舎の役場という小さな組織で長年働いていました。公民館活動や夕日によるまちづくり、町名変更など明暗を分けた仕事は一匹狼のような形で孤軍奮闘してきたつもりでした。また公民館活動も夕日によるまちづくりも沢山の人に支えられて成し得たことを感じてはいましたが、孤軍奮闘の辛さや反対意見への抵抗もあって、ある意味孤軍奮闘の気持ちが上回っているようにも思えたのです。

 一人藪に分け入り開墾しながら、私というたった一人の人間の非力さを感じながら、また地中深く根を張った雑木の抜根をしながら、私や私のやった仕事を支えてくれていた多くの人の存在の多さや大きさに気がついたのです。その経験をしながら自分のこれからの生き方は私を支えてくれた地域への恩返しをしなければならないと固く心に誓ったものでした。

 そんな折、植えた訳でもないのにウッドデッキの両隅に一本ずつ杉の小さな木が芽吹きました。一本は通り道に当たるため来訪者に踏みつけられて最初は息も絶え絶えといったところでしたが、それでも杉の苗木は天に向かってぐんぐん伸び始めました。大きくなったら土台を揺るがすかも知れないと心配するものの、願わくば人間牧場の歴史としてシンボル的に育ててみたいと思う心が強くて、未だに成長を続けているのです。

 この木は実生苗なので人間牧場のどれかの杉の木が母樹となっているに違いありません。人間牧場内の全ての杉の木は母親が北西の季節風からみかんの木を守るために植えた防風垣の名残の木なので、いわば母親の分身みたいなような感じもするのです。

 私はこの2本の木に、相次いで生まれ育っている孫たちの名前をとって「朋樹」「希心」と名付けました。二本の木々は負けず劣らず元気に育っていて、最初に芽吹いた「朋樹」はもう見上げるほどの大きさに成長しているのです。いつか孫たちにこの木の来歴を話し、地中に根を張っているであろう細根の大切さを話してやろうと思っています。

  「大木も 地中細根 あればこそ 天に向かって ぐんぐん伸びる」

  「母植えし 防風垣が 母樹となり 芽吹いて育つ 杉の逞し」

  「杉の木に 負けず育てと 願いつつ 朋樹希心と 孫の名つける」

  「一年に ひとつ年輪 刻みつつ 育つ杉の木 背伸び競いて」

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○今の子どもは忙しい

 最近の子どもたちは、私たちが野山を駆け巡って友だちと自由奔放に過ごした子ども時代とはまったく違い、ある意味不自由な暮らしを強いられているようです。小さいころから行きたくないのに親の都合や願望で、塾や習い事に通わされ、子どものスケジュール表はいつもびっしりなのです。自由なはずの夏・冬・春休みですら、健全育成の名のもと野外活動にそれぞれの青少年団体が子どもたちを奪い合い、多い時には夏休みに4つもキャンプに参加する子どもさえいるのです。

 私はアンケート調査を余り信用しない方ですが、それでもアンケート調査の数字はある程度の方向を示していれることも事実なのです。

 親を対象に実施したあるアンケート結果によると、子どもを持つ現代の親は子どもころ78.5%が習い事を経験しているそうです。習い事の内容としては、①ピアノ・電子オルガン36.7%、②習字・書道31.9%、③水泳・スイミング26.7%、④ソロバン13.5%、⑤英語・英会話13.0%のようです。


 子どもに習い事を習わせたいと考える親は83.3%もあって、習わせたいものも、①ピアノ・電子オルガン、②習字・書道、③水泳・スイミング、⑤英語・英会話の順になっていますが、親の習ったソロバンに代わって④に子どもに選ばせるが入っているようです。

 親に、あなたは子供のころに習ったことがその後の人生に役に立ちましたか?と尋ねると、殆ど役に立っていないと、どちらかというと役に立っていないと答えた人が多いようで、習い事は学習塾のような成果はなく、むしろ自分の生きていくためのの感性を磨くのにやくだっているのではないでしょうか。


 私もこのアンケート結果には同感で、私自身の日々の暮らしでも、楽器を弾いたり聞いたり、文字を書いたり英語を話したり、泳いだりはしないのです。今頃になって「もしもピアノが弾けたなら」「もしももっと字が上手に書けたら」「もしも泳ぐのが得意だったら」「もしもソロバン計算ができたら」「もしも英語が話せたら」などと思いを巡らせると、子ども時代にそんな習い事の環境に恵まれなかったことを悔いるのです。と同時に今の子どもたちは恵まれていると思う反面、自分の遊ぶ時間や自由時間が削られて可哀そうだと同情もするのです。

 残念なことに子どもを育てる今の親たちは、子どもの頃せっかく習ったこれらのことを生かしていないという事実です。せっかく高い金を出して買ったピアノも応接間の飾り物として埃を被っていたりしたのでは全く意味がないのです。かくいう娘も嫁ぐ時、マンションが狭い、隣近所に迷惑がかかるという理由から、わが家の応接間で埃を被っているおです。綿も悪ふざけで年に何回かピアノを弾いたりしますが、自分の子どもたちの誕生日に母親がハッピーバーズデーの曲を弾いてやれたら、どんなに素敵な母親だと感じることでしょうか。

  「あれこれと 習い事して 忙しい 今の子どもは 可哀そうだな」

  「習い事 してない私 あれこれも できず一生 終ってしまう」

  「アンケート 調査結果が 物語る 生かして生きる ようにしないと」

  「役立たぬ ことを習うも 意味がある 潜在能力 いつか役立つ」

 

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