人間牧場

○更生保護女性会での講演

 数日前、双海町更生保護女性会山口会長さんから電話連絡があり、総会で講演をして欲しいと頼まれました。私は一年中色々な所へ出かけてお話をする機会がありますが、地元での講演は限られていて、喜んで引き受けました。仲間の話によると知人や友人が多くいて、地元では話しにくいのだそうですが、私はそれほどな苦手意識はなく、むしろいい機会だとポジティブに捉え、進んで出かけるようにしているのです。
 山口会長さんは下灘本村の景徳寺というお寺の奥さんで、住職さんは私が講演等で度々訪れたことのある大分県本匠村(今は佐伯市)からこられた人であり、双海史談会のメンバーとして一緒に活動していて、よく知っているのです。

 山口会長さんは常日頃から更生保護のボランティア活動を熱心にやっていて、特に子ども体験塾の活動には年間を通し、スタッフとして参加してもらい、人間牧場へも度々足を運んでもらっているのです。その山口会長さんの頼みとあらば、例え火の中水の中と進んで引き受けました。そして昨日の午前中総会に出席し、1時間余り「心豊に生きる」という演題で思いつくまま楽しいお話をさせてもらいました。
 会場にはかつて私が公民館主事をしていた頃、婦人会や婦人学級で知り合いになった、私と同じで決して若くはない元美女の皆さんが30人近く集まっていました。

 昨日家を出る時、近所の小泉の奥さんに出会いました。小泉さんは京阪神に住んでいて警察官をしていたご主人が、退職されたのを機に近所に土地を求めて家を建て、引っ越してきた見るからに都会的センスの方です。同じ組内ということもあって、また花や俳句と多彩にして多芸なため、時々立ち話をしているのです。
 出会うなり「若松さん今日は背広を来てお出かけ?」と笑顔で声をかけてくれました。私もすかさず「あら奥さん今日はお目かしいて何処かへお出かけ?」と声を掛け合いました。小泉さんは「今日は誘われて初めて更生保護女性会に行きます」と答え、私も「更生保護女性会へ講演に出かけます」、小泉さん「まあご一緒ですね。楽しみです」、「私「車でご一緒しませんか」、小泉さん「健康のために歩きますので後ほど会場で」、私「はい宜しく」と会話も弾みました。

更生保護女性会の総会

 総会は30分ばかりで終わりました。私の話はまず、景徳寺の和尚さんに山口会長さんから頼んでもらって下書きした「恩」という文字について話しました。この文字は私の大好きな文字なので、少し大書して表装掲額し、人間牧場の戒めとして飾りたいと思っています。「恩」には恩返し、恩に報いるなど色々な表現がありますが、現代の私たちに欠けている思想だと思うのです。因み+心=恩をこれからの子どもたちに教えてやりたいと思っています。
 昼前に講演を終わり、自宅へ帰ると妻と嫁がいました。「今日のお話はどうだった?」と聞くので、「いい雰囲気だった」と参加していた人たちの顔ぶれ等を話してやりました。

  「地元では 知り人多く 何処となく 話しにくいが かえって楽し」

  「懐かしき 人々集う 講演会 若き日頃の 思い出浮かぶ」

  「更生の 手助け全て ボランティア 見習わなければ 心に思う」

  「会の歌 星野哲朗 岡千秋 演歌調です 思わず涙」 

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人間牧場

○古い麦藁帽子は質素倹約の教え

 昨日は初夏を思わせるような陽気で暑かったし、朝から夕方まで外での作業をしたため、今年初めて麦藁帽子を被りました。この麦藁帽子はリタイアしてから2代目のもので、ツバの少し小さめな帽子の内側にthyaina(中国製)と書いていて、れっきとした外国製品なのです。多分金額は500円だったと思われますが、スーパーの店頭で買い求めたもので、もう4年も愛用しているのですっかり古くなって、昨日孫から「おじいちゃんその帽子汚い!」と言われ、妻からも「格好が悪いからそろそろ買い換えたら!」と悪評を叩かれてしまいました。

 

愛用自慢の麦藁帽子

 しかし私がこの麦藁帽子を被る理由は、太陽の光で顔が日焼けするのを防ぐことと、作業中に木々の下をくぐったりする時、頭を木々にぶっつけないよう守ってくれるためのもので、別にスタイルを気にして被っている訳ではないので、孫の言葉には「この麦藁帽子は、おじいちゃんの体を守るため神様からいただいた物なので、大事に使っているんだ」と説明してやり、妻の言葉には「この帽子格好いいだろう」とむしろ自慢をしてやりました。
 実はこの帽子が何故このように薄汚れたように見えるのかといえば、原因は雨に何度も濡れたからなのです。草刈機やチェンソーを使った農作業中はやたらと汗をかくし、草クズや木クズが飛んできて付着するのですが、雨でも被るため全てが混じって醜いアヒルの子になったようなのです。

 孫と妻に言われたため、そっと室内で被って洗面台の鏡に写してみると、確かにもう古くなっていて、私の田舎者のような顔が一段と田舎者に見えてきました。しかし私はこの麦藁帽子が気に入っていて、今年も破れたりなくしたりしない限り買い換えるつもりはなく、もうひと働きしてもらいたいと思っているのです。私は戦争中(昭和19年)に生まれ、戦後の物の不自由な時代に育ちました。いわば「勿体ない世代」です。リタイア後貧乏な年金暮らしをしているからといって、千円弱の麦藁帽子は買おうと思えば買えるのですが、「買えないのではなく買わない」と、たかが麦藁帽子くらいながら、主張を貫いているのです。

 一事が万事といいますが、こんなささやかな実践はこの2年間で益々意識が強くなっています。35年前から続けている金融広報アドバイザーの仕事に加え公民館に勤めて「ミエ・ムリ・ムダ」を省く教育を受けたこと、またこの2年間私が塾長を務める年輪塾で二宮尊徳を勉強したからです。「質素・倹約」は金次郎の教えなのです。外見や見た目を気にするような年齢はもうとっくに過ぎており、これからもこの古く見える麦藁帽子のような人生を、「質素・倹約」を旨としながらしっかりと生きて行きたいと思っています。
 今日も朝から雲ひとつない快晴で、このブログを書き終わった6時58分、書斎から見える東の山の端から朝日がまばゆく顔を覗かせました。今日も暑くなりそうです。麦藁帽子さん今日も宜しくね。

 

4月25日の日の出

  「その帽子 汚いと孫・妻 言うけれど 俺にとっては 宝物   のよう」

  「昨日から 初夏を思わす 太陽が 天地注いで 帽子遮る」

  「何につけ 質素倹約 肝銘じ 実践こそが 尊徳教え」

  「麦藁で 編んだ帽子は メイドイン チャイナ製です 五百    円也」

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人間牧場

○牡丹茶会に招かれて

 先日松前町神崎にある曹洞宗一輪山晴光院というお寺の奥さんから、一本の電話がかかってきました。聞けば「私のお寺でお話をして欲しい」と言うのです。1月17日に松山インター近くの昌福寺というお寺で講演をしたことが、参加した人から口伝で伝わったらしいのです。私は「呼ばれたら刑務所以外何処へでも行く」をモットーにしているので、快くお引き受けすることにしました。
 ところがこの晴光院というお寺はこの3年、相次いで亡くなった叔父と叔母の菩提寺で、私はそのお寺の墓地には何度か墓参りに行っているし、4月8日には叔母の3年、叔父の一回忌のためお寺を訪ねることが決まっていたのです。「4月8日にお寺に行った折打ち合わせをしましょう」ということで電話を切りました。

艶やかに咲いた牡丹の花 4月8日にお寺での法要を済ませてから住職さんと奥さんを交えお寺で打ち合わせをした折、「4月22日にお寺で牡丹茶会があるので来て欲しい」とチラシをいただきました。この日は人に会うこと以外さしたる会合もなかったので、泊まりに来ていた孫尚樹を誘い出かけました。この日は雷雨と南の風が強いあいにくの悪天候でした。10時30分頃お寺の境内に車を止めて寺の中に入ると、伊予市の渡辺さんなど顔見知りの人が何人か受付をしていました。記帳を済ませて境内に咲いている見事な牡丹の花を見ようとした瞬間、突風が吹いて受付のテントや風流を囲ったヨシズなどが吹っ飛んでしまいました。 まるで私が悪風を運んできたかのような錯覚にとらわれました。とりあえず私は強風の吹く中でヨシズの取り外しを手伝いました。その姿を見て住職さんも恐縮しているようでした。真民さんの「念ずれば花開く」の前にて

 本堂内には絵手紙やお花などの作品展が開かれていて、沢山の人が見学したり雑談をしていました。奥さんに案内されて本堂続きの新築間もない立派な茶室へ案内され、抹茶の接待を受けました。ここにも大勢のお客さんがいて、奥さんはあいさつの中で、私がこの秋公演に訪れることを少し吹聴するような口ぶりで話され恐縮してしまいました。
 孫尚樹も茶菓子と抹茶を少し苦そうに味わっていましたが、前回叔父叔母の法要で訪ねた時は、茶室の存在も牡丹の存在もまったく気づかずだったとは、うかつもはなはだしいと自分の視野の狭さを嘆きました。外に出てもう一度念入りに牡丹の花を観賞しましたが、それは見事に咲き誇っていて、御影石に囲まれた境内ゆえにまた見応えがあり、寺山揮毫の一輪山という名前に恥じない立派な寺だと感心しました。

お茶室での茶会

 お寺は住職や奥さんの良し悪しで決まると、幾つかの寺を訪問する度に思います。住職さんや奥さんの思いが寺の諸施設を充実させ、人を集めるのです。多分新春間もなくに出かけて講演した昌福寺と同じように今年の秋に予定されている私の講演会も盛会だろうと、想像しながらはてさて何を話そうかと、少し心を引き締めました。お寺で出会った何人かの人は、「講演会には必ず来るからね」と声もかけられいよいよ責任重大なようです。
 受付で私は手縫いのティシュペーパー化粧カバーと、「感謝」「ありがとう」と書かれた小さな四角いマグネットを、孫尚樹はお菓子をそれぞれお土産にいただきました。

 

 

 「風流な 牡丹茶会に 招かれて 孫とお茶席 入りて味わう」

  「苦いけど 美味しかったと 孫の口 お茶の緑が 残りて笑う」

  「突風を 連れて私は 来たようだ 一瞬テント 空に舞い落ち」

  「境内に 見事牡丹の 花咲いて 一輪山の 毫に納得」  

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人間牧場

○上灘四国八十八ヵ所参り(その2)

 犬寄土俵辺りの幻60番が一番標高的には高い位置にあるため、閏年を理由に逆打ちをしたお陰で、その後の巡拝は下り・下りで随分歩くのに楽をしました。というのも犬寄土俵から日尾野の柆野口までの坂道は、車が入らないためどうしても歩かなければならないのです。坂道といいつつ道幅もあって柆野の集落内も日尾野までの道も、苦労することなく歩くことが出来ました。途中柆野公民館横の茶堂で一服しました。
 この場所にある大きな木の名前が前回巡拝した時、どうしても分からなかったのですが、同行の竹田さんの話によるとどうやらコガの木ではないかというのです。コガは木の性質はねばいため猫車等の材料として使ったそうです。

 日尾野に入ると気温も随分上がって汗ばむほどの陽気になりました。途中福島県から来て西岡さんの家を借り、農業をしている渡辺さんの家に立ち寄りました。赤石さんの息子さんが文句も言わず歩いているので、渡辺さんの庭先で飼っている黒豚を見せてやりました。在宅中だった渡辺さんが黒豚に白菜を与えると美味しそうに食べている姿を見て、赤石さんの息子さんの顔に正気が戻ったような気がしました。日尾野公民館横の石仏をお参りし、車に乗って岡の地蔵寺まで下りました。地蔵寺には7体の石仏が合祀されていて、しかも前回本堂の屋根替え工事をしていた時は、7体が取り外されそこら辺に転がされていましたが、今回は工事も終わってジェット噴射で綺麗にお身ぬぐいがされていました。

 地蔵寺から川本さん宅裏を経て三島公民館までは再び歩きました。そして翠小学校近くの広沢さん宅横の石仏、久保まで巡拝し12時30分になったので、一旦シーサイド公園まで下って木村商店で弁当を買い、公園砂浜を見下ろす一角で昼食を取りました。私は妻の作ってくれた愛妻弁当を食べましたが、心地よい気候と心地よい疲れで美味しくいただきました。
 その後本覚寺、灘町2丁目、灘町5丁目地蔵尊と海岸沿いを参拝して、いよいよ最後の難関西谷へ入りました。昔西谷の奥には今は廃集落となっている宮の滝という集落がありました。その関係もあって人里離れた場所にあるような気持ちです。池田勇さん宅横の石仏も薮を少し掻き分けるような雰囲気でしたし、西谷の宮田さん裏の石仏は断崖絶壁上にありました。前回参拝の折イノシシが石仏を下まで蹴落としていた場所なので心配していましたが、今回は3体とも無事でした。

 両谷の集落と中の宮集落が見渡せる両谷墓地の入口付近にある石仏を拝み、特老夕なぎ荘近くの県道まで歩いて下り、中の宮、久保公民館横と飛び飛びにある石仏を参拝し、いよいよ最後の正光寺に通じる井ノ口さん横の道沿いにある木の根っこに埋もれた石仏を拝んで、やっと正光寺の88番まで帰りました。時刻は午後3時になっていました。私の携帯についている万歩計を見ると1万2千歩を越えていました。車で回ったといいながら、かなりの歩数に驚きました。
 正光寺では住職さんにもお会いし、裏庭を見せてもらったり、正面玄関の咲き始めた霧島つつじの見事さに心洗われる思いがしました。心配していた雨にも会わず、厚くも寒くもなく全員元気に結願です。一年に一度はお参りしたいと、疲れも忘れて話しながら地域事務所前で散会しました。

 赤石さんからブログ用の写真が4枚送られてきました。その一枚一枚を見ながら先人の偉業の凄さに驚いています。誰がどんな思いで上灘八十八ヵ所を開いたのか、その話は江戸時代に遡るので定かではありませんが、少しずつベールを脱ごうとしている上灘村の歴史に思いを馳せました。

  「今回が 二度目巡拝 巡り終え 心地よい風 体に受ける」

  「石仏は 八十八体 違う顔 一つ一つが 微笑みかけて」

  「願い等 せずにひたすら 拝みたる 米のみ供え 米八十八」 

  「六人に プラス一人の 子ども連れ 最後は子ども また一人増え」

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人間牧場

○上灘四国八十八ヶ所参り(その1)

 昨日は午前中曇り午後雨という、しかも雨の降る確立は50パーセントとかなり高い数値でした。それでも公民館が上灘四国八十八ヵ所参りを有志でやろうと計画していたので、妻の作ってくれた弁当をリュックに入れ、地域事務所前8時30分集合という時間どおりに集まりました。公民館の赤石さんは今年小学校一年生になったばかりの息子さんを連れ、後は双海史談会会長の木曽さん、事務局長中尾先生、それに史談会メンバーの武田さん、大森さん、それに赤石さんとともに案内役を務める私を含めた7人で、時間通り出発しました。2月20日に上灘四国八十八ヵ所を1番から88番まで赤石主事、宮栄館長と私の3人で巡拝の予備知識を得るため回りましたが、今回は今年が閏年なので逆周りをしようと88番から始めることにしました。この日は天気のことも気になっていたので、10人乗り公用車のワンボックスカーで全ての順路を回る予定でした。

臨済宗東福寺派正光禅寺の山門にて

 最初の88番も最後の1番も翠小学校の近くにある正光寺の境内なので、寺の山門下の道端に車を止めて急な石段を本堂前まで登りました。私や赤石さん、中尾さんはこの程度の石段はどおってことありませんが、他の人は早くもきつそうで先が思いやられました(笑い)。般若心経を覚えている木曽さんの読経で巡拝の安全とお大師さんへの祈りを捧げました。
 本堂前で記念撮影しいざ出発です。逆打ちなので、一回しか回っていない私には、場所を思い出すのがやっとで、これでは先達は務まらないと、改めて思考回路の浅はかさを嘆きながら大栄集落の入口から順次始めました。赤石さんが作ってくれた資料を見ながらお米やお賽銭を供え、石仏の番号や刻まれた旧国名、寺名、本尊、台座などを、中尾さんが持参したLED懐中電灯を当てながら、詳しく学習させてもらいました。私のような無信心な者も回る人が信心深いと同じように手を合わせ祈るのです。また史談会の人たちのように石仏の特徴を研究しながら歩く姿にも大いに感心させられました。

88番から逆打ちで

 大栄、奥大栄では殆んど人に会うこともありませんでした。中山と境を接する高見に出た旧高見公民館跡では、私が公民館に勤めていた頃交流のあった2人の女性に出会いました。あれから30年以上も経っているの、でかなり高齢になられていて、懐かしく当時を思い出しながら立ち話に花を咲かせました。その後おきよ池、犬寄、一番高地の土俵にある石仏まで車を進めました。この場所付近に前回までの調査でまだ発見されていない60番石仏のことが話題になりました。幻の60番を何としても探さなければならず、いずれ調査に入りたいものだと思いました。
 折角来たのだからと林道犬寄~茅山線に入り柱状節理が露出している場所を見学することにしました。それにしてもこの柱状節理は圧巻で、私も二度目ですがみんな感心して見学しました。少し荒れ気味な林道なので車の回転が出来る場所も見当たらず、車の巾しかない狭い道で回転をしました。

  「閏年 ゆえにお参り 逆さ打ち 記憶歯車 逆さに回す」

  「友人は 般若心経 空覚え 私なんぞは それも出来ずに」

  「同行は 二人にあらず 七人で 雲行き気にし 次から次へ」

  「六十番 探せど行方 見つからず お大師さんの 力を借りて」 

見事な柱状節理

 

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人間牧場

○息子家族の不在

 同居している長男が職場の研修旅行(本当はどうだか?)に、この週末韓国へ出かけたので、息子嫁は孫二人を連れて出里の松前町へ2泊3日で行ってしまいました。日ごろは朝6時過ぎに起きて、夜8時に寝るまで、何かと賑やかな孫たちがいないと、家の中が静まり返って、何となく落ち着かないから不思議です。
 昨日の夜は妻は仕事、私は友人のお母さんの通夜式に参列したため、二人が自宅へ相次いで帰ったのは夜8時過ぎでした。昨日は昼間講演のダブルヘッターだったし通夜式への出席のこともあって、孫たちがいないことをすっかり忘れていて、自宅へ帰るといつものように「ただいま、今帰ったよ!」と声をかけると家の中から妻が、「そんなに大きな声を出さなくても、帰ったことは分かります」と玄関先へ迎えに出てきました。そして「希心君も奏心君も里へ行って留守でしょうが!」といわれて、初めて我に帰り「そうだった」と、唖然としてしまいました。

 昨日は孫たちが留守なのでお風呂も夫婦同浴とばかりに二人で入りました。わが家では余程のことがない限り毎日お風呂を沸かし、入浴するため昨日の湯上りのお湯は二人だけだと汚れもせず、いつもは風呂上りに湯栓を抜いて掃除をするのですが、何か勿体ない気がして、テレビを見終えて就寝する前に妻は、「勿体ないから」と、もう一度風呂に入っていたようです。
 孫がいないといつもと勝手が違って、家の中はまるで灯が消えようです。息子も嫁も孫二人も帰りは明日日曜日の夕方だと聞いていますが、親父も息子嫁の車がなかったり、孫の声が聞こえないので、「何処かへ行ったのか?」と心配して聞きに来る有様です。親父は息子も息子嫁も孫までもいないので、親子喧嘩でもして家を出て行ったのではと心配したのかも知れません。

 今朝は自分が郵便ポストまで新聞を取りに行きました。普段は孫たちが「僕のお仕事」といって、私の食卓へ新聞を持ってきてくれるのですが、どうも勝手が違って、新聞の読み方まで何処かしっくり来ないのです。今夕はその寂しさを紛らわせるように、娘が友人と食事会があるとかで、孫尚樹を預かって欲しいと依頼があり、夕方妻と二人で道後のマンションまで迎えに行きました。お兄ちゃんの朋樹はサッカーの練習があるとかで来れなくて、直樹を連れて夜8時半ころにわが家へ連れて帰りましたが、ところが肝心の尚樹は昼間遊び疲れたのか、松前付近でチャイルドシートに乗ったまま寝てしまい、自宅に帰ると私たちの蒲団に寝かせて、夢の世界を旅しているようです。今晩は孫尚樹と二人で寝ることになりそうです。

 

 

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人間牧場

○旧北条市を訪ねる

 重信町と川内町が合併して東温市になり、久万町と美川村、面河村、柳谷村が合併して久万高原町、伊予市と中山町、双海町が合併して伊予市、砥部町と広田村が合併して砥部町、松前町が合併せず松前町、そして松山市が北条市と中島町が合併して松山市と、中予といわれる地域の15市町村が7年前、6市町に再編されました。私たちの伊予市のように、双海町や中山町といった旧名を残して合併した所は、「昔の名前で出ています」とばかりに今でもよく分かるのですが、久万高原町や松山市のように旧市町村名をなくした所は、一瞬「えっどこだったっけ」と思い出したり訪ねりするのに一苦労なのです。

 昨日は久しぶりに松山市と合併した旧北条市へ講演を頼まれて出かけました。講師依頼の文書もいただいていなかったので、前々日に確認の電話があった時、「9時半ごろ市役所の近くのJA北条へ来てください」といった担当女性の説明を頼りに出かけました。かつて北条市役所もJA北条へも出かけたことがあるので鷹を食って安易な気持ちで出かけました。
 北条は国道196号線沿いにあって、高速道路を利用することはできないので少し早めに出かけました。北条といえばかつては朝のラッシュに混雑した忌まわしい過去の思い出が蘇ってきましたが、今は片道2車線の立派なバイパスが着いていて、少しどころかとてつもなく早く到着したので、北条のシンボル的存在である鹿島を遠目から一目見ようと船着場へ向かいました。

旧北条市のシンボル鹿島

 春真っ盛りの瀬戸内の海は穏やかに鏡の如く凪いで、沖合いは少し靄がかかっていました。車を路側帯に止めてそこら辺を散歩していると、何人かの女性が散歩している集団に出会いました。私がデジカメで写真を撮っていると、気さくに声をかけてくれました。ええ歳の私のことを「お兄さん何処から来たの?」と言われたものですからつい嬉しくなって、「はい私は双海町から来ました」とついうっかり伊予市と言うのを忘れてしまいました。「双海町といえば夕日の綺麗な町でしょう。シーサイド公園があったり、菜の花が咲いたりするいい町よね」と連れの女性と私に話しかけるのです。わたしは更に嬉しくなって、ここぞとばかりに饒舌に双海町のことや夕日のことを話しました。「お兄さん詳しいのね」と誉めてくれました。「あそこに役場の職員でまちづくりで、時々新聞やテレビに出る名前は忘れましたが有名な人がいるよね」と、名前は思い出してもらいませんでしたが、私のことまで知っているのには大驚きでした。

北条と安居島を結ぶ連絡船

 聞けば鹿島は鹿の食害や度重なる風雨災害、それに松食い虫の被害にあって荒れるに荒れて、かつての面影はないそうで、シンボルだった島の現状を嘆いていました。高縄山と鹿島はまさに北条のシンボルなので、何とか保存伝承して欲しいものだと話ました。北条港の少し奥まった所に少し小型の定期船が止まっていました。沖合いに浮かぶ安居島と北条を結ぶ航路を走る船なのです。漁師をしていた頃何度か安居島は訪ねているし、離島青年協議会の招きで研修会に出かけた折も、この船に乗った記憶が蘇りました。
 9時前になったので急いでJA北条へ記憶通りの道を車を走らせ、無事会場に着きました。担当の中川さんが駐車場まで出迎えてくれ、2階控え室へ入りました。そのうち150人もの参加者で会場は埋まりました。タイトルは「地域を元気に」でした。時間が押したため正味の講演時間は80分ほどに短縮されましたが、あうんの反応で大いに盛り上がり、終始笑いの絶えない楽しい講演会となりました。会終了後国道沿いの福田屋という料理屋さんで、役員さんたちと昼食会が持たれ、沢山のご馳走をいただきました。

  「旧北条 久方訪ね 散歩する 地元の人と 楽しお喋り」

  「お兄さん! いきなり私 若返る 嬉しくなりて 饒舌語る」

  「シンボルの 鹿島危ない 思いつつ 写真に収め 少し散策」

  「八十分 笑い絶やさず 講演す 握手までして 嬉しい別れ」

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人間牧場

○懐かしきかな宇和島

宇和盆地に姿を現した巨大な藁マンモス象

 昨日は愛媛県消費者講座の一環として、えひめ消費生活センター友の会宇和島支部の総会が、愛媛県南予地方局7階大会議室であり、記念講演を頼まれて宇和島まで出かけて行きました。今年の3月に西予市から宇和島まで高速道路が開通し、今週末から南予いやし博が開かれるとあって、久しぶりの宇和島を楽しみにしていました。私の町からだと伊予市に出て伊予インターから高速道路に乗れば、1時間余りで宇和島に着くのでしょうが、そんなに急ぐこともないので少し早く出て、国道378号線を八幡浜まで南下、旧宇和ボウリング場へ出ました。八幡浜双岩から宇和までの岩城付近では、先日テレビで紹介されていた藁ぐろ活用による、藁の巨大マンモス象のモニュメントを、後続の車がいないことをいいことに、道端に車を止めて車内から見学させてもらいましたが、聞きしに勝る秀作に感心しました。

鬼ヶ城に向かって伸びた高速道路

 西予市から、開通後初めて高速道路に乗りました。前日友人から聞いていたのですが、西予インターから旧津島町までは宇和島道路と言って、通行料金が高規格道路並みで無料なのです。国道56号線は法華津峠を越えて旧吉田町を通りますが、宇和島道路は山側の旧三間町を通って、宇和島へは20分ばかりで到着しました。駅の裏手にある南予地方局は何度も足を運んでいる場所なので駐車所へ車を止めて、総務県民課のある4階まで行きました。担当の二宮さんや今春から総務県民課に係長として異動した長岡さんとも出会い、早速おこがましくも局長室へ通され面談しました。局長さんはその後私の講演まで聞いてもらい恐縮してしまいました。また講演会場には沢山の知り人が来られていて、穴があったら入りたいような心境でしたが、まあ何とか90分の講演を終わることができてホッとしました。

 南予地方局7階の窓からは西に宇和島城、別名鶴島城が綺麗に見えました。思い返せば半世紀50年も前、私はこの城の下の枡形町で3年間、高校生として暮らしているのです。目と鼻の先にある愛媛県立宇和島水産高校漁業科に入学遊学した思い出の地であり、朝な夕な仰いでいた城山を見ながら思い出に耽りました。
 控え室からトイレに行くため大会議室東側の通路を通りましたが、真下には宇和島駅の機関区があって、そこの引込み線にトロッコ列車が一台止まっていました。ふとこれも懐かしい思い出が蘇りました。私が夕日を売り出すのに夢中だったころ、私はJR四国の社長さんにハガキを出しました。「JR予讃線海岸周りにトロッコ列車と蒸気機関車を走らせて欲しい」と書いたのです。社長さんはこの二つの私の願いを聞き入れて、後日二つとも夢を叶えてくれたのです。窓越しに見えるトロッコ列車は紛れもなく、その時のものだと思いついつい嬉しくなりました。

宇和島城の遠景

 講演が終わり長岡さんの見送りを受けましたが、帰りに宇和島市役所商工観光課へ旧友谷本さんを訪ねました。谷本さんがえひめ地域政策研究センターで研究員をしていた頃、私もえひめ地域づくり研究会議の代表運営委員をやっていて、地域づくり全国大会の事務局を担当した谷本さんと、地域づくり全国大会の実行委員長を務めた私とコンビを組んで、宇和島を舞台に多いに羽ばたいたのです。
 初めて宇和島の地に足を踏み入れてから50年の時は巡りましたが、九島の公民館主事だった松本さんが商工観光課の課長さんになったり、全日空から出向していた小林さんが去り、代わって冨田さんが着任していたり、思い出に浸る悲喜こもごもの去り難き一日となりました。

 

懐かしいトロッコ列車

 「窓の外 遠く近くに 思い出が ここは私の 始発駅かも」

 「そこここに 知り人ありて 懐かしく 在りし日話す 歳をとったと」

 「窓越しに 見えるトロッコ 走らせて くれた社長の 顔浮かべつつ」

 「局長の 部屋に通され 恐縮す 無位無官ゆえ 値打ちも無きに」

 

 

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人間牧場

○いっぷく亭春の講演

 伊予市商業協同組合の理事長として長年にわたって活躍している徳本研三さんから、「若松さん、いっぷく亭で冬春夏秋と年4回、皆さんの前で講演してくれませんか」と頼まれました。いつもの事ながら「呼ばれたら刑務所以外何処へでも行く」と気楽な気持ちで引き受けたものの、はてさて参加者の顔ぶれが殆んど一緒の人に果たしてどんな話をすればいいのか、今頃になって事の重大さに気づいてしまっても、後の祭りのようです。でも引き受けたからにはやらねばと、昨日は「宝塚春の公演」ならぬ「若松進一春の講演」を行いに出かけました。徳本さんから3月末に電話が入り、「商業協同組合の新聞チラシに、春の講演の演題を載せたいのですが何にしましょうか」と相談があり、これまた気楽な気持ちで「『ニコ・ピン・コロの人生』というのは如何でしょうか」と即答してしまいました。

いっぷく亭での講演

 昨日は午前中親類の漁師さんから見事なチヌとコブ鯛の2匹をいただいたので、その粗調理を妻から頼まれていたので1時間余りその作業にかかってしまいました。魚の料理をすると幾ら妻の割烹着を借りて着ていても、手や服に魚の臭いがつくので、終了後は朝風呂に入って念入りに洗い流しましたが、すっかり長湯をしてしまい、講演前というのに程よい疲れを感じていました。
 いっぷく亭には4分前に到着しましたが、会場には午前中のくるみ絵教室参加の皆さんが殆んど残っていいて、手持ち無沙汰に講演時間が来るのを待っていました。ふと何年か前フロンティア塾に永六輔さんを講師に招いた時、永六輔さんは30分前にやって来た人を見て、「正直者が馬鹿を見るのじゃこの世は浮かばれない。早く来た人にとっておきの話をしましょう」といって、いきなり話を始めました。私のそうしようと急な思いつきで簡単なレクリェーションを思いつくままやり始めました。

いっぷく亭のチラシ

 これがまあ大受けで、みんな楽しく手遊び程度のレクに夢中になり、時間通り後からやって来た人は会場に入るなり、大笑いで盛り上がっている会場に入るなり、「何事か?」と不思議そうに入って来ました。
 講演は谷岡さんに促されて5分前に始まりました。昨日はどこでどう知ったのか顔見知りの2人の男性も一番前に陣取り、熱心に聴いていただきました。講演の落としどころは「ニコ・ピン・コロ」なのです。ニコニコ=生きがいを持って生きる、ピンピン=心も体も健康に生きる、コロリンシャン=寝たきりにならないで天寿を全うして生きるについて、お話をさせてもらいました。
 ギノー味噌の田中社長さんからいただいた商品を皆さんにお裾分けして、ぬかりなくギノー味噌の宣伝をさせてもらいましたが、次回は7月17日火曜日で決めました。「夏の暑い盛りが始まろうとしている時期だな」とせみ時雨を思い出しながら、心浮き浮きしつつ会場を後にしました。
  追伸 郡中いっぷく亭のチラシに、下半分を使って講座の案内といっぷく亭のおばちゃん日記が載っていました。

  「春講演 まるで宝塚 思いつつ いっぷく亭で 楽し講演」

  「早く来た 人と一緒に レクレーション これが大受け みんな笑顔で」

  「ニコニコと ピンピン生きて コロリンシャン こんな人生 ありたいものよ」

  「ああ今日も 楽しく生きた 思いつつ 心ほのぼの 家路を急ぐ」

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人間牧場

○お爺さんは山へ柴刈りに(その1)

 「昔々あるところにお爺さんとお婆さんが住んでいました。お爺さんは山へ柴刈りに、お婆さんは川へ洗濯に出かけました」で始まる日本の昔話。また3日前の年輪塾で聞いた、二宮金次郎の話に出てくる「薪を背負った金次郎像」を、髣髴するような作業を昨日行いました。
 これだけ聞いただけでは「、エッ、一体何のこと」と思われそうですが、昨日は公民館の赤石主事さんと久保さんの協力を得て、人間牧場で来月行われる子ども体験塾のプログラムの一環として、子どもたちに薪割りを体験させるため、近くの友人の持っている杉山へ行き、間伐している杉の木を運び出す作業を行いました。

間伐材の搬出

 私が子どものころの昔は、ご飯を炊くのも風呂を沸かすのも全て柴や薪だったため、「山へ柴刈りに行く」という表現は当たり前に聞こえ、親に連れられて雑木林へ焚き木を広いに出かけたものでした。その頃は子どもも貴重な労働力で、自分の身の丈にあった専用の背負子が用意されていて、母親の背負った焚き木の多さに驚きながらも後からついて歩き、肩に食い込む背負子の紐の痛みを感じつつ手伝ったものでした。
 そのころは冬になると、農家に頼んでいた薪用のクヌギの木が一年分届き、朝な夕なそのクヌギを鋸で切ったり、マサカリで割ったりするのも子どもの仕事だったのです。切れぬ鋸と割れる薪に悪戦苦闘しながら手に豆を作ったり、その豆が潰れて血が滲むものの、それはいつしかタコのように硬くなっていました。

 

クヌギの木の伐採

 エネルギーがガスに替わってからは、かまども五右衛門風呂も薪も、またそうした子どもの重労働もいつしか消え、今はかまど、五右衛門風呂、薪、マッチ、背負子などを子どもに話しても、「えっ、それ何?」とまるで死語の世界なのです。
 幸い子ども体験塾の舞台となる人間牧場にはかまども風呂もあって、最近ピザ釜まで出来ているので、子どもたちにそこで使う薪を作る作業も体験させたらいいと思い、昨日の作業と相成った次第です。最近は杉や桧の森林もたとえ間伐しても、間伐した木は林の中に放置され腐らせてしまうのです。勿体ないから再利用をしようと、山主である地域事務所の井上課長さんにお願いし、リンドウや農道がついて比較的楽に運べる場所を下見して出かけたのです。

 

人間牧場での小切り作業

 山林の中にはこれでもかというほど、間伐された手ごろな杉の木が横たわっていました。その中の杉の木を手当たり次第チェンソーで、軽四トラックの荷台に積めるような長さに切って、担いで道まで運び出し荷台に積み込みました。私のトラックと公民館が用意したトラックに積み込みが終ると、次はクヌギの木を1本切ることにしました。これはかまど小屋のインテリア用に使うためです。人間牧場のかまどの下には作った時、公民館の宮栄館長さんにお願いして、クヌギを分けてもらったものを、薪にして納めていたのですが、いつしかそのことを知らない人たちが、その薪を使い減ってしまっているのです。薪をうず高く積んだ姿はとてもシンプルな田舎ならではの姿なのです。

  「薪・かまど ましてや煙 それは何? 子どもに言っても おとぎ話だ」

  「杉山に 分け入り干ばつ 品定め 次から次へ チェンソー切る」

  「杉山に チェンソー音 甲高く 響き渡りで 静寂破る」

  「間伐の 木々もやがては 土となる 勿体ないと 思いつ運ぶ」

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