shin-1さんの日記

○ぎっくり腰になりました

 私は一年に二度か三度、ぎっくり腰を患う癖があります。そのため教えてもらった腰痛体操などをして予防に備えているのですが、今度もいかんともし難く2~3日前からぎっくり痛になってしまいました。今回の原因の思い当たる節は何といっても、12月19日に人間牧場で餅つきをした折、8臼もの餅つきの手臼を一人でやったこと、1月8日・9日の水仙祭りで7臼の餅つきの手臼をやったことが考えられるのです。手臼は中腰でするので、餅つきが終わったころ腰に違和感を覚えるのですが、みんなに「手臼が上手だ」と褒められるものですから、ついついその気になっていい恰好をしてしまったのです。

 腰が重いと感じながら腰痛体操などでごまかしていましたが、先日島根県へ600キロもの旅をした折、400キロ余りの運転をしたために余計重くなって、ついには動かなくなってきました。今夕から福岡県築上町へ講演に出かけなければならない予定が入っているので、何とか早く治したいと思い、昨日と今日伊予市本郡にある松本整体院へ治療に出かけました。これまでぎっくり腰になると決まってここで治療を受け、回復してきたので今回も淡い期待を抱いて出かけました。昨日は軽め今日は少し強い治療をしてもらい、昼間は居間の炬燵に寝転んで休養を取ったお陰で少し楽になったようです。

 腰が悪いと座っても腰かけても次の動作に移るのが大変で、まるで年寄りみたいに周りの何かにつかまり、ヨイショと掛け声をかけなければなりません。妻は気遣ってストーブの灯油入れも、灯油を伊予市まで買いに行くことも全てしてくれました。「今度の出張は木のカバンは重いから別のカバンにしたら」と言うのですが、「私から木のカバンを取ったら何にも残らない」と意地を張っていますが、正直木のカバンは腰に負担がかかるようで心配です。

 本当は今夕広島に出て一泊し、広島で研修会の打ち合わせをして新幹線で小倉入りを計画していましたが、広島の相手に電話を入れて、訳を言ってキャンセルしてもらいました。そして関西汽船の浜田さんに連絡を取り、寝ていても旅ができる松山~小倉航路に切り替え予約を取りました。この便は午後9時55分松山観光港発で、小倉港に早朝5時に到着し、列車を乗り継げば十分間に合うことが分かりました。したがって帰りの便も小倉から新幹線より小倉~松山航路を考えています。

 「もうそんなに自分で思っているほど若くないのだから、余り無理をしないように」と妻に諭され、自分でも気力と体力のズレを感じながら、明日は一日中ブログを書けないので、明日の分までと何も知ることがない休養時間を利用して、思いつくままに明日のノルマまでこなしているところです。

 今日はどういう訳かよく電話がかかってきます。携帯電話はその都度手元にあって、失礼ながら寝たままで対応できるのですが、家の電話は子機を使ったり予定表をある場所へ移動したり大変です。何とかこれ以上悪くならないことを祈っています。


  「癖なのか 歳のせいだか 分からない ぎっくり腰で 一日悶々」

  「整体で 涙出るほど 揉みほぐし 幾分回復 出張大変」

  「重いから 木になるカバン 止めたらと 妻は諭すが 俺は止めぬと」

  「友人に 頼んで船の 予約する 寝たまま旅が 出来る妙案」

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○動物の寿命

 ある雑誌に東京工業大学本川達雄教授の「動物の寿命ーゾウの時間・ネズミの時間」という、興味ある話が紹介されていました。色々な動物の寿命を心周期(心臓が一回ドキッと打つ時間)で割ると、15億という数字が出てくるそうです。哺乳類の心臓は一生のうちに15億回打つらしく、その数字で逆算すると動物それぞれの寿命が算出されるのです。

 ・ハツカネズミ(心臓が1回打つのに0.1秒、15億回打つのに2~3年)

 ・インドゾウ(心臓が1回打つのに3秒、15億回打つのに70年)

 さて私たち人間の心臓が15億回打つのに何年かかるかというと26.3年だそうです。「えっそんなに短いの?」と目を疑いました。だって昔ならいざ知らず現代日本人は、世界一の長寿といわれ男女とも平均寿命は80歳を超えているのです。

 私たちの先祖をはるかに遡った縄文人の寿命は僅か31歳だったようです。15歳から16歳で子どもを作り、ある程度子育てをして次に世代にバトンタッチしていたようです。なぜ日本人の寿命が延びたのか、それは人間が人いう道具を手に入れ煮炊きや保温ができるようになったことに始まり、農耕や家畜によって安定した食料供給ができるようになったことや、水を確保して安全な都市環境の中で暮らせるようになったこと、医療技術が進歩したり入れ歯が開発されたことなどなど、延命条件が整ったためだと思うのです。

 だとしたら私を含めた人間は、もうとうに寿命を通り越して何十年もおまけの人生を生きていることになるのです。「もっと長生きがしたい」、これは殆どの人間が持つ願望でしょうが、26.3年しか生きないはずの私が66歳まで生きているのですから、これからおまけの人生をどう生きるか、自分自身の生活設計をしっかりとして、気楽に楽しく、加えて次の世代のために役立って生きることが大事だと思うのです。

 人間の寿命は心拍数で20億回÷1分当たりの心拍数50=75年、この計算通りだと私の余命は75年ー66歳(私の現在の年齢=9年、「うーん、こりゃあ大変だ」、うかうかできない。心のブレーキを緩めてやりたいと思っていることを早くしなければ死んでしまう。

 そうだ、溜めたお金(そんなにはないが幾分かは)も有意義に使わねば。子どもたちのためにも何かしてやりたい。そんなことを考えながら今日の朝を迎えました。

  「縄文人 僅か31年 生きただけ 俺は長生き し過ぎたのかも」

  「あと9年 余命計算 成り立って ブレーキ緩め 急げや急げ」

  「ゾウよりも 長生きしたい 心周期 少し延ばそう 息殺しみる・・・」

  「今朝もまた 生きて起きれて 動き出す 不思議といえば 不思議なことよ」

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○菅谷たたらを訪ねる

 先日講演のため島根県雲南市吉田町を訪ねました。2メートル近くの大雪の中でも逞しく生きる人たちに出会い、自分の心の有り様をもっと強く持たねばと、心新たにさせられました。

 講演に行くと知人や友人に出会ったり、その土地の美味しい食べ物や温泉などに浸かり、違った楽しみを味わうことができますが、もう一つの楽しみはその土地の歴史や文化に触れることです。多分それらは私の異文化ギャップとなって、私の基層深くに蓄積され様々な場面で生かされているのです。

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 私はこれまで島根県や鳥取県の殆どの町や村を歩いていますが、今回は若松進一島根事務所を自認する旧友松島俊枝さんの案内でした。ゆえに私のかゆいところを心得ていて、雪深い菅谷たたらを見学に連れて行ってくれました。菅谷たたらは何年か前に時間がないためちょい寄り程度でしたので、ボイス付きの説明に興味森々でした。

 菅谷たたら山内には、かつてたたら製鉄が創業されていた高殿と呼ばれる施設が唯一残されていてます。吉田町でたたら製鉄が始まったのは鎌倉時代だといわれていますが、この時代から中世までは「野だたら」といわれる移動式の製鉄法が行われていました。

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 近世に入り吉田町でも高殿を構えて操業が行われるようになると、村内のあちこちで盛んにたらら製鉄が行われ、企業たたらとして隆盛を極めるようになりました。私が訪ねた菅谷高殿は1751年から170年間の長きにわたって操業が続けられ、大正10年にその火が消えましたが、鉄山経営の事務所的役割を果たした元小屋や、たたらの塊を粉砕する大銅場など、山内には当時のたたらに関する施設群が現存していて、世界で唯一の鉄の歴史村を垣間見ることができました。たたら製鉄に従事した人たちの住んでいいた山内や金屋子化粧の池、鐡泉丸、村下、村下坂などのいわれを高殿の静まり返った中で興味深く聞きました。

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 高殿の近くに樹齢200年と伝えられる桂の木が立っていました。神木らしくしめ飾りがかけられ、根元に小さな祠が祭られていました。私はまだその木の四季を見ていませんが、春の花はまるで溶鉱炉の炎のようだといわれています。春の芽吹きや秋の紅葉も見事ならしく、今度は是非にも炎のようだと形容される頃に訪ねたいと思いました。

 鉄は日本人の歴史にとって大きな役割を果たしています。工業的な鉄の生産が始まったのは近世になってからであり、そのルーツを辿ると多分大陸との交易の道が見えてくるのでしょうが、雪深いこの地に日本の鉄の歴史のルーツがあることを、わたしたちはもっと、次の世代に伝えなければならないようです。


  「雪深い 菅谷たたらの 山内に 足を踏み入れ 歴史ゾクゾク」

  「春四月 桂の花の 咲くころに 炎と燃える 花を見たいと」

  「高殿の そこここ見える 人の知恵 感心しつつ 話聞き入る」

  「日本の 各地に残る 地汗跡 基層に深く 刻みてあとに」

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○イサバの調理

 昨日の昼ころ、漁師をしている親類の伯父さんから電話が入り、今年は時化が続いて年末以来一度しか漁に出ていない話を聞きました。私もかつて若いころ7年間漁師をしていたので、冬の時化が続くと漁にも出られず、財布の中身が心配な話は、他人事ではないと思いました。伯父さんは80歳を超えてもなお元気で息子と一緒に船に乗っていますが、そろそろ船を降りる年齢になったと寂しい心情を吐露していました。

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 そのたった一度だけ漁に出て漁獲した、イサバという鱶の一種である魚を船の水槽に生かしているので、取りに来いというので午後3時に系四トラックで取りに行きました。漁師は気が早いので行くと既にイサバは〆られて発泡スチロールのトロ箱に入れられていました。鱶やサメ類は生命力が強く、〆て尻尾を切り落とし、首を切っているのも関わらずトロ箱の中で動き回って暴れていました。

 寒くても仕方がないと思いながら、妻の割烹着を着て早速裏の屋外炊事場で調理を始めました。かなり広いまな板なのに、有に1メートルもあるイサバはまな板をはみ出し、頭を落とし出刃包丁で悪戦苦闘しながら三枚におろしました。頭も内臓もヒレも骨も皮もビニール袋に入れて生ごみ箱へ処分しましたが、皮との間の赤味を帯びた身は透き通るような桜色で、とても美味しそうな感じがしました。


 早速魚が大好きという友人二人に小切りにしてお裾分けをすることにしました。グロテスクな斑点模様のある鱶ながら、1週間も船の水槽で活かしていたため身は引き締まり、刺身にして食べましたが、見た目以上の美味しさでした。冬のこのころになるとスーパーなどに出回る物は別として、地物の魚を食べる機会が極端に少なくなります。特に刺身にする魚などは中々手に入らないのです。お陰で昨日はご馳走のような食卓でした。

 イサバの身は今晩は湯ざらしと天婦羅にして食べる予定です。湯ざらしはミガラシをつけて食べると絶品だし、天婦羅も熱々をおろし大根を入れた天つゆで食べると食が進みます。最近はミツバチの井上師匠から譲ってもらったモチムギを入れた、麦ご飯がわが家の定番となって、素食ながら田舎の暮らしを楽しんでいます。冬の寒さに会った野菜もしっかりと味わっています。

  「鱶なのに イサバと名前 ついている これが絶品 ゲテモノ食いだ」

  「上等な 魚は銭が 高いだけ 料理一つで ほらこの通り」

  「今晩は 湯ざらし加え 天婦羅で 冬の食卓 彩添えて」

  「幼ころ いやだ麦飯 思ったが 今は美食と 思って食べる」

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○淀んだ空気と止まった水

 この4~5日、超一級の寒波がやって来て、まるで日本列島全体が冷蔵庫の中に入ったような寒さです。各地で積雪し西国四国愛媛でも高速道路が度々通行止めになるなど混乱が続いているし、少し標高の高い地域では水道が凍ったり破裂するなど、生活にも支障をきたしているようです。このような寒さでも昔は囲炉裏や火鉢で暖をとっていたのかと思うと、昔のつつましやかな暮らしに比べ衣食住全てにおいてなんて贅沢な時代だろうと、何気ない幸せに感謝をするのです。

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(35年ぶりに氷が張ったメダカ飼育のための水ガメ)

 家の入り口に置いているメダカ飼育のための壺の水の表面が今年は3日続きで凍りました。この地に家を建てて移り住んでから35年が経ちましたが、氷がこのように厚く張ったのは初めてだと妻と話しました。わが家の隅には裏山から清水が湧き出し流れていますが、同じ水なのに動いている水は何故凍らないのでしょう。凡人の私には「動いているから凍らない」くらいしか考えが浮かびませんが、動きのある水でも滝の水はしぶきがツララになって凍るのですから一概には言えないとも思いました。

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(流水が凍った散歩途中の路面)

 最近わが町でも農地が荒れ、空き家が目立つようになってきました。農地は3年もほおって置くと完全に荒れ地になってカズラや雑草が生い茂り、中へ入ることすらできないようになります。新聞で読んだ話ですが、原発爆発事故で多くの犠牲を出し人々を震撼させたソビエト・チェルノブイリは、その後密林のように樹木が生い茂っているそうです。したたかなソビエト人はこれを観光資源に生かそうと目論んでいるそうですが、人間の破壊した自然や環境破壊も、自然治癒力によって元に戻ろうとしているようです。

 一方「空き家は3年」といわれるように、人が住まなくなると家の中の空気が淀み、3年で座が抜けるそうです。私たちは毎日家に出入りし家の中で暮らすだけで家の中の空気を知らず知らずのうちに攪拌し、ゆえに家の中の空気は淀むことなく流れるのです。

 遠く人里離れ、かつては人が住んでいた廃村になった集落を訪ねると、屋根が傾いて今にも倒壊しそうな家をよく見かけます。かつてはこの家にも明かりがともり、子どもの笑い声が聞こえていたであろうことを思うと胸が痛くなるのです。

 私たちの人間の生き方も、学びをおろそかにしたり運動をしないで美酒美食に明け暮れると、淀んだ空気や止まった水のように心身が退化するのです。かくいう私も進化を目指して日々精進しているつもりですが、昨日あたりから腰の具合がおかしくなり、これから整体院に行って体の調整をしてもらおうと思っています。気力と体力をバランスよく維持することは加齢とともに益々難しくなってくることでしょう。

  「同じ水 凍る凍らない 不思議だな 人も同じで 動きなくんば」

  「人住まぬ 家の倒壊 見るにつけ 往時を偲び 胸が痛みて」

  「氷張る 下にメダカの 泳ぐ見る 何を考え 生きているのか」

  「歳とると 吹く風寒さ 身に堪え 春の来るのが 待ち遠しくて」

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○「裏が味噌」の名刺と電光掲示板が話題になりました

 山陰地方に暮らしている人たちにとって、山陽の反対語に聞こえる山陰という言葉への抵抗感はずっと持ち続けている違和感のようです。それでも2メートルを超す雪景色が、トンネル一つを超えただけで一変し、時折雲の切れ間から見える太陽の光を見ると、やっぱり山陰・山陽の表現は当たっているようにも思えるのです。

 所用や近況報告のために、走る車の中から通話した友人清水さんの話によると、1月15日の愛媛はとても寒い朝を迎えていたようで、「松山から高速に乗ったが、伊予~宇和間は雪のため通行止め」とのことでした。私の逆算によると午後1時に広島県世羅町に到着すれば、伊予まで2時間半、伊予から宇和島まで1時間半で、ぎりぎり午後5時からの南生会新春賀詞交歓会に間に合う算段でした。伊予インターまでは順調に走れても、そこから先の高速道路が通行止めとなると、国道56号線の交通量も増えて混雑し、伊予から私の町を走る夕やけこやけライン378号線を八幡浜経由で宇和まで走っても、2時間はかかるのでまずいと思いました。

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 トイレ休憩や一服休憩も一切せず、少しスピードを上げて伊予インターまで帰って来ました。多分ダメだろうと思い、伊予インターに到着すると、運よく通行止めは先ほど解除となっていました。こんなラッキーなことがあるでしょうか。結果的には予定より1時間も早く宇和島に到着し、道の駅に立ち寄りギノー味噌が作ったドレッシングの商品を5本買い求めることができました。偶然にも市役所商工観光課の谷本さんに出会い、会場となったJAえひめ南へ向かいました。30分前の余裕時間を控室で関係者と雑談しながら過ごしましたが、ギノー味噌の駐在員の方がドレッシングの商品サンプルを、田中社長さんから頼まれたといって控室まで持ってきてくれました。

 南生会はJAえひめ南と商取引のある業者さんの集まりのようで、中には知人や友人もいて、名刺交換も持参の名刺が恥をかくほどでした。

 私は「新しい発想で生きる」というタイトルで1時間弱話させてもらいました。その中で「裏が味噌」で話題になったPR用名刺の話をしました。名刺の裏が無字なのは勿体ないからそれをPR用に使うアイディア名刺です。触手を示してくれたのはギノー味噌の田中社長さんでした。田中社長さんは先の読める方で、私のこのアイディアを買ってくれ、名刺印刷代3万円に加え、麦味噌やドレッシングといった商品サンプルを惜しげもなく提供して、私をマネキンとして使ってくれているのです。私もその恩に報いるべく北は北海道から沖縄まで講演に行く先々で、ギノー味噌の宣伝をしまっくっているのです。私の名刺作戦や口コミ作戦がいかほどの効果があるのか正しいデーターはありません。でも昨年11月に行われた地域教育実践交流集会の参加者全員に麦味噌300グラムを提供してもらい、大きな反響を呼んだことなどを考えると、手前味噌ながら効果はあったものと確信するのです。

 講演が終わって始まった賀詞交歓会恒例の懇親会でも、携帯電光掲示板と裏が味噌の名刺は話題をさらい、私の周りには沢山の人が名刺を求めてやって来ました。慌てて車に予備として置いていた1箱を取りに戻り配りましたが、さりげない名刺交換もいい成果を上げることができました。

 少し早めに会場を後にして、宇和から高速道路を走って帰郷しましたが、大洲では吹雪となりました。昨日の新聞によると私が通った後で再び高速道路は積雪のため通行止めになったようで、ハラハラドキドキしながらも男時な1日を過ごせた幸せを感じました。早速朝起きてギノー味噌の田中社長に交歓会の様子を電話で報告しておきました。 

 冬の大雪や台風、集中豪雨など、私の行く先々で起こる転変地変の頻度が次第に多くなっていることを実感しながら、今回も幸運に助けられながらまるで綱渡りのような旅となりました。


  「幸運は 日ごろ行い 良いからと 一人納得 胸撫でおろす」

  「裏が味噌 アイデア名刺 今回も 話題さらいて 技あり効果」

  「酒飲まず 酒席努める ウーロン茶 酔ったふりして 酔わぬ話を」

  「声かけて くれた社長の 顔立てて 裏が味噌なる 宣伝名刺」

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○子どもと学校と地域

 島根県雲南市吉田町学校支援促進研修会に講演を頼まれ出かけましたが、普通はレジメなど用意しない私がどういう風の吹きまわしか、レジメを代替パソコンを使いメール便で送っていたのです。そのことをすっかり忘れていて、研修会の事前打ち合わせの時担当の松島さんからその資料を手渡され、「しまった」と思いました。1日目の話と2日目の話の相手たる参加者が同じかどうか聞き忘れていたのです。参加者は別の人と聞いて少し安心しましたが、それでも教育委員会関係者は同じ話を2度も聞くのですから、多少変えなければ薄っぺらい軽薄な人間だと見破られてしまうため、少し方向転換をしてお話ししました。参加者用に印刷されたレジメには「1、変わる子どもと学校と地域」について問題点を列記していました。

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  ○子どもを巡る問題

  ①子どもの数が少なくなった

  ②子どもの毎日が忙しくなった

  ③子ども自身の自立的組織がなくなった

  ④子どもの遊びが変わった

  ⑤子どもの周りの様々な環境が変わった

  ⑥子どもの食生活が変わった

  ⑦子どもの言葉が変わった

  ⑧子どもの真の友だちがいなくなった

  ⑨子どもの失敗経験が少なくなった

  ⑩子どもが大人的で利口になった

  ○学校を巡る問題

  ①親がうるさくなった

  ②児童生徒数が少なくなった

  ③週休二日になり時間的余裕がなくなった

  ④学校が統廃合されつつある

  ⑤学校の門が閉ざされるようになった

  ⑥指導要領がよく変化する

  ⑦教職員の資質が問われ始めた

  ⑧情報化が進んでいる

  ⑨学校が経営評価されるようになった

  ⑩PTAの存在が危なくなりつつある

  ○地域を巡る問題

  ①合併によってふるさとが広くなった

  ②学校が地域の中心にならなくなりつつある

  ③過疎化・高齢化・少子化・産業不振が続いている

  ④親の価値観が多様化した

  ⑤地域のコミュニティが崩れ始めている

  ⑥情報化が速い速度で進んでいる

  ⑦人々の暮らしが豊かになった

  ⑧学習意欲が少なくなった

  ⑨地域の歴史文化の担い手が少なくなった

  ⑩人間力・教育力・地域力が少なくなった

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(講演する私)

 この30項目の分析説明だけでも優に2時間は欲しいテーマです。加えて2,ふるさと教育の必要性や、3,学校を核とした地域づくり、4,学校を核とした地域づくりの具体的事例(①学童クラブの事例、②子ども教室の事例、③21世紀えひめニューフロンティアグループ活動の事例、④翠小学校周辺のグリーンツーリズム活動事例、⑤人間牧場の活動事例)の説明に結局時間が足らなくなってしまいました。

  「どんなこと 話そう思い 思いつつ あっという間に 二時間終る」

  「学校を 巡る問題 多過ぎる がんじがらめな 子育て環境」

  「慣れぬこと するもんじゃない レジメ沿い 話するのは どうも苦手だ」

  「人様の 前で話すは 難しい いつまで経っても まだまだ未熟」


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○吉田町学校支援理解促進研修会

 1月14日と15日の両日、島根県雲南市吉田町で開かれた学校支援の在り方を考える研修会に招かれ出かけました。一日目は田井公民館で19時からの夜の集会でした。この公民館は思い出の深い公民館で、10年前講演に招かれ講演中に瀬戸内海側で芸予地震が起き、講演を一時中断したのです。その後テレビのニュースで地震のことを知り、現職の課長でもあったので役場に連絡を取ろうと試みましたが、残念ながら役場にも家にも電話が通じず、急いで帰宅の途に着いたのでした。

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 参加した人の顔をいちいちは覚えていませんが、10年の時の流れはこの山村にも過疎化、高齢化、少子化という厳しい波が押し寄せ、私がこの日事前に訪ねた吉田小学校民谷分校は来年一年で長い歴史に幕を閉じ、廃校になるのだと聞きました。児童の数5人の雪に埋もれた小さな学校は、弱小学校ながら壁のいたるところにこの一年間地域とともに歩んできた足跡が張り出され、どんな立派な大規模校にも負けず、とても輝いて見えました。これも地域ぐるみの学校支援あればこその成果なのです。

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(5人の子どもの健康観察表)
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(壁に張り出されている児童数の推移)
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(分校の一年間)

 その夜は近くの奥出雲湯村温泉にある古民家再生旅館に泊めていただきました。窓から見える川沿いの集落の風景も、部屋の優しい灯りも、また大衆浴場のような源泉かけ流しの湯殿も冬の山陰路の隠れ家的風情があり、満足のいくものでした。

 夜時折「ドサッ」という大きな物音がして、一瞬「何事か」と目が覚めました。どうやら30センチを超える屋根に積もった雪が、折から降り出したみぞれ交じりの雨で落ちたようでした。それからは目がさえて結局眠れないため、旅のお供に持参した一冊の本を読みながら夜明けを待ちました。

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(宿舎オーペルジュ雲南の窓越しに見える雪の風景)
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(講演会場吉田健康福祉センターの窓越しに見えた桜の木は雪の花でした)

 二日目は吉田の中心部に会場を移し午前9時からの開会でした。会場に着くと15年前に島根県美保関で出会った横木さんに出会いました。また知り合いの川上社教主事さんとも嬉しい出会いとなりました。この日は私の都合と折からの寒波の影響で雪が降り積もると道がふさがれることが危惧されるため、わがままを言って10分間ばかり早く切り上げさせてもらいました。

 昨日午後通った峠道には既に20センチもの新雪が積もっていましたが、どうにか国道へ出て予定通り松島さんの車で辿り着き、私の車に乗り替わってしまなみ海道を渡って四国へと帰りました。


  「携帯で 『着いたぞ雪だ』 報告す 妻はいいねと 雪に憧れ」

  「夜突如 ドサッと音で 目が覚める 屋根から落ちた 雪かも知れぬ」

  「再来年 この学校も 廃校と 聞いて無念の 心が痛む」

  「十年は 長いようでも 短くて 世の中変わり 私も変わる」


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○薪ストーブを囲んで大学生との研修

 えひめ地域政策研究センターへ一昨年まで3年間出向していた松本さんが、双海地域事務所に帰って来たため、わが町へやって来る人がかなり多くなってきました。3年間に培った県内外の人脈ネットワークと、自らのスキルアップによって人との出会いの重要性が増したからであり、そのおこぼれを頂戴する私にとっても嬉しいことだと喜んでいます。中でも研修にやって来たり、双海町をテーマに卒論を書くためやって来る学生たちとの出会いは、私が大学の非常勤講師や客員教授を務めていることもあって、願ってもないチャンスなのです。

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 3日前農学部三回生で隣町中山町出身の武智さんが研修のため、受け入れ主である松本さんに連れられて人間牧場へやって来ました。瀬戸内とはいいながら真冬の寒風がもろに吹き付ける人間牧場・水平線の家へは、私も今年に入ってまだ一度も訪れてなく気になっいたので、これ幸いとばかりに事務所で待ち合わせして一緒の車で出かけました。

 急いで薪ストーブに火を入れ、赤々と燃えるストーブを囲みながら3人で色々な雑談をしました。大学生たちにとってはこの不況の中で就職先を見つけることは容易なことではありません。自分の夢と現実の落差を感じながらも、また実家が専業農家でゆくゆくは農業の後を継がなければならない宿命も吐露しながら、1時間半も話し込みました。

 武智さんの希望では、観光サービス産業のような所へ一度就職して、働きながら将来のことを外から眺めてみたいと思っているようです。農学部を出たからいきなり農業ができるほど農業はやわい仕事ではありません。ましてや将来どうなるかということも、農業を取り巻く環境が厳しいだけに不安です。

 武智さんは昨年私が4日間にわたって大学で、地域活性化論Ⅰと地域活性化論Ⅱの集中講義の際に受講した学生でもあるので、他人事とは思えぬ気持でした。ゆえにこれからの研究の一助にと私は「昇る夕日でまちづくり」と「夕日徒然草地の書・火の書・水の書」という4冊の自著本をプレゼントしてやりました。本来本は買うもので貰うものではないと思い、殆どの人には差し上げないのですが、大袈裟ながら将来への投資として差し上げました。

 年末から年始にかけて人の気配を感じなかった人間牧場には、水平線の家の外壁に穴をあける悪者のキツツキが住みつき、海に面した外壁を一生懸命くちばしで叩いて穴を開けていました。追い払っても再び悪びれる様子もなく相変わらずの悪態です。

 今年は冬の寒さが一段と厳しい故、また新春早々顔面にダイガラ餅つき機の杵が落下して小怪我したため大事をとって、例年だと新春早々行う予定の落ち葉を集めて苗床を作る作業も大幅に遅れています。遅くても来週にはやらないと発酵が間に合わないので、傷の具合も自然治癒力のお陰で随分良くなったようなので、心機一転心を入れ替えて頑張りたいと思っています。


  「牧場の 薪ストーブに 火を入れて たった三人 色々話す」

  「三冊の 自著本渡し 促しぬ 今しかできぬ 学び数々」

  「キツツキが 新たな穴を コツコツと 追い払えども 向こうの都合」

  「薄々と 夢と現実 段差見ゆ 厳しいだろうが がんばれ支援」

 

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○学校支援の学習会

 二日間にわたって島根県を強行軍で往復したため、今日は少し時差ボケしたような感じです。また、島根県からの帰路、足を延ばして宇和島まで行き、人に会ったり、夜は農協の賀詞交歓会で記念講演を頼まれ、忙しくも気を使ったゆえに、今晩の書き込みやこの続きは明日にゆだね、今晩はこれからお風呂に入ってゆっくり休みたいと思います。

 お休みなさい。

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(眞さんのつぶやきで紹介された雪に埋もれた雲南市吉田町)

 旅の疲れで昨夜は久しぶりにぐっすり寝込みましたが、昨晩から今朝にかけて外は大荒れの天気です。センター試験が行われるこのごろは毎年なぜか天気が悪くなるのです。昨日あたりから超一級の寒気団が日本列島を覆い、まるで冷蔵庫に入ったような寒さです。

 西国四国なので滅多に雪も積もらず、溜めた水が凍ることなども殆どないのですが、今朝は家の玄関先に置いているメダカを泳がせている壺の水に薄い氷の膜ができていました。朝七時に寒風を突いてけたたましいサイレンが鳴りました。どうやら今日は下灘の運動公園で市消防団の出初式があるようで、各分団の消防自動車が赤いランプを点灯させて走っていました。

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