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○偶然見つかった無人島キャンプの写真

 昨日の夜、自宅をリフォームするため部屋の掃除をしていると、写真が数枚出てきました。無人島へ子どもたちを連れて行っていた当時はまだデジカメがない頃だったのですが、仲間の誰かが一眼レフのカメラで撮影し、近所の写真屋で現像焼付けをしたもの思われます。写真はいずれもワイドで撮影されていました。

 早速その中から見覚えのある社子音を数枚選んでスキャナーでパソコンに取り込みデジタル化しました。

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(ひょうたん型由利島共和国と銘打ったキャンプ村は、雄由利と雌由利を結ぶ石ころの浜辺に造られ、毎年3泊4日の日程で無人島に挑む少年のつどいとして、50人前後の子どもやスタッフを合わせると100人ほどで楽しく行いました)

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(パスポートに入国許可のスタンプが押されると子どもたちはまず家づくりです。テントを持って行かないことは塾の方針で、流木やブルーシートでまるで難民キャンプのような住まいが出来るのです)

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(風雨やまさかの時に100人の参加者が一時避難できる本部兼避難小屋は製作に毎年一苦労でした。小屋では3泊4日食事作り用の、古代の火おこし道具で燃やした焚き火の火が消えることなく焚かれていました)

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(島から見える西瀬戸の夕景は絶景で、間もなく始まる無人島の火祭りの準備をしているところです。会場に井桁に組んだファイヤーへの点火は感動ものでした)


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(丸木舟や筏による無人島探検はミステリーに富んでいました。この写真は子どもたちが作った筏を漁船で家移行してスリルを味わっているところです)

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(砂浜での海水浴や食用としてタコや貝を採ることも楽しい思い出です。また夜になると満天の星空の下で、島の井戸から汲み上げ運んだ水をドラム缶風呂で沸かし入浴もしました)

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(普通無人島へは難民船のような渡海船に乗って高浜から出発するのですが、この写真は一度だけ双海町灘町海岸から無人島に渡った時の写真のようです。渡海船の航路変更が保安庁に問題視されたりした苦い思い出の一枚です。私が日本一と自認する双海の夕日について説明をしているようです)


 写真は時として当時の姿を思い出させてくれます。写真に写った状況が薄れ行く記憶を蘇らせてくれるのです。しかし写真にも限界があって、文字での記録がなければ記憶も出来ないのです。何年か前、フロンティアグループが結成20周年を記念して発刊した「今やれる青春」という本に粗方の記憶を記録していますが、この写真の存在を調べるには少々時間がかかるようです。記憶のまだ確かな今こそ、もう一度丹念な記録をしたいと思っていますが、その活動領域が余りにも多いためいつのことになるやら・・・・。ため息ばかりです。

  「掃除中 出てきた一冊 写真集 記憶辿るが 曖昧模糊で」

  「無人島 思い出す度 血が騒ぐ 島は今頃 春を迎えて」

  「沖合いに 浮かぶ由利島 俺の島 言わんばかりに 足繁通う」

  「この子らは 今頃何を しているか 写真に写る 顔々浮かぶ」

 

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○ミツバチの反乱と強制収容

 春の訪れと共に外の気温が上がり始めると、小動物たちが一斉に活動し始めます。3年前からふとしたきっかけで、素人ながら見よう見真似で始めた養蜂も、西予市野村町山奥組の井上登さんという養蜂師匠のご指導を受けて、石の上にも三年目の春を迎えています。蜂にいささかなりとも心を寄せる私にとってこの時期は、一年中で一番ワクワク・ドキドキする季節でもあるのです。

 4月8日に巣箱の点検を行い、井上さんの指導で巣箱に蜜蝋を塗り、巣箱を予定の場所に置いたりミツバチ談義に花を咲かせたりして、ミツバチが盛んに活動する時期を待つのです。斥候とでもいうのでしょうか2~3匹のミツバチが巣箱の入り口で様子を伺い始めると、ワクワクとした期待感は一気に高まるのです。しかし季節の変わり目は雨も降り風が吹き、何よりも気温が乱高下して、せっかく活動を始めたミツバチたちを翻弄させるのです。

 それでも寒い冬を越したミツバチたちが種蜂となって、このところの温かさでブンブン羽音を立てて飛ぶようになり、一昨日は嬉しいことに家の裏山に設置している巣箱に分蜂入居してくれました。

 ミツバチの世界では巣内の個体が過剰になると、女王蜂の出す抑制物質が行き届かなくなり、王台(女王蜂を育てるために働き蜂が作る小さな部屋)が形成され新しい女王蜂が誕生するのです。その前後に前からの女王は巣内の約半数の働き蜂と共に巣を出るのです。これが分蜂(分封ともいう)です。巣を離れたハチは近くの木の枝などに女王を中心とした集団、蜂球を作りますが、好適な営巣場所を探しに出た斥候の蜂が蜂球に戻って、見つけた場所の距離と方向を指示するダンスをするのだそうです。やがて蜂たちは移動を開始するのです。

 巣に残った新しい女王蜂は雄とともに結婚飛行を行い交尾後巣に戻るのだそうです。時にはさらに新しい女王が同じ時期に生まれることもあり、この場合は第二の分蜂が未婚のこの女王と働き蜂によって起こるのです。

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(わが家の軒先に出来た蜂球)

 昨日の3時半頃でしょうか、たまたま自宅にいて家の軒先で何やらブンブンと羽音がするのです。見上げてみるとミツバチが分蜂して蜂球を形成しているのです。前日に引き続きの分蜂なので早速長い梯子脚立を倉庫から持ち出し蜂球の近くにかけました。そして防虫ネットやゴム手袋、ゴム長靴という完全防備の出で立ちで、米の紙袋を持って蜂球の近くへ行き、手で掬い取るように米袋の中へ蜂球を落とし込み、い陸地を急いで蓋をして、裏山に置いている巣箱の中へ追い込みました。蜂球の強制収容は今度が4度目ですが、今回は冷静に馴れた手つきで行うことが出来ました。

 蜂たちは防虫ネット目がけて盛んに攻撃を仕掛けてきましたが、これも想定内のことなので、刺されることもなく一連の作業を終えました。

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(蜂球を米袋に入れて移動した後の巣箱の入り口の様子)

 ヤッホー、ブラボーです。昨日と一昨日の二日間で裏山の巣箱は全て入居が完了しました。ご本家の人間牧場は標高130mなので多少気温が低いため、4個置いた巣箱は越冬した巣箱を除いてまだ入居していません。斥候蜂がうろちょろしているので時間の問題だと思いますが、人間牧場の倉庫に閉まっていたハチミツ収穫用の馬路村産巣箱を急遽トラックに積んで自宅へ持って帰り、分蜂著しいわが家の裏山へ設置しました。

 この場所は毎日私の書斎の大きな窓から、椅子に座って机の前に見える光景なので、朝夕居ながらにして観察が出来るようになったのですが、早く入居して欲しいと願っています。

 昨日私のブログを見た馬路村の木下さんから携帯メールが届きました。早速電話をしてキンリョウヘンの花談義やミツバチ談義で音信を温めました。馬路村ではまだ分蜂は先のようでした。

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(書斎から見える場所に裏山第4号の巣箱を設置しました)

  「蜂球の 中に片手を 突っ込んで 米袋の中 ドサリ落としぬ」

  「ミツバチの 反乱軍たち 見定めて 一袋打尽 強制収容」

  「頭から すっぽり被った ネットにて 蜂の攻撃 刺されずすんだ」

  「居ながらに 書斎窓から 観察が 出来るようにと 巣箱を設置」  

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○元下灘中学校植樹桜その後

 昨年の12月19日にみんなで集まり、私が代表を務める21世紀えひめニューフロンティアグループの、千本桜の森づくり事業に呼応して元下灘中学校の校庭に桜の苗木を植えました。落葉樹は秋か春植えと言われているものの、日程の都合で植栽が初冬になったため果たして根付くかどうか心配していました。

 植栽した元下灘中学校の校庭は日ごろ門扉が閉まっているため中へ入れないため、その後の様子を確認していませんでした。

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 5日前の18日、西予市役所の三好さんや稲垣さんと地域づくりグランプリの打ち合わせを、人間牧場でした折、人間牧場に不案内な前田さんを取れて市役所の松本さんがやって来ました。松本さんは一足早く人間牧場を下りましたが、私が来客の後片付けをしていると松本さんから、「帰りの下灘中学校の門扉が開いていたので中を覗いて見ました。桜が元気に育っていて花もちらほら見えます。時間があれば帰りに立ち寄って見てください」と携帯電話が入りました。

 後の予定もなかったので早速立ち寄りました。門扉が開いていて誰か体育館を使用しているようでしたので、だまって運動場へ入りました。運動場に植えた桜を一本一本確認しましたが、石垣の上に植えているものは確認しなかったものの全て順調に芽吹いていて、中には花が咲いているものまであり、4~5輪ながら可愛らしい桜の花を一人花見することができました。


 松本さんの話だと、一緒に植えた海岸沿いの桜に比べ、下灘中学校に植えた桜は格段に経過は順調なようです。多分今年の春の異動で愛大付属小学校へ転出した辻井校長先生のご配慮でいただいた腐葉土を掘った穴の中に埋め込んで植えたのが良かったような気がするのです。植物は水・土・太陽に加え肥料分や愛情などによってその後の生育は大きく変わります。

 下灘中学校に植栽した桜には、新聞で紹介されたこともあって卒業生たちは手も口も出さないものの、その後の行方を大いに注目しているようです。これから10年後の花見のイベントをするためにも、しっかりと育ててやりたいと思っています。

 この中学校の卒業生である畑中先生が双海中学校の校長先生として帰られたこともあって、中学生の力を借りて除草作業などもやりたいものです。

 それにしても松本さんの、桜を思う気持ちに感心しました。私も時々覗いて見ようと思っています。


  「植えたけど 果たして今は 思いつつ 嬉しい友の 誘いに乗って」

  「去年植え 今年花見が できるとは 四・五論なれど 一人楽しむ」

  「根に入れた 腐葉土力 かも知れぬ 手間隙かけりゃ 植物育つ」

  「これまでは 植えっぱなしの 桜にて カズラ雑草 手入れしなけりゃ」

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○ミツバチの分蜂と嬉しい入居

 昨日の午後3時半頃でした。家のリフォームのため大工仕事をしている大工さん二人と私が、お茶やジュースを飲みながら休憩談笑をしていました。すると何やらブーンという音がし始めました。その音は次第に大きくなり、「何事だろう」と音のする天を仰ぐと、ミツバチの集団がまるで蜂の巣を突いたような勢いで、飛び交っているのです。ミツバチを飼うようになって3年目の春を迎えましたが、この光景はミツバチの分蜂騒動だと直感しました。折から屋外は小雨がぱらつき、やまぜと呼ぶ少し強めの南風が吹いて気温が上昇したため、蜂の活動が活発になってきたため、分蜂を期待していた矢先の出来事なのでついつい嬉しくなりました。

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(3号巣箱の入り口に群がるミツバチたち)

 分蜂の様子はは去年も一昨年も人間牧場で経験しているし、柿の木に分蜂したミツバチの群れを手袋をして米袋の中に落とし込んで巣箱の中へ入れた経験も2~3度あるので、ミツバチの群れの行方をしっかりと見学していました。もしこの群れが近くの柿の木や壁に群がるようであれば、同じように防虫頭巾を被って捕らえようと、いわゆる七つ道具のありかを記憶の中で確かめました。

 ミツバチの群れはちじに乱れた私の心そのまま左に右に動いていましたが、やがて今年の4月8日に来牧したミツバチの師匠井上登さんが蜜蝋を塗ってくれて設置していた、二つの巣箱の一つの穴に入り始めました。群れの全てが巣箱の中へ落ち着くのには、約20分くらいかかったでしょうか、今年初めてのミツバチの嬉しい入居となりました。

 井上登さんからいただいているキンリョウヘンというミツバチを誘引する花を置くこともなく、また群れを袋で捕まえる雑作もなくミツバチの群れが入居したのですからこの上ない喜びです。私が知ったかぶりで一緒に見ていた大工さんにミツバチの話を熱心にするものですから、大工さん二人は感心して私の話に聞き入り、お陰ですっかり大工仕事の手を休ませてしまいました。

 夕方から風雨が少し強くなり巣箱の近くへ行って観察することはできませんでしたが、多分入居したミツバチたちは巣箱の中で新しい営巣作業を女王蜂と共に始めていることでしょう。入居したばかりのミツバチを驚かせないように注意深く朝な夕な見守りたいと思っていますが、人間牧場のようにたまにしか観察できない場所ではなく、私の書斎の窓からも遠目で観察できるため、毎日が楽しみです。

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(左隅が1号巣箱で昨年5月2日に入居し種蜂が越冬しています)

(真ん中の2号巣箱は未だ音沙汰なしです)

(右隅の三号巣箱は昨日入居が確認されました)

 裏山には昨年の4月30日1号、5月1日に2号をそれぞれ設置しました。1号には5月2日に分封入居が確認されたとブログに書いているようです。あれから1年が経過しました。1号巣箱はハチミツを採ることもなく越冬させ種蜂として保存に努めてきました。その結果越冬したミツバチは今も元気に活動しているようで、今年は巣虫にやられないため少し早めに採蜜したいと思っています。

 昨日分蜂した群れは1号巣箱からの分家かどうかは定かではありません。願わくば井上さんからいただいたキンリョウヘンの力を借りて2号巣箱への入居もとハチミツならぬ甘い考えを持っていますが、そんなに上手く行くかどうか・・・・。今朝は春の雨がかなり激しく降っています。分封した巣箱の様子は確認できませんが、昨年は大型連休辺りに分蜂入居が相次いでいたようです。小まめに観察したいと思っています。


  「戦闘機 まがいの蜂の 大群が 空を覆いて 分蜂騒動」

  「女王蜂 家来を連れて 入場す 今頃せっせ 営巣作業」

  「大安と 思いき暦 見たけれど 仏滅入居 蜂にゃ分からぬ」

  「この時期に 分蜂幸先 いい予感 去年ハチミツ パン塗り食べる」

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○ゴミ出し女性とカラス

 伊予市と合併するまでは、私たちの地区では月・水・金と少雨に3階ゴミを出す日がありました。ゆえに生ゴミなどは腐敗や悪臭もなく大いに助かっていました。ところが合併してから生ゴミの収集は月・金の週2日となり、水曜日はプラスチックゴミのひとなりました。合併時に取り交わした公共料金は安い方に、行政サービスは高い方に合わせるという約束はむしろ「公共料金は高い方に、行政サービスは低い方に」合わせられ、不満を持っている人が多いようです。しかし公共料金も行政サービスも小さかった行政ゆえになし得ていたたことなので、私としては当然の成り行きとして納得し、ゴミ袋の有料化などむしろ受益者負担をすることは当然のことと思っているのです。

 今朝は家のリフォームのため少し多めのゴミを一輪車に積んで、約100m離れたごみ収集場所まで2往復しました。最初に収集場所に出かけたのが7時でしたのでそれ程ごみは出ていませんでしたが、それでもカラスが~3羽集まって生ゴミを漁っていました。追い払いましたがカラスもさるもので、私がいなくなると近くの屋根から再び急降下してゴミに群がっていました。10分後にもう一度収集場所に行ってみるとそこら辺りに食い散らかした生ゴミが散乱し目を覆うばかりでした。持って行った箒とちりとりで掃除をしましたが、カラスは相変わらず私の去るのを見ているようでした。

 そうこうしているうち見覚えのない一人の女性が車を止めて無造作に生ゴミを置こうとするのです。私は注意する資格もないのかも知れませんが、「ここは地元のゴミ置き場です。他所からゴミを持ってきては行けないルールになっていますので」と注意しました。その女性はせっかく降ろしたしずくの垂れている生ゴミを、不満をあらわにして車に積み込み立ち去ったかに見えました。

 やがて私が立ち去るとその女性は再びやって来てゴミを何食わぬ顔で降ろして立ち去りました。ごみ収集場所の近くには何人かの人を雇用している工場があるので、仕事に来るついでにゴミを持って来るのです。時には収集日を間違えてゴミを置き去りにし、一週間も生ゴミを置かれたこともあるし、プラスチックゴミも収集方法が違ったために放置され、風に乗って近くの畑に散乱し美観を損ねたことも何度かありました。

 ゴミ出しのマナーを守らない女性と生ゴミを食い散らかすカラスはひょっとしたら同等のマナーしか持っていないのではないかと少し腹立たしさを覚えました。カラスには注意をしても分からないので追い払う程度です。ゴミを持ち込む女性は注意をしても当てつけのようにゴミを置き去りにします。カラスはこんなマナーの悪い人間様を真似ているのかも知れませんね。


  「ゴミ出し場 ここに出しては なりませぬ 注意したけど 元の木阿弥」

  「追い散らし カラス退散 ちょっとだけ 再び同じ 場所にて給餌」

  「人間も カラスと同じ 知能しか ないのか寂し 今時モラル」

  「このゴミの 殆ど金で 買ったもの 無駄が多いと あらため気付く」

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○5Sは難しい

 私のように26歳で第一次産業から転職して、35年間地方公務員をやり、リタイアして6年が経った人間にとって、転職と退職は自分の生き方が180度も違う転機になったはずでした。最初の転職は体調を崩して漁船の船長からの転職でしたから、羅針盤や海図が六法全書になり、漁具が文書になったり随分戸惑いました。船は板子一枚下地獄といわれる狭い空間だし、危険が常に隣り合わせだったため、いつも親父から5Sするよう躾けられていました。転職した役場は漁船以上に広い空間なのですが、自分に与えられたのは机と椅子、それに前任者から引き継いだ書類がぎっしり詰まったロッカーだけでした。その世界も社会教育13年、産業課4年、企画調整室9年、地域振興課10年、教育長2年と4回の異動で終えました。

 私にとって最大の異変は6年前に合併を機に退職でした。思うところがあって再就職はしなかったため、35年間の公務員生活で幕切れのはずでしたが、あれから6年も経つというのに公務員もどきの生活から抜け出すことが出来ず、未だに講演活動やボランティア活動、まちづくり活動を行い退職前の延長線上にいるのです。ゆえに5Sが中々出来ないのです。

 5Sとは掃除・整理・整頓・清潔・習慣の頭文字がSなのでそれらの総称です。その意味は次のとおりです。

 ○清掃ー掃いたり拭いたりしてゴミや埃、汚れなどを取り去ること。

 ○整理ー乱れた状態を整えてきちんとすること。

 ○整頓ーきちんと片付けること。

 ○清潔ー汚れがなく衛生的であること。

 ○習慣ー繰り返し行ううちに、そうすることが決まりのように身につくこと。

 この5つのことはいずれもよく似た言葉で、子どものころから両親や学校の先生、職場の上司から大切な教えとして諭されてきました。また「上手な整理整頓の勧め」という現代流の書物を読むと納得してそのことを実行しようと決意をするのですが、長年持続するとなると中々習慣化するのは難しいというのが実感のようです。

 この度息子家族と同居するため、自宅をリフォームし荷物の移動を毎日のようにやっていますが、毎日疲れるほどにやればやるほど、まるで荷物の山の中で暮らしていたような錯覚すらして、寝る前には妻と二人ため息を漏らしているのです。それでも朝起きると少しずつ片付いて行く部屋を眺めながら、5Sの必要性を痛感し習慣化しようと心新たにしています。

 5Sの極意は捨てることです。1年以上使わなかったものは捨てた方がいいそうです。例えば書棚の中に眠る広辞苑などの辞書類は退職後始めたインターネットの普及によって、完全にめくることもなくなったし、関係する書類も殆ど必要でなくなりました。しかし暮らしの小道具となると中々捨てることが出来ず、結局は倉庫の中で眠ったまま埃を被らせてしまうのです。

 私の老い先もカウントダウンが始まりました。でも私が息子たちに物心両面で残し伝えるものもいっぱいあって、これから先も5Sへの心の葛藤は続くことでしょう。


  「この度の 息子家族と 同居する 家の騒動 ほとほと疲れ」

  「捨てきれず 結局右から 左へと 移動しただけ ほんの整頓」

  「田舎ゆえ 広いがゆえに 捨てきれず 整理整頓 出来ず一生」

  「掃除する 度に5Sを 思うだけ ましかも知れぬ 今日も掃除す」 

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○わが家にも春の足音

 東日本大震災の影響で、建築材料の調達が難しくなり遅れていた家の造作が始まりました。今回の家のリフォームは畳を全部屋替える、トイレを洋風にする、脱衣場を改造する、2階の子ども部屋のクロスを張り替える、二階の和室のフスマと障子を張り替える、私たち夫婦と息子たち家族が別々に料理が出来るようダイニングをシステムキッチンにするなどなど、まあわが家では平成の大リフォームとでも言うべき工事なのです。


 建築士をしている息子は仕事の合間を見つけて図面を引いたり資材を調達したりしていますが、金を出すのは親ということもあって、大蔵大臣たる妻とは見積もり費用にかなりの開きがあるため、再三再四衝突しているようです。息子嫁は下の孫奏心を実家に預け、上の孫希心を保育園に連れてきたついでに、保育園に迎えに行く午後4時まで、大掃除をしてくれているのです。私もこの2~3日は朝から晩までその手伝いに追われ、一日に1万歩を越す程の作業をこなしているのです。

 結婚以来40年が経ち、家も知久5年近くが過ぎると道具類も山ほどあって、埃も相当溜まっているし、加えてあちこと傷んでいる場所もあって、今度の機会に直そうとするものですからついつい大掛かりになってしまうのです。余分なものをゴミに出したり、畑の隅で焼却処分をするのですがこれが半端な量ではなく、手伝う親父も毎日目を白黒しながら勿体ないを連発しているようです。それでも綺麗になることや手直しが出来ることはいいことで、惰性に流れて暮らしていることを見直すいいチャンスだと、楽しいぶつかり合いをしているのです。

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 昨日から本格的に大工さんや電気工事屋さん、設備工事屋さんが入り、工事がスピードアップされ始めました。壊せれるものへの愛着や、出来上がるものへの期待など悲喜こもごもですが、4月29日に息子家族の引越し予定も決まり、いよいよ賑やかで新しい暮らしが始まります。これまでどちらかというと孤独だった親父も曾孫との同居を楽しみにして、すっかり浮き足立っているようです。わが家に本当の春がやって来るようです。


  「平成の 一大リフォーム 始まって あれやこれやと 気揉めの日々が」

  「楽しみと 不安交錯 しながらも いよいよ息子 家族を連れて」

  「焼く捨てる 要らない物が 多過ぎる この際整理 シンプルベスト」

  「息子嫁 不安多くて 大変だ 妻も同じに ストレス抱え」

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○苗物と種物の植え付け作業を終えました

 私たちの住んでいる地方では、「氏神様の春祭りが終ると苗物を植えても大丈夫」という言い伝えがあります。氏神様は自宅から約800メートルの所にある天一稲荷神社ですが、その春の祭礼が明後日の4月23日に迫ってきました。家庭菜園を楽しむ私としては春の口開けですからその日が待ちきれなくて、先週の日曜日に妻と二人で妻の実家のお墓参りに出た帰り道、大洲インターチェンジ近くのオズグリーンというホームセンターに立ち寄り、ついでに苗物を買って帰りました。ホームセンターには沢山の苗物が所狭しと並べられ、野菜産地ということもあって、大勢の買い物客でごった返していました。

 妻と相談しながら私が買い求めたのはピーマン10本、オクラ5本、トマト10本、キューリ3本、カボチャ4本の苗物、そしてキューリ、ツルなしインゲン豆、枝豆、ニンジン、トーモロコシ、青シソなどの種物でしたが、持ち帰った時間が遅かったため、明くる日にしようと植え付け作業を跡延ばしにしてしまいました。ところが明くる日は久しぶりの降雨、明くる日からは肌寒い北西の季節風が吹き荒れ、植える時機を逸してしまいました。仕方がないので倉庫の土間に一時避難させて植え付けを待ちました。一昨日の夕方苗も脳裏の行商軽四トラックが苗物を売りに来たので、松山長ナスの苗を10本買い求め、昨日はそれらの全てを植えつけました。

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(ビニール袋で囲った松山長ナス)

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(植え付け後雌雄を立てたピーマンとトマト)

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(ツルなしインゲンと枝豆)

 前もって耕運機で中耕していた畑は専一の雨を吸って黒々としていました。目が薄く腰の曲がりかけた92歳の親父も畝立ての手伝いをしてくれました。松山長ナスは植え付けが終ると肥料袋を切って作った風囲いを竹を4本使ってやりました。長ナスは風に弱いので根が活着して伸び始めるまではこうして保護をするのです。ナスに続いて植えたピーマンとトマトには裏山から切り出した竹の支柱を立てて風で倒れないようビニール紐で縛りました。、それに釣るなしインゲンと枝豆の種を蒔きました。種は鳥の食害から守るためにビニールで出来た脅しを張り巡らせました。一緒に買っていたグリーンアスパラの根を分割して植え、堆肥とお水をやってやっと植え付けと播種作業を終えました。


 今年の春は桜が遅くまで咲くような天候不順で寒い日が多く、昨日も一昨日も張るには珍しい強風波浪注意報が発令されるほどの大風が吹き荒れ、気温も朝晩春冷えがするほどで、このまま順調に育つか心配です。これだけの量の野菜は私と妻、それに親父だけでは食べきれませんが、近所や親類にお裾分けするのもまた楽しみの一つなのです。加えて間もなく長男家族4人が暮らしの仲間入りをしますので、シシトウやトウモロコシなどを加えしっかりと育ててやりたいと思っています。


  「春祭り 来たら植えよと 言い伝え 遅霜来るを 心配してか」

  「リタイアを してから五年 経ちました 今では菜園 立派にできて」

  「親譲り なのか知れない 同じよう 綺麗に作る 術を覚えて」

  「野良仕事 直射日光 顔黒く なりてすっかり 逞しなりぬ」 

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○懐かしいふるさとの道

 人間牧場への帰り道、今は市道になっているのでしょうか、下灘下浜の旧道を通りました。この道は昔の県道で、県道が国道に昇格して海岸に国道バイパスが通るまでは、バスも通った懐かしい道なのです。旧道沿いにあった下浜公民館は既に移転して取り壊され、旧道を通る人も殆どいない寂しい道となっています。

 私の結婚相手に今の妻が決まり、わが家へ始めて挨拶がてら遊びに来た折、県道から入る玄関が2階で、台所や居間はまるで地下室へ入るような錯覚をしたと述懐するほど珍しい造りになっていました。

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(私が生まれ育った生家の辺り)

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(同級生磯田コズエさん宅辺り)
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橋本酒屋さん宅から農協辺り)
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(共同酒販さん辺り)

 旧道は人家と県道の上を走る予讃線の鉄道に挟まれているため狭隘で、所々に少し広い待避所のような場所があるにはあるのですが、トラックのような大きい車が対面すると、どちらかが譲り合ってバックしないと、接ぎからつげへ車が突っかけ、幾ら交通量が少ないからといっても、暫くすると抜き差しならない長蛇の列が出来るのです。下がる下がらないでお互いの運転手同士が喧嘩になり、駐在さんの出番まであるほど長閑な時代でした。ゆえに民家の屋根は時々トラックの荷台に引っ掛けられ、時には当て逃げされ、これも駐在さんの仕事になっていたのです。

 旧道の中ほどに田舎には珍しい鉄筋コンクリートの建物があります。旧下灘農協です。かつては下灘唯一の金融機関で、若い女性が沢山勤めていたので、青年たちは用もないのに農協と役場へ頻繁に顔を出していたようです。私はこの農協の2階で結婚披露宴をしました。結婚式は我が家の座敷でしたが、披露宴は農協の大ホールにゴザを敷き、その上に座布団を敷いて座りました。当時の結婚披露宴は料理は勿論自分の家に親類縁者や近所の人が集まって三日三晩をかけて作りました。いつ終るとも分からない披露宴の酒宴にみんな酔いしれていました。

 河村理髪店と金辰旅館、それに丸岡食堂のある鉄橋下がメインストリートでしたが、今はその面影もなく、車は全て海岸国道をスピードを上げて走るのです。子どもの目の高さでは広いと思っていたこの道も、居間通ってみると、「よくもまあこんな狭い道をバスが走っていたなあ」と感心するばかりです。

 それでもこの道は水仙の花が咲く頃になると、水仙畑を目指して多くの人が歩いてくれるのです。久保田という新潟のお酒の販売代理店をしている共同酒販さんのご主人も亡くなり少し寂しくなりました。この道界隈には同級生も沢山いましたが、殆どの人はここを離れ都会で暮らしているのです。それでもふるさとの道はどこか懐かしさを感じるのです。


  「この道も 子どもの目には 広い道 何度通った ことであろうか」 

  「軒先の 瓦ひっかけ 知らぬふり 完全犯罪 何度かあった」

  「下がらぬと 意地を通して 喧嘩する 最後駐在 大岡裁き」

  「同級生 指折り数え 顔浮かぶ 今はどうして 暮らしているか」


  

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○漆器食器を地下室へ移動

 昨日の朝6時、いつものように裏山へ散歩に出ました。空が曇り前日とは打って変わった少し肌寒さを感じました。折り返し点まで辿り着くと小雨がぱらつき始めました。森林の中の道なので木々の緑が笠の役目をしてくれて、雨が体には当たらなかったのですが、雨の様子が少し可笑しく感じました。やがて森林を抜ける頃になるとその雨が霙交じりであることに気がつきました。「えっ子の時期に霙?」と思いましたが、その雨はいっそう激しくなって、小走りに走って我が家へ急いだものの、すっかり濡れ鼠のような姿になってしまいました。着替えるため昨晩の残り湯に少しお湯を足して朝風呂を楽しみましたが、多分寒冷前線が通過したのではないかと思いました。

 その後雨は直ぐに止みましたが、風波が増し強風波浪注意報が発令され、春のこの次期としては珍しい北西の季節風が一日中吹き荒れる寒い一日となりました。昨日は前日に続いて家倉庫と物置倉庫の大掃除をしました。家の外に設えた2つの倉庫から収納しているものを全て取り出しましたが、まあ凄い量です。私の家は代々漁家なので、貧乏ながら少しはぶりの良い時代も合ったのか、ここら辺では名器といわれる漆塗りの桜井漆器が、沢山あるのです。お膳から始まり、お客事に使う食器は全て漆器で、幾つもの皿類がセットで50人分全て揃っているのですから、その数や相当な量なのです。加えて皿鉢料理のための双環台や大絵皿が幾つもあって、何年ぶりかに対面しました。

 わが家は漁師として結束深い頃は本家だったため、分家にも30人分の桜井漆器が配られて、結婚式や船下ろしなどの慶事には分家から持ち寄った漆器で150人分の料理を、料理屋に頼まず全て自宅で作っていたのです。私の結婚式も150人分の漆器食器が集められ、本家の亜たたりの結婚式とばかりに3日3晩の大宴会が繰り広げられました。その時使った鯛はおびただしい量だったし、近所の農協会館ホールに150人を集めた結婚披露宴は、参列してくれた友人の語り草になったほどでした。

 その漆器食器類を長男家族の同居が始まるため手狭になったため、親父とすお団して海の資料館海舟館の地下室へ移動することを考えました。親父は思い荷物が持てないため、私一人が腰を痛めないよう慎重に運びました。

 運よく漆器類は地下室にきっちり収まりました。これらの漆器食器を利用して料理をすることなどもうないものと思われるので、古きよき時代はこうして地下室にタイムカプセルのように終われて封印される運命となるのです。でもこうして記録にとどめておくことで息子や孫の代へのバトンタッチが出来るのです。

 多分無理かも知れないけれど、いつの日かこの食器を使って庶民の郷土料理を再現したいものです。時代は急速に進んで、昭和も遠くなりました。わが家ですらこんなに暮らしが変わるし、食文化も伝承できないのですから、圧して計るべしです。

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