人間牧場

○一日をうまく使えば幸せな眠りがやってくる

 私の日課は朝4時起床です。寝るのは12時ですから一日の睡眠時間は大体4時間くらいです。一緒の蒲団に寝ている妻は11時くらいに寝て7時の起床ですからまあ8時間といったところです。夫婦二人でもこんなに寝る時間が違うのですから、睡眠時間は人それぞれなのです。妻からは「そんなに眠る時間が短かったら、今に寝たきりになる」などと呆れられていますが、そんな私でも人間牧場での農作業がきつかったり、旅に出て疲れると少し長めに寝る事だってあるのです。

 昨日の夜は双海人というまちづくりの勉強会が地域事務所であって、9時に自宅へ帰りました。書斎でメールを返信したりして、10時にテレビの前に座り妻と録画していたサスペンスを見ていると、ついウトウトして気がつけば11時になっていました。急いで書斎へ入り地域政策研究センターの河野さんから送られてきた舞たうんの校正文章を読みましたが、眠気眼では校正もできず、本を読もうとしたものの集中できず、11時30分に蒲団の中へ入りました。私の場合は寝つきが早いので、ものの5分もすれば熟睡して夢の世界なのです。このところ忙しいものの一日一日が充実していて、イタリアの画家レオナルド・ダ・ヴィンチが「一日をうまく使えば幸せな眠りがやってくる」と言っているとおり、幸せな眠るを楽しんでいるのです。

 今朝親父がやって来て、「夕べは余り眠れなかった」と吐露していました。93歳になる親父は足腰が弱り、気力が減退してゆく自分の老い先のことを考えると眠れなくなり、朝が来るのが待ちどおしというのです。今朝は気弱に「特老へでも入りたいが、どこかいい施設はないものか」と孫である息子に言ったそうです。息子は「じいちゃん、あそこは行ったら帰って来れん」と耳元で話したら、「それは困る」とあっさり否定しました。親父にとって特老のような施設は上げ膳据え膳で夢のような場所だと思っているのかも知れません。「たまにはデイサービスに出かけてはどうか」と勧めても行こうとしない親父が、施設へ入ることは先ずないのでしょうが、これは親父の「寂しい」というシグナルだと思いました。

 そういえば「一日をうまく使えば幸せな眠りがやってくる」という言葉そのままに、何だかんだと言いながら幸せに暮らしている私も、忙しさにかまけて親父の隠居へ覗く時間が近頃少ないようだと深く反省したのです。今は息子嫁が自宅にいますが、息子嫁もそのうち子どもが大きくなったので働きに出ようと時機をうかがっています。そうすると昼間は親父ひとりになるのです。近所に住んでいる親父の姉妹や、私の兄弟姉妹が時折ご機嫌を伺いにやって来てくれますが、やはり寂しさは隠せないようです。私たち夫婦も高齢者となり、世に言う老老介護ですから、これからは大変です。
 まあそんなこんなで親父は日中昼寝をしたり、夜も7時から寝ているので、寝れないはずだと思いつつ、親父の体が気になる孝行息子なのです。

  「一日を うまく使えば 幸せな 眠りできると 先人曰く」

  「寝れないと 漏らす親父は 昼寝して 夜も早よから 眠って安心」

  「上げ膳と 据え膳対応 特老は 天国のよう 親父は思う」

  「寝れないと いってる言葉 シグナルと 受け止め今朝は 親父と話す」

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人間牧場

○逆手塾(その5・出会った人々)

 今回の逆手塾では、和田芳治会長・和子さんご夫妻、宮崎文隆事務局長・貞江さんご夫妻、三良坂夢まつり一座の中田正敏さん、作木の安藤周治さん、世羅の田中一裕さんなど逆手塾のメンバーに加え、三和の坂田尚也さん、因島の今井和美さんなど広島組の懐かしい人々に出会いました。また熊本大学の徳野貞雄さんや、香川の山本文子さん、かがり火の菅原欣一さん、京都の吉田好宏さんなどとも旧交を温めることができました。そして熊本のコッコファーム松岡義博さんや岡山の銘建工業の中島浩一郎さん、広島のNPO法人わくわく元気舎奥田祐子さんなど、新しい出会いも随分あり、私の大脳・小脳・感性を多いに刺激してくれました。

 参加者の皆さんから貰って持ち帰った資料の数々を整理しながら見る度に、それぞれの人がそれぞれの場所で元気に頑張っている姿に、深い感動を覚えるのです。
 帰り際二人の人から貴重な資料をいただきました。銘建の中島浩一郎さんとコッコファームの松岡義博さんです。中島さんからいただいた「MEIKEN]という立派な本は128ページにも及ぶもので、集成材の出来るまでや集成材を使った建物の数々がカラー写真で紹介され、とても綺麗な本でした。帰宅後設計をしている息子にお土産として手渡しましたが、息子は既にこの本の存在を知っていて、手持ちのようでしたが、息子の書斎の本棚に並べておきました。

 コッコファームの松岡義博さんは「松岡義博の人生訓」という一枚のパンフレットです。本は買いそびれましたが、座右の銘「厳しき道、されど我が道、愛の道」というタイトルで、①バランスのとれた5つの健康(体・心・金・家族・奉仕)、②参謀を作り諮問機関での意見を大切に、③誰と出会えるかによって人生観が変わる、④話せば分かる人間関係、⑤過疎こそ宝だ、クレームこそ宝だ、⑥お客様のニーズに応えるな、⑦出入り口の表示も考え方次第、⑧グラスのビールは3分の1にしておこう、⑨人生100倍のホラを吹け、⑩多数決で物事を決めるなどの十訓が書かれていました。末尾には「今からでも遅くない人生設計(これからどう生きていきたいのか)明確に!と発奮を促していました。

 私は追々この人たちにハガキを書いています。私から便りが届く等と思っていなかった人の、驚きを作るのも仕事であり、この作業でやっと逆手塾の参加プログラムが終るのです。既に私の元へはメールで沢山の近況が寄せられていますが、とりあえずメールは返信し、私のブログ記事もこれで終わりにしたいと思っています。写真の挿入が間に合わず、文章だけの報告に終っていますが、2~3日内にはその作業も終えたいと思っています。
 追伸
 逆手塾事務局長の宮崎さんから、「抱きしめて笑湖ハイヅカ」という338ページにも及ぶ分厚い本とCDをいただきました。インクの匂いのする本をめくると、宮崎さんの汗の臭いが伝わってきました。「記録しないものは記憶されない」という、民俗学者宮本常一の言葉が蘇ってきました。私は密かにこの本が逆手塾30周年の集大成だと思いました。宮崎さんの汗に感謝と敬意を表します。
 追伸
 私も控え目に夕日徒然草・水の書・火の書・風の書をそれぞれ10冊ずつ持参し、合計30冊を図書コーナーに置かせてもらいました。宮崎さんの奥さんが店番をしていましたが、嬉しいことに完売でした。夕日徒然草を買った人からサインを求められ、マジックで「人でも仕事でも愛する所に集まってくる」「夢はドリームではなくターゲットである」「人は逢えば逢うほど逢いたくなる」という三つの言葉を書きました。今回の貴重な売り上げ金は、自転車操業宜しく、間もなく発刊する夕日徒然草・空の書の印刷代に回そうと思っています。

  「古き友 新しき友 加わりて 人の温もり 新たなページ」

  「『サインして』 いきなり頼まれ 殴り書き この歳なりて 顔を赤らめ」

  「それぞれの 人がそれぞれ それぞれの 人生語る 俺もそれぞれ」

  「記録する 故に記憶に 残るから 言い聞かせつつ 記憶を辿る」  

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人間牧場

○第30回逆手塾記念大会(その4・私の記念講演)

 6月9日午後1時から始まった第30回逆手塾記念大会は、休む間もなく昼の部・夜の部と続き、会場をふるさとセンター田総、和田邸と移しながらも再び午後11時からふるさとセンター田総へ戻って夜なべ談義に入りました。ここでも1徳野貞雄のワンマンショー、2山本文子のいのちの応援話、3(若松)進ちゃんの笑う会、4中島さんをしゃぶる会、5松岡さんと農業と後継者、6薗ちゃんと遊び半分を極める会、7パンさんと歌う会の⑦グループに分かれて突っ込んだ話が展開されました。私の所へも7~8人がこじんまり集まり、多いに議論を深めました。私の出番はこの時点ではまだなかったため、初めて参加した人には知名度が今一でしたが、顔見知りの京都の吉田さんや三次市の坂田さんが陣取って、私への鋭い質問が1時間半ほど続きました。12時30分を過ぎたところでお開きにして、冷めたお風呂に入り夢の世界へ旅立ちましたが、隣の蒲団に熊本大学の徳野貞雄先生が寝た悪運で、朝まで大きないびきに悩まされ眠れない一夜を過ごしました。

 外が明るくなった午前5時に起き身支度を整えて、山本文子さんや東京組と街中を歩いて少し遠めの道の駅まで散歩をしました。田舎の早朝国道ゆえ通る車も殆んどなく、ワイワイガヤガヤ話しながらウォーキングを楽しみました。
 朝食が終わり二日目から参加した人が加わって二日目のプログラムがスタートしました。トップで「日本には笑いが足りない」という演題で、私が記念講演をしました。僅か1時間の短い時間なので、用意した35話の中からかいつまんで笑いを誘うお話を連発しました。①木になるカバン、②コマーシャル名刺、③携帯電光掲示板、④赤字になったら黒いボールペン、⑤私の作った夕・日・日コーヒー、⑥毎日3時間の掃除で観光カリスマ百選、⑦夕日の望遠鏡、⑧じゃこ天のおばちゃんのマックスファクターお化粧、⑨夕焼けソフトの裏話、⑩馬鹿な子が吹いてもリコーダー、⑪氷の実験、⑫PTAとかけて何と解く、⑬私は灘校・灯台出身、⑭三万個のトマト、⑮ポケットから種を落とした菜の花畑、⑯落伍家大根心、⑰国鉄は出来た時から国+金+失=大赤字、⑱金次郎と同行二人、⑲携帯電話の着信音は水戸黄門、⑳一千万円を貯める法などを面白おかしく話し、多いに盛り上がりました。

 過疎や里山拡命など、田舎のどちらかというと暗くて重たいことがテーマの逆手塾なので、誰の話も多少の笑いはあっても、明るさに欠けているため、手前味噌ながら私の話は際立っていました。多分このプログラムを企画した和田さんや宮崎さんの狙いも、演題の通り日本には、いや「過疎逆には笑いが足りない」と思っているのです。
 私は夕日亭大根心という芸名?で、落語ならぬ落伍をやっていて、そのネタ本夕日徒然草に目論みどおり150話を執筆して創作落伍に仕上げ、人間牧場・水平線の家の切り株高座で演じているのです。時には涙を誘う汗と涙の物語を、笑いの力に変えているのです。笑いは人を和ませます。また笑いは生きる勇気や希望を与えるのです。その点地域づくり人にはまだまだ笑いが足らないと思うのです。

 昨日和田さんから出張先香川県高松に向かう列車の中へ、携帯電話がかかってきました。過疎逆講演のお礼と感想、それに参加者からの反応の様子を知らせてくれたのです。そして感想を一枚書いて欲しいと頼まれました。和田さんはパソコンメールをやっていないので、書いた原稿はFAXでとのことでした。文字を書くのが上手い人は得てしてパソコンから縁遠いものです。ということは私のブログも読んでいないのかもしれないと思いました。
 私が毎日朝晩書いているブログに、今日のこの記事を含めると、逆手塾のことは4本も書いているのに・・・・と思いつつ、現代流の情報発信の盲点が見え隠れし始めました。

  「気がついた  俺にゃ笑いの 武器がある これから先も 磨き研いて」

  「田舎には 笑い足りない そう思う 笑いの伝道 師になろう」

  「笑えるか! こんなに暗い 世の中を 故に笑いが 大事なんだと」

  「失敗を 笑いに変える 術を持つ 私天才 楽しく生きる」

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人間牧場

○逆手塾(その3・地域づくり人のバックボーン)

 今回の逆手塾では30回記念大会らしく、これまでの総括が随所にちりばめられていました。その一つはこれまで30年間、そして今も逆手塾のカリスマ的存在であり続けている会長の和田芳治さんについてでした。和田さんは私より一つ歳上の昭和18年の生まれです。高校を卒業して地元に残り、地元の役場に就職して教育委員会や企画セクションを渡り歩き、教育長を最後に退職した人生は私とよく似ています。またレク活動と青年団活動の違いこそあれその根底に流れている思想というものも、また地域づくりに対する熱い想いも、まるで自分の姿を鏡に写しているようによく似ているのです。

 私は常々書けて喋れて、実践が出来たら一人前と言ってきましたが、和田さんにはその3つが全てさりげなく細やかにちりばめられているのです。いわば私が理想とする人物像は和田さんかも知れないのです。私にない歌が歌えること、私にない達筆なこと、私にない理想を持っていることを考えると、同じようだとおこがましくも言ってはいますが、お互いの健康年齢から考えると、和田さんの域に達するのは至難の業だと思うことが沢山あるのです。まあ人それぞれ、オンリーワンだと思えば私にだって何か和田さんにない特長があるのでしょうから、卑下したり悲観することはないと、持ち前のポジティブな生き方が見え隠れするのです。

 今回は和田さんの家庭という、和田さんのバックボーンとでも言うべき、和田さんの家庭を幸運にも見ることが出来ました。地域づくり人にとって自分の家庭は見せたくない部分と、見せたい部分が同居しています。私の場合は自宅に煙会所や海の資料館海舟館などを造って多いに開放し、これまで沢山の地域づくり人を自宅に迎え入れてきました。

 (今日はこれから高松へ出張しますので、続きは帰ってから書きますのでご容赦下さい。帰りは夕方遅くになります。)

 数年前から和田さんから送られてくる恋文や人間幸学研究所の資料の中にそれとわなしに、築200年の自宅を改修して食処和み亭を開いた話や奥方和子さんの話が出て来ていました。また息子さんである和田周大さんとは観光の仕事で何年か前、広島市内でお会いしましたが、中国地方総合研究センターの主任研究員として立派に成長され、今回の逆手塾では「新しい公共のモデル」と題した研究テーマでお話をされました。

 今回は会食交換会が和田さんの自宅で催されたこともあって、初めて和田邸を訪問し、行き届いた奥さんの手料理やもてなしに心を温かくしました。私は時々地域づくりの現場で、「貴方の元気の源は何ですか?」と問われることがあります。その都度「家庭や妻のさりげない手助けだ」と答えてきました。これはお世辞やゴマすりではなく、私の人生は妻や家族なしには語れないのです。
 男同士ゆえ反感反目しがちだった息子も、人間牧場建設に当って設計を担当し、すっかり親子の絆が深くなり、今では息子家族と同居をしたり色々な議論を重ねるまでになりました。和田さんの息子さんから比べるとわが息子はまだまだだと思いつつも、とりあえず和田さんと同じ目の高さでお話が出来るようになったと喜んでいるのです。

  「お互いの バックボーンは 家族にて 自慢をしつつ 今日も元気に」

  「親と子が 一緒に活動 出来ること これも幸せ あれも幸せ」

  「照れくさく 口じゃ言えぬが 妻に礼 やりくりしつつ 今日を迎える」

  「わしだけは 歳はとらぬと 思いつつ いつの間にやら 高齢なりて」

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人間牧場

○第30回記念逆手塾(その2・田舎は寂しくも過疎逆は元気)

 一くくりのエリアとして「中四国」という言葉が使われていますが、そのエリア内にあるる私の住んでいる伊予市双海町も四国愛媛の田舎です。でも中国産地のど真ん中にある中国広島庄原市総領町は失礼ながらもっとド田舎です。私の町から国道378号~国道156号~しまなみ海道~国道2号~山陽自動車道~尾道道~国道432号と乗り継いで高速道路を使っても、総領町へは3時間半もかかるのです。
 自宅を少し早めの7時30分に自家用車で出発しました。気楽な一人旅なので、国道432号沿線では上下町の町並みを見たり、珍しい神社仏閣があると休憩のつもりで立ち寄り、私の出番が二日目ということもあってのらりくらりの気ままな旅でした。進むに連れて過疎を体験するように行き交う車の数が段々少なくなっていることを実感しつつ、総領の道の駅にひとまず到着しました。土曜日の昼頃なのに利用者も少なく、ガラス張りの球形イベントホール内ではカラオケ大会の準備でしょうか何人かの人がマイクテスト等を行っていました。お店の中へ入りましたが、「どうですか?」と訪ねた店員さんから、「不景気ですね」という諦めにも似た声が寂しく返ってきました。

 会場となるふるさとセンター田総は平成8年の第14回と平成17年の第23回にゲストとして招かれているので、私の記憶が正しければこれが3回目のようです。蛇足ながら平成18年には第24回の逆手塾がわが人間牧場で行われているので、逆手塾への参加は4回目です。
 昼前に会場に入ると既に12時からの受付、13時からの開始に向けて準備の真っ最中でした。ホールの中へ入ると和田さんはじめ懐かしい顔顔が温かく迎えてくれました。手作りの広島風お好み焼きとおにぎりをいただきながら、簡単な打ち合わせを行ないました。聞けば参加予定人数は120人のようで、遠くは北海道札幌や九州熊本まで、逆手塾の衰えぬ人気を感じさせられました。
 今回は30周年ということもあって、ゲストも面白い人が招かれていて、今話題の木質バイオマスで発電をして成果を上げている銘建工業株の中島浩一郎さんや農業法人コッコファームの松岡義博会長さん、ご存知いのちの応援舎理事長山本文子さん、日本余暇学会会長薗田碩哉さん、徳島大学教授徳野貞雄さん、歌でふるさとを元気にする奥田佑子さん、耕作断念地10haをみんなで耕す過疎地の救世主山根京司さんなど、新旧織り交ぜたた顔ぶれでした。

 逆手塾は県北レクが源流なので、歌で始まり歌で終るという言葉がピッタリで、いきなり「草を刈れ」という和田さん作詞の歌が会場一杯にボリューム一杯で披露されました。
 ♭草を刈れ 刈った草で牛を飼え
  牛のウンコで米作れ
  一粒三千倍の米力
  食糧危機も怖くない
  コツコツがんじょう花が咲く
  コツコツがんじょう夢が咲く
  コツコツがんじょう花が咲く
  コツコツがんじょう人も咲く♭

 開会あいさつは逆手塾会長の和田芳治さんの「『里山拡命』ってなんだ?」です。和田さんは私より一歳年上、私と同じ元役場職員、私と同じ元教育長です。役場でも教育委員会や企画セクションを歩き、最後は教育長という経歴までよく似た経歴を持っていて、違う点は和田さんが過激、私が温厚?といったところでしょうか?。まあ何だかんだといいつつも家族を巻き込んだり自宅を地域づくりに多いに開放している点では同類哀れみなようです。
 和田さんは理想主義者で、変換ミス?と思える言葉遊びを得意としていて、革命を拡大の拡としたり、人間を人源、市民を志民といったり表現しているのです。私の元に時々送られてくる恋文と称するエッセー風な情報誌は、私のブログと似たような情報発信の仕方をしているのです。

  「逆手塾 三十周年 招かれて オール参加の 道を辿りぬ」

  「久方に 訪ねし里は 山深く 夏の香りが あちこち漂い」

  「元気なら 誰にも負けぬ 思うけど ここは格別 俺さえ負ける」

  「生き場所が ここにもあるか 納得す それぞれの地で それぞれ生きる」

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人間牧場

○里山拡命がテーマの第30回記念逆手塾(その1)

 昨日と今日の2日間、広島市庄原市総領町のふるさとセンター田総で、「里山拡命」をテーマにした第30回記念逆手塾が開かれ、記念講演に招かれました。送られてきた案内状に「ねらい」と題して次のようなメッセージが載っていました。

 あの「3.11」を契機に、「金が一番」の物差しが変わろうとしている気配です。「金よりも大切なもの=いのち・いい人間関係・役立ち感」にこだわってきた私たちの里山暮らしが見直されようとしています。「過疎を逆手にとる会」を組織して30年、理念は理解されても、現実は「限界集落」だらけ、「傍流」の中であがき続けています。でも、その「あがき」が、「希望」を失ったニッポンを元気にする大切なものを届けることになると確信しています。
 すべてを人のせいや政治のせいにして、私が変わること、私が変えることを忘れて、「復興!」のスローガンだけが目立つ今、「ニッポン復興大反対!」をテーマの奥に秘め、「希望」を取り戻す記念の逆手塾を目指します。
 大木も枝葉が枯れたらお終いです。「持続可能な社会(生き方)を理想とする時、決め手は「里山暮らし」。エネルギーも食料も自給の可能性のある里山。人間が求める究極の「役立ち感」も手に入り可能性が高く、 ちょっと重いけれど「絆」もある里山暮らし。人と自然が響存し笑顔があふれる社会=里山を、日本再生のキーワードとして、「里山拡命」をあなたとやりたいのです。
 「里山拡命」の戦士は、「里山(さともり)です。「里人」とは、「里山暮らしの達人=里山を食い物にすることが出来る人間」です。そのことにより、限界集落化するふるさと(地方)を元気にし、自分も元気になり、倒壊寸前の日本を救うことにもなる人間です。ここに集われた「あなた」です。そして、「私」です。

 この過激とも思える「ねらい」を読めば、通称過疎逆という団体を知っている人はそれなりに理解できても、おおよその人は「この研修会は一体何を目指しているのだろう?」と、首をかしげるに違いないのです。しかし、そのくらい過疎逆が30年で培ってきた田舎からの主張は、ある意味理論的である意味深い意味を持っているのです。
  過疎を逆手にとる会が、山深い中国山地で産声を上げた30年前といえば、農山漁村から人が減るという過疎問題が私たちの田舎で真剣に議論され始めた時期でした。過疎を克服するため様々な議論が行なわれ、その手立てとなる計画に沿って様々な施策が実施されたのです。しかし皮肉にも過疎計画が目指した夢のような人口倍増計画は、やればやるほど過疎を助長するという皮肉な結果を生んで、その帳尻合わせとして平成の市町村合併が行なわれ、何の成果も得ぬまま、何の検証も行なわれぬまま、また誰一人説明責任を取らぬまま放置され、現在に至っているのです。

 私にとってもこの30年は、地域づくりに明け暮れた時代でもありました。ゆえに華々しくアドバルーンを揚げて活躍する過疎を逆手にとる会の運動や活動を、ある意味羨望の眼差しで見てきました。そして過疎を逆手にとる会に続けとばかりに、同じような運動や活動を起動してきたのです。私の活動や運動は過疎を逆手にとる会とは、多少方向を異にしながらも今日まで続けていますが、残念ながら同じ頃全国各地で起こった村おこしやまちづくりと称する活動は、矢折れ刀尽きて見る影もなく消滅していのです。
 「過疎を逆手にとる会」が「逆手塾」と名を変え今日まで続いていることや、それを検証しながら新たな出発をしようとしていることには多いに喜ばしいことなので、深い親交のある逆手塾会長の和田芳治さんから記念講演のお誘いを受けた時、一も二もなく引き受けました。そして逆手塾の戦士である和田さんはじめ、宮崎さん、田中さんたちの顔を思い浮かべ、再会を楽しみにして乗り込みました。

  「逆手塾 三十周年 来ないかと 親友誘われ 一人出かける」

  「激動の この三十年を 振り返る 私にとっても まさに激動」

  「あれほどに 過疎に危機感 持ちながら 何も糸口 見つけぬままに」

  「お互いに 歳をとったと 苦笑する あのころみんな 元気だったな」

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人間牧場

○今日から2日間広島へ出張します

 今日から2日間、しまなみ海道、尾道道、一般国道432号線を通って、中国地方の山深い広島県庄原市旧総領町で行なわれる逆手塾30周年記念大会へ講演に出かけます。帰りは明日の夕方になる予定です。

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人間牧場

○孫の押入れ騒動

 昨日の夕方、私は収穫したジャガイモとタマネギをナイロン袋に入れて、弟宅や叔父宅に配るため外出していましたが、孫二人は元気に機嫌よく保育園から自宅へ帰っていたようでした。私が自宅へ帰り、あいにく腰痛とかで伏せっていた弟にいただいた、イサキという魚を流し台に置いて手を洗い、書斎で明くる日広島へ行くための準備をしていると、壁を隔てた隣のダイニングキッチンが何やら騒々しいのです。母親に叱られた二人の孫が大声で泣いているようでした。壁の向うの出来事ですが孫たち二人が喧嘩をして母親の言うことを聞かない姿が容易に想像できたので、ダイニングキッチンに入ってみると、床に寝転んでわめき散らしていました。

 私は有無を言わせず下の孫奏心を抱き抱え、玄関から孫が目下のところ一番怖がっている煙会所へ連れて行きました。これまでにも悪いことをしたらお仕置きの場所として使っているので、孫は手出し足出し大声を出しで、「もうしません。堪えて下さい」と大声で泣きながら私に訴えましたが、構わず戸を開け畳の上に置いて戸を閉めました。孫は泣き叫びながら内からドンドンと板戸を叩き開けようとするのですが、私が必死で開けないようにしました。やがて喧嘩の原因となった兄希心も母親に言われたのか「ごめんなさい」と鳴きながらやって来て、二人とも煙会所の中に正座をさせて再び戸を閉めました。

 中の様子は容易に想像できました。泣きながら「もうしません。おじいちゃん、堪えて下さい」と何度も侘びをさせ、二人を抱き抱えて諭しましたが、二人ともおじいちゃんのただならぬ激怒した姿に驚いたようで、しゃくりあげて泣いていました。
 子どもを叱って諭すのは親の責任かも知れません。でもこの二人は私にとっても大事な内孫なのですから、「ならぬことはなりませぬ」とばかりに時々悪者になっ、て育爺ぶりを発揮するのです。子どもが小さい頃のしつけはとても大事です。同居するようになって一年が経ちましたが、私の役割は日増しに増えてくるようです。

 この一年で孫たちが生活習慣として出来るようになったことは、靴を揃えること、障子を破らないこと、仏様に手を合わせることくらいですが、これはとても大きな進歩なのです。近所の家の障子が孫の出現によって破れ放題であるのを見るにつけ、わが家の障子は破れはひとつもないのですから、これはもう孫を誉めてやらなければなりません。また靴は外から帰るときちんと揃えれるし、手を洗ってうがいをする習慣も身につきました。嬉しいのは仏様に手を合わせて時々ですが祈っているようです。これからも私は例え嫌われても、育爺としての役割をしっかり果たそうと思っています。

  「だだをこね 泣き叫ぶ孫 抱き抱え 有無を言わせず 倉庫押し込む」

  「悪いこと したら倉庫が 待っている 孫は薄々 セオリー気づく」

  「悪ガキが 二人もいても 障子等 破ることない 孫たち立派」

  「もうしません しゃくりを上げて 泣きながら 孫は私の 懐飛び込む」 

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人間牧場

○県外で私の話題が一人歩き

 私の行動範囲も、役場を退職して自由人になったことをいいことに、今では北は北海道から南は沖縄まで全国へとどんどん広がっています。今のところ気力も体力も充実していて、それはそれとしていいことに違いはないのですが、いかんせん知力が今一で、講演やコーディネーター、パネラー、助言者などなど、その役割に応じて下調べをする時間が増えて、書斎へこもる時間が長くなっています。私の場合「学歴を求められたりレジメの提出が必要な所へは行かない」ことを今も貫いているため、下準備にそんなに時間をかけてはいませんが、歳を経てくると「何を話そうか?」と不安になったり、「失敗はしたくない」という思いが頭を持ち上げてくるのです。結局は今までの悪い癖が出て、その殆んどをアドリブでこなしてしまうのです。

 例えば中四国や九州など隣県と思われる県外に講演に出かけると、決まったように一年以内にその研修会に参加し私の話を聞いた人から、講演のオファーがかかるのです。これも講演の反応や成果ですから、喜んでお引き受けするのですが、中には「いいお話でしたので是非わが町わが団体でご講演を」の依頼の最後に「お金がないので講演謝金は余り出せない」と言い訳のくだりが待っているのです。その言い訳を聞きながら「いいですよ」と言わざるを得ませんが、「お金がないのであなた程度で折り合いをつける」と聞こえなくもないのです。
 それでも企画段階の打ち合わせ会や呑み会で、私の話題が一人歩きしていることも事実で、そろそろ引き時と思うこの歳になっても、私の行動範囲は相変わらず広がりを見せているのです。

 

田辺さん

 昨日は岡山県から田辺靖博さんという社長さんが一人で、人間牧場へ私の話を聞きにやって来ました。この方は飲食事業やフラーワー事業を手広く手掛けていて、「自分の定休日が木曜日なので、そちらへ伺うから人間牧場で是非話が聞きたい」言うのです。岡山からだと3時間はかかると逆算して、午前7時に出れば10時には間に合うと思い、「午前10時にシーサイド公園で会いましょう」と約束しました。勉強に来る人の鉄則は少し早く来る」ですが、田辺さんは30分前にやって来て下灘駅やシーサイド公園を一巡していました。さすがです。私も30分前にシーサイド公園へ行き、じゃこ天のお店で4日後に迫った女性起業家リーダー研修の打ち合わせを、田辺さんの来訪を気にしながら、会長である小西千鶴子さんと行いました。

 

わが家からの昨日の夕景

 私の軽四トラックに乗せ人間牧場へ到着後は、天候が良かったこともあって、ウッドデッキに背もたれ椅子を二脚用意し、二人で人間牧場の特徴である海と空を見ながら、色々な話を思いつくまま2時間ばかりお話しました。田辺さんとは今回の出会いは二度目です。何ヶ月か前私にアポもとらず駄目もとでやって来て、僅か10分足らずシーサイド公園で立ち話をしました。その時聞いた話によると、彼のお店に来たお客さんが、「愛媛には珍しい生き方や考えを持った若松さんという人がいる」と噂話をしたようで、その話に釣られてやってきたようでした。その時「必ず近々」と約束し今回の再会となったのです。
 田辺さんの熱心さには負けてしまうほどの向学でした。私も釣られて色々のことを話しました。午後の予定があるので12時過ぎに分かれましたが、いつかお店に呼びたいと再再会の約束をさされました。

  「県外の あちこち私の 話出る 時には飲み屋 知らぬお客が」

  「定休の 時間を割いて 勉強に たった一人で 見上げたものだ」

  「背もたれの 椅子に座りて 海空を 見ながら話す 思いつくまま」

  「人に会う ただこれだけで 異文化を 感じることが できる幸せ」 

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人間牧場

○タマネギの収穫

 昨日は午前中、NHKのディレクターが取材のためにやって来ました。夕日にまつわる取材だそうで、一通り色々な話を電話でやり取りして、人間牧場が見たいというので案内することになりました。転勤族のディレクターなので双海町まではタクシーで着たとか、そこからわが家まで携帯電話でいつものように、「地域事務所から歩いて400mくらいなところにカーブミラーがあります」なんて説明をして、歩いて来るディレクターを県道まで迎えに行きました。わが家で息子嫁の入れてくれた絞りたての梅ジュースで、喉を潤しながら煙会所でお話した後、軽四トラックで人間牧場へ向かいました。ディレクターは一応にその道中の道の狭さや土地の急峻さに驚いていたようですが、急峻故水平的な土地利用をしている人間牧場の充実ぶりに目を見張っていました。

軒先に陰干しされたタマネギ

 昼食時間でしたがシーサイド公園でディレクターを降ろし、わが家に帰って急いで昼食を済ませ、親父に頼まれていたタマネギの収穫をしました。親父にしてみれば梅雨間近な天候なので、早く収穫したいと思うのか、気が気ではないようでした。前日の降雨で畑は幾分湿っていて容易に引き抜けましたが、親父は私が引き抜いたタマネギの茎を残して葉っぱを切り取る作業をしてくれました。苗は500本植えたのでかなりの量です。今年は春先が少雨気味で近所の人は、タマネギの太りが今一だと言っていますが、わが家は菜園に引いている井戸水を、親父が適当に散水したお陰で、近年になく玉太りがよくって大豊作のようです。収穫したタマネギはザルで運んで東屋の軒先で陰干しをすることにしました。土間に板を並べて敷き、その上に行儀よくタマネギを並べて行くのです。友人の塩崎さんと自宅で待ち合わせている午後4時30分までには、なんとしても片付けたいとせかして、やっとの思いでタマネギを取り込みました。

 今朝親父が私を呼びに来ました。タマネギの陰干しをしている場所へ行って見ると、既に朝早く起きて作業に取り掛かり、タマネギの古い薄皮を剥いて、長いキャリーに幾つか並べていました。こうすることでタマネギの腐敗を防ぎ、茎の部分を日向に干して枯らし、紐でくくり易いようにするのです。毎年の事ながら親父の気の遠くなるような作業に、ただただ驚き感謝するのみなのです。
 親父の言うがまま、皮を剥いたタマネギを庭に運んで日干しにしています。夕方取り込み天気が良ければ2~3日乾燥して10個くらいを一束にして、煙会所の軒先に吊るすのです。皮を剥いた白い肌のタマネギの表面が再び薄黄色になったら完了です。
 それにしても年寄りの仕事は瞬発力はないものの持続力によって、若い私の近づくことのできない成果を上げるのです。ふとこの作業は近い将来、私の仕事になるのだろうと思いました。いやはや先が思いやられます。

  「タマネギを 今年も親子 収穫す 手間暇かけて 食べれるように」

  「この仕事 近い将来 誰がする? 多分俺だと 思う憂鬱」

  「年寄りは 手間暇かけて アリのよう 私にゃとても 真似ができない」

  「タマネギを 軒先吊るす 風物は 田舎ならでは インテリアのよう」

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