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○ふるさと体験塾「一年を降り返ろう!」

 昨日は翠小学校の多目的ホールや運動場をお借りして、ふるさと体験塾最後の集会が持たれました。31人の子どもたちに加え20人ものスタッフが集まり、とても賑やで楽しい集会となりました。今年は中学生をジュニアリーダーと位置づけて、その育成に主眼を置いていたため、この日のプログラムは嬉しいことに中学生が中心になって考え準備を進め、運営を高校生や大学生たちと一緒にやってくれました。
 メインのプログラムは昔私たちが子どものころに行っていた、「鬼ごっこ」をゲーム化した「逃走中」というものです。内容説明書によると、「ハンター」チームと「逃走者」チームに分かれて行なう鬼ごっこで、最近フジテレビ系番組で紹介されてから人気急上昇中のゲームのようですが、今回は各班による対抗戦で行い、グループの全員が捕まった時点の人数の多少で順位を競うのです。
 中学生から参加者に一通りの説明が行われましたが、私には理解できなくても子どもたちは直ぐに納得し、早速夜来の雨で少しぬかるんだ運動場に出て、各班を示すゼッケンをつけてゲームを楽しんでいました。

多目的ホールに集まった子どもたち

 私は多目的ホールのペレットストーブの前に椅子を置いて陣取り、ストーブ番をしながら更生保護女性会の久保さんや山口さんたちと久しぶりに、井戸端ならぬストーブ端会議をやりました。久保栄子さんとはもう長い付き合いで、私が現職のころ婦人会長や花の会の会長をされていて、その後もこうして子ども体験塾の実行委員としてボランティア活動をしてもらっているのです。年齢を気にして「もうそろそろ」と辞退の意思を示しているような口ぶりでしたが、ボランティア活動は一体何歳まで続けることができるのか、自分自身のことも含めて身上を吐露しながらお話をしました。
 身を引くタイミングは自分自身が決めることだと言われていますが、私もその歳になると色々と考えるのです。「いつまでするの?」という世間体と、「もうそろそろ」という年齢や体力の限界等、タイミングは人それぞれなのですが、公民館で育ててもらった私としてはもう少し、ボランティアとして頑張ってみようと思っています。
 子ども体験塾や通学合宿夕やけ村、おもしろ教室等、双海町の一連の社会教育的青少年育成事業は、子どもの健全育成に地域が関わる点では、誰しも認める大きな成果を上げています。昨年から始めた中学生によるジュニアリーダーの育成も、その成果が見え始めているので、も少し充実させたいと思っているのです。

運動場での逃走中という鬼ごっこゲーム

 そんな雑談をしている間に子どもたちの歓声の中で、「逃走中」というゲームは無事終りました。冬の寒さの中でややもすると、不完全燃焼気味だった子どもたちは爽やかな汗をいっぱいかいて、とても楽しかったと、予想をはるかに超える成果を収めたようです。これもジュニアリーダーたる中学生のお陰です。
 片付け終了後場所を翠ピザ釜に移し、50人がピザ作りに挑戦しました。私は「自宅へ来客直ぐ帰れ!」の携帯電話が入ったため、ジュース搾りやここでもストーブの番をしただけでお暇させてもらいましたが、集会が終って公民館主事の赤石さんがわが家まで、その後の進捗状況と絆プロジェクト報告書を持って自宅まで報告に来てくれました。若松君、幸君、中村君の三人は来春から中学生になりますが、来年からはジュニアリーダーの仲間入りをすると張り切って宣言したことを喜んでいました。
 間もなく春がやって来ます。一年の終わりは一年の始まりでもあります。まるでエンドレステープのようですが、また新たな気持ちで双海町の宝である子どもたちを、しっかりと育てるお手伝いをしたいと心を新たにしました。

ピザ作りに挑戦する子どもたち

  「中学生 頼もしきかな プログラム 企画運営 大きな成果」

 

  「ボランティア 自分のために するものと 思えばこれが 生きがいなりて」

  「中学に あったら僕も リーダーに 涙出るよな 嬉し宣言」

  「子どもたち 冬の寒さの モヤモヤを 吹き飛ばすよに イキイキ走る」

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○ミニ四国八十八ヵ所(資料編)

上灘八十八ヵ所場所一覧その1

 

 

 

 

 

 

 

 

上灘八十八ヵ所一覧その2
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○ミニ四国八十八ヵ所遍路(その5)

 上灘四国八十八ヵ所の最後は大栄地区です。県道のとんでもない直立岩の上にある80番の石仏は、県道の改修工事で移転したとの話を聞きました。戦後から今日まで、八十八カ所の散在する地域では、徒歩から車に交通手段が変化したため、道路の拡張工事や付け替え工事がしばしば行われていて、その度に石仏が勝手に動かされているようです。石仏を動かすとたたりがあるとか、動かした人が病気になったとかいう移転にまつわる話は、枚挙に暇がないほどです。そのため関係者は動かす度に、お坊さんを呼んでお経を上げたり、移転先を立派に整地してねんごろにお祀りしているようで、お供えやシキビを上げたりしている姿を見ると、近郷の人の信仰心の厚さにただただ驚くばかりです。
 75番石仏は奥大栄に続く往還道路が、あったであろう岡田義秋さん宅から上流へ20mほど進んだ畑の隅になりました。県道がぐるっと回っているため、この地を不思議に思いましたが、80番の石仏は直線的には直ぐ上のようでした。76番石仏は岡田常夫さん宅上方新道大カーブを上がりきった墓地の傍にあり、お参りをして大栄公民館の前に車を止め、山本彊さん宅奥南側の、急な坂を上がりきったカーブに77番、78番、79番の三体の石仏がありました。この上付近は県道の拡幅工事が盛んに行なわれていて、その影響もあって石仏を囲う石積みが崩れかかっていて、心ある人の手助けでしょうか、腕首ほどの丸太でつっかえ棒をして崩壊を止めていました。

 ここの石仏は珍しいことに77番が奥、78番が手前と、左右でなく前後に配置していました。多分前述のような土砂崩壊などの理由でこうなったのでしょうが、八十八ヵ所を巡ると何ヶ所かでは、台座や屋根石、側石柱が悼んでいるものもあって、修理が必要な場所がありました。赤石さんとも相談したのですが、地元やお祀りしている人と相談しながら、修理をするための何らかの行動を起こさなければと思いました。しかしこの作業も宗教が絡んでいるだけに難しそうです。
 大栄公民館の敷地の中にも81番と82番の石仏がありました。ここには横に常夜灯や石舟型の手水もあって神仏混合ながら風情がありました。森岡繁夫さん宅横の83番、川向こうに渡った坂の上の旧大上長太郎さん宅奥に84番の石仏がそれぞれありました。入り口付近にある安田さんの庭で安田さんや小谷峰子さん、森岡敏雄さんの三人が談笑していて、伊予柑とポンカンのお接待を受けました。この時期の雑柑類はどれも美味しく、6人で石仏の話やかつての賑わい、今の寂しさ、将来の不安など沢山の話を聞くことができました。

 西口光雄さん宅前の85番、大栄入り口分岐点の86番と、いつの間にか石仏の番号も80番の大台を数え、残りは出発した正光寺境内の87番、88番の石仏となりました。正光寺に戻って結願のお祈りをし終ると住職さんと出会い、本堂に案内されて立派な庭や、住職さんの書いた龍の絵、修行僧の絵巻物など色々と珍しいものを見せてもらいました。
 午前中は歩き遍路、午後は車遍路でお茶を濁したものの、私の携帯電話付属の万歩計は2万1千歩を記録していました。上灘八十八ヵ所の存在を赤石さんから一昨年聞いた時から、一度は遍路をしてみたいと思っていた願いは、赤石さんや宮栄館長さんの協力によって、無事実現することができ、今はとても清々しい気分です。本物の八十八ヵ所は一度だけ妻と回っているものの、高野山へのお礼参りはまだなので、今回の上灘八十八ヵ所参りのお礼参りも含めそうだと内心喜んでいます。
 いつの頃にこの上灘八十八ヵ所が起こったのか、これも調べてみたいものです。今回の遍路で正光寺、本覚寺、地蔵寺とそれぞれ宗派の違う三ヶ寺を参拝することもできました。願わくばもう一度今度は本当の歩き遍路で全てを回って見たいものです。それにしても嬉しいのは毎日1万歩のウォーキングをやっているお陰か、2万1千歩歩いても足腰共に全然平気で、体力に自信が持てたことは何よりの収穫でした。

  「一日で 地四国遍路 巡る道 車手助け なければできぬ」

  「地四国を 復活させて 歩こうと 誘いかけるも 足腰嘆く」

  「あれこれと 世間話に 花咲かせ やっとの思い 決願叶う」

  「二万歩を 歩いてなおも 元気とは 老いて益々 体力自信」

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○ミニ四国八十八ヵ所歩き遍路(その4)

 日尾野の西岡猪夫さん宅に入居している福島県出身の渡辺さん家族と黒豚に見送られ、車で出発した私たちは、宮栄館長さんに車を運転してもらい、しばらく二手に分かれることにしました。私と赤石さんは田口裕一さ宅より少し急な柆野坂を歩いて登りました。途中左手に54番と55番の石仏が順番にありました。更に進むと柆野の集落が見えてきました。柆野公民館の横の広場に茶堂があり、その中に56番石仏が安置されていました。ここには天然記念物に匹敵するような大きな樹木が茂っていました。残念ながらその木の樹種は分かりませんでしたが、かつて青年時代に盆踊りの盛んだった頃、この地に仲間と共に踊りに来たことがあり、県道を通行止めにして盆踊りを踊っていた長閑な時にこの木を見た記憶が蘇ってきました。
 柆野集落のほぼ真ん中の道を進むと井川仁さん宅裏に57番が、金井稔さん宅より明神山方面へカーブした内側に58番の石仏がありました。特に58番は四国八十八ヵ所を世界遺産にしようと頑張っている今治仙遊寺の親友小山田憲正さんを思い出しました。58番は何の囲いもなく野ざらし状態で少し可哀想な気がしました。

59番石仏と並んだ石仏は60番かも?

 ここで車に乗った宮栄さんと合流しそこから更に進むと、年末に子ども体験塾でスカイツリーと同じ高さ634mの明神山に登った登山道入り口土俵を越え、大平への分岐点に差し掛かりました。この場所に59番石仏がありました。宮栄館長さんと赤石さんが事前調査で88体の石仏を探して唯一見つかっていないのが60番の石仏です。59番の横にある石仏がそれらしい気もしましたが、台座の構造が少し違っていて、真偽は後の調査に委ねることにしました。
 私たち一行は犬寄峠の旧道を通って国道56号線に出ておき世の池入り口にある、61番、62番、63番の石仏を拝みました。その後中山との境にある信号を右折して高見集落へ入りました。急な坂を車で旧高見公民館跡まで登りました。私が公民館主事をしていた最初の頃に、この公民館には再三主に夜の集会に訪れましたが、今は公民館は下の県道に移転しています。私の記憶が正しければこの新しい公民館には、私が仲立ちして落成記念に講師として招聘したご縁で、大洲の松田寿雄さんの書画掛け軸が飾られているはずなのです。
 ここには64番、65番、66番の石仏が綺麗に安置されていました。この地付近は中山との町境の高台にあるにもかかわらず、隧道水路のお陰で美田が広がっているのです。高見にはいよと書かれた65番石仏とさぬきの66番石仏が同居していました。

 上灘川の支流に沿って県道を下り、途中からもう一本の上灘川本流に沿って奥大栄を目指しました。この集落への道は度重なる山津波で付け替えられていますが、残念ながら急激な過疎化の波に翻弄され、今は数軒しか住む家もなく、住む人絶えた家が寂しく崩れかかっていました。
 奥大栄公民館前に69番、72番、少し下の永木に通じる往還道路脇に67番、68番、70番、71番、73番、74番の石仏がありました。私が日ごろ飲んでいる飲料水は、この先が上灘川の源流域となっていて、何年か前子ども体験塾で源流探しに出かけた場所なのです。
 私たち一行は元来た道を県道まで下がり、県道の上のとんでもない場所にある石仏を下からお参りしました。残念ながら上に上がることができず、下から一円玉の賽銭を投げ入れ、運よく止まって事なきを得ました。私たちの一行はやっと最後の大栄集落まで辿り着きました。

  「本当は 歩き遍路を するはずが 道程長く 車で参る」

  「六十番 石仏未だ 見つからず 八十八ヵ所 思い残して」

  「道もなく 崖っぷちゆえ 賽銭を 投げて運よく 石仏前に」

  「住む人も なくて崩れし 家の前 郵便受けに カズラからまり」

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○ミニ四国八十八ヵ所歩き遍路(その3)

上灘八十八ヵ所歩き遍路の灘町地区最終は29番石仏が本覚寺にありました。石段を登り山門を入ったところに6地蔵が安置され、その横にありました。この境内から見える双海町のシンボルである本尊山の眺めは素晴らしく、大洲藩主の詠んだ歌の歌碑が建っていました。丁度お昼になったこともあって、一区切りして教育委員会に立ち寄り弁当を食べました。3時間歩き少し疲れましたが、先を急がねば陽が暮れるかも知れないという焦りもあって、宮栄館長さんの痛めたスネの傷を気遣い、3人で協議の結果、午後は車を利用することになりました。仲宮の長岡栄一さん宅前のお堂に30番と31番の石仏があり、更に進んで三島の広沢熊市さん宅前の32番石仏をお参りしました。32番石仏の石積みには立派な藤の蔓があり、居合わせた広沢の奥さんと色々会話を交わしました。

三島集落の川本さん裏にはトンネルが・・・

 私たちの一行は公用車の運転を宮栄館長さんに任せ、私と赤石さんと二人で、三島公民館横の33番、34番、35番、36番と4つ並んだ石仏を拝みました。その後川本将稔さんの庭と倉庫を通らせてもらって裏道に出ました。ここの37番石仏は、石垣に見事に組み込まれていて、歴史のようようなものを感じました。その横には立派なトンネルが残っていて、戦争中は防空壕に使っていたらしい話を聞きましたが、中が二手に分かれたトンネルは今回の遍路めぐりの大きな発見だったようです。
 そこから裏道を通って三島の坂本さんというお宅の近くにある38番の石仏へ行きましが、坂本さんの家は住む人もなく空き家になっていました。
 八十八ヵ所は阿波の国23、土佐の国16、伊予の国26、讃岐の国が23と合計八十八ヵ所ですが、石仏にはそれぞれ漢数字で番号と、阿波、土佐、いよ、さぬきという国の名前、お寺の名前などが書かれています。何と石仏に刻まれた仏像は四国八十八カ所のそれぞれのお寺の本尊なのです。1番であれば阿波、霊山寺、釈迦如来が彫られているのです。

 私たちはその後地蔵寺へ車で到着しました。このお寺は最近屋根の葺き替え大修理を行なったばかりで、銀ねずの日本瓦がまばゆく、そして重厚さを増していました。お寺の境内に入って直ぐ左に40番、41番、42番、43番、44番、45番、46番と8体もの石仏が行儀よく並んでいましたが、今回の屋根替え普請のついでに石仏をジェット噴射機で洗ったらしく、8体全てが空に向かって寝かされ、まるで日向ぼっこか虫干しでもしているような珍しい光景に出会いました。間もなく元の位置に安置されるのでしょうが、いやはや面白い光景でした。
 人の話によると地蔵寺は向かいの山の中腹にあったらしいのですが、火災にあって今の場所に移ったようなのです。その際石仏も一箇所に集まられたものではないかと推察するのです。
日尾野の石仏は西岡猪夫さん宅前に47番、48番、49番の3体、日尾野公民館横に50番、51番、52番、53番の4体が安置されていました。福島県から移住してきた渡辺さんが西岡猪夫さん宅に入居しているため、在宅だった渡辺さんや子どもさんと飼育している黒豚の前で色々なお話をさせてもらいました。

  「一円を 供え手合わせ 石仏の 顔に会釈し 次々参る」

  「石仏の どの顔見ても 慈悲深く もっと笑顔と 言ってるようだ」

  「阿波と伊予 越えて讃岐に 入ったが 険な路ゆえ フウフウ言って」

  「住む人の 絶えた屋根には 草が生え 壁も崩れて 寂しかりけり」

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○ミニ四国八十八ヵ所歩き遍路(その2)

 東谷に出た私たちは宮田英雄さん宅近くの15番石仏へ向かいました。「ほらあそこに」と指差した断崖絶壁の上に15番と16番が並んでいました。賽銭をあげることもままならない断崖をよじ登ってどうにか手を合わせ賽銭を置くことができましたが、さあそれからが大変で、17番の石仏がどうしても見つからないのです。三人であちらこちら探しましたがどこにも見当たらず、仕方がないので運よく自宅にいた宮田英雄さんに協力を求めました。探していると石仏がイノシシの悪戯で崖から下の草むらへ落ちているのを発見しました。宮田さんと赤石さんが協力して何とか元の位置へもどしましたが、宮田さんの話によるとこれまでにも時々イノシシが悪さをして落ちたようで、「ほら見てください」と指差す宮田さんの家の裏山は、イノシシが悪態の限りを尽くして掘り返した、無残な姿がかなり広範囲で残っていました。
 「多分こんな罰当りなことをしたイノシシは、鉄砲か罠で始末されたに違いない」などと、イノシシに聞こえとばかりに人間様の話をしながらその場を去りました。

転げ落ちた石仏を元の場所へ安置する

 東谷のお参りを終えた私たち一行は西谷に入りました。西谷はかつて大水害にあったようで、中学校辺りからかなり奥まった所まで川は三方コンクリートになっていて、川という風情はなくまるで水路といった感じでした。18番石仏は岡崎常雄さん宅東側川向こうの橋のすぐ近くにありました。途中福岡暉司さん宅の庭には見事なモミジの木がありました。春の芽吹きや夏の緑陰、秋の紅葉が見事だろうと想像し、話しながら進みましたが、ここからはかなりきついダラダラ坂が続き、汗をかき始めました。この奥にはかつて宮の瀧という集落があった話を教育長をしていた中田豊さんから聞いていたので、「何でこんな所にあるのだろう」という疑問も解け、福岡暉司さん宅から50mほど先の21番石仏、さら500m先の20番石仏を通り越して、20m先の19番石仏をお参りしました。帰りに20番、21番に立ち寄り、そこからは西尾さん宅の前を通って池田勇さん宅の横にある22番石仏を目指しました。途中出会った山口さんが草を刈っていたというとおり付近の薮草は刈っていましたが、お参りした後の帰り道は引き返さず畑の中を通らせてもらったので、中々の難所で行く手を阻まれました。何年か前までは池田勇さん宅から私の家の浦に通じる裏道がありましたが、今は薮に覆われて通ることが出来ないようになっていました。

 23番石仏は東谷入り口の旧道、永井昭一さん宅川向こう、亀岡さんの家の横の人一人が通れる小さな橋を気にしながら渡りお参りしました。これで両谷の全ての石仏を終え、中学校横の給食センター横、源田自動車横を通って上灘川に沿って河口を目指しました。上灘川には長いJR予讃線海岸周りの鉄橋が架かり、その鉄橋を見上げたり、元町長で今は亡き丸山勇三さん宅や岡崎さん宅の見事な格子戸を眺めながらかつてメインストリートだった往時の姿に思いを馳せました。
 大石さんのギャラリー蔵の前の広場横に24番、26番、28番と三つの石仏が安置されていますが、何故か飛び番の25番と27番が五丁目宮崎のお地蔵さん内に安置されているのです。宮崎のお地蔵さんは天一稲荷神社のお宮の先にあるので宮崎と呼ばれているようですが、かつては見事な松が生い茂り近くには常小屋や風呂屋もあって風情があったようですが、今はその面影は見る影もなく、海岸国道や漁港のの整備に伴って船揚場も出来一変しています。上灘八十八カ所の中でも25番と27番は別格で、地蔵尊本堂内にねんごろにお祀りしていました。

  「イノシシが 十七番の 石仏を 鼻息荒く 谷に蹴落とし」

  「十七番 石仏抱いて 元の場所 お座りなさい 心優しく」

  「悪さした イノシシ既に 罰当り したであろうと ヒソヒソ話」

  「何しよる 会う人毎に 声かかる 返す言葉は お参りしよる」 

 

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○ミニ四国八十八ヵ所を巡る遍路歩き(その1)

 双海町公民館主事の赤石さんから数日前、「月曜日の予定、忘れちゃいませんか?」とメールや電話をいただいていた、「上灘八十八ヵ所巡り」に月曜日の昨日出かけました。前日の夜妻に弁当を作ってくれるよう頼んでいたので、妻は日常より少しだけ朝早く起きて手作りの弁当を作ってくれ、「弁当持った!、手袋持った!、ペットボトル持った!、寒くはない?」などと、まるで子どもが遠足にでも行くようにいちいちうるさく注意を促し、自宅まで迎えに来た赤石さんの運転する公用車に乗り込みました。出発地は一番のお地蔵さんが祀られている正光寺です。正光寺は翠小学校の直ぐ上の急な坂道を登った所にあり、ここで公用車を降りて、公民館の松田さんに車を取って帰ってもらうのです。山門をくぐり本堂に深々と一礼をして道中の安全を祈りました。山門の直ぐ右横に6基のお地蔵さんが行儀よく整然と並んでいました。ここには1番から4番までのお地蔵さんがあり、後の2体は87番・88番、つまりここから上灘八十八カ所の祈りのへんろ道はここから始まり、ここで決願するようになっているのです。

正光寺境内の一番石仏~

 私はまだ般若心経も空で覚えていないので、祈りはもっぱら手を合わせて「どうか道中無事でここまで辿り着きますように」という程度の簡単なものなのです。今朝は妻が用意して持たせてくれた絣布製の小銭入れに入れた、約100枚の一円玉をポケットから取り出し、石仏の前に供えて行くのです。本当は10円か100円硬貨の方がご利益があるのでしょうが、それ程金持ちでもないので、気は心とばかりに1円玉での代用となりました。妻とは嬉しいもので、こうして1円玉でもちゃんと持たせてくれた気配りに感謝するのです。上灘八十八ヵ所がいつの頃に出来たのかは文献がないので定かではありませんが、ミニ八十八ヵ所を発案し、村の隅々に石仏を配置して祈りの道を作った人たちがいるのですから驚きです。それらの石仏は時代の流れや月日と共に何度も散逸したり移転を余儀なくされたりしたようですが、公民館の宮栄館長さんと赤石主事さんのひた向きな現地捜索の努力によって、見事全容が明らかになったのです。ミニ八十八ヵ所を回った経験のあるお年寄りもいるのでしょうが、その記憶も殆んど忘れられているため、現地捜索は難航を極めたと二人は笑って述懐していましたが、折角石仏の存在も明らかになったようなので、どの程度の時間で回れるのか、一度試してみたいと三人の相談がまとまり、今回の歩き遍路+車遍路となったのです。

 正光寺の1番~4番を参拝した三人は、お寺と翠小学校の間にある坂道を下って久保地区の井口一実さん宅の前に出ました。そこには大きなヤブツバキの根元に5番の石仏がありました。そこから細道を県道に出て久保公民館前に安置されている6番・7番、寺西光朝さん宅横8番、井戸本福市さん宅横9番と、少しの下り道をのんびりゆっくり歩きました。仲宮長岡さん宅前の上灘川に架かる橋を渡り、川向こうのほたる護岸沿いの畑中の道を歩いて、両谷に通じる坂道を登りました。登りきった峠には東谷の墓地があって、小さなお堂がありました。ここからの眺めは東向うに仲宮や久保辺りの田園眺望が開け、特老夕なぎ荘も直ぐ下に見え、反対側の斜面にへばりつくように東谷の集落が朝日に輝いて美しく見えました。この墓地の二ヵ所に10番、11番と12番、13番、14番の石仏が石屋根を配して安置されていました。
 私たちは墓地に通じる坂道を東谷の川沿いの道に出ました。途中畑で仕事をしている木曽博機さんや谷江共一郎さんの奥さんと言葉を交わし、宮田英雄さん宅まで歩を進めました

  「お二人の 捜索成果 明らかに しようと巡る 石仏遍路」

  「長年の 風雪耐えて 鎮座する 石仏の顔 まるで微笑み」

  「阿洲から 始まる遍路 石仏に 寺の名前や 本尊掘りて」

  「誰たちが どんな思いで 置いたのか いにしえ人を 垣間見ながら」

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○省エネ抜群の優れもの

 今年の冬は事の他寒く、暖房のために使っている石油ストーブの給油回数が例年より多いようで、近所のガソリンスタンドが廃業したこともあって、一週間に一度隣町のガソリンスタンドへ、軽四トラックにポリタンクを積んで、灯油の買出しに出かけなければならないのです。わが家では風呂も灯油ボイラーだし、居間、書斎、キッチンに3台の石油ストーブを置いています。息子たちのキッチンと居間はエアコンなのですが、最近の寒さのため、朝起きた時に寒いらしく私の書斎の石油ストーブを、息子に横取りされてしまいました。仕方なく私の書斎には少し小さめのストーブを置いていますが、来客がある時は仕方がないので余り好きでないエアコンの力を借りているのです。

 昨年から同居を始めた息子は、パソコンで買い物をする達人で、何かにつけてパソコンで買い物をしているようです。私も時々息子に頼んでアマゾンで本を買ったり、飛行機のチケットを手配してもらったりしてもらっていますが、息子に頼むとお使い賃を上乗せして「お釣りはいい」となるので、少々割高なようです。私は古いタイプの人間で銀行や郵便局にしろ買い物にしろ、まずカード決済は絶対といってよいほどしません。私が持っているカードは車のETCカードとガソリンスタンドのカードくらいですから、使いようがないのです。そのため多分カードによるトラブルに巻き込まれることはないのです。

 さてそんなカード決済の息子に、先日パソコンプリンター用のインクを安く買ったことはブログに書きましたが、先日息子は蛇腹のような1.5mもある筒を、得意げになって買ってきました。何でも石油ストーブの前に一方の穴を置いてコタツの中へもう一方の穴を突っ込むと、石油ストーブの温風がコタツの中を温かくしてくれるという、アイディア商品のようでした。妻はテレビの噂の県民ショーで、東北のどこか地方で愛用されているというのを見ていたので、直ぐに理解をしたようでしたが、私は半信半疑でした。ところがいざ使ってみるとこれがとても優れもので、今までストーブの温度を25度に設定して使い、コタツも電源を入れていたのに、ストーブの温度を15度に設定しても、コタツの中はポカポカで、室温も適温に感じられるようになって、省エネな暮らしを謳歌しているのです。

 息子はこの優れものを探し当てたことで得意になっています。妻も「息子が買ってくるものはろくな物はないが、この風洞だけは凄い」と大満足のようです。私もこれには大変感心しましたが、余り誉めると息子が悦に入るのでほどほどに留めています。
 息子家族と同居しているお陰で、灯油をストーブや風呂の灯油タンクに小まめに給油してくれたり、パソコンの不具合を直してくれたりしてくれるようになって大助かりです。妻と嫁も別々の台所なので時々再々まるでご近所のように、美味しい料理が届いたり届けたりして、お互いがいい目をしています。今朝も焼きたてのパンのいい香りがしていて、もう直ぐわが家へ届くことでしょう。

  「パソコンで 商品色々 買う息子 それにあやかり 私もついつい」

  「省エネの 風洞コタツ 突っ込んで 温か過ごす 厳寒の冬」

  「荷が届く 代引き代金 支払いは 銀行口座 キャッシュレスです」

  「ETC それに給油の カードだけ 時代遅れも はなはだしいね」

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○私が行かなかったことが一番の収穫かも

 昨日は自分が参加しなければならない年輪塾の修学旅行に、叔父の納骨法要があったため参加できなかったため、少し空気の抜けた風船のような一日でした。そのためだけではなく今年一番の寒気の影響で朝から雪や風の強いあいにくの寒い気温のせいで、寒さをことのほか強く感じました。妻は風邪を引いては大変とホッカイロを用意して、私の腰辺りに張ってくれ何とか無事にお勤めを終えました。
 それでも年輪塾の修学旅行のことがやはり気になるのか、夕方にでも現地に電話をかけようかどうしようか迷い、そのことを自宅に帰ってブログに書いていました。以心伝心というのでしょうか、今回の修学旅行の企画から運営を一手に引き受けて出かけた小番頭の松本さんから、「思ったほど天気も悪くなく、それなりに楽しい旅を続けています。止む無く参加できなかった塾長のことについては、皆さんに知らせておきました」と携帯電話をかけてきてくれました。

 それでも気になるのか午後8時過ぎに、私の名代として出かけてくれた清水塾頭に電話を入れてしまいました。私が電話をかけた時は交流懇親会の真っ最中で、島根県から現地入りした沖ノ島町の南さんが自己紹介をしている声や拍手が電話の向うでリアルに聞こえてきました。
 私が電話をかけている様子を見て、妻は気の毒そうに「お父さん行きたかったのに残念だったね」と慰めてくれました。と同時に「あなたが行かないことも意味がある」と悟ったような話をしてくれました。確かに妻が言うように、年輪塾は清水塾頭、米湊大番頭、松本小番頭、浜田筆頭塾生などなど、私の心を慮れる人が沢山いて、私は一種のお飾りのような存在なのです。組織にはお飾りのような存在は必要ですが、私がかつて自分の上司であった町長さんに、「金を出せ、口は出すな、責任を取れ」という三つをして欲しいと言っていたことのできるお飾りでないと、本当の意味での立派なお飾りにはならないのです。

 いつもいる人がいないと、みんなはいつもいる人の分まで考えたり働かなければなりません。これは親子関係においても同じで、親が子どもの成長を見下して、いつまでも頑張り過ぎると子どもは親にも垂れることを覚え、いつまで経っても成長自立しないのです。昨日は法要のため久しぶりに親族が集まりましたが、若くして親に先立たれた子どもほどしっかりしていることに気づきました。私の従兄弟は若くして親父を亡くしましたが、今は立派に成長して下灘の組合長をしているし、同じ従兄弟もそれぞれ親父を亡くしていて、それなりにしっかりした生き方をしているのです。私は93歳の親父が現在も健在です。ひょっとしたら私が一番自立できていないのかも知れないと思ったりしました。
 今の世の中はバーチャルとリアルが混在化して、どこまでがリアルでバーチャルなのか、判断に苦しみます。本当はバーチャルの世界なのに、携帯電話の受話器からリアルな生の声がどんどん入り、まるで自分がそこにいるよな臨場感を覚えました。今回の修学旅行は妻が言うように、「私が行かなかったことが一番の収穫」だったのかも知れないと、一人苦笑いした一日でした。

  「これまでは 日程上手く 転がった 今回だけは ミスマッチです」

  「親若く 亡くなった人 それなりに 逞しく生き 自立している」

  「俺などは 今も親父の 支えあり 甘えの構図 いつまで経っても」

  「死ぬか去る これがリーダー 育つカギ 俺もそろそろ ○○○なろうか」

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○徳島県で一番小さい村訪問記(その2)

 徳島県公民館連絡協議会主事部会の現地研修講演を終え、夕方7時から始まる「村づくり住民会議」まで少し時間があるので、村内の小料理屋さんへ教育長さんたちと連れ立って出かけました。夕食を兼ねた懇親会とのことでしたが、まあ凄いオードブル料理の数々にビックリしました。料理を食べながら集まった村民会議役員の皆さんと、色々な話をさせてもらいましたが、世の中とは狭いもので特老の施設長をしている岩角さんの娘さんが、何と双海町へ嫁いできているというのです。しかもその方のお父さんは私の同級生なのですから、驚く他はありませんでした。
 村づくり村民会議の冨長会長さんは43歳だそうですが、若いのに中々しっかりしていて、特産品のももいちごをハウスで栽培しているそうで、旧暦についてすっかり意気投合してしまいました。

 私たちの町で炊き込みご飯、しょうゆ飯、いりこ飯などと呼んでいるご飯が、この地域の郷土料理だそうで、蕎麦の実の入ったおつゆとの組み合わせは絶品でした。また冨長さんが持参した取れたてのももいちごも沢山いただきました。本当は皆さんもお酒を飲みながら懇親会をしたかったのでしょうが、夜の講演会に備えノンアルコールのビールで飲んだつもりの懇親会となりました。
 再び役場横の農業振興センターまで戻り、三々五々集まってきた50人ほどの人を前に講演を行ないました。担当の日下さんから送られてきていた講師依頼書に書かれたとおりの人数が集まり、時間通りに講演会が始まるあたりは、村づくりの基本が出来ていると感心しました。お昼の研修会に続いて村長さんもフルタイムの参加です。お昼と違った話をしなければならないのですが、多少ダブった話もさせてもらいました。私の自己紹介を兼ねたDVDの映写や、名刺の話、電光掲示板の話に会場は大爆笑だったようです。講演後の意見交換は一番後ろに座っていた、20代の女性4人を名指して意見を述べてもらいましたが、しっかりした意見を述べてもらい頼もしい限りでした。

 やがて講演が終わり、村長さんはじめ寒い駐車場に出てお見送りまでしてもらい、もと来た道を引き返しましたが、高速道路までの道は曲がったり細かったりで、一瞬こんな道だったかと不安に駆られましたが、カーナビの助けを借りてほぼ完璧にインターチェンジへ辿り着き、少しスピードを上げつつ安全運転に注意して、ほぼ予定通り12時近くに自宅へ着きました。自家用車のメーターは往復500キロ近くになっていましたが、これほどの距離を日帰りで、しかも講演をダブルヘッターで出来るのですから、高速道路の恩恵、カーナビの恩恵は大したものです。また67歳といえど私の元気ぶりも自分自身で感心するほどです。これも見送り迎えてくれた妻のお陰であり、日ごろの節制で鍛えた体力の賜物です。でも何といっても一番は私を招いてくれた徳島県公連や佐那河内村なのですから、大いに感謝をしなければなりません。主事部会長さんや村長さんに心から感謝します。
 余談ですがそのきっかけは昨年の秋、松山で開かれた中四国公民館大会の席にパネラーとして招かれ、パネルディスカッションで私が気を吐いて話したことが、今回の講演のきっかけになったのですから、分からないものです。私の肩書きは愛媛県公連専門委員でした。

  「わが娘 双海へ嫁いで いるのだと 藪から棒に 言われ驚き」

  「500キロ 思えば遠くへ 来たもんだ しかも日帰り 便利世の中」

  「佐那河内 読み書きできぬ 難しい 一度覚えりゃ 絶対忘れぬ」

  「村という 地名愛媛にゃ ないゆえに どこか懐かし どこかほのぼの」 

 

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