人間牧場

〇今日から鳥取県へ講演旅行に出かけます

 今年はまだ、今日から明日にかけて鳥取県伯耆町・大山町、来週は大分県日田市、さ来週は高知県南国市へと、まだ4ヶ所も県外へ講演に出かけなければならない、慌しい師走を迎えています。いずれも中四国、九州という近県なので自家用車で行こうと心に決めています。しかしこの時期は冬の訪れで、峠を越える山道があって、年内は大丈夫と思ってみても雪の心配があるため、私以上に妻がそのことを心配しているようです。
 今日は朝4時に起きる普段の日課より早い3時に起床しました。これも私の想定内の行動なので、まず顔を洗って洋服に着替えたりして身支度を整え、今日は出張で書けないブログをとりあえず二本書き起こしています。ブログを書きながら昨日の夜から北西の季節風が吹き始めて、窓の外は大荒れのようです。はてさて車をやめようかどうしようか未だに迷っているところです。

 昨日の夜荷物を積み込んで車で行とく腹を決めているので、行ける所まで行こうと思っています。帰りは土曜日の夜遅くか日曜日になるものと思われますが、旅の安全を自分自身に祈っています。
 この続きは明日帰ってから報告するとして、そろそろ朝ご飯を食べて6時前には出発する予定です。妻はいつも何かを忘れる私を気遣って、「財布を持った。名刺入れを持った。携帯電話や腕時計は?」と口うるさく言うのです。というのも何年か前私はとんでもない忘れ物をしたことがあるからなのです。あの時は広島のある町へ講演に出かける途中でした。妻から携帯電話が入り、路側帯に車を止めて電話に出ると、「お父さん木のカバンを忘れている」というのです。とっさに車の中を探しましたが積んだはずの木のカバンがどこにも見当たらないのです。「しまった」と思いましたがもう後の祭りです。引き返すこともできず何の用意もしないままその町に到着し、それから2時間の講演を終えたのです。

 まあ私の講演はその程度のものなのですが、私の商売道具だと思っている木のカバンを忘れて、講演もできないと思っていた妻は、私があっけらかんとして帰った姿を見て、「あなたは馬鹿か偉いのかよう分からない?」と呆れ顔で話したものでした。あれ以来せめて商売道具の木のカバンだけは忘れまいと思っていますが、相変わらず携帯電話を忘れたり、腕時計や名刺入れを忘れることはしょっちゅうです。特にブログ用のデジカメはこれまた側近中の側近と思われる(自分で勝手に思っているだけ)小番頭の松本さんが、いつも気にかけてくれるほどあちらこちらに忘れてしまうのです。
 「忘れないと新しいことが覚えられない」なんて妻にはふざけて嘯いていますが、わたしもそろそろ認知症が始まったのではと、妻の心配は歳をとる毎に増すばかりです。
さあ心配しても始まらないので、そろそろ出かけることにしましょうか。ブログ愛読者の皆さんお元気で。二日後の土産話を楽しみにしていてください。

 

 

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人間牧場

〇指折り数えなくなった親父

 母が亡くなったのは2001年10月4日ですから、早いものでもう10年が経ちました。私の誕生日の10月3日の明くる日を選ぶように死んだのは、「馬鹿息子だが自分の誕生日の明くる日なら私の命日を覚えていて、線香の一本でも手向けてくれるだろう」と思ってのことだと勝手に思いつつ、余程のことがない限り毎日仏壇に手を合わせて、母のことを思い出しては祈っているのです。
 しかし2001年10月4日に母親の時計は止まったままなのに時には思い出し、線香の一本でも手向けるのに、今なお動き続けている父親の時計は余り気にも留めずに暮らしていることに、ふと後ろめたさを感じたりするのです。私の両親は私を含め5人の子どもを産み育てました。貧乏家庭だったし親父の兄弟は親父をかしらに12人もいて、祖父が比較的若くして亡くなったため、若いころから筆舌に尽くし難い辛酸をなめて生きてきました。親父は戦争にも行き傷痍軍人となりましたが、その後50歳でガンを患いながらもかろうじて生き延び、93歳の今日も何とか元気に暮らしているのです。

 親父は几帳面で綺麗好きな性分で、また不器用な私の親ながらとても器用で、自宅のあちこちには親父の器用さを覗わせるものが沢山あり、その際たるものは自宅横の倉庫を改造して造った海の資料館「海舟館」で、中には趣味で集めたお宝が収蔵してあり、自分が造った和船の模型等は学術的にも大変貴重な代物で、時折研究者が訪ねて来るほどなのです。さすがに年老いた最近は耳が遠くなり受け答えもできかねますが、和船の模型一つ一つに物語が込められていて、聞き取りして記録に留めて置いてやりたいと思いつつ、忙しさにかまけているのです。
 私の兄弟、つまり親父の息子や娘は幸せなことに5人のうち4人までが町内で暮らしています。ゆえに老いた父のことが心配で、時折尋ねてきてくれますし、近所に住む姉等は毎日のようにおかずなどを持参して声を掛けてくれるのですが、親父の気がかりは遠く和歌山に住む弟のことのようです。弟は松山工業高校土木科を卒業と同時に中堅企業の奥村組に入社し、トンネル工事のエキスパートとして主に関西のトンネル工事の現場を転々としていました。数年前から退職後は弟妻の実家である和歌山に転居し、奈良県大和郡山の実家を息子に譲り暮らしています。

 母が亡くなって間もないころは親父のことを気にかけて盆や正月に帰省していましたが、今はそれも遠のき、当然のことながら親族のお目出度お悔やみくらいしか帰省しなくなりました。 正月が来る度に指折り数えて弟の帰省を待ちわびていましたが今はそれもなく、正月を迎える喜びも歳を重ねる不安にかき消されているようです。
 昨日親父の隠居へ朝のご機嫌伺いに行くと、何を思ったのか弟の夢を見たので、電話をして欲しいと頼まれました。早速私の携帯で電話をすると弟は、突然の電話に「何事か?」驚いていたようでした。それもそのはず、先月には妹の義父が亡くなり、葬儀のために夫婦で帰省したばかりなのに、「今度は誰が?」とよからぬ不安が過ぎったそうです。それもそのはず、親父の兄弟、つまり弟の叔父や叔母はまだ相当数いるのですから当然だと思うのです。
 正月を間近に控え師走になったものの、指折り数えて息子の帰省を待ちわびることの楽しみもなくなった親父ですが、その分一緒に住んでいる私たち家族も親父を極力輪の中に入れて、楽しい正月を迎えさせてやりたいと思っている今日この頃です。

  「師走だと 言うに正月 指折らず 寂しく暮らす 老いた父親」

  「老いてなお 遠方息子 気になりて 近くの息子 余り気にせず」

  「今朝もまた 書斎の窓を 叩く父 今日は何日 聞きに来るなり」

  「歳をとる いずれ私も あのように 拳拳服膺 邪険にするな」

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人間牧場

〇ピザ釜の火入れ乾燥

 人間牧場の作業小屋北側法面とロケ風呂西横法面が自然ドハで、少し地盤が緩んできたようなので石垣工事をしようと思いついたのは、今年の5月17日でした。早速地元の土木業者大栄建設さんに現場まで来てもらい、おおよその見積もりを作ってもらったところ明くる日見積書が届き、50万円くらいかかるというのです。人間牧場もこの6年間、水平線の家、ロケ風呂、ツリーハウス、作業小屋、ウッドデッキ下の裏面石積み、かまど小屋と、度重なる施設整備のための出費で、妻に内緒の私の貯金通帳も底をつきかけていたものの、仕方がないと諦めて工事に着工したのです。
 その石積み工事がやっと完成したのも束の間、今度はピザ釜の整備の話が持ち上がり、それならと大栄建設さんに工事の延長として、3万円しか資金がないといわば拝み倒して無理やりピザ釜の土台工事をしてもらいました。

 

師走の空に煙をたなびかせて

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 さあそれからは、ピザ釜築炉は年輪塾小番頭の松本さんが担当し、閏住の戸田さんにお願いして製作してもらうことになり、二人は猛暑の夏に大汗をかき、薮蚊に悩まされながら築炉工事をしてくれました。築炉工事は私が想像していた以上に大掛かりなものとなり、人間牧場年輪塾でコツコツ貯めた小番頭松本さん管理の資金を吐き出しながら、戸田さんの献身的な努力もあって先月、上屋も含めてまあ見事に完成したのです。余談ですが上屋工事は息子たちが同居するため自宅のリフォーム工事に入っていた藤建設さんにこれまた無理を言って、13万円で工事をしてもらいました。
 先月開いた二宮尊徳公開セミナーの折塾生にピザ釜開きを、12月17日に開催する旨知らせていたので、折に触れ火を入れて乾燥してきましたが、一週間後に迫ったのでそろそろ本格的に火を入れようと昨日は一人で人間牧場へ出かけ、ピザ釜上屋工事で出た端材などをピザ釜で燃やしながら徐々に温度を上げて行きました。

 

乾燥のため火入れしたピザ釜

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ピザ釜は温度を上げるとあちらこちらにヒビが入るのは覚悟していましたが、今のところ多少のヒビで、火の引きも中々いいようで、この分だと何とか17日には間に合うようだし、ホッと一安心といったところです。17日には年輪塾のメンバーが集まって恒例の餅つき大会もあわせて行なう予定で、すでに小番頭は餡子を用意したり、もち米を手配したりしてくれているようです。
 昨日はピザ釜の火の番をしながら牧場内の杉の木の枝切りをしたり、コンニャク畑の草を引いたり、草刈機でそこら辺を撫でる程度に草刈り作業もして、少しばかり汗をかきました。昼ご飯を食べるのも忘れて作業をしていると、妻から「昼食はどうするの」と携帯電話が入りました。夕方は散髪に行ったり夜は史談会の例会も予定されていたので、水平線の家でお湯を沸かし買い置きしている即席カップ麺を作って簡単に終らせ、午後4時に人間牧場を後にしました。ピザ釜の準備もでき、これで安心して週末は鳥取県伯耆町と大山町へリレー講演に出かけられるようになりました。

  「来週に 迫ったピザ釜 お披露目の ために火を焚き 準備おさおさ」

  「牧場は 今年も出費 多くあり 妻に内緒の 財布空なる」

  「来る度に 何かできてる 来客が 目を見張りつつ 感心しつつ」

  「来年は 少し資金を 稼がねば 次なる夢が 実現できぬ」 

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人間牧場

〇自家発電電源を初めて活用

 何にでも興味を示す私に多少性格が似たのか、今年の5月から息子を含む4人の家族で同居を始めた長男が、自宅車庫の屋上に何やらソーラーパネルのようなものを並べ、自家発電の真似事をしているようなのです。息子に聞くといずれそのうちにはソーラーパネルをもっと増やして、自宅の多少の電源を補いたいと意気込んでいますが、わが家は裏に山が家の直ぐ近くまで迫っていて、特に冬至前後のこの時期は一日中まったく陽が当たらないため、太陽光発電なんて無理だと思っていました。息子はそんなことは構わず自分の小遣いからせっせとソーラーパネルを集めているのです。「そんな暇があるのなら、家中の電気を小まめに消すことだ」と、冷ややかな言葉を浴びせていますが、少し暑かったり寒かったりすればエアコン冷暖房をつけたり、部屋の電気も私が消して回るほど浪費しているようなので、そんな子という資格はないと思うのです。

車庫の屋上に並べられた実験中のソーラーパネル

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そんなこともあろうかと同居の時、わが家の電気代だけは息子たちの財布から賄うよう決めていました。こうすれば多少は節電意識も高まるであろうとの親の腹積もりあってのことでしたが、今のところ給料が安い割には倹約の気風はどこにも感じられないのです。 まあ電気代節約については、東日本大震災以来国民も気になっていることだし、親の取り越し苦労かボヤキだと思っているようなので、いずれは目覚めてくれるだろうと、ソーラー発電の推移や効果を横目で見ているのです。
 「一心君、バッテリーに充電した電気はどのように使う計画なの?」と2~3日前に質問しました。とりあえず車庫の電源を賄いたいそうですが、車庫の電気は暖房用と風呂用の灯油を置いていて、冬場は時々給油する時点けますがそんなに利用しないため、それくらいならとりあえず賄えると思いました。

 そんなこともあってか昨日の朝息子が、「お父さん太陽光発電の電気で携帯電話の電源を充電してあげる」といい、小さなアダプターのようなものを私の携帯電話に差し込みました。多分このアダプターに蓄電していて、携帯電話の充電中の赤いランプが消えれば充電済みとなるのです。携帯電話の充電にいかほどの電気量が要るのかは知るよしもありませんが、まあ息子の作った太陽光発電の電力なので、昨日は携帯電話で甘んじて使わせてもらいました。
 設備投資がいかほど要るのか分かりませんが、本当はわが家でも太陽光発電をしたいと思っています。クリーンな電気だし地球温暖化に貢献できるのですから、国民の義務として取り組まねばなりません。多分太陽光発電の設置は、既に実験を始めて意識の高くなっている息子の代の、初仕事になるだろうと思っています。ただし息子には只今のところそんな経済的余裕はなく、親父の財布を狙っているような気がしています。妻は同居のために家をリフォームした時の出費が尾を引いて、最近は金融引き締め政策をやっているようで少し窮屈なような気もするのです。

  「ソーラーで 作った電気 利用して 携帯充電 初めて使う」

  「わが息子 親に似たのか 馬鹿げてる ことに手を出し 小遣い使う」

  「車庫屋上 ソーラーパネル 敷き詰めて 実験するも 未だ効果なく」

  「倹約の ために電気を 俺が消す 息子や嫁が 点けて回りて」

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人間牧場

〇蜂蜜の採集

 今年の7月20日に人間牧場に設置している巣箱2つから、2升5号もの蜂蜜を採集してから4ヶ月余りが過ぎました。人間牧場の巣箱1つとわが家の裏山に3つ、師走を迎えたというのに今なおそれぞれの巣箱に、ミツバチの活発な出入りが見られるし、時々巣箱の下板の掃除をする時、デジカメを差し込んで観察すると、かなり下まで営巣が確認できるようなので、ミツバチの師匠山奥組の井上登さんに相談したところ、少し遅いかも知れないが、今年のうちに蜂蜜採集作業をすることになり、12月2日井上さんに来てもらい作業をしました。
 まず人間牧場の重箱型巣箱5段の上2段を切り取る作業をしました。これは下3段の巣を残し種蜂として越冬させる方法です。残念ながら切り取った上1段目はすっからかん、上2段目はちょっぴりでした。越冬のために残しておいた下3段には沢山の蜂蜜が確認されましたが、種蜂として残すため採集を断念しました。

採蜜作業を指導する井上登ミツバチ師匠

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 続いて自宅の裏山に帰り、3つのうちスムシの仕業で全滅した裏山1号(撤去中)を除き、裏山2号と裏山3号の採集作業を行いました。この日は雨が心配でしたが朝から風もなく、穏やかで暖かい日でした。井上さんの指導というよりは井上さんにおんぶに抱っこの作業で、僅か1時間弱で二つの巣箱の全ての巣を切り取りました。天板のネジを自動ドライバーでゆっくり外し、横に倒す方法に巣箱のミツバチたちは驚いて、大騒ぎをしているようでしたが、防虫ネットを被りゴム手袋をして重装備していたため、刺されることもなく全作業を終えました。裏山2号巣箱も裏山3号巣箱も、設置してから2年で初めての蜂蜜採集なので、ワクワク・ドキドキしましたが、採集した巣を手で持った感触では、濃厚な蜂蜜が確認され、2升程度はあるのではとにんまりしました。
 全ての作業が終って井上さんが帰るころには小雨がポツポツ降り出し始め、その後大風が吹いたのですから、ラッキーだったとしか言いようがありません。

 巣を全て捕られた巣箱のミツバチは残念ながら巣箱で越冬することは厳しいようです。そこで少しでも恩返しをしようと、白いトレーに砂糖を入れて水で溶かし、二つの巣箱の中へそっと入れてやりました。ミツバチは大喜びでトレーの砂糖水に群がってあっという間に食べ尽くしていたようです。その際ゴム手袋の中に入っていたミツバチに気付かず、チクリ一刺し刺されてしまい、手の甲が腫れ上がりましたが、蜂蜜を横取りした仕打ちと諦めました。
 さあそれからが大変です。採集した蜂蜜の巣を特製のプラスチック流下式バケツに入れ、家のサウナに持ち込んで温度をかけました。7月20日に採集した時は、外の気温が30度近くあって、ビニール袋を被せただけで一も二もなく簡単に蜂蜜が下りてきましたが、この時期の10度前後の温度では、蜂蜜は下りてこないのです。狭い家庭用サウナでの作業は窮屈な感じもしたり、サウナの温度を長時間かけると電気代も馬鹿にならないと、多少自責の念にかられましたが、行き掛かり上仕方がないと諦め、昨日は朝からテレビを見ながら蜂蜜採集作業に没頭しました。
 お陰様で只今のところ1升瓶で2升5合もの、蜂蜜を採集することができました。これを遠めで見ていた長男息子は大喜びで、早速また糖度計で計りながら小瓶に詰めてラベルを貼り製品を作ることでしょう。ちなみに今年はラベルを貼った蜂蜜が3本売れました。売れたといっても私がオークションのセリ人をして、顔見知りの知人に1本3千円で押し売りしただけのことなのです。ただし3千円×3本=9千円は公民館主事赤石さんたちの絆プロジェクトに全額寄付をしました。ミツバチも人助けに一役買ったのです。
 今年は7月20日の採蜜と12月2日の採蜜で合計5升以上の収穫がありました。蜂に刺された以外は目出度し目出度し、目出度目出度の若松様でした。

 

12月2日に採集した2升7合の蜂蜜

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  「師走だと いうのに蜂の 蜜を採る 蜂もびっくり 右往左往し」

  「採集した 蜜蜂の巣を サウナ入れ トロリトロリと 滴るを待つ」

  「お陰さま 二回で五升 蜂蜜を 収穫嬉し 今年を終える」

  「蜂蜜を オークション出す 売り上げた 金は全額 被災に寄付し」

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人間牧場

〇一日にして落葉無残

 昨日は天気予報どおり、前線を伴った低気圧の影響で大荒れの天気でした。特に北日本では大風が吹き、気温がマイナス20度近くに下がったところまであったようで、いよいよ本格的な冬のシーズンとなったようです。私の町も海沿いなので、冬になると関門海峡を越えた北西の季節風が周防灘、伊予灘を越えて吹きつけるため、他所の町に比べると風が強くて一際寒く感じるのです。これまでが異常に温かかったため、双海の名物である水仙の花もまだ師走だというのにいっぱい咲いて、この分だと新春年明け早々に行なわれる予定の水仙花祭りには花がなくなるのでは?と心配しているところです。
 私の町も昨日の朝から吹き出した季節風がこの冬一番の強さで吹き荒れ、海岸国道は白い波しぶきが容赦なく車にかぶせていました。

メロディワールドINゆなみ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 昨日は私が学校評議員を務めている由並小学校の、音楽発表会の案内を受けていたので、昼ころ出かけました。体育館で行なわれた「メロディワールドINゆなみ」は約30分の短い時間でしたが、子どもたちが自主運営して、童謡などを中心にメドレーで披露するなど、中々見応えのある音楽会でした。午前中所用があって授業参観こそできませんでしたが、久しぶりに心のリフレッシュができました。

わが家の入り口にあるシダレモミジの紅葉

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 実はこの写真は3日前に撮影したわが家の入り口にあるシダレモミジの紅葉写真です。私たちの住んでる双海町では海風が強くて、紅葉は毎年今一なのですが、今年は来客も私の家から借景として見える本尊山の紅葉を、見事だと褒めてくれるほど、少なくとも昨日の朝まではとても綺麗でした。ところが昨日の大風で一瞬にしてこの風景が一変し、特に上の写真のシダレモミジなどは見る影もないほど裸になって、無残な姿になってしまいました。周辺の見事な借景紅葉も写真に撮る時期を逸して、今となっては撮るすべもなく、また来年のこの頃までお預けとなってしまいました。

 このところ天候の異変が少し気になっています。「今までもこんなに気候の変動が激しかったのだろうか?」と過去の記憶を蘇らせますが、最近は台風こそわが町に近づかないものの大雨や大風、急激な気温の乱高下等、歳をとったせいもあるのでしょうが、体に堪えるように感じるのです。一方ではあの嫌な臭いのカメムシが異常発生して気温の温かさに助けられ、昔は冬になるといなかったカメムシが平気で越冬するのです。カメムシは特に白い洗濯物に付着して家の中に進入してきます。妻や息子嫁などはカメムシを見つけるとガムテープで引っ付け、くるんでゴミ箱へ捨てているようですが、先日も私のシャツの裏側に紛れ込み誤って着用し、臭い臭いを存分に味あわされてしまいました。
 家庭菜園のキャベツもこの温かさで、青虫が葉っぱを食い荒らしています。虫が食べるものは安全とばかりに無償毒を決め込んでいますが、青虫取りも忙しいため容易なことではありません。そうこうしながら師走の日々は容赦なく過ぎ、早くも街中にはジングルベルの音楽が賑やかに聞こえています。

  「一日で モミジの木々は 丸裸 風に吹かれて 風邪を引きそう」

  「温暖化 カメムシさんや 青虫さん 冬が越せると 活発動く」

  「自然とは 凄いもんだと 感心し なすすべもなく 日々を過ごしぬ」

  「師走ゆえ 何かと心 波風が 立って何かと 忙しそうに」 

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人間牧場

〇地域づくり団体事例集で紹介(その2)

 財団法人地域活性化センターの発行する「地域づくり」という雑誌の12月号別冊に、双海町翠地区ほたる保存会の事例が、「しずむ夕日が立ちどまる町の宝物」というタイトルで紹介されていることは昨日のブログ(その1)で紹介しましたが、同じ12月号別冊に、「学びと交流の実践~愛媛に蒔かれた地域づくりの種~」というタイトルで、第26回地域づくり団体研修交流会愛媛大会の実行委員長を務めた私の拙文が掲載されていました。その内容は市役所の松本さんがPDFファイルにして、メールで仲間に紹介してくれました。

雑誌地域づくり80ページ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

雑誌地域づくり81ページ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 私の書いたこの記事の中で、新しい胎動という末尾で年輪塾についてさわりだけ書いていますのでご一読下さい。

 私は常々①読む、②聞く、③見るという3つで知識の容量を大きくすると同時に、大きくした容量の潜在能力を①書く、②喋る、③実践して顕在化する努力をしています。毎日書いているブログもその修行の一つですが、最近は原稿の執筆依頼もかなりあって、自分が書いたものが活字印刷され、人の目に触れること多くなってきました。書くことも喋ることも実践することも、自分の向こう側にいる相手を意識しないと成長しないのです。自分の書いた文章が相手の目に触れて時にはなるほどと頷かれ、時には手厳しい批判にさらされることだってあるのです。人間は常日頃得てして格好よく生きたいと思うものです。ゆえにいい文章を書きたい思いますが、自分の体内に存在する能力以上の文章を引き出そうとすると無理が起こり、時には盗作だってするのです。喋ることはビデオに撮影したり録音したりされなければ、人の記憶から消えますが、活字になった文章は「そんなつもりで書いたのではない」といくら言い訳しても通らないところに厳しさがあるのです。

 今回の文章は、最初電話での原稿依頼だったので私が早とちりをして、事例と勘違いをして書き直すというハプニングに見舞われました。それでも私の早書きの癖、つまり原稿依頼を受けたら直ぐに書き始めるという積極さが功を奏し、締め切りまでには書き直した原稿を再度送ることができたのです。早とちりは良くないが早書きは良かったと、しみじみ思いました。
 今年も早師走を向かえ残り少なくなってきましたが、今年中に片付けなければならない執筆依頼の原稿がまだ2本も残っています。早書きのお陰でその2本も粗書きは殆んどできているので、原稿締め切りには余裕を持って間に合いそうです。

  「文章は 活字で残る ものだから 気合を入れて 書かねばならぬ」

  「いい文章 書こうと思う 愚かさよ 容量なくば 智恵も浮かばず」

  「早とちり 書いた文章 書き直す 早書き癖が 功を奏して」

  「PDF 友の作りし 保存版 メール送られ 感心しきり」

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人間牧場

〇地域づくり団体事例集で紹介(その1)

 平成20年度に、第26回地域づくり団体全国研修交流会愛媛大会の実行委員長を引き受け、全国大会を愛媛県で実施して以来、東京にある財団法人地域活性化センターとの結びつきが深くなり、会長の岡崎先生や石田理事長さんとも出会うなど様々な交流が続いていますが、市役所の松本さんの仲立ちで、雑誌「地域づくり」やセンターの刊行物も届いたり執筆したり、また松本さんの執筆応募した「夕焼けプラットホームコンサート」がイベント大賞奨励賞を受賞したり、二宮尊徳公開セミナーの助成を受けたりしています。
 昨日その地域活性化センターから地域づくり12月号別冊、「地域づくり団体活動事例集、~地域づくり新段階~」が届きました。この事例集には表紙に翠小学校で毎年開いているほたる祭りのフィナーレを飾る幻想的な夜空の風船飛ばしの写真も使われており、双海町翠地区ほたる保存会の活動事例も、他の全国7団体と共に10ページに渡って詳しく紹介されているのです。

地域づくり団体活動事例集の表紙

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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〇乙亥大相撲で横綱白鵬を見ました

 「乙亥相撲を見に来ませんか」というメッセージと共に、私の元へ2枚のチケットが送られてきたのは、一年納めの大相撲九州場所の最中でした。平日の29日・30日なので誘う人も限られていて、さてどうしたものかとない頭で思案しました。結局行き着くところ小番頭の松本さんに「休みを取って久しぶりにリフレッシュしよう」と言葉巧みに誘って、了解を取り付けました。私も30日なら何とか大丈夫だし、30日の夜にはものづくり文明機構のシンポジウムの反省会に松本さんと同席する予定もあって、招待券が自由席なのでいい席を確保しようと、わが家を午前7時に出発する約束をしました。
 午前7時きっかりに松本さんはわが家まで迎えに来てくれました。松本さんのプリウスに同乗し、内子経由で西予市野村町を目指しました。山が深くなるにしたがって沿道から見える山々は晩秋の紅葉に彩られ、目と心を存分に楽しませてくれました。松本さんとは毎日のように会っているのに積もる話も沢山あって、話し足らないほど色々と話しました。

 

中学生の前相撲

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ゆっくりのんびり走っても1時間余りで野村町の中心部に入りました。道の沿道には乙亥相撲のために数本の相撲幟が立てられ雰囲気を盛り上げていました。両国国技館を模して造ったという乙亥会館に着くと、見覚えのある市役所の沖本さんたちが交通整理をしていて、「招待客」待遇の駐車場へ案内してくれました。チケットを切って会館内に入りましたが、大相撲を彷彿するようなつり屋根天井から土俵がカクテル光線に照らされ、迫力満点です。正面自由席の前列2番目に場所を確保し、既に取り組みの始まっていた中学生の相撲を見学しました。相撲の盛んな地域らしく地元の中学生が次々に登場し、熱戦が展開され、私たちも地元の人の声援に混じって、時には拍手を、時には声援を送って存分に相撲を楽しみました。

呼び出し卓郎さん

 

 

 

 

 

 

 

 

 私たちの目当ては何といっても先の九州場所千秋楽で、把瑠都に破れて全勝優勝こそ逸したものの、堂々優勝した白鵬関を一目見ることでした。その時間は午前11時なので、少しの間時間待ちをしました。その間私たちと同じように白鵬関を一目見ようと大勢のファンが詰めかけ、会場には「満員御礼」の貼り紙が四方の壁に貼られました。
 大きな白鵬関の座布団が運び込まれ、やがて呼び出し卓郎さんの打ち鳴らす拍子木の音に続いて、澄んだ「白鵬~白鵬~」という呼び出し声に促されて、東口入場門から白鵬が出てきました。端正なマスク、ピンク色のしなやかそうな体、まさに理想的な大横綱の風格です。鳴り止まぬ大きな拍手と声援に迎えられ、館内のボルテージは一気に高まりました。稚児の土俵入りは土俵下に準備した20人余りの稚児たちが次々に白鵬関に抱き抱えられ、土俵の上で四股を踏むのです。稚児の中には泣き出す子もいて、それも愛嬌とばかりに「ヨイショ~ヨイショ~」と大きな歓声が爆笑と共に起こりました。

 

横綱白鵬の稚児土俵入り

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 白鵬の稚児土俵入りが終ったところで私たちは外に出ました。地元出身元関脇の玉春日が親方を務める片男波部屋の味と思しき、ちゃんこ鍋(一杯300円+白ご飯50円)のチケットを買い求め、屋外テントの下で昼食を取りました。とても美味しい味でした。
 館内では友人の森本先生が審判をしていたり、顔見知りの方々も沢山いて声を掛け合い親交を温めました。
 私が乙亥相撲を見たのはこれが2度目です。20年も前、最初に見たころはまだ会館はできておらず、役場の近くの広場に仮設テントが張られていました。相撲もさることながらその夜は友人の酒井さん宅に泊めてもらい、町内に繰り出しどこ構わず酒を飲み歩いた記憶があるのです。今年160周年という輝かしい伝統を持っている乙亥相撲を見る機会を得て本当によかったと思いました。
 一足早く野村町を出て、五十崎商工会の渡辺さんを訪ね、帰宅途中に内子町立川の成川さんのお店に立ち寄ってみかんを買い求めて交友を温め、一旦帰宅した後松本さんと再び今度は私の車でものづくり文明機構のシンポジウム反省会に参加しました。熱気溢れた10月中旬のシンポ以来の出会いでしたが、楽しいひと時を過ごしました。懇親会終了後松本さんを途中で降ろし、9時半ころに自宅へ帰りました。長い一日でしたが久しぶりにのんびりしたいい一日で、身も心もすっかりリフレッショしました。

  「伝統の 乙亥相撲を 観戦に 友と二人で 山里向かう」

  「大相撲 横綱白鵬 直に見る 稚児抱く姿 惚れ惚れしつつ」

  「百六十年 続く相撲の 中生まる 玉春日関 今はマゲなし」

  「ちゃんこ鍋 美味いもんだと 舌鼓 体ポカポカ 温かなりぬ」   

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人間牧場

〇標高634mの明神山に登る(その2)

 翠小学校から柆野の集落に至る道沿いには、上灘88ヶ所といわれるミニ四国の石仏が存在します。この数年公民館の赤石主事さんと宮栄館長さんが中心になって、その存在が突き止められ、あと一つの石仏所在が不明だけに漕ぎつけたようですが、近々にその遍路参りも計画したいと夢を赤石さんと語りながら、時折石仏に手を合わせながら登って行きました。
 土俵という明神山の入り口から薮のような登山道に分け入りました。最初の計画では明神山の北側からアタックするはずでしたが、不案内で道が分からないため、裏登山道である犬寄側からのチャレンジです。この道は何年か前、公民館の企画で子どもたちが赤石さんたちと登山しているため、道沿いの木々には、道しるべのために巻いたと思しきビニールテープが確認できました。しかし山道に不慣れな赤石さんも、一度通った道を覚えていなく、またあれから何年も経っているため、シダや雑草、小枝に行く手を阻まれました。

明神山の山頂にて

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それでも10日後の子どもたちの登山に支障がないようにどうにか道を確保し、杉林を抜けて、約6キロの山道を大汗をかきながら登り、翠小学校を出てから約3時間弱で、ついに念願の明神山の頂上に4人で立ちました。
 登山道からや頂上からの眺望を楽しみにしていたものの、時折樹間から眼下を走る四国縦貫自動車道辺りが見えるものの、残念ながら瀬戸内海の眺望は見えず終いでした。
頂上には神仏混合の祠があって、石碑を見ると建立は江戸時代のようでした。また祠の裏には南無妙法蓮華経の石碑も立っていて、少し違和感を感じました。
 山頂の祠の近くに腰を下ろし、4人で宮栄館長の奥さんが作ってくれた握り飯弁当を食べました。握り飯やペットボトルのお茶はとても美味しく、喉と胃袋を存分に満たしてくれました。

 かつて私は、双海町の背後に聳える971mの壷神山、730mの黒山、896mの牛の峰山、187mの本尊山、高さを思い出せない秋葉山に登っていて、残りは634mの明神山だけが未踏だったので、奇しくもスカイツリーのできた記念の年に、これでやっと念願の全山登山ができました。もう10年以上も前に双海町の海外派遣事業でニュージーランドやオーストラリアに同行した夏芽ちゃんや真理ちゃんと、町内の全山をアタックする計画を立て、黒山や牛の峰山にアタックしましたが、その後彼女たちが結婚したため、その計画は立ち消えになっていました。
 私は下山するに当たって、山頂から記念の通話をすることを思い立ちました。とりあえず市役所の松本宏さんに電話を入れ、運よくつながることができました。12月10日の登山予定日が天候に恵まれ、スカイツリーと同じ高さの明神山に子どもたちの歓声が聞こえることを祈っています。私はこの日残念ながら鳥取県伯耆町と大山町への講演が予定されていて留守となります。
 30分余りで土俵まで下山、し西岡さんと宮栄さんの車に同乗し無事下準備の登山を終えました。

  「念願の 明神山に 登山する これで全山 踏破しました」

  「記念にと 山頂辺りで 電話入れ 仲間と通話 よき思い出に」

  「十日後に 子どもの歓声 聞こえそう そのころ私 山陰辺り」

  「日ごろから 裏山散歩 お陰にて 足腰痛く ならずに済みて」

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