人間牧場

○ハッピーな人生でありたい

 近所の歯科医院にパートで勤めている妻には只今のところ、土曜日は終日仕事のため日曜・祭日しか休みがありません。したがって泊り込みで出かけたりすることが出来ないため、只今のところ行く場所が限定されるのです。この歳になっても妻に働かせるのは夫たる私に甲斐性がないからだと自責の念に駆られていますが、当の本人は働くことは嫌がらず、むしろ少しだけ緊張感があると喜んで毎日働きに出かけているようです。
 妻の楽しみは何年か前アナログ放送から地デジにテレビ放映が変わったころ、買い求めた35インチのビデオ再生機能内蔵のテレビで、毎朝起きると番組予約表をチェックして、見たい旅番組やサスペンスドラマなどを録画して、帰宅夕食後の夜寝る前にビデオを見ることのようです。私は会議などでリタイア後も結構夜家を開けることが多いので、まあそれもいい趣味だと横目で見ていますが、いつの間にかテレビのチャンネル権は妻の手に移ってしまっていて、私など入り込む隙間もないのです。

 仕方がないので私は書斎でパソコンや読書を楽しんでいますが、余り夫婦のすれ違いは好ましくないと妻の横に座って妻の選んだ番組を見せてもらっているのです。昨日は泉ピン子さんと大杉漣さんが主演のドラマを妻と二人で見ました。伊豆半島稲取という漁村が舞台のドラマは診療所に赴任してきた女医と頑固一徹な漁師、そして震災の津波で家族を失った診療所の看護師、漁師の息子などが心の葛藤を繰り広げるのです。2時間番組の途中にはこれでもかというほどコマーシャルが入っているので、その都度コマーシャル部分だけ妻が早送りしてくれ、トイレに行くのも我慢して見続けました。漁師の奥さんは病院をたらい回しにされて亡くなりましたが、生前夫にしてもらいたかった10のことをメモに書いて亡くなりました。「食事を食べたら美味しかったと言って欲しい」とか、「屋根の雨漏りを直して欲しい」「家族3人で花見に出かけたい」など何げなく他愛のないささやかな10のメモは、夫婦の対話の素材になり大いに盛り上がりました。

 はてさて酒好きな漁師が妻に果たせなかった10の望みから比べると、私は妻に及第点を貰うほどいい夫として妻に貢献していると思っていたのに、妻に言わせると私もこの漁師と50歩100歩だと手厳しく言われました。
 「このテレビドラマだけはあなたに見せたかった」と、いいながら見たドラマのストーリーはハッピーエンドでした。わが家もこれから先はどうなるか分からないまでも、蓄えや財産・名誉がある訳でもなく大きな喜びこそありませんが、ささやかなハッピーで推移をしているようです。
 人は悲しいかな何かをなくさないとその存在に気づかないものです。病気になって健康の有難さに気づいたり、家族を失うことで家族の絆の大切さに気づくのです。「人は何のために生きるのか」、このドラマはそのことを問いかけているようでした。家族のため、地域のため、明日のために生きることが正解のようでした。

  「いつの間に テレビチャンネル 決定権 妻に渡って 私おろおろ」

  「何のため 生きているかと 問われたら 家族や地域 明日のためと」

  「深夜まで 二人でテレビ 視聴する あれやこれやと 比較しながら」

  「このドラマ あなたにだけは 見せたいと 妻のたっての 願い叶いて」

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人間牧場

○春が近づいています

満開のさくらんぼの花

 朝晩は冬の余寒がまだ冷たく、一枚羽織らなければなりませんが、日中は吹く風もどことなく柔らかくなって、春が近づいているなあと実感するようになりました。散歩途中の道端に、さくらんぼの花が咲いているのを見つけました。このところの陽気に誘われたのか、今朝はもう満開のように咲いていました。傍で畑仕事をしていた近所のおじさんと立ち話をしましたが、草取りや次の作付け準備をしている姿を見て、他人事ではなくわが家の菜園も、そろそろ作業をしなければなるまいと少々焦りましたが、今は少しだけ体調不良なので我慢のしどころと思っています。

 体調不良といいながら、それでも昨日は午前中1つ、午後1つ、夕方1つ、夜1つと、一日に4つの会合を重ねました。特に午後2時からの愛媛海区漁業調整委員会は、日ごろ使っている水産会館が使えず、少し離れた道後にある県民文化会館の会議室を使ったため、車の駐車を探して娘のマンションに出かけたものの、あいにく娘婿の車が置いてあって駐車できず、止む無く近くの有料駐車場に入れました。会議は1時間ほどで終りましたが、バタバタしてしまいました。
 会議が終って帰宅途中、松前町のギノー味噌本社に立ち寄り、社長さんにお願いしていた味噌の試供品を50個いただいて帰りました。この味噌はスポンサーになっていただいて先日出来上がった名刺と共に、月曜日の生活改善グループの会合と、週末日曜日に出かける広島県福山市での講演会に持参して、ギノー味噌の宣伝に使うのです。

 夕方の子どもおもしろ教室は私が実行委員長をしているので外す訳にも行かず、僅か1時間ながら会議の方向をまとめました。同じ会場で夜7時からサイコーダイガクも昨日が最後のミーティングでした。27日には最後の成果発表会があるようです。一日に4つも会を重ねると、現職でもないロートルには多少疲れを感じますが、年度末と年度初めは、このような終わりの会と初めの会がつきものなので、少し我慢して消化したいと思っています。

双海中学校卒業証書授与式

 今日は朝から双海中学校の卒業式でした。学校評議員をしているので出かけましたが、下灘・上灘とそれぞれの中学校に入学し双海中学校を卒業する最後の生徒たちなので思いも一入の、とても印象に残るいい卒業式でした。

  「何げなく さくらんぼ咲く 道歩く 季節巡りて やっと春来る」

  「別々の 学校入学 したけれど 同じ校門 揃って卒業」

  「一日に 四つの会議 ああしんど ロートルわが身 少し重荷に」

  「味噌五十 二つの会に 持ち歩く 味噌は如何と 名刺を添えて」

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○巨樹風雪と若人の火の移設

 若い頃愛媛県青年団連合会の副会長や会長を歴任して、国立大洲青年の家の誘致運動に情熱を燃やした私にとって、青年の家の持続的な発展は大きな願いであり、国立大洲青少年交流の家と名称が変わった今もこれからも、その願いは変わることはないのです。ゆえに人間牧場主という寂れた肩書きしか持たない私ながら、国立大洲青少年の家の所長から請われるまま、今も運営委員会の末席を汚しているのです。
 15年前青年の家でちょっとした騒動が持ち上がりました。玄関先に青年の家のシンボルとして設置していた樹齢330年の栂の木の大木と中に設置しているトーチを、玄関先が手狭になったことを理由に撤去するという話でした。昭和57年2月、四国の屋根小田深山から営林署等に頼んで払い下げてもらって設置して以来、多くの参加者を玄関先で迎えてくれていた思い出の切り株だけに、その話を聞いた時は耳を疑いましたが、処分するのであれば何とか別の場所へ移動してでも保存したいと願っていました。幸い当時の担当者も私と同じ気持ちだったため、とりあえず双海町へ持ち帰ることになりました。

 当時の丸山町長さんにそのことを話し、わざわざ青年の家まで足を運んでもらって現物を見て、役場のロビーに置くことを決めたのです。予算がないので当時議員をしていた袋田さんに頼み込み、林業に使うクレーンのついたトラックに、共栄製材で借りた台車を積んで、たった二人で引き取りに向かいました、当時はまだその重量は2t近くあったように思いますが、苦労の末トラックに積み込んで持ち帰り、役場職員総出でロビーの中へ押し込み手押しだけで立てたのです。玄関先の自動ドアを痛めないよう注意を払い、突き出た枝をチェンソーで切り落とすハプニングもありましたが、ロビーの真ん中に威風堂々と座りその存在を15年間も誇示し続けてきました。
 その後国立大洲青少年交流の家の職員が替わる度に巨樹風雪を、元の場所へ返して欲しいという話が持ち上がりましたが、いわく因縁を知っている私としては、「はいそうですか」と簡単に応じる訳にも行かず、悶々の日々でした。特に前所長さんと前課長さんは熱心に里帰りを懇願されましたが、市町村合併などのゴタゴタもあって、元町長さんに「お前に任せる」という一任を取り付けてはいたものの、元町長さんの事故による逝去や支所の手続きもあって、それなりの苦労を重ねました。

 折りしも支所ロビーの改修工事という幸運や現支所長さんたちの配慮もあって、また新山所長さんの熱意が一番の実を結び、先日ロビーから運び出されることになりました。城戸運送の運送チームが特注した300kgの特注特製枠を持って支所を訪れ、朝早くから傷をつけたり樹皮を剥がすことのないよう細心の注意を払って、半日掛りでロービーから運び出し、国立大洲青少年交流の家まで里帰りして、展望棟まつぼっくり館に設置することができました。その模様は現地でその一部始終を見守った新山所長のブログ「にいどん」に詳しく記されているので割愛しますが、記録に残すため写真の一部を拝借することにしました。
 木編に母と書いて「栂」(つが)と読みます。考えてみればこの巨樹は元々国立大洲青年の家のロビーにあったものですから、木の母なる場所へ帰るのが一番かも知れません。小田深山から大洲青年の家へ、大洲青年の家から双海町役場へ、伊予市双海支所から大洲青少年交流の家へ、巨樹が旅に出た僅か15年間の間に双海町も青年の家もいつの間にか名前が変わっていました。変わらないのはこの巨樹に寄せた私や所長さんたち関係者の想いだったことが、唯一の救いだったのかも知れません。
 折りしも巨樹の移転に奔走した新山所長さんは4月1日付で、4年間住み慣れた大洲青少年交流の家を後にして、福島の青少年交流の家へ異動が決まりました。

  「巨樹移動 終って所長 自らも 異動するとは 寂しくもあり」

  「栂の木の 空洞燃える 火を見つめ どれほどの人 勇気づけたか」

  「木遍母 これで栂とは 読んで妙 安住の地 やっと見つかる」

  「今は亡き 元町長の 墓前にて 一部始終を 手合わせ述べる」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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○風おこしという情報紙

 かつて私が代表を務めていたえひめ地域づくり研究会議が1年に2回「風おこし」という情報誌を発行しています。タブロイド版4ページなので開けると全紙になる新聞形式です。もともと「風おこし」とう表現は研究会議を結成した折、私が「風おこしのちかい」という文章を書いた中から引用していますが、編集委員会から、研究会議の助成を受けて開いた年輪塾公開セミナーについて執筆して欲しいと清水塾頭を通じて依頼がありました。年輪塾の塾長ですから仕方がないと諦め、1000字程度の原稿を書き上げ、年輪塾の事務局をしている松本さんに送り、先日行なわれた年輪塾の修学旅行報告書の中から武田さんの文章を選び、合わせて編集委員会に送ってもらいました。

 昨日そのゲラ校正を経て出来上がった1ページがPDFファイルになってメールで手元に送られてきました。

風おこしで紹介された公開セミナーの様子

 私の書いた文章はいつもながらの拙文で、そこへ行くと羅列的に並んだ渡辺浩二さんや武田信之さんの文章は、言葉を選んで実に見事で私の文章だけがどこか見劣りがして、寂しい限りです。言った言葉は「言った言わなかった」といいながら記録に残りませんが、文字で印刷されあちらこちらに配られると、それは記録として残るのですから、用心しなければなりません。
 渡辺さんは今回の風おこしで、昨年一緒に深く関わったものづくり文明機構シンポジウムでの畠山重篤さんのことを書いていますが。もし私に同じような原稿依頼があってもこうは書けなかっただろうと思いながら読ませてもらいました。また修学旅行をルポした武田さんの記事も、博学な彼らしい視点で整然と書かれていました。
 ブログに文章を毎日書くようになってから、幾分か上達していると過信していた自分が急に恥ずかしくなりました。

 私が書いたり、私を書いた記事や映像は、地域づくりの現場で永くやって来たゆえに膨大な数量に上ります。何と暇になったらかこれらの資料類を整理をしたいと思いながら、日々の雑事に追われて緒に就くことするらできないで悶々の日々を過ごしています。でもブログという優れものに出会ったお陰で、こうして仲間がPDFファイルにして送ってくれたものを、私の日記に取り込むことができているのですからありがたい世の中になったものです。
 もう少し修行して、いい文章が書けるよう努力したいと思いますが、ひょっとしたら私の書く能力はここいらで上げ止まりかも知れないと、少々弱気になったりもする今日この頃です。

  「同じ欄 仲間の書いた 文章が 載って赤恥 下向き加減」

  「能力の 限界少し 悟りつつ 性懲りもなく 今日も文書く」

  「恥外聞 気にせずこれが 自分流 気を取り直し 胸張り生きる」

  「新聞や 雑誌に載った 記事多数 いつかは整理 したい思いつ」

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○在宅介護支援センターの出前講座

 昨年の12月5日、奥道後の入り口付近にある愛媛県在宅介護支援センターの招きで講演に出かけました。松山から奥道後を経て水ヶ峠を越え、今治に向かうこの道は短時間で今治へ出かけられるので、曲がりくねった道ながら私は時々走るのですが、その折国道に立っている「愛媛在宅介護支援センター」という看板を横目に見ながら走っていましたが、まさかそこへ講演で出かけることなど夢にも思っていませんでした。講演が終え帰ってから間もなくセンターの室長さんから、「西予市と内子町へ出前講座に行って欲しい」とご依頼がありました。「中身は12月5日に聞いた話がとても良かったので」とおだてられたものですから、調子に乗って出かけることにしました。

西予市文化会館中ホールで行なわれたボランティア研修会

 西予市は3月6日ボランテァ協会の会員さん相手で、西予市文化会館中ホールで百人を越える大勢の人の集まりでした。西予市にはこのところ地域づくりグランプリの審査や全国過疎問題シンポジウム、物づくり文明機構シンポジウムなど、片手の指に余って出かけていて知り人も多く、中には私が講演に来るからとわざわざ駆けつけてくれる熱心な知人友人もいて、嬉しい出会いを重ねました。
 この日は天気も良かったので少し早めに出かけて伝建地区の町並みを見学してから会場入りしました。偶然にも入り口付近で、卯のほたる実行委員長の藤本明美さんに出会いました。藤本さんは軽い脳梗塞で体調を崩しているらしことを風の便りで聞いて心配していましたが、元気な姿での久方の出会いを嬉しく思いました。講演を終わって帰宅後日、藤本明美さんや何人かの参加者から嬉しいお便りをいただき、恐縮してしまいました。

 

 内子町は介護老人保健施設「アンビションうちこ園」という施設でした。JR内子駅の裏手高台にある施設で、インターネットで調べた地図に沿って坂を登って行きました。施設内に入ると看護師長の柏木公子さんが、自分の部屋へ案内してくれました。聞けば20年以上も前、八幡浜市千丈小学校へ私が講演に出かけた折、私の話を聞いて大いに勇気付けられたというのです。柏木さんのことはよく覚えていませんが、千丈小学校へ講演に行ったことは今もはっきり覚えていて、縁の不思議を感じました。
 この日はうちこ園を利用しているお年寄りの家族会研修の日で、30人ほどの人が集まっていました。同じ出前講座でも相手や人数が違うし目的もまちまちなので、多少戸惑うこともありますが、何とか役目を果たすことができました。

 私に講演の依頼をする人たちの多くは、まず「お金がないので」と前置きをします。事実私の講演相手先は社会教育や福祉、それに地域づくりなどが多いのですが、それらの分野はこの20年間、相も変わらず予算の増えない活動を強いられています。「お金がないので」を前置きされると、「お金があったら私以外の人に頼むの?」と言いたくなりますが、そのことを理由に断わる訳には行かず、「はいそちらの都合で結構です」と快く受諾するのです。まあ年金で何のとか暮らして行けるので、むしろ私はお金の多少よりも、講演の充実感ややる気の方を大切にするのです。出前講座は現場のそうした懐事情を解決する方法のようでしたが、2会場とも熱心な主催者や参加者に助けられいい研修会となりました。

  「金がない まず言う言葉 名セリフ 断わる訳に 行かず快諾」

  「出前だと 少々冷めたり のびたとて 文句は出ない そんな気持ちで」

  「二十年 前にあなたの 話聞く 言われて記憶 辿りたどりて」

  「会場に 知人友人 来てくれて いつも変わらぬ 話に花を」 

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人間牧場

○191交流協議会”輝”に招かれて

 広島県から島根県へ通じる国道191号沿線に生活圏をおく島根県益田市豊川・真砂・東仙道・都茂・二川・道川の6地区が、191交流協議会”輝”を設立して活動をしています。そのリードオフマンはそれぞれの地区公民館で、それぞれの地域の課題解決、活力ある地域の再生、地域を支える人材の育成を目的として、お互いの取り組みを尊重しながら助け合い、連携・協力を進めています。
 この会が設立された時、この地域の生涯学習などの講師として深く関わっていた私に大庭会長さんから顧問就任の依頼がありました。顧問くらいだったらと安請け合いで引き受けていたことを、すっかり忘れていましたが、会長さんから毎年のように講演の誘いがあって、その都度広島宇品まで送り迎えしていただくリップ待遇で、今年も昨日出かけました。送り迎えはその都度会場となる地区の公民館が引き受けるためまちまちで、誰が担当するかはその日にならないと分からないのです。今回は島川館長さんが送り迎えを担当してくれました。

 昨日は「輝き」の念願であった青年部を立ち上げることになり、10人ばかりの青年が大谷温泉に集まって昼食を兼ねたランチミーティングという小粋な集会が持たれ、私も顧問兼講師として招かれました。美味しい昼食を食べながら自己紹介を兼ねた話し合いが行なわれ、請われるままにショートコメントをはさみながら2時間ばかりお話が進みましたが、どの若者もしっかりしていて、いよいよ若者たちの出番であることを強く感じました。私はこの日のために愛媛特産のデコポンを5kg用意して運び、皆さんにご賞味していただきました。
 来年度は是非青年のメンバーで人間牧場を訪ねたいと言っていたので交流を楽しみにしたいと思っていますが、それにしても青年層がまちづくりに関わることの少なくなった昨今、こうして立ち上げようと努力した大庭館長や島川館長のひた向きな努力に、さらにはその呼びかけに呼応して参加した青年たちに大きな拍手を送りたいと思いました。

 公民館やまちづくりの現場に出向くと「青年が集まらない」とう言葉をよく耳にします。確かに青年団も殆んどなくなり、公民館やまちづくりの現場から青年の姿が消えましたが、それは集まらない青年が悪いのではなく、むしろ青年を集めることができないのではないかと思ったりするのです。特に田舎では青年の数は確かに減りましたが、青年全てがいなくなった訳ではありません。青年を集めるには青年の集まる条件を整備してゆかねばなりません。必要課題と要求課題のバランスも大切です。私たちのように自らが青年活動をやった経験のある人間には、そこら辺のサジ加減が分かるのですが、青年の意識や行動を分からない人や分かろうと努力しない人には、青年を集めることは不可能に近いことなのです。
 いつの時代も青年の瞳の輝きがない地域は輝かないし、未来の輝きも期待できないのですから、「輝」という集団が「青年の瞳の輝き」に期待するのは当然のことかも知れません。私も今一度顧問という役職に少しだけ軸足を置き換え、彼ら青年たちの自立に向けた活動の手助けしてみようと思いました。

  「『顧問です』 言われてそうか 思い出す これも役職 軸足移し」

  「青年の 瞳輝く 地域には 未来が見える 頑張れ拍手」

  「ランチ食べ 一人ひとりが 自己主張 昔の私 見ているようで」

  「往復に 十時間もを 費やして たった二時間 だけどいい会」 

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人間牧場

○島根県益田市へ出かけていました

 今日は朝5時30分に妻が早い朝食を作ってくれ、身支度を整えながら食事を終らせ、5時に軽四トラックで自宅を出ました。カーラジオのスイッチを入れると東日本大震災から一年ということもあって、早朝から東北の地震や津波、それにその後の様子が特番で組まれ放送が始まっていました。「早一年か!」と思いつつラジオを聴きながら車を走らせました。目的地は島根県益田市へ行くため、瀬戸内海を船で渡るための船着場である松山観光港です。早朝なので港までの道は空いていて松山観光港まではゆっくり走って40分ほどで着きました。今日は集まった人たちにデコポンを差し入れするため5kg箱を運ばなければならないので、一旦観光港まで荷物を持参して、友人の家の駐車場まで引き返し、車を置いて10分ばかり歩きました。早朝の道を散歩がてら歩くのは気持ちがいいもので、十六夜の月が私について歩き足元を照らしてくれました。

 (帰宅後ここまで書いて、風邪気味で体調がいまひとつなのを気づかった妻から、「ブログ書き」を止めるように言われましたので、今日はこの辺で納めておきます。お休みなさい)。

 (今朝続きを書いておきます)

 松山観光港から広島県広島市宇品までは高速船とフェリーが走っていますが、宇品港での待ち合わせが9時なので、6時25分発のフェリーに乗れば9時に着く計算でフェリーを選びました。昨日は日曜日ということもあって乗客も多く、私は乗船すると座席でなくマス席の隅を選んで横になりました。貸し出し用の毛布と枕を借り仮眠を取りました。早朝で疲れていたのか1時間余りぐっすり寝込んで、音戸の瀬戸のループ橋の下をくぐるころ、差し込む朝日で目が覚めました。船は穏やかな瀬戸内海を走り、途中呉港に寄港して宇品に向かいましたが、その間持参したジョン万次郎に関する本を読みながら、同室した若いカップルがイチャイチャする姿を横目にリラックスして時を過ごしました。

 港には島川館長さんとセンター長さんが迎えに来てくれていました。察するに多分私と同じ時間ころ家を出たのではないかと思われ、改めて頭が下がる思いがしました。宇品から広島高速~山陽道~国道191号を通って益田へ向かいましたが、恐羅漢スキー場付近からは猛吹雪となりました。予期せぬ季節はずれの吹雪に足元を掬われた車が何台も立ち往生していましたが、島川館長さんの車は四WD、しかもスノータイヤなのでスイスイ走り、あっという間に中国山脈を越え、約3時間で目的地の大谷温泉へ到着しました。大谷温泉は山間の奥まったたった一軒の温泉宿でした。沿線には沢山のアジサイやつつじが植えられていて、また川の両護岸は見事な石積みが続いて、小川のせせらぎやカジカ、蛍、花の頃はさぞかし美しかろうと推察しました。

  「同じ頃 出たと思しき お互いが 待ち合わせして 同行三人」

  「時ならぬ 恐羅漢の 猛吹雪 行く手を阻み それでも先へ」

  「雪と風邪 あなどるなかれ 妻の弁 雪はさて置き 風邪悩まされ」

  「山奥の 大谷温泉 一軒家 若者集い 話弾みて」

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人間牧場

○送られてきた月刊ガバナンス

 2~3日前、月刊ガバナンスという一冊の本が送られてきました。現役の頃は仕事に役立たせようと、こうした類の月刊誌を何冊か定期購読して、情報入手の手段にしていました。決して高くもない役場職員の給料の中から、毎月決まったように出てゆく本代は、財布を預かる妻にしてみればもどかしい気もしたでしょうが、妻も私の向学心を理解してくれ、本代が高いとか付き合い酒を止めろなどとは一度も言いませんでした。私もそのことを承知して、極力小遣いを使わないよう気を使ったつもりでした。
 月刊ガバナンスはぎょうせいという出版会社が作っている雑誌ですが、同じような第一法規という出版会社があります。いずれも法規や法令集、条例などの加除が主な仕事で、官公庁向けの出版も手掛けているのです。

 先日松山市内を歩いていたら、私が現職のころ本を売りに役場にちょくちょく顔を覗かせていた、第一法規の人にばったり出会いました。立ち話で余り長い話はしませんでしたが、最近は市町村の役所に行っても、本を買ってくれるような人は殆んどいないそうです。インターネットが普及して本の役割が終ったのか、役所の人が勉強しなくなったのか分かりませんが、確実にそういった人にめぐり合わなくなったと嘆いていました。役所の人に言わせると今は給料氷河期で、毎年のように給料が下がって、人事院勧告などあってもないようだそうです。確かにこう世の中が不景気だと税金で賄う公務員の給料は、世間から比べると安くなったといいながら、ノルマがある訳でもないし、余程悪いことをしなければ止めさせられることもないのですから天国かも知れません。ゆえに公務員志望は相変わらず多いのです。しかし給料が安くなったから勉強をしないというのは筋違いで、論外もはなはだしいのです。自分の能力を進化させてゆくためには、それ相応の投資が必要で、投資なくして効果はあり得ないのです。

 さて私に、何故月刊ガバナンスという雑誌が送られてきたのか、意味不明のまま封筒を開けると、編集局記者の名前で献本文書が入っていました。少しの時間を割いて目を通しましたが、P106を開いてやっと献本の意味が分かりました。「もっと自治能力を」「広がる自主研修・ネットワーク、「地域に飛び出す公務員を応援する首長連合」「公務員よ!・飛び出せ!、やり出せ!、頭出せ!」とまあ過激な中見出しが沢山目に止まりました。「地域に飛び出す公務員を応援する首長連合(代表=古川康佐賀県知事)の初サミットが1月28日、松山市内で開催された。職員と首長が思いを率直に語り合う首長&職員飛び出す甲子園なども実施。首長連合の支援を得て、今後、さらなる地域に飛び出す公務員の活躍が期待される」とリード文は続いていました。
 元祖!飛び出す公務員の自負を持つ私も、この集会にゲストコメンテーターとして招かれたことが、「人間牧場主若林進一さん(元愛媛県双海町職員」と、誤字でほんの数行紹介されていました。若松が若林になっていたことくらいで目くじらを立てることはありませんが、献本していただいた記者に感謝しながら、折に触れて中身を熟読させていただきました。

送られてきた月間ガバナンス

 その中に「人は紙なしでは生きられない」という新しいフレーズを見つけました。確かに活字を印刷した紙類は少なくなりましたが、トイレだっていくらウォッシュレットになっても紙なしでは用も足せないのです。リサイクルや植林等紙を巡る社会も随分様変わりしてきました。一方ではこうして送られてきた一冊の月間ガバナンスという本でさえ、多分今年の内には紙ごみとして捨てられる運命にあるのです。
 紙は私たちに多くの恩恵をもたらしました。ペーパーレス化がいくら進んでも紙の要らない社会はないのです。今一度そんなことを考えながら、紙から得るであろう情報を大事にして生きて行こうと思いました。

 

  「献本と 書かれた雑誌 若林? 俺はいつから こんな名前に?」

  「献本の 意味も分からず 封を切る 中身は濃くて 一瞬昔」

  「売れないと 嘆くセールス 久しぶり 原因PC いやいや勉強」

  「この本も 今年中には 紙ごみに 紙を大事に 言いつつ処分」 

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人間牧場

○3月8日はみつばちの日

 昨日の朝、いつものように書斎の壁に掛けている大きな日めぐりをめくっていると、3月8日は満月・国際女性デーとともに、「みつばちの日」であると書かれていました。この3年間、人間牧場や自宅の裏山で日本みつばち飼って、いささかなりともみつばちに思いを寄せている私にとっては、みつばちの日が特別な日のような気がするのです。早速昨日は朝食時にトースターで焼いたパンに、ハチミツを塗って妻と二人でみつばちの日のことを話しながら、美味しくいただきました。
 私がみつばちを飼うようになったのはもう三年も前です。人間牧場を作ってからアウトドアーな生き方に興味を持ち始め、地域づくり人養成講座で野村町山奥組の井上登さんと交流会で知り合い、早速彼の元に入門しました。入門といっても特別な修行がある訳ではありませんが、春の蜜蝋塗りや日本ラン・キンリョウヘンでの誘引、ハチミツの採取などなど、幾つものハードルを手取り足取り今も教えてもらい、手助けを受けているのです。

 お陰様で初年度の3年前には4升余りのハチミツを採集しました。残念ながら2年目は不作ででした。それでも3升5合は採れたのですから立派です。そして昨年は秋採りも含めると5升以上となり、私が最初計画した1年目1升、2年目2升、3年目3升、4年目4升、5年目5升という目標を3年間で達成する充実振りでした。しかしこれらの成果は井上さんの手助けなしにはできなかったことだし、馬路村の木下さんを介して山岡さんからもらったみつばちの巣箱のお陰なのです。
 昨年から同居を始めた長男息子も私に輪をかけたアウトドアー派で、私が採集したはちみつを勝手にいろいまくり、インターネットで容器の瓶を購入したりラベルを作ったり、時には糖度計で水分を85パーセントまで引き上げるなど、独自の勉強をして勝手に薀蓄を並べているのです。お陰であたかも商品化されたような綺麗なハチミツの瓶詰ができて、仲間や友人にお裾分けをしているのです。

 ハチミツにどの程度の栄養があるのか、またその栄養は体にどのような効果をもたらすかはまた不明ですが、エジプトピラミッドの時代からその存在が確認されているのですから、これはもう立派な自然食品だと思うのです。私は師匠が首を横にしか振らないのに、昨年秋採りを敢行し、多くのみつばちを犠牲にしてしまいました。裏山には種蜂として秋採りをせずに残していた箱に、少し気温が上がるとみつばちが出入りして様子を伺っているようです。寒かった冬もやっと峠を越し、間もなく花の季節がやって来ます、みつばちは花に群がり蜜を集めます。みつばちが集めた蜂蜜を人間様が横取りするのですから、多少心が痛みますが、これも世の中の流れでしょうか。今年の目標は少し控え目に4年目5升です。採集したハチミツは皆さんにお裾分けして少しでも味わってもらいたいと思っています。

  「みつばちを 飼ってハチミツ 集めたる 3月8日は 感謝の日です」

  「この3年 何度みつばち 刺されたか しっぺ返しの 刺し傷痛む」

  「ハチミツは 体にいいと 妻が言う 知らないくせに 息子も同じ」

  「今年の 目標4升 ノルマ立て そろそろ準備 養蜂作業」

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人間牧場

○花二題

 私が北海道へ行っている間に、新聞に二つの花の話題が乗っていたようです。一つは双海町閏住地区の菜の花が咲いたという話題です。伊予路に春を呼ぶのは椿さんだといわれていますが、今年は椿さんも1月末に終ってしまい、厳しい寒さだっただけに、菜の花の咲く春が待ち遠しくて、やっと咲いたかと、閏住の菜の花畑の前を通る度に、その咲き具合が気になって仕方がありませんでした。双海といえば早春の水仙、双海といえば春の菜の花といわれるようになるまでには、みんなの努力があってこそで、何にもない地域でも事を起こして地道に活動すれば、それなりに成果はあるものだと、皆さんの努力を讃えたいと思うのです。

愛媛新聞に掲載された菜の花の話題
 もう一つは桜の話題です。今年は日本列島を寒波が襲い、北日本ではドカ雪が降り、西日本でも年明けから寒い日が続きました。そんなこともあって、気象庁が話題を提供している桜の開花は4月にずれ込むのではないかと危惧されていますが、春の来ない冬はないので、桜前線の北上を待ちたいと思っています。
 私が代表を務める21世紀えひめニューフロンティアグループでは、3年間で1000本の桜を愛媛県内に植える、「千本桜の森づくり事業」を行なっていますが、3月5日の新聞に、伊予市中山町佐礼谷の住民グループ「住民自治されだに」が、私たちの事業に賛同して110本の桜を4日に植えたことが載りました。今回植えた桜は、10年もすれば花見の出来る立派な桜の公園が出来るはずで、1000本桜の森づくり事業も順調に進んでいて、私は北海道へ行っていて顔を覗かせませんでしたが、フロンティアのメンバーが世話をしてくれました。
3月5日の愛媛新聞に掲載された桜植樹の話題
 菜の花にせよ桜にせよ、みんなが努力さえすれば必ず花を咲かせるのです。蒔かない菜の花は生えないし、植えない桜は育たないのです。とくに桜はこれから10年、草刈りや施肥等をしなければ立派な公園になることはないのです。今年も私たちのメンバーである日浅大工さんが、桧の柱で標柱を作り、そこへ佐賀山さんが腕をふるって、文言を書いて桜の隅に立ててくれたものと思われます。大野事務局長のこうした気配りも裏にあるのであるのです。10年後が楽しみです。
  「菜の花が 咲いたと新聞 紹介す 春が来たぞと 嬉しくなりて」
  
  「蒔かずんば 種は生えない 植えずんば 木々は育たず 言いふらしつつ」
  「もう私 いなくなっても 大丈夫 花守人が 多く育ちて」
 
  「10年後 俺は七十 七となる 桜の花見 出来るだろうか」
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