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○地域づくり人養成講座

 えひめ地域政策研究センターが毎年行っている、地域どくり人養成講座が今年も始まりました。例年一講座を担当して講義をしていましたが、今年度はその役割もないものと鷹を食っていたところ、担当の河野さんから同時に行なうまちづくり活動アシスト事業の、成果発表のコメンテーターとして参加して欲しい旨のメールが入り、慌ててスケジュールを入れ替え、土曜日の午後参加することになりました。この日の成果発表会には、アシスト事業の助成をいただいて活動したわが町の「JR下灘駅フィールドミュージアム運営委員会}も参加するため、地域事務所の松本さんや地域おこし協力隊の冨田さん、メンバーの浜田さん、廣田さん、西岡さん、北風さん、赤石さん、武智さん、久保さんも参加する予定で、少し早めに出て「昼食でも一緒にどうぞ」と誘われました。

 私と赤石さんは別便の人たちとそば吉で合流し、美味しいそばに舌鼓を打ちながら、まちづくりの四方山話に花を咲かせてから、会場となっている山越の愛媛県男女共同参画センターへ向かいました。三階の会場には養成講座の参加者と成果発表に望む6団体の方々が集まって、顔見知りの人も多く賑やかな地域づくり交流広場となりました。
 NPO法人とべ子育て支援団体ぼっかぽか、カタリバin宇和島委員会、民話の里すみの、にいはま大島七福芋ブランド推進協議会、宇和町町並みガイドの会、JR下灘駅フィールドミュージアム運営委員会の順で1グループ10分の持ち時間を使って存分に成果を発表しあいました。発表の都度コメンテーターの前田さんが感想を述べ、私がまとめてコメントしました。

アシスト事業発表会

 時間になると予鈴が鳴ることを気にしてか、少々短めな発表が多かったため、司会をしていた河野さんから、「時間調整しなければならないので20分ばかり講義でつないでください」と耳打ちされました。日ごろアドリブに馴れている私のことですから、それなりの話をすることが出来ました。
 最後の講義は、愛媛大学農学部の森賀さんの「第一次産業における地域づくり」という演題での話でした。森賀さんは元新居浜市役所職員で、少し早く退職して大学に転職した変わり者です。私と同じ観光カリスマ百選にも選ばれていて、昔から深い親交を続けている親友です。私のような実践家ではなく、理論家で大学がよく似合う人です。この日の話もかなり難しい理論を1時間にわたって聞きましたが、一般参加者には少々難しかったような気もしました。でもさすが大学へ転進しただけのことはあると、大いに感心して聞きました。

オフライン交流会に集まった参加者

 講師やコメンテーターを囲んでのオフライン交流会は、JR松山駅近くの「食べもの市場」という居酒屋です。昨年の講座修了生も加わり賑やかな呑み会となり、大いに交流の輪を広げました。毎度の事ながら酒の呑めない私は、ウーロン茶一辺倒の2時間余りを過ごすのに一苦労です。お陰で少々お茶を飲み過ぎ、食べ過ぎてその夜は難儀でした。私にとって呑み会で何げなく飲んでいるウーロン茶は、体に余りよくないようで、今後は緑茶にしようと思っています。
 今回の養成講座も県庁職員や市町職員も数多く、それなりに意識が高い人も多いようです。住民参加・参画か行政参加・参画かは議論の分かれるところですが、少なくともこのように休日を利用して講座に参加するやる気は見上げたもので、意識改革と今後の活躍を期待したいものです。やはり地域づくりで何よりも優先するのは、本人の「やる気」なのですから・・・。それにしても地域おこし協力隊の冨田さんの発表は最高の出来でした。

  「十一人 わが町の人 大勢で 研修会に 参加嬉しい」

  「アドリブで 話しつなげと 耳打ちで 依頼に応え それなり話す」

  「わが町の 発表さすが 協力隊 感心しつつ 話聞き入る」

  「アルコール 飲めない私 ウーロン茶 それでも酔った 気分で話す」 

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○徳島県鳴門市へ講演旅行

 「四国は一つ」という合言葉がありますが、同じ四国でも西の端佐田岬や南の端高知県足摺岬から、東の玄関口徳島県鳴門とでは、気候や風土も随分違って、一つどころか別世界といった感じがするのです。その象徴的高知県足摺岬へは来7月ジョン万次郎塾で出かけることになっていて、また徳島県鳴門へは幸運にも一昨日講演に招かれて出かけました。徳島県鳴門市へは高松経由と池田~徳島経由の高速道路2路線がありますが、地図上の直線距離を目測で見た限りでは、池田~徳島経由の方が近いようなので、往復そのルートを走りました。わが家を起点に車のメーターをゼロにして走り始めましたが、自宅へ帰ってメーターを見ると500キロ近くになっていました。つまり片道250キロを往復6時間かけて一日で突っ走ったことになるのです。67歳の高齢者には高速道路といいながら、片側1車線のポールが林立する狭い道はかなり神経を使ったようで、帰った日はさすがに疲れを感じさせました。最近は四国内移動でも高松等へは事故に遭わないようにと、妻に特急列車を進められるので、車での移動は久しぶりなのです。

展望台から見える鳴門海峡に架かる大鳴門橋

 今回の徳島鳴門行きが決まってから、いつものような「プラスワン」の好奇心が頭を持ち上げ、「渦潮逆巻く鳴門大橋を見たい」と思い、自宅を1時間ばかり早く出ました。途中板野のサービスエリアでトイレ休憩をしました。偶然にも愛媛県庁出身の方に声をかけられ大いに話が弾み、世の中狭いものだと思ったり、ここまで来て私を知っている人がいたことの奇遇を噛みしめました。
 高速道路を降り、市役所前を通り過ぎカーナビの案内で小鳴門大橋を渡り、鳴門公園へ行きました。家を出る時は小雨が降っていましたが、徳島池田へ入る頃には雨も止んで、幸運にも鳴門公園では暑い夏の太陽が顔を覗かせていました。駐車場で410円の駐車料金を払い、高速道路を走る車や鳴門大橋を見ながら、展望台までの急な坂道を徒歩で一気に登りましたが、日ごろ裏山散歩で慣れているだけあって大した息も上がらず到着しました。

ミュージアム入口の人工渦

 展望台からの360度の眺めはまさに絶景で、本州と四国を結ぶ鳴門大橋や兵庫県淡路島、徳島県鳴門の周辺が手に取るように見えました。名古屋から来たという観光客の人たちと親しく会話し、愛媛県や松山市の宣伝に一役買いました。勿論持っていた名刺を渡して双海町の夕日も大いに自慢しました。幸いポケットに忍ばせていた携帯電光掲示板をネクタイに着けて、これまた臆目もなく大いに胸を張りました。その後、本当は大橋展望台から通じる渦の道を見学したかったのですが、時間がなく周辺を散策しただけで引き返しました。
 鳴門市役所で部長さんや友枝さんたちと出会い、部長さんと課長さんに連れられ近くの大衆食堂へ行き、名物の鳴門チュルという細麺うどんをご馳走になりました。金時豆の入った珍しいばら寿司も美味しく満腹の手合いでした。自治連合会の総会が1時から始まり、講演までの時間を部長さんとお話して、控室でのんびり過ごしましたが、やがて始まった講演には泉市長さんも見えられ、私の話を最初から最後まで聞いていただきました。

 聞くところによると議会で私の話が出たようで、加えて前日のNHKテレビ「西日本の旅」が全国放送されていて、その番組を沢山の参加者が視聴していたようで、会場は満席でした。参加者の反応も良くて大いに盛り上がりました。この日は難聴者のために手話解説の人が私の横で手話サービスをしてくれたり、地元のケーブルテレビが陣取って、私の話の一部始終を映像に納めていました。
 自治連合会からワカメのお土産をいただき会場を後にして、徳島インターまで走り、そこから一気に伊予インターまで帰り、夕暮れ間近なわが家へやっと辿り着きました。日ごろの行いが良かったのか、好天という幸運にも恵まれました。また参加した何人かの人から名刺をいただき、また早速メールが届く等、新しい出会いの予感が始まって、いい小旅行となりました。

  「渦潮や ワカメ・大橋 あれやこれ 知名度抜群 鳴門いいとこ」

  「私には 鳴門といえば 賀川さん ノーベル賞の 候補なった人」

  「年末に なると鳴門を 必ずや 第九発祥 思い浮かべる」

  「いいまちへ 乗り込み私 話する 臆目もなしに 見上げた度胸」

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○コープえひめ新旧役員交流会(その2)

 コープえひめの総代会に続いて、同じアイテムえひめの広い別室会場で試食交流会が行なわれました。500人を超える人たちが出入りの業者さんがブースを作っている場所を渡り歩いて、お目当ての食べ物をいただくのです。野菜系は少ないもののご飯ありパンあり、肉あり魚あり、うどんやそば、スィーツ、シャーベット、乳製品、惣菜などなど、その気になって食べれば結構バランスよく賞味できるのです。
 総代さんたちは殆んどが女性なので、品定めや味定めをしているような格好はしていますが、参加者の熱気に包まれ、結構食べている人も沢山見かけました。私は肉系が余り好きではないので、そこここで総代さんたちの何人かと面談しながらひと時を過ごしましたが、買い物や料理を殆んどしない私にとっては、目の前で業者さんが調理をする姿を見るだけでも結構楽しいものでした。

あいさつする松本等新理事長

 外の雨を気にしながら、少し早めに会場を後にして、県庁へ立ち寄り2~3用事を済ませ午後3時から全日空ホテルで開かれた新旧役員交流会に参加しました。今回の総代会を最後に退任する大川理事長さんや私たち理事の送別会も兼ねていて、少ししんみりした雰囲気に包まれました。花束や感謝状、それに餞別までいただき恐縮してしまいましたが、私はそのドタバタで折角いただいた感謝状を忘れて帰る大失態のハプニングで、帰宅後全日空ホテルへ電話を入れたり、自分の車の中を探したものの、未だにその行方がつかめず、今も傷心の面持ちです。
 何はともあれ長くも短かった6年間の学識理事という役割は無事終えることができ、今はただホッとしているところです。

新しい役員さんたち

 帰宅した私の、花束や餞別をいただいた様子を見て妻は驚いていましたが、毎月一回決まって出かけた私の姿を見てきただけに、「寂しくない?」と冷やかされました。確かに色々と学ぶことの多かった6年間で少し寂しくなったというのは実感のようです。
 送別会では新しく理事長さんになった松本さんが、最後の理事会のことをブログに書いた記事の末尾の笑売啖呵、「人心が       一新されてまた新た 世の中こうして 持続してゆく」を引用してお話をしていただき、恐縮してしまいました。
 私と同じ年に就任した理事さんも今回で数人退任しました。知人である内子町長の奥さんである稲本康子さんや、この6年間私にハガキを書き続けてくれた、四国中央市の村上理香さんなど、思い出の尽きない人ばかりで、今もその美しい笑顔が脳裏に焼きついているのです。皆さんご機嫌よう、またいつかどこかでお目にかかりましょう。

  「花束や 感謝状まで いただいて 送別会は どこかしんみり」

  「理事長の コバンザメにて お裾分け 十分いただき 感謝感激」

  「あいさつで 松本丸の 船出だと 退任理事長 上手い表現」

  「あの人や この人笑顔 蘇る 六年間に 出会った人々」

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○6年間の任期を無事終えました(その1)

 昨日は私がこの6年間学識理事をしていた、生活協同組合コープえひめの通常総代会がアイテムえひめで開催され、今期限りで退任する私も、ある意味一つの区切りを迎えるため、感慨深く出席しました。思えば6年前、生活協同組合の何たるかも分からぬまま当時の大川理事長さんに頼まれ、学識理事に就任しました。学識理事は3人いて、日本食研の大沢会長さん等の大物が名を連ねていて、また地域理事21名、常任理事5名、常任幹事1名、監事4名、合計34名で毎月第4木曜日に本部で開く理事会は、地域理事21名全てが女性ということもあって、白熱した議論の輪の中に入ることすら臆してためらうほどでした。

 

総代会

 出鼻の就任早々出席した通常総代会は、堂々と議案に反対意見を述べる総代さんもいて、異様な雰囲気にたじろき、学識理事の役割を理解するのに1年近くもかかったことを、つい昨日のことのように思い出しながら、会場の役員席に座り感慨深く見つめていました。
 2年前から県民文化会館だった総代会は、アイテムえひめへ移され、日ごろ見本市会場として使われるとてつもなく広い、どちらかというとある意味無機質な会場ですが、大型スクリーンに会場の様子がモニターカメラで写されるなど、よくテレビで見かける大企業の株主総会のような手合いでした。
 事前に配られた議案書はいつもながら総代会の企画や運営特別チームが編成され、一年をかけて作っているだけあって労作で、これに映像と音声が加わった当日の運営は水も漏らさないような完璧なショーを見ているようで、2時間半は淀みのないものでした。

新しい役員

 ただ惜しむらくは総代会なのに決算数字の説明は議案書には詳しく分かりやすく載っているものの、肉声での説明は殆んどなく、一年のまとめとしては少々物足りなさを感じますが、これが生協のやり方だと納得しながら聞き入りました。議長による採決も反対はほんの一部で、ほぼ満場一致といった無難な総代会でした。今年の最大のハイライトは、やはり長年コープえひめを象徴的に牽引してきた大川理事長が退任し、松本専務が後継者として選ばれたことです。大川理事長は千人足らずのこの組織を、25万人を超える巨大組織に成長させ、年間事業高も300億円に迫る勢いまで勢力を拡大してきまた大功労者なのです。
 新理事長に就任した松本専務も大川理事長の補佐役として二人三脚してきた実行力のある人物だけに、美濃新専務とともに今後の活躍が期待されますが、巨星落ちる感は否めなく、むしろ政権交代による新しい風に大きな期待を寄せるのです。

 

私の新しい名刺

 何はともあれ、殆んど何の役にも立たず心苦しい存在だった私の6年間の役目は、無事終ることができました。私の予定表に決まったように書き込まれていた、毎月第4木曜日の欄は目下空欄となり、新しい就活?(笑い)をしなければならなくなりました。
 昨日送別会が終って帰り際、理事会を担当する片桐さんから私に、1箱の名刺がそっと手渡されました。見るとCOOPえひめのシンボルマークの横に、アドバイザー若松進一(wakamatsu shinichi)と書かれていました。前回の理事会でも、そして昨日も理事長さんや新理事長さんから、「引き続いてこれからも宜しく」と言われた意味がやっと分かりました。浅学ゆえ大したこともできませんが、引き続き別の角度から長年お世話になったコープえひめへ、いささかなりの恩返しをしなければなるまいと、心を新たにした一日でした。

  「六年の 任期が終わり 無事退任 小学校を 卒業するよう」

  「政権の 交代劇は 不安だが 若さとやる気 新風期待」

  「アドバイザー 新たな名刺 いただいて 新たな仕事 新た始める」

  「この六年 目にはさやかに 見えねども 大脳隅に 進化の兆し」

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○カブト虫の養殖

 今も昔も子どもたちに絶大な人気を誇っているものといえば、カブト虫やクワガタという小動物です。私たちが子どものころは、遊び道具とてなかった貧しい時代でしたから、その頃は薪や木炭の原材料として使う、クヌギ林が至る所にあって、子どもたちは早朝早起きをして、クヌギの木の根元に樹液を吸いに群がるカブト虫や、クワガタを探しに出かけたものでした。捕獲したカブト虫やクワガタ、はこれまた今のような虫篭もなかったので、親父に作ってもらった虫篭やリンゴ箱に入れ、甘味として貴重な砂糖や蜂蜜を自分でなめもせず、カブト虫やクワガタに与え、それは大事に育てたものでした。

 学校から帰るとカブト虫やクワガタを持った子どもたちが、とっておきの場所に集まり、自分のカブト虫やクワガタを自慢しながら見せ合い、板切れで作った小さな土俵の上で、喧嘩や相撲をさせるのです。勝ったり負けたりする度に、歓声や落胆の声が上がり、子どもワールドに時には大人も参加して、見守っていたのです。そんな懐かしい時代を経て現代を迎えていますが、今は子どもたちに「カブト虫はどこにいる?」と訪ねれば、「クヌギ林」と返って来るだろうと思いきや、「デパートの○○階」と答えるほどで、デパートの玩具売り場には、「ヘラクレス」などといった外国産の、いかにも強そうな黒光りのするクワガタが、子どもの小遣いでは手の届きそうにもない高価な値段で販売され、ネット通販でも容易に手に入るのです。

 友人から何年か前ポリ容器に入れられて、カブト虫の幼虫が人間牧場へやって来ました。いわゆるカブト虫の養殖のためです。しかし夏場の忙しさにかまけて対応することができず、全滅の憂き目に会いました。その後もサツマイモの苗床で見つけた幼虫をポリ容器に入れて養殖を試みましたが、残念ながら成虫に孵すことは出来ませんでした。今年からサツマイモの苗床を自宅の家庭菜園に移したのを機に、旧苗床に防虫ネットを張って、カブト虫を養殖しようと思い始め、先日松前町の農材スーパーで防虫ネットを買い求めてきました。息子嫁に頼んで6メートルの長さを半分に切ったものを、ミシンで二枚縫い合わせてもらい3メートルの巾にしてもらいました。

 昨日は台風で予定されていた講演が延期となったため、その防虫ネットを苗床に張る作業を午前中行いました。苗床は6年も使っているので、周りを囲っているベニヤ板が風雨に晒されて腐っているため、防虫ネットを張る作業は不器用さもあって、容易ではありませんでしたが、まあ何とか格好がついたようです。若しこれでカブト虫の養殖に成功して、成虫の確保が出来るのであれば、来年は囲いを一新して養殖場を作りたいと思っていますが、はてさて上手く行くかどうか、心配の種がまた一つ増えました。
 孫たちはカブト虫の養殖が出来るかも知れないと、早くも夏の来るのを心待ちにしているようです。

  「牧場の 芋の苗床 カブト虫 養殖場に 早代わりする」

  「防虫の ネットミシンで 縫い合わせ ひとまず作戦 これでOK」

  「今頃は カブトの居場所 デパートと 答える子ども 時代変わった」

  「カブト虫 運よく育てば 子ども夢 叶えてやれる 淡い期待を」

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人間牧場

○6月の台風は極早生系

昨夜6時の台風4号

 台風は夏の終わりから秋口にかけて来るものと思っていたら、最近の台風は成熟の早い人間やごく早生系の多い農作物と同じように、梅雨真っ最中の6月に2個も台風がやって来て、そのうちの一つである台風4号は昨日の夕方和歌山県に50キロ以上の猛スピードで上陸し、一気に日本列島を縦断、今朝6時には東北のはるか沖合い太平洋の彼方を北進中のようで、招かざる客は日本の各地に大きな爪跡を残して去って行きました。
 かつて九州や四国は台風銀座といわれていて、これまでも枕崎台風や室戸台風など数多くの台風がやって来ましたが、最近は地球温暖化の影響でしょうか、有り難いことに九州や四国へは上陸を免れているようです。

 四国は太平洋に面した高知と徳島、瀬戸内海に面した愛媛と香川がありますが、愛媛の宇和海側を除けば四国のほぼ真ん中に石鎚山や剣山を結んで延長するように四国山脈があるため、台風はこの山々が衝立の役目をしているのか、香川や愛媛は、高知と徳島に比べ、台風への安心度に関しては少し様子が違うのです。今回も雨こそかなり降りましたが、その雨も高知県から比べればものの比ではなく、雨も風も普通の梅雨時期といった感じで、台風が過ぎた吹き返しの風も少し涼しい程度だったのです。

 私は昨日二本の電話をかけました。一つは北海道佐呂間町に住む井田貴子さんです。井田さんには先日2度にわたって美味しいホタテの稚貝を宅配便でどっさり送ってもらっていたので、お礼と近況報告でした。井田さんは漁師さんでありながら地域の特産品のカボチャを使って、カボチャビールを作るという一風変わった研究を、東京農大網走キャンバスの講座に通って続けています。先日佐呂間に講演で招かれた時色々な話を聞いていたので、その後の様子を聞きました。その折「そちらは台風で大時化でしょう」と気遣ってくれました。聞けば今年は北海道佐呂間も冬の寒さが厳しくて、春が来るのが随分遅れたようでした。加えて春は例年より時化の日が多く、網操業が出来なかったと嘆いていました。

 もう一本の電話は和歌山県古座川町に住む弟夫婦へです。偶然にも午後5時過ぎNHKテレビで台風情報を見ていたら、古座川町が中継地点として画面に出て、かなり激しい風雨に見舞われているようでした。弟の話によると昨日は朝から雨で外にも出あられず、雨戸を閉めて息を凝らすように台風の通過を待っているとのことでした。ついでながらわが近況、親父の様子等を手身近に話し、先日西日本の旅というテレビ番組を見たと嬉しそうに話してくれました。弟夫婦は和歌山でも潮岬に程近い地域に住んでいるので、お互い台風が来る度に、こうして近況を寄せ合っているのです。

 最近は天気予報の精度が確実によくなって、いち早くその対応の仕方がテレビやラジオで伝わるため、転ばぬ先の杖のようで大助かりです。今回も6月の台風上陸としては11年ぶりだとか、過去の台風とよく似たルートを辿るから気をつけるようにとか、様々な分析結果が事前に知らされましたが、残念ながら1人の死者と50人を超える負傷者が出たものの、ホッと一息といった感じです。
 梅雨の時期なので秋台風のような台風一過の青空は望むべきもなく、今朝も少しどんよりとした曇り空のようです。朝食でも終ったら家や人間牧場の周辺見回りをしようと思っています。

  「近頃の 台風極早生 系かしら? 首をかしげて 台風過ぎる」

  「わが地域 雨風ともに 少なくて ホッと一息 台風一過」

  「講演の 延期通知で 一日を 手持ち無沙汰で のんびり過ごす」

  「そちらどう 互い電話で 台風の 様子伺う 便利世の中」   

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○焼け付いて使用不能になったチェンソー

 先月5月26日、人間牧場で開催した子ども体験塾で子どもたちに大好評だったのは薪割り体験でしたが、薪にするために使う木材は役場の井上課長さんの杉林から、赤石さんと久保さんの協力を得て軽四トラックで人間牧場へ運び、小切りをして使いました。まだその残材がかなりの量残っていて、薪小屋の下に山積みにしています。幸いなことにその後自作で造った薪小屋へ薪を積み上げるのに、梯子の役割をして多いに助かりましたが、梅雨の雨に合わせると雨で杉丸太の表皮に虫が入り腐らせるので、何とか片付けたいと思いつつそのままになっていました。
 6月としては珍しい台風接近と一昨日の大雨に驚き、その木材を片付けるためチェンソーを持って人間牧場へ出かけようとしました。チェンソーのかかりが悪いので、近所の稲田農機具店へ持ち込んだところ、焼け付いて修理不能だと烙印を押されてしまいました。原因はガソリンと混合ガソリンとを間違って使ってしまったことのようでした。

 農機具店の大将は修理不能だから新しいものに買い換えるよう暗に勧めてくれましたが、新しいチェンソーは6万5千円もするというので、ビックリ驚きながらその場で即決することも出来ず、すごすごと帰って来ました。さてどうするか?と考えましたが、近々夕日徒然草・空の書の出版費用を27万5千円も支払わなければならないことが頭を過ぎり、最近親類の叔父さんから偶然にも貰っていた別のチェンソーを倉庫から取り出して、混合ガソリンとチェンソーオイルを注入し、エンジンをかけたところ何とか動き始めました。
 チェンソーが焼きつき落胆した気持ちに幾分光が差し込み始め、夕暮れの雨ポツポツといった天気の中を、昨夕人間牧場へ試運転に出かけました。試運転なのでエンジンの調子や切れ具合を見るのが目的で、4~5本試し切りしたところで雨脚が強くなり、急いで切った丸太を丸太小屋へ濡れないように運んで積み上げ、作業を終えました。

冨田さんから貰った企画書案

 人間牧場が出来てから農作業や活動に使う道具類が次々増えて、倉庫の中は満杯に近い状態です。中でもチェンソーや草刈機、それに耕運機等買ったりもらったりした機械類は、調子が悪くなると自分で治せないので、その都度農機具店へ持ち込むのですが、いつもその調子には頭を悩ませ体力を消耗するのです。チェンソーの新品を買う話はまだ大蔵大臣たる妻には話していませんが、とりあえず昨日使った叔父からいただいたチェンソーガ上手く使えるよう祈っています。
 昨日地域づくり応援隊の冨田さんに出会いました。手渡された8月25日のふるさと冒険ツアーの企画書によれば、人間牧場での薪割りやかまどご飯炊きなどのメニューが並んでいました。当面の薪割りに使う丸太は小切りして確保していますが、いずれ残りの杉材丸太も小切りせねばならず、6万5千円の出所を考えなければならないようです。何かいい方法はないものでしょうか?。

  「焼け付いて 使用不能と 烙印を 農機具店は 買い替え勧め」

  「また一つ 新たな火種 抱え込む チェンソー貯金 始めなければ」

  「ふるさとの 冒険ツアー 企画書に かまどご飯や 薪割り並ぶ」

  「いただいた チェンソー給油 試運転 何とか使え ホッと一息」

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○隣のおじさんとの立ち話

 全国行脚をしたり何かと忙しい日々を過ごしている私にとって、一番の疎遠は近所の人たちです。夜遅く朝が早い私に比べ、近所のおじさんおばさんは、夜も早く朝が遅いと、私とはまったく逆の生活をしているため、顔を合わせることも声を掛け合うことも、回覧板を持って行った時くらいで滅多にないのです。
 昨日散歩の帰りに隣の家の前を通りかかり、隣のおじさんに出会いました。80歳を有に超えているおじさんは倉庫で何やら日曜大工をしているようでした。私「元気ですか!」、おじさん「あんまり元気じゃない」、私「どこぞ悪いんですか?」、おじさん「足とひざが悪くて歩くのが辛い」、私「それ程悪いのなら病院へ行ってるの?」、おじさん「うん病院へは通っているが一向によくならない。ほら見てくれ」、私「足が少し腫れているようですね」、おじさん「もう死なんと治らんようだ」、私「そりゃあお困りですね」と相槌を打ちました。

 このおじさんは数年前まで車の運転をしていましたが、家族が危ないと免許証を返上させてから、老いが急速に進んだような感じです。これまでは車で信仰している宗教の本部のある高知県までも足を延ばせていたし、病院や買い物にも年老いた奥さんを乗せて出かけていましたが、車に乗れなくなると極端に行動範囲が歩いて行ける距離に縮まったのです。そのため田舎では「年寄りの自家用車」などと言っている乳母車のような手押しの車を押して、近くのお店へ買い物に行っていますが、足やヒザが痛くて歩くのも辛いため、それさえもままならなくなって、デイサービスに通うおばさんと二人の年金暮らしは、閉ざされつつあるようです。隣に息子さん家族が住んでいるので安否は大丈夫なのですが、おばさんの痴呆や夜の徘徊も気になる様子でした。

 「昨日の朝テレビであんたの姿を拝見したが、隣に住んでいても、あんたの顔を見るのはテレビや新聞の方が多い。あんたも元気そうじゃが少し痩せたんと違うかい」と逆に私のことや親父のことを気遣ってくれました。歳をとって車に乗れなくなったら、私もあのようになるのだと一年に一つずつ確実に増え続ける年齢の重みを感じながら、おじさんの話を聞きました。「あんたはまだ若いからいい」と自分に比較しながら私の若さを誉めてくれましたが、私だって他人事ではないのです。
 最近自分が老いを迎えたり、同級生が病気になったり死んだりするにつけ、「人生とは何ぞや」「生きることとは何ぞや」と少しばかり暗い気持ちになって、考えることが多くなったような気がします。「それでも自分はまだ若い」とか、「目標を持ってポジティブに生きれば老いなんて怖くない」と打ち消すように、勉めて明るく楽しく生きていますが、さてさてこの空元気もいつまで続くのでしょうか。

  「元気かい? 久方ぶりに 声をかけ 元気じゃないと 言葉返りて」

  「一番の 疎遠は隣 そういえば この十日間 出会いもせずに」

  「歳をとる やがては俺も あのように なるのだろうか 少々不安に」

  「あんたには テレビ新聞 よく出会う 言われてどこか くすぐったくて」

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○田処のほたる祭り

 昨日は梅雨前線の影響で、西日本を中心にかなりまとまった雨が降りました。水不足のため減圧給水に踏み切っていた松山市等にとっては恵みの雨となりましたが、各地で被害が出ているようで、地盤が緩んでいいる地域では今後の雨の降り方に注意が必要なようです。
 私たちの町でも昨日は昼前後にうつすような土砂降りの雨が降りました。過去に2回も裏山が崩れた経緯があるだけに、警戒と心配をしながら様子を伺っていましたが、屋根の雨どいが落ち葉でつまって溢れ、慌てて梯子を使って取り除く一幕もありましたが、大事に至らずホッとしているところです。

濁流流れる矢落川

 昨日は年輪塾の塾生で親友の、亀本幸三さんや西田和子さんたち田処組が計画しているほたる祭りに友人たちと出かけました。毎年の事ながらこの時期は雨がよく降るので、開催が危ぶまれましたが、料理の準備をしてもらっていることもあるので、連絡を取り合いながら妻を誘って出かけることにしました。山道のため帰りが心配という青木晴美さんや、おじさんの急逝で通夜があるという清水和繁さんからは、早々と欠席する旨の連絡がありました。清水和繁さんは昼過ぎ、八幡浜市日土の実家に帰る途中わが家へ立ち寄り、「夕日徒然草・空の書」の校正ゲラを置いて帰りました。早速雨音を聞きながら書斎にこもり、夕方までに校正を完了しましたが、今日帰宅途中に立ち寄って持ち帰るそうです。

ほたるの乱舞

 午後5時、ほたる祭りのある田処を目指して、下灘~田処までの山道を車を走らせましたが、田舎の狭い山道ゆえ、道の両側には夏草が生い茂り、雨で降った水が沢から溢れて流れ出し、道路の各地で川のように流れていました。大洲と内子の分岐点手前では大きな松の木が根こそぎ倒れ道を塞いでいましたが、まるで暖簾のように枝の下をくぐって、何とか朝ヶ峠を越えて会場へたどり着きました。私の後を走っていた真鍋さんや松本さん、浜田さんたちも相次いで会場に到着し、皆さんの心温まる出迎えを受けました。愛南町から駆けつけた脇田さん家族、宇和島の近藤さんも到着し、午後6時から活性化センターの体育館内で手作りしてもらった弁当に舌鼓を打ち、久しぶりに年輪塾の仲間と談笑しました。

県指定無形文化財藤縄神楽

 この日は近くの熊野神社で、県指定無形文化財である藤縄神楽の夜神楽が7時から行われるので、水かさが増し濁った矢落川に沿って、神社までみんなで歩いて出かけました。藤縄神楽は昨年も一昨年も見学していますが、雨と霧で境内や拝殿は幽玄の世界のような雰囲気で、かがり火の光が神々しく辺りを照らしていました。神楽関係者の中には顔見知りの方も沢山いて、立って見学していた私たち一行を見つけ、境内の特別席へ案内してくれましたが、雨のこともあって途中で中座しなければならず、心苦しい限りでした。今年は毎年素人参加できる神楽舞にも参加することが出来ず、ほたるが飛び始めた8時にほたるを見ながら活性化センターまで戻りました。

近藤先生のバイオリン「オースザンナ」

 宇和島から駆けつけた近藤先生は、清水さんと青木さんと3人で演奏をする予定でバイオリンを持参していたので、折角だからとお願いして3曲ばかり披露してもらいました。来月愛南町で開かれる予定の年輪塾で披露する「オースザンナ」という曲も初披露となりました。この曲はジョン万次郎が日本に紹介したいわくのある曲なので、みんなで手拍子を打ちながら聞き入りました。地元の方から私へのハーモニカリクエストもありましたが、この日は持ち合わせておらず、お礼のごあいさつで勘弁してもらいました。
 大雨を心配して午後9時に会場をお暇し、朝ヶ峠のルートを諦め、柳沢~新谷~長浜経由で帰りましたが、今年は少し寂しいほたる祭りながら、夜神楽、ほたる、近藤先生のバイオリン、それに田処大杉年輪塾生たちの歓待を受け、癒しの一夜となりました。

演奏に聞き入る参加者

  「雨塗れた 山道走り 峠超え ほたるの里を 今年も訪ね」

  「濁流で 濁る矢落の 川沿いに ほたる数匹 行きつ戻りつ」

  「かがり火が 雨霧照らし 幽玄の 世界をつくる 夜神楽を見る」

  「温かい 心に触れて 手作りの 弁当食べつ お国訛りで」 

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人間牧場

○主婦の仕事は毎日忙しい

 散歩をしても作業をしても、時には寝ても起きても汗ばむ陽気となりました。夏になると洗濯が忙しくなりますが、私のように汗を書けば脱衣場の洗濯籠へ脱ぎ捨てれば、妻が洗濯意を使って洗って干し場に干し、夕方にはたたんでそれぞれの場所に収納した物を、選んで出して着ればいいのですから、何の造作もないのです。主婦の仕事はその気になって見ないと見えないもので、昔から「さしすせそ」だと言われています。さ・裁縫、し・仕事、す・炊事、せ・洗濯、そ・掃除とまあ数え切れないほどあるのです。最近は主婦の仕事も見直され若い人たちの間では、子育てを含めて夫が役割分担する姿も随分見られるようになって来ましたが、私のように古いタイプの人間は相変わらず殆んど何もせず、亭主関白を決め込んで威張って暮らしているのです。

 私が子どものころは洗濯機もなく、洗濯はもっぱらたらいと洗濯板でした。固形の四角い洗濯石鹸をなすりつけ、手揉みで洗うたらいと洗濯板の洗濯は腰をかがめてやる重労働だったようでした。わが家も二代前の祖母の時代は子どもが12人もいる大家族だったため、洗濯も半端な量ではなかったようです。ましてや衣料品も今のように薄くて軽いものではなかったため、「ゴシゴシ、ジャブジャブ」と音で表現するほど時間と体力をかけていました。
 先日民俗学者宮本常一の撮った写真を見ましたが、写っている干した洗濯物を見る限り、貧しい農山漁村の暮らしぶりを髣髴するようでした。
 下宿でたらいと洗濯板で洗濯した懐かしい思い出、実習船愛媛丸で海水で洗濯した懐かしい思い出も記憶の彼方に消えようとしているこの頃です。

 物の3Cといわれたカー、カラーテレビ、クーラーよりも、主婦にとって洗濯機と掃除機は家庭の一大革命とでもいうべき道具でした。出始めの洗濯機は自動脱水機が付いておらず、手回しの搾り機がついていて、せんべいみたいになった洗濯物をよく見かけました。最近の洗濯機は洗う・脱水する・乾燥するという作業を全て行ってくれる、全自動もお目見えしているようです。
 「鬼の居ぬ間に心の洗濯」とは主人のいない間の骨休めでしょうが、今は洗濯機へ放り込みさえすれば自動的に選択が行われ、その間に煎餅や饅頭をつまんでお茶を飲みながらメロドラマを見る心の洗濯だってできる楽な時代になったとはいいながら、主婦は今も昔も沢山の、し・仕事を引き受けていて、よくぞ女に生まれなくて良かった思うし、今度生まれてくる時も男に生まれたいと思っているのです。

 服の裏地の隅に洗濯表示のマークが付いていますが、そのマークが近々洗濯機がたらいに変わるそうです。たらいや洗濯板など今ではすっかり死語となったと思うのに何故?と思う人も多いようですが、世界中には洗濯機が普及していない国がまだまだ沢山あるのです。
 今日も朝から雨です。わが家の脱衣場では、私たち夫婦の洗濯機と、息子家族の洗濯機が文句も言わず朝からブンブン音を立てて回っています。天気予報の洗濯情報も「乾きにくい」のマークがずらりと並んで、主婦泣かせの日々が当分続きそうです。

  「下宿して たらいで洗濯 した頃が 思い出される 懐かしき日々」

  「主婦仕事 目には見えぬが あれやこれ 私にゃ真似の 出来ぬことなり」

  「洗濯機 マークがたらい 変わるそう 世界は広い 洗濯事情」

  「実習船 乗って洗濯 塩水で これも懐かし 青春思い出」

 

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